창작과 비평

〔対話〕 世界文学・東アジア文学・韓国文学①

 

 

白池雲・沈真卿・金英姫・李玄雨
 

白池雲(ペク・ジウン)1971年生まれ。文芸評論家。延世大学 非常勤講師(中国近現代文学)。訳書に『帝国の眼差し』『熱烈読書』『リージョナリズム』『玉米』など。
沈真卿(シム・ジンギョン)1968年生まれ。文芸評論家。季刊『子音と母音』編集委員。著書に『絶叫する声たち』『女性、文学を横断する』『韓国文学とセクシュアリティ』など。
李玄雨(イ・ヒョヌ)1968年生まれ。文芸評論家。翰林大研究教授(ロシア文学)。著書に『ローザの人文学の書斎』『本を読む自由』『世界文学論』(共著)など。
金英姫(キム・ヨンヒ)1957年生まれ。韓国科学技術院教授(英文学)。季刊『創作と批評』編集委員。著書に『批評の客観性と実践的地平―リーヴィスとR・ウイリアムズ研究』『世界文学論』(共著)など。

 

 

 

金英姫(司会) こんにちは。今日の「対話」の主題は、現在の世界文学をどのように見るべきかというものです。世界文学というのは概念も複雑で幅広い主題ですが、専攻の異なる4人が互いに補完しながら理論的な問題を探り、比較的、最近、発表・紹介された作品を議論できる場になればと思います。座談の規模から考えて、作品は東アジア、なかでも韓・中・日のいくつかの小説に限定することにしました。日本文学の専門家を迎えられなかったのは残念ですが、作品を選ぶ過程ではそうした方々の協力も得ました。

『創作と批評』の2007年冬号で「韓国文学、世界と疎通する道」という特集を企画し、尹志寛(ユン・チグァン)と林洪培(イム・ホンベ)のお二人の対談「世界文学の理念は生きている」で、この問題に関する主題を比較的幅広く取り上げました。その後、創作と批評社からは、この特集を土台として、先日『世界文学論』(創作と批評社言説叢書4)という単行本も出ましたが、私と李玄雨先生がここに参加しました。その他にも、英米文学学術誌『内と外』の2010年下半期号の特集「世界文学をふたたび問う」や各種学術大会、国際文学人会議などで議論が続いており、沈真卿先生が編集委員としていらっしゃる雑誌『子音と母音』や『世界の文学』で、中国や日本と作品交流を進めています。このような試みを念頭に置きながら、議論をもう一度点検して、発展させてみようというのが今日の「対話」の主な趣旨です。2000年代に入って世界文学の言説が浮上する現象とその背景について、まず話を始めましょうか?

 

 

世界文学言説の浮上

 

沈真卿 今回の対談を準備しながら考えたのは、世界文学論の出発点が、結局「韓国文学とは何か」という問いではないだろうかということでした。韓国文学を単に自国内に限られた局地的次元の文学ではなく、もう少し広い地平で考えて、既存の問題提起を新たに構成してみようということです。ですが、なぜ、あえて世界文学なのかという疑問を感じました。創作と批評社から出た『世界文学論』に掲載された様々な論文をみると、世界文学は固定不変の固有名詞ではなく、民族文学の介入によってその判断基準や普遍性の意味が変わりうる流動的な概念であり、そのような次元における運動や実践として解釈しているようです。過去の民族文学論は、創作と批評社の主要な文学言説として活気を帯びていましたが、それが時代の変化に適応しながらグローバリゼーションに戦略的に対応するひとつの方法論として世界文学論を提起し、自己更新を試みているという印象も受けます。にもかかわらず、重要なのは世界文学自体でなく、韓国文学の現実だと思います。今、韓国文学の現実から出発しない世界文学論であるとすれば、虚構的な理論的構成物に近づいてしまうのではないか、そのような巨大な枠組を突きつけた時、韓国文学がきちんと議論される場がなくなってしまうのではないかという憂慮もあります。

李玄雨 私も韓国文学に焦点を合わせるべきだという点に同意します。ですが、理念や言説としての世界文学は、普遍的な問題提起とみるより、かなり独特な、韓国的な視角であるという気もします。ロシアや様々な外国の事例を見ても、世界文学という用語が世界文学論として具体化された事例はかなり稀だと思います。ロシアでもロシア文学と外国文学を合わせて世界文学であると概念把握しています。白楽晴(ペク・ナクチョン)先生が使われた「ゲーテ―マルクス的企画としての世界文学」というのはかなり新しい観点です。おそらくそのような用語を初めて作ったのは白楽晴先生ではないかと思います。西欧から世界文学を見る視角と私たちの視角は異なりますが、それは端的に韓国語がマイナー言語であるために持つ問題意識です。日本や中国は、私たちよりはそのような負担が少ないのではないか思います。私たちは、世界文学で自らの持分を確保するべきだ、そこに参加するべきだという強迫的な意識があるようです。その場合、私たちが世界文学に参加するとすれば、どのような言語で参加するのかについても問題です。もちろん韓国語で参加するわけではありませんから。英語やフランス語、ドイツ語など、西欧の言語に翻訳された作品で、彼らに認められるか否かが判断基準になるのであれば、世界文学言説の構成自体に、私たちの相対的なコンプレックスが潜んでいるのではないかと思います。

白池雲 世界文学論の提案が、韓国文学に対する苦悩と関連しているというお二人のお話しに私も同感です。問題は、韓国文学を新たに見る枠組みがどうして世界文学なのかということですが、最近、創作と批評社の外側でも世界文学に対する提言があるようです。たとえば、辛承燁(シン・スンヨプ)先生が民族文学パラダイムに対する反省的代案として提起したものがあります。過去、主流言説にあった民族文学論が、これ以上、韓国文学の現実を説明できなくなり、また全地球的な資本主義の同質化という新たな現実が、世界文学という視野を要請するというものです。同じような脈絡で、最近では、60年代に白楽晴先生が提起した「市民文学」に戻ろうという議論もありました。これに全面的に同意するわけではありませんが、その問題意識の出発点には同感です。民族文学論の時宜性が消えたのは明らかですが、民族文学に対するそれぞれの位相の対抗言説まで一緒に消えてしまい、韓国の文学界はながらく言説の真空状態でした。この真空状態を突破しようとするならば、やはり民族文学論の下降地点から出発するしかないでしょう。とにかく、私たちの生の現実、私たちの文学の現実をどのような枠組みで理論化するのかという問題で袋小路に入り込み、それを突破しようと模索するなかで、世界文学論が出てきたのではないのかと思います。

金英姫 言説が出てきた背景を主におっしゃいましたが、最近、世界文学という問題枠が浮上しているのは、海外文学と韓国文学の疎通が、双方向で注目すべき進展が見られるという現実的な状況も重要だと思います。それとともに韓国文学の海外進出という課題が浮上して、それと関連した議論も結構ありました。今回の『世界文学論』の刊行もその一環ですが、創作と批評社ではこの問題をさらに包括的にとらえ、世界文学自体もグローバリゼーションの局面で危機にさらされているのではないかという問題意識のもとで、韓国文学の更新と、西欧中心の世界文学秩序への介入について、ともに悩んでみようとしているのでしょう。ならば、世界文学論というのは、民族文学論の空白を埋めるというよりは、民族文学論の出発から一体のものとしてあった世界文学的な視野を、そのように変化した条件に合わせて拡大し具体化しようという努力の所産であると思います。

「ゲーテ―マルクス的企画」に対する深い関心もここから始まったものでしょうが、この2つを合わせて語るのは、資本主義の全地球化という客観的現実認識と、それに対応する世界文学を引き寄せようという実践的問題意識が、ともに強調されるという利点があるからでしょう。ゲーテとマルクスの発想が互いに相通じるという認識自体は、一部の西欧の論者たちもそれを掲げていますから、韓国に限ったことではありません。あえて私たちの議論の特性をいうならば、世界文学を国民文学/民族文学と別個のものと考えたり、対立する実体として考えるのではなく、堅実な世界文学を開拓するためにも国民文学的な成就が核心的であるという点を強調するくらいのレベルであるとでも言えるでしょうか。とにかく、ゲーテであれマルクスであれ、実践的企画として世界文学を語るとすれば、このような考えが一般的でないのは韓国も同様のようです。世界文学に対する最もありふれた像は、いまだ世界文学全集のようなものですからね。「世界文学」という言葉の用法自体が1つではないはずなのですが、このあたりで概念整理をしてみたいと思います。

 

世界文学のいくつかの概念

 

李玄雨 世界文学という用語は様々な意味で混用されますが、おおよそこのように分けて説明することができます。まず、外国文学としての世界文学(foreign literature)があり、2つ目に、基本的に西欧文学の正典(canon)だけれども、それに合わせてアジア圏の作品を入れたような、世界文学全集にあたる世界文学(world classics)があります。そして3つ目にゲーテが発明した固有概念である世界文学(Weltliteratur, world literature)があり、4つ目に地球文学(global literature)といえるほどの世界的なベストセラー文学があります。世界的規模の文学市場が形成され、コエーリョ(P. Coelho)や村上春樹のような超大型ベストセラー作家が登場しましたが、これは歴史的に類例がないものです。過去に国民文学の巨匠は自国内で流通しました。シェークスピアにしても後になって世界的に知名度を獲得しました。今はあたかも映画が同時に封切られるように、文学作品も全世界でリアルタイムで翻訳・出版され、数百万部が売れるという現象が見られます。このあらゆることを通称して「世界文学」と言っているので、概念の混乱があるのだと思います。実際の作品を見る時に指向する方向や理念としての「世界文学」と、「世界の文学」の間の間隙をどのように調整するのかという問題が残るでしょう。

沈真卿 基本的に世界文学といえば、4つ目の地球文学を除いて、2つ目や3つ目の概念が一種の「いい文学」、商業性に偏らない文学的基準を満たしたうえで普遍的な共感を引き出す文学のことを言います。ゲーテのいう概念も国民文学であり、世界水準の成就をとげた文学という点でいい文学ですが、いい文学がすべて世界文学になるわけではありません。翻訳の問題もあり、自国内では優れた評価を受けていても、普遍的共感を得ることがないならば、それを世界文学といえるのかという問題があります。どのようなものが世界文学かという規定よりは、世界文学の概念をめぐって起きる衝突自体に注目しながら、そこで生産される言説として検討するべきではないでしょうか。

白池雲 ワールド・クラシックというのは今でも通用しますが、ゲーテが生きていた時期と今は確かに変わっています。一国内で成就をとげた作品が、長い時間を経て、世界文学と評価されるのが過去のスタイルであるとすれば、今は地球の反対側にある人と自分が、同時に同じ作品を見て共感できる物的基盤ができたということが大きな違いです。まったく異なる場所に住む異なる人たちの実存的な問題を共有できる状況になったのです。ゲーテやマルクスの時代には世界文学が理念型だったかもしれませんが、今はそれが現実に肉迫しています。むしろ世界文学の物的土台はあるのに理念がない、そのような状況ではないかと思います。

金英姫 ええ、まさにそのために「理念」ないし「企画」としての世界文学の概念が中心になるべきだというのが私の立場です。そうしてこそ、世界文学に対する努力が方向性を持ちうるでしょう。ですが、他の概念にもそれぞれ特定の実践的課題を提起する潜在力があり、そうした点ではこれらも一緒に考えようという努力が必要だと思います。「世界文学」というと、概して世界で産出された文学の総和、世界のすべての文学を指したり、世界的に卓越した文学、つまり「世界文学の正典」を指したりもしますが、前者のような中立的な用法と後者の価値判断的な用法の間に存在する間隙をみると、西欧中心的な現在の世界文学の秩序の問題性がさらに鮮明になると思います。

もう1つの用法は、全世界で読まれるという意味での「地球的」文学でしょうが、過去には、いかなる方法であれ、批評的な評価を受けた「世界文学の正典」がその主軸をなしていたとすれば、このような点検作業とは、比較的、独立して、多くの国の読者を念頭において執筆・出版される作品が増えているというのが、現在の世界文学の地形に見られる新たな変化でしょう。ですから、論者によっては後者を「世界文学」と別の範疇として「地球文学」と呼んでいる場合もあるようです。とにかく、世界文学の理念が抽象的、あるいは当為的なものに終わらないようにするならば、世界的な疎通に対する関心がより高まるべきなのですが、「地球的」文学の躍進は、この世界的な疎通がはたして世界文学の必要十分条件なのか、むしろこのような現象こそ世界文学の危機の兆候であり触媒ではないか、という問いを投げかけたりもします。この問題は、のちほど村上春樹に触れながらさらに議論されるだろうと思います。

李玄雨 正典としての世界文学とゲーテ―マルクス的企画としての世界文学は少し違うと思います。『世界文学論』に収められた論文で、白楽晴先生が社会主義リアリズムを例にあげましたが、事実、社会主義リアリズムは反正典主義です。正典といえるほどのものもほとんど残っていません。正典という時、はたして誰の視点からみた正典なのかも問題です。ゲーテ―マルクス的企画という時、普通、マルクスに傍点をふるようです。この時は理念的な指向性を明確に持つということであり、無色無臭で作品の完成度に注目し正典を構成することとは違った観点ではないかと思います。

金英姫 私は、ゲーテの場合にも理念的な指向性が明確にあったと見ていて、ですから社会主義リアリズムとこのような形でつなげて論じてしまうと、少し首を傾げたくなりますが、ゲーテであれマルクスであれ、あるいは彼らの発想を活用した私たちの議論においても、その理念的な指向性についてはもう少し議論する必要があります。ただ、いい文学以上の何かが必要だとすれば、それは何なのでしょうか? もちろん「いい文学」も定義によって変わってきますが。

 

近代克服という指向性

 

李玄雨 たとえば、白楽晴先生の論文では、近代資本主義に対して省察と批判、体制克服のための創造的努力を示すモデルになりうる文学であると言っていますが、これをそのまま私なりに解釈すれば、今は全地球的な資本主義の限界に対する省察と批判を提示しながら克服の方途を提示できる文学でなければならないという方向性なのでしょう。おそらく社会主義リアリズムの話が出たのもそのような脈絡のようです。全地球的な資本主義は一国的資本主義ではありませんから、それを克服する方途にも世界的な見識が必要です。その指向点は世界文学とみな連動しているでしょうが、政治的な体系としての世界国家、ヨーロッパ連合のような世界共同体的な政治体制が、理念的な指向点として念頭に置けるのではないかと思います。もし世界文学がある種の指向点を持つとすれば、また、特定作品の完成度に対する評価を越えて何かを要求するとすれば、そのようなものになるのではないかと思います。

沈真卿 ですが、世界文学が望ましい政治的体系であり、平和的な体制として地球共同体を指向するべきだと言ってしまうと、それ自体としてはそのように見ることもできますが、一方では世界体制と世界文学との関係がかなり無媒介に設定されてしまうのではないかと思います。政治的な次元で世界共和国に進むのと、文化的な次元で世界文学を成就するのは、位相が異なる話ではないでしょうか。政治的な権力関係とは異なる次元で文学自治共同体が可能であると思います。

白池雲 少し具体的な話をしてみたいと思います。金英夏(キム・ヨンハ)の『光の帝国』のような作品がなぜアメリカで注目されたかを考えてみると、以前は韓国、北朝鮮の問題が、朝鮮半島に生きる人々だけの問題であったとすれば、今は世界の人の問題になっているからだと思います。それだけ朝鮮半島の地位が高くなったこともあり、他の国や地域と体感的な距離が小さくなって、一国的なものと世界的なものの同時性が一層実感を獲得したといえるでしょうか。事実、過去の民族文学論でも、民族文学は世界文学と対で議論されました。その時、両者を媒介する理念的な中間項が「第三世界的な視野」でしたが、民族文学が西欧の中心部を批判する第三世界的な視野を持つことによって、世界文学の一環になりうるというものでした。ふりかえって見れば、民族文学論が世界文学と持続的に対決しながら理論化しようとする努力がさほど多くなかったというのが残念ですが、当時の問題意識だけはとても重要だったと思います。特に世界文学が現実に圧倒している現在、当時の「第三世界的な視野」のような理念性をどのように確保するかが重要な課題でしょう。おそらく批評家カサノバ(P. Casanova)のいう半周辺性、周辺性のような概念が、さきの第三世界的な視野の延長線上にあるはずですが、韓国文学がどのような「周辺性」を確保して、私たちの生きる世界を狙うことができるのかが、韓国文学と世界文学を論じるカギだと思います。そのような点で「世界文学論」で地球共同体を想定する世界共和国の議論は、あまりにも先走っているのではないのかと思います。

李玄雨 私は「世界語」という問題意識や、世界文学、世界主義が互いに関連した指向点を持つと考えます。単一の共同体の閉鎖性を止揚しようという運動があるんです。私たちがゲーテ―マルクス的な企画としての世界文学の概念の運動性を考慮しようとするならば、そのような理念型を想定せざるを得ないのではないかと思います。

沈真卿 そうした点で、世界文学は到達すべき仮想的な指向点として、「世界共和国」という比喩で理解できそうです。ですが、この世界文学の指向性、つまり周辺性で中心を突破しようという主張は、一方では正しいですが、他方では正しくない面があります。現在は私たちの時空間が資本主義的に再配置され、全地球的に同じ経験体系に入っています。たとえば、村上春樹の小説を地球の反対側の人もまったく拒否感なく読める状況でしょう。ここから導き出される世界文学とは、物的土台がすでに同一になった状況において、世界各地で1つの作品が同時に受容されうるシステムの中で作られるものですが、この時、周辺性がどれほど生産力と破壊力を持つことができるでしょうか。むしろ周辺性に対する強迫観念の度が過ぎると、自国の文学的特性を土俗的・郷土的なものにしてしまうことで、中心に吸収されてしまいます。蘇童(スートン)の原作を脚色した張芸謀(チャン・イーモウ)の映画『紅燈』(邦題『紅夢』)が、その地域性のためにむしろアメリカで受け入れられたようにです。

同様に、現在、韓国の作家が韓国的な現実をどれほど受け入れているかを考えてみましょう。たとえば、分断状況をはたして文字通りの現実として受け入れているでしょうか? ちょっと違う話ですが、先日、発表された朴玟奎(パク・ミンギュ)の短篇「コザック」(『文学トンネ』2010年冬号)を見ると、アメリカの西部開拓時代を背景に、資本と暴力が荒れ地を一瞬にして価値ある土地に作りかえるものの、結局、そのすべてのものが無になる話です。私はこの小説を読んで、龍山(ヨンサン)の開発をめぐる資本主義的暴力のことを思い出しました。ならば、この短篇「コザック」は龍山のアレゴリーともいえるでしょう。「龍山惨事」〔2009年1月20日未明にソウルの龍山地区で、再開発のために立ち退きを要求されていた人々が、それを拒否してビルに立てこもり、それに対して警察が機動隊を投入、そのさなかで火災となって住民5名、警官1人が死亡し、23人が怪我をした事件――訳者〕という韓国的現実は、作家にそのような形で再現される状況だということです。黄貞殷(ファン・ジョンウン)の長篇小説『百の影』も清渓川(チョンゲチョン)をめぐる暴力的開発という韓国的な現実を、それこそ隠喩的かつ幻想的な形で再現しました。そのように、韓国の周辺的な経験が文学的に見られる様相を考える時、もしそれが外国語で翻訳されて読まれるならば、その周辺性、あるいは特殊性が、それ自体として私たちが考えるほどの韓国的な経験の特殊性として受け入れられることもないでしょうし、また、それだけ周辺性の突破力を発揮することもないだろうという気がします。むしろ周辺性が、中心の突破でなく、反対に中心をさらに浮き彫りにすることに帰結する可能性についても心配です。

白池雲 ラテンアメリカ文学がその代表的な事例でした。マジックリアリズムが、西欧の理性的リアリズムが構築した城に亀裂を入れたものとして評価され、波及力も大きかったと思いますが、ふりかえってみると中心/周辺の位階をさらに明確にしたり、場合によっては中心の再生産になってしまった面もあったからです。ですが、私の言った「周辺性」は国家や地域の特殊性に還元されない概念です。さきほどの朴玟奎の小説には、中産層になれず、中産層への夢を捨てられない人々がしばしば登場します。人間の生はますます規格化され、みな平準化された目標に向かいますが、そこで落伍者は必ず出てくることになっています。落伍者にならないために、あるいは落伍者であることを認めずにもがいている人間像がコミカルに描かれます。ですが、中国の作家・畢飛宇(ピー・フェイウー)の「愛した日々」(『世界の文学』2009年秋号)のような短篇にも同様の現実が出てきます。そのまま田舎に残っていれば中間くらいのレベルで暮らせた人々が、中産層になってみろうと都市に上京し、苦労して大学まで出てくるものの、結局は社会の底辺になってしまう、これが今日の世界強国として浮上する中国の断面です。資本主義の産んだ中産層という見かけに寄生して生きる群像であるという点で互いに似ています。私が「周辺性」について言及したのはこのような脈絡からです。社会環境も異なり、資本主義の進行速度も異なりますが、それぞれ自らの現実を解剖するならば、結局は私たちの生の中心に君臨する新自由主義的な資本主義の問題に、いかなる形であれ抵触することになります。そこに各国の文学の間に共通した抵抗線というか、連帯の接点が形成されうるでしょう。そこに一国の文学と世界文学を媒介する理念的な中間項を見出すことができそうです。

金英姫 1つの国家といっても、自足的に閉じた実体ではなく、世界資本主義体制の運動が一国の中に有機的に入ってきている、この点はみなさんも同意されるようです。「周辺性」自体を物神化する危険については、すでに第三世界文学論でも「第三世界主義」に距離をおきながら警戒したところです。金英夏の作品の場合、この点においてどうであるかはさらに確認すべきだと思います。南北分断の問題の特殊性を深く掘り下げるなかで、普遍的な共感まで勝ち取っているケースなのか、あるいは「周辺」の「特殊な」状況が与える興味と、アイデンティティの瓦解という「普遍的」問題に対する共感が結びついたケースなのか。とにかく、物的生産であれ精神的生産であれ、周辺部にある国や地域の客観的条件とかけ離れた「周辺性」の議論は、それとして実質的な内容を喪失してしまう危険があるのではないかと思います。自然と作品の話に移りましたが、韓国文学においても、朴玟奎であれ黄貞殷であれ、現実の素材を扱うスタイルや「幻想」を含めた新たな試みを、「具体性」の観点からいかに評価するべきかという問題意識は重要だと思います。1つだけ確認すべきは、韓国文学のこのような試みが世界文学的な次元で見たらどうなのかという点ですが、与えられた支配的現実が固定不変の壁のように描かれるのと同時に、それを拒否したりそれを避けたりしようという、そのくらいには、消極的ではあっても、「反体制的」な兆しを示す文学的な挑戦をしているといえるでしょうか。

 

「村上春樹現象」をどう見るべきか

 

金英姫 これと関連してさきほど申し上げた、狭い意味での「地球文学」の問題に少し触れてみたいと思います。文学的評価とはある程度独立的に、リアルタイムで世界に流通する作品が増えている現象をどう見るべきかという問題です。「地球文学」も一括して語ることはできませんし、意味のある成就としての「世界文学」を兼ねるかどうかは、作品別に確かめるべきでしょう。現在の村上春樹がこの現象の中心人物の1人であることは事実ですが、議論の具体化も兼ねて、世界的なブームを巻き起こした彼の最近作『1Q84』について話してみたいと思います。

李玄雨 1つ、エピソードを申し上げるならば、私が2004年にロシアにいた時、大型書店に行ったのですが、韓国文学の作品は1冊も見ることができなかった半面、日本文学は古典文学がクラシックの棚にもささっていて、平積みのところには当時、村上春樹の小説で一杯でしたが、彼の新刊が出たという案内放送まであって驚きました。その時は『海辺のカフカ』だったように記憶しています。村上春樹の本は出版されればロシアだけで初版を10万部くらい刷るといいます。どの書店に行ってもよく目につくところに陳列されています。現在でも状況は似ています。何か通じるコードがあるということでしょう。言語的な障壁を越えてアピールするコードを村上春樹の文学が持っていると思います。「村上春樹現象」という用語までありますが、文学的な評価を越えて文化現象として研究すべき課題でしょう。

何より私は、村上春樹の文学が、現実において頼れるものは何もない、自分自身しか信じられないといった生存主義的な態度をよく実現しているのではないかと思います。一種の自由主義的な人間観で「無縁故的な自我」です。彼の作品を見ると、日本という国籍性は格別意味がなく、「私」からまっすぐに「人間」に行き着きます。個人としての自分と普遍的な人間との間に中間的なアイデンティティがありません。「日本人としての私」というアイデンティティが欠如しているのでしょう。村上春樹がオウム真理教の毒ガス散布事件に関心を向ける理由は、それが村上春樹にとって唯一の「現実」だったからでないかと思います。無重力的で脱国籍的な彼の文学を現実的な地盤に結びつける唯一のものなんです。だから強迫観念的にそのような問題に関心を傾けているようです。それは彼の真正性であると同時にアリバイみたいなものだとも思います。

金英姫 ならば、『1Q84』は、そのような村上春樹文学の典型的なものとどれほど違っているでしょうか? また、今、私たちが語っている世界文学と関連して、全世界的に拒否感なく通じる文学、それぞれの地域や社会の違いに対する特別な関心がなくても、簡単に理解可能な文学をどう見るべきでしょうか?

白池雲 村上春樹の小説の全世界的な消費に、無国籍性が重要な作用をしているのはその通りだと思いますが、それでもそのなかにはやはり日本の国内的な脈絡があると思います。『ノルウェイの森』から『1Q84』へとつづく過程にはある種の一貫性があります。全共闘世代の持つトラウマにうまく触れて入るという点です。ただ問題は、村上春樹がそのトラウマにどれくらい切実に対面しているのか、その真正性が分からないというところにあります。

金英姫 ならばそれはトラウマとは言えないのではないでしょうか?(笑)

白池雲 『1Q84』には「さきがけ」という正体不明の集団が出てきます。60年代の全共闘の時代、学生運動の後身であるという点が暗示されています。ですが、物語のもう一つの軸で、「さきがけ」は80年代に東京の地下鉄でサリンガスを散布したオウム真理教の集団と重なります。サリン事件と全共闘という、日本社会に深い傷を与えた別々の2つの事件が作品で1つにつながっていますが、それがなぜであるかはミステリーとして残ります。そのミステリーを村上春樹は「リトルピープル」というはっきりしない存在で処理しているようです。リトルピープルはオーウェルの『1984』に出てくるビッグブラザーのような、独裁者でない平凡な個人ですが、善と悪のどちらとも規定できない個人の欲望や行為から、日本社会の底辺にある、ある種の闇の実体に近づこうとしたのでないかと思います。そのような部分を見ると、作家が日本社会に対して何か言いたいことがあるのかもしれないと思いました。

『1Q84』が過去の前作と異なる点は、女主人公の青豆が、自分の閉じ込められた閉鎖回路から抜け出すために命をかける、積極的な行動をするということです。『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』では、そのように死闘する主人公は出てきませんでした。作家インタビューを見ると、この閉鎖回路は、日本社会を支配するある種の構造を意味しているようです。問題は、そのように自らの属する社会のトラウマと現実問題を取り上げる試みが、あまりにも流暢に、よく作られた物語の中に引き込まれていて、本来、その真正性の深さというか、そのようなものが曖昧になっているということでしょう。まさにその点、一国的な問題を無国籍的な色彩で描きながら、独特の自分だけの雰囲気を作り出しているのが、村上春樹の才能のようです。
金英姫 初期作から「全共闘以降」という意識が底辺にあるのは明らかですが、私が読んだ作品に限って申し上げれば、『海辺のカフカ』からは、最低限、作家の意図は、何か大きな問題、歴史的な、あるいは社会的な問題をもう少し正面から取り上げてみようという考えが大きくなっているようです。

沈真卿 村上春樹の小説において生存主義と個人主義が結びついているといいましたが、それは一種の自己保存術でしょう。彼の主人公は最後まで自分をあきらめません。『海辺のカフカ』に出てくる図書館は、自我の顕示物であるといえます。図書館に象徴される知的な雰囲気を維持しながら、そこに自我を保存しつづけようという欲望を収めます。ですが、それが現実との対決でなく内面の戦いとして出てきます。葛藤の契機として外部の出来事は発火点にとどまるだけで、出来事が展開する過程で本来重要なのは内的葛藤です。それとともにその葛藤が内面に消化され消耗します。ここには甘いナルシズムのようなものが与える慰安があります。村上春樹が日本の現実、全共闘世代の経験からオウム真理教の問題などを取り上げたといいましたが、そのような経験は話を出発させたり、プロットを円滑にする装置として動員されるだけであって、それ自体が苦悩の対象になることはありません。そのうえ『1Q84』になると、エンターテイメント的な要素も強化されます。青豆という主人公は、きわめて日常的でありながらも、また非現実的なキャラクターです。女性戦士のイメージという、ファンタジー的な要素も入っています。村上春樹はそのような大衆的な魅力を持ったキャラクターを作り出す知恵があります。

金英姫 お二人の意見は一見、対立しているように見えますが、私にはともに共感できます(笑)。『1Q84』を最初に読んで、もう完全に大衆作家になったのかなという感じもしました。さきほど社会的・歴史的な問題を取り上げる作家的な意志が見えるといいましたが、特徴はやはり日本社会から現代社会全体、あるいは人間社会全体に簡単に飛躍ができるという点です。「リトルピープル」にしても両面性があるようです。これ以上、ある1人の独裁者の全知全能な支配が問題なのではなく、匿名的なマルチチュードが問題であるというメッセージから出発したと思いますが、ますます特定の歴史段階ではなく歴史全体、いや、歴史以前から存在してきた(仮想)現実を作り上げる、原初的な力のように描かれます。長く論じる余裕はありませんが、朴玟奎の最近作『亡き王女のためのパヴァーヌ』もやはり2人の愛の物語ですが、うまく行く1%を絶えずうらやみながら、自らを恥じる99%の人々を問題視するという点で、「リトルピープル」にある問題意識の1つと接点を持っています。偶然ですが、2つの作品はともに『白雪姫』の7人の小人の形象を活用したものです。ですが、朴玟奎が自らの問題意識を一貫させながら再調整しているとすれば、村上春樹は大きな意味を付け加えつづける形で読者を幻惑しているように思えます。愛の物語を展開させるスタイルでもそうです。世の中やシステムに対する姿勢もかなり異なるように見えますが、たとえば、朴玟奎の作品で世を避けて暮らす主人公たちが集まるところが、英語表記も間違っている「ケンタッキーチキン・ビヤホール」ならば、『1Q84』で女主人公の青豆は、最高級レストランで洗練されたマナーを見せ、自らに満足します。小さなディテールですが、私には兆候的なことのように思われます。とにかく青豆であれ村上春樹であれ、閉鎖回路を必死に突破しようとしているといえるのか、むしろそれはジェスチャーにすぎず、システムに便乗している面がより強いのではないかという気がします。

白池雲 『1Q84』にエンターテイメント的な要素が強いというのは正しいですが、はたしてエンターテイメント的な要素だけで、村上春樹が現在の位置にまできただろうかと思います。村上春樹の小説を見ると、無国籍的なアウラにもかかわらず、何か日本的なものが確かに感じられます。村上春樹が特に西欧で通じたのは、この両者を結合する精巧な技術が一役買っていると思います。

李玄雨 このような問題について、村上春樹がすべて責任を負うべきではないと思います(笑)。村上春樹は日本の文壇でマイナー作家であったのが、予期せず主流の作家になった人です。ですが、彼の文学自体が変化したというよりは、それをめぐる情況や時代状況が変わり、幅広く受容されて流通する通路が作られたのだと思います。おそらく彼自身も驚いたでしょう。問題的なのは村上春樹の文学というよりは、それが受容される脈絡でしょう。村上春樹の文学が望ましい世界文学の像ではないと言いましたが、必ずしも否定的に断定することではないでしょう。『ファウスト』にも出てくるように、悪を行おうとしても究極的には善に貢献する役割もあるからです。ロシアでも村上春樹のために日本語を学ぶ学生たちがいます(笑)。そのような付随効果もあるので、断定的に言うことはできないでしょう。

沈真卿 村上春樹の文学が私たちに障害物なく受け入れられるというのが最も大きな問題でしょう。いい文学とは、一言で自らの現実を反省的に省察させるものです。そのような障害物を与えずに、それこそすぐに受け入れられてしまうということ自体が問題だと思います。また、そのように多くの読者の欲求を充足させる作品が世界文学になりうるかという気もします。ですが、村上春樹は有数の文学賞を受賞しています。そうしたことを見ると、世界文学の基準も変わると見るべきでしょう。地球文学の全世界的な流布を見ながら、世界文学がいまやその先決条件として大衆性の確保を要求しているのではないか、作品性に対する議論はその後にはじめて可能になるのではないかと思います。

金英姫 むしろゲーテ的意味での世界文学の形成を困難にする現象というべきではないでしょうか? これにきちんと対応しなければ、文学も批評も危機を避けられないでしょうし、このような危機意識が創作と批評社で「世界文学論」を提起した背景の1つと考えます。もちろん、村上春樹の文学を一方的に否定できるわけではなく、特に大衆文化的な要素を持ちこむということ自体が問題になるわけではありません。問題は従来の文学文法と結合したり衝突したりしながら、新たな語法を開拓するか、あるいは両者を適当に折衝して活用することにとどまるのかという点でしょう。

 

活発になった東アジアの文学交流

 

金英姫 アメリカ文化との親縁性も村上春樹の文学の一要素としてしばしば指摘され、作家本人がアメリカ市場進出を非常に計画的に進めてきました。アメリカ、あるいはニューヨークは、たとえばカサノバのような重要な世界文学論者が、既存の世界文学に代わるだろうと考えた「地球文学」の中心です。ですが、非西欧の立場から見れば、既存の世界文学の正典秩序もやはり西欧中心的でした。だとすれば、広い意味でヨーロッパ中心主義が新たな形で変化しているわけですが、このような秩序の中では、西欧で簡単に共感できたり、あるいは西欧と異なっているために好奇心を誘発する作品の方が勝算があるでしょう。ヨーロッパ中心主義に便乗したり、その裏面であるオリエンタリズムを再生産する作品です。その一方で、ヨーロッパ中心主義に対する問題提起や克服の試みが、理論的・実践的に続いています。非西欧圏の文学の間の疎通の動きも大きくなりました。韓国の場合、最近、白楽晴先生が「東アジア地域文学」という発想を提出し、同じ時期に『世界の文学』誌で韓国と中国が、また『子音と母音』誌では日本まで加えて韓・中・日の作家の作品を交換したり、各国で同時掲載する試みが進んでいます。このような言説や実践について考えてみたいと思います。

白池雲 1990年代に創作と批評社で東アジア言説が提出されて以来、社会の各領域で東アジアが重要な話題になりました。最近は作家たちの間でも東アジアを単位とする多様な交流プログラムが展開しています。私たちはガルシア・マルケスをコロンビアの作家とみるよりラテンアメリカ文学の巨匠として記憶しています。それに比べて、東アジアの場合は、韓・中・日だけを考えても、1つの地域文学としてくくるには異質感の方が大きかったことも事実です。ですが、日本の文芸誌『文學界』の最近号に掲載された「東アジア文学フォーラム」の特集を見ると、若い世代の作家は東アジア地域文学の統合の可能性をはるかに積極的に展望しているようです。たとえば今後、電子出版が活性化すれば、東アジア読書市場の統合はさらに早くなるでしょうし、自国だけではない東アジアの読者を想定して作品を書かなければならないというのです。

そうした点で見る時、今、東アジア文学の議論には、必然性と理念性という2つの次元があるようです。まず必然性については、最近、急速に資本主義体制に進入した中国をはじめとして、東アジアがこれ以上、資本主義の辺境ではないという状況があります。そのうえ、冷戦期に隔絶された韓・中・日の各国の近代経験の落差が、およそ10数年の間、グローバリゼーションの流れの中で瞬時にして狭まり、私たちの日常が大きく揺れています。1938年にパール・バック(Pearl S. Buck)の『大地』がノーベル賞を受けた時、林和(イム・ファ)は『大地』が現代文学としては水準に到達していないのに、当時、世界史的な局面の核心にあった中国を素材としたために、「世界文学」の栄誉を占めたといいましたが、真の卓見です。私はある意味で、現在の東アジアがそのような状況ではないかと思います。資本主義的なグローバリゼーションの過程で発生する諸矛盾や様々な付帯現象が集約された問題的な場所として東アジアが浮上し、「東アジア文学」は必然的に世界史的な重大さを獲得せざるを得ない状況にきたといいましょうか。だとすれば、問題はこのような傾向を受動的に迎えるのではなく、東アジア文学の理念を積極的に創造するべきだということです。東アジアの作家間の作品交流や読書市場の統合は、今後さらに早く進むでしょう。過去のラテンアメリカ文学が、結局は中心部の文学に吸収されたり、中心/周辺の位階をより一層強化したとしたら、今、私たちには、そのような前轍を踏まないように、東アジア文学のビジョンを立てることが必要です。

沈真卿 私たちが東アジア文学、あるいは韓・中・日の文学のことを語るならば、運動や実践としての世界文学、緩慢ではあるけれど連帯のネットワークを形成するという脈絡で、西欧―非西欧の連帯だけでなく、非西欧の内部での連帯が並行されるべきだという点に注目しなければなりません。世界文学論が巨大な理論的枠組だけの存在にならないためには、逆に現場の動きをとらえながら、それを通じて世界文学に接近していく方法論を準備するべきでしょう。東アジア文学が単に地域文学としてのみならず、世界文学的な実践自体として成立することもあり、その動きをとらえようという試みが世界文学の具体的な事例を作ることもあるでしょうから。

金英姫 非西欧内部の疎通や連帯の試みは、近年になって多様になっているようです。昨年、仁川(インチョン)で開かれた「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)文学フォーラム」のようなものが、その代表的な例になるでしょう。東アジア地域文学論の趣旨は、そのようにすべての非西欧地域に開放する努力も大切ですが、さらに持続的で内容ある疎通のために、戦略的に範囲を小さくする、つまり文化的伝統を共有する東アジアに限定する必要があるということだと思います。もう1つは、現在の世界文学の秩序では非常に周辺的な位置にありますが、文学的な伝統や、今、生産されている文学的成果において、豊かな資産を保有しているので、世界文学の支配的構造に単に便乗するのではなく、それを越える潜在力を持っているということです。白池雲先生が強調された「理念性」とも通じる考えですが、さらに考えてみたい点は、今後、構築していくべき東アジア地域文学のアイデンティティと関連した問題です。地域文学の例としては、おっしゃったようなラテンアメリカ文学やアラブ文学のようなものを考えてみることができますが、たとえばラテンアメリカ文学が、個別の国民国家の文学でない、地域文学として持つ統一性には、それなりの根拠があります。ポルトガル語とスペイン語という違いがありますが、ブラジルを除けば言語的に統一されており、西洋の大陸征服から始まった近代国家形成の過程も大同小異です。アラブも同様です。東アジア地域には中国、台湾、朝鮮半島、日本、ベトナムが含まれますが、漢字文化圏として伝統を一部共有するものの、言語もみな異なっており、近代資本主義の世界体制に進む経路もまた、互いにずいぶんと異なりました。だとすれば、ラテンアメリカのような1つのアイデンティティを持つことはかなり困難な条件になりますが、東アジアにおいて可能な、あるいは望ましい地域文学の姿はどのようなものか、ご意見をお聞きしたいと思います。

 

対話 ②