창작과 비평

「抱擁政策2.0」に向けて

特集 | 3大危機を乗り越え、3大危機論を乗り越えて

 

 


白樂晴(ペク・ナクチョン)paiknc@snu.ac.kr
文学評論家。ソウル大学校名誉教授、韓半島平和フォーラム共同代表。最近の著書として『どこが中道で、どうして変革であるか』『白樂晴会話録』(1~5)『統一時代における韓国文学の生きがい』などがある。

 
 
 

1. はじめに

 

「抱擁政策2.0」という表現は、去年9月の和解相生の場シンポジウムで「抱擁政策2.0バージョンが必

 

要である」というタイトルで発表した際に、初めて使用した。  資料集『転換期にいる韓半島、統一と平和の新しい模索』和解相生の場、2009.9.2.この時は、要旨文だけを提出し、口頭発表を行った。(この文の韓国語原文では 「包容政策 」となっている。日本では「抱擁政策」と通用されているので、ここではそれに従う。--訳者)   新年に入っては、韓半島平和フォーラム第5次討論会で「「抱擁政策2.0」そして、市民社会の役割」という発表後、その内容を補足した。 資料集『2010年韓半島の情勢展望と市民社会の役割』韓半島平和フォーラム、2010.1.12. 本稿は、上記の会で行われた議論を考慮し、新しく書いてみたものであるが、この討論に共に参加してくださった方々から、様々な助けをいただいたことは、改めて言及する必要もないほどである。

2回目の報告の際に、「抱擁政策2.0」に「」(かぎカッコ)を付けたが、これは、この「2.0バージョン」という言葉がパソコンの用語から借りた一種の修辞的な表現である上、「抱擁政策」という用語自体も、必ずしも正確に当てはまる表現ではないと考えたからである。本来、この単語は、冷戦期のアメリカ外交が、ソ連もしくは中国に対する敵対政策から、対話と交渉政策へ転換する際に使用した「engagement policy」の韓国語翻訳に該当する。この政策は、対北関係においても、金大中大統領の「太陽政策」が出帆する前に、クリントン行政府により、(間欠的ではあったが)採用されていた。ところが、これを「抱擁政策」として翻訳した際に起こり得る主な問題点は、片方がもう1つの片方を一方的に「抱きしめる」という意味として、誤解されやすいという点である。 日本語では、「包容政策」をはじめから「抱擁政策」と訳される場合もあるが、むろん、強者が弱者を一方的に、排除してから交渉相手として認めてやることが、一種の「抱きしめる」という意味で考えることも可能である。 相互的な交渉に出るという engagementの本来の意味が歪曲され、その結果、吸収統一論も、北の同胞を抱きしめるという意味として「抱擁政策」とされる。   たとえば、上記の和解相生の場シンポジウムで、「北韓同胞救出」を名分に、一種の吸収統一論を展開した朴世逸教授の報告題目は、「韓半島危機の本質と先進化抱擁統一論」であった。

似たような例として、「非核・開放・3000」も、北が非核化を達成すれば、韓国が北朝鮮を抱きしめるという意思を込めた新しい抱擁政策であるという主張も可能である。   このような誤解と乱用を避けようとしたら、「相容政策」もしくは、「相従政策」として翻訳を変えるか、「対話政策」「交渉政策」といった意訳を用いることが良いかもしれない。しかし、本稿では、便宜上、耳になれている、「抱擁政策」という言葉を継続して使用することにした。

翻訳上の問題の他、特に留意すべき点は、本来の抱擁政策がそのまま統一政策ではないという事実である。アメリカがソ連または中国と交渉(engage)するとした際には、当然のことながら、それは、相手との統一(unification)や統合(integration)を求めたわけではない。しかし、南北間においては、究極的な再統一のための手段としての抱擁政策になるという点が、我々が留意すべき韓半島の特殊な事情である。

こうした韓半島式の抱擁政策の「1.0バージョン」が、とりあえず完成された形態が金大中政府の太陽政策であり、2000年6月の初の南北首脳会談をきっかけに、本格的な軌道に乗ったことが、本稿の大前提である。これに、和解相生の場シンポジウムにおいて、いくつかの反論が提示されたこともあり、韓半島平和フォーラムの報告ではより詳細に論じ、なお、本稿でも再論するつもりである。ところが、一時期停止状態にあった金大中―盧武鉉時代の抱擁政策が再起動されることになっても、これが過去への単なる復帰になれないし、言い換えれば、「2.0バージョン」のような画期的で刷新された内容であるべきという点においては、幅広い原則的な同意があると思われる。

むろん、具体的な内容に入ると、様々な異見が蘇るのは当然のことである。私自身の立場を、前もって明確にしておくと、「2.0」の新しい内容が、何より南北連合建設を向けた意識的な実践であるとともに、「市民参与型統一」の過程に対する確固たる認識を盛り込むべきであるということである。このことは、これから、本論を通して論証していく主題であるが、ここでは、まず、「市民参与型統一」という表現が、しばしば巻き起こす誤解や疑問に対して、少し説明しておくことにしたい。   私自身がこんな話を色んな場でしてきて、文章でも発表してきたが、最近の著書『どこが中道で、どうして変革であるか』(チャンビ、2009)においては、特に、「序章:市民参与統一過程は、安寧であるか」、第1章「「5月光州」から市民参与型統一へ」、第4章「北の核実験以後:南北関係の「第3当事者」として南側の民間社会の役割」及び、第8章「2007南北首脳会談以後の市民参与型統一」を参照していただきたい。

まず、「市民参与型」とする場合の市民は、市民団体の活動家に限定されないことはもちろん、狭い意味の市民社会ではなく、民間企業も含まれている広い意味としての市民社会を統一過程に参加する主体として設定していることを強調しておく。しかも、政府の核心的な役割を否認することでもない。ただ、南北間の和解、協力及び統合努力を政府だけに任せるのではなく、民間が積極的に介入すると同時に、政府の統一政策に民主市民としての直接間接の影響力を行使することを意味する。

だからといって、北側に市民参加がないのに、片方だけを根拠に「市民参与型統一」を語ることは可能なのか、しかも南側の民間社会自体も、「第3当事者」とすることはやりすぎることではないか、などの質問が相次ぐ。北に南のような市民社会が、現時点では存在しないという事実が「市民参与型統一」論に決定的な反論にならないことは、拙稿「2007南北首脳会談以後の市民参与型の統一」(192~194頁)を参照いただきたい。南側の民間社会の現時点においての限界については、いろんなところで言及してきたが、実際、民間交流の現場で活動した人々であるこそ、現実的限界を実感し、「第3当事者」という表現が虚しく聞こえることが多い。   韓半島平和フォーラムの討論会では、分断国間の民間交流が活発した点を考慮すれば、むしろ、ドイツ統一が「市民参与型」に近かったという指摘もあった。しかし、①分断過程が、もっと暴力的で、戦争まで経験して民間交流がほぼ断絶された南北間とそうした源泉的制約がなかった東独と西独を平面的に比較することは適切ではないし、②両独間、民間交流が量的で莫大であったが、「統一過程」という目的意識を持った交流は、極めて制限的であり、その結果、ベルリンの壁の崩壊以後、統一過程自体は、ほぼ政府が主導した点において、「市民参与型統一」に達していなかったというのが、私の意見であった。 しかし、忘れてはならないことは、韓半島の統一は、これからも、長らく進行される長期的過程である点である。しかも、南北連合という1次段階とは、また異なるその以後の中間段階を経て進行されやすい過程である。今日の局地的現場においての実感として全体過程の性格を裁断してはならないのである。

 

今年で66年目に入った韓半島の分断は、その間、市民参与を通じて克服されなかったことも明らかであるが、だからといって、政府主導で統一が達成されなかったことも事実である。いいえ、これからも当分、達成される展望は見えない。他方、当国間の対立が緩和されるほど、民間社会の参加が相対的に増えることが明確であり、南北連合という「1段階統一」でも達成できれば、   それを第1段階統一であると呼ぶ理由については、『どこが中道で、どうして変革であるか』第3章、108頁を参照。 市民参加がもっと画期的に増大されるということは、決して無理な展望ではない。「市民参与型統一」論を初めから否定的に考えることも、一種の惰性であるといえる。

 

ともかく、李明博政府出帆以後、ほぼ破綻状態までいった南北関係は、2009年8月初め、クリントン前アメリカ大統領の訪北(訪朝)をさかりに、紆余曲折の中でありながら、対話局面に入り、韓半島は、抱擁政策がもう一度作動する時期を迎えた状況である。さらには、李明博大統領の自ら、今年内に、南北首脳会談の実現を公開的に予想しているところである。   2010年1月28日、イギリスBBC放送とのインタビューに関する国内新聞の1月29日付の報道参照。「年内には会うことができる」という大統領の実際の発言が、青瓦台発表で「年内でも会わない理由がない」と変わり問題になったこともあるが、国政最高責任者の対外発言としては、後者の表現がもっと適切である面もなくはない。 抱擁政策のたどりを振替えてみて、その刷新の方案を研磨する必要が切実である。

 

2. 「抱擁政策1.0」に至るまで

 

6・15共同宣言を1.0バージョンの「完成版リリース」であるとみても、それが、長い間、多くの予備バージョンを経て完成されたことを想起する必要がある。同時に、予備バージョンを1.0バージョンとして誤認しないことも重要である。特定の予備バージョンを1.0として格上したり、1.0バージョンよりも優越しているものとしてさせたりすることは、6・15共同宣言と10・4宣言を見下す手段になることもあるからである。

分断以後、最初の公式南北共同文書は、1972年の7・4共同声明である。ここで、統一の3原則が合意され、今日まで認められている点では、抱擁政策の嚆矢であるといえる。声明において、他の合意事項が効力を失い、その直後、激しい南北対決の時代へと突入することがなかったら、抱擁政策の1.0のスタートとして見なすこともあり得る出来事であった。むろん、今になって振替えてみると、それが、決して1.0のスタートになれないことは、執権者個人のレベルの問題のみならず、分断時代のその視点が、抱擁政策の稼動を許容できない「分断体制の固着期」だったためである。   分断体制の時代区分に関する私なりの試みとしては、拙著『韓半島式統一、現在進行形』(チャンビ、2006)、第4章「分断体制と「参与政府」」第2節「分断時代の進行に関する概観」を参照。

南北関係において大きく進展が見えたことは、6月抗争以後に成立された6共和国からである。1988年盧泰愚大統領の7・7宣言に続き、翌年、国会で報告された「韓民族共同体統一方案」(1989.9.11)は、南北連合を経る段階的統一という韓国政府の基本方向を提示した歴史的な文書である。そして、ここに、1991年末に署名され、92年初に発効された「南北基本合意書」という意味深い実りが続いた。

しかし、盧泰愚政権のこうした業績を、そのまま「抱擁政策1.0」として規定することは難しい。一つ目に、7・7宣言はもちろん、韓民族共同体統一方案もどこまでも南側の「方案」であり、「抱擁意志の表現」であり、北側も共にした「相容・相従」行為ではない。二つ目に、この時の南北連合の提案が、その次に完全統一に直行することを設定したために、北側としては、自身の立場に対する拒否としてみなすしかない性格であった。

それに比べて、基本合意書は、北側が受容した文書であった点では、その意味が異なる。内容も、相互不可侵の約束だけでなく、交流と協力に関する数多くの具体的な合意を盛り込んだ立派なものである。ただし、7・4共同声明と同じく、すぐにほとんど効力を失った文書になった点では致命的な弱点を持つ。さらに、南と北が「国と国の間の関係ではなく、統一を志向する過程において、暫定的に形成される特殊関係」であることを明確にしたことが重要な成果であったが、どんな方法でも統一させるという「根本問題」は回避してしまった点においても、抱擁政策の完全な作動には至らなかった。

「予備バージョン」を論じる過程で、民間次元の成果も欠かせない。在野統一運動の先駆的な主張はさておいても、1971年の大統領選挙で、金大中候補が掲げた「4大国保障平和統一」方案は、抱擁政策を早い段階から、国政目標として提示した事例として注目すべきである。野党の指導者として金大中は、6月抗争の直後、1987年8・15記念詞においても、韓民族共同体統一方案の南北連合の構想を先行して「共和国連邦制」を提案した。その上、1989年4月2日の文益煥(ムン・イクファン)、許錟(ホ・ダム)共同声明は、連邦制を「すぐにもできるし、段階的にもできる点において見解が一致」したことで、6・15共同宣言において「根本問題」が絶妙に解決されるきっかけを整えた。

   とにかく、抱擁政策の「抱擁」が片方の一方的な構想や一時的な接近ではなく、双方が持続的に交渉し、交流する「相容」を意味しているならば、さらに、韓半島においてそれは、どんな方法でも統一と無関係ではない抱擁であれば、「抱擁政策1.0」がいよいよ完成されたことは、2000年6月になってからである。これが、「実行ファイル」まで、きちんとした完成バージョンであったことは、以後急速に増えた南北間のコンタクトと共同事業、共同行事などからも立証できる。   1.0が実行されてからすぐ、アメリカに新しい政権が入ることで、北米関係が大きく悪化され、南北関係も危機に堕ちいた時に、2002年4月、林東源(イム・ドンウォン)大統領特使の訪北で南北関係が、「原状回復」 され、東海線と京義線の鉄道及び、新しい事業がスタートされたことを、抱擁政策「1.1バージョンリリース」としてみなすこともできる。それが、北においても、新しい局面を開かれたことは、2002年7月1日の「経済管理改善措置」発表をしても、実感できる。 その成果は、画期的で李明博政府出帆以来の6・15格下の動きと南北関係の悪化にも関わらず、2000年以前の断絶状態と比べると、明らかな差異が見られる。開城(ゲソン)公団が中断なく可動され、金剛山観光の中断にもかかわらず、離散家族面会所が完工され、利用することもあり、去年末の西海交戦当時にも韓国経済と国民に日常生活には、大きな動揺がなかった。

参与政府の抱擁政策は、また別に論議する問題であるが、2007年10月の二つ目の頂上会談と10・4宣言をコンピューター用語で例えると、どのようになるのだろう。宣言の第1項が、6・15共同宣言を積極的に固守し具現することを決心していることからもわかるように、10・4は、6・15を対処するより、その「実践綱領」を準備する性格であった。しかし、6・15宣言が、まだ取り上げることができなかった――現実的に、2005年の北京9・19共同声明が出る前には取り上げることさえできなかった――平和体制の問題と軍事・安保問題を含んでいる点において、1.2程度を超える新しいバージョンと位置付けることができる。しかし、2.0というより1.0の大きな枠の中で、1.5程度に改良されたバージョンとして考えられるが、これについては、後でもう一度言及する。

 

3.   1.0バージョンに対する論難と評価

 

1) 高麗連邦制の是非と手続き論難

6・15共同宣言が、抱擁政策1.0の完成かどうかという論難とは別に、その内容に関する是非が早くから出ていて、李明博政府になってからは、保守側の定番メニューである。その中では、明確な誤解や意図的な歪曲が少なくないが、まず、この点を簡単に考えてみる。

もっともよくある批判の1つは、6・15宣言が北側の「高麗連邦制統一方案」を受容することで憲法を違反したということである。ここには、大統領が国会の同意なしに、こうした合意を行なったという手続きの問題が追加提議されることもある。たとえば、朴世逸(パク・セイル)教授は、この二つの批判を同時に提議し、次のように主張した。

 

たとえ、名分論といっても、「民族共同体統一方案」がわが大韓民国の公式の統一方案である。そして、北韓の公式統一方案は、「高麗民主連邦共和国創立方案」という対南赤化統一論である。

ところが、6・15共同宣言において、どんな過程とどんな根拠を持ち、この二つの方案の統一論に大きい差異がないという合意を共同宣言文に入れたかは知ることができない。6・15宣言がその前後に、国会の同意や、国民・専門家の意見を取りいれたという話も聞いたことがない。6・15宣言の法的性格は、どんなもので、憲法逸脱はなかったのかも検討すべきである。

憲法には、明確に大統領に、どんな統一方案も自由民主主義的基本秩序に立脚した統一方案であるべきで、「国家の独立」、北韓地域を含めた「領土の保全」、「国家の継続性」、自由民主主義原則を守る「憲法守護」などを必ず前提にすべきであるという憲法的義務を持っている。   パク・セイル「韓半島危機の本質と先進化抱擁統一論」、資料集『転換期にいる韓半島、統一と平和の新しい模索』24~25頁。傍線は、原文。

 

 

6・15共同宣言の第2項から、南側の連邦制案と「互いに共通性がある」と認めた、「低い段階の連邦制」が「高麗民主連邦共和国創立方案」とまったく異なる性格であり、むしろ、国家連合安を実質的に受容したことという点は、当日の討論において、丁世鉉前統一部長官が詳細に指摘したことがある。たとえば、金日成主席が、1991年の新年詞において、すでに「緩やかな連邦制」を提示しながら、北側は、「アメリカの初期の連邦制のような」(1991.6.2、韓時海(ハン・シヘ)UN次席大使)連邦(federation)ではない、国家連合(confederation)へ移動しはじめて、6・15共同宣言の「低い段階の連邦制」は、「内政、国防、外交について独自的な権限を持つ2つの地域政府が協力しながら、統一問題を解決していくこと」(2000.10.16、安京浩(アン・ギョンホ)祖国平和統一委員会書記局長)といい、連邦制という名前を固守しているだけで、内容上、国家連合と一致していることを明らかにした。   ジョン・セヒョンの討論文、上記の資料集、41~43頁。 これとは別に、南北首脳会談の現場で、金正日国防委員長が金大中大統領の国家連邦案の説明に同意しながら、ただ、名称を連邦制にしたいと提議したことは、陪席者(兼文書作成参加者)の証言もある。    林東源回顧録『ピースメーカ:南北関係と北核問題20年』中央ブックス、2008、99~106頁。「連合制vs.連邦制」 。 (この本は日本でも『南北首脳会談への道 林東源回顧録』(波佐場清訳、岩波書店、2008)というタイトルで翻訳出版された。- 訳者 )

6・15宣言に対する違憲是非が、「高麗連邦制受容」主張に根拠をおいていることは事実であるが、これ限りではない。パク・セイル教授の指摘のように、憲法第4条は、「大韓民国は統一を志向し、自由民主的基本秩序に立脚した平和的統一政策を樹立し、これを推進する」と規定しているからである。したがって、「自由民主主義的基本秩序に立脚」しないどんな統一方案に関する合意も「憲法違反ないし憲法不一致」という。

 

   憲法学に知識がない私は、少し慎重になるが、ここで、大韓民国憲法の前文と第4条に出てくる「自由民主的基本秩序」について、考えてみる。パク・セイル教授は、これを「自由民主主義的基本秩序」と書いているが、これは憲法の「自由民主的基本秩序」を「自由民主主義」とさせる危険性がある。誰しもが認めることだが、大韓民国は、自由民主主義だけでなく、社会民主主義、さらに社会主義も原則上、容認する国家である。したがって、憲法の「自由民主的基本秩序」は、民主主義という名前で、「人民専政」や、巨大与党の議会独裁などをしないで、市民の人権が尊重される「自由なる民主主義」、すなわちカント的意味として「共和主義的」民主主義をする体制としてみなすべきである。   カントの「永久平和論」によると、共和主義は、専制政治に反対される概念である。従って、君主制だとしても立憲君主政治は、共和主義的であることがあるのに比べ、民主制が多数の専制政治になると、反共和主義的になる。大韓民国憲法の場合、第1条1項「大韓民国は民主共和国である」において「共和国」は君主国ではないことが一次的な意味であるが、全文の「自由民主的基本秩序」及び1条2項(「大韓民国の主権は国民にあり、すべての権力は国民から生まれる」)と結合することによって、大韓民国が民主主義国家であり、カント的意味の共和主義国家であることを規定している。このような国家は、また、憲法第119条の1項と2項に各々明示された「個人と企業の経済上の自由」と「経済の民主化のための経済に関する規制と調整」の間でバランスをとる民主共和国であり、経済分野においても、「自由民主的基本秩序」として全面的な自由主義を採択することではない。

 

ともかく、国家連合制とは共通性を前提で、「低い段階の連邦制」を宣言文に入れさせたことが、憲法違反になることはない。むしろ、「大統領は、祖国の平和的統一のために、誠実な義務を持つ」という憲法66条3項の履行であり、「憲法の不一致」すらでもない。もし、大韓民国憲法の「自由民主的基本秩序」を受容しようとする明示的宣言を平壌当局から受けなくても、北側を平和統一のための交渉の対象として認め、合意文を産出したこと自体が違憲ないし憲法逸脱であるとしたら、これを一番先に実行した人は、7・4共同声明発表を指揮した朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領であり、次に南北基本合意書を締結した盧泰愚‎(ノ・テウ)大統領を考えるべきである。 金泳三(キム・ヨンサム)大統領も、在任中は、一つの南北合意文も作らなかったという記録を残しているが、金日成主席の急な死亡がなければ、首脳会談が開かれたことが確実視されていることもあり、「憲法違反未遂犯」として分類すべきである。

6・15宣言の第2項の合議が、このように大韓民国の「自由民主的基本秩序」に充実した国家連合に対する合意であり、憲法上、大統領の平和統一努力義務の遂行であることを認めるのであれば、大統領の独断的な行為という非難も説得力を失う。2000年の首脳会談は、7・4共同声明のような「ショー」ではないゆえに、94年の首脳会談合意に比べても、もっと充実に世論を取り入れて開催された。共同宣言文自体も、国会批准はなかったが―条約ではないため、批准を要するものでもなかった―、世論の圧倒的な支持の中で、国会報告を経て、その年に、UN総会でも万丈一致を受けた。10・4宣言の場合は、国会で、与野合意で通過された南北関係発展に関する法律(2005.12.29制定、2006.6.30施行)に基づき、その手続きによって進行されたため、過程の合法性と透明性は言うまでもない。

2)やたらに「ばら撒き」ことと人権問題
抱擁政策1.0に関するもう一つの批判は、いわゆる「ばら撒く」ということに対する論難である。対北経済協力及び人道的支援の具体的な内容に対して、その効率性や透明性を厳正に検証し評価することは必要である。実際に、李明博政府の下で、対決局面を経て、将来の貿易取引の代金まで支援金に含ませる会計上の無理をしないべきで、支援金自体が果たしてやたらに「ばら撒く」といえるほどの豊富な規模であったかも正確に検討すべきである。しかも、金剛山事業やゲソン公団をスタートしながら、休戦線を北側の軍事要衝地越えに、実質的に後退させるなどの決定的なやたらに「ばら撒く」ことをしてきたのに対する計算をも、当然のことながら、考えるべきである。

  ところが、対北支援と関連した論難の中でも、厳密な計算よりも「我々があげたお金で核兵器を作った」とか「抱擁政策が北側政権の寿命だけを延長させた」とかなどの扇動が見られる。むろん、北が核兵器を作ったことは事実であり、お金に名前が着いてない以上、わたったお金が核兵器プログラムに使われた可能性も排除できないが、北の予算規模や兵器販売を含む輸出代金量を考慮する場合、「核の抑止力の確保」の国家目標を掲げていれば、南から与えられるお金がないからといって核開発ができないことはない。   核とミサイル開発費用が、韓国政府がやたらに「与えた」ためである主張に反論しながら、その間の対北支援実状について詳細に説明したジョン・セヒョン「北経済構造を知らないまま、核・ミサイル開発費用を論じるな」『プレシアン』2009.7.7 (http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=40090707100127) 参照。   同じく、韓国が、「太陽」ではなく「冷たい風」政策を取っていたら、北が崩壊したという主張は、南韓の実力を誇張した憶測に過ぎない。実際に、この主張は、ドイツ統一以来、北の早期崩壊を予言してきて、面目がなくなった人々の責任転嫁用に使われたりもした。

   抱擁政策の推進者及び支持者が、北の住民の人権状況に無感覚であったという批判は、少し性格が異なる。この場合も、超強大国の封鎖政策が住民統制の最大の名分として通じる状況の中で、緊張緩和を追究し、飢えている人々の基本的な生活手段の確保を助けること自体が、反人権的である主張は、話が理屈に合わない。しかし、そのような努力に追加して、北の人権改善を促す公開的な言動もみせることが正しいという主張であれば、これは適切な役割分担を前提に、事案別で対応すべきである問題であり、従来の抱擁政策が、その点において不足であったという批判も認めることが少なくないと言える。また、脱北者問題も、一部脱北者集団の挑発的反北行為を、当局が黙認したり、陰性的に支援したりする様相は批判するべきであるが、政府と民間の次元で、脱北・入境住民に対する関心を拡大する必要はあるし、特に、統一志向的市民運動は、彼らの経験と能力を市民参与型統一の資産として活かす道をもっと積極的に探すべきである。

3)統一政策としての限界
とにかく、抱擁政策1.0自体を否定する批判は、大半誤解や歪曲があるが、既存の抱擁政策が持つ問題点を振り返る契機として、そうした批判を活用できるところは十分である。たとえば、「高麗連邦制受容」主張が、無理があったとしても、韓国政府自ら6・15共同宣言第2項の意義について、どれほどの確固たる認識と経験を持ち、抱擁政策を推進したかは反省すべきである。むろん、第2項の一時的意義は、統一方案という「根本問題」に対して、絶妙的に、折衷的な表現を探すことで、具体的な交流協力と相互信頼の構築の道を開いたという点である。しかし、そうした後で、どうするかについては、「無策」になったこともある。   拙稿「韓半島に「一流社会」を作るために」(2002)、『韓半島式統一、現在進行形』チャンビ、2006、189頁。

  そのため、いわゆる「ばら撒き」に関する論難も一層過熱されるしかなかった。昔、西独が東独にもっと多く与えて、結局のところ、統一に成功したという指摘も、ドイツ式吸収統一はしないということが抱擁政策であるということから、対北経済支援の名分としては説得力が弱い。その中で、結局は、吸収統一へ行くことになるが、私たちだけが知っていることにしようという、堂々ではない態度に傾きたり、また経済協力や支援を継続していけば、北も中国やベトナムのように改革・開放の道へ進んでいけるという楽観的な期待にあまりにも多くのことを依存することになる。

 

むろん、北が今よりは改革的で開放的な路線で行こうとすることは不可避であり、この過程において、中国とベトナムの経験が多く参考になると考えられる。しかし、中国とベトナムの先例を参考する時に、かえて不吉な感じを与えることもある。また、二国はすべて統一戦争の勝者であり、休戦線を越えた南韓の存在のような、脅威の競争相手がいない情況で改革・開放に進んでいったのではないか。他方、北は、事情がまったく異なる。平和協定が締結され、北米関係が正常化され、外部の経済支援が増大するとしても、それだけでは分断国家としての体制安全が保障されないのである。   北の中国式もしくはベトナム式改革・開放展望に関して私は、2007年の正常会談の直後にも、「この点だけにおいて、保守側の論客と共感する」方であると言ったことがある。「北米外交が行われ、南側との交流が活発になるとしても、南韓という相手がいなくなることはないのです。南韓の存在自体が、もっとも脅威なのに、その前で中国式ないしはベトナム式改革・開放ができるだろうか。(…)中国やベトナム式の改革・開放とは異なる道でなければ不可能であると思います」(拙稿「2007南北首脳会談以後の市民参与型統一」『どこか中道で、どうして変革であるか』チャンビ、2009、201頁)むろん、私は、南北連合という代案を提示する点において保守側の論客とは基本論旨が異なる。   実に、北側に与えたことだけを考えて、改革は最少化しようとする執権勢力の欲求を制御することが難しいことは当然である。

   結局、6・15共同宣言第2項にすでに提示された南北連合という解法を本格的に追究する道だけである。そのまま、統一国家へ進まなく、ただ対置状態を持続することではない、国家連合の結成だけが「「統一を志向する平和」を管理し発展させる」   林東源『ピースメーカ』742頁。 過程において、北側の不安を少しでも考慮できるのである。南北基本合意書で初めて出ているし,「南北関係発展に関する法律」の第3条1項で法制化された言葉を借りるのであれば、「南韓と北韓の関係は、国家間の関係ではない統一を志向する過程において、暫定的に形成される特殊関係」であることは確かであるが、その「特殊関係」は、また「国家連合に参加する特殊な国家間の関係」も揃えるまでに行くべきである。その時、漸く南側の対北支援も、ただやたらに「ばら撒く」ことではない南北連合を準備し、北の変化を確実に支援する事業としての名分を獲得することができる。

   2007年の2次首脳会談と10・4宣言を通して、抱擁政策が、「1.5バージョン」へ進化したと評価する理由の1つも、国家連合を実質的に準備する様々な措置に関する合意が含まれているためである。首脳間の「度重なる」対話を始め、高位級会談の首席代表が統一部長官から総理に格上され、次官級に任された経済会談は、副総理級へ格上、その他に、数多くの政府間のコンタクトや民間交流に関する積極的な措置が整えられた。しかし、「2.0バージョン」の出帆としてみるには、李明博政府の下においての急激な動力喪失を離れても、その現実認識自体が、1.0台バージョンが共有する限界を乗り越えられなかったと判断できる。

 

4.   抱擁政策2.0に向けて

 

1)「冷戦解消」を乗り越え、「分断体制克服」へ
  抱擁政策1.0は、6・15共同宣言の最初の表現そのまま「祖国の平和的統一を念願する民族の崇高の意志」を盛り込み、分断克服に関する金大中大統領個人の長い経綸を活かすことで、「統一政策を兼ねる韓半島的抱擁政策」の基本要件を揃えた。しかし、分断現実に対する体系的かつ総体的な認識においては、足りない部分が少なくない。たとえば、分断現実を主に、「冷戦体制」という概念とすることも、その例である。韓半島及び、東アジアにある冷戦体制が清算対象である点もそうであるが、実際に、東西冷戦体制が、その主な支柱であったドイツの分断と異なり、韓半島においては、国土分割初期から、第3世界独特の対外的力学関係と内部的葛藤が加わり、韓国戦争という熱戦を経て、分断がもっと確実になり、また分断体制とも言われるほどの持久力と自生力を持つようになる。ベトナムとイエメン、ドイツが全て統一された後まで、韓半島の分断が持続されることも、わが民族が、特別に出来が悪くて、分裂主義的であるからではなく、韓半島特有の分断体制が形成されたためである。  分断体制の克服が単純な「分断克服=統一」と区別されることは、私としては改めた話ではないが、これに慣れていない方々は、拙稿『韓半島式統一、現在進行形』に掲載した「統一作業と改革作業」などを参照していただきたい。

したがって、この現実を克服するのにも、それに相応しい複合的で正確な対応が必要である。単純な冷戦体制の解消や(南韓の場合)極右反共主義の清算を越え、分断体制の既得権勢力の自己保存に冷戦イデオロギーと共に存在した地域主義など、各種の派閥主義、開発至上主義、性差別主義、画一主義などの作動構造を総合的に解体していく変革運動が要求されることである。そして、韓半島の実状では、こうした変革が革命や戦争では一挙に達成できないことであるため、ただ、南北の再統合過程において正確に連結された社会改革の作業が蓄積されることで可能である。また、これは、「祖国の民主改革と平和的統一の使命」を前文に明示した大韓民国憲法の基本精神でもある。

   そうした点において、すぐに統一するより、平和定着を優先した太陽政策の基調は正しいことであって、太陽政策自体が南韓社会の民主化を通じて可能になったという「複合的」な性格をすでに持っていることもあった。反面、不完全な民主化の産物であった金大中政府は、地域主義の被害者であると同時に、恵まれた側でもあり、権威主義的政党運営など、旧時代的な病弊を自ら持っていたために、一貫した分断体制克服戦略を樹立することができなかった。むろん、太陽政策がもっと多い成果を出せず、初期にあった圧倒的な国民支持が、相当の部分、失われたもっとも大きい理由は、アメリカがブッシュ政府となってから、対北敵対政策が採択され、クリントン時代の韓米共助が揺れたからである。だからといって、韓半島の平和定着と統一が市民参与の拡大を通じてのみ可能な、長期的「分断体制克服」過程であるという認識が当初から弱く、この過程の核心であり、6・15共同宣言のもっとも輝く成果に該当する南北連合に関して、金大中大統領の在任期間には、何の言及がなかった。むろん、ブッシュ政権が入り、DJP連合  (1997年大統領選挙の時、金大中と金鐘泌と両候補が行った選挙連合-訳者) が破れた状況において、その話を出せる状態ではなかった、前節で言及した抱擁政策1.0の問題点の多数が、南北連合を通してのみ解消できるという認識に、どれほど充実していたかが疑問である。

2) 参与政府の限界と李明博政府下の南北関係
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、国内問題において、地域主義と権威主義、そして、分断体制の既得権を形成するすべての特別な制度と反則を清算しようとする強い意欲を持った政治家であり、平和統一に貢献しようとする精神も、他の誰よりも強かった。しかし、南北関係の発展と国内改革の密接な相互関係に対する洞察は、前任者よりむしろ後退しているという印象がある。代表的な事例が、就任初期の対北送金の特検 2003年4月、ノ・ムヒョン政権が特別検事を任命して、金大中政権が1次南北首脳会談の代価として北側に送金したという疑いを捜査したこと-訳者 であるが、透明な法治の部分的な増大や対野関係の一時的な改善で得られることより、南北関係の悪化による国内の既得権勢力の強化が、もっと大きい損失であることを予想していなかった。一言でいうと、分断体制の作動方式に鈍感であったことである。結果的には、南側内部において、意欲だけを掲げた改革推進が、壁にぶつかったことが、逆に南北関係発展の動力を下げることもあった。2次首脳会談が執権末期に行われたことが、参与政府の責任だけではないが、2005年の6・15民族共同行事と金正日委員長の南側特使の面談、北側の当局代表団の8・15ソウル行事参加(その行事中に北側の参加者らは韓国の国立墓地にも参拝した)と積極的な和解ムード、韓国が重要な役割を果たして得られた北京9・19共同声明等、一連の成果をもっと活かせていれば、首脳会談をもっと先にすることができ、少なくても10・4宣言に対する国民支持をもっと確実にさせることができたかもしれない。

  結果的には、抱擁政策「1.5バージョン」に着手してから間もなく、「非核・開放・3000」という、相手が絶対に受け入れることができない一方的な「抱擁」提議を掲げた大統領候補者が大きい票差で当選された。正常的な社会であれば、保守派----特に、中道・実用を標榜する保守派-----への政権交代は、「1.5」をもっと改善し、「2.0バージョン」を準備する良い機会である。すなわち、新しい政府が、南北関係の追加的発展を「先進化」の核心的課題の1つとして設定し、抱擁政策の支持基盤を中道勢力と健全な保守勢力まで拡大し、民間企業の対北経協参加を積極的に導く中、いわゆる進歩傾向の市民団体は、政府との健全な緊張を維持しながら、「市民参与型統一」作業にもっと充実される好機であった。

   しかし、分断体制の一翼に該当する韓国社会は(それなりの輝かしい発展を成し遂げたにもかかわらず)、二つ目の水平的な政権交代へ民主化が完成され、先進国に確実に入るというそうした「正常的な」社会になれない。  「2回の政権交代という試験(two-turnover test)を通過した時、民主化が完成されるというハンティントン(Samuel P. Huntington, The Third Wave: Democratization in the Late Twentieth Century, 1991)の論旨自体が半権威主義への復帰を美化する嫌疑がなくはないが、2007年の大統領選挙を前に、ハンナラ党の勝利をまるで韓国の民主化の当然な帰結であるように予想する論議が、いわゆる進歩的学者の間においても少なくなかった。 2007年の大統領選挙は、真なる保守派の執権も中道・実用の勝利でもなかった。本質上、それは1987年の軍事独裁終息と2000年の抱擁政策出帆以来、分断体制の中の特権的位置が大きく驚かされ、萎縮された守旧勢力の反撃が起きたところであった。むろん、この攻勢が成功された理由は、参与政府に失望した庶民大衆と健全な保守主義者の相当数が呼応したからである。しかし、守旧勢力は、そうした呼応を得られるために、常識と真実を無視したすべての手段を動員せざると得なかったし、勝利以後、彼等の国政運営は、民主化と南北和解の成果をダメにし、庶民経済を驚かすことはもちろん、法治と節制、財政健全性など、保守主義者の基本的な美徳さえも無駄にすることが多い。   なので、今日の韓国社会の危機を「3代危機論」で、完全に解明することは難しい。「民主主義の危機以前に常識と基本的な「兼恥之心」の危機、ひいては、「法治」「中道」「緑色」など、韓国語の疎通価値を脅威する言語生活の危機が進行されている形勢」(拙稿「過ぎた百年を振替えながら、新しい時代を構想する2010年へ」チャンビ週刊論評、2009.12.30、http://weekly.changbi.com/411)のためである。

 

むろん、大韓民国は、彼等が執権したからといって、独裁時代に完全に戻ったり、6・15以前の危うい南北対決に回帰したりするには、すでに、相当、「先進化」されている社会であった。特に、南北関係は、たとえ、その間の実績がなかったとしても、他の危機よりは先に緩和される可能性が高い。最初に既述したように、南北首脳会談が、近い将来に成功される兆しが見えるが、ただ、今の状態では、会談が開かれても、両首脳が心を開いて、民族の将来を論議するよりは、片方は経済的な実利を、片方は、主に政治的実利を考える「頭脳喧嘩」の性格が濃厚になると思われる。

   最悪の場合、首脳会談をしたあとにも、相互不信が残っている南北関係は、「低強度危機状況」がまだ残ったまま、韓半島問題から韓国の主導力がもっと微々となる可能性はある。だからといって、抱擁政策1.0ないし1.1バージョンが一端復元される事態は歓迎することであり、1.5バージョンの部分的な復元を足せば、1.1よりは進展された1.2または1.3バージョンを出帆されることもできる。反面、国内政治に注目すべき進展が成し遂げられ、政府が野党と市民社会の議題を一層尊重する姿勢として首脳会談に臨むのであれば―長くみれば、これのために、筆者が去年、提案したところ、「南北和解と統一問題を政府の一方通行と与野政争の領域に導きだして、市民社会の中道的様式と政治圏及び官僚社会の責任ある力量が結合する審議機構ないし合意機構」   「非常時代打開のための国民統合の道」『どこが中道で、どうして変革であるか』260頁。 のようなものも必要であると思われるが―1.5をむしろ改善した(たとえば)1.7バージョンの開発も不可能なことではない。ただ、2.0バージョンの主な内容は、分断体制克服に向けた市民参与の画期的な強化と南北連合建設であるために、現政府の傾向や人的資源としてみて、任期中、そうした内容を含む抱擁政策の始動を期待することは難しい。李明博政府の下、価値のある(たいへんな)勉強をしてきた南側の国民と市民社会におけるもう一度の頑張りに頼るべきところである。

  3)市民参与型統一過程と「第3当事者」
   国家連合だとしても、実感できない人々が多いところ、市民参与型統一過程、それも南韓の民間社会が「第3当事者」として介入する統一過程を言うならば、知識人の卓上空論や市民運動家の理想主義としてさらけ出される危険が大きい。しかし、序論で少し言及したように、ベトナムとイエメンとドイツが統一された後にも、韓半島が統一されなかったことは厳然たる現実であり、彼等のように統一される確率ももっとも低いことも1つの常識である。しかし、事実上、南北の首脳自ら2000年にすでにその常識を共有し、韓半島は国家連合(ないし「低い段階の連邦」)という中間過程を経て、統一に向けて行くということに合意した。そして、このように合意した瞬間、当局者の意図が、何にであれ民間社会がベトナム、イエメンもしくはドイツとは異なるレベルとして介入する空間が開かれると考えられる。

   南北連合の現実的な重要性に対して、前節でも既述したが、国家連合建設は、市民参与型統一過程と不可分の関係であることを再び強調する必要もある。国家連合という中間段階をおいて、漸進的に進行する統一であるため、一般市民が積極的に参与できる空間が開かれるとすれば、周辺国はむろん、南北の当局も、現在としては国家連合結成に大きな意欲を見せないために、市民社会が積極的に参加せざるを得ないこともある。 

  市民参与の方法は、様々である。北側は、現体制が持続される限り、最高指導者が(一定の条件が整えた時点において)戦略的な決断を下すことを待つしかないとする時、残る課題は、南北連合を先に提案し、国家連合の結成が国の「自由民主的基本秩序」において何の脅威にならない南側政府の積極的な姿勢を導きだすことである。一次的には、南北連合の建設作業に逆行する政権を牽制することであり、ひいては、市民参加型の統一過程を受容する国政運営体制へ、一日も早く転換することである。また、民間企業を含む広い意味の市民社会が、南北和解と交流に直接に参加し、国家連合建設の基盤を作ることはもちろん、南北関係と直接的な関連がない生活現場のあらゆるところから、南北の平和的で市民参与的な再統合に相応しい社会改革と自己刷新を築いていくべきである。むろん、北側当局に向けても「第3当事者」らしい、独自性を持って、比較化と親環境的な発展、住民権益の向上など、南側の市民運動固有の議題を色んな経路として提議すべきである。

  分断体制の克服が、統一至上主義的統一論と区別される支点が、まさに、こうした市民参与の重要性である。そして、分断体制の克服作業の一環として、国際舞台においても、当局にあえて頼らない市民社会固有の連帯作業と外交活動が要求されるが、当局が逆走行する時期こし、むしろ独自的な行動半径を拡大する好機であるといえる。

 

4)東北亜平和体制と韓半島の非核化の現実的動力
このような市民参与行爲が、理想主義者の無駄な動きで終わらない蓋然性は、国際政治の大きい流れにおいても現れる。その一つは、東北亜地域の平和体制に対する長い欲求に応じた歴史上、最初の国際的合意文書が韓半島問題をきっかけであらわれた事実である。2005年の9・19共同声明がまさにそれであるが、これは、ヨーロッパにおいてすでに1975年に出たヘルシンキ宣言の水準にもならない「低い段階の紳士協定」に過ぎないが、韓半島の平和協定締結に必須的な国際的合意を提供したことに留まらず、韓半島と東北亜平和体制構築努力の緊密な相互連関性を認識し、その同時的進行の枠を提供した。これで、南北連合を狙った韓国の市民社会の活動は、そのまま東北亜の地域協力と平和を増進する地域運動の一部になり、東アジア地域連帯のための運動が韓半島問題を自身の議題とさせることが可能になった。   これは、「韓半島複合国家構想は、東アジア的視覚により再調整される必要がある。ここでいう東アジア的視覚という現存し、過去に存在した東アジア的秩序の位階的な構造を認め、その多様な層位の複合構造に基づき、韓半島複合国家構造を展開することになるだろう」(リュ・ウジュンピル、「分断体制論と東アジア論」『亜細亜研究』第52巻4号、2009、69頁)という妥当で重大な注文に対して、非常に部分的な回答になるだけである。「東アジア的秩序の位階的構造」のために、ヨーロッパ連合のように国民国家が基本単位で集まった東アジア政治共同体や安保共同体は、―また、緩い協力関係を超えては、経済共同体としても―源泉的に不可能であるとみるべきであり、したがって、軍事安保分野においては、アメリカとロシアまでに入れた利害当事国らの紳士協定体制(ヘルシンキモデル)、経済分野においては、国家次元の緩い協力関係に基づいて(国家ではない)経済圏域の間の紐帯強化など多層位的な接近が必要である。この問題は、また別の機会にもっと検討するつもりである。

しかも、韓半島問題が非核化という当面課題に集中されることで、南北連合のための市民運動の現実主義的妥当性がむしろもっと確実となる。北が完全な非核化に同意すれば、いわゆる体制保障に対する北側の要求が、ある程度充足されるべきであるが、平和協定締結と北米修好、そして、大規模の経済援助があるとしても、南韓の存在自体が脅威として残るしかないという事情をすでに指摘した。韓半島の再統合の過程を比較的に安定的で管理する国家連合という装置が整えて行く時に、北側の政権としては、非核化決断を下し、自ら改革の冒険を遂行する―たとえ、完全に安心できないとしても―その条件においては、充足されることである。現実主義者という人々が、まだ、これを深刻に心配しているようには見えない。しかし、現段階で、市民参与型統一過程の核心懸案である国家連合の建設作業と北核問題解決の現実主義的認識の間において、意外の親和性が存在していることを近いうちに、確認することができるのであろう。

 

5. 結論の代わりに―民主改革戦略の一環としての「抱擁政策2.0」

 

アメリカのブッシュ政府末期にスタートした抱擁政策としての復帰が、もう本軌道に乗った上に、アメリカのみならず、南側とも対話するという北側の戦略的決断も現実にあらわれている現時点において、もっとも重要な変数は、南側の政府の選択であると思われる。韓国の政府も、従来の対決的な姿勢から移動しようとすることが見えていることも事実である。これは、嬉しい変化であるが、市民社会の役割を画期的に増やし、韓半島に分断体制よりも良い社会をを建設することを核心内容とする「抱擁政策2.0」の基準としては、李明博政府による1.0ないし1.5の復元が達成できるとしても、それに満足できない。早くは2010年からでも、国政運営体制に本質的な改善を達し、現政権が、1.6もしくは1.7という進展されたプログラムを開発させるようにすることが一次的な課題であり、民主化のもう一度の前進を通して、国内においては、three-turnover test、いわゆる、3次政権交代の関門を通過させることで、もう生命力がなくなり末期的な混乱に堕ちた「87年体制」をいよいよ乗り越えることが次の目標である。

   こうしてみると、韓半島式の抱擁政策は、統一政策を含むゆえに、憲法前文に「平和的統一」と共に明示された「祖国の民主改革」戦略の一環として位置づけられた時に、その意味が完全に蘇るといえる。1.0台に留まるもっと高いバージョンではなく、2.0という頭数字を変更するバージョンを主張する趣旨がそれである。これは、きちんとした2.0バージョンが稼動されると、市民社会の多様な局地的懸案が分断体制克服という大きな枠の中において、互いに連結され上昇効果を発揮する新しい状況を予見することである。そのような未来のための鍛錬と準備が進行されれば、李明博政府の5年は、たとえ、抱擁政策に大きな損傷を与えたとしても、決して「失われた5年」にはならないのである。

   最後に一つ付け加えると、政府だけでない民間が能動的に参与する統一過程こそが、「自由民主的基本秩序」を前提として平和的統一という憲法精神にもっとも符合していることである。北側が「自由民主的基本秩序」を従うとすでに宣言させるようにすることは、無駄な結果になると同時に、実際に「自由民主的」な方法でもない。市民が積極的に参加するなか、国家連合の内容と時期が自然と決定され、その次の段階が「連邦制」になるか、また初の段階よりはより高い連合であるが依然として連合制になるか、またいつ、どのように、それを達成し、その次に何をするかなど、民間社会が、最大限に参加する中、当局が国民的要求に応じて決定させること、これこそが、自由なる民主主義基本秩序の要諦ではないか。また、そうした経路を選択することこそが、北側の民間社会の参加を広めていく最善の方法ではないのか。

 

訳=朴貞蘭

季刊 創作と批評 2010年 春号(通卷147号)

2010年3月1日 発行
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