창작과 비평

中国国内問題の冷戦時代的背景: 中華主義と国家主義への省察

論壇と現場

 

 

 

銭理群 前北京大学中文科教授、魯迅を中心に中国近現代文学を研究し、東アジアの歴史体験と現実意識に重要な洞察を与えている。著書に『知我者謂我心憂』『1948、天地玄黄』などがある。

 

*本稿の原題は「中国国内問題的冷戦背景」であり、2010年11月26~28日、台湾・金門島で開かれた東アジア批判的雑誌会議「冷戦の歴史と文化」で発表された報告文を、筆者が修正・補完したものである。ⓒ銭理群2011 / 韓国語版 ⓒ 창비 2011

 

今回の学術会議に参加し、そのうえ発表までするなどということは、私には少し無謀なことでした。テーマが私の専攻の範囲を超えているからです。よって、さしあたりシンポジウムの議題と私の研究を、どうにかしてつなげる方法を考えてみました。つまり、周作人のいう「搭題」 截搭題。経書から抜粋した字句を任意でつなげ、文章のタイトルにすること。明・清時代に八股文を重視した科挙試験の出題方式としてよく使用された。――訳者〔以下、訳者とは中国語から韓国語への訳者を指す〕というわけです。そこで、毛沢東と当時の中国を研究していた頃、ひとつの現象に注目したことが思い出されました。それは、毛沢東が中国の国内問題を処理するさいに、つねに国際問題を考慮し、そこには冷戦という国際情勢的背景があったという点です。こうして出来上がったタイトルが、「中国国内問題の冷戦時代的背景」ですが、じっさい、これも私が発案者というわけではありません。大陸の著名な歴史家である楊奎松の『「中間地帯」の革命――国際的巨大構図における中国共産党成功の道』(中間地帯的革命: 中国革命的策略在国際背景下的演変、1991)という本があるのですが、これからお話する内容の一部は、楊先生の研究成果に多くを負っています。もちろん、私はこの分野で専門的な研究をした人間ではないので、その辺にあった資料に触れ、いくつかの決定的な時期に毛沢東の戦略決定に冷戦状況がどのように関連しているのかについて、枝葉末節の話ができるくらいに過ぎません。


 

1. 1946~47年

 

第二次世界大戦が終結し、中国の抗日戦争も終わった後に、中国国内の最大戦略問題は、まさに国民党と共産党の両側が「戦」うのか、「和」するのかという選択でした。毛沢東率いる中国革命自体の論理と彼の個人的な望みによって、その答えは当然のごとく戦争によって最終的に国民党の統治を覆すことでした。しかし、国際的な圧力にぶつかります。米国とソ連の両大国が中国内戦によって第三次世界大戦が起こることを望まなかったのです。当時、アメリカはソ連の支持の下に国務長官マーシャル(G. Marshall)を中国に派遣し仲介を試みます。中国問題で中国の国民党、共産党が中心になることができず、米ソ両国が決定権を握ったということになるのですが、まちがったことを許せない毛沢東としては、当然、受け入れ難いことでした。しかし、彼が自分の思う通りに中国問題を収拾するためには、まず国内外に向けて、そして共産党内部に向けて、ふたつの問いに答えねばなりませんでした。まず、内戦が始まればアメリカは出兵するだろうかという問題、そして中国の内戦が第三次世界大戦を呼び起こすか否かという問題でした。これについて毛沢東は、1946年8月、アメリカの記者アンナ・ストロング(Anna L. Strong)との対談で、冷戦開始段階の国際情勢についての自身の判断と分析を述べています。 冷戦の正式な開始は1947年3月21日にアメリカのトルーマン大統領が有名な「冷戦宣言」を発表し「ヨーロッパ復興」のためのマーシャルプランを提案するやいなや、ソ連を代表とする東欧各国の共産党がヨーロッパのプロレタリア政党と共産党情報局の成立を宣布したことにさかのぼる。こうして両大陣営が形成された。 毛は、その後人口に膾炙した「米帝国主義とすべての反動派は、全て障子に描かれた虎」という断言以外にも、初めて「中間地帯」論について語りました。しかしじっさいは、こちらの方に注目すべきでしょう。彼は「アメリカとソ連の間に広々した地帯が横たわっている。ヨーロッパ、アジア、アフリカ、新大陸の多くの資本主義国家と植民地・半植民地諸国がその中に含まれている」と指摘します。そしてここで、三つの結論を引き出します。

第一に、「米国の反動派は、これら(中間地帯)の国家を力で屈服させないことには、ソ連を侵攻しようとは口にできないだろう」。 毛沢東「和美国記者安娜. 路易斯. 斯特朗的談話」(1946年8月)、『毛沢東選集』(四巻本)、人民出版社、1967年、1985頁。 よって、米ソ両国は矛盾と闘争のなかで妥協を求めざるを得ず、中国内戦は決して再度の世界大戦を呼び起こすことはない。

第二に、ソ連と米国の対峙は、逆に米国の足かせとなるだろうし、米国が出兵し国民党を助けて内戦を起こす可能性は非常に低い。

第三に、中国を代表とする中間地帯の革命は、ソ連をリーダーとする民主・反帝革命陣営の力量を強化し直接的に米国とソ連の力量対比に影響を与え、同時に未来世界の方向性に影響を与えるだろう。 楊奎松『“中間地帯”的革命: 国際大背景下看中共成功之道』山西人民出版社、2010年、515-17頁、518-19頁。

要するに、毛沢東はまさにこのような「中間地帯」論に啓発され力を得たのであり、ついには自主独立的に中国革命の勝利を導いたのです。同時に、第二次世界大戦後の国際問題を観察するひとつの新たな観点を提示したのですが、すなわち米ソ両大国の対立のみに関心をもつのではなく、「中間地帯」の国々の役割にも注目するという点です。これら中間地帯国家は、それぞれが互いに別の水準で米ソ両国の影響と制約を受けているのみならず、独自の利害関係もあり、国際的事案においてそれぞれの役割を発揮していました。毛沢東は意識的に、中国を「中間地帯」国家に位置づけました。この位置づけは、中国の立場からは「一辺倒」 50年代中国の外交基調だった親ソ連政策を指す。―訳者を明確にすることでソ連をリーダーとする社会主義陣営諸国の外交および国内政策のパートナーになりつつ、自然に一種の制約を加える役割を果たすことで、ソ連との同盟関係を保障すると同時に、相対的独立性をも確保させてくれるものでした。バンドン会議で中国が「平和共存」の五原則を提案し、非同盟国運動に一貫して支持を表明していたのも、すべて自身の独自性のために必要な空間を創出するためだったのです。

 

2. 1956年

 

1956年のソ連共産党第20回全党大会後、毛沢東は即刻、ひとつの戦略的決定を下したのですが、それがまさにソ連の社会主義モデル以外に中国独自の発展的社会主義モデルを構築しようというもので、アメリカとソ連の外部で「第三の道」を見出すことでした。ここにはソ連の影響から抜け出そうとしたその意図がはっきりと現れています。すでに多くの研究者が指摘してきたことです。私はこの問題を掘り下げながら、ひとつの資料に注目したのですが、それが毛沢東の思考の脈絡を全体的に理解するために役立つのではないかと思います。王力[ワン・リー]が『反思録』で回顧したところによると、1956年8月、中国はホイットマン(W. Whitman)の詩集『草の葉』の訳者である楚圖南を団長とする大規模な芸術団を南米に派遣し、王力が副団長兼秘書長となるように決定します。当時、王は中央国際活動指導委員会の副秘書長だったのですが、同委員会は中国共産党中央委員会の対外連絡部長だった王稼祥自らが、毛沢東に責任報告をする組織でした。これが毛の戦略的決定だったことは明らかです。王によれば、当時すでにアメリカ政府に招請された状態であり、南米訪問後、アメリカを訪問する予定だったといいます。 『王力反思録』(上)、香港北星出版社、2001年、342頁。 しかし、代表団がアルゼンチンを訪問していたちょうどその真最中にハンガリー事件 1956年、共産政権に反発して起こった大規模な民衆蜂起であり、スターリンの死後、東欧圏に広がった反ソ運動のひとつ。脱スターリン的改革を推進したが、ソ連の武力鎮圧によって挫折した。―訳者が起こり、形勢が急変したのです。そうでなければ、米中関係改善の努力は、20年後のアメリカの卓球チームの中国訪問を待つ必要はなかったでしょう。じっさい、1956年に毛沢東はアメリカから学んだことを提案しました。鄧小平の回顧によれば、当時毛沢東はスターリンによる社会主義法制の破壊は「アメリカ、イギリス、フランスといった西方国家においては起こりえない」と指摘したそうです。そうして毛は1956年に著した有名な『論十大関系』 1956年4月25日、中国共産党中央政治局拡大会議の席上で明らかにされた国家建設の基本構想。その骨格は、次の10項目に整理できる。重工業と軽工業と農業の関係、沿岸工業と内陸工業の関係、経済建設と国防建設の関係、国家生産組織と生産者個人の関係、中央と地方の関係、漢族と少数民族の関係、党と非党の関係、革命と反革命の関係、是と非の関係、中国と外国の関係。―訳者で、アメリカのような帝国主義国家が「じっさいに悪いが、このように先進国となったのには理由があるはずだ。その政治制度については研究の余地がある」と、確かに言及したのです。もちろん、毛沢東の反帝国主義の立場が変わるはずもなく、スターリンモデルを完全に捨て去ることもできなかったし、毛沢東の中国は依然社会主義陣営の一員でした。しかし彼は、はっきりと主体的に、米ソ両国およびその発展過程を参考にし、批判的距離をとることによって、独立的かつ自主的な自分の国家を建設することを望んでいたのです。

 

3. 1958年

 

毛沢東が大躍進運動と人民公社運動を巻き起こすことになった原因はもちろん非常に複雑で、専門家による議論が必要です。この場で話そうと思うのは、やはり米ソ両大国との関係という背景です。まず、ソ連との関係を見てみましょう。ソ連共産党第20回全党大会後にスターリン問題が暴露され、とくにポーランド・ハンガリー事件の処理のさいに犯したさまざまな失策によって、ソ連の影響力と権威は非常に弱まりました。1957年末、モスクワで開かれた世界共産党大会で、社会主義陣営と国際共産主義運動にとって、権威ある第一人者は必要なのかどうか、誰がその役割を担うことができるのかという問題が提起されました。会議に参加し大きな存在感を見せた毛沢東はまた、「第一人者」が必要だという点と、ソ連が先頭に立ってくれるようにと積極的に主張します。そして、次のような意味深長な話もしました。「中国は政治や人口の側面では大国だが、経済的にはまだ小国だ。努力して一生懸命働こうと思う。中国を真の大国にし、人類により大きく貢献できるように」。よって中国は「第一人者」になるつもりがないわけではなく、まずは「政治大国と経済小国という矛盾を解決すべきであり、経済を発展させ真の大国にな」ってこそ、名実ともに社会主義陣営と国際共産主義運動、さらには全人類を導く存在となれるというというのです。これこそまさに、毛沢東の雄大な計画だったのです。そこに内包された中華中心主義については後に議論するとして、ともかく、毛沢東のこのような抱負をソ連人たちが読み違えるわけはなく、これが後に生じる中ソ矛盾と衝突の伏線となるのです。

次に、アメリカとの関係です。ポーランド・ハンガリー事件発生後、アメリカはこれを社会主義陣営が瓦解する絶好の機会だとみなし、世界的な反ソ反共の波が高まりました。中国問題においても、強硬な攻撃姿勢をとるようになります。1957年4月、米国務省は声明を発表し、一方的に一切の対中貿易を禁止し、5月13日には国務長官ダレス(J. F. Dulles)が台湾の中華民国を支持し、中華人民共和国の国連加盟に反対すると宣言しました。9月にはまた、共産主義現象が中国から消えるように、あらゆる手段を動員するつもりだと明らかにしました。1957年12月になるとすぐにアメリカは、さらに一方的に1954年に始まった米中間の大使級会談も中断しました。アメリカの一連の態度や行動は、すべて1957年に発生したものであり、毛沢東が1958年の大躍進運動を発動する重要な政治的・心理的背景となりました。すなわち毛は、「孤立無援」の心情に深く陥ってしまい、これを突破していこうとする強力な衝動をもったことで、「イギリスに追いつき、米国を追い越そう」というスローガンを打ち立てます。表面的には反米・反西方の態勢をとりつつも、内心ではアメリカと西方の承認と支持を期待すると同時に、それに寄りかかって台湾という中国統一の最後の障害物であり致命的な憂患を解決しようとしたのです。国際政治家としての毛沢東には、もちろん中国の経済発展が第一の課題であること、そして強大な国防産業があってこそ真の実力によって談判でき、これをつうじてアメリカの承認をプッシュできることがよくわかっていました。以後、米中関係の歴史は、じっさい、毛の構想どおりに発展していきます。急速な経済発展によってアメリカを頂点とする西方世界の包囲を突破しようという毛沢東の考えと路線、そこに表出された民族感情は、党内部のみならず全国の人民(農民、労働者、人民と知識人を含む)間に根強い大衆的基盤をもつこととなり、これは彼が大躍進運動を発動させた強力な大衆的動力と化しました。

言葉ついでに、1958年「金門島砲撃」事件についても話しておきましょう。これもまた専門家の研究が必要なテーマなので、簡単にしかお話できませんが、私の見たところ、毛沢東が金門島を砲撃したのには三つの動機があると思います。まず、大陸内部の必要性です。毛沢東が発動させた人民公社運動の重要な側面が「全人民の武装」を実行することだったのですが、これに金門島砲撃を利用します。福建省沿岸と全国で「民兵師団」を大々的に組織すると同時に、これをつうじて民心をつかみ、士気を高めました。二つめに、「蒋介石と連合しアメリカに抵抗しよう(連蒋抗美)」という戦略をとり、アメリカと蒋介石との関係を引き裂くことによって、国民党と共産党両者の談判に持ち込み、両岸を統一するためのひとつの伏線を引くことでした。三つめに、やはりもっとも重要なのは、大躍進の気勢を高め、アメリカに実力を見せつけることによって、アメリカを会談のテーブルに戻って来させようとしたということです。この目的は、思ったとおりに達成しました。1958年8月23日に金門島砲撃があってから、9月15日に大使級会談が再開されます。しかしながら会談での進展はなく、結局再び座礁してしまったのですが。

 

4. 1959~61年

 

この時期の中国には、大飢饉が発生します。昨年(2009年)台湾で講義をしたときに、大躍進運動における大飢饉に至るまでは、一連の歴史的つながりがあるという話をしました。すなわち、高速度の高目標が高指標を生み出し、これが再び高生産予測、高買取、高累積、高備蓄を生み、結局、農民の食料を奪うしかなくなったことで、大量の餓死者を出したのです。ここで決定的なつながりは、「高買取、高累積、高備蓄」でした。100万人が死んでいった河南省信陽地区では、1959年に収穫された食料の約半分が国家に買い取られたのですが、多くの人が路上に倒れたとき、国庫には約10億トンの食糧が積まれていたと思われます。なぜこのような「高買取、高累積、高備蓄をしたのでしょうか。都市への食糧供給を保証することによって、社会安定を維持しようとした以外にも主たる目的があったのですが、それがまさに輸出増加でした。この二つの理由は、国際情勢と関係しています。ひとつはソ連に借りていた負債です。じっさい、当時ソ連は償還を催促していなかったのですが、毛沢東は気押されまいとして、「腰紐を締めに締め」て負債償還を前倒しにしようとしていたのです。二つめは、アルバニアやベトナムなどの盟友と、アフリカ諸国を支援するためだったのですが、ちょうど大飢饉がもっとも深刻化した1960年、中国共産党は専門機構を発足させ、海外支援業務を担当させ、その予算も同年大幅に引き上げましたし、核兵器開発研究も始まります。農民を犠牲にした代価として「富国強兵」路線を推し進めていったのです。聞いた話ですが、国家安全のためだったそうです。確かに、当時の国際情勢は緊張局面にありました。特に1962年、東南方では蒋介石の大陸攻撃があったし、その背後にアメリカがいました。西南方の辺境ではインドの侵攻があり、その背後にはソ連がいました。北方にもまたソ連という直接的な脅威が存在しており、ヨーロッパの共産党と社会主義国家の大多数は中国を糾弾する状況でした。これに対して、毛沢東はまたもや深刻な孤立無援の心情に陥り、そうなればなるほど、いかなる代価を払っても軍需産業と関連重工業を発展させようとしたのです。これが大飢饉の重要な背景だと考えるべきでしょう。

 

5. 1965年、文化大革命前夜

 

毛沢東が文化大革命を発動させた背景には、明らかに、米ソ両国の存在がありました。60年代、アメリカのケネディーとジョンソンの両政権は、社会主義陣営のうち中国がもっとも好戦的で長期的に見て主敵となるだろうと認識していました。それゆえ、何度か蒋介石と連合し中国の核開発を阻止しようとしました。1964年、アメリカはベトナム北部を爆撃し、1965年にはベトナムに大規模な軍隊を派遣するのですが、これはすべて直接的に中国の安全を脅かすものでした。このような状況で毛沢東は、「中間地帯」論に対する新たな解釈を施します。すなわち「中間地帯は二つの部分からなる。ひとつはアジア・アフリカとラテンアメリカの広大な低開発国家、もうひとつはヨーロッパを代表とする帝国主義国家と先進資本主義国家、この両方ともにアメリカの支配に反対する。東欧各国ではソ連の支配に反対する」 毛沢東「中間地帯有両個」(1964.1.5)、『毛沢東外交文選』中央文献出版社、世界知識出版社、1994年、508頁。としつつ、同時に「アメリカに侵略され支配され干渉を受けているあらゆる国家が連合し、広範な統一戦線を結成し、米帝国主義の侵略政策と戦争政策に反対しよう」と呼びかけました。 毛沢東「支持多米尼加人民反対美国武装侵略的声明」、『毛沢東外交文選』、569頁。 毛沢東が見るに、ソ連の修正主義は国際的に帝国主義への投降を表すものだったので、「反帝」は必ず「反修正主義」にならねばならなかったのであり、その点でソ連とアメリカの両方が同じく最高に危険な敵国だったのです。1965年に毛沢東は林彪の名前で発表された「人民戦争勝利万歳」(1965年)で、「アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、これら第三世界がアメリカと西欧帝国を包囲する」ような「世界革命」のモデルを提案することによって、第三世界をめぐってソ連とリーダーシップを争うことになります。これこそまさに毛沢東が1年後に文化大革命を発動させる重要な理由かつ目的であり、彼の「世界革命の教師」心理を反映する、いうなれば中華主義の革命バージョンなわけです。

毛沢東をもっとも警戒させたものに、アメリカがずっと「平和発展」戦略を鼓吹していたという点もあります。毛はだんだんと党内で異見をもった側を米帝国主義とソ連修正主義の代理人とみなすようになります。1965年、毛は井岡山に再び登り、錯雑とした心情で語ります。「内外の挟み撃ちのなかで、我々共産党はいかに人民の利益を保護し、労働者農民の利益を保護できるのか!?」。 馬杜香『前奏: 毛沢東1965年重上井岡山』、当代中国出版社、2006年、151頁。 この「内外挟撃」の憂慮は、おそらく「敵手の状況」に対する毛沢東の過大評価だったのかもしれませんが、確かなのは、これこそ彼が文化大革命を発動するひとつの動因であるという点です。

 

6. 1971年、72年、文革後期

 

毛沢東は対米関係を回復する戦略的決定を下し、1974年にははっきりと「第三世界」論を提起します。すなわち「アメリカ、ソ連が第一世界」で「日本、ヨーロッパ、オーストラリア、カナダが第二世界」「日本を除くアジアは皆第三世界、アフリカ諸国は皆第三世界、ラテンアメリカも第三世界である」。 毛沢東「関於三個世界的劃分問題」(1974.2.22)、『毛沢東文集』8、人民出版社、1999年、441-42頁。 「世界を三つに」区画したのは、明らかに毛沢東の「中間地帯」論の発展形態であり、彼が一貫して堅持してきた第三世界の立場を表明するものでした。さらにその現実的意義には二つの区分があります。ひとつは、日本、ヨーロッパ、オーストラリア、カナダをアメリカから引き離し区分することで、通常西方と呼ばれる世界を二つに分け、中国が日本、ヨーロッパ、オーストラリア、カナダとの関係を改善するための、ひとつの空間を開いたのです。二つめに、アメリカをソ連と分離し、ソ連を主敵とみなし、反ソ連の米中連合という新たな構図を形成することによって「反覇権主義連合」を「反帝国主義、反修正主義」に代わるものとすること。これは自然とひとつの大局的次元の、根本的な戦略転換でしたし、米中関係を発展的方向へと変化させるのみならず、世界発展の枠組みと方向に変化を起こすものでした。このときの毛沢東は、残された時間が長くないことを知っていました。彼は中国の未来の発展のための、より幅広い国際的空間を開こうとしたのであり、まさにここに改革開放の新時代が開かれることとなったのです。毛沢東が中国に残してくれた最大の遺産だといえるでしょう。

以上、簡略な歴史的回顧から、毛沢東が国際的戦略の眼目をもった存在であり、常に国内外の複雑な絡まりのなかから、ある種の突破口を見出し、自身の戦略を作り出していったことがわかります。中国本土を足場にしつつも、国際冷戦の場を縦横無尽に駆け巡り、中国を取り仕切るのみならず世界に対しても独特な影響力を発揮したことがわかります。ここからまた、毛沢東が国際問題を処理するさいに、常に三つの基本立場を堅持していたことが注目されるでしょう。こんにち、これを評価するときに、その立場にはある歴史の合理性が存在すると同時に、ある種の深い歴史的教訓を含んでいることを見出せます。時間の関係上、いくつかだけを簡単にお話します。

第一に、毛沢東は常に自身の理念的立場を堅持していました。まず「社会主義」と「資本主義」の対立を強調し、したがって冷戦の両極のうちソ連を頂点とする社会主義陣営側に傾倒していました。後にはまた「マルクス主義」と「修正主義」の対立を強調し、「反帝国主義、反修正主義」の旗を高らかに掲げました。帝国主義侵略および国際覇権主義への反対という立場には、当然、それなりの合理性がありました。しかし、問題も少なくなかったのです。私は大きく分けて二つあったと思っています。まず、毛沢東が堅持した「社会主義」と「マルクス主義」(実際には「毛沢東主義」)そのものが、疑問の多いものだという点です。もうひとつ、ここに隠蔽された「これでなければあれ」式の対立論理と「お前を殺して俺が生きる」式の独善的で極端な論理は、まさに自身の、いわゆる絶対純粋性を保証するために実質的には相手に学び、吸収したり参考にすることを拒否する結果を招きました。同時に、自己の合理性を極端なまでに押し進めて、文化大革命のさなかに「封・資・修(封建主義・資本主義・修正主義)」を批判するという名目で人類の文明のあらゆる成果を拒否させたのです。これが思想、文化、教育に残した深刻な副作用は、こんにちまで清算されずにいます。

第二に、毛沢東は常に民族主義の立場を堅持しました。彼は冷戦構図における米ソ両大国との関係を扱うさいに、一貫して「自主独立」を強調し、国家と民族の利益を保護し、自己発展の道を進むことを強調したのです。これは毛沢東のもっとも貴重な遺産の一部です。しかし、二つの問題が残りました。まず、専制的手段を使って労働者、特に農民の利益を過酷なまでに犠牲にし、かれらの命と引き換えにしてまで「富国強兵」という民族国家の目標を実現しようとしたことです。毛沢東の導きのもと、中国は経済面で高度成長を遂げはしましたが、これは一種の破壊的発展だったし、この路線は今なお続いています。次に、毛沢東の民族主義は中華中心主義の痕跡を色濃く残している点です。これは、文化大革命期にはっきりと表れるのですが、運動が始まるや当時の中央文革小組の副組長だった陳伯達が発表した講話があります。彼はこんにちの世界文化の中心がすでに西方から東方へと動いていることを強調し、東方文化の中心は中国であると主張します。毛沢東が創造した中国革命の文化、すなわち、いわゆる「毛主義」が将来、東方と世界文化を導いていくというものです。これは中国の伝統文化のうち、中華帝国を「天下」の中心とし、中華文明の外側には文明はないとみなす観念と軌を一にしています。私はかつて、中国の伝統文化のうち、二つのもっとも悪い点として専制主義と中華中心主義があると述べたことがあります。この二つの側面は双方ともに毛沢東に継承され、発展させられました。それも自覚的にです。毛沢東の遺産のうち、批判的に整理されるべき要素でしょう。

第三に、毛沢東は国際主義の立場を堅持しました。これは、本来、マルクス主義の基本原則のひとつなのですが、先に重ね重ねお話したように、毛が冷戦期の国際構図を観察し分析するとき、その出発点としたものこそまさに「中間地帯」でした。この概念は1946年に提出され、60年代に一段階発展し、70年代に「第三世界」を区分する理論を作りました。毛沢東が何度も「第三世界」に中国が属していることを強調し、覇権主義の支配から脱却しようとする第三世界の革命と建設を支持したのは、ある部分では積極的な意義をもちます。毛時代に成長した私たちの世代は、幼いころからひとつの観念、あるいは世界を観察するひとつの基本的な方法論を育ててきましたが、それがまさに、あらゆる国家の人民と統治者を区分することでした。私たちは、世界各国の労働者は共通の利益をもっており、互いに協力してそれぞれの国の統治者および国際帝国主義に反対せねばならないと、固く信じてきました。これは「世界労働者連合」の観念に基盤をもつもので、当時日本人が繰り広げた日米安保条約反対闘争(沖縄人の闘争も含めて)、韓国人による李承晩反対闘争、1968年のフランスの学生および労働者運動にいたるまで、そのすべてに私たちは熱い関心をもち、熱烈に支持しました。このように、各国の労働者連合が互いに支えあう国際主義思想は、こんにちのグローバル化時代にあっても意味あることかもしれません。しかし問題なのは、当時の私たちの全世界人民にたいする支持は、同時にひとつの虚妄な思想を基調として構築されたものであるという点、すなわち世界各国の人民が皆「ひどい苦痛」にあえいでいるので、中国人がそこに行って「救済」してやらねばならないという考えにあったのです。この救世主的な心理の裏面には、中国社会そのものの深刻な弊害と危機が隠されていたのですが、これは二つの根本的な問題をもっていました。ひとつは実質的な中国中心論ですが、先に言及したように、伝統的中華主義の革命バージョンという点、もうひとつは、中国の革命経験と毛思想を輸出し、多くの国で深刻な副作用を生んだという点です。

こんにちの中国は、すでに毛沢東が当時設定した国家目標を実現しました。すなわち、政治大国、人口大国のみならず経済大国へと発展したことで、いわゆる「大国の勃興」を見せつけ、同時に冷戦後の国際政治・経済・文化面で、その影響力を高めています。この点で特別に私たちが熟考し警戒すべきこととして二つの問題が挙げられるでしょう。まず、中国の経済復興をどのように受け止め、分析するのか。そのなかからどのような歴史的経験と教訓を吸収すべきかという問題です。私はここ何年かずっと説得力のある批判理論を構築せねばならないと訴えてきました。歴史が提起したこの新たな課題に答えるためです。これについては現在研究中なので、ここで議論を展開するのは難しそうですが、ただ、近年の中国の一部知識人が提起し、国家の支持を引き出した「中国モデル」論に対しては、警鐘を鳴らしておきたいです。かれらが提唱する、いわゆる「人民のための執権」という「開明した独裁」は、実質的には毛沢東から受け継がれてきたものを独裁政治の手段かつ労働者収奪の方式として活用し、国家の近代化という目標および路線の日常化とモデル化を達成するためのものであるという点、同時に、中国当局がこのかん推進してきた「力量を集中し大事を成そう」とは、いわゆる「挙国体制」に理論的根拠を提供しているという点です。この「挙国体制」にも二つの特徴があります。ひとつは「経済建設を中心にしていくこと」を強調し、「民生を改善」すると宣伝します。もうひとつの面は、一党独裁体制維持に尽力し、思想問題の統制を継続することによって社会を制御するということです。これは必然的に政治体制の改革を先送りにしてしまいます。既得権集団の権力が掌握し主導するいかなる改革も、労働者の利益には新しいマイナスになりうるのです。そうなればむしろ、経済発展を制約し、民生安定の実質的効果に影響を与え、経済的格差がさらに広がることで社会はだんだん不安定化していくでしょう。

私は最近、北京のある座談会で2010年の中国の現実について、次のように描写し、それに対する判断をお話しました。
「2010年、中国は内外の矛盾にあって空前の激化を迎える時代に突入した。年初の『フォックスコーン労働者投身自殺事件』に始まり、『幼稚園に吹き荒れた血の風』 2010年3月以来、福建、江蘇、山東、陝西、広東など、中国各地の幼稚園で繰り広げられた一連の「通り魔」殺傷事件。犯人らはナイフなどの凶器を振り回し、100人以上(ほとんどが5歳前後の幼児)の死傷者を出し、社会に大きな衝撃を与えた。―訳者といった突発事件が連続的に発生し、さまざまな原因による暴力事件がずっと続いているのは、社会の底辺から民と官、民と商とのあいだ、弱者と既得権層という強者のあいだの矛盾がすでに限界点に達しており、常に爆発しているということを示している。また、社会の中間層たる知識人は圧迫され続けており、体制との矛盾を日々積み重ねている一方で、かれらの内部の分化も日増しに深刻化し、本来は普通で正常な異見なのに、すべてが大きな波風を立ててしまうような、まるで水と油のように互いに受け入れられない状況になっているようだ。高度の矛盾がついに表面化したのである。これは、基層から中間層、上流社会にいたるまですべてが『こんな風には生きられない』と感じさせられ、全社会的不安感、全社会的憂鬱と不満が、憎しみのレベルにまで達してしまったことを意味する。社会危機の大爆発は、まさに私たちの目の前に迫っており、いつどのように触発され、にわかに現れるのか掴むことができない。」

決して脅そうとか驚かせようというのではなく、「中国勃興」がこのような深刻な国内問題と冷厳な現実を覆い隠すことはできないという話です。十人十色の「中国モデル」「中国の道」という、まさに経済決定論的思考であり、経済発展によって、政治・経済・社会・文化の危機を隠蔽しているのです。

中国の勃興がもたらす二つめの問題は、経済勃興の中国と中国人が社会制度、観念、思考、文化を異にする国家や民族にどのように向き合うのかという点です。そして、世界の国家と人民もまた、自分たちとまったく異なる社会制度、信仰、社会、文化をもつ、しかしながら政治・経済・人口大国である中国にどのように向き合うのだろうかという点です。これは冷戦後の世界がこんにちのグローバル化時代へと発展し、新たに直面した大きな課題です。私は2008年のオリンピック期間に憂慮を表す文章を書きました。要するに、中国自身であれ世界であれ、この問題について思想的・心理的にきちんと準備ができていなかったと思われ、以後2009年、2010年に「中国と世界」をめぐって発生する多くの出来事はみな、この点を証明してくれるであろうということです。

私がさらに注目し警戒しているのは、中国と中国人自らの問題です。すなわち現在の中国において日増しに影響力を伸ばしている国家主義、中華主義の波です。これは対外的には中華中心主義、国内的には少数民族に対する大漢族主義、台湾に対しては中原中心主義として表面化しています。このような国家主義、中華中心主義の思潮はもちろん中国文化の伝統に関連しているのですが、さらに実質的には、今日の中国に広く蔓延している虚無主義の風潮とも密接な関係があります。何も信じないようになるとき、唯一寄り所にできるのがまさに「愛国」です。当局は自ら信頼を失い民心を結集することができなくなると、必然的に国家主義、中華主義を色濃く帯びた、いわゆる「愛国主義」を国家イデオロギーとするようになります。若者も含めて、民衆心理は当局の統治需要と結びついて、国家主義、中華主義の頑強な基盤を構築していくのです。そして中国の「大国勃興」は、それにさらに物質的基盤と情緒的・心理的刺激を提供していくでしょう。繰り返しになりますが、中国の勃興以後、中国の周辺国家と西洋世界の右翼勢力が判で押したように「中国を阻止しよう」と試みていますが、中国に対するこのような包囲は、反対に中国内部で民族主義の極端化に拍車をかけます。私は前に、東アジア各国の批判的知識人が皆自国の極端な民族主義に対して警戒心をもたねばならないこと、もし放置してそれがそのまま大きくなれば、相互刺激の悪循環を生み、大きな危険となると述べました。このような側面から、私は東アジアの批判的知識人が協力してできることは山ほどあると考えます。

中国の国内問題について語り、私がさらに衝撃と憂慮を感じるのは、この国家主義、中華中心主義の狂風のなかで中国大陸の一部知識人や青年たちが担う役割です。正直に言わせていただくと、この問題について私はまったく発言の準備ができていません。よく知る何人かの友人、はなはだしくは80年代に啓蒙主義思潮のなかで肩を組んで闘った友人たちが、その中に含まれているのです。この思想的決裂をはじめとして、現実における分裂は、私を難しい立場に追いやるのですが、向き合わざるを得ない問題です。そこから来る苦痛と困惑は、なんとも言い表しがたいものです。そして私がずっと大きな期待をかけてきた青年たちが、そこに巻き込まれていくことが、心情的には「そうなりかねない」とは思いつつも(ここ何年かの私たちの青年教育を一度考えてみましょう)、他方で「想像を超え」てもいます。私は常にこのために、茫然自失に陥っています。身近なものとして二つの例があります。中国のある若い記者が韓国で開かれたオバマ大統領の記者会見の席上で、突然自分のことを「アジアを代表」して、さらには「韓国を代表して」と公然と言ったのです。 2009年11月、G20ソウル会議の閉幕記者会見で起こった出来事。―訳者 北京大学のある学生は、イギリスの首相に「イギリスは中国のモデルと経験から何を学びましたか」と聞きました。魯迅(本名、周樹人)、周作人兄弟が五・四〔運動の〕時期に鋭く批判していた「愛国的自己過大評価」が80~90年過ぎたこんにちの中国の若者たちに、再び復活したのです。同時に復活した毛沢東時代の「革命経験の輸出、中国式パターンへと世界を改造する」というような中華中心主義、しかも居丈高さもここまで来ると、本当に悲哀を感じました。このように過度な自己中心的自我意識もまた、まさに先ほどお話した国内の危機のさまざまな背景を考えるとき、心配なことこのうえありません。現実を直視できずに精神的幻覚状態に陥ってしまうと、決して自己反省などありえないし、危機感のない国家や民族や個人は危険ですから。私はそのなかで真の民族の危機を目にして、心の底から心配しています。この意味では、私も明らかに愛国主義者です。

こんにちの中国で、独立した批判的知識人の立場を守るということは、至極難しいことです。私の理解と追求によれば、批判的知識人とは、まず批判の矛先を自国に向けねばならず、自らの民族構成員と社会の改革に力を尽くさねばなりません。魯迅がまさにそうでした。しかしこのような立場は「売国奴」と責められ批判の矢を受けるのが常です。その次に、独立した批判的知識人として二つの基本要件が必ず守られねばなりません。ひとつはあらゆる形態の独裁に対する批判を堅持すること。国家政治の独裁性のみではなく、資本市場の専制性も批判せねばなりません。もうひとつは、あらゆる形態の国家主義、中華中心主義に対する批判を堅持すること。すなわち怒れる若者たちの粗悪な国家主義、中華中心主義を批判せねばならず、知識人の精緻な理論によって飾られた国家主義、中華中心主義も批判せねばなりません。しかしこんにちの中国でこのようにするためには、魯迅が述べたような「横戦」 前方と後方の区別のない戦闘、敵と味方の間に挟まれて闘うことを指す。魯迅の造語で、もともとは「橫站」(前方と後方の両側が見えるように横に立っていること)という。そしてその状態で起こる戦いがまさに「横戦」である。中国語で「站」と「戦」は同じ発音であり、その音遊びを利用して意味を屈折ないし拡大させている。-訳者を学び、上下四方に戦闘を繰り広げねばなりません。国家イデオロギー、そしていわゆる「民心」および「公論」と闘い、ひいては知識人たちと高度な論戦を張り、さらにはかつての戦友とも対立せねばなりません。

私としては、もっとも難しいのが自分との闘いです。外部のあらゆる困惑が最終的には自分のなかの困惑になってしまうのです。私には今もって解消できない二つの矛盾と困惑があります。ひとつは、「人道主義と民族主義の矛盾」。たとえば私が毛時代を研究するとき、明らかに判断に困る問題があります。大飢饉時代に中国が行なった核実験をどのように評価するのかということ、その背景には「生命至上主義」を貫かんとする信念と、国家安全維持の必要性という選択のジレンマがあります。もうひとつの困惑は、一方で国家主義、中華中心主義に反対の立場ははっきりと堅持しつつも、他方では中華民族の知識人として、中国人としての民族的・国家的立場がなくもないという点です。中国が日本の侵略に直面した状況下で、魯迅は末の弟周建人をして周作人に注意を与えさせました。民族の大義の問題に関しては立場をはっきりさせねばならない、と。当時作人は抗日を宣伝する国家主義の傾向に反感を抱き、あいまいな態度をとっていました。魯迅は彼の反国家主義を理解しつつも、作人のあいまいさから、鋭くも危険を感じ取ったのです。不幸なことに、結局、魯迅の先見の明のとおりになってしまいました。 国民党と共産党の双方に懐疑的な脱政治的自由主義者だった作人は、中華人民共和国設立後、特に文革期に反動分子・売国奴として追い立てられ、悲惨な最期を迎えた。魯迅はそんな作人の気質と性向を理解しつつも、均衡や中道が許されない時代に経験することのできた彼の運命を気遣ったのである。―訳者 私は魯迅と周作人の兄弟を研究する人間として、ずっとこのような歴史的教訓を固く心に刻んでいます。深い困惑のなかにあっても、「民族主義」「国家主義」の理論的限界を区分することは難しくないでしょうが、しかし実生活で国家利益に関する問題に突き当たるとき、いかなる立場と態度をとるのか、非常に難しいところです。ほかにも、私たちは国家主義に反対するけれども、国家の役割を簡単に無視したり否認したりはしません。さらに、中国大陸において国家は強者です。仮に民間レベルの運動を起こすとしても、国家の後ろ盾を排することはできません。このように、国家や政府との関係にどのように対処するのかは未だに難題で、私たちが国家主義に断固反対し中華中心主義を警戒する民間レベルの批判的立場を堅持しようとする以上、さらに私たちの立場を複雑にしもします。

したがって、私たちは困惑のなかで独立した思考と探索をおこない、困惑のなかでそれを守っていくしかありません。また別の意味で、これは絶望に抵抗することでもあります。このような状況で東アジアの批判的知識人の支え合いは非常に重要です。まず各自が直面している場で生きている人々の立場を堅持し、自国とその地域の人々の抵抗運動に立脚し、互いに関心をもって支持を送り、「下からの民間グローバル運動」を作っていくこと、これは期待できるのではないかと思います。

 

翻訳
イム・ミョンシン
(ソウル大学基礎教育院講義教授、中国語原文から韓国語に)
金友子(キム・ウヂャ、立命館大学国際言語文化研究所客員研究員、韓国語から日本語に)

季刊 創作と批評 2011年 春号(通卷151号)
2011年 3月1日 発行

 

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