창작과 비평

6・15共同宣言10年を読む : 体制認定の苦難の道を越えて

論壇と現場 | 連続企画 · 韓国史100年の見直し③

 


鄭鉉坤(チョン・ヒョンゴン) 民族和解協力汎国民協議会政策研究委員。主な論文に「南北社会文化交流の発展のための方案」「南北交流ガバナンスの実体分析及び評価」などがある。  jhkpeace@empas.com

6・15共同宣言が発表されて10年になる。6・15は今日の「天安艦現象」を迎えるに至ったが、北朝鮮の体制を決して認めまいとする反発の流れは過去にも経験している。北朝鮮体制の認定に対する強い反感という側面から見れば、10年になる6・15共同声明は幾多の峠を越えてきたといえる。多くの難関を抱える体制認定の苦難の道、10年を経た6・15の現在の姿である。

 


2000年の6・15共同声明、「過程としての統一」へ

 

6・15共同宣言はどのような意味を持っていただろうか?その宣言が生き生きと実を結んだものとして開城(ケソン)工業団地があるだろう。軍事分界線を行き来する南北の通路であり南と北の住民の共同生産空間である開城は、200万人近くが訪れた金剛山観光、あるいは70万人以上が行き来した南北交流の、さまざまな現場で感じられた南北関係の変化のうちでもひときわ目立つシンボルである。 2008年7月11日に観光客の朴旺子氏襲撃事件が発生する前までに金剛山には総数1,934,662人の南側の人が訪問した。その他にも、南北往来人数は2009年末現在742,300人で、そのうち南から北に行ったのが734,565人、北から来たのは7,735人である。統一部ホームページ参照。 このように、6・15共同宣言は交流の日常化現象を意味する。分断によって断ち切られた道が開かれ、戦争の傷跡を背景にむやみやたらと続いていた敵対的南北関係の流れを覆し、和解・協力政策へと歩を進めた歴史的転換である。

ここで、日常化した交流が意味するものは何であろうか? この問いに答えるためには、6・15共同宣言の読解が必要である。6・15共同宣言には「過程としての統一」または「事実上の統一」という新たな発想が盛り込まれている。この発想は、統一の完成状態のみを目標にするのではなく、過程もまた統一であるとし、その過程自体を統一と認識しようという点を特徴としている。したがって、完成した統一というかたちではないが、「事実上の統一」が可能になるのである。ここで言う「事実上の統一」とは、和解と協力段階で実現できると説明される。 林東源『ピースメーカー』(中央ブックス、2008年)、57頁。 単一型国民国家という完全な統一のみを描くのではなく、ある程度の統合作業を統一として理解するという、発想の転換である。  「私はここで、私たちの統一に対する概念を変えることを提唱したい。単一型国民国家での『完全な統一』という固定観念を捨て、連合制と低い段階での連邦制の間のある地点で、南北間の統合作業が一次的な完成に達したことを双方が確認した時、『一段階の統一』が成されるという新しい発想が必要です。言うなれば、何が統一でありいつ統一するのかをめぐって争うことなく、南北間の交流と実質的統合を多角的に進めていき、ある日ふと、『あれ、かなり統一されたね、統一されたって一緒に宣言してしまおう』と合意すれば、それが私たち的な統一というものです」、白楽晴『韓半島式統一、現在進行形』(創批、2006年)、20-21頁。

もちろん、この発想の新しさに大きな意味を付与しない人もいるだろう。代表的なのが、この宣言を一種の機能主義あるいは自由主義の論理で理解する傾向である。社会・文化・経済などの交流協力を通じて政治と軍事の統合も可能になるといったような理解に対しては、すぐさま反論が出た。まず、体制を異にする二つの国がこのように統一できたことはない、という指摘がある。体制が異なる二つの共同体が合わさる過程が、実際に段階的・漸進的そして平和的だとしても、究極的には明らかに片方がもう片方を吸収するかたちになるだろうとの主張である。また、「首領制の独裁体制」を維持している北朝鮮がこのような漸進的交流を通じて自信の考えを変えて改革・開放に着手することは期待しがたいという反論もある。このような理解は、吸収統一は不可避であるとの考えに近接している。しかし、この種の議論には認識の空白がある。段階的で漸進的な時間の流れの中で形成されるアイデンティティという視点を見落としているのである。アイデンティティが認識枠組みから排除されたのは、それが未来の問題であるのに、現在的な思考でのみ規定しようとしているためである。

 

6・15共同宣言第2項と「吸収統一の排除」という公約

 

6・15共同宣言を作成する過程で第2項はまさにこのアイデンティティ問題を扱っている。認識は初期段階だったが、それは当時の議論が入口にあったからである。南北の両首脳も、未来型認識の空白から自由ではない。しかし、北の方がこの問題を現実的に感じているとも思われる。金大中(キム・デジュン)大統領が10年、20年をイメージしていたのに対して、金正日(キム・ジョンイル)委員長はむしろ40年、50年をイメージしていたとも見受けられる。

6・15共同宣言の第2項の議論を、未来のアイデンティティの議論に向けた第一歩と考えるなら、まず必要なのは統一過程に対する相互理解だった。それが「南北連合」あるいは「低い段階での連邦制」と表現され、議論は比較的容易に妥結した。「南北連合」や「低い段階での連邦制」は、単なる表現上の違いであって、段階的で漸進的でありつつも平和的な統一を成すためには、そのような中間段階を経ることが必要であるとの点で、認識が共有された。合意文第2項は「南と北は国の統一のための南側の連合制案と北側の低い段階での連邦制案が、互いに共通性をもつと認定し、今後、この方向で統一を指向していくことにした」とまとめられた。

ところがここで、南北の全面的な交流のためには「南側による吸収統一の排除」という公約を追加することが必要になった。南北連合ということで合意がなされたとはいえ、吸収統一が徹底的に排除されたわけではなかったからである。実際、南側のいう南北連合は吸収統一を排除していない。盧泰愚(ノ・テウ)政権の「韓民族共同体統一方案」や金泳三(キム・ヨンサム)政権の「民族共同体統一方案」など言うまでもなく、金大中大統領自身の「共和国連合制」 盧泰愚政権と金泳三政権の統一方案において、南北連合は和解・協力段階以後の第二の段階とされ、最終段階の民族国家は統一憲法による総選挙で構成するとされている。金大中大統領の「共和国連合制」は、南北連合→連邦→完全統一の三段階統一方案のうち第二の段階で連邦を構想している。鄭成長「南北連合の制度的装置および運営方案」、シン・チョンヒョン他『国家連合の事例と南北統一過程』(ハンウルアカデミー、2004年)、226-53頁。 でさえ、南北連合は完全な統一に向かう過渡的統一体制として想定されており、完全統一には往々にして南側の秩序が念頭に置かれていた。その点、吸収統一の排除という問題は、単に政府主体の具体的政策と意志の表明を通じて約束されることである。北としては金大中大統領の対北政策三原則で表明された「吸収統一の排除」から、その意志を読みとったのであろう。

 

統一の中間段階、北の方がもっと考慮していた

 

2000年の会談当時、金正日委員長が「低い段階での連邦制」にかなりこだわっていたことが報道された。当時の会談で金委員長はまず「連邦制統一を目指しはするが、いったん、低い段階での連邦制から始めることで合意」しようと積極的に提起し、さらには「大統領のおっしゃる『連合制』はまさに私の言う『低い段階での連邦制』と同じもの」であるとの論を立てたという。 2000年の会談当時、金正日委員長が「低い段階での連邦制」にかなりこだわっていたことが報道された。当時の会談で金委員長はまず「連邦制統一を目指しはするが、いったん、低い段階での連邦制から始めることで合意」しようと積極的に提起し、さらには「大統領のおっしゃる『連合制』はまさに私の言う『低い段階での連邦制』と同じもの」であるとの論を立てたという 。 連合と連邦についての両首脳の討論は、林東源(イム・ドンウォン)国政院長(当時)まで加勢して、両制度の差異を認識するまでに話が進んだ。 「私どもが主張する『南北連合』とは、統一の形態ではなく、統一以前の段階で南と北の二つの政府が統一を指向して互いに協力するための制度的装置のことです。統一された国家形態を指す『連邦』とは別の概念であることを理解してくださればと思います」。同上、103-104頁。   金正日委員長はその中で「連邦制」によって即刻統一することなど冷戦時代にも出ていた話で、完全統一までは40年、50年かかるだろうとし、自分の言う「低い段階での連邦制」が「南北連合」と同じであることを重ねて確認した。この討論は、すでに知られているように、二つの制度の間に共通性を見出し、その方向で統一を目指すという線で落ち着いた。

金正日委員長は、なぜこのように「低い段階での連邦制」という名称に未練を拭えず、また「南北連合」とまで表現して連邦と連合という二つの制度の共通性に執着したのだろうか? とりあえず「低い段階での連邦制」という表現を固守したことについては、考えられる理由がある。南北連合が分断を固定化させるやり方になりうるとの判断から、北の「ひとつの朝鮮」政策を、どのようにであれ表現しようとしたという側面である。 「低い段階での連邦制案は、連邦制に進むための暫定的措置」『労働新聞』2000年10月9日;「連邦共和国創立方案に対する民族的合意をより簡単に成し遂げるために、暫定的には連邦共和国の地域自治政府により多くの権限を付与し、将来的には中央政府の機能を一層高めていく方向で、連邦制統一を漸進的に完成するための方案も宣言されました。偉大な首領が明らかにされたこの法案は、結局、低い段階での連邦制案です」安京浩「『高麗民主連邦共和国創立方案』提示20周期記念平壌市報告会の報告」、朝鮮中央放送2000年10月6日。  「連邦制」は金日成(キム・イルソン)主席の遺訓でもあること、また、統一問題こそ北の方が正統性を発揮できる場であるとの認識を植え付けることができるし、統一への指向性をより明確に表現できると考えたのではないか。しかし、ここでより重要なのは、その表現を譲ってまでして、共同宣言の第2項を合意しようとしたのはなぜか、である。

当時、金正日委員長は、連合制と連邦制について討論し合意した後、休憩をはさんで再開された会談で、この問題を再び持ち出した。第2項の合意が、政府が野党になったとしても守られるのかというのが、彼の質問だった。続けてアメリカ問題にも言及した。金正日委員長は「私が大統領に秘密事項を正式に申し上げます。米軍駐屯問題ですが……」と切り出し、北がすでに1992年初めの時点でアメリカに特使を送って駐韓米軍の駐屯を容認すると伝えた、との内容を口にした。 林東源、前掲書、115-116頁。 

この対話の流れから、私たちは北が南との全面的な交流に先だって、確実な体制保障装置を準備したがっており、それが第2項の論議に強く作用したと推察できる。この時、野党あるいはアメリカは、北にとっては一種の障壁を意味していた。よって「南北連合」であれ「低い段階での連邦制」であれ、相当期間の中間段階を設定しておくことが第2項の含意だとすれば、この問題は体制面で劣勢にあった北においてこそ必要な措置だったというわけである。

6・15共同宣言は、この第2項の合意に基づいて第3項の人道主義、第4項の経済交流と社会文化交流、そして第5項の当局者会談に向かったといえる。

6・15共同宣言について、それが交流の日常化であるという時、異なる体制間でなされる交流の空間には、体制を危うくする要素が作用するのが常というものである。したがって、この過程を長期間の中間段階として設計し、非常に意識的な運営原理に基づいて作動させる必要がある。それが「南北連合」または「低い段階での連邦制」がもつ共通性の意味だったのであり、この段階を運営する原理こそまさに体制認定だったのである。

2000年の選択と相互要求の対称性

体制認定の実体分析のために「2000年の選択」という概念を使ってみたい。ここで「決定」ではなく「選択」と表現したのは、そこに条件を含めたかったためである。「2000年の選択」には6・15共同宣言のみならず、同年10月12日に発表された米朝共同コミュニケも含まれている。

米朝関係は共同コミュニケによく表れている。この会合で両者は「最初の重大措置として、どちらの政府も他方に対して敵対的意思を持たないことを宣言し、今後、過去の敵対感から脱却し、新たな関係を樹立するために、あらゆる努力を尽くすという公約を確認」する。 ホ・ムニョン他『韓半島平和体制――資料と解題』(統一研究院、2007年)、32頁。 ここで、米朝関係の根本的な変化を引き出す要素は、大きく分けて二つある。一つは核活動とミサイル発射実験の凍結を北が約束することである。まず、ジュネーブ合意以降アメリカが北の追加核活動疑惑を提起し目をつけた金倉里(クムチャンニ)の施設は、1999年5月の現場訪問によってその嫌疑が晴れている。北が1998年8月31日に発射した長距離ミサイルについては、翌年9月になって「交渉を進める中での凍結と対北支援」によって解消された。共同コミュニケが「ミサイル問題の解決が朝米関係に根本的な改善」   同上、33頁。 をもたらすと示した点に照らせば、この問題の重要性もわかるはずである。当時、アメリカがウィリアム・ペリー前国防長官を対北政策調整官とするタスクフォースを作って接近した方法が、米朝間の相互脅威の減少のための包括的対話だった。アメリカは、北が経済制裁の解除を望んでいること、アメリカの核能力が自身に向けられているかもしれないとの北の危機意識を認めることになったのである。   ペリー報告書は、北が感じる威嚇認識には2種類があると理解している。一つは軍事面での威嚇である。ペリー報告書は1994年に米朝間で採択されたジュネーブ合意に基づくと述べている。ジュネーブ合意はその第3条に「米国は北朝鮮に対して核兵器を使用せず、核兵器で脅かさない公式保証を提供する」と明記している。もう一つは経済面での威嚇であり、北朝鮮は米国が長期にわたって課してきた経済制裁の解除を重視していると指摘している。「ペリー報告書」(Review of United State Policy Toward North Korea: Findings and Recommendations 1999.10.12)、同上、539-63頁。 もうひとつは、南北首脳会談の成功である。共同コミュニケで両国が「歴史的な南北首脳会談によって朝鮮半島の環境が変化したことを認定」し、よって「二つの国の双務関係を根本的に改善する措置を採ると決定」 同上、32頁。 したというのである。米朝両者の公約は、このような二つの前提を元に、人道主義の実践、経済交流、反テロリズムへの賛同など、協力の要素を帯びることになった。

ここで私たちに確認できるのは、まず、米朝間の相互威嚇が存在し、この威嚇を実質的に抑制することこそ両国の関係を正常化する通路となるという点である。第二に、南北首脳会談がアメリカに投げかけた意味は、脅威を与えうる能力を抑制するという北の公約を信じるに足るものとする装置こそまさに南北関係であるという点である。結局、「相互威嚇の抑制」が中心的な内容であることがわかる。

6・15共同宣言は、先に言及したように、北の体制保障に基づいた全面的交流である。金大中大統領が首脳会談を終えた帰途で「朝鮮半島にはもはや戦争はない」と述べたが、平和を表すこの象徴的な言葉から、南側が首脳会談でどのような果実を得たのかを知ることができる。その点で、6・15共同宣言は、北の体制認定、南の威嚇の減少を相互要求として盛り込んでいることがわかる。

 

体制を認められるための北の行動は適切か

 

体制認定に対する北の執拗な努力は、米朝関係あるいは南北関係において頻繁に表面化する対決と断絶の現場に見ることができる。もっとも顕著な事件として、2002年10月に北のウラン濃縮計画をめぐる攻防が、ジュネーブ合意を破棄に至らせ、北の核開発の追い風になったことが挙げられる。当時、ブッシュ政権は対北重油提供を禁止し、軽水炉建設も中断した。北は急速に核兵器の開発を進め、2005年2月10日に核兵器保有を宣言した。これは「相互威嚇の減少」という約束をアメリカが先に破ったことに対して、北が威嚇能力を増大させることによって対応していった結果である。

体制問題を核兵器開発で迎え打った北朝鮮の立場への対応は、2005年2月21日を前後して表明されたが、この時韓国政府は北に対する肥料支援を確認し、核兵器と人道支援は別問題であるとの立場で対応することになる。このことは、韓国政府の6・15共同宣言の遂行において非常に重要な意味を持つ。というのも、当時の北が核兵器を保有したのは、アメリカが北の体制を脅かしたことに応じたものとも受け取れるからである。それは2004年11月13日に盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(当時)が米・ロサンゼルスで開かれた国際問題協議会主催の昼食会での演説で語った内容と軌を一にする。この演説で盧武鉉大統領は「北朝鮮は核とミサイルを外部の脅威から自国を守るための抑制手段であると主張しているが、少なくともこの問題に関しては、さまざまな状況に照らし合わせて考えれば一理ある」 「盧大統領WAC発言――米強硬派に‘注意’喚起メッセージ」『国民日報』、2004年11月14日。 と述べた。当時、参与政府〔盧武鉉政権〕としては、アメリカの方が先に相互威嚇の減少という公約を取り消したことが北の核開発を招いたのであって、これを立て直していくことによって、核兵器問題も解決できるとの考えであった。

このような認識枠組みで鄭東泳(チョン・ドンヨン)特使は、金正日委員長と面会し、南北関係の再開はもちろん、核問題解決のための六者会談の再開を引き出した。そして9月19日の第4次六者会談共同声明をつうじて「朝鮮民主主義人民共和国は、あらゆる核兵器と現存する核開発計画を放棄すること」を公約し、「アメリカ合衆国は朝鮮半島において核兵器を有しないこと、核兵器または通常兵器によって朝鮮民主主義人民共和国を攻撃または侵略する意図を有しないことを確認」 ホ・ムニョン他、前掲書、24頁。 したのである。

他方で北が感じる体制威嚇の水準は、南北関係が頻繁に断絶していることにもよく表れている。2001年にブッシュ大統領と金大中大統領の首脳会談(3月8日)を前後して、ブッシュが金正日委員長を「独裁者」「甘やかされた子ども(spoiled child)」と呼んだことに北が反発し、3月13日に予定されていた南北長官級会談への参加を一方的に取りやめ、南北当局間関係を1年以上中断させたことがあった。当時、北の名分は金大中大統領がブッシュ大統領を説得できなかったというものであったが、過度な反応だといえるだろう。また、2002年6月の西海交戦は、北の奇襲による先制攻撃が韓国の将兵6人の命を奪った事件であるが、これは威嚇の減少という約束に、北の方が先に違反したケースだった。北はこの事件が偶発的だったと伝えてくると同時に遺憾を表明した。幸運だったのは、この事件の収拾後、北が民間レベルでの8・15ソウル大会に北の代表団110人を参加させたのを皮切りに、第5次離散家族再会(9月13日)、南北鉄道・道路連結工事の着工式(9月18日)、釜山アジア競技大会への北の選手団参加(9月19日)、北の経済考察団の訪韓(10月26日)など、南北交流に積極的に応じてきたことである。一方で参与〔盧武鉉〕政権が発足し、対北送金特別検査を決定した点は、当時北の核兵器問題で世論が悪化したことを差し引いても、過敏対応に見える。これによって南北関係発展への期待は冷めきった。2004年7月17日にはベトナムに在留していた468人の脱北者を韓国政府が迎え入れたのだが、北は8月3日に予定されていた南北長官級会談への不参加をはじめとして、翌年5月まで当局間会談を拒否した。北はこの事件について、韓国政府が体制認定の約束に背いたと理解したのである。

2006年7月に北は長距離ミサイルを発射し、同年10月に核実験を強行する。この衝撃的な事件は、北朝鮮が感じる体制への威嚇のレベルがどれほど深刻なのかを改めて浮き彫りにした。問題となったのは、アメリカの金融制裁だった。当時、米財務省は北朝鮮の資金2500万ドルが預金されていたバンコ・デルタ・アジア(BDA)銀行を、資金洗浄(マネー・ロンダリング)の懸念対象と指定するというやり方で、北朝鮮の国際金融関係網を遮断した。北はこれを、体制崩壊を試みる行為と見做し、ミサイルと核のカードを突きつけたのである。ここでの問題は、アメリカの対北金融制裁が体制崩壊戦略の一環なのかどうかという点である。この制裁措置が2002年初期から北朝鮮に狙いを定めていた点、具体的物証を提示できなかったにもかかわらず、北の嫌疑を既成事実としたことなどからすれば、攻撃的な点が認められる。 この措置の出発である不法行為防止構想(IAI)は、北朝鮮が麻薬や偽造紙幣など不法行為を通じて政権を支える資金を調達しているとのブッシュ政権の判断により、2002年初めに始まった。この機構は国務省など14部署200人程度の官吏が参加する汎政府的組織へと発展し、15の外国政府と国際機構による国際的対応機構として位置づけられていく。2005年当時の米財務省の措置は、愛国法311条に基づいて米司法府が国際犯罪者80人を偽タバコ製造疑惑で起訴したことに起因している。その国際犯罪網の一部がマカオのBDAと中国銀行などを利用したという情報をキャッチしたのである。当時米司法府は北朝鮮が別名「スーパーノート」と呼ばれるニセ札に関与していると推定したが、ニセ札の出処を起訴状に明示することはできなかった。 徐載晶「BDA問題の解決か? 縫合か?」、新しいコリア構想のための研究院『新しいコリア構想Ⅱ』(2009年)、138-41頁。   その上、アメリカが北との交渉に着手し2・13合意 2007年2月13日に六者会談で発表されたこの合意文の名称は「9・19共同声明履行のための初期措置」である。これによれば、北朝鮮のすべての核施設閉鎖と不能化、すべての核プログラムの申告を代価として重油100万トン相当の支援が提供される。そして米国の北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除と敵性国交易法適用終了プロセスも同時並行して進められる。 ホ・ムニョン他、前掲書、25頁。 を導き出し、アメリカ連邦準備銀行を媒介に北の資金を返却したことが、北朝鮮の主張の若干の後押しとなることも明らかである。この事件は軍事的制裁と、それに対応する軍事行動の対称性を越えて、経済制裁に対して軍事行動を強行した初の事例であり、以後の北朝鮮の行動パターンを予告するものでもあった。

2007年10月に第2次南北首脳会談が開かれた。南北関係は新たな跳躍段階を宣言し、「金融制裁と体制認定」の対立から核実験をも招来してしまった問題も収拾された。軍事制裁はもちろん、経済制裁までをも含む一切の制裁行為が体制崩壊を試みるものだとする北の認識は、威嚇のレベルを上下させる。しかし「核活動」ではなく「核兵器」だとしても、放棄するとの公約が守られる限り、2000年の選択は今尚存在している。 2000年当時の状況と2007年の状況の違いは、核兵器と長距離ミサイルによって現実化した北の軍事的威嚇能力である。この威嚇能力が南側に認知され、威嚇認識を構成することで、軍備競争を刺激するのである。したがって「2000年の選択」の差配がさらに難しく敏感になっていることも明らかと思われる。

 

北の第2次核実験と新たな挑戦

 

北が2009年に見せた一連の行動は、過去とはまた別の流れを示した。2009年4月の人工衛星試験発射と5月の第2次核実験のことである。人工衛星の発射と第2次核実験は、一続きの連続線上で理解することができる。人工衛星が発射され、国連の対北制裁があった途端に、第2次核実験が強行されたからである。「国連の対北制裁―核実験」のつながりは、2006年に北が見せたパターンの延長であり、威嚇のレベルも同様である。ここで論理的な問題は、それに先立つ「人工衛星発射―国連の対北制裁」の連環において発生する。北はこの問題を宇宙の自由な利用権によって正当化する。そのさい、人工衛星かミサイルかという科学的な定義の問題は、実際のところ米朝関係の本質ではない。長距離投発能力を有するという点で、この問題は、相互威嚇を扱う政治の問題である。1998年に北が発射した物体に対して北は人工衛星「光明星1号」と命名したが、米朝間の協議過程では長距離ミサイルでの威嚇という政治アジェンダとして整理されたことが、この意味をよく示している。とすれば、人工衛星が発射されたその時期に、アメリカが北を威嚇したのかが判断の指標となる。当時、オバマ政権の対北政策はまだ固まっていなかったが、交渉を主軸とするだろうとの期待があったと考えるなら、威嚇が存在したとは判断しにくい。結局、北の先制行動であり、米朝関係の交渉ルールを踏み越えた行為だといえる。

2009年のこの現象は、過程上の逆転ともいえる。かつてはアメリカがプレッシャーをかければ北が核とミサイルを武器にして再び交渉するというかたちだったが、今回は北が先に事を起こし、アメリカが交渉に打って出るという局面になった。

北はなぜこのような行動パターンの変化を見せたのだろうか? 核実験の経験と保有している核物質の実体が、このような行動の積極的な動機付けとなったともいえるだろう。さらに、北朝鮮内部で後継者問題が大きく浮上したという事情もあるだろう。とくに後継者問題は、北としては体制の死活的な利害がかかった問題となる。この状態なら、北の体制は米朝関係や南北関係とは関係なく、自分の日程を強行しうる。

2009年のこのような変化が、南北・米朝関係の本質を変えることはあるだろうか? それはないだろう。本質を変えるには、北は朝鮮半島の非核化を放棄すると宣言せねばならない。そして核兵器の保有と経済成長を同時に図ることのできる対策も必要である。しかし、朝鮮半島非核化を拒否したままで国際社会との経済関係を形成していくという、このような計画は、最大の友邦である中国さえ説得するのは難しい。とすれば、2009年のこの変化の意味は、若干小さくなる。北としては、より多くの軍事能力を確保することによって、体制内の政治的安定性、交渉における心理面での自信、やりとりの多くなった交渉上の柔軟性などを得ようとしたとの解釈が可能になるだろう。

北は第2次核実験までの日程を完了してから、本格的な和解局面への移動を試みた。クリントン元大統領を招請して抑留していたアメリカ人記者を釈放し、金大中元大統領の弔問外交をつうじて南北首脳会談を打診した。

外部の威嚇に対する制御としてのみではなく、内部問題までをも含んだ北のこの過度な体制保障行動は、受け入れられるだろうか? さらには、それが北朝鮮内部の後継問題と結びついた内的動機だとしても? これは、6・15共同宣言に提起された新たな挑戦である。ここには、高まる威嚇能力を除去するのに伴う経済保障の増大、駐韓米軍の性格転換をも視野に入れた平和協定の論議、そしてさらには北朝鮮政権のスムーズな移譲もまた含まれている。ここで6・15共同宣言の答えは、やはり明確である。相互威嚇の除去と関係正常化、体制保障と平和という要求の対称性が維持されるのであれば、「2000年の選択」は今尚有効である。

 

2010年、いかなる変化を読みとり、受容するべきか

 

今、6・15共同宣言は実現されうるだろうか? 答えはイエスである。現政府が6・15共同声明が経てきた歴史を理解し、これを継承するのであれば、六者会談も南北関係も同時に発展させることができるし、核問題も解決プロセスに載せることができる。6・15共同宣言は、韓国政府の課題実行実行能力の中に存在してきたし、今もそうだからである。

しかし、10年になる6・15共同宣言を実行するためには、韓国社会で起こったさまざまな変化を感知し、反映する必要がある。最も重要なものとして考慮すべき点は、この10年間、韓国社会で急速に格差が広がったことである。雇用なき成長と庶民経済の悪化は、対北支援と軍事費上昇を同時に容認することを難しくする。つまり、平和の確保が軍事費の縮小につながり、その恩恵を庶民の福祉に行き渡らせるような、強力なプロセスが作動しなくてはならないのである。和解・協力政策が平和を作るという設定が6・15共同宣言であったなら、今は平和が和解を呼び起こすという6・15共同宣言の実体化が求められる。このためには、北の威嚇能力の減少を現実化することのできる交渉が必要である。

北の威嚇能力減少は、アメリカに対する韓国の軍事的依存を縮小させるための根本でもある。アメリカに対する軍事的依存の増大は、北の威嚇的な軍事力を理由に維持されており、イラクやアフガニスタンなど、世界の紛争地域に韓国軍の派兵を望むアメリカの要求が随時提出される理由にもなる。ここに一つの逆説があるのだが、軍事力依存からの脱皮が自主国防を志向すると、軍事費の増大は続き、これは南北間の相互威嚇能力の拡大を当分の間制御しにくくするものであるという点である。結局、この問題を同時に解決するポイントとなるのが、平和協定の締結である。

他方、北の威嚇能力を減少させるこのような過程が安定して進められるには、南北連合の制度化が同時に必要となる。北にとって最大の脅威となる存在は結局韓国社会の存在であるという点からすれば、「平和協定が締結され米朝関係が正常化され、外部の経済支援が増大するとしても、それだけで分断国家としての体制の安全性が保障されることはない」   白楽晴「‘包容政策2.0’に向けて」『創作と批評』2010年春号、84頁。 と北が感じる可能性は十分にある。この場合、平和協定の推進過程も壁に突き当たるかもしれない。6・15共同宣言第2項の作成過程から確認できたように、ここで言う南北連合は「連合制」と「低い段階での連邦制」の共通性を制度化した、新たな南北連合である。これには体制認定の制度化がカギとなる。

6・15共同宣言の実行において、政府と民間分野のガバナンスを拡張する問題も重要である。制御しがたいアメリカと北を引っ張り出し、平和の道へと進むためには、政府の力だけでは足りない。より多くの知恵を結集し、参与を拡大することが求められる。とくに政府が韓米同盟を過度に重視した結果、韓中関係が悪化したことで、朝鮮半島に緊張が走る昨今にあっては、バランス感覚のある民間外交の役割はさらに重要になるだろう。他方で分裂と対立線上にある現在の市民社会は、このような課題を担うに堪えないのではないかとも憂慮される。責任性と専門性を備えているのかという冷静な指摘もある。市民社会の分裂は市民社会そのものの問題というよりは、政党と政府の対決的な姿勢が原因である。市民社会内部はだいたいにおいて疎通と相互理解を追求しており、対決に動員される一部の勢力こそむしろ例外的である。政府がガバナンスを実行していけば、自力で解決できると断言できる。そして、責任性を高め専門性を強化することは、市民社会が自身を振り返って考えるべき問題であり、力量強化に拍車をかけるだろう。

対北事業に関連するさまざまな分野を市民社会に任せることも、6・15共同宣言を改めて実現していくさいに必要である。ここでは公共サービスの民間移譲という観点が、一つの出発点になりうる。対北関係の場合、最も重要なのが経済と社会開発であり、これは公共サービス分野であるといえる。公共サービス分野の民間移譲は、政府負担を減らし、社会の底辺を広げる効果を発揮し、専門性と責任性を広く担わせていくことで、社会全体の能力を伸ばす。このような構想は対北事業においてさらに切実である。今、対北人道支援団体登録制度と南北協力基金が運営されており、関連して公的開発援助のための韓国国際協力団(KOICA)が存在しているが、これらすべてが政府財源に依存していた体系である。その点で、対北事業を政府財源なしに進めることが困難なのは明らかである。しかしそれだけに、使用可能な民間資源を拡充する自発的運動が重要となる。対北支援は社会が耐え得る限りでなされるものであり、そのレベルで管理されるのがよい。これはまた、格差時代に合わせた対北政策の運営でもある。もちろん、コメのように、過剰生産と保管料など、むしろ政府財源を消費する資源の場合は、その規模も大きく、政府の対北政策資源であるという点で政府管轄下に置くのがよい。

 

新たな市民主体を発見する

 

6・15共同宣言が発表されて10年後、私たちは「天安艦現象」に直面した。不慮の事故ではあったが、北の犯行しかあり得ないというフレームに縛られ、大変な思いをして積み上げてきた南北関係の、多くの成果を一挙に水の泡にしてしまったこの現象に、6・15共同宣言が廃れてしまっている現実が見受けられる。しかし他方で、この不慮の事故に向き合った巨大な市民の努力も、私たちは同時に目にすることになったのだ。

天安艦現象は、過去に北が関連した安保事案と同じでありつつも異なる。少なくとも北が関連した軍事衝突あるいはそれによる死の現場で、安保を最優先にした国家にはためらいなどなかった。その時期には外部の敵を目の前にして、ひたすら猛烈な攻撃的言語のみが通用した。そんな中では、いかなる平和的な言辞も威嚇勢力である北を擁護する利敵行為と見做された。天安艦もそうだった。政府とマスメディアが結託して安保を声高に叫び、反対意見を示す人々はすぐさま危険な勢力として指さされたのである。

しかし、この危機の瞬間に、真のメディアや勇気ある市民団体、真実から目をそむけない良心的な学者や専門家が、恐れることなく闘っている。何よりも、政治とは無関係だった自然科学者たちが、自身の分野を活かして多くの科学的反証を提示し、市民は真実に再び目を開かれたのである。推測するに、民主政府10年と6・15共同宣言10年の歴史を一挙に覆そうとする試みが、過去とは異なるこのような抵抗を呼び込んだのではないだろうか。 天安艦事件が北の攻撃であると結論づけられ、これに伴い、対北制裁へと進む流れについては拙稿「天安艦事件の流れと反転」(姜泰浩編『天安艦を問う』創批、2010年)を参照。

北が関連する安保問題においてこのような真実を追求する姿は、それが選挙空間という相対的に自由な条件で生じたこととはいえ、非常に価値あるように思う。「親北」攻防の中で国家が主導する安保言説に対抗し、それを越えようとしたからである。それは、彼らの力が「親北」から自由な「真実」にあったからこそ可能だった。韓国社会で「親北」が意味するのは、共同体からの追放である。支配メディアが「親北」の烙印を押せば、すでにそれは事実とは無関係にイデオロギーとして作用し、社会からの排除もしくは追放に帰結したのである。これこそ、北が関連した安保問題が内包する致命的な罠である。この危険性がゆえに、北関連の安保問題に関して真実を叫ぶのは容易なことではない。

北が関連した安保事案である今回の天安艦事件で私たちが発見したとても新しいものは、「親北」攻防から自由で、真実を追求し平和を願う市民団体と市民の存在である。彼らなら、安保危機を起こす主体が南であれ北であれ、真実の尺度と平和の基準に従いつつ十分に相手と向き合うことができ、また、それを課題とし問題提起するのに躊躇しないだろう。6・15共同宣言10年の末、このような力が見出されたことは、私たち皆にとって大きな幸せである。 (*)

 

翻訳:金友子(立命館大学国際言語文化研究所客員研究員)

季刊 創作と批評 2010年 秋号(通卷149号)
2010年 9月1日 発行

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