新羅統一の言説は植民史学の発明なのか : 植民主義の特権化から歴史を救い出す
論壇と現場
高麗大学校国文科教授。著書に『文学と歴史的人間』、『韓国古典文学と批評の省察』、『韓国現代詩を探して』などがある。
1. 問題提起
本稿は「統一新羅」という観念が日本植民主義歴史学の発明という最近の主張を批判し、「三韓/三国統一」の言説が7世紀末の新羅で形成され朝鮮王朝後期まで、何回かの再編成と転位の過程を経ながら動的に存続してきたことを解明しようとする。それと共に、近年の脱民族主義の議論が近代および植民主義を特権化し、歴史理解を不適切に単純化してはいないかという疑問を提示する。本稿の初稿に対して高麗大学校民族文化研究院の同僚学者たちが出してくれた論評と助言に感謝する。
議論の始発点は、黃鍾淵(ファン・ジョンヨン)・尹善泰(ユン・ソンテ)が協業的構図のなかで並んで提出した二篇の論文である。黃鍾淵 「新羅の発見:近代韓国の民族的想像物の植民地的起源」、黃鍾淵編 『新羅の発見』(東国大学校出版部2008)、13~51頁; 尹善泰 「「統一新羅」の発明と近代歴史学の成立」、同上、53~80頁。彼らの主張によると、「新羅が朝鮮半島の領土支配という点から最初の統一国家という位相を保有し始めたのは、取りも直さず日本人東洋史家たちの研究からで」あったし、黃鍾淵、前掲書、21頁。 新羅による三国統一という言説は「日本近代歴史学の助けで登場した」「近代の発明品」であり、 尹善泰、前掲書、69、78頁。 韓国の民族主義歴史学はその誇りとは違って、植民主義言説の借り入れに依存して始めて民族統一という偉大な過去を想像することができたというものである。林泰輔(1854~1922)の『朝鮮史』(1892)がつまり、このような議論の拠点として提示された。 林泰輔の『朝鮮史』を、同名の歴史書や一般名詞と区分するため、本稿ではその日本語の発音通り『ちょうせんし』と表記する。
事実がそうだとしたら、これは真に重大な発見であろう。しかし、実像はそれとは反対で、尹善泰は7世紀以来の数多い証拠と言説を無視しながら間違った論証を作り出したし、黃鍾淵はそれを参照して民族主義的観念と想像の被植民性を論じる主な根拠とした。これが特定の事実に関する是非に留まるとしたら、私のような古典文学徒が敢えて口を出すことではないかも知れない。だが、この問題は個別的論点の次元を越えて、前近代と近代を貫く韓国思想史の理解に噛み合っているし、植民地近代性論と植民地近代化論が代表権を争う最近の韓国近現代史・文學研究の状況とも直結される。そのような点から本稿は韓国史の特定の局面に対する議論と共に、近刊のポストコロニアリズムの言説状況に対する凡例的な問題提起を志す。これと関わる先行論文として、金興圭 「政治的共同体の想像と記憶:断絶的近代主義を超えた韓国/東アジア民族言説のために」、『現代批評と理論』30号(ハンシン文化社、2008年秋)を参照。
本稿を通じて私は民族を上古時代以来の恒久的実在と見なす原初的な民族主義を擁護しようとするわけではない。本稿の立場はいかなる種類のアイデンティティも社会的構成作用と言説の産物だというものである。アイデンティティ形成に関わる言説は、近代世界でのみ生産されたわけではないし、しかも植民権力などの特権的主体によって独占されると正式化することはできない。民族という巨大主体の叙事で単線化した歴史認識を批判したことは、1990年代後半以来のポスト主義的視角と脱民族主義論がもたらしてきた貴重な成果だったし、黃鍾淵がそれに貢献した点も高く評価するに値する。しかし、そのような進展と共に、私たちはもう近代と植民主義をまた他なる巨大主体として特権化して、歴史の入り組んだ複雑さをすべてその下に詰め込む危険性を警戒すべき局面に達した。
2. 『三国史記』と『朝鮮史』
尹善泰と黃鍾淵が出した「植民主義歴史学による新羅統一の発明」論の主な問題点は、次の四つとしてまとめることができる。一番目、林泰輔の影響を浮彫りにするため、自彊運動期の大多数の歴史書を議論から外した。二番目、林の『朝鮮史』における新羅統一の叙述を過大解釈し、該当の件に『三国史記』が多量に借用されたことを知っていないか、無視した。三番目、7世紀末以来の各種の資料と歴史書に豊かに記されている三国統一の言説から顔を背けた。四番目、前近代の史書を調べず文一平(厶ン・イルピョン、1888~1939)の新羅統一要因論を、林からの借用であると見なした。
この中で後の二つはそれぞれ3、4章で取り上げることにして、ここでは前の二つを先に論じる。まず一番目の問題。尹善泰は自彊運動期に出された韓国史教科書の概況を次のように述べながら議論を展開した。
〔国史教育の至急性を強調した、1895年3月の內務衙門訓示以後〕 「国民作り」構想の一環として登場した歴史教科書がつまり、1902年の金澤榮(キ厶・テクヨン)の『東史輯略』、そして玄采(ヒョン・チェ)の『東國史略』(1906)、『中等教科 東國史略』(1908)などである。よく知られているように、これら歴史教科書は金澤榮や玄采が直接著したものではなく、林泰輔の『朝鮮史』(1892)を殆んどそのまま訳述したものである。尹善泰, 前掲論文、57頁。
1895年から1910年4月まで出た約20種類の韓国史教科書を、1895年から1910年4月まで出た約20種類の韓国史教科書を、 「…など」といった曖昧な表現の下に蒙り、尹善泰は林の『朝鮮史』が及ぼした影響と、それによる「新羅統一の発明」のみを浮彫りにした。しかし、他の歴史教科書でも新羅の統一という内容は、林の影響とは無関係によく登場した。例えば、学部で編纂した『朝鮮歴史』(1895)は、668年の高句麗滅亡の記事に「この後、新羅が統一する」とつけ加えたし、韓国開花期教科書叢書11巻(亜細亜文化社、1977)、58頁。 『東国歴史』(玄采、1899)は「新羅紀」冒頭における文武王在位期間の説明の後に、「統一前の7年は三国紀を見よ」とした。韓国開花期教科書叢書14巻、121頁。 『新訂 東国歴史』(1906)と『大東歴史略』(1906)は、本文記事に文武王8年(668)に新羅が三国を「統一」したと述べた。韓国開花期教科書叢書19巻、65頁;韓国開花期教科書叢書18巻、111頁。 いわゆる新史體で書かれた『初等 大韓歴史』(1908)は少し変わって文武王10年に「三国統一」が成されたと見なした。韓国開花期教科書叢書14巻、385頁。その他にも大多数の編年体教科書は統一期を意味する「新羅紀」をそれ以前の「三国紀」と分離することによって、体裁上から新羅統一に対する認識を明らかに示している。尹善泰はそのすべてを議論から除き、『朝鮮史』の訳述による著作は3件にもなるかのように誇張することによって、この時期の歴史理解を作為的に単純化した。これと関わって尹善泰は二つの誤謬を犯した。一番目、金澤榮の『東史輯略』は総570頁が超える規模で、古朝鮮から高麗末期までを取り上げた編年体純漢文の歴史書として『朝鮮史』の訳述ではない。『東史輯略』の檀君記事と任那日本府設など、一部に林、または日本史書を受け入れた箇所がありはあるが(趙東杰 『現代韓国史学史』、ナナム、1998、92~94頁参照)、この本を『朝鮮史』の訳述だとしたのは、実際の資料を調べなかったという告白にすぎない。二番目、玄采が出した二冊の本は同一著述の前後関係であって、1906年の初版に1894年以来の歴史を付け加えて1908年の増補版が出たのである。
二番目に、彼は『朝鮮史』を韓国民族主義歴史学の起源にするため、無理な論証と解釈を何回も敢行した。その中でとりあえず注目すべき二つの論点は、「一統三韓」の意味と、三国統一の時点の設定問題である。これに関する彼の主張をまとめると、次のようである。
① 「統一新羅」、すなわち、新羅が三国を統一したという観念は、「林が発明したものであり、『朝鮮史』はその最初の歴史書」である。新羅の時の「一統三韓」の意識が朝鮮後期の新羅正統論として採択され、今日の統一新羅論として発展したという主張があるかも知れないが、「伝統時代の新羅正統論と林のそれ」(新羅統一論)とは明らかに異なる。
② 『東国通鑑』などの歴史書が文武王8年(668、高句麗滅亡)以後を「新羅紀」として独立させた体裁から「明らかに新羅統一の意義を大きく示そうとする意図が感じられる。」 しかし、林の見解は「羅唐戦争で新羅が勝利」した時点に統一が成されたというもので、前近代の新羅統一論とは異なり、民族主義史学の内容と同じである。 尹善泰、前掲論文、58~59頁。
上記の二つの立論は、まず互いにぶつかり合う。①の主張は林の『朝鮮史』以前に「新羅〔による三国〕統一」という観念、あるいは言説はなかったというものであるに比して、②の主張は前近代の新羅統一論はあったが、統一時点に対する認識で林のそれとは異なるというものだからである。
それと共に、①の立論は自らの主張を合理化するために不要な概念をさし入れた。一統三韓論(a)と新羅統一論(c)との間に新羅正統論(b)を差し挟んで、bとcが異なるからaとcも同じではないという論法である。しかしそのような媒介単位は要らず、「一統三韓」という命題に動詞的用法として使われた「一統」はつまり統一であり、『漢韓大辭典』(檀国大学校東洋学研究所、1999)は「一統」を次のように解釈した。「①一つに合わせること。②一つの系統、同じ系統。③碑石などの一つの座。④前漢の劉歆が作った三統暦での小周期、つまり1539年。」この中で動詞的用法が可能なものは①のみであり、その意味は「統一、混一」と対等である。『漢語大詞典』(2002)もこれと同じである。 「三韓を一統する」という句はそれ自体、「三国を統一する」と指示的意味の等価関係となる。これに関しては次の章で詳しく取り上げるので、ここでは要点だけを指摘しておいて、尹善泰の主張の中で②の検討へと入る。
彼が主張する核心は、林が「羅唐戦争で新羅が勝利」した時点で統一が成されたと見なしたということである。だが、下記の引用で確認できるように、林は若干の軍事的衝突以上の「戦争」に触れたことがないし、従って新羅の「勝利」というものも論じられていない。唐の勢力が遼東へと撤収した事実も、時期も『朝鮮史』には述べられていなかった。黃鍾淵が言ったところ、唐の郡県を半島から「追い出した」という黃鍾淵, 前掲論文、21頁。 内容も見い出せない。この様々な事項は、林が1912年に出した『朝鮮通史』(東京:富山房)でも同様である。 要するに、林は新羅・唐との間の激しい戦争と新羅の勝利および唐勢力の追い出しを意図的に叙述から排除したし、その帰結時点にも触れないまま曖昧に処理したのである。それにも関わらず、このような内容が『朝鮮史』にあると言ったのは、韓国民族主義史学の一般的見解を投射した錯視、あるいは「読み込み」として思われる。このことを確認するために『朝鮮史』の新羅統一経過に関する叙述全部を見てみよう。
新羅が唐と力を合わせて百済・高句麗を滅ぼしたが、唐はその土地を分けて都督などの官職を設けて治めた。新羅は次第に百済の土地を取って占め、また高句麗の反乱する群れ(叛衆)を受け入れた。唐が繰り返して叱ったが、新羅がまた服従しなかったので遂に兵士たちが衝突することとなった。これに唐が怒って〔文武〕王の爵位を削脱官職し、劉仁軌を送って攻めるようにした。〔文武〕王はこれに使臣を送って謝ったが、遂に高句麗の南側領域までを州郡にした。だいたい武烈王・文武王の時に金庾信(キ厶・ユシン)が忠誠と力を尽くして彼を補佐し、唐および百済・高句麗との間で外交〔周旋〕を繰り広げた挙げ句、統一の業を成し遂げることとなったのである。秣を切る子と牧童に至るまで皆その功を称えない者はいなかった。 林泰輔 『朝鮮史』(東京:吉川半七、1892)、巻2、章32。翻訳は原文の意味を維持しつつ、比較のため尹善泰の翻訳文と類似になるよう調整した。この翻訳を含めて日本語資料の解釈を手伝ってくれた朴・ジョンウ研究教授に感謝する。
上記の件を引用してから尹善泰はこれが「羅唐戦争の勝利を三国統一の時点として新たに設定」し、「羅・唐の対立を強調」した新しい言説だとした。尹善泰、前掲書、60頁。 しかし『三国史記』などの伝統的史書と比べてみる際、林は却って戰後の処理に関する両国の間の葛藤と、それによる7年間の本格的戦争を小規模の軍事衝突であるかのように希釈しただけである。言い換えると、『朝鮮史』は「唐が百済・高句麗を滅ぼした後その領土を支配したが、それを新羅がこっそりと占有した」という観点から、新羅の領土占有を積極的な闘争ではなく、竊取の結果として記述したのである。金庾信に関しても軍事的活動は一切述べず、金春秋(キ厶・チュンチュ)の役割に当たる外交を彼の功績だとしたのだから、これもまた「羅唐戦争」という概念を避けようとする隠蔽手法である。このような観点は朝鮮総督府の植民地教育にもそのまま受け継がれた。1920年に出た日本史補足教材のなかで「新羅一統」部分の指導要領は次のようである。
新羅文武王は半島で唐の領土を蠶食して、百済の古い土地すべてと高句麗の古い土地の一部を占有して統治し、後で唐の公認をもらった。 朝鮮教材研究会編 『尋常小學日本歷史補充敎材 敎授參考書』巻1(朝鮮総督府、1920)、62~63頁。新羅統一に関する総督府の立場は、新羅が聖徳王34年(735)に唐から浿江以南の土地に対する領有権を「下賜」されることによって「一統の業が名実共に真っ当となった」という方であった。前掲書、67頁参照。
それにも関わらず、尹善泰は林の観点を「羅・唐の葛藤」に結びつけながら次のように述べる。
林は羅・唐の葛藤のなかで、唐勢力の対蹠点に新羅のみではなく、「百済の土地(と人民)」と「高句麗の叛衆」という条件を新たに捉えて配置した。後述するが、これは林以後、植民地時代の歴史家たちに「三国人民の融合」として形成された新しい歴史共同体、すなわち「統一新羅」を想像する必須装置として働く。朝貢・冊封の事大秩序のなかに置かれていた伝統時代では、そもそも新羅の統一を羅・唐の対立局面から見い出すということは殆ど不可能であった。 尹善泰、前掲書、60頁。括弧のなかに入れられた「人民」は『朝鮮史』にはない。
しかし、彼が林の新しい言説だと強調した「新羅が次第に百済の土地を取って占有し、また高句麗の反乱する群れ〔叛衆〕を受け入れた」という件は『三国史記』における文武王14年の記事の一部であり、同じ本の「金庾信傳」にも同一な内容がある。「王納高句麗叛衆。又據百濟故地、使人守之」(文武王14年);「法敏王、納高句麗叛衆、又據百濟故地、有之”(「金庾信傳」)。高句麗土地の南部の占拠事実と「秣を切る子」の件も次の句を移したものである。「遂抵高句麗南境爲州郡」(文武王15年)、「鄕人稱頌之、至今不亡。 (…) 至於蒭童牧豎、亦能知之。」(「金庾信傳」) それのみでなく、この件は朝鮮時代の多くの歴史書に繰り返し収録された。次の主な史書がすべてそうである。『三國史節要』(1476) 『東國通鑑』(1485) 『東國史略』(朴祥、16世紀初) 『東史簒要』(1614) 『東史補遺』(1646) 『東國通鑑提綱』(1672) 『東史綱目』(1778) 『海東繹史』(19世紀初)。 「朝貢・冊封の事大秩序」の中では不可能であったことを林が新たに捉えたと尹善泰が言い切った内容が、実は前近代の韓国歴史書の共通遺産であったのである。彼には何故こんなにも多くの資料が見えなかったのであろうか。本当に不可解である。彼が意図したところは、「新羅の統一を羅・唐の対立局面から見い出す」民族主義的歴史認識が、実は林の発明を書き取ったものだという主張であった。だが、彼の解釈を実際の証拠と結び付けると、12世紀の金富軾(キ厶・ブシク)が民族主義歴史学の祖先となるべきであろう。
3. 7世紀末の状況と三韓統一の言説
これまで論じてきた問題点だけでも林の『朝鮮史』が新羅統一論の源泉であるという主張は崩される。だが、せっかく取り上げられた論点をより充実に解明するため、私たちは「三韓統一」の言説が7世紀末に生じることとなった来歴と、その政治的含意を検討してみる必要がある。
このために「統一/一統」の目的語として用いられた「三韓」の意味を先に見てみよう。三韓とは三国時代の以前にあった馬韓・辰韓・弁韓の合称だというのが今日の常識である。しかし、三国時代でこの言葉はよく高句麗・百済・新羅の合称として、あるいはこの三国が占有している遼河の東側と、朝鮮半島地域の全体の通称として用いられたし、そのような用法が高麗・朝鮮時代までも広く受け継がれた。これについては盧泰敦(ノ・テドン)が詳しく論じたことがあるので、盧泰敦 「三韓に対する認識の変遷」、『韓国史を通して見たわれわれと世界に対する認識』(プルビッ、1998)、73~116頁参照。 ここでは7~8世紀に編纂された中国・日本歴史書と国内外の金石文、外交文書などで三韓がよく三国(の領土)全体を指す言葉としても使われた点のみを強調しておく。『隋書』(636) 「虞綽傳」 「高句麗傳」; 『日本書紀』(720) 卷十応神天皇卽位前紀、卷十九欽明天皇十三年、卷二五大化四年二月壬子朔などの所々;「泉男生墓誌」(679);「夫餘隆墓誌」(682);「淸州市雲天洞寺蹟碑」(686);「泉獻誠墓誌」(701)など。 その中でも次の二つの例は特に注目するに値する。
• 公〔扶餘隆〕はその勢いが三韓を覆い(氣蓋三韓)… <夫餘隆 墓誌、682>
• 曾祖である大祚は本国〔高句麗〕で莫離支に任用されて、兵権を掌握しその気勢が三韓を制圧し(氣壓三韓)… <泉獻誠 墓誌、701>。 韓国古代社会研究所編『譯註 韓國古代金石文』I(駕洛国史跡開発研究院、1992)、519、547頁。
百済の最後の太子であった扶餘隆、そして淵蓋蘇文の父親であった淵太祖を優れた英雄として表現するため、これらの文はすべて三韓という空間を喚起した。三韓は彼らの属した王朝の境界を越えるが、唐・倭国などとは区別される、超国家的地域単位として認知された。
このような意味での三韓は、新羅・高句麗・百済の合称である三国と指示的意味が対等でありながら、より深い歴史的含蓄を含んでいる。すなわち、大昔の三韓時代から三国が並立した当時までの時間的深さが三国を包括した空間観念に染み込んだのである。だからといってこれが7世紀中頃位の段階で明確な歴史的同一体の意識にまで達していたとは見なし難い。ただ三韓という地域外部の他者たち(中国、日本、そのほか北方勢力)とは区別される地理的・歴史的・風俗的親縁性に対する認識が三国の間に、それから外部の他者たちと三国との間にある程度醸成されていたようである。『梁書』(629)を始め、『隋書』(636) 『北史』(659) 『舊唐書』(945)などの中国の史書が高句麗、百済、新羅の風俗・衣服・刑法・租税制度などの親近性を記録したのも、三国内外のこのような認識と無関係ではないと思われる。 しかし642年、百済の義慈王の大耶城攻略以後、本格化した26年の戦争期間に、この親縁性の認識は三国間の敵愾心と覇権的欲求を少しも仲裁できなかった。新羅が7世紀中頃以前から「統一」の目標意識を持ち続けていたという以前の解釈は、民族主義的観念で因果関係を逆算したものだと思われる。このような批判的認識は盧泰敦(ノ・テドン)、徐榮敎(ソ・ヨンギョ)などの近刊の著作に具体化されている。盧泰敦『三国統一戦争史』(ソウル大学校出版部、2009);徐榮敎『羅唐戦争史研究』(亜細亜文化社、2006)参照。
三韓統一という観念、あるいは政治的修辞が始めて登場した時期は、669年(文武王9年)から686年(神文王6年)の間として推定される。唐と協力して高句麗を滅ぼして帰還した翌年(669)、文武王は教書で次のように語った。
去る日々、わが新羅は両国〔百済、高句麗〕と仲が悪くなって北側を攻め、西側を侵攻して少しも平安な年がなかった。兵士たちは骨を曝け出したまま野原に積まれ、体と頭は互いに遠くかけ離れて転んでいた。先王様は百姓たちの惨めさを可哀相に思われ、王様の尊さも忘れて海を渡り唐に入って兵士を請おうと御殿に辿り着いたが、これはもともと両国を平らげて末永く戦いを無くし、何代との間深く抱かれた恨みを洗い出して、百姓たちの可憐な命を保全するためであった。(…) もうこれで両敵国は平らげられて四方が治まり太平となった。『三国史記』新羅本紀 第6、文武王9年條。翻訳文は、イ・カンレ訳『三国史記』I、ハンギル社、1998、176頁。
その年の2月21日、以前のすべての囚人たちに大赦免令を下し、百姓たちを広く救恤するなど、恩典を施しながら歴史的大業の成し遂げを闡明したこの文書に、三韓統一に当たる用語はまだ見えていない。その代わりに両敵国を平らげた(兩敵旣平)という言葉が状況認識の核心として据えている。当時まで「平定」は新羅政権の至上目標であったし、「統一」という、より上位の名分のための手段としては言説化されていなかったのである。
これと対照して、686年に建てられた「淸州市雲泉洞史跡碑」に「三韓を統合して土地を広げ、滄海に落ち着いて威厳を馳せた(合三韓而廣地, 居滄海而振威)」という『譯註 韓國古代金石文』 II、144頁。 件が注目される。ここで「平定」という軍事的行為は言表の後ろに下がり、「統合」という究極的成就が浮き彫りされているし、海に取り囲まれた領域全体を統括する国家の自負心が強調されている。古い百済地域に建てられたある寺院の碑文に刻まれたこの端緒は、新羅政権の中央部ですでに「平定から統一へ」の言説の変化があったことを示唆する。
神文王(在位681~91)執権初期に唐との関係で生じた太宗武烈王の廟号是非は、このような脈絡から考える際興味深い。新羅は武烈王が661年に死亡した後、「太宗武烈王」という廟号を捧げた。ところが、「太宗」という称号は唐の太宗(在位626~49)と同じものなので、それを直すようにと唐が要求する事態が神文王初期に発生した。この事件は『三国史記』には神文王12年(692)、唐の中宗が使臣を送って始まったことで、『三国遺事』には神文王初期に当たる唐の高宗(在位649~683)の時の事として記録された。前者は中宗が当時、廃位状態だったという点で年代の信憑性に欠ており、後者の状況的蓋然性が高いので、これを神文王1年(681)の事件として見なす見解に従う。徐榮敎、前掲書、306~307頁;盧泰敦、前掲書、278~79頁参照。これに対し新羅は受け入れられないと答えたが、その理由は武烈王が三国統一の大業を成し遂げたのだから「太宗」とするのは尤もなことだというものであった。『三国遺事』卷1、紀異1、太宗春秋公;『三国史記』新羅本紀、神文王12年。前者は「一統三國」、後者は「一統三韓」として表現した。 ところが、武烈王は百済を滅ぼしてから翌年、死亡したし、当時高句麗はどの勢力にとっても手強い国家として厳然と存在していた。従って彼の業績を三国統一だと出したのは、文武王の時の高句麗攻破までも武烈王の遺産として理解したことになる。ここで注目すべきことは、統一という名分価値の遡及現象である。すなわち、武烈王は宿敵の百済を退けた業績で太宗という尊号をもらったが、670年から681年の間の期間に、百済・高句麗との戦争と唐の追い出しという過程全体を統一という、より崇高で持続的な名分として吸収する「記憶の再編成」がなされたのである。
このような変化は、ただ修辞学的な必要に因ったものではない。三韓統一という命題は、669年以後、新羅が切迫した状況的契機に対応しながら、その必要性を感じることとなった説得、懐柔、収拾の言語的相関物であった。
後代の人々は660年に百済が滅び、668年に高句麗が滅びて、676年に唐が三韓地域に対する支配欲を諦めたと語る。しかし、それは遠い後日までの経過をも知って作成した年表上での知識である。当時の状況はすべての関連勢力にとって不確実であったし、敵と友軍との境界が遊動的であった。泗沘城が陥落され、義慈王が降伏した後でも百済復興勢力の抵抗は激しかった。唐はその領土の直接支配を図りながら、義慈王の太子扶餘隆を熊津都督帶方郡王に任命して、新羅を牽制するようにさせた。彼が死んでからは孫の扶餘敬が名目だけであったが、王位を受け継いだ(686)。もう一人の王子である扶餘豊と共に百済復興勢力を支援した倭は、663年の白江口戦闘で敗退したが、再び新羅の背後を攻めないとも限らなかった。唐は平壤城陥落の際、捕虜となった宝藏王を遼東都督に任命し、朝鮮王に封じて古い高句麗地域に対する影響力の拠点としたし、彼が死んでからは孫の寶元を朝鮮君王に封じた(686)。『譯註 韓國古代金石文』I、541頁参照。 宝蔵王の外孫の安勝(アン・スン)は670年、高句麗復興運動を起こした劍牟岑によって祭り上げられ王に即位したが、戦略的異見のため彼を殺した後、新羅に投降した。新羅は安勝を高句麗王に封じて、地域基盤の異なる金馬渚(現在の全羅北道益山)にその集団を落ち着かせ、倭国にこの小高句麗の使臣を送ったりもした。小高句麗およびその後身である報徳国と倭国との使臣往来は、盧泰敦 『三国統一戦争史』、280~83頁参照。 朝鮮半島から引き上げた唐は、678年にも新羅「征伐」を断行しようとしたが、チベット戦線の負担のため諦めた。『舊唐書』卷85、張文瓘傳;『資治統監』卷202、唐 高宗 儀鳳 3年参照。
要するに、百済・高句麗の敗亡以後、多様に出没する抵抗集団と新羅と唐との対決状況は、極めて複雑な多者関係を醸成した。このように不安な状況で百済・高句麗の残存抵抗勢力を弱化させ、地域支配層と流民たちを吸収しようとする努力が三韓統一という命題の母胎となった。
三韓という集合名詞に染み込まれていた地理的・経験的新縁性の記憶は、このために非常に有用であっただろう。近年、色んな論者たちが指摘するように、7世紀後半のこの戦争は新羅、百済、高句麗、唐、日本が直接参与し、チベットなどの北方勢力が間接的変数として働いた、東北アジア国際戦の様相を呈する。三韓統一という概念はこの多者間の関係を三韓の内部と外部として区画し、内部的統合の当為性を説得する言説構図を可能とならしめた。「統一/一統」の目的語として「三国」より「三韓」がずっと多く使われたのは、取りも直さずこのためである。
三韓統一の言説は7世紀後半以来、新羅の王権強化にも重要な役割を果たして、武烈王の時から始まった新羅中代の専制王権が神文王の時代に来て確固と落ち着いた。武烈王・文武王は三韓統一の偉業を果たした君主として、神文王はそれを受け継ぎ、守護する君主として反対勢力を制圧し統一的王権体制を強化していった。
それ以後の新羅史でも三韓統一はしばしば強調された。金石文の資料だけを挙げてみると、「聖德大王神鐘銘」(771) 「皇龍寺九層塔刹柱本記」(872) 「鳳巖寺智證大師塔碑」(893) 「月巖山圓朗禪師塔碑」(890)などがその残存の証拠である。この中でいわゆるエミレ鐘として幅広く知られた聖徳大王神鐘の銘文の一部を見てみよう。
紫極懸象 黃輿啓方 天に天門が掛り、大地に方位が開かれ、
山河鎭列 區宇分張 山と水が据え、疆域が分けられて広げられた。
東海之上 衆仙所藏 東海の海辺に多くの神仙が隠れた所、
地居桃壑 界接扶桑 地は桃の谷間に居残り、境界は日の出る所に着いたが、
爰有我國 合爲一鄕 ここにわが国が在り、合わせて一つの郷土となった。 『譯註 韓國古代金石文』 III、387、391頁参照。翻訳文は一部を修正した。
天地開闢の時点から雄渾と始まるこの文章で、第3、4句が特に注目に値する。それは山と水という自然条件によって隣接地域と分けられた三韓世界を一つの風土的領域として理解する。そしてこの自然的区域は第9、10句が歌った統合によって政治的としても他者たちと区別され、また末長く維持されるべき共同体の空間〔一鄕〕として発展する。このように地理的自然性を人文的統合で完遂したという叙事によって、三韓統一は深い来歴と当為性を持った業績として記憶の深さを増すことができた。
そのような統一観が新羅社会に幅広く受け入れられたか、あるいは「慶州中心の支配層である骨品貴族の意識に過ぎなかっただけ」キ厶・ヨンハ 『新羅中代社会研究』(イルジ社、2007)、242頁。 なのかは断言しにくい。ただ、確実なことは新羅による三韓/三国統一という観念が670年代頃から登場して、様々な言説行為と媒体を通じて韓国史の空間に存続したという事実である。北方で渤海(698~926)が登場したことは、三韓統一観念の完全性に対する重大な挑戦であった。この困った問題にも関わらず、あるいはこの挑戦の圧迫のため、新羅朝廷と知識人たちは渤海を何とか靺鞨と関わらせながら、三韓統一の名分を堅持していった。李・カンレ 「三国史記の靺鞨認識:統一期新羅人の認識を媒介に」、白山学会編 『統一新羅の対外関係と思想研究』(白山資料院、2000)、183~212頁参照。
高麗建国期の三韓統一論は、このような遺産を受け継いで高句麗中心的な視角として再編成した。以下の二つの文段は紙面制約により、高麗、朝鮮時代に関する内容を要約したものである。 三韓という名詞は高麗の時に来て「王朝と時代の境界を越えた歴史的同流集団とその領土」という意味がより明瞭となり、王建の後三国統一はそのような当為的一体の分裂を乗り越えた偉業として強調された。これを通じてより明瞭となったアイデンティティ政治の構図の上で、高麗は中央執権的統合を追い求め、宋・契丹・金・元などの他者たちと緊張・交渉しながら、独立した政治的領土を維持しようとした。
朝鮮王朝は出発段階から新羅と高麗による統合の相続者として歴史的系譜意識をはっきりした。そのような意識は「國朝五禮儀」などの国家祭礼と各種の歴史書および文集に豊かに現われている。高句麗、渤海の領土が失われたことに対する批判とともに、統一の不完全性に対する論難が起ったりもしたが、そのような言説そのものが統一の当為性を前提した上で生じられたものである。安鼎福(アン・ジョンボク)の『東史綱目』(1778)は歴史地図として「新羅統一図」を「高麗統一図」と一緒に提示した(地図を参照)。三国/三韓統一という記憶と主要人物、事件、場所らは数多くの漢詩文で回想され、「三韓拾遺」のような小説の浪漫的空間として採用されたし、多様な民間伝承と信仰としても転移した。
4. 林泰輔、『東国通鑑』、文一平(厶ン・イルピョン)
これまで論じてきたように、資料が豊かにあるにも関わらず、新羅による三国統一という歴史認識が林泰輔の発明であるという尹善泰の主張は黃鍾淵にも受け入れられた。そして黃鍾淵は日本人たちが近代朝鮮人たちに「統一新羅という観念を確立させ」、新羅を「自己認識と自己改造の主な手段として」発見する与件を作ったと主張した。黃鍾淵、前掲書、50頁。
そのような観点から黃鍾淵が長編小説の『無影塔』(玄鎭健:ヒョン・ジンゴン)と『元曉大師』(李光洙:イ・グァンス)を解釈した内容についてはここで取り上げない。両作品の議論には非常に興味深く、一部共感しにくい局面があるが、小説に関する異見はよく循環論の対立として帰着するからである。私としてはそれより上記の作品に近づく視角の模型として挙げられた、文一平の新羅統一要因論と林泰輔の関連問題を検証してみたい。この場合、視角の妥当性を検討できる基盤は明らかである。黃鍾淵は次のように述べる。
文一平は林泰輔と同じやり方で新羅の統一を説明した文章で、「新羅の人和」に特に注目している。和合の道徳が「義烈武勇の精神」と結び付けられ発揮したが故に、新羅はもともと弱小国であるにも関わらず、統一の大業を成し遂げることとなったというのが彼の主張である。新羅人の和合に対する彼の言及が植民地政府下の朝鮮では存在しない、もしかしたら大和イデオロギーに対する支持を含んでいるかも知れない、政治共同体に対する熱望を暗示するということは十分推し量れる。このように日本人が発見した新羅から当代の朝鮮のための意味と象徴の貯蔵素を創り出すこと、日本人が構築した新羅という想像界を朝鮮民族の文化的資源として専有することは、1930年代が過ぎていく間、朝鮮人の知的・芸術的作業の重要な部分を成すこととなる。 黃鍾淵、前掲書、29頁。
上記の件は文一平の新羅統一要因論が「日本人が発見した新羅から」出たものであり、このように植民主義言説から借り入れた材料で民族的想像と意味を創り出すことが韓国民族主義とその実践の不可避な植民性であったと主張する。
そしたら文一平の新羅統一論は果たして『朝鮮史』から出たものであろうか。これに答える前に『朝鮮史』の新羅統一要因論を実際見てみよう。
①高句麗・百済は国を立てたのが新羅より後のことで、滅びたのは新羅に先立つ。新羅が一人残り260年余り国脈をを保存し続けたのは何故であろうか。②領土の廣さから言えば、高句麗・百済は両方とも大きかったし、新羅はその半分位であった。軍隊の数を比べてもまた、決して両国に及ばない。なので侵犯の禍を被って休まる日がなかった。だが、新羅が両国より優れたものがあって、それはつまり人和と地利である。③新羅は君主が賢くて百姓を愛し、臣下は忠誠で国に仕えた。*その法に戦死した者に手厚く葬式を行い、官職と爵位を賜い、賞を与えて一族に及ぶようにした。④そのため、人々は皆忠信を重んじ、節義を崇め尊んだ。戦闘に際しては進んで死ぬのを栄光と思い、引き下がって生きるのを恥だと思った。⑤百済が滅びる際はただ階伯のみがいたし、高句麗が滅びる際は誰一人忠節に死ぬ者がいなかった。新羅は高句麗・百済と戦争を繰り広げて以来、王事に死ぬ者が数えられないほど多かったので(貴山、帚項、讚德父子、奚論、訥催、東所、竹竹、丕寧子父子、金欽運、穢破、狄得、寶用那、盤屈、官昌、匹夫、阿珍金、素那、金令胤、驟徒、未果、脫起、仙伯、悉毛の群れは皆死の節義を全うした臣下としてより輝く者たちである)、その両国が決して及ばないところであった。 林泰輔 『朝鮮史』巻2、章32~33。原文者番号と*表は比較のためつけ加えた。
上記の件で見られる林の歴史論はいとも筋が立っているし、具体的例示も印象的である。ところが、この文章は彼の学識から生れた論述ではなく、『東国通鑑』(1484)の三つの史論から書き抜いた四つの文章と『三国史記』の一句を組み合わせたものである。上記の引用中、冒頭に*を印した一文を除いては次の原典を翻訳したに過ぎない。高句麗滅亡に関する『朝鮮史』の論評の六行も『三国史節要』と『東国通鑑』の宝蔵王27年の記事の後にある権近(1352~1409)の史論一部を移したものである。林泰輔 『朝鮮史』巻2、章17~18参照。
①新羅爲國, 兵衆不如麗濟, 土地不如麗濟, 形勢不如麗濟. 卒之二國先滅, 而新羅獨存, 何耶?(巻7, 乙卯年〔565〕); ②甲兵之衆, 土地之廣, 羅不及麗濟. 只以地利人和, 僅守疆域, 今日敗於濟, 明日敗於麗.(巻9, 癸酉年〔673〕); ③新羅, 其君仁而愛民, 其臣忠以事國.(「金庾信傳」, 『三国史記』); ④大抵新羅之俗, 尙忠信, 崇節義, 臨戰則以進死爲榮, 退生爲辱.(巻7, 乙卯年〔565〕); ⑤新羅自麗濟構兵以來, 其俗以進死爲榮, 退生爲辱. 死於王事者, 悉未縷擧. 曰貴山, 曰帚項, 曰讚德父子, 曰奚論, 曰訥催, 曰東所, 曰竹竹, 曰丕寧子父子, 曰金欽運, 曰穢破, 曰狄得, 曰寶用那, 曰盤屈, 曰官昌, 曰匹夫, 曰阿珍金, 曰素那, 曰金令胤, 曰逼實, 曰驟徒, 曰未果, 曰脫起, 曰仙伯, 曰悉毛, 此其章章者. 其餘死節亦多. 百濟之亡, 只有階伯, 高麗之亡, 無一死節者.(巻9, 甲申年〔684〕)
日本近代史学が韓国民族主義史学に及ぼした影響を主張するに使われた上記の論拠が、実は15世紀の朝鮮士大夫たちの言説であったのだ。それだけでなく、三国の興亡と関わって人和の重要性を取り上げて論じたのは『三国史記』からであるという点も留意しなければならない。金富軾(キ厶・ブシク、1075~1151)は宝蔵王27年の記事に付けた史論で「天時と地利は人和に及ばない」(天時地利, 不如人和)という孟子の言葉を引用し、高句麗が暴政による民心違反と支配層内部の分裂で敗亡したと論じた。このような観点が朝鮮時代に受け継がれて新羅統一要因論として拡張されたのである。文一平は孟子のこの句を取り上げて論じ、その次の文段では『三国史記』の「金庾信傳」に登場する蘇定方の言葉を漢文で引用しながら、人和が新羅の成功を齎してきた中心要因だと結論付けた。“新羅, 其君仁而愛民, 其臣忠以事國, 下之人事其上, 如父兄.” 文一平 「政治上の意味深い新羅の国家的発展」〔ハンビッ、1928.7〕、『湖巖文一平全集5:新聞・補遺編』(民俗院、1995)、238頁。 これを綜合してみる際、文一平の新羅統一ー人和論は『三国史記』を主に参考にし、『東國通鑑』などの史論を参照してなされたものである。
これまで検証してきたところは別に深奥な難題ではない。前近代韓国の歴史学伝統と言説遺産に対する配慮があったならば『朝鮮史』における問題の件が近代の創新なのかという疑問は避けられない。それにも関わらず、黃鍾淵が同僚の歴史学者とともに何の疑いもなく林発明論に傾いた要因は何なのであろうか。近代と植民主義を特権化する方法論的誘惑がそこに介在しているのではないかと、私は心配する。言い換えると、歴史研究で前近代の遺産と記憶という要因は取るに足らぬものとしながら、近代の発明・変革を強調し、近代という時空間では植民主義ヘゲモニーを歴史的運動の第1原因として仮定する論法が深刻に憂慮されるのである。
今や軽薄な流行語ともなった「発明」という術語にそのような偏向が染み込んでいる。この言葉は歴史の多線的絡みと重層性を二分法的に単純化する。そして発明以後の局面をそれ以前の時期に対して特権化し、発明の権力/主体を他の行為者たちに対して特権化する。ドゥアラ(P. Duara)はこのような発明観念が歴史研究で流行ることに対し深い憂慮を表明する。この常套語には「過去が発揮する因果的効果を否定する傾向」があり、それは「連続性と変化が非常に微妙で複雑に絡み合った過程を無視する単純化」を齎してくるからである。Prasenjit Duara, “Why is History Antitheoretical?,” Modern China, Vol.24 No.2 (April 1998), 114頁.
チャクラバルティー(D. Chakrabarty)は『近代性の鏡:近代日本の発明された伝統』という論集に付した批評的後記で、収録論文の意義を肯定しながらも、近代的発明論の過剰に対しては手痛い批判を提示した。
発明された伝統がそれら自体の結果性に対する系譜学を必要とするとしても、そのような系譜学のどれ一つも思想の目録のみで成されるわけにはいかない。思想は肉体的実践の歴史を通じて物質性を獲得する。思想は論理でもって説得することのみに働くものではない。それらは感覚を文化的に訓練する長くて異質的な歴史を通じて、私たちの内分泌腺と筋肉と神経網に関連を形成し得る。これがつまり、記憶(memory)の働きである。私たちがこの言葉の意味を、覚えること(remembering)という単純で意識化された心的行動の意味として還元しない限りにおいて。過去は感覚を訓練する長い過程を通じて具現されるものであるところ、この本に載せられた論文が他の面では啓発的ではあるが、私が物足りないと思う点は、日本的近代性の主体が持ったこのような側面からの深い歴史が欠如されているということである。 Dipesh Chakrabarty, “Afterword: Revisiting Tradition/Modernity Binary,” Stephen Vlastos ed., Mirror of Modernity: Invented Traditions of Modern Japan (Berkeley: University of California Press 1998), 294~95頁。
このような立場から彼は「近代日本の資本主義的、国家主義的条件のもと、発明された伝統」に関する研究に「體化された実践の連鎖としての過去」が差し入れられることを要望した。同上、296頁。 資料と論証が脆弱な「統一新羅近代発明論」に同じ注文を付けることは無理のような感じがするが、そのような欠陥を避けたとしても、上記のような批判から逃れ得ないという点は、これからの進展のために言っておきたい。
5. むすび
「新羅統一」という観念は、林泰輔の『朝鮮史』で発明されたものではない。それは百済・高句麗の崩壊以後、東北アジアの不安定な状況のなかで新羅が唐と対立しながら、「三韓」という歴史地理的語彙の含蓄性を呼び出し、政治的内部と外部を区画する言説として作り上げる過程で成り立った。三国の領土全部を包容しなかった点で、その概念の実質は不完全なものであったが、それにも関わらず、新羅は三韓統一の誇りを強調した。高麗はこのような遺産を再編成しながら、アイデンティティの根拠を深化しようとしたし、朝鮮時代にも三韓統一論の記憶が多様な方式で喚起、再調整された。これを度外視したまま、三国統一と関わった新羅史認識がすべて植民主義の産物であり、民族主義歴史学はそれを書き取ったものに過ぎないと見なすことは、資料上で堪えられないし、方法論的にも植民主義の特権化という批判から逃れ難い。
よく「植民地近代性論」と呼ばれるパラダイムの支持者たちは、近代の歪められた価値と問題を乗り越えることに彼らの目標があると語る。同感できる目標設定である。しかし、そのための実践で前近代と近代との間の複雑な働きと歴史の重層性を、近代中心的に単純化することが度々生じたのではないだろうか。植民状況のヘゲモニー構図のなかでも植民地人が単に受容・反応の二次的主体であったのみではなくて、自分なりの記憶と欲求を持った能動的行為者であり得るということが疎かにされたことはなかったか。ポストコロニアリズムの接頭詞「post」が「超えて」の方向ではなく、「再び」(re-colonialism)の道へと曲がったことはなかったか。稿を終えながらこのような質問が再び切実に求められる。 (*)
訳=辛承模
季刊 創作と批評 2009年 秋号(通卷145号)
2009年9月1日 発行
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