창작과 비평

21世紀に「東アジア共同体」がもつ意味はなにか?

論壇と現場

 

 

 

坂本義和  東京大学校名誉教授。著書に 『地球時代の國際政治』 『地球時代に生きる日本』 『相對化の時代』 などがある。

われわれは今生きている時代を「21世紀」と呼ぶが、それは少なくとも2つの意味をもっていると言えよう。第1は、もはや「20世紀」ではないということ、つまり、2つの世界大戦と世界的な冷戦の時代、換言すれば「世界戦争」の時代が終り、「アメリカの世紀」「パクス・アメリカーナ」と呼ばれたアメリカの一極支配も終わりつつある、という意味での世紀の転換である。第2に、では「21世紀」とはどういう時代なのか。すでに世界では、戦争が局地化し、世界は「戦争地域」と「平和地域」とに分離され、局限された戦争や内戦は「平和地域」の人々によって放置・忘却されがちであり、またそこからの難民は各地で差別・冷遇されている。ところがその半面で、本来は「極小戦争(micro-war)」であるテロリズムが、核兵器などの大量殺戮兵器の拡散と結びつくという最悪事態の危険は、一見「平和地域」である社会を含めて世界各地に潜在している。こうした事態に対応して、もはや「一極支配」ではなく、マルティラテラル(multilateral)な国際関係の「多極化」体制が生れつつあるが、しかしそれが、国際協調を強化していくのか、逆に世界のアナーキー化傾向の再現になるのか、21世紀は不透明な新たな挑戦の世紀として始まっている。
だとすれば、「21世紀」という言葉を口にする時、一体われわれは、どのような世界を創っていくのかを、当面の問題に取り組む時にも、「世紀」つまり今後約100年のパースペクティヴをもって考えなければならない、そういう時代にわれわれは生きているのである。それが、単なるレトリックでない「21世紀」ということの意味であろう。

 

 

21世紀の挑戦

このように21世紀を考えるとき、一つだけ確実な要因がある。それは「グローバル化」という非可逆的なダイナミックスである。「グローバル化(globalization)」にはさまざまな定義があり、「反グローバリズム」の動きも、生活世界の多くの次元で強まっている。しかし、「反グローバリズム」や「ローカリズム」そのものが、グローバルな情報ネットワークや連帯を推進しているという意味では、グローバル化の一面だと言うことができよう。要するに、人間が、グローバルな関わりや影響の中で生きるという傾向を、好むと否とに拘らず、促進するか抵抗するかに拘らず、強めていくことは確かであろう。

問題は、それを非人間的なグローバル化(dehumanized globalization)ではなく、人間性を高めるグローバル化(humanized globalization) とするためには、この挑戦に応えて、いかなる条件を満たしていかなければならないか、である。

第1の条件は、平和のグローバル化である。「平和」というと、普通、静穏や安穏を連想しがちだ。しかし私が他のところでも書いたように、実は「平和」とは、怖しいしい言葉である。イエス・キリストも、預言者ムハンマドも釈尊も、平和の重要さを強く説いているが、それは、それまでの歴史において、いかにおびただしい流血が繰りかえされ。いかに多くの人々の身と心に癒し難い深い傷をのこしてきたかを物語っている。「平和」の背後には、死屍累々の無数の墓標が立っているのだ。「平和」とは、この悲惨な歴史をもつ世界を、人間性豊かな世界(humane world) に創りかえていく闘いのプロセスにほかならない。

第2の条件は、すべての人間が飢餓や貧困から解放され、格差のない公正な資源配分を達成することである。絶対的・相対的な貧困は、人間を惨めにする。だがパスカルの「人間は〔弱い〕葦である。しかし考える葦である」という言葉にならって言えば、「人間は動物である。しかし自分の惨めさを知る動物であり、それを克服しようとする動物である。」それは、根本において、公正と正義の実現の追求にほかならない。

第3の条件は、20世紀に問題意識が生まれながら、解決を21世紀に持ち越した、自然環境とのエコロジカルな共生を達成することである。ここで注意すべき点は、このエコロジカルな共生という課題は、人間の自発的で自由な選択の所産ではないという事実である。とくに18世紀の産業革命以後、人間が自由な存在になり、自由な人間社会が発展するためには、自然環境の支配が不可欠であり自明であるという思想がリベラリズムやマルクシズムの前提となってきた。環境との共生の必要は、自然が地球的に人間に抵抗し復讐することによって、初めて意識化されたのである。したがって、環境との共生を確実にするためには、われわれが近代的価値として自明視してきた人間の「自由」、経済の「成長・発展」という観念を、根本から再考し、生活様式を変革することが不可避である。

第4の条件は、他者を対等な人間存在として認めないような思想、宗教、習俗、偏見などを克服することである。それは人間を、基本的に平等な尊厳の主体として、互いに認め合うという行為であり、私はこれを普遍的な「ヒューマニティ」の思想と考える。それは、文化的な多様性を否認することでは全くなく、まさに根本において平等な尊厳の主体であるからこそ、人間の生き方の多様性を互いに尊重するのである。

以上、私は21世紀のグローバルな挑戦への対応について述べてきた。それが、この会議の主題である「21世紀の東アジアの探求と創造」にとって、どのような意味をもつのかについて、以下に述べたい。

 

東北アジア共同体の条件

「東アジア共同体」という理念や政策提言は、これまでにも数多く述べられてきた。しかし、その大部分は、通例、韓中日を軸とした「東北アジア」の協力組織と、ASEANに代表される「東南アジア」の地域組織化とを連結して構想するものが多い。ところで、その中でとくに韓中日を柱とする「東北アジア」の協調に力点をおく考えは、それ自体としては、きわめて建設的な構想であるが、意識的あるいは事実上、北朝鮮の参入を後回しにすることによって、現実には、しばしば北朝鮮を包囲する体制を築く機能や目的をもつことになりがちである。

そこで、私は、ここでは逆に北朝鮮問題を中心にすえて、一体これをどのように解決することを通じて21世紀の東アジアを創るのか、という課題を考えてみたい。

朝鮮半島の南北分断は、20世紀の冷戦が21世紀に続いている世界で唯一のケースだが、それは米ソ「冷たい戦争」と呼ばれ、ギャディス(John Gaddis)などが超大国中心の視点から「長い平和(long peace)」とさえ呼ぶ対立が、ここでは血みどろの戦闘と同胞殺戮によって深い傷痕をのこしただけに、それを癒すことは容易ではない。この困難を端的に示すのは、近年の北朝鮮の核武装である。これは、分断ドイツにも分断ヴェトナムにもなかった問題である。ここで、われわれは問題を二つに分けて考える必要がある。

 

非核共同体

第一は、核兵器そのものの反人間性である。1945年8月に広島・長崎に投下された2発の原子爆弾が、日本帝国崩壊の重要な決め手の一つになり、朝鮮半島・中国を含むアジアの多くの人々が歓声を挙げたことは、十分理解できる。しかし、2発の爆弾で、即時に約20万の人間を殺し、その後の放射能障害で、さらに数十万の人々を今日に至るまで苦痛と死に陥れているという現実は、単に日本帝国主義の終末だけでなく、世界人類の終末を予示する恐るべき「核時代」の始まりを意味するものであった。それを示すのは、広島・長崎での圧倒的な犠牲者は、もはや多くの戦闘員が残されていなかった日本の軍人ではなく、女性、子ども、老人などの非戦闘員だっただけでなく、植民地から連行されてきた朝鮮の労働者、つまり植民地支配の犠牲者も数多く殺されたということであり、さらに、広島・長崎に米英の俘虜がいることを承知で、原爆が投下されたという事実であった。これは、核兵器が、もはや一国の国民を超えて、ついには全人類を殺戮する力をもつに至ることの前兆だった。

日本の湯川秀樹がこれを「絶対悪」と呼び、バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインが核戦争の絶対的防止を訴え、オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと宣言したのも、核兵器の悪魔的破壊力を考えれば、余りに当然である。したがって、われわれは、北朝鮮であれ、どの国であれ、核兵器の開発保有には絶対に反対の声を挙げなければならないし、その点で、少なくとも韓日の国民が一致協力すること、それが東北アジアに「共同体」を創ることができるかどうかの、第一の試金石である。

 

不戦共同体

しかし、核保有国のすべてが、その核兵器は、攻撃のためではなく、戦争の「抑止」のためだと言って、正当化している。ここに、第2の問題がある。現に、オバマ大統領も、北朝鮮も、その核保有は「抑止」つまり戦争防止のためである、と主張する点では一致している。一方が戦争「抑止」のための核保有を正当化すれば、他方も戦争「抑止」のために核保有を正当化し、こうして「抑止」戦略は核兵器の拡散を「正当化」する。同様に、北朝鮮の核開発に対して、韓国と日本の政府は「戦争抑止のための核の傘(extended nuclear deterrent)」を強化しようとしている。だとすれば、反対し廃絶すべきものは、核兵器そのものであるよりは先ず「戦争」である。われわれが戦争を防止できれば、核兵器が使われる可能性はなくなり、それは兵器庫に保存されるだけで終るはずである。現に、英国は160発、フランスは300発の核弾頭を保有しているが、かつての敵国ドイツの国民でこれを脅威と受け取る人はいないだろう。また英国の核兵器が、冷戦時代のように「ソ連」つまりロシアに対する「戦争の抑止力」として正当化できるかどうかも、現在では不確かである。英国で06年、核兵器積載のトライデント潜水艦の老朽化にたいして、新たに莫大な費用を投じて後続艦を作るべきか否かが議会で真剣な議論になったが、それは、ロジアその他との戦争の可能性が減少したからに他ならない。

だとすれば、今われわれが全力をあげるべきことは、北朝鮮との戦争の可能性を極小化しゼロにすることであり、また、北朝鮮が、戦争の可能性はないと信じるような政治状況を国際的につくることである。まさにそれが「東北アジア共同体」建設の第一歩であり、先ず「不戦共同体(securitycommunity)」の形成なくして「東北アジア共同体」などありえないはずである。

 

安全保障のイニシアティヴ

しかし現実には、この半世紀、北朝鮮は圧倒的に軍事的優位に立つ米国が、その同盟国である韓国と日本に軍事基地を設けて敵対する体制によって、「封じ込め」られてきており、この非対称的な劣勢から少しでも脱却して、対北朝鮮攻撃の公算を減らす道として、核武装をするに至った。その目的は、米国や韓日の脅威に対して、北朝鮮の「国家の安全保障」と「体制の安全保障」とを、より確実にすることにあると考えられる。

したがって北朝鮮の側での戦争への恐怖を和らげ、朝鮮半島での戦争の危険を最小限にまで減らすためには、非対称的な優位に立つ米国と韓日とが、先ず緊張緩和のイニシアティヴをとることが不可欠である。およそ非対称的な対立関係では。弱者は屈従するか、狡猾で不法な手段に訴えるか以外の選択肢はないのであって、関係改善のイニシアティヴは先ず強者がとるのが当然である。具体的には、現在米国は、「先ず北朝鮮が非核化を実行せよ。そうすれば、休戦協定の平和協定への格上げなどを積み重ねて、究極的には米朝関係正常化に進む」と公式に主張しているようだが、それは優先順位が逆であって、先ず米国が米朝正常化や平和協定締結を確実に行うことによって、北朝鮮の非核化を容易にし、相互の軍縮を進めるという道をとるべきである。また戦争を想定して年中行事のように行っている、米韓合同軍事演習は、早急に縮小していくべきである。

そして韓日両国は、米国がこのような政策をとるようにはたらきかけるだけでなく、北朝鮮との武力衝突の可能性を少しでも減らすために、韓日共同して緊張緩和と平和共存の努力を真剣に行うかどうか、それが「東北アジア共同体」を創る意思があるかどうかを示す、第2の試金石である。

 

体制改革のイニシアティヴ

それによって、北朝鮮の国家的安全保障は、より確実なものになるであろう。しかし、それは北朝鮮の現在の体制の安全保障を目的とするものではない。なぜなら、政治体制の安全保障は、エドマンド・バーク以来の「維持するために改革する」という知恵、つまり体制を維持するためにこそ改革を積み重ねるという、政権指導者の自己改革の英知なしには困難だからである。それは、基本的に内発的に行われなければならないことである。

しかし韓国や日本が、北朝鮮のそうした改革を促進し助成するために、また韓日自身の改革のためになすべきこともある。それは、20世紀に経済発展の指導原理とされた自由市場経済原理主義と国家社会主義とのいずれもが破綻したところから出発した21世紀に、いかなるオールタナティヴを創出していくかという課題について、まず韓国と日本が協力しつつ新たな構想を打ち出していくことである。その詳細について、ここで述べることはできないが、基本的なことは次の2点であると言えよう。

第一に、韓日のそれぞれが、社会経済的な格差を最小限にした社会を創ることである。それは「共産主義」のような機械的平等を指向するのではなく、ロウルズ(John Rawls)の「格差原理(difference principle)」に倣って言えば、社会的・経済的不平等の完全除去は不可能だとしても、そこに生じる最底辺の人々の生活水準を、できるだけ引き上げることである。現に、韓日両国のどちらも、また世界の多くの国が、失業やワーキング・プアの問題をかかえ、医療、老人介護、教育費などの分野での弱者保護の切実な課題に当面している。もちろんこれらは、それぞれの国家の課題であるし、社会によって事情や条件が同じではないが、しかし現在では、一国単位では対処できない問題が増えているだけに、韓日が協力して格差なき社会の構想を打ち出すことは、「東北アジア共同体」の創造と結束に不可欠である。また、実際これまでの歴史において、どの国も、通商・通信などを通じて他の国の経験や制度を、直接・間接に参考にし、導入し、相互に影響し合ってきた(例えばアメリカ・モデルや日本モデルの失敗から、現在では北欧モデルが注目されている)のであるから、韓日が協力して格差・不平等を最小限にした社会を創り出す過程は、中・長期的に北朝鮮の政府や国民にも影響を与えるに違いない。

第2は、こうした弱者救済を、それぞれの国内においてだけでなく、北朝鮮への「人道支援」という形で、韓日共同で行うことである。この点で、日本のこれまでの行動は「共同体」創造に最もふさわしくないものであった。02年の日朝ピョンヤン宣言で、 日朝正常化後に実施する「経済協力」の具体的内容について「誠実な協議」を開始すると約束しながら、全く行っていない。また、07年に6者協議で韓米中露4国が重油支援に合意し
たにも関わらず、日本だけは拉致問題未解決を理由に拒否した。もちろん、これは純粋な人道支援ではなく、北朝鮮の核開発を防ぐための代替エネルギー支援であるが、重油が北朝鮮の軍事的のみならず民生用の生産に必要なエネルギー資源であることはいうまでもない。

さらに、より純粋な人道支援について言えば、日本の「拉致家族団体」が、北朝鮮へのコメ支援は軍用にまわされるだけだという理由で、中止を政府に要求したとき、私が「自分の子どもが拉致されたのを非人道的だと怒るのであれば、飢えている北朝鮮の子どもに、日本の余剰米を送るのさえ拒否するのは非人道的ではないか」と強い批判を新聞に書いたところ、激しい非難の書簡を送ってきた。そこで私は、「仮に送った米が軍にまわされるとしても、北朝鮮に米を送らなければ、軍以外の子どもや民間人へまわされる米が、一層減るだけではないか」と述べたのに対して、反論はなかった。

この事例は、日本に「普遍的なヒューマニティ」の観念が極めて乏しいことを示している。この重要な点については更に後述したいが、確かに環境問題により、日本人の間に「地球的」関心が増えてきた結果、”Eco-car, Eco-shopping bag・・・“など、「エコ」という言葉が、プラスのシンボルとして流行していることは好ましい風潮と言えよう。他方、北朝鮮でも、豪雨・土砂崩壊、旱魃などの環境変動や、資源の枯渇やエネルギー資源不足などが、深刻な問題として認識されていることは明らかである、したがって、東北アジアの環境保全の分野でも韓日両国の協力および北朝鮮との協力は欠かせないはずである。

しかし、日本の場合、エコロジカルな関心は、地球温暖化規制に対する各国の自国中心の反応と同じく、環境破壊が自分にもたらす利害の如何を重視する姿勢が顕著であることは否めない。もちろん環境破壊は、こうした近視眼的な受け取り方だけをされているわけではない。例えば。中国で発生する酸性雨や砂漠化を抑制するために、日本の官民の援助がなされてきている。しかし、それも、日本人自身に悪影響を及ぼすからであって、北朝鮮の洪水や旱魃には全く関心を示さない。ここには「東アジア共同体」としての連帯意識は存在していない。

 

国家の境界を超える「共同体」

以上、私は「東アジア共同体」という言葉や観念に、いかに虚構や歪曲があるかを、今日の東アジアの危機の中心である北朝鮮問題に光を当てて、韓日の協力を主題として指摘してきた。だが私が、韓国と日本との協力連帯を論じてきたのは、この両国の協力だけを考えるという趣旨ではない。それに、日本政府の歴史問題への真摯な反省の欠如一つをとっても、日本は韓日連帯のためになすべきことを曖昧のまま残している。しかし私が韓日に焦点をすえてきたのは、もし先ず韓日2国だけでも「共同体」を創ることができれば、それは、更に北朝鮮をはじめとする2国以外の東アジアの国々に、韓日を中核として「共同体」を広げることができるかどうかの、重要な試金石となるからである。北朝鮮との和解を韓日共同で促進し、北朝鮮を東アジア共同体に包容することこそ、韓日共同体の紐帯に他ならない。もちろん、例えば中国の場合、韓日とは異なった条件があるから、韓日の共同体を平面的に広げるだけではすまないことは明らかである。しかし、韓日の共同体が先ず中核をなさなければ、共同体の拡大はおよそ不可能であろう。

ここで留意すべきことは、およそ「地域共同体」の創造は、国家という単位を超え、国家の境界線を超える協力行動が必要かつ可能であるという前提の上に初めて成り立つということである。何らかの形で国家の枠を超えられなければ、新たな「東アジア共同体」の形成は不可能である。ここで私が「共同体」というのは、平和、福祉、正義など、人間としての基本的な価値観を共有して、一国を超えた共同行動をする主体を指す。

だが、国家は本来的に境界を持つことを特質としており、生死を賭して境界線(国境)を守る組織である。だとすれば、国家の枠を超えることは、国家だけでは本来的に限界があり、国を構成する市民が、国境を超えた協力と連帯の担い手となることなしには不可能である。現に、今日のアジアや世界では、国家の枠を超えた市民の交流や協力が、日常的に増している。市民社会の自立性が困難だと言われる中国でも、環境汚染をめぐる市民社会的な自発的活動は、すでに根強く定着しており、また最近の地震災害を契機に市民の自発的協力は大きく盛り上がった。

 

東アジアのアイデンティティ

こうした国家だけではなしえない作業を、トランスナショナルな市民社会やNGOが担っていることは、今日では常識になりつつある。そしてここには、北朝鮮や中国や韓日だけに限らない「東アジア」全体の意味を考える上で、重要な課題がある。

それは、そもそも「東アジア」とは何か、という問題である。普通の答えは、東南アジアと東北アジアの総称が東アジアだということであろう。だが、言うまでもなく「アジア」とは、西洋が非西洋の一部、しかも時とともに拡大する植民地化の対象とするに至った地域を指したのであって、この地域に存在してきた住民に共通のアイデンティティが本来的に存在していたわけではない。確かに中華文明の影響は広範に及ぶが、言うまでもなく、「華夷」秩序は、近代国家からなる「共同体」とは異質である。加えて、この地域の文化的あるいは宗教的多様性は著しい。また「東南アジア」は、第2次大戦中に、米国とイギリスとが戦闘地域を分担した際に、イギリス軍の担当戦域(theater)として名づけられたものにすぎない。そして、「東アジア」「東亜」という名称は、散発的には19世紀末以来の歴史をもつが、しかしヨーロッパ中心の「極東」という呼称が一般的であり、「東亜」が広く国際的に知られるようになったのは、日本によるアジア・太平洋戦争中の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」などのスローガンが契機となったことは否定できない。換言すれば「東アジア」とは、他者による戦争と植民地化の恣意的な産物であり、他者によって一義的に定義された地域ですらない。いわんや、固有のアイデンティティをもった「共同体」では全くないと言って過言ではない。われわれは、相互に異なっており、地理的に近接しているが故に互いに紛争や侵略を続けてきたという歴史を担っている。この地域のナショナリズムは、西洋に対してだけでなく、「アジア」相互に向けた戦争や支配として展開されてきたのだ。

それが、近年になって「東アジア」という名の「地域共同体」が語られるようになったのは、この地域諸国間の経済的関係が密接になったということだけが理由ではなく、より大きな文脈において見れば、地球の随所において、とくに北半球(EU,NAFTAなど)において、国家の境界を超えた密接な関わりが社会に浸透し、世界各地に、もはや国家単位だけではない「地域化(regionalization)」という過程が進んできたことがあり、それへの反射的行動として生れてきたものと言ってよいだろう。

もちろん私は、「東アジア共同体」追求が、反射的であり非主体的であるとだけ言うつもりは全くない。ただ私の提起したいのは、なぜその「東アジア共同体」が主体的に北朝鮮を包含して構想されないのか、また南北朝鮮の統一が民族としての当然の権利であることは疑いないが、もしそれが「民族統一」という新たな国家と境界線の制定だけを目標とするのだとすれば、そこに創られる「共同体」には何かが欠けていないのか、という問いであった。
逆に言えば、それは、「東アジア」に。民族や国家や体制を超えた「人間(humans)」の感覚と視点が弱いのではないか、という懸念である。白楽晴先生は、「南側の連合制案と北側の低い段階の連邦制案に共通性がある」と認めた6・15宣言をさらに進めて、「南北間の国家連合(confederation)」を構想しておられるが、私は、これを南北朝鮮の間だけではなく、例えば中国で、(他の約50の少数民族は別にしても)、少なくとも5族(漢族、満洲族、モンゴル族、ウィグル族、チベット族)について、中国に適した形での独自の連合あるいは連邦(federation)へと広げ、さらに東北アジア全域を包括する「国家連合(union)」のビジョンに広げ、そうしたパラダイム転換の一つの中核として、南北朝鮮の「連合」を意味づけていただきたいと希望している。前述したように、われわれは100年後の東アジアを、今から構想して、今を考えるべきなのだ。

北朝鮮は、最も難しいケースであるには違いない。だが、それ以外の社会についても、国家を超えた平等な「人間」としての感性(sensibility)を基盤とし共有することなしに「共同体」の形成は不可能であろう。

ここで、問題は、私が冒頭に述べた、21世紀における「グローバル化」に帰るのである。21世紀を100年のスケールで考えると、それが、平和で、人間にふさわしい経済生活が可能で、自然環境との共生の下で、すべての人間が人間らしく生きていける世界であるためには、平等な人間としての尊厳が、普遍的に実現されていることが不可欠である。もしわれわれが、この目標達成への意思を共有することに失敗すれば、「多極化」という名のアナーキーに陥った地球世界は、戦争・テロと格差・差別と環境破壊とによって、史上前例のない自己破壊に陥る可能性がないとは、誰も断言できないであろう。現に米国の軍部は、環境破壊が、土地や資源をめぐる激烈な民族抗争を世界各地に暴発させる事態への対策を講じ始めている。この破局を防ぎ、よりよい世界を100年後のわれわれの子孫に残すためには、すべての人間を平等な尊厳の主体と互いに認め合う「ヒューマニティ(Humanity)」の感性と思想が不可欠であろう。

それは、初めに強調したように、個人、集団、民族、文化の多様性を否認するものではなく、逆に、そうした「ヒューマニティ」の普遍性を根本的な基礎とするからこそ、それぞれの多様性を認め合い、また多様性の交じり合い(hybrid) がより豊かな文化を生み出すことになるのである。

 

東アジアを超える「東アジア」

ここで、私が危惧するのは、われわれが言う「東アジア」に、こうした普遍的「ヒューマニティ」の思想の歴史的な素地があると言い切れるだろうか、ということである。私の限られた知識では、例えば日本の言語や文化的伝統の中には、「人類(humankind)」という言葉はあるが、これはいわば生物つまり「種」としての人間全体(human species)を指すことが多い。また「人間性」という言葉も、しばしば「人間の弱さや限界」を指す表現である場合が多く、「人道、人倫」という倫理性の高い言葉でさえ、パターナリスティックで儒教的な階層社会の秩序の擁護という含みが強い歴史をもっている。果たして「ヒューマニティ」に相当する感性や思想は東アジアに存在しているのだろうか。(なお崔元植教授からは、儒教の「仁」、仏教の「慈悲」は「ヒューマニティ」に相当するか、あるいはそれを深化する思想を含んでいるのではないか、というご教示を頂いた。しかし私には、「身分差や性差を根本的に否定した人権感覚」、「戦争の非合法化」。「死刑の廃止」などとして現われている、近代以降の「平等な尊厳の主体として認め合う人間」という世俗化した非宗教的な市民思想とは、微妙な差異があるように思われるのだが、私がさらに考究すべき課題なので、ここでは立ち入らない。)

確かに、日本での「韓流」現象のように、音楽、映画、テレビ・ドラマ、アニメ、漫画をはじめ、さまざまのポップカルチャーをも含む分野などでは、国家の枠を超えた感性の交流が、以前に比べれば、とくに若者の間で格段に進んでいるだろう。しかし、一旦、国際政治や軍事的安全保障の問題になると、依然として国家の枠に閉じ込められ、国家の言葉で語る発想が支配的である。

ここで、一つの点に気づく。「東アジア地域」といった「地域」の観念は、暗黙のうちに「東アジア」でない社会や地域との境界の存在を前提にしている。私には、これは極めて重要な点だと思われる。もし「地域」という観念が、他の「地域」を排除し、時には他の「地域」との競争や抗争や差別を前提にして、自己のイメージを形成するとすれば、また、多くの「地域化」の実例は、境界線の強調と他の地域からの自己防衛とを主眼とする傾向が強いとすれば、それは「ヒューマニティ」の感性や思想とは異質だと言わざるをえない。

これに対して、もしわれわれが言う「東アジアのアイデンティティ」が、普遍的な「ヒューマニティ」を基盤とする多様性の保持と創出をめざすプロジェクトだとするのであれば、「東アジア」は世界に開かれた「地域共同体」となるべきであろう。その意味で、われわれが創ろうとしている「東アジアのアイデンティティ」は、逆説的ではあるが「東アジア」を超えて「人間のアイデンティティ」を強化した世界を創るための第一歩であり、その基盤として「トランスリージョナル(trans-regional)」な市民社会の創出を先ず目指すものだと言うべきである。

ここで参考になるのはASEANであり、ASEANは「リージョナル・フォーラム」で、韓中日に加えて北朝鮮、米国、インドなどの対話の場を提供し、またEUとの連携も保っている。「東アジア共同体」は、これよりさらに大きな規模で、米国を含むAPEC(アジア・太平洋経済協力会議)とも、EUとも連携し、上海協力機構とも重ねてロシアその他のユーラシア諸国と連携し、さらに中東諸国とも交流を深めることができるだろう。私が特に力点を置くべきだと考えるのはアフリカであり、東アジアの一部の国家や企業のようにアフリカを単に石油、レアメタル(稀少金属)などの資源収奪の対象と扱うのではなく、現地の庶民が、われわれと同様に安全な水を飲み、飢餓から解放され、医療と教育を受けるといった、人間の最低限の尊厳を獲得することに、「東アジア共同体」の国と市民が、自分自身の尊厳の問題として取り組むことである。これが「ヒューマニティ」ということの真の意味であり、「東アジア共同体」は、このように自らを外に向って開くことによって、「東アジア」の内部でも、相互に開いた社会を強めることになるだろう。

換言すれば、北朝鮮を包含する「東アジア共同体」とは、紛争や対立が随所に発生する世界に、「人間」の新しい生き方を生み出していく先駆的な使命をもつ市民的連帯の共同体であるべきであり、私は、この会議が、東アジアを超えたアイデンティティを21世紀に創り出す上で貴重な一石を投じるものであることを、心から期待している。

以上に述べたことはユートピア的だという批判もあろう。しかし、初めに述べたように、もしわれわれが21世紀100年のパースペクティヴで考えるならば、私が描いた「東アジア共同体」は、現実、しかも既に過ぎ去った現実になっていることもありうるだろう。

 

 

| 追記 |

これまでの日本政府は、かつての「大東亜共栄圏」への真摯な謝罪を曖昧化し続けたために、「東アジア共同体」を目標として掲げる資格を欠いていた。だが、2009年8月末の衆議院選挙で、半世紀ぶりに「一党支配」を終えて本格的な政権交代が起り、これまでは野党の一部やNGOが提唱するだけであった、東アジアの一員としてのアイデンティティが、民主党を中核とする政府与党の理念として重きをなす方向への転換が始まった。

戦後半世紀、自由民主党という名の保守政党は、一方で反共・反ソ(反中)の冷戦思考から脱却せず、卑屈なまでの対米依存を、あたかも旧「天皇制」に代わる、不可侵の「国体」*のように金科玉条とする構造を惰性的に持続することに甘んじてきた。他方で、アジアへの隠微な優越感を保ち、アジア・太平洋戦争は欧米からのアジアの解放に寄与したという口実で侵略の正当化を試み、またアジア人民への戦争責任を回避して日本の近代史を暗部のない成功物語として描き、新たな国家主義を底流に秘めてきた。

これに対し、鳩山首相は、「歴史を直視する」と宣言し、靖国神社への首相の参拝を行わないことを公約した。またこれまでの日本が「米国に依存しすぎた」ことを認め、「米国との対等な同盟」を唱える半面、「東アジア共同体」の理念を政策目標として掲げている。ここには、明らかに方向転換の姿勢が見え、日本にも、ようやく市民が政権を変えるという、民主主義国としては当然の行動が、異常に遅くではあるが、実を結んだと言ってよい。
こうした変化の基底には、小泉政権以後「グローバル(つまりアメリカン)・スタンダード」に同調した「新自由主義」が、日本社会を経済的・社会的格差によって人間の連帯を随所に引き裂いたことへの市民的抵抗があり、それがある程度の「離米」を促進したことは明らかだが、それが直ちに「東アジア共同体」への志向として結晶するかは、まだ不確定な面がある。それは、鳩山政権が、理念だけではなく、どのような行動をとるかを見なければ断定できない。

例えば、「東アジア共同体」の第一歩として、経済・通貨面での協力や、また地球環境問題についての協力が不可避となることは予想できるが、「東アジアの非核化」を言いながら、北朝鮮にどのようにして共同体の一員として接していくのかという、上記の本報告で私が試金石として提起した問いへの対応の変化は、まだその兆しを見せていないのであり、時を仮す必要がある。

しかし、韓国で多大の苦難と犠牲の上に自力の民主化が達成された後を追って、日本が幸いにして平和裡にようやく政権の民主的変革の道を歩み始めたことは、東北アジア共同体、とくにその核となる韓日共同体の創造について、これまで以上の希望を抱かせる歩みであることは間違いない。(*)

 
季刊 創作と批評 2009年 冬号(通卷146号)
2009年12月1日 発行
発行 株式会社 創批
ⓒ 創批 2009
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