창작과 비평

韓国近代文學研究と植民主義:金哲・黃鍾淵の言説枠に関する批判的検討

論壇と現場

 

金興圭(キ厶・フンギュ)  gardener@korea.ac.kr
高麗大学校国文科教授。著書に『文學と歴史的人間』、『韓国古典文學と批評の省察』、『韓国現代詩を探して』などがある。

 

* 本稿の初稿は高麗大学校民族文化研究院のHK月曜集い(2010.1.11)で発表された。

 

 

1. 議論の出発点

韓国文學研究は1990年代後半の頃からそれまでの時期とくっきりと区別される、そしてそのような差別性を積極的に強調する学問的志向によって主導されてきた。この新しい潮流で批判の対象となった先行段階の問題性は、「民族という認識単位に執着した研究、近代へと向った単線的進歩史観、それからこれらを希望的に結び付けた内在的発展論の構図」として要約できる。これに対する批判は相当な説得力を発揮してあまり論争なしに学界に落ち着き、2000年代の中頃では主流的言説の位相を勝ち取った。これと併行して朝鮮後期文學研究の座標が曖昧となり、近代文學が韓国文學研究の中心として浮かび上がった。それと共に、近代文學の様々な局面は「翻訳された近代」と「植民地近代性」という概念軸を中心に新しい言説空間に再配置されている。

1960年代の後半から80年代まで韓国文学研究を主導した内在的発展論が、90年代に来て深刻な懐疑と挑戦に直面することとなったのは不可避な帰結であった。激しく浴びせられた批判の内容がすべて適切なものではなかったとしても、内在的発展論の20年間余りに渡る貢献とともに、それが産出したり越えなかった問題もまた、軽くなかったからである。これに関する論難は内在的発展論の基本志向に同意する研究者たちの間ですでに80年代から言われていたが、パラダイムの外部に完全に抜け出ない議論では換骨奪胎は成され得なかった。

そのような点で90年代後半以来、韓国文學研究に登場した新しい流れは問題設定の方式に対する根本的な再検討を促す抵抗言説として寄与したところが大きい。批判的言辞の激しさと論理の偏向性が多少在ったとしても、別に問題視されるほどではない。既存の支配的パラダイムが適切に取り扱えなかった問題を浮彫りにし、主流言説の全一的妥当性を問題化するために戦略的強調が過度に駆使されることは、学問的変革の局面ではよくあることである。
ただし、抵抗言説が成長して主流的言説の位相を勝ち取った際、当初の意図とは無関係に新たな責任が生じる。主流言説は該当学問の分野で著しく優れた展望を保有し、議題とその実現の方向を提示できなければならないからである。私が考えるには内在的発展論は、その繰り越しの価値を如何に評価すべきかは別にしても、生きた言説枠組みとしての役割から立ち去ってもう研究史の一部分となった。従って私たちは不可避に90年代後半以来の新しい研究動向のなかに新しい主流言説としての説得力と展望があるかを問うべきである。それと共に、それが抵抗言説として働いていた段階での寛容は、これから幅広い研究を導く言説枠組みとしての力量に対する質問として切り替えなければならない。

本稿はそのような視角から金哲(キ厶・チョル)、黃鍾淵(ファン・ジョンヨン)が90年代後半以来の研究で提出した主な論点と命題を「言説枠」の次元で検討しようとする。もちろん該当時期の韓国近現代文學の研究がすべて彼らの影響力のもとで成されたわけではないし、二人の学者の間で学問的志向の同質性が高いと見なすこともできない。それにも関わらず、彼らを共に論じる理由は先述したところ、内在的発展論と「民族主義的国文学研究」に対する批判で協力の実質が明らかに見えるだけでなく、代案的思惟の主要項目として「他者からの作用」を重んじるという点にある。

彼らの学問的成果を言説枠の次元で考察するということは、特定著述の妥当性を個別研究の次元で扱うよりは、それが含蓄する前提と問題認識の構図に注目し、その凡例的価値を評価するという意味である。敢えて説明する必要もなかろうが、問題を提出する方式は言説の方向と帰結に対する限定を内包し、その一方でその限定性は言説内部者の視野では見えにくい。私が希望するところは二人の学者の言説枠を隣の視角から検討することによって、今日の韓国文學研究がもう一歩を進めうる余白を作り出してみることである。

 

2. 植民主義の特権化

金哲と黃鍾淵は学問的個性と関心事が相当異なる学者である。金東里(キ厶・ドンリ)の「黃土記」に対する解釈でその違いは鋭角的に現れたことがある。金哲はこの作品でファシズムの野獣性と破壊・消耗の美学を読み取り、  金哲 「金東里とファシズム」、『国文学を超えて』(国学資料院 2000)、31~59頁。   黃鍾淵は作中人物たちの「自滅に至る行動は取りも直さずその消耗的な性格を特別に強調する叙事的手続きのため」ファシズムのようなイデオロギーを「むしろ疑いと反省の距離を置いて知覚するようにさせる」と擁護した。   黃鍾淵 「文學の擁護」、『文學ドンネ』2001年春号、396~98頁。  様々な違いにも関わらず、彼らの「約束しなかった協力」が可能であった訳は、80年代までの「国文学」研究に対する批判でその立場と論理構成の方式が類似したり相補的であったからである。そしてそれは前時代の支配的パラダイムを問題化する抵抗言説としての意義が充分にあった。

これから論じようとすることは、そのような知的挑戦が主流的言説枠の位相を持つこととなった時点で避けられない「包括的適用力」の問題である。本章では二人が共通的に堅持する観点をまず見てみ、次の章では黃鍾淵の個別的論理を別途に検討したいと思う。   これは限られた紙面のため金哲の「民族主義─ファシズム」の構図に対する検討を本稿では留保した結果であって、二人の学問的貢献度に対する評価とは無関係である。

金哲と黃鍾淵は民族主義と近代文學がすべて植民地時代の産物であるだけでなく、植民性と切り離しては考えられないと見なす。言い換えると、それらはすべて植民紀元以後のものであり、植民性の発現形態という認識が言説枠の大前提となる。金哲は次のように述べる。

今、私たちが読んで書いて話す韓国語と韓国文學は、日本帝国の植民地期間にその基本的な枠組みが形成さ   れ落ち着いた。植民地が近代であり、近代は植民地である。   金哲 『腹話術師たち:小説で読む植民地朝鮮』(文學と知性社 2008)、9頁。

上記引用で最初の文は自彊運動期(1890~1900年代)の比重を相対的に切り下げしながら植民地時代の変化を強調するための、ある程度の誇張として理解できよう。しかし「植民地が近代であり、近代は植民地」という命題をもって金哲はこのような修辞学的了解の可能性を遮断し、「植民地=近代」という区画を宣言する。尹海東(ユン・ヘドン)もまた、「すべての近代は当然植民地近代である」と述べたことがあるが、   尹海東ほか編 『近代を読み直す』1巻(歴史批評社 2006)、31頁。   韓国史は勿論、世界史を幅広く包括するこの全称命題の論拠や参照された研究の出処が何なのかは定かでない。さて黃鍾淵は同じような考えを共有しながら次のように論じた。

民族文学論の素材はもちろん民族に内在するものであるが、それを直ちに民族文學として認識する技術もまた、民族に内在すると見なすことは検証が必要な考えである。民族文学論は近代的民族を「発明」するすべての政治的、文化的技術と同じように自発的に形成されない。エチエンヌ・バリバールは民族形式の発生を資本主義的世界市場の序列的編成と関連して説明するなかで、「ある意味ですべての近代的民族は植民地化の産物である。それは常にある程度は植民地となったり、あるいは植民地を持っており、時には植民地となると同時に植民地を持った」と述べている。〔出処表示は省略─引用者〕 民族文學の言説を含めたすべての民族のテクノロジーはもしかしたら植民主義の産物であるかも知れない。 黃鍾淵 「文學という譯語:「文學とは何なの」あるいは韓国近代文学論の成立に関する考察」、『ドンアク語文論集』32号(ドンアク語文学会 1997)、473頁。

引用された最後の文で「…かも知れない」と婉曲に表現したが、後日に書いた文章まで参照すると、黃鍾淵の立場は確信に近い。その根拠として挙げられているのがバリバール(Balibar)の言葉であるが、私が見るにこのくだりは不適切に転用された疑いがある。

ウォーラーステイン(Wallerstein)との共著でバリバールは近代世界の民族国家(nation)が台頭する要因を論ずるために、まずマルクス主義的接近方法を批判し次のように論理を進めた。    Étienne Balibar, “The Nation Form: History and Ideology,” Étienne Balibar and Immanuel Wallerstein, Race, Nation, Class: Ambiguous Identities (London: Verso 1991). 以下の内容は87~91頁の要約。   「民族(国家)形成を一国(ないし限られた地域)内の資本主義的生産関係に基づいたブルジョアの企画で説明することはできない。それよりは、ブローデル(Braudel)とウォーラーステインの見解のように、世界体制の周辺部に対する中心部の支配のもとで相互間の競争的道具として民族国家が形成されたのである。しかしこれだけでは不十分である。ブルジョアが選ぶ国家形態は歴史の局面によって異なりうる。民族ブルジョアが産業革命以前であるとしても究極的に勝利したのは、彼らが現存する国家の武力を国内外的に駆使する必要があったからであり、また農民と町外れの田舎までを新しい経済秩序に服属させることで市場と「自由な」労働力の供給処として転換させる必要があったからである。結論的に、民族国家の形成は純粋な経済論理の産物ではなくて、国ごと異なる歴史と社会的変化を伴った階級闘争の具体的結果である。」

黃鍾淵が引用したくだりはこの中で「世界体制の不平等関係のなかで成される競争が民族国家の形成を触発した」という内容の後につけ加えられた修辞学的補充物である。「ある意味では(In a sense)」という表現が明示しているようにそれは事実命題ではなく、世界体制の不平等性が全地球的であるということを強調するための修辞的誇張ないし比喩にすぎない。このくだりを前後の脈絡から切り離す瞬間、「ある意味で」の留保的機能が曖昧となり引用文は事実命題であるかのように誤認されるが、黃鍾淵の論理はつまりこのずれの場に立っている。

植民地を持ったり植民地の地域でのみ民族主義が発生するという主張は、いくつかの国々の事例を見てみても持ち得ない。16世紀から始まる近代植民地経営の歴史で最も先んじていたスペインの場合を見よ。一時期はアメリカ大陸で最大の植民地を保有したスペイン歴史で民族主義の姿は非常に遅れて薄い。スペインは植民帝国の栄光が惨めに墜落した後、1807年にはナポレオンの支配下に置かれたし、1820年代にはアメリカ大陸における殆んどの植民地を喪失した。 レイモンド・カーほか 『スペイン史』、キ厶ウォンジュン・ファンヨンジョ訳(カチ 2006)、246~57頁参照。   そういう中で19世紀の中頃、カタルーニャとエウスカディ(バスク)地域で種族的民族主義の動きが形成されたが、それはスペイン国家の一体性に亀裂をもたらすことであった。 Anthony D. Smith, National Identity (Reno: University of Nevada Press 1991), 59頁.   1821年にスペインから分離されたメキシコは波乱万丈の内戦と外部勢力の侵略を経た後、20世紀始めに来てメキシコ革命(1910~17)に成功した。その前の時代で助成された原型的民族主義(proto-nationalism)がありはあったが、本格的意味での民族主義は革命期およびその後の現象である。   李成炯 『ラテンアメリカの文化的民族主義』(ギル 2009)、64~69頁;Douglas W. Richmond, “Nationalism and Class Conflict in Mexico, 1910-1920,” The Americas, Vol. 43, No. 3(1987)参照.

より注目すべきことは、インド、ベトナム、韓国、中国の比較で示される。これらの地域ではだいたい1900年を前後とした時期に民族主義運動が台頭した。このような現象は民族主義を植民地主義の必然的副産物としてのみ見る場合、全うに説明されない。インド民族主義の主役は長い間の植民体制のもとで成長し植民本国の言語で教育を受けた中間階級知識人たちであった。   ジョ・ギルテ 『インド民族主義運動史』(シンソウォン 1993)、27~68頁参照。    ベトナムの阮朝は1858~85年の間にフランスに服属されたが、その民族運動の初期指導者であるファン・ボイチャウ(1867~1940)は儒教的教育を受け、1885年の勤王運動に参加して失敗した後、民族主義へと転換して、「前近代的な反植民主義闘争と近代的な民族主義運動を繋げる橋梁」   ユ・インソン 『新たに書いたベトナムの歴史』(イサン 2002)、318頁。次の論文も共に注目に値する。ノ・ヨンスン 「露日戦争とベトナム民族主義者たちの維新運動」、『歴史教育』90号(歴史教育研究会 2004)。  の役割をした。まだ植民地ではなかった1890年代に形成されて半植民地状態の1900年代後半まで急速に成長した朝鮮の民族主義者たちは伝統的教育の基盤の上で近代知識を接合したし、この時期における新教育は大韓帝国の「国民創り」と民間領域の自彊運動のプロジェクトのなかにあった。   Yoonmi Lee, Modern Education, Textbooks and the Image of the Nation: Politics of Modernization and Nationalism in Korean Education, 1880-1910 (New York: Garland Publishing 2000)参照.   中国もまた、帝国主義列強に数多くの利権と租借地を奪われたが、特定勢力の植民地とならない状態で民族主義が台頭し、民国革命(1911)、5·4運動(1919)へと進んだ。要するに、民族主義が植民地という子宮のなかで帝国主義の種をもらって懐妊・発育することは必然的で、他の経路は可能でないと定式化することはできないのである。取りも直さずこの点が、近代民族(国家)の形成を世界体制の不均等な力学のなかで捉えるバリバール─ウォーラーステインの観点には同意できても、黃鍾淵の引用と論法には首肯けない理由である。

彼は民族的自己認識と表現を植民性の系譜学のなかで規定しようとする意欲が過剰である余り、文一平(厶ン・イルピョン)の新羅統一要因論を林泰輔の書き取りとして論じたことがあるし、 金興圭 「新羅統一の言説は植民史学の発明なのか」、『創作と批評』2009年秋号、390~93頁参照。    3・1運動の「万歳」行為に対しても驚くべき推論を提示した。つまり、それは1889年に日本帝国憲法が公表される際、明治天皇を祝い称えた「ばんざい(万歳)」から来た可能性が高いし、「ばんざい」はまたヨーロッパ人たちの「フレイ(hooray)」から来たから、「このような万歳意識の基に流れる模倣の心理は、民族国家の理念に対して何か重要な暗示を与えて」いるということである。 黃鍾淵 『卑陋なもののカーニバル』(文學ドンネ 2001)、97~98頁。

これはたまたま生じたしくじりと見なして済むには余りに深刻な誤謬である。「万歳」は漢文文化圏で君王の徳と栄光を祝い称えるため、早い時期から使われた慣用語として、韓国の用例もまた、豊かである。 「三呼萬歲」、「呼萬歲」、「山呼萬歲」、「嵩呼萬歲」の形で構文化した用例だけでも『朝鮮王朝実録』に30回、19世紀始め以前の人物たちの文集に75回が見い出せる。『朝鮮王朝実録』の最初の用例としては、高麗禑王6年(1380) 8月に倭冦が南海岸を襲った際、李成桂(イ・ソンゲ)の部隊がこれを退けて宴を開いたら「兵士たちがみんな万歳を唱えた」という。1909年7月5日には純宗が東籍田に出て麦を切る儀式を行った後、「官吏と百姓が一斉に万歳歓呼をした」ということが『実録』に記録された最後の事例である。太祖實錄 總序、辛禑六年 八月; 純宗實錄2年7月5日参照。 3・1運動は植民地支配に対する抵抗であるばかりでなく、君主に対する忠誠の語彙「万歳」を「朝鮮独立」という共同体主権の熱望に帰属させた決定的な事件でもあった。そのような意味で当時の示威者たちは高宗と共に王朝的秩序に対する歴史の葬礼を行ったわけである。このような脈絡を視野から遮断して3・1運動の「万歳」を「フレイ、ばんざい」の模倣として見る発想法そのものに対して私は心配しないわけにはいかない。黃鍾淵は上記の推理に続いて「個人の場合であれ、集団の場合であれ、主体の欲望は模倣された欲望、結局他者の欲望」であり、これが「民族主体のアイロニー」だとした。 黃鍾淵 『卑陋なもののカーニバル』、98頁。   そのようにすべての反植民運動と民族言説を帝国主義が発信する一方的回路のなかの反射体として、そしてたいていは低級な複製品として前提する言説の枠組みが正当化され得るかも疑わしい。 このような疑問と共に次の見解を吟味してみることも有益であろう。「ヨーロッパの植民地はヨーロッパのイメージに沿って制作されたり、その利益に合わせて造形できるような空っぽな空間ではなかったし、ヨーロッパ国家もまた、特定の視点から海外に投射された自己完結的実体ではなかった。」Ann Laura Stoler and Frederick Cooper, “Between Metropole and Colony: Rethinking a Research Agenda,” Tensions of Empire: Colonial Cultures in a Bourgeois World (Berkeley: University of California Press 1997), 1頁.  

  金哲は同質的な立場でよりくっきりと植民主義に対する民族主義の従属的学習関係と、これに伴う相同性を主張する。「植民地民族主義は自分の敵(帝国主義)から習いながら成長」したし、「習えば習うほど、彼は敵の姿に近づく」 金哲 『「国民」という奴隷』(サムイン 2005)、37頁。 しかないということである。「植民地での近代的知識の生産が植民宗主国に全的に依存するしかないということは不問可知の事実」 金哲 「更生の道、あるいは迷路」、『民族文学史研究』28号(民族文学史学会 2005)、343頁。   だという確信もこれと違わない。このような前提の上で彼は植民地時代の「朝鮮学」が持つ帝国隷属性の必然を主張する。

周時經(ジュ・シギョン)・金枓奉(キ厶・トゥボン)などの語文研究、崔南善(チェ・ナムソン)の朝鮮史、安廓(アン・ファク)・鄭寅普(ジョン・インボ)・申采浩(シン・チェホ)などの国粋、李光洙(イ・グァンス)の民族改造論などの「朝鮮(学)がそれぞれの偏差と個性にも関わらず、「帝国」を経由した近代的な学的体系という「普遍」の媒介を通じて自己を定立していったことは別に驚くべきことではない。(…) 日本帝国主義の多民族主義的支配のもとで朝鮮民族の自己確立とは、帝国の領土のなかで民族の「特殊な」領域を分節(articulate)することで「民族主体」を明瞭(articulate)とすることである。要するに、帝国がラング(langue)なら民族はパロール(parole)なのである。この領域を巡って繰り広げられるヘゲモニーの争闘、それがいわゆる「民族運動」なのである。(…) 結局分節化を通じて確立される民族のアイデンティティーはより根源的な構造、すなわち帝国の存在を不問に付しながらその代価で民族領域の自律性および特殊性が保障されることによって確保されるのである。 金哲 「「欠如」としての国(文)学」、『サイ(間)』1号(国際韓国文學文化学会 2006)、35~37頁。

 植民地下の民族主義や朝鮮学は植民者から習い模倣したところが多く、不可避に混淆的だという見解なら私としても何の異議がない。その混淆性の内歴を隠蔽することで民族主体の純潔さを強弁してきた論法を打破すべきだという主張にも同意する。しかし植民体制に抵抗したり全面的屈従以外の道を見い出そうとした色んな模索が日本帝国主義のみから習い、それと似る方向へとのみ動いたと総体化できるかは疑わしい。金哲は民族主義と民族的自己探求としての朝鮮学(1946年以後の国学)を批判しようとする熱情に駆られた余り、これらを容易く本質化し日本帝国主義の従属的派生物へと詰め込んだのではないか。

金哲の論理が持った一番目の問題は、当代の状況を「帝国日本対植民地朝鮮」という構図としてのみ想定し、その外部領域は真摯に考慮しないという点である。しかし19世紀末以来、世界は朝鮮人たちの思考と言説領域に入ってきていた。 金明昊(キ厶・ミョンホ)『初期韓米関係の再照明』(歴史批評社 2005);チェ・ドクス『大韓帝国と国際環境』(ソニン 2005);長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係』、バク・ファン厶訳(一潮閣 2008);ユ・ソンヒョン「日本帝国の植民支配とヘゲモニー出口」、『社会と歴史』82号(韓国社会史学会 2009)参照。 『血の淚』(1906)でオクリョンとグ・ワンソは西洋文明を勉強するためにアメリカに行き、『無情』(1917)でイ・ヒョンシクとキ厶・ソンヒョンはシカゴ大学へ、キ厶・ビョンウクはベルリンへ留学した。李光洙(イ・グァンス)は立場が彼らより劣っているバク・ヨンチェを日本に留学させた。そのような小説的処理が幼稚であると一笑に付することはできない。上記の行く先が示すものは同時代の人々の意識のなかで描かれた文明的位階の地図であり、そのなかで日本は半周辺部化されている。上海などの東アジア都市は帝国主義時代の多端な力学関係と葛藤を示す空間として開かれていた。各種の媒体を通じて行き来したり暗に流通される外部世界の情報・知識は、総督府の規制にも関わらず、日本の力量と植民主義を相対的視角から眺めうるようにした。『東亜日報』などの新聞は3・1運動以後、3月が来る度にインド、フィリピン、アイルランド、中国関連の記事と論説を通じて朝鮮問題に国際的想像と比喩を与えた。 リュ・シヒョン「1920年代における三一運動に関する記憶」、『歴史と現実』74号(韓国歴史研究会 2009.12)、188~89頁参照。    このように現実の次元であれ観念・想像の次元であれ作用する多者関係の張力を考慮に入れないまま歴史を見ることは、その意図とは無関係に植民─被植民の閉鎖回路のなかで植民主義を特権化する結果をもたらす。

二番目の問題は植民体制のなかで動く行為者たちを帝国日本の支配構図に閉じられた従属的存在としてのみ見ようとする傾向である。近代的分科学問の体系に従う知識の追求が植民地時代に創出されたものであるかも論難の余地は多いが、日本を経由した学問体制の媒介を前提とする場合でもその分科枠のなかで成される知的活動の意味を必ずしも植民体制に従属するものとして限定することはできない。そのような点で先の引用文が周時經(ジュ・シギョン)・金枓奉(キ厶・トゥボン)・安廓(アン・ファク)・鄭寅普(ジョン・インボ)・申采浩(シン・チェホ)を位置づける方式は納得しにくい。知識は抑圧と包摂の力でありながら、同時に亀裂を来たし、離脱し、抵抗する力であり得る。後者の役割と記憶のみを強調した「国(文)学」のナルシシズムを批判するとして、前者の作用を過度に強調することが正当化されるわけではない。

帝国を統合的全一体として、植民地の民族をその個別的実現態として設定することは、帝国主義が特定の局面で取る戦略であり得る。京城帝国大学(1923~45)に設置された朝鮮語文學専攻がそのような計算の一環であったろうことは疑う余地もない。しかしその卒業生である趙潤済(チョ・ユンジェ)・金在喆(キ厶・ジェチョル)・高晶玉(コ・ジョンオク、そしてもともと中国文學専攻であった金台俊(キ厶・テジュン))などと、旧学問世代である周時経(ジュ・シギョン)・鄭寅普(ジョン・インボ)などを含めて、植民地時代の朝鮮学研究者たちが「帝国の存在を不問に付しながらその代価として民族領域の自律性および特殊性を保障してもら」う分節化に奉仕したという論法は非常に疑わしい。それは帝国主義の企画のみがいつも思った通りに貫かれるということを前提してこそ可能な一般化だからである。これを主張するために金哲が「articulate」という英語単語を活用したことは興味深い着想であるが、論理的説得力は希薄である。この単語に含まれた「分節」とは、ある物体の節合された一部分としての「節」に意味の根拠を置いたものであり、「(音節を分けて)はっきりと発音する」という用法もまた、文章あるいは単語の全体性を前提とする。このような含蓄性を用いて「民族主体を明瞭と」することと、「それを帝国の一部として分節・認定」することが合い通じるという論法は、すでに定まった信念を修辞学的に強調するかのような感じを与える。自立的共同体の資格を否認された集団の知識人たちが侮蔑の彼方から自分たちのアイデンティティーを再構成しようとしたことは、植民主義に対する合法的で有効な抵抗の方式であった。「われわれは君たちの一部分ではない」という知的模索を帝国化された地方の「分節、明瞭化」として見なす議論構図には賛成できない。   ここで次のような指摘を吟味してみる必要があろう。「植民地朝鮮の形成、発展、統治で被植民主体たちは単純な背景幕ではなかった。 (…) 日本─引用者と半島朝鮮─引用者との間の相互作用(すなわち、「衝撃」に対する「反応」という図式だけでは理解できない力学的関係)に留意してこそわれわれは日本帝国研究を圧倒してきた、中心部を主とする視角の問題点から避けられる。」 Andre Schmid, “Colonialism and the ‘Korea Problem’ in the Historiography of Modern Japan: A Review Article,” The Journal of Asian Studies, Vol. 59, No. 4 (November 2000), 973.

金哲は日本語と朝鮮語で二重言語創作を行っていた張赫宙(チャン・ヒョクチュ)・金史良(キ厶・サリャン)を論じる論文のなかで「「協力」/「抵抗」の頑固とした二分法的民族主義的観点が捉えられない、植民地での限りなく多様で複雑な生の実像」を把握する眼目を要望した。彼らの二重言語創作に現れるところ、「被植民者と帝国の言語を使う中で発生する無数の異化と混ぜ合わせは帝国の言語的アイデンティティーとその権力を脅かす要因とな」るということである。 金哲 「二つの鏡:民族言説の自画像描き」、『尚虚学報』17号(尚虚学会 2006.6)、164頁。   このような読み方に共感しながら、一方で私は金哲が日本帝国下の朝鮮語運動と朝鮮学研究に対しては同じような水準の省察さえ拒んでいるのではないかという疑問を抱く。私が見るには民族主義の抑圧性に対する、そして民族主義─ファシズムの親縁性に対する確信がここで過度に働いたようである。その否定的性格を批判するために民族主義ないし民族言説を本質化して植民主義の従属的産物として還元することは、非常に明快で強力な論理構図であるに違いない。しかしこのような言説の枠組みは当初の意図とは無関係に植民主義を特権化し、その下にある行為者たちを帝国ヘゲモニーの派生物あるいは副産物として見なす視線を導入する。 私は民族主義そのものを擁護したり、抵抗的・侵略的なものを分けて選別的に肯定しようとするわけではない。私が提案したいところは肯定/否定の本質論から去って、それを言説的現象として歴史化せよということである。この場合、民族主義は「民族というシニフィアンを中心的資源として動員する言説の集合」ほどの意味であろう。その言説が相違した契機のなかでどのように登場し、権威化/道具化され、専有・相続・廃棄されるかを見てみる歴史的視角が緊要である。イム・ジヒョンが民族主義を「二次的イデオロギー」と言ったのはこのような点で非常に注目すべき着眼であるが、持続的な探求が提示されていないので物足りない。イム・ジヒョン『民族主義は反逆である』(ソナム 1999)、9頁参照。 この類の必然論を脱しない限り、歴史の重層性と多面性を捉えることは難しいだろう。

 

3. 「翻訳された近代」と小説/ノベル

近代を植民紀元の時間区画のなかで捉えてその外来性を一方的に強調する歴史認識は、金哲と黃鍾淵の文学史理解でも明らかに示される。彼らが皆李光洙に格別な関心を示すのもこのためである。李光洙は「文學の価値」(1910)、「文學とは何なの」(1916)などの評論と『無情』(1917)を通じて「近代的」文學意識と創作上の実践を示した先駆者であると同時に、そのような文学的開眼と民族言説が植民状況と結んだ授受関係の見本であり、植民地期末期では軍国主義日本に最も積極的に協力した問題的な巨人だからである。そうやって90年代後半以来、李光洙は植民地近代性の典型として再び脚光を浴びながら意味の錯綜した正典の場に配置された。これに対する異見がなくはないが、ここで私が取り上げたいことは彼を含めて「新文學草創期」を扱う方式ないし言説の枠組みの問題である。

黃鍾淵は「文學という訳語」と「ノベル、青年、帝国」という二つの論文で韓国近代文學の成立に関する非常に果敢な認識の枠組みを提示した。その核心は1910年頃から李光洙が首唱し実践した「文學、小説」がそれぞれ「literature、novel」の翻訳語であり、この新しい観念と坪内逍遥(1859~1935)の『小說神髓』(1885~86)などで得た知識を基に彼は過去の小説を拒み、文學の審美的自律性と内面性を重視しながら「帝国的、全地球的近代性の文化に適応」 「ノベル、青年、帝国:韓国近代小説の通国家間始まり」、尚虚学会編『韓国文學と脱植民主義』(ギプンセム 2005)、292頁。    する文學の行路を韓国で開示したということである。

東アジア文化で近代は西洋の言説を受け入れてそれに照らして自分を再認識し再構築する過程と共に始まった。文學という訳語の東アジア的一般化を始め、翻訳、翻案、専有とそのほかの「通言語的実践(translingual practice)」はそのような近代化の必須的な手続きであった。そのような点で、ある中国系アメリカ人学者が近代初期中国の西洋および日本との言語的、文学的接触に関する研究で述べた「翻訳された近代(translated modernity)」は中国の近代だけでなく、日本と韓国の近代にも当て嵌まるものである。  「文學という訳語」、459頁。Lydia Liu参照の脚注は引用で省略した。

ノベルはヨーロッパ帝国主義の膨張によって異なるヨーロッパ産商品と共にヨーロッパ大陸の外へと広がっていった。(…) 小説での近代は文化での近代と同じように一国家の境界内で独自的に成り立たない。それはむしろ国家間の境界を超える文學および文化交換の過程で形成される。 (…) 韓国近代小説を正しく理解しようとするならば、それの真の近代的な性格を正しく理解しようとするならば、それの形成に介入した通国家間(transnational)ジャンル、観念、実践、制度に留意しなければならない。   「ノベル、青年、帝国」、266~68頁。

東アジア文學の近代的転換期に、19世紀西洋の「文學」概念とノベルというモデルが非常に重要な影響源であったことは明らかである。これに関する「通言語的・通国家的」省察、すなわち「国家間の境界を超える文學および文化交換の過程」に対する解明が必要であるという指摘も妥当である。黃鍾淵の言説枠が持つ問題は、この局面の核心である「超えて」(trans-)の作用方式、性格および結果に対する理解が非常に単純で一面的だというところにある。言い換えると、「翻訳された近代」という概念を用いながら黃鍾淵は文化間翻訳の透明性の可否を充分に考慮しないまま論理を展開する。

ここでわれわれは次のような質問を考えてみる必要がある。異なる文化からある言説を受け入れ、それに照らして自分を再認識し再構築するといった際、源泉言説と受容された言説は等価的なのか、いや等価となれるのか。差異が生じるとしたら、その原因は何であり、作用はどうなのか。受容する自我と再認識される自我、それから再構築される自我は認識・実践の場で順次的に待機する存在であるか、それとも互いに干渉し相互作用する勢力であるか。

この問題と関連して私はリディア・リュの貢献が   Lydia H. Liu, Translingual Practice: Literature, National Culture, and Translated Modernity-China, 1900-1937 (1995), ミン・ジョンギ訳、『言語横断的実践』(ソミョン出版 2005)。「translingual」は国訳本のように「言語横断的」と訳したほうが著者の意図に符合するであろう。    格別注目に値すると思う。黃鍾淵はリュの擁護〔translingual practice、translated modernity〕を引用しながらも、彼女の核心前提である「言語的横断の不透明性」には注意しないまま、翻訳を源泉言語が文化の境界を容易く貫通して目標言語に意味の植民地を創出する行為であるかのように論じた。リュはこのようなタイプの翻訳観念がもたらしうる西欧中心的歪曲を批判しながら、源泉言語(source language)を「客言語」として、目標言語(target language)を「主人言語」として切り替えて用いる。

廣く定義すれば、言語横断的実践に関する研究は客言語(guest language)との接触/衝突によって、あるいはそれにも関わらず主人言語(host language)内部で新しい単語・意味・言説・再現様式が生成され流布されて合法性を獲得する過程を調査することである。ある概念が客言語から主人言語に移っていく際、その意味は「変形」されるというよりはむしろ主人言語の現地環境のなかで創案/発明される。このような次元から見ると、翻訳は政治的イデオロギー的闘争の競争的利害関係から自由な中立的事件ではあり得ない。翻訳はつまりそのような闘争が進行される場となる。ここで客言語は主人言語と遭遇するよう強いられ、これらの間の還元不可能な差異の間で対決が成されるし、権威が呼び入れられたり挑戦を受け、曖昧性が解消されたり生成されたりもする。そういう中でついに主人言語そのものに新しい単語と意味が浮上する。   Lydia Liu, 前掲書 60~61頁。

同じような問題意識を持って『小説神髄』を検討してみると、坪内逍遥が求めたところはノベルを模型として新しいジャンルを創出することであるというよりは、当時までの日本小説を「近代的」に改良することであったのを一先ず注目しないわけにはいかない。 彼は序文で自分の意図を次のように明かした。「これからわれらの小説の改良進歩を図りながら結局は西洋小説(ノベル)を凌いで絵画、音楽、詩歌と共に美術〔芸術─引用者〕の最高位置にある輝かしいわれわれの物語を見てほしい。」坪内逍遥『小説神髄』、ジョン・ビョンホ訳(高麗大学校出版部 2007)、17頁。   西欧のノベルと芸術言説はここに招かれた有力なお客であり、逍遥が提出した見解を権威化する源泉でもあった。しかしこの本の内容全体は少量の西欧芸術論、文学論、修辞学書籍から得た知識だけの構成物ではない。逍遥は本居宣長(1730~1801)の「もののあわれ」論と、曲亭馬琴(1767~1848)などの江戸時代の小説遺産を多方面に活用して、新しい小説が志向すべき本質と方法に関する議論を具体化した。 彼は戯作を耽読し、その主な作家の一人である曲亭馬琴が特に好きで、『小説神髄』が出る4年前の1881年頃には「馬琴流」を真似た小説創作を試みたこともある。鈴木貞美『日本の「文學」概念』、キ厶・チェス訳(ボゴ社 2001)、288頁;キ厶・スンジョン「日本近代小説の理論と実際:坪内逍遥と二葉亭四迷を中心に」、『日本学報』49号(韓国日本学会 2001)、306頁参照。   簡明に言うと、『小説神髄』は当時までの日本文學遺産と西欧的ノベル・芸術観念の間で出された緊張と妥協の産物である。逍遥は江戸時代の小説、すなわち戯作体験を滋養分として成長したが、それの再生にのみ留まり得ない変化の欲求に直面した。この欲求がノベルというモデルを呼び入れながら新しい小説の模索へと進んでいったが、その言説構成は戯作の遺産を肯定的であれ否定的であれ参照し、「人情」、「世態」のような再来的語彙を持ってくるしかなかった。   「人情、世態」は朝鮮後期と自彊運動期の小説論でもよく登場した核心概念である。金興圭 「朝鮮後期と愛国啓蒙期における批評の人情物態論」、『韓国古典文學と批評の省察』(高麗大学校出版部 2002);キ厶・ギョンミ『小説の魅惑:朝鮮後期の小説批評と小説論』(ウォリン 2003)参照。 『小説神髄』によく登場するところ、「ノベル=真の物語・小説・稗史」という概念結合は1880年代を前後とした時期の明治文學の場で繰り広げられた言語横断的錯綜の一つの結び目である。近来の『小説神髄』論を代表できる著作で亀井秀雄は、従来の「近代/前近代という二分法」が助長した近代主義的斜視を批判して、より均整の取れた視野を促す。逍遥が「人間の真実を私的な領域で求める「近代的」な文学観」を提唱したという点とともに、「馬琴を批判しながら馬琴に依存していた」   亀井秀雄 『「小説」論:<小説神髄>と近代』、シン・インソプ訳(建国大学校出版部 2006)、109、282頁。   というのが彼の吟味すべき論点である。

このような複合的な関係に接近する方式で黃鍾淵が取る立場は、「客言語─主人言語」の構図ではなく、再来的翻訳論と比較文學の「源泉言語─目標言語」ないし「発信者─受信者」のモデルに近い。次の陳述をもう少し見てみよう。

 ヨーロッパブルジョア階級の社会的、文化的価値との連関の中で成長したノベルは、ヨーロッパ帝国主義と植民主義の歴史を通じてその起源から離れて非ヨーロッパ社会に浸透し適応したし、その結果、その社会の近代的文化内で優勢な叙事様式の座を占めた。中南米、アラビア、アジア諸国でノベルは前ノベル的叙事と衝突したり妥協してそれなりの弁別的形態を産み出しながら時にはヘゲモニーに対する服従を助長したり、時には抵抗を促したりもする叙事的テクノロジーとなった。   黃鍾淵 「浪漫的主体性の小説:韓国近代小説における金東仁の位置」、文学史と批評学会編『金東仁文學の再照明』(セミ 2001)、103~104頁。

上記引用でずっと文法的主語の座を占めた「ノベル」は、韓国文學を含めた非西欧圈文學に対する黃鍾淵の認識枠においても生成の主語となる。「前ノベル的叙事との衝突、妥協」やそれによって生じてくる「弁別的形態」が原論的に言及されたりはするが、韓国および東アジア近代小説に関する黃鍾淵の議論でこのような現象に対する実質的な省察を見い出すことは難しい。彼の言説枠はノベルという放射体が世界各地に浸透・適応してジャンル的植民化を達成するという「ノベル帝国主義」の普遍性に対する方法論的疑いはあまり示さない。

このような立場を取る場合、ノベルは非西欧の近代小説に対して生成の源泉であり、価値の典拠となりやすい。だとしたら、特定の文學で言語横断的実践の結果、ノベルからある距離が発生してもそれは受信者文化の欠陥ないし未熟性の徴表となるだろう。実際、黃鍾淵はそのような視角から接近する。逍遥は作家の超越的全能性が過度に駆使されることをよくないとしたが、これに対して黃鍾淵は「虚構創作における主体の全能さを批判した逍遥の発言は、(…) ノベル型虚構の理解を制約した日本そのものの叙事的、文化的伝統の脈絡で検討す」べき問題点だという示唆を投げかける。日本私小説に対して、「虚構主体の概念が薄弱なリアリズムは西洋ノベルのような形式の達成をどうしても難しくする」 「ノベル、青年、帝国」、270~71頁。   と述べたことも同一な観点である。彼は作家の神的権威を主張した金同仁の小説観を高く評価しながらも、実際の作品では「トルストイのノベルのような長大な虚構的、代案的世界を創造しようとする意志を示すことができな」く、「よく出来てもそれのミニアチュールに過ぎない短篇小説」に長けていただけであるという点を限界として指摘する。 「浪漫的主体性の小説」、105頁。

上記の事例からわれわれはノベル形成論に潜在していた尺度の帝国主義が浮かび上がってくる姿を見る。逍遥の作家権能制限論が創作─批評の原理としてどのような価値を持っているか、日本私小説に如何なる特長や問題性があるかはここで論じる事項ではない。私が疑わしく思うことはそれを限界ないし虚弱性として認知する言説の視線である。ある小説論や作品群に対してわれわれは未熟性と問題を言うことができる。ただしその未熟性を規定する権威の源泉、未熟となった要因を説明する論法の行路をまず見てみることが重要である。文化Aと文化Bの出会いで、ある混淆が発生した際、それの高さはAの尺度によって測定され、やむを得ず発生する差異はAとの比較によって問題性の可否が判定され、この場合の帰責事由はBの伝統に求める視線が果たして妥当なのか。ノベルをAの座に、非西欧小説をBの座に配置する処分の正当性は何に基づいているか。

媒体環境と読者層、そして先行したり競争するジャンル・言説を含めた文學場の力学から離れては小説の内部と外部をまともに理解することはできない。美意識と批評の尺度は超歴史的実在ではなく、このような場で生成され、またそれに作用する文化的構成物である。これにそっぽを向いたまま、生の経験・想像・記憶を疎通する物語方式をノベルという目的論的鋳型の中でのみ扱うならば、多くの小説が窒息することとなるだろう。

顧みると、ノベル中心的思考は1960年代後半から挑戦を受け始めた。ショールズ(Robert Scholes)とケロッグ(Robert Kellogg)は『叙事の本質』(1966)で20世紀中葉の叙事文學研究が無分別にノベル中心的となったし、すべての叙事ジャンルをノベルとの近接度に沿って位置づけ評価する画一主義が盛行すると批判した。経験的叙事と虚構的叙事の多様な様式が時空間的広幅のなかで生成され消滅し互いに交渉したり転移される様相を捉えるべきだというのが彼らの代案的命題であった。   Robert Scholes and Robert Kellogg, The Nature of Narrative (New York: Oxford University Press 1966), 8~9, 211~14頁参照.   それから活性化した叙事学(narratology)が非常に豊かな成果を出したのはもちろんのこと、小説論の進展にも大きく貢献した。西欧の小説史のなかでも特定の時代・群集の作品を「真のノベル」(the Novel)として規範化する思考により小説経験の多様性が歪曲されることに対しての問題提起が登場した。  J. Paul Hunter, “Novels and ‘The Novel’: The Poetics of Embarrassment,” Modern Philology, Vol. 85, No. 4 (May 1988)参照. 

共に注目すべきことは、ヨーロッパ文學に源泉的権威を与える偏向もこのような趨勢のなかで揺らぐことになったという事実である。興味深いことにそのような挑戦の一事例は、日本小説に関する論難から出た。ミヨシは日本近代小説をノベルと言わないで「しょうせつ」(shōsetsu、小說)と称しながら、西欧のノベルを進化論的帰着点および価値評価の準拠とする観点から脱しようとする。 Masao Miyoshi, “Against the Native Grain: The Japanese Novel and the ‘Postmodern’ West,” Masao Miyoshi and H. D. Harootunian eds., Postmodernism and Japan (Durham: Duke University Press 1989).   問題の根源は日本近代小説の性格ないし本質を見せてくれると言えるほど多くの比重を占めている私小説である。ノベルの典型を基準とする際、何か外れたり欠いている変種として見なされそうなこの様式について日本内でも間歇的な論争が続いたし、 日本私小説言説に対する議論としては、鈴木登美『語られた自己:日本近代性の形成と私小説言説』、韓日文化研究会訳(考えの木 2004);樫原修「私小説論と日本近代文學研究の問題」、イ・グ厶ジェ訳、『日本近代文學:研究と批評』4号(韓国日本近代文学会 2005)参照。   英語圏に日本文學が翻訳紹介されながらもその「非正常性」が批評の俎板に乗せられた。 ミヨシはこれに対する弁護可否の次元を超えて批評的視線を脱中心化し、小説はもちろんのこと、中国、アラビア、ウルドゥーなど周辺部の文學をその生成と運動の脈絡の上で見ようと提案する。「もし多様な国の散文叙事様式をノベルという唯一の範疇に帰属させるとしたら、それらの発達過程で歴史的変数が刻印し出した相違な形式資質と力を見逃す」だろうというのがその理由である。 Masao Miyoshi, “Turn to the Planet: Literature, Diversity, and Totality,” Comparative Literature, Vol. 53, No. 4 (Autumn 2001), 285~86参照.   また他の論者は「西欧対非西欧、近代性対伝統」という位階的二分法と、その中に含まれた線形的歴史モデルを払拭しない限り日本文学史の近代性に対する解明は全うではあり得ないと主張する。 Tomiko Yoda, “First-Person Narration and Citizen-Subject: The Modernity of Ōgai’s ‘The Dancing Girl’,” The Journal of Asian Studies, Vol. 65, No. 2 (May 2006), 277頁.  

私が意図するところはこのような発言に頼って韓国と非西欧世界の近代小説を形成論および評価の次元で排他的に局地化しようとすることではない。19世紀の西ヨーロッパとロシアの小説的成就には、帝国主義時代の文明言説が織り成したうわべをすべて剥してもくっきりと残るほどの実質がある。そのような作品と西欧の小説言説が各国でいつ、なぜ、どのように注目され、これによる言語・文化的横断で如何なる解釈・変異・融合が起ったかを文學場の変動力学のなかで見るべきである。われわれに必要な言説枠はこれに対する探求を歴史的でも位階的でも先に限定しないものでなければならない。「literature、novel」という語彙の到着時点以後に視野を制限してそれらの貫通力を暗黙的に仮定する限り、「翻訳された近代」の文学的実像を捉えることは遼遠である。 これと関連して、黃鍾淵は朝鮮後期と1890~1900年代の文学的推移に対して関心が希薄であるという点を指摘しておく。この時期に対する彼の理解はノベル到着以前の韓国文學に虚構的叙事に対する認識と創作・受容の蓄積が極めて薄弱であったという疑わしい仮定に留まっている。彼は朝鮮時代に「小説」が虚構的叙事物という意味として落ち着かないまま「稗說、傳奇、演義、雜記」などと混用されていたが、「19世紀のある時点では国文と漢文両方の虚構的叙事物を一般的に指すようになったと推定される」と述べた。(「ノベル、青年、帝国」、264頁) この推定には何の参照根拠もないばかりでなく、朝鮮後期小説と小説論に関する多量の資料および研究成果とも大きく食い違っている。 

小説は成立と展開過程で絶え間なく周辺の叙事的・言説的資源を吸収し捨てながら流動してきた、なので「そのジャンル記憶が形態の系譜学に局限されない」特異なジャンルである。 Michael Holoquist and Walter Reed, “Six Theses on the Novel, and Some Metaphors,” New Literary History, Vol. 11, No. 3 (Spring 1980).  バフチンの非終結性(unfinalizability)、多聲性のような概念が小説論で格別注目されるのも、そのためであろう。東アジア近代小説の形成・展開に関する研究がノベル中心的視角から脱すべき必要性はここでも確認できる。前近代小説の連続的進化という期待と19世紀西欧小説モデルの移入・土着化という説明方式をすべて折り畳んだ地点からわれわれの問題意識を点検してみるべきではなかろうか。

次に引用するチャン・ロンシ(張隆溪)の言葉は、もしかしたら慣れた原論の繰り返しのように思われるかも知れない。しかしこれを陳腐だと省くほど韓国文學研究の脱植民化が成されたかは疑問である。

私たちは相違の文化的・文学的体系のなかにある基礎資料、関心事、経験から理論的質問が浮かび上がる方式を注意深く見てみなければならない。そうやってこそ、私たちは非西欧に対する西欧理論の単純適用を避けて、理論的次元で西洋が東洋を植民地化する形態のアイロニカルな繰り返しに落ちないことができる。 Zhang Longxi, “Penser d’un dehors: Notes on the 2004 ACLA Report,” Haun Saussy ed., Comparative Literature in an Age of Globalization (Baltimore: The Johns Hopkins University Press 2006), 234頁.

 

4. 結び

近代が持った暴力性と抑圧を超えるための省察が緊要だという金哲の主張に私は全的に同意する。近代文學は他者との出会いのなかで自分を新たに定義し再構成してきた過程だという黃鍾淵の大前提にも異議はない。しかしそのような立場を具体化する言説枠が近代を植民紀元の時間として規定し、植民主義を特権化する傾向に対しては首肯きがたい。と共に、近代東アジア文學の変革に対する理解において文學場の色んな要因が相互作用する動的様相から顔を背けて「literature、novel」概念の貫通で構図を単純化することに対しても疑問を提起する。このような言説枠は文學と社会の大変動が起った自彊運動期(近代啓蒙期)さえ省察の範囲から周辺化して、近代文學の形成・展開を植民地時代の従属的回路のなかでのみ見る弱視ないし視野狭窄症を来たしてくる恐れがある。

世界的水準であれ、特定の植民地状況であれ、物理的優越性を占有した勢力が言説と文化のヘゲモニーを掌握しようとしたし、また少なくなく成功したという点は事実であろう。しかしその成功はたくさんの失敗を覆い隠し、弥縫策で縫いでやって可能であったし、亀裂と転覆の可能性を内包したし、完全に掌握できなかった領域を残すしかないものであった。われわれの研究に使われる言説枠は、このような時空間のなかの行為者と文學様式および表象体を多面的に見ることができるようにする視野を提供すべきである。

民族という巨大主体の必然をもって歴史と文學を見ようとしたことが過去の問題であったならば、最近の10年程における近代史と文學研究の動向は植民体制をパノブティコン(panopticon)のように全能化しながら、また他なる必然の論理に傾いたような感じを与える。内在的発展論が執着した1国史の視野はこのような趨勢のなかで1.5国史(帝国+植民地)の従属的構図へと置き換えられるが、これを歴史認識の拡張と言うべきなのか。帝国主義─植民主義を発光体として置いて被植民者を反射体として仮定する論法が1.5国史の構図と共生しているのではないか。われわれにはこのような疑問を超えるような言説枠が必要である。

 

 

│附記│

本稿を準備する途中で私の先行論文(「新羅統一の言説は植民史学の発明なのか」、『創作と批評』2009年秋号)に対する反論として、尹善泰(ユン・ソンテ)の「「統一新羅論」を語り直す」(『創作と批評』2009年冬号)が発表された。従って本稿の執筆を後回ししてそれに答えようとしたが、いざと読んでみた反論では支離滅裂な言い訳と荒い言葉の外に新しい実質が見い出せなかった。彼の主張に対する答えはすでに私が発表した論文に入っている。なので改めて答弁することは無意味だと思って、もともと予定した本稿を発表することにした。

ただし、読者たちのため論点の骨子と一つ新しい情報をここに提示する。尹善泰はもともと二つの食い違う主張を次のように繰り広げた。「①新羅統一の言説は19世紀末以前の韓国史に存在しなかった。②唐が遼東へと退却した時点(文武王16年、676)に新羅統一が成されたという近代民族主義史学の見解は、林泰輔の論に従ったものである。」この中で①は彼がもうそれ以上主張しないから幸であり、②の実体性が問題として残る。ところが『朝鮮史』のどこにも新羅が唐との「戦争」で「勝利」して「676年」に統一を成就したという内容がないので、尹善泰の主張は韓国民族主義史学を植民主義の系譜に編入させようとする誣告に過ぎない。唐を追い出した時点に三国統一が成されたという見解は最初、申采浩(シン・チェホ)から出たようである。最近、同僚教授が発見して私に知らせてくれた資料であるが、申采浩は1908年『大韓毎日申報』に書いた論説で「新羅文武王が唐兵を撃破して本国統一した功を以小敵大として貶めた」ことに対して金富軾を手酷く批判した。(「許多古人之罪惡審判」、1908.8.8) 年代が明示されてはいなかったが、この内容に符合する時点は、676年であるしかない。申采浩は三国間の争覇を民族内部の戦争として見なし、高句麗の滅亡(668)よりは新羅が唐との戦いで勝って領土の統合的支配を達成した時期に〔不完全でありながらも〕統一が成し遂げられたと見なしたのである。尹善泰は金澤榮の『東史輯略』を『朝鮮史』の訳述だとも述べたのだから、今回は申采浩を林の系譜に入れるだろうか。 (*)

訳=辛承模(シン・スンモ)
季刊 創作と批評 2010年 春号(通卷147号)

2010年3月1日 発行
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