창작과 비평

[文学評論]「東洋平和論」に見る安重根の「丈夫歌」

2010年 夏号(通卷148号)

 

 

崔元植(チェ・ウォンシク) ps919@hanmail.net

文学評論家。著書に『帝国以後の東アジア』『韓国啓蒙主義文学史論』『文学の帰還』などがある。

 

* 本稿は、2009年10月26日に大連大学(中国)で開かれた韓国学中央研究院現代韓国研究所主催の安重根義挙100周年記念学術会議「安重根と東北アジアの平和」に提出した報告原稿である。その後、改題・改稿し、『民族文学史研究』41号(2009年)に掲載された。今回の掲載に際してさらに修正したので、これが最終稿となる。

 

 


1.東アジア論の濫觴

 

安重根(アン・ジュングン、1879~1919)義士といえば余りにも聞きなれた名前だが、彼の真価をきちんと知る人は多いとは言い難い。1909年10月26日午前9時30分、ハルピン駅前でロシア財務大臣ココプチェフ(Kokopchev)と会見した日本の老政客伊藤博文(1841~1909)を狙撃したという事件だけが大きく取りあげられ、その文脈が顧みられることはほとんどないからである。よく知られているように日本とロシアは敵として闘ったが、戦後には、満洲解放を要求する英米および満洲回復を夢見る中国民族主義の脅威に立ち向かい、むしろ連合   古屋哲夫『日露戦争』東京:中央公論社、1980年、230頁。知られているように日露戦争で英米は満洲開放を約束した日本を支持した。    の様相を見せたことを想起するなら、国益――じっさいは資本の要求――に踊らされる近代の国家理性がもつ魔性とはなんとおぞましいことか。このために満洲を二つの国が平等に分けて支配することで合意し、ロシアは日本の朝鮮支配を、日本はロシアの外モンゴル利益を保障するという 同上、237頁。   悪魔の取引がハルピン会談だった点で、伊藤博文のみを狙った安重根の義挙の意義は限られたものであるかもしれない。後にこの事件の文脈を理解するようになって、私もまたそのような感想を抱いた。輝かしい大義があっても、暗殺という方法を無条件に肯定することはできないという私の心情的な躊躇も働いていただろう。

「東洋平和論」(1910)こそまさに彼の真骨頂である。序文の一節から私はなんだか居住まいを正してしまう。「青年たちを訓練して戦場に追い立て、幾多もの貴重な命が犠牲のように捨てられて、血が川のように流れ死体が地を覆うことが日ごとに続く。生きることを願い死ぬことを嫌がるのは、あらゆる人の思うところであるのに、明るい世界でなぜこのような光景が繰り広げられるのだろうか。言葉と考えがこれに及ぶに、体の芯から冷たく感じ、心には寒気が走る」。 安重根「東洋平和論」、崔元植・白永瑞編『東アジア人の「東洋」認識――19~20世紀』文学と知性社、2005年、205頁。以下、本書からの引用は本分にページ数のみを記す。 生まれながらの武骨さで戦場を恐れなかった彼が、実際は反戦あるいは非攻の平和主義者だったのである。彼はテロリストでは決して、ない。執筆途中で刑が執行され未完に終わったこの散文の最後の一行は痛みに満ちている。「ああ、そうして自然の形勢を顧みずに同種の隣邦を剥害する者は、最後には独夫の患難〔悩みと苦しみ〕を免れえないだろう」(215頁)。「独夫 「独夫」とは、人心を失い助けを得られるところもない孤独な男または暴政により民の支持を失った君主を指す言葉で、ここでは日本を意味している。 の患難」! なんと恐ろしい言葉か。彼はアジアとともに西洋の侵略を阻止する道ではなく、逆に西洋の手先としてアジアの隣人を侵略した日本が、ついには自滅に転落することを鋭く予言する。連戦連勝の中で意気揚々としたかのように見えたがゆえに日本の内外は皆幻惑され迷妄していた時に、彼は伊藤を処断することによって日本に精いっぱいの警告を発したのである。伊藤のみならずココプチェクにも、さらにはすべての弱小民族を利益の生贄にしようとするあらゆる帝国主義者たちにも、それは冷やりとしつつも断固たる警鐘となることはもちろんだったろう。

今、この散文の弱点を指摘することはそれほど難しくはない。「日本とロシアの戦いは黄白人種の競争」(206頁)という一文に見られるように、事態の複雑さを人種主義へと単純化している点、「数百年以来、悪を行ってきた白人種の先鋒」(207頁)としてのロシアを指弾する防我論に一方的に依存している点、日本に対する期待の過剰さ、そして何よりも東学党を「朝鮮国の鼠竊輩」(208頁)、すなわち「こそ泥」扱いして卑下し続けている点など、ブルジョア民族主義者あるいはブルジョア民主主義者の限界が露わになっている。にもかかわらず、彼の「東洋平和論」は朝鮮の独立が朝鮮のみならず、中国はもちろんのこと、さらには加害者である日本にさえも利をもたらす東アジアの平和の礎であるという点を堂々と述べた、東アジア論の濫觴である。   国恥(1910)が目前に迫る切迫した時点で出現した安重根の「東洋平和論」に続いて、3・1運動(1919)の熱気を継承した申采浩(シン・チェホ)の「朝鮮独立及東洋平和」(1921)、そして解放の理想と分断の現実のはざまで建国の道を模索した安在鴻(アン・ジェホン)の「新民族主義の科学性と独立の課題」(1949)が注目される。これらに関する詳細な議論は拙著『帝国以後の東アジア』(創批、2009)の163~165頁および152~53頁を参照のこと。    要するに、日本の説得を主たる目的としつつも、その結果中国を一段と感動させた彼の小さな独立戦争は、人命殺傷を最小に抑えた平和の戦闘、あるいは「東洋平和」のために、せざるをえなくてどうしようもなく実行した消極的実践だったのである。

 

2. 禹徳淳の「挙義歌」

 

私は彼が殉国した中国の東北地方で開かれたこの稀有な記念の場で、安重根の歌を読み直す作業の一環として、義挙100周年を心に刻みたい。安重根文学のなかでも決行を前にした丈夫〔若者の意〕の心中をうたった挙事歌が白眉である。しかしこの歌は安重根の第一の同志、禹徳淳(ウ・トクスン、1876~1950)の返答歌がセットになっている。天主教徒の安重根の「丈夫歌」に対して改心教徒の禹徳淳の「挙義歌」、義挙直前の湧き立つ激情をなだめ、気高い意志を確認し合う二人の同志の交流が美しい。 安重根と禹徳淳は挙事4日前にハルピンに到着し同志劉東夏(ユ・ドンハ)の親戚である金聖伯(キム・ソンバク)の家に泊まった。そして翌日、詩を詠じ決心を固めた。これらの詩は1909年10月23日、ハルピンの金聖伯宅で生まれたのである。「安重根年譜」『義挙殉国100年安重根』芸術の殿堂、2009年、200頁。 しかしながら、この二つの歌は韓国近代文学史の外側に長い間放置されてきた。親日開化論者・李人稙(イ・インジク)の『血の涙』(1906)を近代文学の嚆矢とする長きの慣行の中に、愛国者たちの歌のための場所などなかったのである。これらの歌は四月革命(1960)を想像力の源泉とする反独裁民主化運動の進展とともに、長い亡命から帰還した。その決定的契機が、義兵将たちの詩歌をはじめとする抵抗詩の隠された鉱脈を本格的に発掘した『抗日民族詩集』(1971)の発刊である。編者は民族学校、発行者は思想社、序文とあとがきが無記名という点から推測できるように、この本はほとんど地下出版に近い。私たちは無記名のあとがきを通じて、この詩集が咸錫憲(ハム・ソコン)、張俊河(チャン・ジュナ)白基琓(ペク・キワン)金芝河(キム・ジハ)など、当時の民主派による集合的作業の産物であることに気づくことができる。 「恥ずかしさを飲みこんで」、民族学校編『抗日民族詩集』思想社、1971年。134~135頁。 民主派はなぜ抗日詩歌の発掘作業に心血を注いだのだろうか? 満洲人脈をもとにした当時の開発独裁派に対する抵抗の正統性を民主派は親日開化論または近代化論によって沈黙させられた別の正統の復権に求めたのだろうし、その反響は確かに革命的だった。世に出ること自体が驚異だったこの詩集の歴史的出現の中でも、安重根と禹徳淳の義挙が光を放っていたことはもちろんである。

しかし、二つの歌の双方ともに正本が確定できない状態であり、何よりもまず原典批評が要求される。私はまず、この二つのうちのひとつ、すなわち不完全に伝承された禹徳淳の詩の復元を通じて、正本化作業を行なったことがある(1994)。この歌は宋相涛(ソン・サンド、1871~1946)の『騎驢隨筆』に国漢混用文で収録され掲載されたことによって失われる危機を脱したが、惜しくも全文を収録してはいなかった。

出会った出会った、怨讐、おまえに出会った、おまえに一度出会おうと、一生涯願ってきたが、何相見之晩也か、おまえに一度会いに行こう、水陸で幾万里を、あるいは輪船あるいは火車、千辛万苦を重ね、露清両地過ごす時、居ても立っても、仰天し祈祷せんことを、見てください見てください、主耶蘇よ見てください、東半島の大帝国を、私の願う通りに御救いを、於乎よ奸悪な老賊や、我が民族二千万を、滅亡までさせておいて、錦繍江山三千里を、声もなく奪おうと、窮凶極悪な手段を(…中略…)至今おまえの命も尽きたのだから、おまえも寃痛だ、甲午独立させておいて、乙巳締約した然後に、今日おまえが北向するなんて、私も亦是分からなかった、徳磨けば徳来たり、罪を犯せば罪来たり、おまえだけと思うな、おまえの同胞五千万を、今日から始めねば、一人二人と目につく順に、私の手で殺しましょう、  宋相燾『騎驢隨筆』国史編纂委員会、1974年、155~56頁。
ところがその後、鄭喬(チョン・ギョ、1856~1925)の『大韓季年史』にこの歌が漢訳され掲載されているのを発見した。この二つを対照させることにより、国漢混用文には中略部分以外にも最後の結辞が省略されているという事実とともに、この歌の全貌を確認することができた。
中略:大公無私至仁極愛我之主、大韓民族二千萬、如均為愛隣、使逢彼老賊於如此停車場、千萬番祈祷、忘晝夜而欲逢、竟逢伊藤、
結辞:嗚呼我同胞、一心専結後、恢復我國権、國富國強兵、世界有誰壓迫、我等之自由爲下等之冷遇、速速爲合心持勇敢之力、盡國民之義務、
鄭喬『大韓季年史:下』国史編纂委員会、1974年、365頁。
ほとんど完璧な四音歩歌詞体に、字数もほとんど完璧に四・四調であることから、私は禹徳淳の歌を次のように復元した。可能な限り口語の味わいを生かしながら現代表記法に直し、音歩を単位に節を区切った。また、新たに探しだした部分を練り直した内容は括弧内に表示した。
出会った 出会った 敵のおまえに 出会った
おまえに一度 会うことを 一生涯 願ったが
何相見之 晩也や
「何相見之 晩也や」は「会うのがどうしてこんなにも遅くなったのだろう」の意。 おまえに一度 会おうとして
水から陸から 何万里を 輪船か 火車か
千辛万苦 重ねて 露清両地 過ぎる時
座っても 立っても 仰天し 祈祷せん
ご覧あれ ご覧あれ 主耶蘇よ ご覧あれ
東半島の 大帝国を 私の願いどおりに 御救いを
於乎よ 奸悪な 老賊よ 我が民族
二千万を 滅亡まで させて 錦繍江山
三千里を 声もなく 奪おうと 窮凶極悪
手段を (大公無私 至仁極愛 我らが主よ
大韓民族 二千万を 皆等しく 愛したもう
あの老敵を この駅で 会おう 千万回も
祈って 昼夜も忘れ 会わんことを ついに伊藤
会えたのだ) 今おまえの命 尽きたのだから 私も寃痛
の感だ 甲午独立 させておいて 乙巳締約
した然後に 今日おまえが 北向するなんて 私も
分からなかった 徳磨けば 徳来たり 罪を犯せば
罪来たり おまえだけと 思うな おまえの同胞
五千万を 今日から 始めねば 一人二人と
目につく順に 私の手で 殺さん (嗚呼
我が同胞 一心に 団結の後 我が国権
回復し 富国強兵 図れば この世界に
誰もが 我が自由を 圧迫し 下等として
冷遇する 早く早く 合心し 勇敢な力を
もって 国民義務 果たそうではないか)
拙稿「禹徳淳の歌の復元」(1994)『韓国啓蒙主義文学史論』ソミョン、2003年、265~66頁。愼鏞廈編『安重根遺稿集』(歴民社、1995年、230~31頁)には、出所不明の異本が掲載されているが、長すぎる。尹炳奭編著『大韓国人安重根――写真と遺墨』(安重根義士崇慕会、2001年)にも二種類の異本(「禹徳淳歌」と「挙義歌」)が収録されているが、前者は縮約本で後者は愼鏞廈の本に載ったものと同じである。口伝えだったがゆえに生まれた異本だと推定される。

この詩 は、直截的に愛国をうたった部分が核となっている。とくに瞬間の感覚から筆を起こしたその書き出しは卓越している。平和の名において祖国を侵略した「伊藤」に対する鬱々とした感情が一時に爆発したかのように、詩の歌い手はすぐに彼と出会う。いや、すでに彼に出会っている。どれほどの切実さがあれば、想像はすぐに現実へと移行してしまうのだろうか? しかし詩全体は再発見当時の衝撃に耐えられない。なぜそうなのだろうか? やはり感情の直接的高まりのみでは足りないのである。ここで感情を貫く幾何学的抽象は、過度に単純化された民族主義である。伊藤博文と日本民族に対してほとんど種族的レベルの恨みあるいは復讐に取りつかれてはいるが、詩の歌い手が夢見る「富国強兵」もまた帝国主義の克服というよりは、それへの追従に近い。  参考までに、今回確認した挙事以後の禹徳淳の足どりを簡略に述べておく。安重根とともに逮捕され獄苦を経てから満洲に留まり、1945年12月に帰国した(『東亜日報』1945年12月17日付)。その後は一民主義を掲げた大韓国民党の最高委員として活動し(『大東新聞』1948年11月16日付)、朝鮮戦争時に拉北されて1950年9月に処刑された(『朝鮮日報』1950年11月10日)。これらから見て当時の彼は極右に近かったようだ。

 

3. 安重根の「丈夫歌」

 

この点でも安重根の挙事歌が注目される。しかし、安重根の歌もまた本ごとに異同がなくもない。そのうち、彼自身が獄中で書いた漢文自叙伝「安應七歴史」(1909~10)に載ったものが最も信じるに足りるが、「時に、旅人燈の冷たい寝床の上に一人で座り、少しのあいだ、これからすべきことを考え、嘆き憤慨する気持ちに耐えられず、偶然ある歌を吟じて曰く、(時、獨坐於客燈寒塔上、暫思将行之事、不勝慷慨之心、偶吟一歌曰、)」と、この歌の流露の経緯が生々しくつづられた点がとても美しい。ただ、三行と二行が入れ替わっているなど、一般に知られているバージョンとは少し違っているのが問題だ。 「安應七歴史」、愼鏞廈編、前掲、154頁。 幸運にも第三の資料がある。李殷相(イ・ウンサン)が言及した「日本の法廷で押収された」自筆の漢文本とハングル本の挙事歌  李殷相訳『安重根義士自叙伝』安重根義士崇慕会、1982年、168頁。 である。これらの資料を私が安重根義士記念館発行の図録で確認したところ、「明治四十二年検領第一号」と「安應七 作歌」が前後に貼られており、この文書に収録された挙事歌が正本であると言ってもいいだろう。

丈夫處世兮 其志大矣
時造英雄兮 英雄造時
雄視天下兮 何日成業
東風漸寒兮 壮士義熱
憤慨一去兮 必成目的
鼠窃○○兮 豈肯比命
豈度至此兮 事勢固然
同胞同胞兮 速成大業
萬歳萬歳兮 大韓独立
萬歳萬萬歳 大韓同胞
尹炳奭編著、前掲、187頁。

さらに、この詩のハングル本の存在こそが大切である。彼の挙事歌が漢詩だったというところが惜しかったし、やはり近代文学は漢文学の解体の上に花開くものであるからである。

丈夫が世の中に処するとその意は大きい
時が英雄を作り英雄が時を作るだろう
天下を雄視し いつ業を成そうか
東風がますます冷たくなり壮士の意は熱い
憤慨して一度行くのだから必ず目的を成し遂げるだろう
コソ泥○○するに どうして正しく命に比べられよう
どうしたらこんなになると分かっただろうか 事勢が固然として
同胞同胞よ はやく大業を成そう
万歳万歳よ 大韓独立だ
万歳万々歳よ 大韓同胞だ
同上。この歌の末尾にハングルで「安應七 作歌」と書かれているのが目を引く。

漢文本とハングル本の二つを比較すると、やはり前者が先に書かれたと思われる。よって後者は前者の翻訳である。しかし、安重根がハングル本を自ら著したという点が重要だろう。漢文が意味するところを詩人自身の意図のままに正確に伝えてくれるという点のみならず、近代の国文詩歌の演進過程で占めるところの意義も少なくないからである。最近でも崔南善(チェ・ナムソン)の新体詩「海から少年に」(1908)を韓国の新詩の嚆矢であるかの如く持ち上げる風潮があるが、内容と形式の両面でこの作品は、近代詩どころか詩として物足りない。主に義兵戦争と関連して最後の光芒を放った愛国的漢詩をさておいても、この時期の国文詩歌は古い形式(詩調と歌詞)に愛国の気概を入れた歌が主流だった点で、安重根のハングル挙事歌こそまさにその白眉である。理想主義的な情熱が古い形式と出会ったことで、その上ハングルへと翻訳される経路をつうじてたどり着いた微妙な移行の場に位置していることで、このハングル挙事歌は、近代自由詩への道程において興味深い石橋となっているのである。漢詩の翻訳過程から生まれたこの歌とともに注目すべき作品が、ホセ・リサール(José Rizal)の「臨終辞」である。1898年にスペイン総督府によって処刑されたフィリピンの高邁な愛国者が残したこの絶命詩は、安國善(アン・クッソン)が翻訳した『比律賓戦史』(1907)に収録されているが、おそらくこれが韓国に紹介された最初の近代自由詩であると思われる。 拙稿「アジアの連帯――『比律賓戰史』について」(1987)、『韓国啓蒙主義文学史論』、ソミョン、2002年、204~10頁。    この時に撒かれた種が成熟した形象を獲得するためには、ネイション(nation)の誕生を告げた3・1独立運動(1919)を待たねばならなかった。「花は散る/あなたはため息をつく」、このように印象的な結びを見せた金億(キム・オク)の「春はゆく」(1918)と、「秋過ぎて、結縛ほどかれ春が来る」で始まる黄錫禹(ファン・ソグ)の「春」(1918)、すでに自由詩の嚆矢として足りないところもないが、まだ象徴詩の翻訳の域を完全に脱しきれていないこの二つの詩を決定的に越えた朱耀翰(チュ・ヨハン)の「火遊び」(1919)以降、韓国近代詩はついに自由と解放の激情を滝のようなリズムにのせてほとばしらせたのである。

韓国の近代詩の誕生において隠された種のひとつだった安重根の歌を作品として分析する前に、その周辺を少し考察しておこう。「体は三韓にありても名は万国(身在三韓名萬國)」  イ・ウンサン訳、前掲書、591頁。全文は次のとおり。「平生營事只今畢 死地圖生非丈夫 身在三韓名萬國 生無百世死千秋」、「安重根義士 輓」。ところで、旅順刑務所記念館でこの詩と似た孫文の詩を発見した。「功蓋三韓名萬國 生無百歳死千秋 弱國罪人強國相 縱然易地亦藤候」。考証が必要なところであるが、別稿に譲りたい。 と称えた袁世凱をはじめとして、章炳麟、梁啓超など、主だった中国知識人たちが安重根の実践を高く評価しており、戦国時代の偉大な刺客であった荊軻(ヒョンガ、BC227年没)と豫讓(イェヤン)と比べられることも少なくない。梁啓超の「秋風斷藤曲」は代表的である。

萬里窮追豫讓橋 千金深襲夫人匕   朴殷植『安重根』、李東源訳、韓国日報社、1994年、93頁。訳文は筆者が少々修正した。これは白巖朴殷植が中国で発刊した『安重根伝』(1920)を翻訳したものであるが、本書には中国知識人たちの安重根関連の詩文が多数収録されている。
万里まで追跡した揚句に豫讓は橋の下に隠れ
千金で得た夫人の匕首を服の中に深くしまっていたね

前の行は千辛万苦の後、ついに趙襄子(チョ・ヤンジャ)を殺す機会をつかんだのだが、馬が暴れて結局失敗し、自殺した豫讓の故事であり、後ろの行は燕太子丹が徐夫人の匕首を買って秦始皇を殺害しに行く荊軻に向けた故事に掛けたものである。双方ともに司馬遷の輝かしい文筆として後世に伝えられた千古の刺客たちであるが、とくに後者は挙事歌を残した点で、安重根とさらに直接的な連なりをもつ。

風蕭蕭兮    風 物寂しく
易水寒     易水寒く
壮士一去兮   壮士ひとたび去りて
不復還     また還らず
『史記』「刺客傳」、『二十五史』1、上海古籍出版社、1991年、284頁。翻訳は筆者による。

懇切さによって刺客の孤独な姿勢がさらに染みわたるこの歌を安重根のものと比較すると、後者がポジティブであるという点が見出される。両者ともに挙事の後を考えていないにもかかわらず、なぜ前者は寂寞としており、後者は躍動的なのだろうか。前者は失敗し後者は成功したということのみがその理由ではないだろうが、おそらくは後者が単純な刺客ではなく知識と経験をもった丈夫〔若者〕だというところに、その理由があるのかもしれない。安重根には大きな希望があった。それゆえ彼の歌には荊軻の「易水歌」とともに、漢の高祖(BC247~BC195)の「大風歌」も関与している感がある。

大風起兮 雲飛揚    大風が吹き起こりて雲舞い上がる
威加海内兮 歸故郷   危機を平定して故郷に帰る
安得猛士兮 守四方   どうにか猛士を得て四方を守らしめん
『古文眞寶』前集 卷之八、世昌書舘、1966年、66頁。翻訳は筆者による。

荊軻の「易水歌」と漢高祖の「大風歌」を念頭に置きつつ安重根の「丈夫歌」を吟じてみると、「丈夫歌」が「易水歌」の悲壮さと「大風歌」の軒昂さの双方を兼ね備えた独異な作品であるという点に改めて気づくことができる。

まず、先に引用したハングル本の行の前に番号を振り、可能な限り現代語表記にして、その息遣いを味わってみよう。

1-丈夫は世界に立ち向かいその意志は大きい
2-時が英雄をつくり英雄が時をつくる
3-天下を雄視しいつの日に業を為すか
4-東風がだんだん冷たくなり壮士の意気は熱い
5-憤慨して一度去るも必ず目的を果たそう
6-こそ泥伊藤よ喜んで命を比そう
7-もしかしてこうなるだろうとうかがわせ、事勢が固然とし
8-同胞、同胞よ、速く大業を成そう
9-万歳、万歳、大韓独立よ
10-万歳、万々歳、大韓同胞よ

まず、第3行の「いつの日か」の「いつ(オニ)」は、標準語に直さずにそのままにしておいた。標準語の「オヌ」よりも口語体「オニ」のほうがハングル版の詩の呼吸には合っている。第5行の「必ず(パンダシ)」も口語体をそのまま生かした。標準語の「パンドゥシ」よりも「パンダシ」のほうが意志を強く感じる。第6行の「○○」はもちろん、伊藤博文を指す。なぜ安重根は彼の名を隠したのだろうか? すでに天下の誰もが知っていることであったろうから、何かを恐れてそんなことをしたのではもちろんないだろう。私は「○○」に安重根の錯雑とした心情を見る。たとえ処断対象であってもその名をストレートには挙げかねるということもあっただろうが、それがややもすればテロとみられる憂慮が大きかったからであろう。知られているように、安重根は復讐のために伊藤を狙撃したのではない。私は他方で、伊藤を不憫に思う安重根のその心情を受けとめ、「○○」が指すものを露わすることにした。そのさい、「伊藤(イトウ)」ではなく「イドゥン」を選んだ。漢字表記の日本の固有名詞を日本式の発音で読むようになったのは最近のことであるから、安重根も「伊藤」を「イトウ」ではなく「イドゥン」〔「伊藤」の漢字の朝鮮語読み〕と読んだことに、ほぼ間違いはないだろう。第7行の「うかがわせて(シアリョッスリオ)」も、第3、第5行の例に従って標準語の「ヘアリョッスリオ」に直さずに口語体のままにした。

さて、何にもまして作品としてこの歌に迫ってみよう。全10行からなるこの詩の歌い手には、大志を抱く若者が設定されており、冒頭から意気高々である。その意気は第2行へとそのまま続く。英雄と時が双方向的に行き交う堂々たる言述をつうじて、人間の時間的被拘束性を受け入れつつも、時間を創造することもできる人間の主体性を一段と強調する認識枠組みをうかがわせる。 この一節は英雄と時勢の関係に対する東アジア啓蒙主義者の議論を連想させる。福沢諭吉が英雄という航海士よりも時勢という蒸気船のほうを強調した一方で、梁啓超は時勢という巨大な風よりも波を作り出す蛟龍/鯨という英雄の役割のほうに注目したことを思い起こすなら(ペク・チウン「『自由書』を構成する数々のテクスト」『中国現代文学』第31号、2004年、92~99頁)、英雄が時をつくるという部分を強調した安重根は、梁啓超のほうに近い。 そうして彼は天下を雄視する。英雄の目で世界を見ることを指す「雄視」という語から推し量るに、彼は世界の形勢を注視することに集中し、「業」を為すその日のことを思っているのだろう。彼が為そうとする「業」とは、この詩の最後の部分にあるように、「大韓独立」である。しかし「大韓独立」が東洋平和の基礎だという点を想起するならば、これが単純な民族主義の実現に留まるものではないことを認識すべきである。彼は大韓独立を基盤とし、東洋の連帯を成し遂げることによって西洋の侵略を共に防ぐ一方で、さらには平和の共同体建設を見通していたのである。しかし、第3行を締める疑問文に滲む一抹の懐疑は、一歩進んだ第4行で突然にして語調の変化をもたらす。冷たい風と熱い意気の対比は、実際にはある種の焦燥感の表出であろう。そうして彼は「伊藤(イドゥン)」を処断するという目標の下、憤慨に身を震わせ、その完遂を心に刻む(第5行)。第6行はとても固い。「喜んで命を比する」とは何を意味するのだろうか? やむなく「イドゥン」を処断することに命をかけるが、正直言ってこの程度は命をかけるほどのことではないという、彼の高い自負心がむしろ物淋しい。彼はずっと伊藤博文を撃つことに不満を禁じえなかったのである。その不満は第7行へと続く。「私も事態がこうなるとは思っていなかった」という嘆きのように、東洋平和を見越しつつ韓国独立戦争に参与することを夢見た彼は、結局、その大志を折りたたんで「イドゥン」を撃ち殺さざるをえなくさせた事情を沈痛にも受け入れる。「事の形勢がもともとそうだ」あるいは「事の形勢が本当にそうだ」と解釈できる「事勢が固然とし」に色濃く滲んだ諦めは、より積極的に見るならば自由と必然が出会う一種の運命愛(amor fati)ではないだろうか。しかし、第7行にはさまざまな意味が重ねられている。隠れた主語を安重根ではなく伊藤だと想定することもできるからである。日本の内外を横行し隣国を逼迫していた権力ゲームにはまりこみ、自身の突然の死さえ予見できなかった伊藤を見る彼の視線もまた錯雑としているのである。それでも、彼は伊藤の死を「もともとそのような」こと、すなわち必然の事態であることを冷厳に指摘する。 章炳麟もまた詩「弔伊藤博文」で伊藤を、自分が作った法に縛られて結局死に至った秦の宰相・商鞅に比喩した。パク・ウンシク、前掲書、168~69頁。   第8行は、言うなれば同胞に向けて残した遺言である。彼が為し得なかった大業、すなわち韓国独立を基礎とした東アジアの平和が構築される日の到来のために、邁進してくれるようにと託したのである。そうして第9、10行は未来の大韓独立と大韓同胞に対する最も熱烈な献辞となる。ここで注目すべきは、大韓独立よりも大韓同胞が後に来るという点である。彼にとってもっとも重要なのは人である。独立も人間が為すことであり、その後に約束のように到来する平和の世界を切り開いていくのも人間だからである。第9行と第10行で繰り返される「万歳」が少しアレンジされているが、これは安重根の鋭い感覚を示している。第9行の「万歳、万歳」を第10行の「万歳、万々歳」に変形させることによって、この詩に終止符を打ったのだが、彼は詩をどのように終えるべきかを本能的に体得していたのである。

以上の粗い分析からもわかるように、ハングル本「丈夫歌」は、並大抵のものではない文学性を内包している。その文学性が東洋平和論と結びついているという点からしても、さらにそうだといえる。親日開化論または無国籍の近代化論、そして復辟の抗日論あるいは抵抗的民族主義に支配された詩歌が量産された時代に出現したこの詩は、すでに21世紀を見通しているのである。

 

4. 21世紀の「東洋平和論」のために

 

「東洋平和論」の目でハングル本「丈夫歌」を吟味することによって一層明らかになったように、安重根は孤独な刺客ではない。彼は独立戦争の名誉ある戦士だった。にもかかわらず、内外で状況が悪化したことによって、結局、伊藤を狙撃するという貧しい方法、すなわち刺客というあり方をあえて選択するほかなかったのである。挙事前後に彼が旺盛な文筆活動を通じて自身の立場を明らかにすることに熱中していたのも、誤解を防ごうとの努力の一環だったのであろう。しかし彼は刺客としか見做されなかった。戦争捕虜の身分にふさわしく扱えという安重根の要求は、日本によって黙殺されたうえに、この事件を大韓帝国の植民地化に拍車をかけることに素早く悪用した如才ない帝国主義者たちが、朝鮮でわがもの顔に振舞った。テロは組織的な反革命を招来するという原則を確認させてくれるかのように、事件発生1年も過ぎないうちに為された国恥〔韓国併合条約締結を指す〕によって、さらに彼はテロリストとして規定されてしまった。しかしこれは短見である。「中‐朝人民の日本帝国主義侵略に反対する共同闘争は、今世紀初めに安重根がハルピンで伊藤博文を射殺した時から始まった」 大連大学の劉秉虎教授によれば、この言葉は北朝鮮の崔庸健(チェ・ヨンゴン、1900~76)が1964年にハルピンを訪問し面会した周恩来首相の発言だという。東北抗日聯軍で活躍した崔庸健は、解放〔1945年8月15日〕後、北で朝鮮労働党中央委員会秘書などの要職に就き、その後1972年には国家副主席に就任した軍人政治家である。 という周恩来の指摘のように、安重根の挙事は、朝鮮はもちろんのこと中国の運動においても生き生きした刺激となったのである。再度強調するが、彼は成功した荊軻や豫讓ではない。

伊藤を処断したその最後の戦闘もまたテロの形式を借りた独立戦争だった。しかしそれ自体が彼の独立戦争の目的ではない。韓国の独立は歴史の終焉ではなく「東洋平和」へと向かう新たな歴史の出発に過ぎなかった。その思想の核心が込められた「東洋平和論」とハングル本の「丈夫歌」こそまさに、彼が自らの命をかけて私たちに伝えた偉大な遺産である。21世紀の東洋平和論、すなわち朝鮮半島の統一過程をもとにした東アジア論を創発的に構想し実践することが、こんにち、安重根を真に継承する道であると心に刻みたい。地域平和の基礎となる〔朝鮮半島〕南北国家連合(confederation)建設のために「大韓同胞」たちの健闘と、隣国市民たちの連帯がこれまで以上に切に求められる。そのような状況下で開かれた今回の会議が、その重要な礎となることを望んでやまない。

 

〔訳=金友子〕

季刊 創作と批評 2010年 夏号(通卷148号)
2010年 6月1日 発行
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