창작과 비평

〔対話〕 世界文学・東アジア文学・韓国文学②

対話 ①



東アジア地域文学の成立は可能か

 

 

李玄雨 東アジア文学が成立しにくい理由は、伝統を共有するとはいえ、かなり異質な言語と文化を持っているからのようです。何より共通的なものを作ろうとする努力が必要だと思います。たとえば『子音と母音』誌の韓・中・日小説の同時掲載や、各国の近現代の古典を選定して翻訳する「東アジア100冊の本」事業のように、共通の文学を作るための基礎作業を互いに共有する過程で、「東アジア人」というアイデンティティもできるでしょうし、そうやってはじめて東アジア文学が実効的な概念として成立すると思います。

まず、世界文学の一部だけれども、これまで排除されてきた自らの発言権を確保しようという意味での東アジア文学が可能でしょうし、また、世界文学の前段階としての東アジア文学も可能な範疇であると考えます。個別の言語を越えて疎通できる、そのような文学が可能ならば、そしてそれがさらに拡張されるならば、世界文学になりうるでしょう。世界文学の可能性や現実性がすぐに見えてこないから、それより小さな単位でやってみようという意味もあるでしょう。私の要点は、共通的なものを作るべきだということで、もう1つは東アジア言説の特殊性でもあるでしょうが、中国や日本が東アジア文学を作ろうということは言い出さないでしょう。韓国だけができるという独特な面があります。共通の文学空間を作ろうという主張自体は普遍性を持ち得ますが、東アジアでは韓国だけが堂々と提起できるんです。

沈真卿 『子音と母音』誌で韓・中・日の作品交流を進める時も、中国と日本は互いに直接連絡をしません。韓国がいつも媒介の役割をしていますが、互いに警戒しているのでしょうか……(笑)。

金英姫 東アジア地域文学の現実性や必要に対しては概して同意できそうです。今後、作るべき像がいかなるものであるかは、もう少し話をしたいと思います。一種の東アジア版ラテンアメリカ文学を作ろうということでしょうか?(笑) 南米とは違った地形ならば、共通点に劣らず違いの方も積極的な資産とする構想が必要ではないでしょうか?

李玄雨 共同体ならばおおよそ共生するものでしょう。歴史的に葛藤と紛争も多かったために、そのような葛藤と緊張を減らしていく方向で、共感と疎通の幅を拡げていくことが重要です。もちろん現在でも対立は存在します。中国も歴史を自分の便宜によって専有しようとします。そのような形ではなく互いの生存と繁栄を模索することが必要です。もし東アジア連合というものがあって、そのような形での単一市場が形成されるならば、そこに文学市場もできるでしょう。その過程で共同体が緩やかな形であれ成立するならば、そこに寄与できる文学も存在するべきです。現在、全世界的に村上春樹が読まれているように、東アジア三国で同時に読まれる作家が出てくること、これが東アジア文学の前段階でないかと思います。例をあげれば、中華圏で共通に人気を集める歌手や俳優がいるでしょう。それが共通のアイデンティティにおいて重要な部分だという気がします。その人が中国作家だからではなく、東アジア作家として受け入れられるべきだということです。

沈真卿 世界文学を語る時、共存であれ平和であれ、疎通であれ、それが可能な想像的共同体になりうるという点を見過ごしてはならないでしょう。ですが、東アジア文学も同じように具体的で実践的な動きを捉えられないまま、理論的な枠組みにとどまる危険があると思います。韓国で『アジア』という雑誌の刊行がかなり長く続きましたし、韓国文学翻訳院や大山(テサン)文化財団などでも交流事業が着実に進み、『子音と母音』誌でも交流を試みています。このような現場の動きを通じて、東アジア文学に接近する可能性が開かれたと見るべきです。つまり、東アジア文学に対する議論が指向する方向ではなく、政治的要求によってであれ、経済的必要によってであれ、実際に成立する交流から出発するべきだということです。

白池雲 少し前に、東アジアの場合、ラテンアメリカのような1つのアイデンティティを持つことが困難だといいましたが、「東アジア文学」が必ずや同質性を前提にするべきだというわけではありません。韓・中・日だけを見ても、近代以降の100年の間、時空間的な経験の違いは相当なものでしょう。冷戦が断絶を強め、現在は民族主義が大きな障壁になっています。先に韓国文学をきちんと見るために世界文学の視野が必要だといいましたが、事実、その言葉自体は抽象的でしょう。すぐそばにある中国文学にどのようなことが起きているのかもよくわかっていません。そうした点で韓国文学と世界文学の間の抽象的な距離を狭めるものとして、東アジア文学という単位は必要だと思います。1つの視野としてです。その時の異質性は、自分のいる場所の問題を他者との関係の中で見る、さらに広い視野を提供します。そうした点で、同質性に劣らず異質性も、東アジア文学の形成に積極的な役割を果たすと思います。

 

韓・中・日の最近作品の成就と限界

 

金英姫 具体的な作品の話の方に行ってみましょう。日本文学については、さきほど村上春樹をまず取り上げましたが、彼が日本文学を代表するわけではもちろんありません。事実、村上春樹自身も「主流」の日本文学に対しては一貫して距離を維持しています。ですから、最近、紹介された他の日本文学の作品を、短くてもいいので一緒に議論してみる必要があります。中国文学では、私たちが一緒に読んできた長篇が、偶然でしょうか、新たなスタイルの歴史叙述と直接・間接に関連しています。扱う時期もかなり以前の歴史ではなく、現在の前史としての「近過去」ですが、どのように読まれたのか気になります。『世界の文学』誌や『子音と母音』誌に収められた韓・中・日の作品から始めてみたいと思いますが、まず、沈真卿先生が『子音と母音』誌で韓・中・日の作品の同時掲載を始めた趣旨を簡略にお話し下さい。

沈真卿 大きな志があったというより(笑)、『子音と母音』誌の韓・中・日の文学交流が、既存の文学交流と差別化される意味があるならば、民間次元で接近するということでした。すでに韓国文学翻訳院のような機関で韓・中・日の文学を各国の言語に翻訳する作業をしていましたが、実際の現場から見ると韓国文学はさほど流通していませんでした。あたかも文書保管所に保存されているようでした。中国の出版社はすべて国営なので、翻訳作業も業績として登録されます。ですから一生懸命にやるのですが、どうしても結果の質のようなものは二の次になるようです。ですが、商業出版社が介入すれば、図書をより多く流通させようとし、また自らの資金が入るので、翻訳にももう少し気を使うことになります。以前のように韓国や日本の国費でやるのではなく、商業出版社がやるということが最も大きく変わった点です。もう1つはそれぞれの言語で同時に発表されるという点が重要だと思います。特に中国文学の場合は、今までは西欧で認められた作品が優先的に韓国に入ってきました。そうではなく、直接出会う可能性が開かれたということに意味があると思います。

白池雲 私も『子音と母音』誌や『世界の文学』誌に掲載された作品を興味深く読みました。私は中国文学専攻者だからか、作品の与えるインパクトは中国文学の方が強かったと思います。普通、短篇はあまり紹介されることもなく、長篇も何年か待ってようやく陽の目を見ますが、現在の中国人の生の生き生きした断面をリアルタイムで見ることができてよかったです。特に蘇童の「香草営」は新歴史主義系列の作家という、これまでの印象とはまた異なる面を見せました。成功した中産層と、中産層の虚像を抱き続けながら生きる下層民を、大都市・上海の裏路地のある隠密な空間に結びつける設定が、神秘的でありながらも強烈なリアリティーを作り出しています。また、低賃金労働力で北京や上海のような大都市の底辺を形成する「外地人」(不法移民者)を素材にした須一瓜(シュー・イーグァ)の「海鮮礼賛」を見ると、家政婦と主人との間の葛藤にそれとなくできている絆、にもかかわらず、互いに到達できない距離を、軽快ながらも暖かい視線で捉えています。その他にも、陶淵明の『桃花源記』をディストピアに転覆した劉恪(リゥ・かー)の「無相島」や、『浮生六記』『聊斎志異』のような伝統の物語を現在的に再構成した朱文穎(チュー・ウェンイン)の「はかない人生」は、中国文学の豊富な物語的資源と可能性を新たに実感させました。

金英姫 蘇童や須一瓜の作品を私も面白く読みました。蘇童の作品について付け加えるなら、近代的な階層関係に前近代的な主従関係が結びついて、社会的不平等に対する負債意識につながるところが興味深く感じました。中国の短篇の場合、概して伝統的な写実主義的な筆致が強いですが、古い技法や理念と見なされやすい写実主義やリアリズムの変わらぬ力を確認する機会となりました。韓国の作品では鄭梨賢(チョン・イヒョン)の作品を印象的に読みましたが、やや作風が雑なところもあるように思えました。一般化はできませんが、描写や思弁を浪費しているような感じもしました。日本の作品はモダニズム的な感性が感じられますが、全体的に躍動感が落ちるといえるかもしれません。そのなかで河野多恵子の「緋」に注目しましたが、きわめて正常で円満に見える結婚生活が、実は薄氷を歩く局面であるということを、繊細な心理描写と節制された語調で伝える作品でした。生の陥穽を根気強く追跡する緻密さが感じられました。

沈真卿 同時掲載の場合は、各国の作家が自国の雑誌だけに発表するのでなく、他の両国の雑誌にも同時に掲載されるということを前提に書くという点で、独特な創作経験でしょう。また興味深いのは、この企画では共通主題を与えます。初めは「都市」、2回目は「性」ですが、日本の作家は与えられた主題に最も忠実に書きます。死後の東京であれ、東京の裏路地の姿であれ、都市という主題を細目化された日常生活に従いながら書く傾向が強いと思います。ですが、中国の作家は概して主題とさほど関係なく書きます。そのような違いを覗き込むような楽しさもありました(笑)。

金英姫 3か国の雑誌に掲載されるということは、読者も韓・中・日の読者に拡がるということですが、読者を意識する点においてはどうでしたか?

沈真卿 日本はその部分もとても意識しているようです。

金英姫 日本の葬儀を取り上げた「緋」の前半部分が、多少冗長ですが、ひょっとしたら外国の読者を意識してさらにこうなったのではないかという気もしました。

沈真卿 そのような面もあるでしょう。例をあげれば「都市」を主題にした柴崎友香の「ハルツームに私はいない」の場合、アフリカ・スーダンの都市ハルツームと大阪、東京を描きながら、自分がある地域に存在すれば他の地域には不在になるという事実を、他の都市に対する想像力と結びつけます。たとえば、東京にいながら上海やソウル、あるいはハルツームにはいないと想像するんです。このように逆説的なスタイルで他の地域の読者を念頭に置いているようです。面白いのは、日本の小説と中国の小説は一人称の視点の小説がほとんどないということです。たとえ「私」が主人公になっていても人物が多様で、それぞれのキャラクターが生き生きとしており、物語も出来事中心に展開します。ですが、韓国の小説は大部分、人物が匿名化されており、活気がなく抽象的です。キャラクターの名も具体的でなくイニシャルで表現されたり、「私」を中心にした家族関係の名称で呼ばれたりするだけです。人物自体が短篇の中で生き生きと描かれていない場合が多いのですが、この企画を見る時も、そのような違いが目立ったようです。

李玄雨 私も韓国の小説で不満な点が、類似のディテールがあるだけでリアリティーがないという点です。コンビニに行って何かを買ったものの、いくらのもので釣銭はいくらもらったというようなディテールがあるだけで、生の細目はみな脱落しているのです。そのようなアリバイ式のディテールだけが残り、現実の指標となる固有名詞は省略され忌避されます。再現的な物語でなく、比喩や象徴、アレゴリーが動員され、評論家はそれを「兆候」として読みます。「詩的な小説」が多くなっていることが私には少し不満です。

金英姫 各国の最近の短篇を見たので、次に長篇小説に移ってみましょう。短篇について話しているときに議論されましたが、私もやはり豊富で使用可能な資源として残っている中国の物語伝統がうらやましかったです。たとえば最近紹介された莫言(モオイエン)の『生死疲労』(韓国語訳=創作と批評社、2008)は「桃花源」という中国の伝統的なユートピア像を通じて、現実に進んだユートピア建設の試みに光を当てますが、この点は格非(ゴーフェイ)の『人面桃花』(韓国語訳=創作と批評社、2009)でも同じです。それと同時に革命に対する新たな視線が提出されますが、莫言以降の若い作家群を中心に、できれば韓国の作家との比較も念頭に置きながらお話し下さい。

 

歴史の中の個人を扱う中国小説の活力

 

白池雲 中国の現代文学は、文化大革命終結後、これまで閉塞していた西欧の多様な思潮を一度に受け入れる「文化熱」の中で新たな転機を迎えることになります。私たちによく知られた蘇童や莫言、余華(ウィーファ)もすべて「先鋒文学」(前衛文学)といって、多様な形式実験で叙事ジャンルを切り開いてきた代表走者たちです。彼らが中国文学を世界に知らしめるのに決定的な寄与をしましたが、そこには様々な脈絡があったようです。何より、張芸謀(チャン・イーモウ)によって映画化され、西欧のオリエンタリズム的欲求に呼応した面については、すでに様々な論者が指摘しました。ですが、韓国の中国文学受容にも微妙な錯視現象があるようです。韓国文学から消えていくリアリズム伝統に対する郷愁が陰に陽に投影されているのではないかと思いますが、たとえば2007年の『創作と批評』の座談を見ると、中国現代史を個人史のエピソードで荒削りに描いたのが余華の盲点であるという論評がありました。ですが、それこそがまさに先鋒派作家たちの意図するところだったんです。「巨大な物語」を「小さな話」で細かく破壊し、完結した「官方」(官製)の歴史/記憶に亀裂を入れること、それによってこれまでと異なる歴史の断面を示すんです。ですが、韓国の読者らにとって余華は、民衆文学、現実主義文学として読めるともろで、なおさら親近感を与えたようです。

最近、中国文学が爆発的な生産力を自負し、主題やジャンルの幅も広くなりましたが、大きな幹は、結局、過去の革命の歴史と現在の資本主義的な生の間隙をどのように整理するかに集中していると思われます。20世紀が革命の世紀であった点を考える時、革命の歴史を処理することは、単に中国文学だけの宿題ではありません。その点で中国文学は一国の境界を越えて、東アジアの、ひいては世界人類の資産になる可能性が大きいと思います。

私はその点で1960年代に出生した世代の作家に注目しています。文革の時期に幼年期を送り、改革開放とともに成年を迎えた彼らは、中国社会の激変を全身で体験した世代でしょう。最近注目されている畢飛宇(ピー・フェイウィー)の『玉米』(韓国語訳=文学トンネ、2008)や格非の『人面桃花』を見ると、革命の記憶を解体するスタイルが興味深く交差しています。両者がともに女性の視線を選んだのも意味ある共通点でしょう。『人面桃花』が表面的に取り上げたのは1911年の辛亥革命ですが、実際には革命全般を隠喩しています。ある小さな村の少女が両親と自らをおそった運命に翻弄され、革命に加担して失敗する話ですが、問題は失敗後のことです。革命が失敗した後、主人公が言葉を失ってしまうのは重要な暗示でしょう。革命とは言葉で人を啓蒙することですから。小説全体の底辺にある『桃花源記』のモチーフも重要です。小説の末尾で、村をおそった飢饉をみなが十匙一飯で克服する部分で、作家は「大きな革命」ではない「小さな革命」を通じてユートピア実現の可能性をフラッシュのようにしばらくの間、提示するんです。

金英姫 やはり専門家のお話しを聞くと大きな構図がイメージできます(笑)。中国文学の現在に対して、韓国文学の過去を投影するような接近は、私もやはりふさわしくないと思います。特に長篇の場合には、私が読んだ実感とも距離のある話です。しかし「巨大な物語から小さな物語へ」という一般化ならば、これに2つのことをさらに付け加えたいと思います。1つは、作家の意図を読むのも重要ですが、その結果に対する判断と評価もまた積極的に試みられるべきだと思います。『人面桃花』もまさにそうですし、莫言の長篇もそうで、巨大な物語を展開させるより他のスタイルで試みている作品のようにも見えます。具体的に革命に対する態度においても、『人面桃花』を革命の解体とのみ解釈できるでしょうか? 理想社会を建設しようとする夢が、破壊と暴力に変質する様相を描いているのは明らかですが、それでもその夢自体の切実さは認めていると思います。

積極的な評価の試みは、伝統的な物語の活用についても同じでしょう。『人面桃花』で「桃花源」を革命に重ねて見せたのは、説話的な雰囲気を強めることもありますが、現実感が減退するという効果もあります。莫言の作品はまた触れますが、『三国志』や『西遊記』の物語まで活用しながら、ロバ、豚などと生まれ変わる話者の視線で作品を展開した『生死疲労』の方が、荒唐無稽な点でははるかにまさっているはずなのですが、むしろこのような設定が、中国の社会主義革命から改革開放期まで、骨太な出来事を闊達な筆致で実感をもって描写することに肯定的に寄与した側面がより大きいと思いました。モダニズムの洗礼を受けたにせよ、それを踏襲することにとどまらずに、伝統の物語と結合することによって、リアリズムの精神もある程度、生かした作品だと言ってしまったら、門外漢の蛮勇でしょうか?(笑)

白池雲 莫言の叙事実験は、若い世代とは違った二重性があるようです。巨大な物語はスケールの問題だけではありません。「集団の公的記憶」としての歴史を想定するのです。ですから、革命の解体、巨大な物語の解体というのは、革命の理想自体を否認するというより、国家の公式物語に縫合された革命の歴史を、個人の多様な視線で切断するものです。1つの構造の中に還元されない、それぞれの断面が互いにぶつかる地点から、今日の中国文学の躍動性が生じているのでしょう。スタイルは違いますが、『玉米』でも国家や革命という「大きな歴史」を揶揄する場面が出てきます。格非が道家的な神秘主義ならば、畢飛宇は「説書人」の系列といえるでしょうか、通俗的な語り部の気質が濃厚に感じられます。特に面白かったのは小説に登場する男たちの名前です。玉米の婚約者であった彭国梁(ペン・グォリャン)は同音で「国家の大黒柱」という意味になり、玉米の夫・郭家興(グォ・ジァシン)も同音で「国家の復興」を意味します。中国語で「郭」と「国」は発音が同じです。玉米の妹を破滅させた郭左(グォ・ズォ)もいます。これに反して主人公の名前「玉米」はとうもろこしを意味します。それこそ野原に育つ貧賤な穀物です。玉米とその姉妹が彼ら男性に代表される国家/革命に翻弄されながら、逆に執拗な生存力を発揮して、革命と権力の論理を自身に内在化させていく過程が、背筋が寒くなるほどリアルです。

沈真卿 中国小説では歴史意識がとても強いようです。辛亥革命であれ社会主義革命であれ、韓国でいえば植民地解放や朝鮮戦争のような経験でしょう。韓国文学はいつからか歴史小説といえば高麗時代、あるいは三国時代まで遡ってしまいます。その時の歴史的空間はかなり非現実的で虚構的な、むしろ脱歴史化された空間なので、事実自体が重要ではなく歴史意識も見られません。中国の小説を読みながら、このようにジャンル化された韓国の歴史小説とは異なったスタイルで、一個人の一生を歴史全体と重ねて考え想像するために、重層的な感じがして、1つの断面を切り取っても、その中に伝統的な物語からアバンギャルドな物語まで入っていて、活気が感じられます。

韓国文学で、そのような問題意識を独自のやり方で維持している作家としては、金衍洙(キム・ヨンス)が上げられます。『君が誰であれ、どれほど孤独であれ』や『夜は歌う』のような小説がそのような作品でしょう。その成果については別途検討する必要がありますが、稀有なケースだといえるでしょう。大部分の作家にはそのような意識がありません。歴史的な経験を書くことを野暮だと考えたり、抽象化された現実感覚に囚われているようです。個人の肉体と精神を貫く生の経験を、意識的であれ無意識的であれ排除しようとして、それと関係がない抽象的な空間を描き出しながら、その中でクールで自由なライフスタイルを再現することに集中しています。ですから、小さな楽しみは味わえるかもしれませんが、深く共感することは難しいと思います。ですから、私は金衍洙のような努力が続くべきだと思います。もちろん彼の作品に対しては不満が少なからずあります。衒学趣味や度の過ぎた感傷性もそうですし、青年の感受性と苦悩の延長線上で歴史的な問題を見ようとする限界も見られます。それでも金衍洙は稀有な作家であり、このような努力が続くべきだと思います。

 

伝統物語の解体と異国的な空間の日本小説

 

金英姫 私たちが選んだ日本の長篇小説にも、歴史叙述を試みる作品が含まれていましたが、どのように読まれましたか?

沈真卿 日本文学では、歴史意識もずいぶん小さなスタイルで扱われるようです。津島佑子『笑いオオカミ』(韓国語訳=文学トンネ、2010)は、戦後日本の疲弊した状況を語る小説です。オオカミは日本でほとんど消えて神霊化した動物です。この作品はそのようなオオカミがすべていなくなって、猿だけが残っている社会についての物語です。それを展開していくスタイルが特異なのですが、2人の子供の旅行の過程で、戦後1940年代後半から50年代初期まで実際にあった事件が、現実なのか幻想なのか曖昧に処理されています。この作家はこれまで日本の伝統物語の様式を採用し、自分だけの独特の小説形式で専有する試みをしてきました。この作品でも、必ずしもそのようなスタイルではありませんが、日本的ともいえる動物のオオカミをモチーフにして物語を展開しています。

星野智幸の『目覚めよと人魚は歌う』(韓国語訳=文学と知性社、2002)は、日本とラテン系の混血人ギャングたちの物語ですが、空間的な背景があたかも砂漠のような人里離れた空間で、人物も青い目をした混血者であるとか、女が反睡眠状態で別れた過去の男とずっと交渉する夢幻のような話が挿入されます。現在の日本の状況をかなり異国的に描き出していますが、その一方で、日本の現実の一断面を示したのではないかと思います。日本の伝統的な物語様式や素材ではなく、むしろ脱日本的な背景や人物を通じて、新たな物語の可能性を示す小説として読みました。

金英姫 幽閉された女性の内面風景と、日本国内の少数民が体験する桎梏を1つにしようとする試みは興味深いですが、私としては、脱日本的というよりは、日本とは何かということを再び問うている作品だと言いたいです。作品の1つの軸をなす日系ペルー人の問題を通じて問いが追求されますが、日本に居住するこの集団でも、1歳と1.5歳の間の間隙を繊細に描いています。日本人でもペルー人でもなく、どの国籍にも縛られない存在として生きようとする主人公が、暴力事件にまきこまれ、そのような遊牧的な自我像が虚構であり、問題の根源であることを悟り、不可避的な自己のアイデンティティと正面から取り組もうと決意する物語ですが、重いといえば重い、このような問題意識が、全体を支配する夢幻的な雰囲気と交差しながら、独特の余韻を残しています。

白池雲 そのように見ると、日本文学における無国籍性は、必ずしも村上春樹の専売特許だけではないようです。星野智幸もそうですし、津島佑子の『笑いオオカミ』も事実、戦後、根っこを喪失した日本についての話です。その点で最近、国内に紹介された島田雅彦の「無限カノン」3部作シリーズ(『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』)も分析してみる必要があった作品だと思います。自らの家系を探す話ですが、そこで自分の祖父が「蝶々夫人」の息子であることを知ります。米軍の軍人と芸者の間に生まれた呪われた子供が自分のルーツであったという設定が興味深いです。自らの根源を遡る過程で、近代の東アジアの歴史が1つに絡まって展開するのも注目すべき部分です。ですが、それが苦悩に充ちた旅であったというよりは、軽くて面白く物語が展開するライトノベルに近いと思います。にもかかわらず、日本文学におけるアイデンティティ問題は、その脈絡が深いという気がします。

李玄雨 私は中国文学や日本文学には門外漢に近いですが、私たちに紹介された中国文学は最良の作品なのでしょうか、「強い」という印象を受ける一方で、逆に韓国文学は相対的に小さく見えたりもします。私たちはここから何かを学ぶべきではないかと考えさせられます。ですが、1990年代以降が中国文学の中興期だとすれば、最近になってよくなってきたということですから、これは少し慰めになります(笑)。中国文学の場合には、いまだ家族という重力が強く作用しており、反面、日本文学にはそれが弱く、それでずいぶんと個人化された主人公を登場させるという印象です。一方、日本文学については、作品はずいぶん紹介されているものの、全体的な像がどうなっていて、この作家がどのような位置にいるのかというイメージがわきません。つまり、「地図」がないということですが、日本文学ではそのような地図が必要なかったり、不可能な時代になったのだろうかとも思います。

金英姫 多様な位相の作品が、韓国に怒濤のように流れ込んだためかもしれませんが、柄谷行人が文学終焉論で触れた、日本文学の危機が感じられたりもします。現在の世界文学の地図において日本文学が占める位置を考えるならば、むしろ逆説的な現象ですが、真摯な試みがそれぞれ躍進してはいるものの、1つの大きな流れを形成できていないということなのでしょうか?

李玄雨 日本の読者も勘がつかめていないのでしょうか(笑)。

金英姫 日本文学の実状がどうであるかは、さらに関心を持って検討しなければなりませんが、東アジア地域文学の構想でも世界文学の企画でも前提としている、志のある作家と作品の活発な国際的疎通が、それぞれの国民文学的な成就のためにも切実だということが、より一層実感できます。――いつの間にか予定された時間をずいぶんと経過してしまいました。世界文学に関連して、現在の韓国文学のかかえる課題でもいいですし、最後に付け加えたいことがあれば、一言ずつおっしゃって下さい。

沈真卿 実は、世界文学の観点で見るならば、現在、大部分の韓国の小説はかなり特殊な小説です。自国の現実に対する苦悩から出発していないという点でそういえます。むしろどちらかといえば、現実を描くことを野暮だと考える場合も多いようです。ですが、実は韓国文学が世界文学的な普遍性を持とうとするならば、韓国的な現実から出発するべきです。自らをめぐる現実に対する、もう少し深く広い理解、各自に刻まれた歴史の跡に対する考古学的な探求が要求されているといえます。たとえば、金英夏(キム・ヨンハ)の『光の帝国』に全面的に同意するわけではありませんが、この小説がアメリカで注目される理由は、朝鮮半島の南北分断という特殊な現実を取り上げているためです。さらに無国籍の色彩の強い村上春樹の小説でさえ、日本社会の問題から出発しています。現在、世界文学における可能性を考える韓国の小説が苦悩すべき課題の出発点は、このようなところではないかと思います。

白池雲 お話しを聞くと、東アジアの作家が歴史や現実に対して持っている、不均等な遠近感自体が、現在の東アジア文学の地形図を示しているようです。今後「東アジア文学」に対する苦悩が、韓国文学だけでなく、中国や日本の文学の座標を読む理論的・実践的な方法として深化していけばいいと思います。過去の「第三世界文学」よりは一層具体的な視野を開いてくれるでしょう。ただし、今日の議論で東アジアを韓・中・日に限定したのが気になりますが、これも少しずつ拡げていくべきでしょう。

李玄雨 韓国文学の世界化という課題と、世界文学として韓国文学を確立する課題、これが現在の私たちが直面する「二重の課題」のようです。韓国人だけが読んでいる「世界文学としての韓国文学」がどのような意味を持つのかを考えれば、さらに多くの翻訳空間、疎通空間を準備して、それを拡大していくことが重要だと思います。

金英姫 ええ、翻訳と言語の問題もやはり重要かつ現実的な問題ですが、今日のこの場では、そのようなテーマについてきちんと取り上げる余裕がありませんでした。残念ですが、今日の座談会はこのあたりで終えたいと思います。長時間お疲れさまでした。

 

翻訳・渡辺直紀

季刊 創作と批評  2011年 春号(通卷151号)
2010年 12月1日 発行
発行 株式会社 創批

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