창작과 비평

〔対話〕 20代の話題、聞いてみた?: 若者世代の文化と政治 ②

対話 ①

 

 

キム・サグァ / チョン・ソヨン / ハン・ユニョン / チョン・ダヘ (左から)

 

 

ハン・ユニョン 階層によって違いがあるでしょう、親がかなり金持ちの場合は自分の思うように暮らせるでしょう。貧しい友人はまた違った意味でそのようなことができます。学資金が自分の名前で借金として累積しているのに、親がああしろこうしろという状況ではないんです。その中間が問題で圧迫を最も多く受けます。ここで自分が親から言われることを明かすのはつらいのですが、事実、私のような場合こそ……(笑)。とにかくこのように子供に集中投資することで文化の遅滞が生じるのですが、おそらくその下の世代は少し違うようです。386世代は貧しい層は最初から投資をしませんでした。50代は金がなければ金を借りてでも子供に教育を施しました。その違いがあるようです。事実これは共同戦線なので驚きではありますが、最近は単位の管理も親が手伝います。子供の周りをぐるぐる回って手伝うので、ヘリコプターマザー、ヘリコプターファーザーと言ったりもしますが、そうされている20代本人が、そのことを当然のように思っています。言い換えれば、独立を望む20代にとっては、親の支援が彼らを抑え付ける要因でしょうが、初めから独立自体を考えず親と自分が一体だと考える立場では、一種の共生構造なんです。

キム・サグァ 私は親に多くの支援を受けている人ほど、究極的には臆病な態度から抜け出すことができないと見ます。彼らの富の源泉を親が握っています。この間、三星(サムソン)の李健煕(イ・ゴンヒ)会長がラスベガスに行って、娘たちと手を取って写した写真を見て、最初に思ったのが、あの人たちは死ぬまで家族から抜け出すことができないだろうということでした。年も相応に取っている人がまだ父親の手を握っていて、彼の娘の資格で通っているのを見て、このような話をすると笑うでしょうが、私の方がましだと思いました。このように上流層では家族がより一層強化されているようです。これが結果的にどのような意味を帯びるかはよく分かりません。最近はそのように支援する親ならば、まず社会的に成功した人ですから、幼少時からそのような親を心から尊敬する人が上流層に多いようです。だから自分も親と同じ道を行くことになる場合が多いようです。

ハン・ユニョン 学校で授業している講師の人たちの話を聞いてみると、学生に家族についてレポートを書かせると、先生たちは一日も早く抜け出したいイメージとして想定すると思ったら、それが違ったそうです。罪悪感と申し訳ないという気持ちが大きく、家から追い出されないことを幸せであると考えているといいます。

キム・サグァ 驚いたことがありました。他の大学で交換授業を受けたことがありましたが、演劇でさまざまなものを作るというものでした。一番反抗心が強いと思われている19歳、ですから、ついこの間、大学に入学した学生が、親に対する無限の愛情を表現する演劇を作ったのです。私の印象では、それで私たちを見ておとなしいと考えるようです。おまえは今、そのようなことをしている時でなく、親に逆らわなければならない時だ――そういうことがあるでしょう(笑)。

 

若者世代はどのように生きて疎通しているか

 

チョン・ソヨン みな悲観的な世相のことをお話しになりましたが、少なくともここにいる3人は、親の支援で生きるより、自立した生き方の方が頼もしいという点を強調しています(笑)。20代の現実を大学社会や家族内の問題として見てみましたが、今度は20代がどのように新しい感受性を持っているのかについて、さらに議論してみたいと思います。現在の20代については、さきほど規定しにくいとお話しになりましたが、それでも以前とは違うスタイルで生きていることは事実のようです。経済的価値がすべてでないと感じているのではないでしょうか?

キム・サグァ 現在の20代はとても個別的に存在していますが、彼らの間に疎通がないという点で、何というか、日本社会のようになっていっているという印象を多く受けます。それぞれが区切られたスターバックスのような感じがあります。個別的なのはいいですが、それが本当に一人でいたいのではなく、誰に近付けばいいのかも分からず、近付くのがこわくて、あるいは他の人と何をするのかも分からずに、みな一人でいるから自分も一人でいるようです。

ハン・ユニョン 日本のようになっていくというサグァさんのお話しに同感ですが、各自の趣味の単位で分離されています。同じ趣味を共有する人間でコミュニティが形成されますが、その外側には拡張しません。以前はどのような分野であろうと、何か大きく流行すれば、みながそれを経験しました。ですが、現在は日本のアニメーションが好きな人は自分たち同士で、アメリカのドラマが好きな人はまた彼ら同士で集まります。みな一緒に集まるきっかけがありません。

キム・サグァ 現在はいくつかのコミュニティが存在していて、その中では疎通がされていると思いますが、そのコミュニティ同士の間の疎通は完全に断絶しています。コミュニティごとに彼らだけの特性があるでしょう。それが他のコミュニティでは理解されません。そして互いに理解できない存在を容認できないようです。自分は多くの人と対話すると考えますが、結局、自分と似ていて均質的な人々とだけ疎通しようとして、みな単純に反応するという印象を受けました。

チョン・ソヨン インターネットを通じた疎通の方法や様相も、初期に比べてずいぶん変わったでしょう?

ハン・ユニョン 初期は掲示板時代だったので、主として掲示板に文章を書けば、関心のある人はみな見ることになって政治討論も進みましたが、その後、ポータルやブログの時代になって、そのようなサイトが存続できなくなりました。よく知られた人でなければ自分のブログに文章を書いても論争になりにくいと思います。ネット評論家が「デビュー」する空間自体が消えたんです。だからむしろ自分の好きなコミュニティで政治について意見を交わすようになったようです。そちらの方が面白いんです。男性はゲームコミュニティ、女性は整形コミュニティが結構活性化しているようです。ファッションやダイエットのコミュニティも規模が大きいと思います。サッカーや野球は30~40代が好むようで、20代の男性はほとんどがゲームでしょう。ですが、その趣味の中でも熟練度によって位階があります。政治的な目的のために、そのような趣味を1つくらいは持つべきかと思ったくらいです(笑)。私は「スターリーグ」(オンラインゲーム「スタークラフト」同好会)が好きですが、そこでは他のすべてのイシューについても、ゲームがよくできる人の順に流暢です。以前のロウソク集会についての分析を見てみると、30~40代ではインターネットコミュニティ文化を平等主義、あるいは民主主義と解釈していますが、実際のコミュニティ内部は、おそらくネームバリューというか、そのようなものに支配される社会です。発言権も違います。

キム・サグァ 私がよく行くファッションカフェを考えてみると、その中でも大きな違いがあります。そこに「自慢の部屋」があるんですが、誰かはGマーケットで買った服を自慢しますが、また誰かはシャネルのバッグを数十も自慢しています。そのように互いに異なる階層の人々が、それでも1つに集まれるイシューは、せいぜいのところ、「日本悪い」「キム・ヨナかわいい」「性暴力の量刑低すぎ」「アイドル」くらいでしょうか。

ハン・ユニョン コミュニティ文化に対する誤解は、私の印象では、本当に怠惰の問題です。この10年間、インターネット掲示板でどのような方法で疎通がされているのか深く分析せずにいて、ロウソク集会で動きが表面化すると、それをすごいと評価して、ほとぼりが冷めたらまた消してしまうような感じではないでしょうか。さきほども申し上げましたが、最近書いている本で文学関連の論争が出てきますが、そこに『創作と批評』も登場します。さほど悪役として出演しているわけではありませんが、何というか、対応がずっと守勢でした。付いていって相手に合わせて関心を消して……人々がどのような方法で疎通するのかきちんと分析したとすれば、ロウソク集会の成果や限界についても、より明確に話すことができたと思いますが、そうできずに褒めることしかできなかったのではないでしょうか。ロウソク集会でインターネットカフェの活動について過度な称賛をしたこと自体が問題というよりは、それ以前までをひっくるめて、韓国社会の分析において重要な部分であるインターネット文化を避けて通っていたのではないかと思います。

チョン・ダヘ オフラインの話を少しするならば、現在は大学生の生活空間がかなり変わったようです。例をあげれば、インターネットの出現が、学生たちが自身の生活空間をあえて学生会やサークルにしなくてもいいようにしている側面もあるでしょう。私の大学では最近、中央図書館がかなり膨張しています。以前は学部ごとに生活空間があって、学部の建物の中にある読書室をよく利用しましたが、現在は試験期間になればみな中央図書館に行きます。一般的な動線自体もそうです。学校正門→中央図書館→講義室→中央図書館→家です。行くところがないから中央図書館に行って座って、授業を聞いて、マルチメディア室に行って映画を1つ見て家に帰るんです。

だから一方では最近流行している「剰余」という単語が意味深長に感じられます。ある人が本当に退屈で剰余になるわけではないでしょう。実際に「剰余」がまったく得するわけではないのに、そうなる人が多いんです。このようになってしまうと、20代が自分だけのライフスタイルを持つということが贅沢かもしれません。ますます個人化され、オンライン空間が重要になります。

チョン・ソヨン 個人化されるといいますが、ブログについては肯定的な側面を見ることはできないでしょうか?

ハン・ユニョン ブログでは討論がしにくいんです。トラックバックを何度か行ったり来たりして、どちらか一方がこれ以上話したくなくなってやめて、そのうえに違うポスティングを上げてしまえば討論が切れてしまいます。ブログというもの自体がおそらく私的な性格を持っているからです。みなはじめはブログに自分の話を書きます。ですが、何年かやっているとつまらなくなります。初期にはメタブログがあって、ブログの間でかなり媒介してくれましたが、それらも現在はうまくいきません。他人のブログに入るのは、ネイバーを通じることによってのみ可能になりました。もう通路がありません。

チョン・ソヨン サグァさんはどのように感じますか? 個人ブログも運営されていたようですが。

キム・サグァ 結局、ブログは閉じましたが、私が誰なのか公開された状態で、予想よりかなり多くのよく知らない人たちに、リアルタイムでさらされたまま何かを書くというのが、思ったよりはるかに難しいことでした。自分のブログにずいぶん多くの人々が確かに来ているのですが、返事が1つも出てこないんです。ものを書く人間の立場で考えれば、この人は静かに見つめているだけということじゃないですか。私がブログをやりたかったのは、ブログを通じてさまざまな人に会って、彼らと疎通したかったからなんですけど、訪問者は増えつづけるのですが、それが本当に疎通としては続かなかったんです。ときどき出てくるコメントも「いいですね」くらいで、あるいはいきなり悪口が出てきたりするんです。また「2PMパク・ジェボム事件」〔2009年9月に歌手グループ「2PM」メンバーのパク・ジェボム(在米韓国人出身)がネット市民の攻撃を受けた事件。所属事務所の研修生だった4年前に彼がアメリカのポータルサイトで韓国に対して侮辱的な文章を残していたのが見つかり、そのことを報道した記事に対してパクを誹謗するレスが1万件にのぼった――訳注〕以降にインターネット文化に対して大きな恐怖を感じました。本当に強い人でなければ生き残れないように思えましたが、私はそのように強くなりたくはありませんでした。やけくそになってケンカしてまで、ブログをやりたくはありませんでした。

チョン・ソヨン ユニョンさんはよく生き残っていますね。

ハン・ユニョン 私は2007年から実名で書いています。文章も売らなければなりませんから。ですが、実名なので親戚もみな入ってきました。なので、私生活の話は絶対にできません(笑)。実際に政治の話をしていてここまで来てしまいましたが、似たようなことはあるようです。私たちが事態を見つめる態度は、ますます「好きです/嫌いです」の2つに分かれるようになります。ネットは新聞と違って自分の考えとまったく同じものだけを選びます。自分の考えに同意するものだけを見て、自分にとって不都合なものは無視してしまえばそれまでです。インターネット用語では「パ」(熱狂的なファン)と「カ」(熱狂的なアンチファン)といいますが、本当にそれしかいないようです。

キム・サグァ 私は特に懐疑的に思えるんですが、最近インターネットにさまざまなレビューが出ます。「私、昨日、何を見た」「昨日、何をした」というようなものです。ですが、これが「昨日何かを買った」ということとまったく分別されていないんです。覚醒のようなものもありません。自分がある映画のことが好きだということと、あるブランドの服を買ったということにまったく違いをつけないんです。ロウソク集会以降、政治的に覚醒した女性たちが、ブログに昨日買った高い服について品評を書いたり、また現代文明を批判した本の読書感想文を書いたりしていますが、これが何らの区別なく同じ線上でなされているんです。

ハン・ユニョン 考えが違えば論争するべきですが、「いやだ」といっていなくなってしまうんです。また、さきほどダヘさんが「剰余」とおっしゃったのもとても重要です。以前「ルーザー(loser)」とか「剰余」というのは、映画『ビット』(韓国・1997)のように学閥社会に編入できない人をそのように呼びました。ですが、現在は学閥社会の中にいる人々が「剰余」になります。みな同じように「大卒」という看板を下げて卒業したものの、やることがないんです。社会が求めることをみなやってきたのに何もできないという自壊の感覚が大きいようです。

キム・サグァ 自分のことを「剰余」であるという人たちがいますが、ブログに書いているのを見ると、高い服もよく買って、職業も専門職で、英語もうまいのに、そのようにいっているようです。

チョン・ダヘ それが「剰余」の本質です。「剰余」には2つの部類があって、1つはユニョンさんの言う通り、やれと言われたことはみなやってきたのにやることがない人、もう一方で本当はさほど大変な境遇に置かれていない人を指します。大変で忙しければ「剰余」になれません。いますぐ金を稼がなければならず、奨学金をもらわなければならない状況で、「剰余」らしく生きるというのは贅沢です。

 

新しい趣向や感受性は存在するのか

 

チョン・ソヨン 20代が新しい価値を指向する点について話そうと思いましたが、現実は趣味のコミュニティから抜け出すことができなかったり、「剰余」になってしまったりするだけでしょうか? 20代だけの差別化された感受性とはどのようなものでしょう――

キム・サグァ  その部分で私は最近、考えが変わりました。本来20代だけの差別化された感受性があると考えましたし、そこに希望を持っていましたが、最近は懐疑的です。今、若くて新しい感受性と見なされる多くのものが、根本的に何かが変わったわけではなく、商品をならべて、どのようなものがよりいいかを判断する、資本主義的な趣向にとどまっているという感じがします。政治的に進歩的な考えを持っていても、そのような進歩に対する欲望が、明日デパートに行って一番きれいなコートを買うぞと決心する欲望と同一線上に置かれているという印象です。

ハン・ユニョン 以前、20代と多文化主義に関して小論を書いた時、私が批判したのもそのような地点です。大人たちの考えでは、20代が何か多文化主義的のようだという幻想を持っていますが、実は商品化できる違いだけを弁別する能力です。20代が趣味を持っていなければ資本主義はうまくいかないじゃないですか。多様性の認定も商品についてのみ可能です。市民団体の活動家として生活する友人に対して、私たちの社会では「ああ、君は他人と違う生き方を見つけたんだね」と尊重することはありません。現金化できる趣味だけが趣味になるようです。
チョン・ソヨン サグァさんの今回の長篇『草が横になる』では、脚注を付けてポップ音楽に言及する試みを見せましたが、このような表現方式はどのようなことを意図しているのでしょうか? あれもやはり洗練された趣向を示しているのではないかと疑う人々がいるだろうと思います。

キム・サグァ  あれは私と同じ年頃の多くの人々に多く読まれたかったからです。ポップ的な感じを与えて、人々が「ほしくなるように」したものです。厳格に言えば、私もそのような批判から自由ではありません。どのような趣味を持ったら洗練されたことになるのか、悩んでしまう世の中ですから。

チョン・ソヨン 洗練されたものに対する趣向のために無視されている主題もあると思います。たとえば南北分断の問題はどうでしょうか? 現在は南北関係や統一のような話は、若者たちの対話に見られなくなってしまいました。実際に南北分断という状況が及ぼす影響力はとても大きいのにです。なぜそうなのか気になります。この問題はどのように突破できると思いますか?

チョン・ダヘ 私は少し違った考えを持っています。南北関係や統一になぜ関心を持たないかといえば、その主題が洗練されていないからではなく、生活に密着していないと感じるからです。20代の大学生が南北分断の問題を切実に感じるのは、軍隊に入る時以外にはないでしょう。私も統一問題に関心はありますが、そこで私が介入できる余地はかなり小さいと感じます。一人一人が生活の中で小さな活動をして、それが集まって南北関係に影響を及ぼすならば充分に行動が可能だと思いますが、ライフスタイルが変わったから統一問題に関心がないと考えるのは危険だと思います。

キム・サグァ 洗練さの問題と南北分断の問題は、このように考えればつなげて考えられると思います。私は個人的に田舎くさいので洗練されたものにかなり敏感な方です。私の周辺の芸術分野を専攻する友人を見ると、李明博政権になって彼らが感じた強烈な感情を一言でいうならば、あまりにも田舎くさいということです。スコップをもって何かをするとか、市場に行っておでんを食べるとかいうことが、みな耐えられないほど恥ずかしいのです。正しいとか間違っているということに対する判断も当然ありますが、まずは田舎くささに対する怒りがとても大きいと思います。

ですが、南北分断の問題について自分が語れば、まずその主題自体が耐えられないほどに田舎くさくて、耳を傾けるのも大変だという人々がいます。だからその問題をよく考えてみたけれど、妙だと思ったのは、韓国を基本的に田舎くさくしているのは、結局、国家保安法の存在、まだ戦争中だということです。休戦状態ではあってもです。いくら洗練された服を着て洗練されたクラブに行って遊んでいても、急進的な政治的意見を表現したという理由でただちに監獄に引っぱられることがあるということです。もし人々が洗練さについて本当に大切に思い、真摯に考えるならば、今、この状況自体があまりにも田舎くさく堪えられないから、何か行動するというのが正しいのではないかと思います。

ハン・ユニョン 洗練さの問題を離れて、私は、批判や批評活動のようなものに関心を持たないから、南北分断の問題のようなものも若い世代の議論の脈絡に入ってこないのだと思います。私たちは毎日生きていますが、自分の人生に対して客観化することは難しいでしょう。ですが、批評というものは、自分の人生を客観化する契機を準備するということです。だから私は、どうにかして若い層が、現在、関心を持つことから批評しながら、批評の必要性を示すべきではないだろうかと思います。

 

韓国政治の代案をどこに求めるか

 

チョン・ソヨン では議論の方向を少し変えて、もう少し具体的な政治問題について話してみましょうか? 20歳以降に初めて迎えた本格的な保守政権ともいえるでしょうが、それぞれ李明博政権に対する考えと印象をおっしゃってください。

ハン・ユニョン 20代にとって李明博政権は趣向的にまったく合いません。ですが、そのような情緒に迎合しようとする選挙戦略では、朴槿恵(パク・クネ)やハンナラ党を抑えられないと思います。好きだ/嫌いだの区分を越えて、倫理問題になってこそ政治の領域が始まるのですが、みなそれを突破できません。李明博は洗練されていないし、20代の趣向に合っていませんが、たとえば朴槿恵もまったく同じだろうと期待をすることはできません。でも、保守化した20代が李明博当選の第一因ではないと思います。20代は李明博に多く投票したというよりは、鄭東泳(チョン・ドンヨン)に投票しなかったんです。あまりに業績がなかったからでしょう。反面、文国現(ムン・グッキョン)や権永吉(クォン・ヨンギル)に対する投票は、20代が他の世代よりも高かったと思います。新しい政治に対する渇望は、他の世代に比べて大きかったといえます。

チョン・ダヘ 前回の大統領選挙で20代の投票率が低かったのは、自分を代弁する勢力自体がなかったと感じたことが主要因だと思います。票を入れる人がいなかったんでしょう。李明博政権に対して評価するならば、予想よりきびしい政府だ――くらいでしょうか。南北関係の退潮や新自由主義の市場政策は予想しましたが、ロウソク集会に対する強硬鎮圧、龍山(ヨンサン)惨事とそれ以降の対応、李健煕(イ・ゴンヒ)の特赦のようなものとを見て、ますます失望しました。CEO出身の経済大統領に期待もあったでしょうが、それさえも今回の経済危機で、無理な支出で景気を浮揚させようとしたり、四大河川事業を強行したり、学費引き上げに対する態度を見て、目の前の数値や利益でない長期的なビジョンを備えた政権なのだろうかと疑いを持ちました。いまや李明博政権に対する熱狂的な支持者が20代の中にどれほどいるだろうかと思います。

ハン・ユニョン 民主化勢力の力量を再度組織して作り出すことが問題でしょう。そのような努力もせずに、20代が保守化して政権を奪われたというのは、問題自体を回避しつづけるようなものです。

チョン・ソヨン ならば、李明博政権の反対側にある進歩改革的な政党に、それぞれ、あるいは一緒に話したいのがあるとしたらいかがでしょう?

ハン・ユニョン まず「進歩新党」については、魯会燦(ノ・フェチャン)がI-phoneにばかり気を使うような姿はあまりよく見えません。アイデンティティと戦略の不在を、ニューメディア戦略を通じて間に合わせているのではないかと思います。ですが、そのようなアーリーアダプター(early adopter=初期使用者)は、実際に親・盧武鉉(ノ・ムヒョン)指向が強い層です。彼らが魯会燦のI-phone活用を見て喜んでいますが、票が入るかどうかは別の話でしょう。「進歩新党」は地方選挙で魯会燦、沈相奵(シム・サンジョン)という2人のスター政治家の歩みを通じて、これまでの足りなかった内容を充実させる時ではないかと思います。
チョン・ダヘ 最も重要なのは、各階層・階級とともに政策を作ることだと思います。当事者と代案を用意しようとする努力が、もう少し積極的に表面化すればいいと思います。そのように作られた政策を実現していく過程で、人々がその政党を信頼して支持することになります。これまではそのような努力が少なかったですが、進歩的なイメージだけで何かができる時代は終わったと思います。SSM(企業型スーパーマーケット)のケースを見ても、生活に密着した問題に代案を作る試みの一つ一つが重要だと思います。当事者と集会さえすれば解決するわけではないでしょう。このようなところから、また進歩政党が政策的に代案を作っていける通路を多く開いていけばいいと思います。20代とともに議題を政策として作りあげ、20代が政策の諮問をしたりすることが本当に重要だと思います。

ハン・ユニョン 政党だけでなく、言説を形成するマスコミにも問題があると思います。たとえば「オーマイニュース」で20代の特集をすると、年配の人たちから見て少し変わった人生を生きている20代だけにインタビューをして、希望があるとかないとか言っているんです。大多数の20代がどのような悩みを持っているか引き出そうとする努力がありません。たとえば、公務員試験準備生の特集をしてみようといいます。一つ一つ話をしてみて、何をしたいのか調べるべきですが、資料自体がありません。誰もそのような資料をさらに詳細に作るべきだとも考えません。そのように基本的なこともせずに、20代はこうするべきだというのは奇妙に感じられます。どのように生きているのかも知らずに、どうして接近できるでしょうか。20代特集で出てくる話も、20代について理解するよりは、他の形で消費されているのが実情だと思います。進歩政党は自らが生き残りに忙しいので、20代に関心を持つといってもジェスチャー以上のものはありません。「進歩新党」に20代が集まって、講演会のようなものを開こうと思うから予算をくれと言えば、選挙の時、運動員として動員されることが少ない20代には、そのような投資をしようとしません。理解できないことではありませんが、どうやって種も撒かないで収穫しようというのか分かりません。

チョン・ソヨン では、民主党に対しては何を要求したいと思いますか。

ハン・ユニョン すでに社会的に多くの人々が批判しているので、私が特別付け加えることはありませんが、私は民主党に政権への野心があるならば、自由+労働同居型のアメリカ民主党モデルにするべきだという周大煥(チュ・デファン)社会民主主義連帯共同代表の主張を受け入れるべきだと思います。ですが、民主党にそのような野望があるわけがないので、その主張の現実性がどれほどのものかと思うと残念です。政治家一人一人の欲望だけがあって、集団としてどのように生き残るのかという次元の悩みがありません。民主党の国会議員個人でなく、民主党という政治勢力全体の利益を調整する機構が作動していないんです。それがあれば、アメリカ民主党モデルまでには行かないにせよ、「反・李明博連帯」のようなものにおいても、いくつかの点で大きく譲歩して、それで進歩政党が身動きできず、単一化案を受け入れざるを得ないような状況もあると思います。実際に民主大連合の成功の鍵は民主党にあるのではないでしょうか?

キム・サグァ  民主党がこれまで重要な局面でハンナラ党とどのような違いを示せたのかよく分かりません。李明博はだめだから民主党を選んでくれ、進歩新党はうまくいくわけがないから民主党を選んでくれというだけでは説得力がありません。

チョン・ダヘ 実際に20代が集まったこの場で、政党政治の現況やビジョンについてどれほど話せるだろうかと思いますが、私は20代にとって選挙がこれまでまったく魅力的な経験でなかったのだと思います。選挙をはじめとして、これまでの政治文化がもう少し変わるべきだと思います。いまだに選挙期間に候補者が重要と考えるのは、政策資料よりは候補者の写真と名前が印刷された名刺です。政党や政治家の既存イメージの他に新しく得る情報が何もないと思います。事実、地方選挙は自治体の長と地方議員を選ぶものじゃないですか。当然、地域住民の要求や議題が選挙の中で出てくるべきですが、現在のところはそのようなレベルではありません。今回、うちの大学の総学生会で20代のための賃貸住宅を準備するといった時はマスコミでもかなり注目しました。それだけ版図を変えるほどのものが必要だと思います。

ハン・ユニョン 2000年代初期には、それでも政策選挙に進むと思われました。市民も政策リーフレットを熱心に見ていましたが、前回の大統領選挙で、李明博のような場合、テレビ討論を避けつづけながら当選してしまうような呆れた状況となりました。進歩政党でも市民勢力でも私はまず生き残るのが重要だと思っています。とにかく後で不動産価格が急落し始めれば、韓国社会を支えてきたルールに対して、人々がこれは違うと感じる時が一度は来ると思います。まさにその時、人々を説得できる代案を誰が準備しているかが重要になると思います。

候補単一化をして明確に利益を見守る状況ならば、鄭夢準(チョン・モンジュン)と盧武鉉が単一化したように、放っておいても何かしようとするでしょう。ですが、実は単一化が目的でなく、単一化の議論をして少数政党を枯死させようというのが目的になってしまう場合もあるようで堪えられません。民主党の立場では単一化のための努力をせず、単一化の話だけ続けて、他の野党候補を食ってしまうのが一番手軽でしょう。状況がそうであっても、知識人がむやみに単一化を叫ぶのは、民主党が他の政党支持率を吸収するのに力を貸すことにしかならないでしょう。問題は非常に難しいと思います。

チョン・ソヨン 単一化に対する知識人や市民社会勢力の主張が無条件にそう望んでいるわけではないだろうと思います。今回の地方選挙が現政権に対する審判の性格を帯びるので、小さい違いをめぐって敵前分裂の様相を示したりせずに、大連合を成し遂げるべきだという切迫さが大きいと思うんです。そのために民主党という最も大きな院内勢力がとにかくあるのですから、私は当然、力を結集することが必要だと思います。もちろん、それだけ民主党は目の前の利益に頼ったり、人々のこのような切実な要求を無視してはならないでしょう。そして、そういうことを強制するのが市民社会の力だと思います。とにかく私は今回の選挙がそれだけ期待できると思います。20代がシニシズムを越えて、定見を持って現実的な判断ができるということを示す契機にもなるでしょう。
最後に、それぞれ今年の個人的な目標や計画をお聞きして座談会を終えたいと思います。まず新任総学生会長の覚悟からお聞きします。

チョン・ダヘ 今年、総学生会を構成する決心をしただけに、そこで意味ある仕事をすることが目標になるでしょう。今回は地方選挙もありますから、私たちは20代や大学生に対する観念、運動圏と非運動圏に対する型にはまった視線を打ち破る契機をしっかり準備したいと思います。一方で私たちの世代が社会的に認知される可能性を開きたいと思います。大学生の住居権もそのうちの重要な1つですが、それは総学生会長としての目標で、個人的には学生会の活動を終えてからも勉強をつづけたいと思います。最近はオーバードクターが溢れ返っています。そのような学問環境ではたして自分が勉強をしながら、今、正しいと考える価値を守りつづけることができるだろうかという悩みもあります。何をするにせよ、市場中心の無限競争社会ではなく、人が生きていく社会、そのような価値を守るために努力しつづけたいと思います。安定的に仕事ができる環境を作り出し、病気のときは治療を受けて、人間的に生きていける基本的な権利は、市場論理に置き換えてはならないと思います。

キム・サグァ 私は、今年、計画通りにゆったりと作業できればと思います。下半期には少し旅行したいのですが、そのあと、今、私が持っている問題意識について、もう少し深く勉強できればと思います。ですが、勉強するほどに自分の覚悟が決まっているかどうか分かりません。感じている不満はあるのですが、もともと知識がないので表現にならず、ですから、その不満を精巧化する作業をしてみたいと思います。小説を書くことはこれまでなんとかやってきましたが、これからはもう少し真剣に考えてみたいです。もう少し深く遠くを見ながらやっていこうと思います。下半期には旅行に出るつもりですが、その一方で、海外でエネルギーを充電して、そこで見聞きしたもので、韓国に戻って金を稼いだりすることがいやになりました。どうするべきかよく分かりませんが、これから韓国が少ない労働で長く遊べるような社会になったらと思います。お金をあまり使わずに生活できる基盤が準備されればいいなあと思います。

ハン・ユニョン 前回出した『ニューライト使用後記』の販売部数などから考えて、私の本の読者は1500人ぐらいですが、これでは到底、物を書いて暮らすことはできません。今年は3冊ほど書く計画ですが、できるかどうか分かりません。私はかなり書くのが早い方ですが。また今年、進歩新党が危機だと考えていて、進歩新党の党員としてその問題も考えなければならないと思います。前回の総選挙までは広報室でアルバイトもしましたが、これからは外郭で戦う方がいいと党の方でも判断したようです。とにかくきちんとした体制を作っていって、自分の勉強もしなければならないのですが、容易ではなさそうです。さまざまな実験をするべきでしょう。どうすれば人々が読んでくれるか、いつも深く考えています。本を出すたびに少しずつはよくなっていると思うのですが(笑)。
チョン・ソヨン みなさんの計画が万事うまくいく1年になればと思います。私たちの社会が一層よりよくなることにも期待したいです。そのためには20代がやるべき仕事が多いと思います。では、これで座談会を終わります。ありがとうございました。

(2010年1月19日、西橋洞(ソギョドン)「楽しいブックカフェ」にて)

 

訳=渡辺直紀

季刊 創作と批評 2010年 春号(通卷147号)
2010年 3月1日 発行
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