[インタビュー] 韓国学の歩んできた道と東アジア文明論 ②
批判的国学研究の起源と現況
韓基亨 議論を少し変えてみます。1960年代以降に集中した現実批判的な国学研究の学術史的な根源についてお聞きしたいと思います。そのような学問傾向は60年代に入って初めて始まるのですか。あるいは近代初期の啓蒙運動や1930年代の朝鮮学運動、解放直後に噴出した学術文化運動などと直接・間接に関連していたのでしょうか?
林熒澤 韓国の近代学術史もやはり1945年を分岐点として論じるのが便利だと思います。1945年以前は1900年代の愛国啓蒙運動時期と1930年代の朝鮮学運動の時期で段階を区分できます。啓蒙主義時期には新たな文物・新思想の受け入れが主要課題でしたが、同時に自国の立派な伝統を継承し発展させるべきであると考えました。この時、国学が芽生えましたが、それがその後さほど育つ暇もなく、主権喪失で厳しい難関にぶつかったのです。次の1930年代の朝鮮学運動は、日帝が軍国主義に急進し、一切の政治運動が封鎖され、民族アイデンティティを喪失する危機的な状況のなかで、韓国の言語、歴史、文学を研究し、それをきちんと認識しようというものでした。ここではじめて国学(韓国学)の枠が出来上がりました。そして1945年から1950年、厳密にいえば1948年までが、解放を迎え、日帝下で抑圧されていた創造的な情熱が爆発した時期で、抑圧されたもののなかに潜んでいた知的な蓄積が発揚した時期でした。当時、洪水のように溢れるように刊行された出版物がそのことを証言しています。国学を含めて、韓国の近代学問の本格的な出発点は、この時期に起こったものと考えるべきでしょう。ですが、すでにその期間に南北分断が確定した状態で内戦に発展し、そのうち冷戦体制となって冷たい雰囲気に包まれ、解放期の活発な動きや注目すべき成果は、粛清されたり抑圧されたりして、かなり歪められる様相となりました。1960年代の「新たな世代文化運動」の民族自我の覚醒、民衆的な芸術形式の発見、反権威主義的で批判的な学術活動などは、解放期の躍動性や活発さがよみがえったものと考えることができるでしょう。
洪錫律 韓国社会が民主化移行期に入り、現実批判的な学者が既成の学界とは異なる学会や研究所を正式に作っていきました。文学史分野では1990年に「民族文学史研究所」が作られ、そこで先生は主導的な役割をされたものと理解しています。民族文学史研究所の創立は韓国文学の研究史において1つの重要な出来事であると言えますが、当時、研究所を作ることになった契機や記憶に残ることなどはおありですか。
林熒澤 民族文学史研究所は正式の出帆に先立って、数年間、準備作業をしてきました。はじめは80年代の運動の熱気の中で国文学も何か刷新の方向を探ろう、韓国文学研究の新たな学風を起こし、言わば進歩的な学術運動の旗を揚げようというものでした。私よりはるかに後輩たちが主として主張し、私はそれに付いて行く側でした。予備的な集まりを何度か持ちましたが、その集まりを「夜間国文学科同窓会」と呼んだりもしました。学界の主流に組み込まれない非主流の集まりで、制度圏の権威や惰性に抵抗し対決するという意味も込められていました。
民族文学史研究所は半年刊の機関誌を着実に発刊し、企画を立て、共同研究を進めて、その結果で学術発表会を開いたり書籍として刊行したりしてきました。このような成果を評価できるでしょうが、何よりも理念的方向性、明確な理論を基盤に韓国文学の研究者が結集したという点をその意義として指摘できます。もう1つは韓国文学の中で古典と現代、漢文学に分化し障壁ができて、学校の間でも疎通がうまくいかない点を克服し、1つの韓国文学、民族文学史の統一的な認識を指標に、ともに調和の取れた勉強の場を作ろうという意味もあります。その成果をはたしてどれほど収めてきたか、自信を持って話すことはできませんが、方向性は明らかです。
漢文学研究、伝統と現代
洪錫律 先生は国文学中でも漢文学を研究されました。先生の著作を見ると、大学で勉強する時、国文学科の正式教科の課程の中に漢文学の関連科目が1つもなかったという回顧があります。このような状況で漢文学研究に専心されることになった契機は、どのようなものだったのでしょうか? また興味深いのは、1975年に韓国漢文学会を創立されましたが、その時に集まった学者が12人にしかならなかったということです。漢文学研究の継続に多くの困難があったようです。
韓基亨 付け加えてお聞きするならば、先生の漢文学研究が、国文中心の硬直したナショナリズムの補完に大きな寄与をしたと思います。漢文学が学界の市民権を得ることになり、伝統に対する概念や認識も大きく変わったと思われますが、その点も一緒に整理して頂けますか。
林熒澤 伝統というものは、本来、近代が自らの過去を記憶する方式です。韓国の近代が打ち立てた伝統、その1つとして国文学、また韓国文学史が成立したんです。ですが、国文学が登場し、過去に文学の中心にあった漢文学が完全に除外されてしまいました。それはものすごい事態です。言ってみれば、知識の地殻変動、または転倒現象と言えるでしょうか。それまですべてのものを漢文で書き、それゆえに歴史や文学がともに含まれていたのに、それを垣根の外に追い出した、それこそ近代が暴力的に作動した典型的な事例と言えるでしょう。
韓基亨 知識が萎縮してしまいました。
林熒澤 萎縮だけでなく、実際に漢文学を除いて、国文文学だけで韓国の文学史が成立しうるかという問題が生じます。私たちが所有している国文文学の遺産とは、総体としてもいくらにもならないので、その貧しさは言うまでもなく、文学史の体系を構成することは困難です。先祖が残した豊かな遺産を自ら捨てて貧困を嘆くというのは話になりません。またさきほどお話ししたように、家庭的な背景もありましたし、だから他人がやらなくても自分がやると考えていました。その一方で、漢文学を専攻して大学で働き口があるだろうか――このような疑問を払拭することはできませんでした。ですが、意外に早く専任教員になって、啓明(ケミョン)大の漢文教育科で講義して、1975年に成均館(ソンギュングァン)大に移りました。また漢文学が近代学問の1つに位置づけられるためには学会というものが必須であると考え、李佑成(イ・ウソン)先生に相談を差し上げました。先生もこころよく同意されて、当時、大学にいらっしゃる方々のうち最高の元老でいらした李家源(イ・ガウォン)先生を会長にお迎えしました。また会員は規定をちょっと厳格にして、韓国漢文学の専攻者や大学の漢文学関連学科で講義する人に限定したところ、全部で12人でした。それが、漢文学が韓国の近代学問の一分野として独り立ちすることとなった出発でした。漢文学が近代学問の一分科として成立することによって、韓国の文学史が豊かに復元されることはもちろん、近代の暴力性を治癒することに具体的に寄与したと思います。
洪錫律 おっしゃった通り、伝統が現代的に再構成されざるを得ないという点は認めますが、現代が伝統を過度に自己中心的に単純化し、ひいては暴力的に裁断する方向に行くのは問題があるということは先生と同じ考えです。前回の『創作と批評』秋号で金興圭(キム・フンギュ)先生は、新羅の三国統一論が近代植民史学によって作られた言説にすぎないという主張に対し、実証的な側面や研究・見解の面で鋭く批判する論文を発表されました。先生もこのような傾向に対して何かおっしゃられるかと思います。また先生は常に伝統文学と韓国文学、漢文学と国文学の統合的認識を強調され、ひいては階級文学と民族文学も統合される必要があると強調されました。そのような点などに関してもお話しをお聞きしたいと思います。
林熒澤 いろいろと提起されました。まず金興圭先生の論文に対する所感について簡単に言及します。時宜適切でしたし明快に読める論文でした。最近、氾濫している軽薄な伝統否定論ないしホストモダンの言説に一矢放ったものと考えられます。ただ韓国の近代が打ち立てた伝統の問題点、さらに最近、地方自治体が先を争ってやっている町興しや村興しなどにおける伝統文化の表象を見ると、笑ってばかりもいられない弊害が多いと思います。伝統がいくら近代という時代の要求によって、近代人の趣向に便乗し編集され演出されるものであったとしても、歪曲されすぎている事例が1つや2つではありません。私はこのような問題が他でもなく、まさに韓国の近代において、近代韓国人の意識形態において発生したと考えます。ですから、その解決方法は決して簡単ではありませんが、この場で長く論じられるような状況でもありません。
また現在、古典文学と現代文学の断層、漢文文学と国文文学の乖離、そして韓国文学と北朝鮮文学の断絶、これは一様にみな深刻な問題です。私たちは古典と現代のつながりを何度も強調してきましたし、漢文文学と国文文学を1つの韓国文学として統一的に認識しようと繰り返し主張しました。あわせて韓国文学と北朝鮮文学の異質感を解消しようとする努力とともに、文学史的統一を常に念頭に置いてきました。しかしこのような努力や試みの成果はいまだ明確ではありません。これには理論的な課題や現実的難関があります。断層、乖離、断絶を克服し、文学史を統一的に認識するためには、説得力を持った理論が提示されなければなりません。理論的確立がいまだ鮮明ではありません。もちろん理論をもってしては解決しにくい面もあります。統合を妨害する制度や人間の現実が厳然と存在するからです。また根本的に統合と統一を困難にしている今日の現実、南北の分断の現実、対米依存の現実が私たちの前に横たわっています。
韓基亨 先生が青年期や壮年期を送った60年代から80年代までは、文学研究において西欧理論の影響が圧倒的な時代でした。韓国文学史の記述や作品解釈においても、西欧文学の専攻者ら公然と主導権を行使したり、国文学者などもいわゆる「本土」の理論に深刻に傾倒した時期もありました。国学中心の資料学を深く掘り下げた先生の立場から、そのような現象に対していろいろとお考えがおありだろうと思います。最近、国文学など人文学分野で起きている日本理論の受容ないし風靡の現象についても一言お願いします。
林熒澤 これは本当に問題です。何度も指摘して批判を加えましたが、馬の耳に念仏でした。理論の対外依存は昨日今日の問題ではありません。国学分野では資料は自国のもので理論は輸入をするとなると、これは「技術提携」のようなものです。朴正煕(パク・チョンヒ)時代に技術提携の産業で経済面において成果があったのは事実です。ですが韓国経済もそのような段階はすでに過ぎているので、学問においても「技術提携」のレベルは越えるべきではないでしょうか。国学以外の人文学一般や社会科学においても、理論的な苦悩を輸入で解決しようとする対外依存的な姿勢は当然克服されるべきでしょう。理論的な苦悩は「いま、ここ」に立ってやるべきもので、資料の実状から論理が導き出されるのは学問一般の基本原則です。日本の理論の受容をあえて特化させて問題視する必要はないと思います。日本の学術書は私たちに簡単に読めて、彼らの提示した理論は私たちが消化するのに適した面があるようです。本当にいい理論ならばうまく活用するのも有害ではないでしょう。問題は私たちの主体性ですが、「私」がどこかに行ってしまい、外部の風だけを追いかけるような格好になればそれも困ります。
東アジア文明論と韓国史における文明転換
洪錫律 先生は個人、民族、東アジア、世界の統合的な認識を強調してきました。ですが、最近刊行された『文明意識と実学』(トルペゲ、2009)をはじめとして、最近の著作では、西欧の近代文明と異なる東アジア文明の概念をかなり強調されています。このように東アジア文明の概念を強調することになったのは、どのような契機からですか?
林熒澤 私が漢文学を専攻していることと直接的な関連があると思います。東洋的な文明概念の中心は<文>にあります。<文>が高度に発現した状態、それがすなわち「文章」であり「文学」であり、それゆえに「文明」という概念に対してつねに考えてきました。また近代以前とそれ以後をどのように連続的に、統一的に認識し思考できるだろうか――この問題がいつも頭の中にありました。「文明」はやはり西欧の訳語だ、そして伝統的な文明とは、名前は同じだけれども全く関係がないものだ――おおよそこのような形で日本の研究者らが語っており、韓国の研究者らはこの見解をそのまま受け入れている立場です。はたしてそれをそのように考えるべきだろうか、東洋伝来の文明と西欧近代の文明を統合的に思考することが必要ではないかと考えるようになりました。
韓基亨 「civilization」と「文明」とは根本的にどのような違いがあるでしょうか?
林熒澤 概念自体が全く違うものとは思いません。もちろん東西の歴史が違うので文明概念にも違いがあるでしょう。西欧的な文明概念は科学や技術の発展に基盤を置いており、またそのような思考の論理を産んだ根源があることはもちろんです。理由の源泉が異なり、論理の脈絡が異なるということは当然認めるべきです。ですが、<文>に源を発した東洋の文明概念は、単純に文字的なものに限定されるものではありません。文明の起源は、人類が自然を克服・利用して、人間の生を向上させるところにあったので、文明の発展過程自体が歴史でした。文字もこの過程で自然を読む方式として創られたものです。ですから、それぞれの時代によって文明の性格が違った形で表出されるのです。東洋社会は崇文的な伝統が強かったですし道徳主義が優先視されてきました。ですが利用厚生を強調する思想傾向もありました。
洪錫律 『文明意識と実学』において、韓国は14世紀と19世紀末~20世紀初めに、2度の重要な文明史的転換を迎えたと分析されています。ですが、14世紀に成立した転換は、東アジアの普遍文明を完全に消化・吸収し完成する段階、先生も指摘されましたが、『東文選』や『訓民正音』のようなものが作られることからも分かるように、東アジアの普遍文明を単純に消化・吸収する段階を越え、それを土台に自らのものを整理し創造する段階にまで達しているようです。ですが、19世紀末から20世紀初めの文明転換は、近代西欧文明に突入しかかっていた過程であって、このような段階にまで至ったわけではないと思います。
林熒澤 韓国の歴史上、最も画期的な変化の時点がいつだったかと言えば、私は19世紀末から20世紀の初頭だったと思います。韓民族が有史以来永らく享受してきた伝統的な制度や文化が全面的にひっくり返る分岐点だったため、この時点を「文明転換」と表現したのです。14世紀には高麗から朝鮮への王朝交替が起きます。とても重要な歴史的転換点ではありますが、それを「文明転換」とは考えませんでした。あくまでも東洋的伝統の制度や文化において起きた変革だからです。それでも14世紀の歴史転換は、同じ時期の中国の元・明の王朝交替と相互に作用した歴史運動で、視野をさらに拡大してみると、西ヨーロッパで起きたルネサンス運動とも連動していると見ることができます。つまりユーラシア大陸全体にわたる世界史的運動の一部門なのです。14世紀の朝鮮半島の歴史変化を主導した知識人は高麗末の新進士大夫ですが、彼らが世界史的な動きに主体的に対応した点を評価するということです。そのような意味で従来の通念とは異なり、朝鮮王朝を積極的に肯定するということです。それゆえに「漢江(ハンガン)の文明」と意味づけしたのです。「漢江の文明」は世宗(セジョン)の代に出た言葉ですが、世宗から成宗(ソンジョン)にいたる朝鮮王朝の隆興期を指摘できますし、具体的に『訓民正音』や『東文選』をあげて「漢江の文明」の特色を表現しようと思いました。
14世紀の転換は成功した歴史ですが、それに比べて、19世紀から20世紀初めは成功した歴史と見ることは困難です。もちろん私たち自らの力量の問題、また当時の国際状況の問題の2つを同時に考慮しなければなりません。ですから、私たちがものすごい歴史変化に対応する主体的力量を充分に確保できなかったという点は認めなければなりません。その次に巨大な波として押し寄せた西欧文明、西欧帝国主義に対応する実力と受容器が依然として足りなかったということです。当時としては、失敗というならば失敗であり、挫折というならば挫折ですが、しかし当時展開した実践的な努力、その過程における苦悩は、近代に突き進むための知的資産であり、それゆえに私はその後から今日までを巨視的に見るならば、韓国近代は失敗と考えるよりは成功的であったと考えます。相変らず未完の課題が多いですが、私たちが経済建設もこれほどに達成し民主化もこれほどに達成した、その出発点にさかのぼるならば、20世紀前後の激変の時代、その険しい時代の変化に対応しようとする積極的な姿勢が精神的な資産になったと評価します。
20世紀の転換期、適応と克服の可能性
洪錫律 先生は20世紀初めの「文明転換」を語りながら、西洋近代文明に対応する思想的流れを大きく3つに分けて考えています。西欧文明への改造を主張する急進開化における「東道西器」論、文明の比較優位を主張する穏健開化論、性理学的秩序の固守を主張する「衛正斥邪」論などです。
ですが、これ以外にも、東学農民戦争に代表される民衆勢力の思想的対応もあります。私はこのような民衆運動とその思想的指向が西欧の近代文明といかなる関連を持つのか、注目するだけのことはあると思います。実質的に18、19世紀の朝鮮社会で発生した様々な社会経済的な変化は、当時の人々が意識しようがしまいが、16世紀の地理上の大発見以降に発生した世界史的変化とつながる部分があります。ですから、当時の人々が考えた変化の方向は、西欧が体験した近代社会への変化と相当部分一致しうると考えます。ですが、他の一方ではそれと食い違う部分もあります。東学農民戦争の場合には、人間の平等、身分制打破のような面で西欧的近代と一致する面がありますが、商工業の発達に否定的でしたから資本主義社会を追求したと考えるのは困難です。一方「衛正斥邪」論のようなものは当時の現実から乖離した保守的論理だったという点は明らかですが、柳麟錫(ユ・インソク/1842-1915)の『宇宙問答』のようなものを見ると、近代西欧社会の問題点、近代文明のある種の限界のようなものを鋭く指摘したりもしています。
このように19世紀末から20世紀初めの文明転換に過程にみられる多様な思想的流れがありますが、「西勢東漸」という結果をあまりにも絶対的なものとして遡及適用し、西欧近代と合致する部分を一方的に高く評価して、そこからはみ出たものを何の意味もないと片付けるのは問題だと思います。特に近代化と植民地化が同時に進んだ当時の現実を考える時、植民地に転落したところでは押し寄せる西欧的な近代文明に一方で適応しながらも、植民地的な抑圧を克服するためにはこれを転覆するしかないという二重的な状況があったと思います。このような側面から見る時、当時の多様な運動的・思想的指向の中に西欧的近代文明に批判的で、これとは異なる可能性を想像し提示した側面も充分に注目する価値があると思います。
林熒澤 私自身つねに韓国史の原動力として農民の役割を重視する立場を取ってきました。ですが、『文明意識と実学』という本の論理構図には、東学農民戦争に代表される民衆の動向や民衆的思想を盛り込むのが困難でした。この主題は機会があれば別途整理してみたいと思います。
私たちの目の前にある近代とは何か、今、私たちをとらえている西欧文明との関係をいかに理解すべきかということは、今、私たちとしてはとても重大な主題です。そのような点で「西勢東漸」に注目したんです。私もやはり、西欧近代を理想的な座標として想定し、それにどれほど接近したか、しなかったかという風に韓国の歴史や文化を裁断しようという態度は正しくないと思います。16世紀以降に展開した「西勢東漸」は、朝鮮半島はもちろんのこと、東アジア全域が避けることのできなかった世界史的な進行過程でした。問題はその潮流にどのように対応し、そこでいかなる文化的・思想的変化が起きたかということです。東西の出会いを、一方的で受動的な過程ではなく相互的なものであったと前提し、躍動的に、むしろ創造的な契機として描き出すことが必要だと思います。
ですが、19世紀末から20世紀初めは真に危機的な状況でした。洪先生もおっしゃるように、近代化と植民化が同時に進む中で、近代と等値である西欧を悪魔として認知することが当然視される面がありましたし、それに抵抗する思想や行動が強力に台頭したことも、やはり当然視される面がありました。私はその時期を「文明言説の時代」として表現しようとし、西欧=近代を積極的に受け入れようとする立場から、頑強に否定・拒否する立場にいたるまで、多様に提起され葛藤したことは、避けられなかったということだけではなく、創造的な混沌であったと評価したいと思います。たとえば、西欧文明を「野蛮」と考えるような「衛正斥邪」論をめぐっても、しばしば時代錯誤的であるといいますが、そのような思想の論理が出てこざるを得ない歴史的な背景や時代の現実があり、そこでも本源的な意味で近代文明に対する批判や省察の論理を引き出すことができます。だからといって、近代文明の弊害を治癒できる妙案がそこに全て込められているという風に考えては困るでしょう。
分断体制克服の問題意識と東アジア論の提起
韓基亨 先生を含めて創作と批評社と深い関係があった研究者が提起した「東アジア言説」、あるいは「東アジア文明論」は、韓国の学術社会に大きな影響を及ぼしました。ですが、一方では様々な批判に直面したりもしています。批判は大きく3つに要約できます。第1に、東アジア論は、以前、現実批判的な学術界が追求した言説の現実性を抽象的な次元で飛躍させたものではないか、言ってみれば、言説の緊張感を弱めたものではないかという点です。第2に、先生の個人的な学問履歴とも関連する問題ですが、民族文学論やリアリズム論に象徴される1980年代までの批判的な学術界の傾向から、東アジア言説へと転移する過程に横たわる言説の断層をどのように説明するのかということです。また第3に、東アジア言説が文明史的な次元の接近を試みながら、実際には中国中心主義を強化する側に寄与していないかという判断です。この3つの観点に対する先生のお立場をお聞かせ下さい。
林熒澤 難しい内容です。私の立場で、なぜ東アジアを注目することになり、東アジア論においてどのような点をさらに強調する必要があるのかということをお話しします。個人的に東アジアを学問的な関心事の圏内に入れたのは時期的に早い方です。1985年に『転換期の東アジア文学』という本を創作と批評社で崔元植(チェ・ウォンシク)先生と一緒に編纂しました。私について言うならば、生まれたのは日帝末ですが、生涯の大部分を分断状況において生きてきました。休戦ラインで遮られた朝鮮半島の北側と不倶戴天の仇として対立して過ごしながら、結局、それが韓国の政治・社会・文化全般において桎梏を産みました。これを突破するために東アジア言説を提起することになったのです。『転換期の東アジア文学』を編集することになった重要な動機はまさにここにあります。北朝鮮は誰がなんと言っても私たちの国土の一部分であり、北朝鮮の住民は私たちと血を分けた民族であり歴史共同体じゃないですか。それが絶対に行くことのかなわない地になっているばかりか、私たちが歴史的にあれほどにも近い関係にあった中国もやはり「竹のカーテン」という表現のように、陰険な、きわめて非正常な状況として私たちの前に横たわっていました。中国の場合、頻繁に往来するようになった現在とは事情が異なりました。問題は朝鮮半島に引かれた分断ラインです。東アジア論を提起しましたが、統一の意志をその中に込めていたのです。ですが、そうして何年もしないうちに、社会主義の没落とともに冷戦体制が解体し、その次にすぐ中国との国交正常化があって、現在、東アジアが私たちの日常の中に位置づけられるようになりました。いつの間にか東アジア言説が流行のようになりましたが、私はまた原点に戻って思考する必要があると主張しています。東アジア論を提起した当時の問題意識の源泉である分断問題は、いまだ解決されることがなく続いている状態だからです。
東アジア論が登場すると2つの反発がありました。1つは日帝時代の大東亜共栄圏の論理の焼き直しではないかというもので、もう1つはさきほど韓先生がご指摘になった通り、中国中心の中華主義に巻き込まれるのではないかというものです。現実的に東アジア論を強調するのは、結局、西欧中心主義の克服と関係があります。現在は米国中心主義と言わなければ適切でないかもしれません。私たちとしては西欧中心主義をいかに克服するか、どのように理論的に越えるかが問題ですが、現在、急浮上してきた中国中心主義、中華主義、大国主義も、よく考えてみれば西欧中心主義の逆現象です。ですから、私たちが東アジア論を提起することによって、むしろ中国中心主義を理論的に省察させる意味があると思います。中国の人々の目には東アジアが見えません。そのような点で東アジア国家としての中国、歴史的な過程における中国を反省的に認識させることが必要です。
中国中心主義、中華主義は、実は中国の歴史でも順機能したことはありません。「西勢東漸」の歴史の中で、もし中国が中華主義の迷妄から早く目覚めたならば、これまでの歴史で経験したようにひどくはなかったでしょう。ですが、ひたすらその論理をもって、変化した世界に対応しようとしたために、19世紀にアヘン戦争を引き起こし、20世紀に入っても巨大帝国が解体する状態にまで進んだのです。本当に中国がきちんと自立するためには、「東アジアにおける中国」をはっきりと認識すべきであり、それが私たちだけでなく中国にも必要だという点を覚醒させる意味が、東アジア論に込められており、また込められるべきだと考えます。
韓基亨 実際に効果もあったとお考えですか? 具体的に効果を感じられた経験的な事例があればお聞かせ下さい。
林熒澤 3年ほど前のことですが、「東北アジア歴史財団」が開催した国際学術会議で私が基調提案をおこないました。東アジアは中華主義=中国中心主義を歴史的に清算できなかったために、その精神的残滓がドラキュラ伯爵の亡霊のようにたびたび出現し、今後もそのような憂慮がなくはない、これは中国に限った問題ではなく、日本や韓国にもその変種が出現しうるという話を付け加えました。すると中国側から参加したある老学者が青筋を立てて怒って、今、中国に中国中心主義がどこにあるのかと抗議されましたが、他の参席者は中国の学者たちまで含めて、おおよそは私が話したことに同意しているように見えました。
洪錫律 お話しの中で、東アジア言説が提起された理由を、分断体制の克服、その苦悩の中から出てきたものだとされていました。ならば、分断体制の克服と東アジア言説がつながる地点は、分断体制というものが西欧中心の不均等な世界体制の下位として存在するものですから、結局、東アジア言説は、西欧中心の世界秩序を破り、他の代案の可能性を模索するというところにあるということでしょうか。
林熒澤 そうです。西欧中心の世界構図、米国偏向の意識構造を克服するためには、東アジア的認識、東アジアの連帯が望まれるということです。ですが、行く手は遠く険しいと思います。東アジア共同体について語っても、巨大中国と先進日本を調整する問題、またいつも障害要因になっている朝鮮半島の分断を克服する問題が、難題を解く鍵であると思います。
近代克服の媒介としての東アジア文明論
韓基亨 先の議論と関連していますが、少し違うかもしれない質問を1つ差し上げます。文明史的に接近すれば、その内容は一般的に伝統社会を語るということではありませんか? ですが、実は東アジアの現代性もとても重要な問題です。また東アジアの現代性、あるいは東アジア現代文明を論じながら避けられない焦点が、社会主義の問題であると考えます。「社会主義」という表現は同一ですが、北朝鮮や中国の事例に見られるように、東アジア各地域の社会主義の歴史的経験とその現実はかなり異なった性格を持っています。このような異質性を含めて、社会主義の近代文明史的な役割と地位をどのように判断するべきかについてお聞きしたいと思います。最近出た『新しい民族文学史講座』(創作と批評社、2009)の総論で、社会主義の問題を積極的に再解釈する必要があると、その話題を提示されました。それとも関連すると思います。
林熒澤 まず21世紀の状況における社会主義の問題と、20世紀前半の社会主義が東アジアに導入される段階を分けて話そうと思います。若干の時差がありますが、日本に少し先に入ってきて、中国と韓国には1920年代にほとんど同時に社会主義が導入されますが、東アジア、中国と韓国における社会主義は、その原産地とは異なり、近代を越えるための思想ではなくて、近代の受容過程の論理だったと思います。自由主義と社会主義はあまり時差がなく同時に受容されました。当時、韓国社会の課題は、封建性からの脱皮、被植民地状態の克服という2つに要約できます。社会主義は前近代的・封建的な諸般の制度、思想、文化を批判し清算するのに鋭利な論理を提供した一方で、帝国主義的な植民支配の現実を説明する言語を教えたのです。私は現在、運動としての社会主義よりは認識論としての社会主義に着目するということです。
それだけに、私たちの考え方や学問方法を開眼させるのに、社会主義、弁証法の論理は非常に重要でした。1つの事例として文体の問題をあげてみましょう。韓国の文学史・知性史において近代散文、特に論説文がいつ成立したかを確かめてみると三・一運動の直後です。もちろん1900年代の啓蒙主義段階で論説が非常に重要視されましたが、まだ漢文体の旧套から抜け出せない国語と漢文体であり、内容もやはり旧思想のくびきから抜け出したと見ることは困難です。それが三・一運動以降、明確に変わることになります。三・一運動の影響で批判精神がよみがえりましたが、社会主義の受け入れで、現実を分析し論理的に説明できるようになったんです。ここに近代的な論説文が成立しました。現在、新聞紙面を飾る論説や雑誌の評論はここから始まったものです。
洪錫律 社会主義が、理想的には近代社会、資本主義社会の克服を語りましたが、現実には近代文明を受け入れて内部的に発展させることに寄与したという指摘でしょうか? 特に知識人層において、近代社会を理解し、それを分析する論理的枠組として機能したということでしょうか?
林熒澤 その通りです。近代を皮相的に理解したのではなく、近代の内面を論理的に把握し批判的に語れるようにしたのが、当時の社会主義だったんです。
洪錫律 ですが、現実には社会主義諸国が90年代に入って大部分解体し、近代社会克服という理想的な次元の標榜自体も動揺しました。社会現実を現象的な次元でなく構造的に深層分析する道具として機能した社会主義が没落し、これに代わる思想は明確に登場していない状況において、韓国の社会には脱現実化・脱構造化・脱論理化の思潮が蔓延しているのでないかと思います。
林熒澤 社会主義が後退し、冷戦体制が解体した状況において、グローバリゼーションの波に私たちはただ巻き込まれている状況ですが、現実を看破して方向性を回復する論理をいまだ見出していません。もちろん遠い理想から見れば、社会主義においてそのような方向を見出すことができるでしょうが、現在、この現実をどう説明して打開するかは知識人が直面する苦悩であると思います。そのような点で東アジア文明論の再構成は媒介的な思考が可能な1つの方法です。
韓基亨 21世紀以降の東アジアの問題に戻って考えてみる時、20世紀の資本主義と社会主義の限界と可能性をともに含めて、はたしてどのような社会、どのような変化が東アジアという旗色あるいはスローガンの中に入るべきでしょうか?
林熒澤 それは私の力量を越える問題ですが、中国の国家方向は現在「小康社会」であるといいます。今後の指向として「大同社会」を語りながらも、かなり具体的な時刻表を提示しています。小康社会を経て大同社会に進む時、中国がどのような姿になるのか、もちろん時刻表通りに実現するかは未知数です。どうであれ将来、巨大中国が私たちの前にどのような姿で君臨するだろうか? そこでポイントは、未来の中国が大国主義あるいは中華主義をはたして清算できるのかという点にあると思います。長い歴史において巨大中国の周辺に位置していた私たちの立場としては、その点を鋭意注視しないわけにはいかないでしょう。今でも中国の「東北工程」〔2002年から中国で続いている東北地方の歴史研究に関する国家プロジェクト。高句麗や渤海の歴史的位相について韓国と見解が対立している――訳者〕が威嚇として迫ってきていますが、それにどのように対応するべきか問題です。現在の政府の立場やマスコミなどで接近するスタイルは、あまり適切ではないと思います。むしろ大国主義をあおる面があります。中国がそのような状態なのですから、私たちもこのように対抗していくべきではないかというのは、むしろ逆効果だと思います。そのような面で南北朝鮮の問題を考えざるを得ません。「東北工程」は中国の全体的な構想の中で成立するものですが、特に重要かつ大きな課題が北朝鮮問題であると思います。彼らは北朝鮮問題をいつも念頭に置いているように思います。ですが、現政府の対北朝鮮政策はかえって対北朝鮮「工程」を助長することにならないか心配です。北朝鮮に対して圧迫政策を続ければ、北朝鮮が中国の懐の中に入っていくという結果を招きます。民族的な立場から見る時、北朝鮮圧迫政策は「自殺ゴール」を入れるようなものです。
韓基亨 中国の大国主義をむしろ韓国からあおっているというご指摘は、かなり意味深長ですね。
洪錫律 「東北工程」に対して民族感情で対応するよりは、東アジア共通の歴史像を作って、そのような過程で南北朝鮮も和解と協力を通じて調和させ共存する道を見出そうというものですね。
林熒澤 そうです。中国が、高句麗は私たちのものだ、渤海も私たちのものだというのを受けて、私たちも中国に対して、くだらないことを言うなと対応するのではなく、東北アジア地域の歴史をもう少し大きな枠組で把握する必要があり、近代に作られた国家の境界に執着せず、一国史的な観点を越えて、異なる次元に進めるようにすることが私たちの重要な役割でしょう。地域的認識の論理を導入するのも1つの方法論です。
歴史の中の実学、現実の中の実事求是
韓基亨 私は、先生のライフワーク的な学問的イッシューは実学ではないかと思います。ですが、実学の歴史的脈絡をどのように捉えるべきでしょうか。実学を朱子学の1つの支流と解釈する傾向のために、概念上の混乱もあるようです。また先生の著書『実事求是の韓国学』(創作と批評社、2000)のように「実事求是」あるいは「実学」を1つの理論的方法論として用いる時、その意味をどのように理解すべきかも、あわせてお聞かせ下さい。
林熒澤 実学の意味を歴史的概念として限定しなければ、ものすごい混乱に陥ります。世の中の学問の中で実学でないものがあるでしょうか。現在は経済学や工学が最も実学に近いと思います。ですが、そのような形でいつでもどこでも存在する実学ではなく、歴史的な意味での実学をいうならば、それは17世紀から19世紀にかけての新たな学風を示す概念です。
韓基亨 朱子学とは別個の学問と見るのでしょうか?
林熒澤 朱子学(性理学)と実学の関係を把握するところで問題があったと思います。性理学と実学を完全に別個のものとして考える、つまり性理学は保守的でよくないものである反面、実学はいいものであるというような単純区分がありました。ですが、性理学と実学は継承と克服の二重的な関係にあったと思います。性理学は韓国の歴史においてきわめて重要な知的遺産であり、それがあったために学問や思想の高い水準が可能でした。実学は性理学の高い水準において生まれることができました。そのような点で実学は性理学の延長線上にあったと言えます。ですが、実学がその論理と学問研究の深化の過程で、理論的に性理学を克服したのです。性理学に対する批判と克服が、その中でさらに高い水準で行われました。ですから、実学はその自らの性格と歴史的意味を性理学と分けて考える方が妥当です。そうではなく、性理学の延長、ないし1つの分岐程度と規定する態度は問題があると思います。それは実学の歴史的意味を無化すると同時に、実学の躍動性と創造性をきちんと評価しないということです。保守的な歴史観の投影でしょう。
それから、実学と実事求是の関係を見ましょう。実学が歴史の時間の中で存在したものであるとすれば、実事求是は実学の方法論、または実学の別称でありながらも実学の時間帯を越えて今日に至っていると思います。20世紀後半の中国や韓国で、様々な変化や思想的反省の中で、また実事求是を強調する精神現象が見られます。このように実事求是は、実学と合致する面と同時に、方法論または思考の態度として現在的な意味が大きいと思います。ですが、実事求是において、「是」は真理あるいは実践の正しい道という意味です。ですから「求是」に究極的な意味がありますが、「実事」に一次的な意味があるということです。「実事」とは何か、それはその時その時の立場や状況によって異なると思います。たとえば考証学における「実事」は具体的な事実や証拠ですから、金石学のような客観的な根拠によって真理を見出すことです。今日、私たちには「実事」をいかに解釈するか、いかなる立場で「実事」を持ち出すかが鍵です。私自身は実事求是が学問的姿勢として緊要だと考えているので、本のタイトルにもその言葉を入れたのですが、韓国の学問において、実事求是をどうするべきか、熾烈に掘り下げるべき「実事」とは何かという問題は、単に抽象的な問題ではないでしょう。
冷徹な現実認識、堅固な理性を堅持して
洪錫律 そろそろ対話を整理する時間になりましたが、「実事」とは何かについて悩んでみようというお話しでした。先生が一生の間に積み重ねられた学問の内容や性格を一言で整理するのは不可能でしょうが、常に現実を、それも表面ではなくその内面の構造を探求することを強調され、これを統合的に認識することを主として主張されてきたと思います。個人、民族、東アジア、世界の統合的認識、伝統と現代の統合的理解です。今日、お話しを聞いてみると、やはり現実を正しく知るためには、現象や部分に埋没するよりは、その構造と本質を探求し、これを統合的に認識することが必要であるという気がしました。今までのお話しで、さらに説明が必要なところがおありでしたら、最後に付け加えてお話し下さいますか?
林熒澤 近代というものは、これまで私の人生の環境そのものでした。ふりかえって考えてみると、1つの主体としての私が漢文学を専攻として選択したことからが、近代に対する抵抗的な意味を持ったようです。自分を取り囲む近代に対決するという学問意識から出発したわけですが、実は近代を否定したというよりは、それを正しく立て直すという、きちんとした近代を望んだのではないかと思います。近代が、韓国の近代がはなはだ歪曲され、いまだきちんとした近代を成就できていないという問題意識です。もちろん近代は歴史的に克服するべきものですが、この近代克服の課題も簡単に跳び越えて達成できるものではないと確信します。ですが、ポストモダンの現象がすでに顕著に見られ、最近も特にそれが加速化しているという状況です。理性の時代が過ぎ、感性の時代が到来したと主張するかと思えば、知識情報の洪水の中で私たちの精神が混乱しています。感性だけに頼って破片的な情報の氾濫に巻きこまれています。人文学の危機を語りながら、その解決方法をこの中に見出すことができるかのように言う人もいます。人文学の危機の根本原因は他でもないそのような態度にあるのです。このような状況に対していかに対応するかが重要なのですが、いつも強調していることですが、現実を自分の目で見て、自分の思考の中で明晰に判断することがやはり重要です。そのような意味で学問の主体性は確実に確保しなければなりません。さきほど感性の問題のことを言いましたが、おそらく学者は理性から離れてはいけないと思います。最近は互いに区別することなく、感性、楽しみ、エンターテイメントにすべて陥っているようですが、その正体は何だろうか? もちろん、人間は基本的に情感の側面が重要であり、情感にもとづかない文化は存立自体が難しいでしょう。ですが、私は、今日の現象を見ていると、感性で人間をとらえて、脱主体の人間、剥製化された人間に作り変えているのではないかと疑ってみたりもします。そこに資本の論理がどのように作動し貫徹しているかを考えるべきだという点を最後に強調したいと思います。
洪錫律 長時間にわたって、いいお話しをお聞かせ下さりありがとうございます。これで対話を終わりたいと思います。(2009年10月14日、細橋研究所)
翻訳=渡辺直紀