[書評] 脱近代のレンズに映った日韓の歴史学
「父さん、いったい歴史とは何に使うものか話してください。」このように始まる最初の一句と「歴史のための弁明」というタイトルに惹かれてマルク・ブロック(Marc Bloch)の著書の日本語版を苦労して手に入れ、読んだ時が思い出される。専攻の史学科科目にあまり興味を持てなかった1970年代初の学部生時代のことである。歴史に関する教養書やドラマの人気が高かったこととは違い、大学で生産し、伝播する歴史の知識はあまり関心を引けない我々の現実において、上記の質問はいまも響きがあるのではないか。ところが、この問いを正面から取り扱う領域が歴史学それ自体に存在する。歴史学の自己検証装置である史学史がそれである。
20世紀日韓両国の歴史学の歴史、すなわち史学史に本格的に奮闘した本『歴史学の世紀:20世紀韓国と日本の歴史学』がつい最近出版された。日本の歴史教科書論争を契機に2001年から始まった「批判と連帯のための東アジア歴史フォーラム」の5年間の活動の中で最後の2年間の成果を中心にまとめているが、一部他の論文も追加して1冊の本として出版したものである。
本書の筆者の一人である戸邊秀明は、史学史が求められる状況は「歴史学が適切に社会との関係を結べない時、端的には危機に置かれた時点」(p.402)であると強調する。彼の判断によれば、同書は国の歴史学が現在置かれている危機状況を診断し、それに適切な処方を下そうとする日韓歴史学者の集団作業の所産といえよう。
それでは、「歴史フォーラム」は、歴史学がなぜ危機に置かれているとみるのか。編者らは、日韓両国の歴史が国史-東洋史-西洋史の3分科体制として維持されるため、ヨーロッパ中心主義が維持・固着され、自国史中心の研究に偏るようになるのがその原因と診断する。それゆえ、その代案として国単位の歴史を研究テーマとする現在の国史中心体制から脱皮することを提案する。あまりにも単純に要約したかもしれないが、このような診断と処方は脱近代思潮の流行に乗り、脱民族主義が歴史学においても大きく影響している今日においては、かなり見慣れた主張である。
この診断と処方はそれほど新しくないものの、それを裏付けるために用意された個別事例研究は豊富な内容を備えている。第1部に載った両国歴史学の起源を究明した論文も読み応えはあるが、20世紀後半両国歴史学の主要研究者ないし思潮について検討している第2,3部は歴史学の現在性を論争的にとらえており、大変興味深い。
第2部では「空転する脱植民主義の歴史学」という表題にみられるように、植民地的遺産の克服を至上課題としてとらえてきた韓国歴史学の巨匠らが容赦なく批判される。西洋中心主義者であると同時に、維新体制の「宮廷歴史家」と規定された西洋史学者の閔錫泓は論外としても、「内在的発展論」を実証的に構築した韓国史学者の金容燮が「隠れた神」に比喩されながら、知識権力化した彼の内的発展論が墜落するとき、はじめて新しい代案が出てくるだろう、とまで酷評される。また普遍史的個体性を具現した韓国史の体系を立てた韓国史学界の「巨人」李基白の実証史学も克服対象として取り上げられる。すべてが「民族・国家企画」という近代歴史学の限界に閉じこめられたという理由で否定されるのである。
第3部では、日本の歴史学が「独白する戦後歴史学」と規定される。日本において「戦後歴史学」とは単に第2次世界大戦終結以降の歴史学を意味するのではなく、天皇制を裏付けた皇国史観が没落した後、日本歴史学を主導したマルクス主義的方法を核心とする特定の傾向と研究者集団を指す一種の固有名詞である。それは60年代に確立して盛行しており、またそれによって整理された時代区分論・国家論・社会構成体論等の視角がある面においては今も日本歴史学の叙述を圧倒している。ところで、それはいま、一国史観に基づいた戦後日本歴史学の否定的側面を持った用語として定着されているようにみえる。ここでは特にそれが大体日本の立場だけを重視し、近隣地域と対話をする姿勢にはなっていないという限界を持つものであった点が古代史研究、東アジア世界論等の多角度から浮き彫りにされている。
このように日本歴史学も基本的に批判されるが、2部の論文と違って、その中で生成された新しい代案の可能性も貴重に扱われる。その中でも日本史研究者の安丸良夫が開拓した「民衆思想史」が目立つ。彼は高度経済成長という社会変化の中で民衆が感じる「豊かな社会」現実と遊離された「戦後歴史学」を批判しながら、「民衆の日常感覚」に根ざした歴史の原動力を見つけ出したと述べる。
ところが、同書を読み終えると、一つ疑問が生じる。日本歴史学と異なり、韓国の歴史学は克服の対象であるだけなのか。特定の研究者や潮流を神話化しながら、それに頼って変化する現実との接点を見つけられない我が歴史学界の硬直性を指摘しようとする編者らと韓国側筆者らの強烈な問題意識はある程度認める。しかし、彼らが植民主義の影響を過度に重視し、近代と脱近代歴史学の課題を二分法的に設定したあまり、我が歴史学の重要な成就を看過し、「空転する」歴史学としてのみ再現しているようで残念である。この点を読者とともに検討するために、本書で(どのような事情があったか)見落とした私の専門分野である東洋史を例としてあげてみたい。
本書の論旨通りなら、解放後韓国の東洋史学が「植民地時期の東洋史学の政治的磁場内から出発」(p.246)したことは明らかである。ある日本人研究者が「韓国ではアクターが変わったが、『東洋史』という概念は継承」されたと、最近ある著書で指摘したのも同じ脈絡の話であろう。しかし、それは単純すぎる表面的観察である。韓国の東洋史は帝国大学で作られた東洋史学という制度と実証的史風を受け継いだものの、同時に1930年代朝鮮の民間知識人たちが主導した朝鮮学運動の遺産も継承したものであることを決して無視してはならない。また、中国史研究の「唯一のモデル」であると同時に、「学問権力」と見なされる閔斗基の実証主義者・近代主義者としての面貌も批判的に検討されることができる。しかし、その時、彼が1960~70年代以来の社会現実と対応しながら見せた歴史認識の複合性ないし弾力性を視野に入れなければ、彼の成果と限界が後学によって知的資産としてそのまま活用されないであろう。
最後に、本書が提示した処方について点検してみたい。ここでは国史中心体制で構成された20世紀歴史学制度を乗り越えようという主張だけが共有されているように思われる。それにもかかわらず、「歴史フォーラム」がはじめから「自律的個人を中心とする市民的連絡網を構築する作業」を遂行しつつ、活動目標を「省察的東アジア歴史像を構築」するところに置いていることからもわかるように、新しい東アジア史または「実践的東アジア」が少なくとも一部の参加者(李成市、金基鳳、尹海東など)の間では代案として考慮されているのではないかと思われる。ところが、この構想と実践が我が歴史学の代案として根ざすためには、1990年代以来我が論壇において展開されてきた東アジア言説と(本書で言う)省察的東アジア像との距離を綿密に検討するところから出発しなければならなかったのではないか。
このような観点から再考すれば、「歴史フォーラム」は制度外の学術活動として出発したものの、実際制度外で生産され、流通された歴史知識の役割(または私のいう「運動としての歴史学」)には注目できなかったように思われる。さらに、制度内で蓄積された代案の可能性―それが巨匠らに限定される理由はない―さえも疎かに扱った感がある。歴史学が危機を迎え、自力で社会と疎通する新たな歴史学へと発展するためには、外的要素との緊張関係を通して潜在する自己の可能性を露わにする道しかないのではないか。近代歴史学の克服を真剣に追求するためにも、それに適切に適応しなければならない。近代克服と近代適応は二つの性格の単一課題であることをもう一度確認しておきたい。(*)
訳:李正連
季刊 創作と批評 2009年 秋号(通卷145号)
2009年9月1日 発行
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