창작과 비평

四大河川、道はある

論壇と現場

 

 

金錫澈 (キム・ソクチョル) archiban@archiban.co.kr

建築家、都市設計者。アキバン建築都市研究院代表、明知大学名誉教授。著書に『希望の朝鮮半島プロジェクト』『汝矣島からセマングムへ』『地方政府の世界化戦略』などがある。

 

 

 

はじめに

振り返ってみれば、私の建築と都市設計人生40年のうち半分以上は、朝鮮半島のハードウェアに関するものだった。1969年に漢江〔ハンガン。ソウルの東西を流れる川〕と汝矣島〔ヨイド。漢江の中州。国会議事堂などがある〕のマスタープランを担当してから今まで、国家のハードウェア改造があるたびに、それに携わってきた。ある時は主役として、ある時は反対案の提案者として、またある時は批判者として介入した。冠岳山〔カナクサン〕にあるソウル大学のマスタープランを担当したときには、果川〔カチョン。ソウル南部の都市〕まで続く産業化大学都市を主張して退けられたが、最初の国家観光団地である普門団地〔ポムン。慶州にある〕は私の立案が実現し、クウェート新都市デザイン国際コンペに当選して都市計画を海外に輸出する先鞭をつけたりもした。芸術の殿堂〔韓国最大の総合芸術施設。約23万平方メートル〕も私の計画と設計を世界と競争して勝ち取ったものであり、ベネチア大学にいたときにセマングム〔全羅北道西側にある干潟〕国際会議をつうじて現政府が少しずつ受け入れ始めていた海洋都市案を提示した。新行政首都が政府案として出てきたときは、その荒唐無稽さにいてもたってもいられなくなり、錦江・セマングム・行政都市連合案を提示した。永宗島〔ヨンジョンド。仁川〕空港が始まった1999年には、空港だけではなく東アジアゲートウェイになる国際都市を作るためにベネチア・北京・ミラノなど国内外で3度の国際会議と展示会を行い、その結果、ミラノデザインシティー造成を提案し、釜山新港建設時には釜山ビジョンプランを作り、大邱〔テグ〕と釜山新港を結ぶ洛東江〔ナクトンガン〕運河を提案した。

40年前に漢江のマスタープランを作ってから、朝鮮半島を流れる川について考えなかったことはなかった。2009年4月、四大河川とセマングムに対するこれまでの研究とアイデアを韓昇洙〔ハン・スンス〕総理(当時)に説明する機会があったのだが、総理は一人で聞くのはもったいないと言って、長官や次官、関係者を集めて国務総理室で説明することになった。韓総理は大統領にも一緒に会いに行こうと言ってくれたが、盧武鉉〔ノ・ムヒョン〕前大統領の逝去による政治的混乱にまぎれて、うやむやになってしまった。

漢江のマスタープログラムから40年、洛東江で20年ほど過ごして、栄山江〔ヨンサンガン〕、蟾津江〔ソムジンガン〕と多島海〔タドヘ〕を愛する者として、四大河川について何か記録しておかねばならないと思った。しかし、最近はミラノデザインシティーに深く関与し、南イェメンの首都アデンの新都市とアゼルバイジャンのバクー新都市などを手掛けるのに忙しく、四大河川については結局沈黙してきた。「夢見る漢江」「錦江・セマングム・新百済」「栄山江・多島海・蟾津江海洋都市」「洛東江運河都市」など、4つの文章に整理しようと着手してはみたものの、体調も悪化し、きちんと進めることができなかった。雑誌掲載をきっかけにこのようにでも整理して、気がかりの種をどうにかしたいというのが、本稿の執筆動機である。

四大河川についての私の考えを整理するにあたっては、ここ7年以上、朝鮮半島のハードウェアに関して人文学者の白楽晴(ベク・ナッチョン)教授と語り合ってきたことが大きな助けとなっており、執筆過程でも助言をいただいた。本稿の「1.漢江マスタープラン――1996~2009」は、中国の都市計画学会長であり清華大学教授の呉良鏞教授からアドバイスをいただいた。「2.洛東江と西洛東江運河都市連合」は韓国土地公社社長とソウル特別市均衡発展本部部長を歴任したイ・ジョンサン社長が多くの研究員を派遣して、ここ半年ほどかけて妥当性を調査してくれた。「3.錦江・セマングム・世宗市」については、リニオ・ブルトメッソ(Rinio Bruttomesso)教授とブルーノ・ドルチェッタ(Bruno Dolcetta)教授などベネチア大学教授たちの助言が大きかった。彼らとは、2回にわたって現場を訪問し、国際会議も共にした。「4.栄山江・多島海・蟾津江 海洋都市」は、洛東江河口堰と栄山江河口堰およびダムを設計し、開城工業団地とKEDO団長を歴任したシム・ジェウォン社長にだいぶ助けてもらった。そして、楸哥嶺構造谷〔チュガリョンクジョゴク。朝鮮半島を東北から西南に横断する谷〕とソウルを結ぶ南北貫通運河については、元山〔ウォンサン〕からソウルへと嫁に来て、京元線〔ソウルと元山を結んでいた鉄道。1914年開通〕と楸哥嶺構造谷の陸路、そして臨津江〔イムジンガン〕を越えてきた筆者の母親から聞いた、あちこちの地理と歴史の話が大きく役立った。

四大河川事業をきちんと進めるためには、少なくとも次の三つの前提条件が必要となる。まず、朝鮮半島の空間戦略に関する一貫した枠組みの中で、韓国の四大河川を考えねばならない。次に、河川と運河を混同してはならない。最後に、朝鮮半島の河川はすべて異なる河であり、四大河川を一つの方法によって解決してはならない。
現在進行中の「四大河川活性化」には、朝鮮半島のハードウェアに対する一貫したビジョンがない。朝鮮半島のハードウェアの軸は河川であるが、朝鮮半島の河川と運河を語るためには、まず過去100年間、朝鮮半島のハードウェアがどのように変化してきたのかを知らねばならない。

先進国では、近代化をなすときにまず河川を整備し運河を建設し、その次に国道や鉄道、高速道路を作り、そうしてから高速鉄道を建設するのが常である。しかし朝鮮半島は、外国勢力が主導して植民地時代に近代化がなされてしまったことから、鉄道と大通りが先に作られ、その後、韓国政府が国道と高速道路を整備し、高速鉄道を敷設する時まで、河川と運河は頭の片隅にもなかった。これまでの四大河川事業は、河口堰を造り洪水を防ぎ、上流にダムを建設して水資源を確保する、といった程度である。河川は朝鮮半島のインフラの僻地となった。

したがって、朝鮮半島のインフラを完成させるために河川をもっと活用することが課題として残っているという主張自体は、間違っていない。特に、朝鮮半島の河川は運河をもたず、河川の現代化をなせずにいた。イギリス、フランス、ドイツはみな、河川を効率的に都市空間に組み込むために運河を設けた。運河は、川と川、川と海をつなぐ。川の届かないところに川を伸ばしたりもする。しかし河川と運河を混同してはならない。河川は川で、運河は運河である。

李明博〔イ・ミョンバク〕大統領が朝鮮半島大運河を主張したのは、その規模と意欲においては朴正煕〔パク・チョンヒ〕大統領のセマウル事業と重化学工業団地の建設に続くものかとも思われたが、その内容において緻密さに欠けていた。そのうえ、漢江と洛東江に5000トン級の貨物船を浮かべ、歴史的・地理的に何の関係もない二つの河をつなげようとする強引さによって、国民の共感を得られなかった。朝鮮半島で可能な漕運は、海から河口をつうじて内陸の都市へと入る小規模なものだ。川と川が繋がる漕運はあり得ないし、意味もない。三方を海に囲まれている国で、洛東江が聞慶鳥嶺を超えて漢江に流れゆくなど、島国のイギリスでテムズ川をマンチェスターやスコットランドへと引っ張っていくことに等しい妄想に他ならない。

幸運にも政府は京釜大運河〔ソウルと釜山を運河でつなぐ計画〕を諦めると宣言し、いまやその代わりとして「四大河川活性化」が推進されている。しかし、大運河のときと同じく今回も官僚と御用学者は方向をつかめずにいる。朝鮮半島大運河であれ、四大河川であれ、その趣旨は朝鮮半島のインフラの軸を河川に戻そうとするものである。この壮大な夢は、確実で包括的な見方と公共の利益に対する献身によって実行されねばならないが、そうできていないのが問題である。

政府の「四大河川活性化」事業は、洪水防止と水資源の確保、水辺空間の確保をつうじて雇用創出を図ろうとするものである。しかし、川底をさらえるのに必要なのは重機であって、雇用を創出するものでないばかりか、河川浚渫が水資源の確保と水質改善の方法になるだろうということも、誤った判断である。そのうえ、洪水防止のために建設された栄山江、錦江〔クムガン〕、洛東江の河口堰は、舟運を邪魔するのみならず洪水防止の役にも立たない。漢江は河口が以北〔38度線より北の地域を指す。北朝鮮〕と接しているため手つかずのままでいたが、漢江よりも他の三大河川のほうがよく洪水になっている理由を知るべきである。テムズ川には満ちたときには閉め、引いたときには開けることのできるテムズバリア(Thames Barrier)があり、このように舟運と効果的な水位調節を兼ねた運河への発想の転換が必要だ。

しかし何よりも重要なのは、「四大河川活性化」が朝鮮半島のどのような空間戦略を根本的な目標とする事業なのかを明確にすることである。

朝鮮半島の南側の川は、すべて西海岸に流れ込む。数千の支流の水が集まり、海へと流れる大きな流れが四大河川である。四大河川に運河が建設されない理由は、水の流れがスムーズに海へと流れ、その河口が生命と水資源の巨大な宝庫だったためである。したがって、運河の必要性はそれほど感じられず、朝鮮半島の川は舟運・漕運に活用されてきたが、陸路と緩やかな補完関係にあった。

近代化・産業化されてからは、物流の多くが鉄道に変わった。大韓帝国と日帝〔日本帝国主義〕下のソウルや釜山、仁川、元山、新義州を結ぶ四つの鉄道ができ、鉄道と鉄道駅を中心に大通りが作られた。朝鮮半島のインフラの根幹は、川ではなく鉄道になったのである。そうして鉄道の駅舎を中心に都市化が進んだ。高麗‐朝鮮朝時代まで川を中心にしていた朝鮮半島のインフラが、大韓帝国と日帝強占期〔植民地時代〕を経て、鉄道駅と大通りをその中軸となり、高速道路の建設後は高速道路のインターチェンジを中心に都市が形成された。昔から、朝鮮半島の主要都市は川辺にあったが、現代の韓国の都市は鉄道駅・高速道路・高速鉄道が中心となり、朝鮮半島の人々の暮らしの根源たる川との関係は断ち切られてしまったのである。柳佑益〔ユ・ウイク〕教授の韓半島大運河構想には、その意味で大きなビジョンがあった。

水資源と都市化のための土地確保、そして海と川の出会う河口流域の創出こそ、四大河川事業の核心とされねばならない。「緑の成長」は、川なしには語ることができない。四大河川周辺は遊び場ではなく21世紀の朝鮮半島の都市空間にならねばならない。ソウルが人口1000万都市になりえたのは、漢江周辺を都市化したからである。
このために四大河川を水資源に使用し、飲料水だけでなく産業用水、工業用水、農業用水、都心の生活用水などを適切に管理できねばならず、より重要なこととしては、河口堰によって流れがとどまり湖化した川を海と繋げ、海と川の中間地帯を回復することである。

没落の道を歩んでいる農村の都市化が川辺でなされるようにすることも、四大河川を活性化する道である。海と川に舟運が可能な水辺空間を作れば、海と川の間に農村・都市回廊が、すなわち中間地帯が形成される。
政府の四大河川事業に問題が多いからといって、朝鮮半島の新しいハードウェアについて考えないことも、責任ある姿勢ではない。繰り返し強調するが、川と運河を混同してはならないし、「四大河川」としてまとめて呼ばれる川がそれぞれ皆異なるという点を念頭に置かねばならない。こうした見方から、四大河川に対する私なりの構想を記しておこうと思う。四大河川に対する原則論は終わりにして、実学的な対策を講じねばならないところに来ている。

 

 

1. 漢江マスタープラン:1969~2009年

漢江は私がマスタープランに深く関わった川である。洛東江、錦江、栄山江とは違って、漢江は全体的に見て世界のどの川にも劣らないほどよく開発されている。豊富な上水源を確保し、本流の都市化に成功した。人口500万人の都市が川を挟んで向かい合う河口近辺は(朝鮮戦争休戦ラインのおかげかもしれないが)生きている。ただ、残念なのは漢江分流を都市化するときに川沿いに道路を作ったことで水辺空間を確保することができなかった点である。川沿いの道路をもっと川から離し、水辺空間を確保しておくべきだった。今後、漢江で問題となるのは支流(支川)であり、その次に休戦ラインで遮られている臨津江との連携を確保することとなろう。21世紀の漢江の宿願は、漢江を海へと流れさせる水辺都市を作ることである。ともあれ、漢江は今更ながら「活用」を試みる対象ではない。この40年間進められてきた漢江プロジェクトを簡単に整理してみよう。

 

1-1. 漢江マスタープラン、1969

1969年にソウル特別市の委託業務で作ったヨイド計画と漢江マスタープランは、去る40年間ほとんど計画通りに実現した。漢江マスタープランは水資源を確保し川辺の土地を創出したのである。漢江周辺と江南〔漢江の南側〕一帯に都市化のための用地を供給し、ソウルの中産層の収入で土地をもつことができるようにすることで、今日の首都圏の中産層が形成された。

 

1-2. 夢見る漢江、1995

漢江マスタープランの作成から30年が過ぎ、漢江一帯をマンション団地にしてしまったことに気付いた。よって、1995年1月1日から5回にかけて朝鮮日報に「夢見る漢江」を連載した。漢江を挟んで500万の人口が向き合っているソウルの核心的な機能を、漢江によって引き出し、再組織しようという案だった。

 

1-3. 漢江中心ソウル21世紀、2000

漢江中心の都市化のためには、漢江を海まで達する運河とする計画が必要である。世界のいくつもの都市が、21世紀の都市の未来を描いた案を2000年ベネチアビエンナーレで、まるで競争するかのように出した。この時筆者は漢江を中心としたソウルの再組織と京仁運河都市を提案した。1969年、漢江マスタープランのときに提案した京仁運河を、単なる運河ではなく「運河都市化」しようという構想だった。

 

1-4. 首都圏都市回廊、2008

2008年、キム・ムンス京畿知事〔京畿はソウルを囲む外郭一体の地域〕の依頼で「首都圏都市回廊」と「炭川・水原・平澤運河都市」設計に着手した。
ソウルの土地不足は深刻である。このままでは世界で最も地価の高い都市になってしまう。需要と供給の乖離を放置しておくわけにはいかない。漢江と西海を結ぶ「第三の道」が必要である。開城-ソウル-水原-仁川を包括する新たなアーバンリンク(urban link)を構想することは、首都圏の都市化用地の不足を解消するためのグランドデザインである。
漢江を「活性化する」ということは、結局、支流をどのように海へと繋げるのかという問題である。平澤米軍基地の位置は海につうじる首都圏第二の道である。米軍基地がもつ地理を共有する案が「炭川・水原・平澤運河都市」である。一言加えるなら、炭川は乾季になると底が見える「乾川」であることから、これを運河化することは、条件のそろった漢江を運河にするという発想とは異なる。

 

1-5. 朝鮮半島貫通運河、2008
漢江の問題は水系の相当部分が以北にかかっている点である。北朝鮮は金剛山ダムを建設し、その水を平和のダムの方に流すのではなく、元山の方に逆流させた。それによって白頭山脈の平和のダムより北側の水は、北側のみに流れるようになった。
10年以内に首都圏は水資源不足に陥る可能性が高い。その対策として、白頭山脈から楸哥嶺構造谷をつうじて首都圏に水を供給する案が考えられる。楸哥嶺構造谷一帯は清流であるために、フランスのミネラルウォーター「エビアン」のようにきれいな水を首都圏の市民に供給することができ、元山から楸哥嶺構造谷をつうじてロシアの天然ガスを引き、安く供給することもできる。これは楸哥嶺構造谷にある曲江(曲がりくねった川)を利用しようというのではなく、楸哥嶺構造谷の地形を利用してミディ運河〔大西洋と地中海をつなぐフランスの運河〕のような、多段階の運河を作ろうということである。ミディ運河の高低差は約800メートルで、楸哥嶺構造谷の高低差は500メートルであることから、十分可能である。『創批』の前号(09年秋号)に掲載された黃鎭台〔ファン・ジンテ〕氏の論考からは、社会科学者のまじめさは伝わってきたものの、地理、工学、都市設計は人文・社会科学とは異なる世界である。私が提案する楸哥嶺構造谷運河は、政府によって主に語られ、私たちのほとんどが想像するような河川を運河化するといった、そんな運河ではない。
そして、私の言う創造的少数とは、西洋の学者の言う創造的少数ではない。南北朝鮮の若者たちが実現する共同体という、創造的集団を意味する。南北分断が解消し、60年という時を経て一つになったとき、出会いと気付きをつうじて新しい創造的集団ができる。その集団は、南北朝鮮の20代の若者の集合である。かれら・彼女らこそ、私の言う創造的集団である。シリコンバレーの創造的少数とは違う。解放〔1945年〕後、韓国の若者たちが大韓民国を建設したように、南北が統一されれば現在の若者たちとは異なる創造的集団が生み出されるだろう。かれら・彼女らはどこに向かうだろうか。ソウルは彼らの都市ではない。楸哥嶺構造谷運河に新都市をつくり、創造的集団をつくろう、となるだろう。南北が統一され、1300年以上もの間ひとつの国だったのに、60年間にわたって引き裂かれていた若者たちが出会うこと、その変化を期待するなら、その背景は以北と以南の分界であり、かつ東海と西海をつなぐ楸哥嶺構造谷運河であらねばならない。

 

 

2. 洛東江と西洛東江運河都市連合

私は、洛東江と洛東江河口で暮らしていた。洛東江のなかで、足を踏み入れたことのない場所はない。漢江マスタープランを進めながら、洛東江と漢江のあまりの違いに驚いた。漢江は河口と分流、そして上流がはっきりしたテムズ川に似ているが。洛東江はロッテルダムから分流が四方に分散するライン川のようである。この違いに気付いたとき、洛東江はそのままにして、運河を作るならその横にしなければならないとの考えが浮かんだ。
漢江は、河口を開放して分流を堤防で囲って都市化し、上流は完璧に保存するという計画に沿って開発され、これをつうじて今日のソウルが可能になったのだが、上流があちこちに広がる洛東江は、手をつけてはならない川である。

洛東江は水源が東西に分かれており、分流と支流が独立しているために、川幅の変化と曲がり具合が激しい。また、まさにそのために、川辺の風景は非常に美しく、水の自然浄化を促している。どこまでも広がるかと思えばまた狭まる洛東江を、土木工事によって運河にするなど不可能なことだ。

三国時代に伽耶と百済と新羅が無数の戦闘を繰り広げたが、洛東江で水戦が行われたという記録はない。舟に乗って入りこみ、闘うことのできる川ではなかった、ということだ。洛東江の支流は川底が岩盤になっているところが多く、浚渫するにも問題が多い。

漢江は上流だけを飲料水源としているが、洛東江はあちこちに飲料に適した水が流れている。その洛東江中上流に、世界屈指の規模を誇る工業団地があり、今なお増設されている。朴正煕大統領の経済建設は偉大だったが、洛東江の工団都市は、持続不可能な経済成長と都市化、産業化の標本だ。

世界の産業がグリーン成長へと転換すれば、大邱や亀尾〔クミ〕の工業団地はみな強制的に閉鎖されるかもしれない。漢江上流にはホテルや博物館もつくってはならないとしたのに、洛東江上流に大規模工業団地が建っている今の状況において、洛東江をどうするというのだろうか。

李明博大統領が朝鮮半島大運河を公約したとき、私は洛東江大運河を考え、その方向に誘導しようとした。洛東江西側に別の運河を作る計画を構想した。「西洛東江運河」は、人の流れとモノの流れを合わせる浄水装置としての運河である。工業団地のもっとも大きな問題は、労働力の供給と排水であるが、労働力がその運河をとおって流入し、排水が運河によって浄化されるといった計画だ。この運河には、ベネチアのように、人々が乗り、野菜や果物を積んで運べる小さな舟だけが行き来できるように構想している。

洛東江西側に運河をつくると、洛東江と運河の間に土地ができる。川辺都市がゆえの美しさと豊かさに恵まれないはずはない。そこに都市と農村の複合体をつくれば、運河と水路をとおって大邱、亀尾、昌原、釜山に新たな都市回廊ができるのである。その水路をとおって、コンテナではなく野菜や果物、マッコリが移動するのである。西洛東江運河は、ベネチアの運河と、ナポレオンも「フランスのモーゼ」として称賛してやまなかったピエール=ポール・リケ(Pierre-Paul Riquet)がつくったミディ運河のようなものである。幅は4~5メートル以下、深さも2メートル以下だ。大邱から釜山新港に行く間に、水運の浄化装置を完璧に備え、かつ人とモノを運ぶことができるようになる。ベネチアやミディ運河を行き来するのと同じくらいの人や物が動ける運河を作ることは、洛東江を新羅と伽耶の川として保存しながら、嶺南〔釜山・大邱など慶尚道のあたり〕一円の土地不足を解消する道にもなりうる。

私が提案する西洛東江運河の位置は、洛東江西南側である。じっさい、韓国土地公社のイ・ジョンサン前社長が先頭に立ち、この地域に運河の可能性がないかと検討作業が行われたことがある。洛東江運河と洛東江の間には、東側は川、西側は運河に挟まれた人の暮らす水辺都市をつくり、嶺南を南北に分ける世界的な都市と農村の複合団地をつくることができる。川をそのままにして運河を掘り、運河によって新たな都市化と産業化を促し、川辺都市では事業を興しながらも洛東江の自然はそのままに保存するという案である。これまでなされた漢江の開発とは正反対のやり方だ。

先々を考えずに大工事をして中身を埋めていこうとする人々は、亀尾や大邱から釜山までコンテナが通れるようにするための土木事業をやりたがっているが、自然と人間との融合や共生を可能にすることが重要である。朱子の実学的な態度よりも、原則の実現として理解せねばならない。西洛東江運河は、洛東江を活性化させるためにつくるものであって、物流と人を運ぶのは最小限にしなくてはならず、洛東江に手をつけてはならない。手はつけないが、海と洛東江を結ぶことは課題となろう。河口の土手を壊して川が浄化されやすい状態をつくり、満ち潮と引き潮がぶつかるようにしてこそ、河口が息づくのである。川において重要なのは、川辺と海と川が出会う河口である。その美しさがどれほどのものかは、暮らしてみてこそ知ることができる。洛東江は、その河口で三国統一がなされ、今日の朝鮮半島を作りだした川である。洛東江を傷つけては、歴史と地理に呪われることだろう。

 

 

3. 錦江・セマングム・世宗市

新行政都市とセマングム問題は、進むことも戻ることもできなくなった難題中の難題だ。しかし、広い視野で見れば、二つの難題を同時に解決できる策がなくはない。まさにそれこそ、錦江・セマングム・世宗市アーバンクラスター案である(「錦江・セマングムアーバンクラスター」『希望の朝鮮半島プロジェクト』創批、2005年、第3部第1章)。

世宗市造成案は大きく三つの方向性で議論された。青瓦台〔大統領官邸〕、司法府、立法府はソウルに残して中央官庁のすべてを移転する新行政都市、青瓦台と外交・安保関連省庁をソウルに残りの行政関連機構を燕岐〔ヨンギ〕-公州〔コンジュ〕へと移転する行政中心複合都市、そして教育・科学を中心に案を修正した世宗市という、三つの案である。世界の政治首都ワシントンDCでさえ、政府機能が占める比率は20%ほどであるが、韓国では人口50万人規模の新都市をつくるとしながらも都市の中身と経営は考えもせずに行政機構の移転が可能かどうかだけが議論されてきたのである。

公共機関を移転するにしても、まず地方の成長動力となるインフラを構築して新産業を興し、それに合わせて行政組織と機関を移転させねばならないのに、事の順序が入れ替わっている。忠清地域の自立のための策には、この地域を跳躍させることのできる画期的な新産業の創出が第一とならねばならない。首都圏の過密解消のためには首都圏人口を分散させる策も必要であるし、大都市中心の発展戦略に替わるものが出てこなければならない。大都市と産業工業団地を軸とした発展戦略とは違って、地方都市と農村に単なる産業公団ではなく都市型産業クラスターを創設するためには、大規模なインフラ投資が必要であり、これまでそのようなことは地方では夢見ることさえできなかった。しかし、世宗市建設を契機に中央政府はすでに莫大な予算を投入し始めており、行政都市の建設費用で忠清地域にソウル・首都圏よりも優れた都市インフラを構築し、亀尾・蔚山・浦項にも匹敵する都市になるのであれば、国家均衡発展と首都圏の過密解消を同時になすことができるのである。

ただ、ここで心に刻んでおくべきは、行政都市であれ教育・科学中心都市であれ、錦江流域の開発だけでは決して経済力をつけることはできないという事実である。セマングムの湾内を活用したセマングムおよび湖南平野一帯の総合的な開発と連携した「錦江・セマングム・世宗市」構想が必須である。

百済の歴史は建国、遷都、滅亡、海外への流浪など、悲しい物語で縁どられている。高句麗の流民たちが漢江流域に国をつくり、錦江流域へと遷都し、200年間続いたが、結局、羅唐連合軍によって滅亡させられ、流民たちは中国や日本へと散っていった。

韓国の歴史で最も美しく抒情的な文明を開花させていた百済の領域が扶余と公州の一帯である。錦江は百済の川だ。百済が滅亡するやいなや錦江も死んだ。統一新羅の後、南海岸に拠点をおく海洋交通が活発になり、錦江も西海岸も徐々に朝鮮半島における役割を失っていった。百済滅亡後1000年のあいだ、錦江は辺境の川とされたのである。中国の改革・開放にともない、朝鮮半島の西海岸の新たな可能性が開かれたが、錦江の役割はまだない。世宗市は百済の悲しい歴史を美しい未来への糧にする方法たらねばならない。百済の領域を再び蘇らせるのであれば、錦江の復活が前提されねばならず、錦江流域の群山、扶余、論山、公州などが周辺一帯の農村とともに新たな都市圏域を形成するように促すべきである。

錦江とセマングム、扶余、群山、全州、益山、金堤、井邑が強力な都市連合をなせば、首都圏と競争できる都市になる。セマングムに関する私の構想の核心は、当時進められていた防潮堤事業を環境運動家らの主張の通り白紙に戻しはしないが、海水の通り道になる湾をつくることで、「環境保護対地域開発」という古びた議論を乗り越えようとするものだった(「セマングムの未来を開く新たな視角」『創作と批評』2002年冬号)。この構想は、翌年「セマングム、湖南平野、黄海都市共同体」(『創作と批評』2003年秋号)で修正・補完され、2年後再び整理しなおして『希望の朝鮮半島プロジェクト』第3部第3章に収録した。その後、セマングムと中国横断鉄道の始発点である連雲港を連結し、列車-フェリー構想を実現するプランを提案したが(李日栄との対談「新たな朝鮮半島空間戦略を探して」『創作と批評』2007年春号)、これは益山に集まった政府・湖南鉄道を世界最大の中国横断鉄道とつなげようとするものだった。セマングムと全州、益山、群山、井邑、金堤がこの中に含まれ、扶余へと続き、邊山半島と古群山群島までを入れた列車-フェリーによって、連雲港を経て中国の中心である中原までをつなげようとするマスタープランである。

錦江流域に新しい都市圏域をつくるためには、錦江を中心に新産業を誘致せねばならない。錦江の復活は錦江を西海岸と朝鮮半島中部地域の物流およびサービスの軸にして、創造的な新産業を興せる人口基盤を造成することから始めねばならない。錦江水系はそのほとんどが群山から流れ込んでおり、萬頃江〔マンギョンガン〕と東津江〔トンジンガン〕水系はセマングムへと流れゆく。錦江水系は水量も豊富で萬頃江、東津江水系は水量が少ない。よって、セマングムは汚染を避けられない。セマングムの汚染を減少させるために錦江水系と萬頃江水系を繋げるべきである。洪水を理由に第五共和国〔1981年3月-1988年2月、全斗煥政権のこと〕が河口堰を建設してから、錦江は死んだ。海を扶余まで引き上げ、錦江とセマングムを貫通させれば、セマングムの汚染問題も解決できるし、船舶が入ってくることも可能になる。錦江河口と萬頃江河口をつなげれば、錦江流域の新都市が海洋都市セマングムへとつながり、新百済という大空間を形成することができ、朝鮮半島は首都圏に劣らないもうひとつのグローバル都市をもつことになるだろう。そのためには、かつての百済の領域を一つにする錦江とセマングムを、まず一つにしなくてはならない。

首都圏への過密によって国家の発展が不均衡になったからといって、首都圏の機能を地方に分散させようというのは、実現されようもないことだ。国土の不均衡発展を解決するためには、複数の都市と農村が一つの都市圏域を形成する都市連合を作り、産業クラスターと連帯して世界経済を相手にできるアーバンクラスターを形成せねばなららない。そうすることによって、首都圏と張り合うことができ、世界的にも競争力をもつような地方の独立的経済圏域化を図る必要がある。すなわち、この策は、いくつもの中小都市と農村の都市連合と産業クラスターを統合するアーバンクラスターの形成であり、これこそまさに地方圏の自立化のための道である。

今や経済単位は国家ではなく都市圏域である。経済力、生活の質など重要な都市指標は、国家や地方ではなく都市圏域単位であらわされている。これまでソウル・首都圏と嶺南の産業クラスター以外は都市圏域がきちんとつくられておらず、嶺南地域も産業クラスターでしかないだけに、大都市および小都市と農村との共生と調和は叶わずにいた。その点では、ソウル・首都圏も本質的には同じである。小都市と農村は大都市に従属し、農村は非自立的な存在となった。仁川、大邱、大田、釜山、蔚山などの広域市中心の経済構造も結局のところ大都市を中心であり、周辺都市と農村を包摂することができないまま、地方圏の没落は加速化している。

世宗市とセマングム海洋都市を契機に大都市と競争できる新概念にもとづく都市圏域のモデルを、錦江・セマングム一帯から作り出さねばならない。ライン川を中心とした都市と農村が産業クラスターを形成したライン同盟や、イリー運河〔ニューヨーク、1835年開通〕流域の都市と農村が都市連合を形成することで内陸の産業クラスターと連結されたニューヨーク・シカゴの都市農村集合体がそのようなアーバンクラスターだと言える。今まで朝鮮半島の都市政策は大都市が周辺都市と農村を併合し従属させるかたちになっており、工業団地の製造業と大都市のサービス産業という二つの軸を基本としてきた。しかし、世界経済の軸が工団の製造業から創造的な都市新産業へと移行するなかで、大都市中心政策の大転換が必要になった。創造的で画期的な発想の転換が必要なのである。

世宗市を世宗市の問題としてのみ考えることは、今より問題を増やすだけであって、良くなることはない。ワシントンDCの政府関連産業は、国会、大統領、司法府、行政府がすべてあるにもかかわらず、20%にしかならない点に留意する必要がある。しかし、世宗市へと行政府を移転させる決定は、国民的合意の結果だった。行政府のかなりの部分が地方に行くという前提のもと、韓国の産業の現段階と能力でグローバル化が可能な産業はどれなのか、また、50万人の人口を受け入れることのできる国際化都市でどのような産業が可能なのかを考え出さねばならない。私たちがこれまで成功してきた産業は、まず初めに鉄鋼と石油化学、二番目が造船と自動車、三番目が電子産業だった。今、そのすべてが世界最強の産業となった。その次の段階への飛翔を可能にするのが、海洋産業と航空機産業である。鉄鋼は1トン当たりで価格がつく。自動車は重さではなくテクノロジーとデザインで価格が決まる。海洋産業と航空産業が結合すれば、電子産業と同じく最高の付加価値をもつことになる。鉄鋼の付加価値の10倍が自動車、その10倍が航空・海洋産業だ。現在の海洋産業と航空産業は、アメリカとヨーロッパが独占している。しかし、アジアの海洋市場と航空市場はそれらとは異なる。アジアの中のみを動く海洋と航空の需要が急速に増加している。セマングム、錦江、公州そして大徳〔テドク〕の科学団地などと、KAIST〔カイスト。Korea Advanced Institute of Science and Technology。先端科学技術の発展のための国立特殊大学〕が結びつき、韓国の10年後を実質的にリードすることになる産業が、海洋産業と航空産業である。セマングムは私が発表してから10年過ぎてその一部が無謀なかたちで採択されているが、世宗市に関しては海洋産業と航空産業の集合共同体についての私の腹案がいつか受け入れられはしないかと確信している。このためには、大統領が決断し、アメリカやフランスなど世界の指導者たちの同意を得なければならない。50万人の人口を受け入れ、そのうち3分の1は外国から労働力を引き入れることによって、アジアの海洋と航空のハブ都市となる中心産業を作らねばならない。特別な計画でなければ、いかなるものも世宗市を成功させることはできない。セマングム水上都市の海洋産業と錦江の歴史都市、大徳・世宗市の航空産業の集合にこそ、世宗市の道がある。

 

 

4. 栄山江・多島海・蟾津江海洋都市

栄山江は一般的にいうところの川ではない。栄山江は海の押し寄せる川であり、洪水被害が最も大きい。朴正煕大統領期に焦って堤防を築き、河口堰によって塞いでしまった。こうして、川と海の中間地帯だった栄山江は、栄山湖と呼ばれる巨大な湖と化してしまった。

栄山江は多島海の海水が流れ込む多島海の川である。栄山江を活かすためには、多島海とともに考えねばならない。栄山江と蟾津江は、多島海の一部だからだ。多島海が無等山へと入り込んだのが栄山江であり、智異山へと入り込んだのが蟾津江である。二つの川の間に無等山と智異山があり、近くて遠い川となった。水系が違うので同じ山に流れつつも、一つは蟾津江に、もうひとつは西南へと流れる栄山江となり、それぞれ別の領域となったが、栄山江と蟾津江は歴史的・地理的に見れば一つの空間である。二つの川をつながねばならない。フランスの大西洋側のボルドーが、ガロン川とミディ運河によって地中海へと繋げられているように、栄山江と蟾津江をダムで上り下りさせ、智異山からつなげねばならない。そうして全南〔朝鮮半島南部〕一帯を栄山江と蟾津江そして多島海に面した巨大な島に姿を変えれば、これは世界のどこにもない名勝地となるだろう。多島海が無等山と智異山の中に流れ込み、両者が繋がれば、海と陸と大地と空の合わさる場をつくることができる。これが「栄山江活性化」の答えである。現在、四大河川事業の主な目的は洪水防止、水資源の確保、水辺空間の開発の三つであるが、そのどれもが栄山江には合わない。栄山江と多島海と蟾津江が無等山と智異山を分けるように連結されさえすれば、新たな世界を切り開くことができる。その後、河口堰を壊せば、ギリシャのエーゲ海南側にあるキクラデス諸島よりもはるかに素晴らしい自然景観を演出することができる。

今、朝鮮半島の半分以上が工団都市になっている。栄山江と蟾津江と多島海が一つになれば、天恵の自然をもった創造的産業と観光が調和しうる。これこそ、栄山江、多島海、麗水エキスポが目指すべき方向である。麗水エキスポで蟾津江と栄山江の連結案を発表し、現場に一緒に行くことを促せば、世界の人々の関心を集める国際行事となるだろう。海と山がともに織りなす世界という、地球のどこにもない光景に世界は感動するだろう。

農村と都市の双方ともに豊かな国こそ強い国、良い国である。参与政府〔盧武鉉政権〕が一貫して採ってきた政策が国家均衡発展であるが、夢とビジョンを現実にする実践戦略に欠けており、焦ってばかりいた。国家均衡発展の要諦は、地方圏の自立とグローバル化であり、このために適した規模の地域圏を設定し、それぞれに合わせた戦略を立てることが必要である。

釜山と大邱が集中的な投資にもかかわらず辺境の都市でありつづけているのは、人材と情報そして金融と権力がソウルに集中していたためである。釜山と大邱のハードウェアは無視できないレベルである。大邱と釜山の自立は、地方分権が実現し地方政府のグローバル化が成功してこそ可能なことであるが、現在、地方自治など到底不可能なのが西南海岸である。西南海岸は釜山と大邱に比べてほとんど投資もされておらず、人口も産業もない砂漠と化している。大邱、釜山の停滞の相当部分は自己責任であるが。西南海岸の停滞は国の責任である。大邱、釜山一円に集中させていた投資は西南海岸一帯にもなされねばならない。しかし問題は、嶺南一円に投じたくらいの投資をするとしても、既存のやり方では何も生み出すことはできない状況になっているという点である。

木浦の大佛産業団地と光州の先端科学団地が嶺南一円の産業都市や首都圏と勝負することはできない。製造業の大部分が中国から抜け出せない状況において、製造業によっては成功を望めない。先端産業を語ったり現在の人口構造によってこの地域にまた別の先端産業中心地を作ろうというのは無理がある。西南海岸に嶺南と首都圏に対して行ったような投資を繰り返すのではなく、黄海が新経済圏域として登場するような、新たな舞台を念頭に置いて、ここだからこそできる特有の産業戦略を立てるべきである。アメリカ西海岸が東部地域で成功した産業を後追いせずに新しい産業を興したからこそ、アメリカはグローバル国家になることができた。19世紀まで辺境だったフランス南海岸がパリ中心の首都圏に劣らず豊かな都市圏域になったのと同じく、差別化した都市戦略が必要である。

朝鮮半島と日本、中国の交易が最も頻繁に行われた時、その交通の中心だったのが西南海岸である。西南海岸は中国と日本を視野に入れねばならない。首都圏よりも中国の東海岸都市群、そして日本列島の西南部の海岸にある都市群と交流せねばならない。中国東部の海岸はアメリカの東海岸にも劣らぬ経済圏であり、日本は世界第二位の経済大国だ。そして、5000万人の華僑もいる。中国東北海岸と日本、そして東南アジアの華僑を相手にした産業を興さねばならない。観光だけでなく、それらが投資したり、来訪し、暮らすようになるような創造的都市をつくらねばならないのである。アドリア海のダルマティア諸島、地中海のコート・ダジュールは、観光地というよりは産業と休養の機能を併せ持つ複合都市となった。西南海岸にも、黄海一円の人口を対象に新産業と共存する新天地を作らねばならない。

西南海岸が産業化されなかったことによって、むしろ大きな機会が残されている。多島海は世界的な自然遺産である。海上公園に囲まれた西南海岸のような海は世界的にも稀で、済州島もそれ自体としては自立可能ではない規模だが、素晴らしい観光地である。多島海と西南海岸をつないで済州島を合わせれば、世界に類を見ない海岸リンクを作ることができる。西南海岸を美しく暮らしやすい場にすれば、中国や日本の人々も来るし、世界の人々も訪ねてくるようになるだろう。

西南海岸一帯に今のような大規模観光団地をまた別に作ることは、未来の可能性までなくすことである。西南海岸にある一つひとつの村をすべて世界文化遺産級にするべきである。珍道〔韓国の南端〕を西南海岸海洋オアシスにして、世界資本と人口を呼び込む計画を提示したことがあるが、地方の政治家と官僚たちによってあいまいにされてしまった。西南海岸に五つのオアシスを作り、海割れの道を開き、多島海と済州島、珍島と莞島が一日の生活圏となるようにし、適切な位置に3~5万人が住めるユートピアを作ることができる。西南海岸でなされるべきは均衡発展ではなく、21世紀の東アジアの新しい状況のなかで、西南海岸の可能性と潜在力を組織化したグローバル化戦略である。

 

 

おわりに

1969年、漢江マスタープランを作成したとき、ヘリコプターに乗って空から漢江を見下ろした。漢江は巨大な湿地だった。よって、漢江が朝鮮半島の中心であるにはあるが、漢江の川辺に歴史都市がなかったということが理解できた。ロンドン、パリ、ニューヨークに行くたびに私の関心が向くのは、テムズ川、セーヌ川、ハドソン川である。ベネチア大学とコロンビア大学で教鞭をとっていたときも、四大河川が頭の中から離れなかった。錦江は最も朝鮮半島らしい川なので、私が暮らしてきた洛東江よりも好きだったし、居を移そうかと考えたこともあった。錦江は空と大地がともに流れる川であり、千年の宵待と挫折のある川である。洛東江が伽耶と新羅以来、高麗と朝鮮朝を経て今日までなお生きている川だとすれば、錦江は千年の間を死んで過ごした川である。栄山江に初めて行ったときには驚いた。海の金剛山が朝鮮半島南端にあったのだ。私は金剛山入口の釋王寺の前で生まれたからか、自然に対する感受性が人並み外れていると思っていたのだが、栄山江と多島海を見て、感激を隠すことはできなかった。錦江を新百済の首都に、栄山江を東アジアのリビエラにすることが、四大河川事業の主要な目標とならねばならない。
朝鮮半島は実質的には朝鮮朝になってから確定された鴨綠江、豆満江以南の半島と江華島、巨済島、珍島、済州島そして多島海をその領域とする。朝鮮半島はイタリア半島のような半島ではあるが、じっさいには島である。鴨綠江と豆満江によって満州大陸と朝鮮半島は別の地になっている。

朝鮮半島は山の国ではなく川の国だ。朝鮮半島の地理と歴史をひとつにする最も大きな要素が川である。以北では鴨綠江、豆満江、大同江が朝鮮民族の暮らしの基盤であったし、以南では漢江、錦江、栄山江、洛東江がそうだった。以北の川は茶山〔朝鮮中期の文人・丁若鏞(チョン・ヤギョン1762-1836)の号〕が『大東水経』で精緻に整理したが、以南の川を研究したもののうち茶山に匹敵するものは未だ誰もできずにいる。韓国学界の悲劇である。

国土企画は人文学、社会科学、自然科学が知恵を寄せ集めねばならない分野である。政治に軸足を置く学者ではなく、さまざまな分野における真の専門家が、四大河川の議論に参加することを願って、本稿を形にした。世の中で何が起こっているのか見まいとすればそれで済むかもしれないが、そうはできないのが常というもの。四大河川は今、道に迷っている。四大河川は他人事ではない。私よりも大きな想像力と実行力をもつ若者たちが、朝鮮半島への愛を共有し、四大河川の保護と活用に参加してくれることを期待しつつ、筆を執った。拙文が李明博大統領のお役にでも立てれば、と心から願っている。(*)

 

翻訳:金友子(きむうぢゃ)

季刊 創作と批評 2009年 冬号(通卷146号)

2009年 12月1日 発行

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