창작과 비평

「統一新羅論」を語り直す : 金興圭(キム・フンギュ)の批判に対する反論

論壇と現場


2009年 冬号 (通卷 146号)

 

 

尹善泰(ユン・ソンテ) yoonst@dongguk.edu
東国大学校歴史教育科教授。著書に『木簡が聞かせる百済物語』 『新羅の発見』(共著) 『韓国古代中世古文書研究』(共著)などがある。
もしカエサル(Caesar)に対する私の考えと、モムゼン(Mommsen)の考えとが異なるとしたら、おそらく二人中の一人は間違っていると思うだろう。しかしそうではない。なぜならば対象が異なるからである。私の歴史的思考は私自身の過去に対するもので、モムゼンの過去に対するものではない。モムゼンと私は多くのことをともに分かち合う。そして多くの点で同じ過去を持つ。しかしわれわれが異なる国の人であり、異なる文化、異なる時代の代弁者である以上、われわれはそれぞれ異なる過去を持つ。
-R. G. コリングウッド(Collingwood)

 

 

1. はじめに

 

この間、ある知人から電話がかけてきた。『創作と批評』2009年秋号に金興圭(キ厶・フンギュ)という方があなたの論文は間違った論証と解釈を何回も敢行したし、前近代の遺産と記憶を取るに足らないものと見なして、批評するにも勿体ないという論評を載せたので読んでみたまえと言われた。批判の強度が非常に高いというから、金興圭教授が私は今だ拝見したことのない資料を手に入れたかと思えて、恥ずかしくもあり、気になって至急に手にいれて読んでみた。よい批評とは相手の主張が自分と異なっても、その内容を正確に紹介することが優先されなければならない。しかし金興圭は自分の考えのみが理性であり善であった。学術批評というには彼の話はあまりにも失望的なものであった。

まず一番目に、彼は今日、国史教科書や韓国史概説書で通用される「統一新羅論」が林泰輔によって発明されたという私の主張をまともに理解できずにいる。二番目に、彼は自分の批評のために私が論文で書いてもいない話を作為的に作り出した。三番目に、彼は歴史が如何に構成されるかを知らない。それによって自分が前近代韓国の歴史学伝統と談論遺産を高く評価したと錯覚している。むしろ当の彼が前近代の歴史家たちをどれ程酷く利用し、侮辱したかに気づいていない。

後述するが、金興圭は金富軾(キ厶・ぷシク)から安鼎福(アン・ジョンボク)に至る伝統時代の歴史家たちの思想を自分の目的のため歪曲した。いや、そればかりか歴史学そのものを転覆させようとする。金富軾や安鼎福は年代記と自身の史論を明確に区分して書いたのに、「彼には何故こんなにも多くの資料が見えなかったのであろうか。本当に不可解である。」

もちろん人は誰でもしくじりや錯覚をすることがある。しかし私に加えた批評の内容とその強度から見て、彼は確信に満ちている。私は彼の强者然とした啓蒙主義的態度が、私の主張を自分勝手に理解した根源であったと思う。しかも彼は自分のストーリーテリングを完璧に構成するため、私の核心的な論拠を始めから取り上げることさえしなかった。関心はあるものの、内容が正確にわからない人々が読むと、「この類の文章がこれほどしかならないのか」と思われるように文章に手を加えた。

金興圭は私の論文に対する批評を通じて、「近頃のポストコロニアリズムの談論状況に対する凡例的な問題提起を志す」と言った。私には分に過ぎることが実はこの言葉であるのを彼は知らない。彼は私の論文を植民地近代性論者たちを批判できる弱い輪であると考えたようだ。弱いのは合うが、私は輪ではない。彼らは私の文章に頼らない。私の文章はむしろ彼らに対するオマージュにすぎない。私くらいの象徴的論拠も乗り越えることができないほどの基礎体力でいかに凡例を示すということなのか!

 

2. 「統一新羅論」に対する理解

 

金興圭は私の論文が無理な論証と解釈を何回も敢行したが、その中で注目すべき二つの点は、「一統三韓」の意味と、三国統一時点の設定問題だとしながら、私の主張を次のように取りまとめた(金興圭 「新羅統一の談論は植民史学の発明なのか」 377頁)。


①「統一新羅」、すなわち、新羅が三国を統一したという観念は、「林泰輔が発明したものであり、『朝鮮史』はその最初の歴史書」である。新羅の時の「一統三韓」の意識が朝鮮後期の新羅正統論として採択され、今日の統一新羅論として発展したという主張があるかも知れないが、「伝統時代の新羅正統論と林泰輔のそれ」(新羅統一論)とは明らかに違う。
②『東国通鑑』などの歴史書が文武王8年(668、高句麗滅亡)以後を「新羅紀」として独立させた体裁から「明らかに新羅統一の意義を大きく示そうとする意図が感じられる。」 しかし、林泰輔の見解は「羅唐戦争で新羅が勝利した」時点で統一が成されたというもので、前近代の新羅統一論とは異なり、民族主義史学の内容と同じである。(脚注14:尹善泰 「「統一新羅」の発明と近代歴史学の成立」、黃鍾淵編 『新羅の発見』、東国大学校出版部、2008、58~59頁)


こうしながら金興圭は「上記の二つの立論は、まず互いにぶつかり合う。①の主張は林泰輔の『朝鮮史』以前に「新羅〔による三国〕統一」という観念あるいは談論はなかったというものであるのに比して、②の主張は前近代の新羅統一論はあったが、統一時点に対する認識で林泰輔のそれとは異なるというものだからである。それとともに、①の立論は自らの主張を合理化するために不要な概念をさし入れた。一統三韓論(a)と新羅統一論(c)との間に新羅正統論(b)を差し挟んで、bとcが異なるからaとcも同じではないという論法である」としながら酷評した。彼の話通りだとしたら私の論文は完全に矛盾の固まりである。しかし上記の①の立論は「古典文学徒」らしい金興圭の操作である。引用符号「」にある文章は私の論文から引用したものであるが、その主語である「統一新羅」<すなわち、新羅が三国を統一したという観念は>で<  >のところは金興圭が創作して挿んだものである。なぜ人の文章をこのようなやり方で紹介するのか。

私が問題提起した「統一新羅(新羅統一)」という談論は、現在の国史教科書と一般概説書で通用されている新羅の三国統一に関する談論である。これらの本には新羅の三国統一は百済と高句麗を滅ぼした時点ではなく、羅唐戦争を経て新羅が唐を追い出すことによって完成されると述べられている。例えば、国史教科書は「百済と高句麗の滅亡」と「新羅の三国統一」を目次としても分けておいたし、「新羅の三国統一」の項目で羅唐戦争の勝利過程を描きながら、「錦江河口のぎぼルポにて唐の水軍を殲滅したし、平壤にある安東都護府も遼東省へと追い出すことに成功して三国統一を成し遂げた(676)」と記録している。

結局、私が問題提起した「統一新羅」という談論は、百済と高句麗の滅亡のみでなく、<羅唐戦争までも視野にいれて三国統一の完成を描こうとする歴史家の想像>のことを指す。それからこのような統一新羅論がいつから生成されたかを追って、この談論が林泰輔によって始めて発明されたということを主張したものである。金興圭はこのような統一新羅論を「新羅が三国を統一したという観念」で取り替えて、結局、①と②がぶつかり合うようにした。

私が文章を余りに難解に書いて彼が錯覚したのであろうか。私の間違いなのか。明らかにそうではない。後述するが、彼の文章そのものに証拠が多い。今日の「統一新羅論」に対する私の定義は、私の論文で数多く繰り返されている。彼が私の文章を取りまとめた先の引用文でも見られる。②に「林泰輔の見解は「羅唐戦争で新羅が勝利した」時点に統一が成されたというもので、前近代の新羅統一論とは異なる」と金興圭自身も明確に要約しているのではないか!これを①の主語にすると、①と②は互いにぶつからない。

一方、私の論文は前近代の新羅統一論、例えば一統三韓論(a)や新羅正統論(b)は、今日の新羅統一論(c)と異なるし、今日の新羅統一論は林泰輔によって最初提示されたというものである。私の主張を簡単に図解すると、(a≒b)≠cである。すなわち、a、bのどちらもcとは明らかに異なるというものである。なので金興圭が述べたような「一統三韓論(a)と新羅統一論(c)との間に新羅正統論(b)を差し挟んで、bとcが異なるからaとcも同じではないという論法」を繰り広げる必要はまったくない。bとは関係なしにaとcは互いに明らかに異なるからである。
金興圭は私が問題提起した統一新羅論を、なぜ選りに選って「新羅が三国を統一したという観念」で取り替えたのであろうか。その答えは以外と易しい。金興圭自身が「新羅統一論」を「新羅が三国を統一したという観念」だと単純に理解しているからである。だから彼は新羅時代の「一統三韓論」以後、前近代韓国の歴史学伝統と遺産を通じて、すでに統一新羅(新羅が三国を統一したという)の観念が作られていたのに、どうして林泰輔のような植民史観の尖兵がそのような談論を発明したと戯言をするのかと悲憤慷慨したのである。このような確信に満ちた彼の先入観が、私の文章を理解できないものにした第一の原因であった。

ところが、私は金興圭のような主張が出るだろうと、私の論文ですでに予想しておいた。彼が取りまとめた①を見よ。「新羅の時の「一統三韓」の意識が朝鮮後期の新羅正統論として採択され、今日の統一新羅論として発展したという主張があるかも知れないが、伝統時代の新羅正統論と林泰輔のそれ(新羅統一論)とは明らかに異なる」となっているのではないか!

さらにこれは新羅が三国を統一したという観念は新羅時代の一統三韓論から始められたが、またそれが朝鮮時代に新羅正統論として発展したが、そのような新羅統一論は今日の新羅統一論とは明らかに異なると、私がすでに明確に述べたくだりである。もし私が今日の統一新羅論を新羅が三国を統一したという、そういう種類のものとして理解したならば、私は今回の論文を敢えて書く必要がなかった。

このような私の立場を金興圭もすでによく承知している。彼が私の文章を取りまとめた上記の②にその証拠が見られる。「『東国通鑑』などから新羅統一の意義を大きく示そうとする意図が感じられる」という私の主張をありがたくも紹介してくれた。また、彼が書いた「前近代の新羅統一論」という語彙も暗闇を照らす燈台である。「前近代の新羅統一論」は前近代にも新羅が統一したという観念が在ったという私の主張を彼が抽象化した用語である。私はそのような用語を使わなかったが(使ったとしても差し支えない…)、金興圭自身が私の無実を証明してくれている。

論評者の役割は相手の主張を正確に紹介して、その問題点を指摘することである。私の主張をまともに紹介するどころか、なぜ自分の考えを私の文章に塗り替えて私の論文を出鱈目にしようとするのか! 統一新羅論にたいして私と異なる考えをもっていたとしたら、金興圭は私が設定した今日の統一新羅論を紹介して、それとは異なる自分の立場を提示しながら論評を始めるべきであった。そうしたならば、私の主張も示されたし、読者が金興圭の批評を勘檢する余裕もできたのではなかろうか!

 

3. 前近代の歴史書と羅唐戦争

 
林泰輔が羅唐戦争を視野にいれた新羅の統一過程を最初に発明したという私の主張に対して、金興圭は次のように論評した(378~81頁)。


 林泰輔は若干の軍事的衝突以上の「戦争」に触れたことがないし、従って新羅の「勝利」というものも論じられていなかった。(…) 林泰輔は新羅・唐との間の激しい戦争と新羅の勝利および唐勢力の追い出しを意図的に叙述から排除したし、その帰結時点にも触れないまま曖昧に処理したのである。(…)『三國史記』などの伝統的史書と比べてみる際、林泰輔は却って戰後の処理に関する両国間の葛藤と、それによる7年間の本格的戦争を小規模の軍事衝突であるかのように希釈しただけである。(…) 彼〔尹善泰〕が林泰輔の新しい談論だと強調した「新羅が次第に百済の土地を取って占有し、また高句麗の反乱する群れ〔叛衆〕を受け入れた」という件は『三国史記』における文武王14年の記事の一部であり、同書の「金庾信傳」にも同一な内容がある。それのみでなく、この件は朝鮮時代の多くの歴史書に繰り返し収録された。「朝貢・冊封の事大秩序」の中では不可能であったことを林泰輔が新たに捉えたと尹善泰が言い切った内容が、実は前近代の韓国歴史書の共通遺産であったのである。


長たらしく引用したが、簡単に要約できる。金興圭は林泰輔の文章に見られる羅唐の戦争談は『三國史記』にすでに収録されている内容であり、甚だしくはそれより疎かにして新羅の勝利もまともに浮彫りにしなかったというものである。却って羅唐戦争を視野にいれた統一新羅論は『三國史記』以来の前近代韓国歴史書の共通遺産なのに、尹善泰は林泰輔が発明したと戯言をしたという主張である。このくだりを読む際、私は結局、本を閉じてしまった。歴史学概論書を何冊でも読んだ人ならば、このような話は冗談でも言えないだろう。金興圭は歴史がいかに構成されるかを全く知らない。彼には洪尚秀(ホン・サンス)監督の映画「オ! スジョン」をぜひ進めたい。キスの思い出も男女は互いに異なって記憶する。

コリングウッド(R. G. Collingwood)が先述したように、われわれは同じ過去を持っていながら、またそれぞれ異なる過去を持つ。なので過去そのものの知識は歴史家の目的になれない。林泰輔は過去(『三國史記』の記事)を自分の研究に理知的に反映した。それは『三國史記』の過去ではなく、林泰輔自身の現在的過去である。このような意味で過去は現在のある局面であり機能である。

金興圭も先述したのではないか!「林泰輔は新羅・唐との間の激しい戦争と新羅の勝利および唐勢力の追い出しを意図的に叙述から排除したし、その帰結時点にも触れないまま曖昧に処理した」と。そのような林泰輔の現在的過去に注目してほしい。

たとえ、先に私の主張を金興圭の考えと引っくるめたが、くれぐれも「前近代の韓国歴史書」だけでも「共通の遺産」として締め括らないで、『三國史記』の羅唐戦争と『東国通鑑』の羅唐戦争と『東史綱目』の羅唐戦争と林泰輔の羅唐戦争における記述が互いにどう異なるか、連続するようだが、同じようだが、歴史の「亀裂」はないか冷静に眺めてほしい。そのすべてを全部眺めてから亀裂はないと宣言してほしい。

だとしたら、尹善泰は前の論文でなぜそのようなことを示さなかったかと聞きたいだろう。歴史学界では余りに一般的な話であるから、前の論文で私は「簡単に(でも核心は述べた…)」この問題を片付けた。そしたら、金興圭は「韓国民族主義史学の一般的見解を投射した錯視、あるいは「読み込み」として思われる」と、史学界を侮辱した。自分の学際的研究における能力不足は省みず、史学界の一般化、抽象化過程に問題があったが、私がそれに頼ってするりと抜け出たというわけである。そうしながら上に私が引用した内容を並べておいた。

しかし事実は金興圭がむしろ、自分が『三國史記』を読んで「7世紀末の状況と三韓統一談論」と想像(正確に言うと、自分の独創的想像ではなく、今日の統一新羅論に対する学習を経て想像)したものを、『三國史記』を著した金富軾も、また朝鮮時代の歴史家たちも同じく想像したものとして転嫁し、彼らの後に隠れてしまう錯視効果を狙った。これは単に彼が私に加えた言辞を戻してあげようとする言葉遊びではない。私がこう言える明らかで客観的な証拠が残っている。

『三國史記』に記録されている羅唐戦争記事を通じて朝鮮時代の歴史家も、また今日のわれわれも当時の状況が想像できる。これは確な事実である。私が「発明」と言ったものを、無から有が創り出されたものとしては金興圭もまた、見なさなかっただろう。ところが、皆『三國史記』を読んで想像したとして、『三國史記』の撰者や『三國史記』の記事をそのまま収録した『東史綱目』の撰者が私と全く同じく想像したとは言えない。なぜならば歴史家は現在の特殊な局面から過去を眺めるからである。金富軾と安鼎福と金興圭は互いに「異なる国の人であり、異なる文化、異なる時代の代弁者」だからである。

金富軾と安鼎福も「一統三韓」「新羅統一」という語彙を強調したことからわかるように、新羅による三国統一の意義を確かに高く評価した。しかし朝貢・册封の事大秩序に陥没した儒学者であったため、羅唐の対立までも視野にいれて、羅唐戦争の勝利を経て三国統一が完成されたとは想像できなかった。そのような証拠は実に多い。


金庾信は上国(唐)と協力して三国を統一することによって、輝かしい業績と名声を残し、自分の一生を終えることとなった。


 この引用文は『三國史記』の金庾信列伝に出ている、著者の金富軾の史論である。朝鮮成宗代に完成された『東国通鑑』には、この史論が金庾信が亡くなった文武王13年、つまり羅唐戦争が真っ最中であった時点の間に配置されている。ところが、見よ!『三國史記』も『東国通鑑』も羅唐戦争の記事を詳しく年代記で並べたが、むしろそれは眼中に無く、「唐との協力」の中で三国統一が完成されたこととして記述している。だからこそ『東国通鑑』は高句麗が滅亡した文武王8年(668)以後からが「新羅統一」であり、この際から「新羅紀」として独立させたのである。

さらに文武王19年(679)、宮廷を盛大に補修したことに対する『東国通鑑』の史論は、前近代の歴史家たちが羅唐戦争の記事をどう読んだのか、『東国通鑑』の撰者たちが羅唐戦争の記事をなぜそれほど詳しく再収録したかをより明確に示している。


文武王が高句麗と百済を平らげ統合して、一つにしたのは、たいてい太宗が廣く領土を開拓した計略と金庾信が賛助した力があったし、それに付け加えて唐の朝廷で大将に命じ兵士を送って、帰順者は助けて反逆者は討伐した功労がまた、大きかったからである。〔ところが〕もう統一されてからは得意になって贅沢しようとする気が急に生じたし、高句麗の反乱する群れ(叛衆)を受け入れ、百済の故地を占拠しながら敢えて天兵(唐の兵士)に抗った。徳に背き純理に反して大邦(唐)の敵となって貶められたし、非常に恥ずかしいことである。それなのに反省して謝ろうとする態度もなく、驕傲な思いばかりして宮室を高め園囿を拡大した。(…) たとえ、よく太宗の残された功烈を受け継いで領土を取り戻したが、ついに子孫にまで楽にさせ続ける策略には及ばなかった。それからその後では手強い敵が相次いで、新羅の王業は日々衰えていった。〔文武〕王が用心深く畏敬したりせず、自ら怠惰になり驕傲さがそれと同じであったからである(『東國通鑑』卷9、文武王19年、臣等按)


『東国通鑑』の撰者たちは文武王が高句麗の反乱する群れ(叛衆)を引き入れ、百済の高地を占めて唐と戦争を繰り広げたことを、天子の徳に背き純理に逆らった僭越した行動の見本として残したのである。帰順者としての太宗武烈王と裏切り者としての文武王を褒貶し、唐に帰順して反逆者(百済・高句麗)を征伐しえた「統一」と、唐に抗って傲慢となり、羅唐戦争で衰えていった「統一以後」を対比している。先に金興圭は羅唐戦争の勝利を三国統一の完成として見なす談論が、前近代歴史書の共通遺産だと述べた。だが、むしろ朝鮮の歴史家たちは文武王が統一以後、高句麗の残党を引き入れて唐に抗ったため、太宗の統一の手柄さえも台無しにしてしまったと激しく批判している。このように同じ過去であっても互いに異なって認識すること。それが取りも直さず歴史である。

果たして金興圭はこのような明確で客観的な史論があるにも関わらず、高句麗の反乱する群れが『三國史記』文武王何年の記事に出るとか、羅唐戦争に勝利して新羅統一が完成されたという談論が「前近代韓国歴史書の共通遺産」であると相変わらず主張するつもりなのか! 安鼎福の『東史綱目』にも関連する証拠が多いが、これだけでも充分であろう。

ところでここで明確に確かめておくべきことがある。私が伝統時代の歴史学の遺産と談論を取るに足らないものと見なしたという金興圭の意識とその内面である。伝統時代の歴史家たちが羅唐戦争を視野にいれて三国統一の完成を想像できなかったと評するならば、それは彼らに気を配らないで取るに足らないものと見なしたことになるのか。では、これで上記の史論を通じて、彼らが羅唐戦争を新羅の統一過程ではなく、却って統一を台無しにした背徳な行動として見なしたことが明らかになったわけだが、これから金興圭はどうするだろうか。彼はこれから伝統時代の歴史学の遺産を取るに足らぬものとして見なさざるを得なくなったのではなかろうか。

羅唐戦争を視野にいれて三国統一の完成を想像しなかったのは、伝統時代の歴史家たちの限界でも間違いでもない。彼らは自分たちの現在的観点から実に驚くほどの歴史意識を強く表わしている。私がなぜこの文章の冒頭で金興圭が自身の目的のために現在的観点から金富軾から安鼎福に至る伝統時代の歴史家たちを利用し侮辱したと表現したかが、これでわかるだろう。

また逆に林泰輔が羅唐戦争を視野にいれた統一新羅論を最初に発明したという話も、林泰輔を優れた歴史家だと褒めるためにしたではない。金興圭の意識には、それを必ず「われわれ」が先に想像しなければならないといった強迫観念がある。さらにそれが日本帝国主義の尖兵から始められたということが彼にとってはとうてい許されないようである。それがそんなに大したことなのか! 彼には「受容能力」を「創造」より劣るものと見なす社会進化論の気の毒な影が落されている。だからこそ彼は帝国を地域化し、それを植民地と同格に置こうとする、「すべての近代は植民地近代」というモットーがどうしても理解できなかったのである。

 

4. おわりに

 

羅唐戦争に勝利することによって新羅が三国統一を完成したという「統一新羅」の表象は、私たちにあまりに馴染み深く自明なことなので、それの歴史的起源は疑う余地さえないかのように見なされている。しかしこの馴染み深い「統一新羅」の表象は、繰り返すが、近代の発明品である。今日、通用されている「統一新羅」の談論は、百済・高句麗の滅亡からを起点にする伝統時代の一統三韓論、または新羅正統論ではなく、羅唐戦争を経て唐の勢力を追い出した676年を核心的起点にする新羅統一論に基づいている。このような認識は林泰輔の『朝鮮史』(1892)で始めて登場したし、これを翻訳して光武改革期の際、国史教科書の編纂に活用した玄采(ヒョンチェ)などを通じて朝鮮に受容された。

林泰輔は『朝鮮史』巻2第3篇の上古史の目次で「第5章 百済・高句麗の滅亡」と「第8章 新羅の統一」を別途に設けた。このような目次からもわかるように、林泰輔は「百済・高句麗の滅亡」と「新羅の統一」を別個の事件として理解する。林泰輔は新羅の統一が百済と高句麗の滅亡で達成されたのではなく、その後、羅唐戦争で新羅が勝利して(「高句麗の南側国境まで州郡を設置した」)ついに統一の業が成し遂げられたこととして記述している。

そもそも林泰輔が羅・唐の対立を強調する新羅統一論を構想したのは、当時、清国から朝鮮の独立を追い求めた日本の「アジア連帯主義」と密接に結び付いている。唐との対立と、戦争を経て新羅の統一が完成されたと見なす林泰輔の統一新羅論には、清国から朝鮮を独立させなければならないという、当時における日本知識人の捻れた希求が込められている。

最後にまだ触れなかったが、金興圭の批評には私がご感謝すべき、よい指摘もある。私の論文には金澤榮(キ厶・テクヨン)の『東史輯略』が林泰輔の『朝鮮史』を訳述したものと表現したところがあるが、これは確かに間違っている。私の論文での趣旨は、金澤榮の任那日本府觀が林泰輔の『朝鮮史』を通じて受容されたことを強調するものであったが、金澤榮が林泰輔の統一新羅論も受容したかのように述べていて大きな問題がある。私の間違いであることは確かだ。

しかし金興圭がこのような私の間違いを、林泰輔の新羅統一論を受け入れた開花期の教科書があたかも「3件」にもなるかのように、数的に膨らませて見せようとして作為的に誇張したものと批評したくだりを読んで、彼が本当に私の論文を読んだのかという疑問が強くした。

私の論文で金澤榮の『東史輯略』は林泰輔ではなく、玄采のために登場させた歴史書である。既存の研究に金澤榮を近代歴史学の出発と見なす見解があるが、金澤榮と玄采における『朝鮮史』の受容方式を対比して、金澤榮には玄采とは違って近代的歴史認識がなかったことを主張した。私がもし林泰輔の新羅統一論を受容した開花期教科書の数的膨らましを試みようとしたら、『初等大韓歴史』(1908)や安鍾和(アン・ジョンファ)の『初等本国歴史』(1909)を取り上げたはずである。そうしなかったのは、談論の発明や受容は量的問題ではないからである。

「統一新羅」という表象創出は、当時、韓国人の知的・創造的能力が全面的に動員された作業であったばかりでなく、後代大韓民国の政治実験と文化建設にも至大な影響を及ぼした作業であった。特に解放以後、孫晉泰(ソン・ジンテ)によって「統一新羅」という造語が作り出されたし、それを本格的に消費していた70~80年代については稿を改めて準備している。これについても金興圭教授の手酷い忠告をお願いして止まない。 (*)


訳=辛承模

季刊 創作と批評 2009年 冬号(通卷146号)
2009年 12月1日 発行
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