창작과 비평

小さな島の大きな問題: 尖閣・釣魚諸島における歴史と地理の重み

特輯 | 再び東アジアを語る


 
 

ガバン マコーマック(Gavan McCormack)

オーストラリア国立大学名誉教授。日本と東アジアの政治、社会問題を歴史的視点で幅広く把握しようと研究を続けてきた。

 
 
 
 

事件

 
2010年9月7日の朝、中国のトロール漁船と海上保安庁の巡視船が尖閣(釣魚)諸島の久場島沖で2回衝突した。島嶼は日本の実効支配化にあるが、中国も台湾も領有権を主張しているところで、船長は巡視船の退去命令を拒否した。日本側は、漁船は故意に巡視船にぶつかってきたので、公務執行妨害罪で逮捕、送検したと発表した。
絶滅危惧種のアホウドリだけが生息する絶海の島嶼が大国にとってなぜそこまで重要なのか。島々はだれのものか。領有権をめぐる対立は、どう解決したらいいのか。
尖閣諸島は波の上に突き出た8つの岩だらけの島々から成り立ち、東シナ海に芥子粒のように散らばっている。最大の島は4平方キロで、台湾からも、与那国島や石垣島からもほぼ等距離の200キロ、沖縄本島からは約400キロの距離にある。中国の大陸棚の先端に位置し、先島諸島とは深さ2000メートルの琉球海溝によって、隔たれている。

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中国漁船の拿捕と船長の逮捕の後、日本政府は「疑問の余地なく」尖閣諸島は「わが国固有の領土」であるとした。領有権も外交上にもなんら問題はなく、船長は日本の法律によって「粛々と」対応すると述べた。
しかし本当に日本固有の領土かというと疑問は多いに残る。中国も台湾も日本の領土であることを否定している。尖閣諸島は1945年から1972年にかけ、米国が占領、統治していたが、1972年、日本に沖縄の施政権を移すとき、尖閣諸島の帰属については、注意深く、明言することを避けた。その後もこの問題に関し立場を変えていない。衝突事件に当たっても、帰属問題は当事者の間で決着をつけるべきであると繰り返し述べている。1972年以来日本は施政権を行使し実効支配してきたが、日本人であれ何人であれ島嶼は上陸禁止区域にして来た。それを見ると、尖閣列島の帰属が事実争われているように日本政府も振舞ってきたと言える。
中国政府は日本領であることを否定しているし、米国も日本の後押しをしてくれないのであれば、日本政府がどうしても日本領土だと言い張っても正統性に疑問が残る。9月21日、温家宝首相はニューヨークで「国家の主権、統一と領土について言えば、中国は決して譲与も譲歩もしないであろう」と釘をさした。
日本の領有権に問題はないという日本の公式の立場はどうも空疎に響く。日本は漁船事件を、中日2国間の領土問題から、米国を入れた安全保障の問題にまで拡大させたが、これに日本政府の性格がよく表されている。9月23日、クリントン国務長官と会談後、前原外相は、「日本の施政権下」にあるところが武力攻撃されれば米国は防衛義務を負う「日米安保条約第5条」の適用範囲に尖閣諸島が入ることをクリントンは保証したと述べた。
前原・クリントン会談の一週間前には日本の尖閣領有権の支持に米国は気乗り薄であることが伝えられた。また国務省スポークスマンは領土問題を当事者間で解決することを強く勧め、「我々は尖閣の帰属に関してはどちらにも与しない。」と繰り返し述べた。9月10日ニューヨークタイムスのニコラス・クリストフが言うように「そのような問題(尖閣)に安保を実際適用させる可能性はゼロ」であった。
ところが、ホノルルでの前原・クリントンの再度の会談後の合同記者会見で、クリントンは、尖閣列島は安保条約第5条の適用範囲であることを断言した。米国は日本の圧力を受けて、尖閣に関し態度を変えたのだろうか。それとも単に日本をなだめるための言葉だったのか。尖閣の帰属争いに加わりたくなかったオバマ政権を日本側に引張り込むために、日本政府が中国漁船事件の拡大を画策した可能性も考えられなくはない。
しかし、米国の保証をもらっても、セン船長を国内法に基づいて処分する決意は、9月25日の「那覇地方検察庁の判断」によりあっけなく崩れてしまった。船長は釈放され、帰国した。釈放は政府の最高レベルでの判断によるものと見られる。中国外相は謝罪と賠償を要求し、日本の外相は衝突による巡視船破損の弁償を要求した。リベラル派の牙城のように思われている朝日新聞の編集長で、かつて北京特派員であった船橋洋一は、日本は「外交下手」であったが、中国は「外交上の衝撃と畏怖作戦」を採る事によってで隣同士の2大国の関係を「グラウンド・ゼロ」の「渺々たる光景」にしてしまったと述べた。船橋の中国への手紙は、一見リベラルな知識人が、穏やかに中国の理解を求めるという姿勢をとっているが、そこには中国の急速な経済力と国際的影響力の拡大を警戒する日本の反感が明らかに見える。
日本国内では、日本の立場は「国際社会」から支持されていると広く報道された。国際的支持があるかどうかは、領有権争いに無関係であるが、中国の急速な台頭を恐れる東南アジア諸国が、米国の「封じ込め」再来を支持していることに疑いはない。シドニー・モーニング・ヘラルド紙の中国特派員によると、「中国の隣国たちは、中国に対抗して米国が再び力を振るい、地域のバランスをとることを歓迎すると次々に表明している。」ということだ。ほかのマスコミにも、日本の立場を支持する論調が見られたが、概ね中国への反感から出たものと見られる。事件の数週間後、ニューヨークタイムスは、「ますます偏屈で猛々しく(たけだけしく)、自分の利益ばかり考え、超国家主義的になっている」という中国観を支持した。メディアは「中国」の前に「挑戦的」とか「傲慢」とかいった形容詞をつけるのが当然のようになってきた。
しかし北沢防衛相が、ヴェトナム、タイ、インドネシア、シンガポール、オーストラリアを訪問したとき、具体的に日本応援を約束する相手方はいなかったと伝えられている。また、船長釈放は日本の「屈辱的敗北」(ニューヨークタイムス紙9月25日)であり、日本は「固有の領土」だと大声でいうだけで、それを裏付ける証拠を持たないという印象を周辺諸国に与えてしまった。
船長釈放によって当面の危機は過ぎたが、ナショナリズムの感情と脅威感はなかなか収まらず、日中両国でデモが続いた。夕刊フジは10月1日、政府の「土下座外交」を非難し、「日本が尖閣諸島で譲歩すれば、中国は次は沖縄を奪いに来る。」(櫻井よし子)とか、「中国のやり方は暴力団と違いがない。日本が何もせず手をこまねいていれば、チベットの二の舞になる。」(石原東京都知事)といった有名人のコメントを載せた。田母神前自衛隊幹部は、現在民間団体「頑張れ日本!全国行動委員会」会長であるが、彼も日本が「危ない」、「中国は沖縄本島を支配することを視点に入れている。防衛を強化するときが来た」と主張している。

そうした見方は右だけに限らない。前述の朝日をはじめ、一般的に尖閣問題に関しては、政治的見解の相違はかき消され、右から左までメディアは横並びである。「尖閣諸島は日本固有の領土である」という公式の物語を支持する国民的コンセンサスがあり、中国が日本の領土を脅かしていることに抗議し、中国の挑戦に対抗する米国との同盟の重要性を確信している。日本経済新聞は中国が「責任ある」「文明大国」になるよう米欧と協力して圧力をかけることを主張した。日本共産党の志位委員長も「領土を守れ」コーラスに加わり、尖閣諸島は日本の領土であり、守らなければならないと宣言すると、与党の民主党も野党の自民党も手放しで称賛した。あらゆる新聞、雑誌に政治評論を書いている元外務官僚の佐藤優は、素人外交のため「日本の国益」が毀損されたと嘆き、「中国の帝国主義的」姿勢に対し、日本も「帝国主義的に」対応すべきだと、日本が強く出ることを薦めている。

愛国主義者を自認する佐藤は、右はもちろん、左の「リベラル」知識人やマスコミにも受け入れられている稀有な存在である。佐藤は沖縄の新基地建設反対運動の本土側支持者としても断然目立っている。月刊誌「世界」、「週間金曜日」も彼の記事を掲載するし、琉球新報にも毎月のコラムがある。しかし、佐藤の新基地反対の姿勢と、「帝国主義的中国には日本も帝国主義的に対抗すべき」という主張は矛盾している。彼の基本的立場は日本の国益の拡大であり、辺野古基地反対もその延長線上にある。日米軍事協力に反対なのではなく沖縄だけに基地を押し付ける日本政府の沖縄差別に反対なのである。彼が主張するように、帝国主義的に中国に断固対抗するなら、米軍であれ、自衛隊であれ沖縄、特に中国に近い離島の軍備強化は不可欠になる。
さらに、伊波洋一前宜野湾市長、仲井真沖縄県知事、作家の目取真俊など沖縄を代表する著名人も次々と政府公式見解を支持した。9月の尖閣騒動はこういった「国益」論の前に、沖縄がどんなにもろいかをはっきり見せつけた。尖閣・釣魚島騒動が基軸となって、防衛と安全保障に関し、沖縄人が政府の立場を支持する方向に転向する日が来ることも想像できる。沖縄における米軍と自衛隊の増強と中国封じ込め強化を沖縄の住民が快諾するなら、日米の防衛官僚たちは辺野古建設計画を放棄してもかまわないと考えるだろう。「中国の脅威」感が拡がれば拡がるほど、沖縄の反基地闘争は弱まっていくに違いない。2009年の鳩山ビジョンで「友愛の海」と描かれた東シナ海は、2010年には「緊張と対立の海」といえるところまで蹴落とされてしまった。
日本では、尖閣諸島は日本固有の領土という主張の正当性、合法性に異論も疑問も出されず、戦後始めて中国への反感が一般市民レベルまで拡がり、右も左も国益第一のナショナリズムの波に吞み込まれている。冷え切った日中関係の責任を中国だけに押し付けるなど、日本のエリートたちは中国の立場を理解する能力も、自国を批判する能力も失ってしまったかに見える。

史14世紀以来、中国の文献は福州と琉球間の貿易航路の重要な目印として、これらの島々の名前を書き記している。明から清代にかけ、琉球王国から中国朝廷への冊封使の航路上にこれらの島々があった。江戸時代の地理学者、林子平が描いた「三国通覧図説」の付図「琉球三省并、三十六島之図」には尖閣諸島は中国名で、中国文献に沿って、中国領道として扱われている。
日本の国民がおしなべて信じている「尖閣諸島は日本固有の領土である」との政府の主張には驚くべき不正直さがある。19世紀後半、英国海軍がその島嶼について触れるまで、日本ではその存在も認められていなかった。1895年まで日本国領土だと宣言されず、1900年まで尖閣と言う名前もなく、1950年まで名前も一般には公表されなかった。
2010年の今になって尖閣問題に関し、一センチたりとも譲れないと主張するのは、尖閣で中国の言い分を認めれば、沖縄まで中国に要求されるのではないかという恐れが付きまとっているせいかもしれない。琉球王国は4世紀もの間、中国朝廷に進貢し、琉球王国を統治する権利を保障してもらった冊封体制の中で中国と深く結ばれてきた。宮古島の漁民が台湾で殺され、それに抗議して1874年、日本海軍を台湾に遠征させたとき、沖縄と離島を航海中、中国は事実上反対しなかった。それを国際的に日本の領有権を認めた印だと受け止め、琉球王国を廃絶して日本国に編入したという経緯がある。近代日本が勃興した時代は、衰退しつつある清国は列強に取り囲まれ、外国からの攻撃と国内の反乱によって破滅的危機状態にあった。1868年の明治維新を基礎に近代国家へと変貌した日本は、弱体化した清国の危機に乗じて、列強の仲間入りを果たし、琉球諸島を清国からもぎ取り、次に台湾と尖閣諸島を、さらに中国東北地方に手を伸ばし、最後にはアジア全域を巻き込む全面戦争へと進んで行ったのであった。
尖閣諸島最大の魚釣島では1885年に、那覇の海産物業者がアホウドリの羽や海亀の甲羅を採集して生計を立てていた。その業者は政府に正式に借地願いを出していたが、10年以上拒否され、その後日清戦争で日本の勝利が確実になると、1895年1月、日本は魚釣島と久場島を沖縄県八重山地区に編入することを閣議決定した。無人島であり、ほかのどの国も領有権や施政権を申し立てていないから、無主地先占の原則により、日本の領有を正当化した。しかし、当時戦争と内乱で大混乱の渦中にあった清国には、抗議したり反訴したりする余裕はなかった。尖閣諸島の領有宣言は、日清戦争終結を調印した下関条約で日本が台湾を手に入れた3ヵ月前であった。
「尖閣・釣魚島諸島は台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものであった。」と井上清京大教授が歴史研究の結論を出してから40年経った。今日そのような見解を支持する人はあまり多くない。日本がどんな状況下で領有を宣言したかということには興味もなく、日本の領有は国際法に適うもので、中国が日本に賛成しないことに憤慨する人々でいっぱいだ。
1895年から1945年まで、つまり日清戦争から日中戦争後まで中国は日本と領有権を争う立場になかった。1905年から1942年までほぼ40年、最盛期には日本人が2百人も魚釣島に住み、鰹節生産に従事したと伝えられる。敗戦後、ポツダム宣言で戦時中獲得した領土はすべて返還させられたが、その際尖閣諸島は沖縄の一部であるので戦争で強奪したものではないと日本は主張し、いまだにそう言い続けている。しかし問題は、前近代に琉球36島といわれた中には尖閣諸島は入っていなかったし、1879年に沖縄県になったときにも入っておらず、沖縄県発足の16年後に編入された点にある。
1945年の日本降伏後、尖閣諸島は米軍の実効支配下にあり、そのうちの2島は米軍射撃場として使われた。1968年、国連ECAFEの調査団が、尖閣諸島近海に石油とガスが埋蔵している可能性があると報告し、一躍国際的に注目されることになった。米国が沖縄返還に同意したのはその翌年であった。尖閣諸島に関し、米国は、日本に移譲するのは「施政権」であって「主権」ではないことを注意深く強調した。
カナダのウォータールー大の原喜美恵教授は尖閣問題を意図的に作り出し、操作してきた米国の役割の重要性を指摘する。まず、米国が主導したサンフランシスコの戦後処理講和条約で日本と隣国たちの間における領有権係争の種をまいたことであった。日本と中国(90%共産主義)間では尖閣(釣魚)諸島、日本とソヴィエト(100%共産主義)間では北方領土、日本と朝鮮半島(50%共産主義)間では竹島(独島)の領有権については敢えて触れず、あいまいに処理することによって、冷戦の間これらの領土争いが日本を西側ブロックにしっかりとつなぎとめる楔(くさび)として、あるいは共産主義をくい止める壁としての役目を果たした。また1972年、米国が沖縄の施政権を日本に返還したとき、米国の戦略は尖閣諸島の領有権をあいまいに残すことによって、尖閣に「中国封じ込め」の楔の機能を期待した。何より沖縄の近辺において日中間の領土問題が存在すれば「日本の防衛」のための「米軍の沖縄駐留はより正当化される」との思惑があった。

沖縄の施政権返還に伴って、同時に台湾も中国も尖閣諸島は自国の領土だと申し立て、激しい対立が起こったが、1978年に鄧小平副首相が次のような提案をして事態は沈静化したのであった。

「この問題はある期間、たとえば10年とか棚上げしたところで何の支障もない。われわれの世代はこの問題について共通点を見出すほど賢明ではない。次の世代はもっと賢明であることを確信する。皆が納得する解決をきっと見つけるだろう。」

その後、尖閣諸島付近で操業する中国漁船は着実に増えた(年間400隻ほど)。領有権棚上げの了解は有効に機能してきたが、2010年9月、海上保安庁の巡視船がトロール船の船長を逮捕し、日本政府は中国の抗議に耳を貸さず、領土問題は存在しないとしたことで、その紳士協定は破られた。
 

結果

 
中国政府の圧力でセン船長を釈放しなければならなかった日本政府は面目をなくしたのははっきりしている。しかしこの事件は日米関係、沖縄の基地移転、将来の軍備態勢など非常に重要な案件において、国内の政府路線支持を大きく伸ばす結果となった。
差し当り尖閣諸島「防衛」の約束を米国から取り付けることを第一においた菅政権は、日本の「属国」状態をそのまま続ける決意を示した。菅は西太平洋と東アジアにおける日本と米国の軍事計画及び活動をより緊密に統合するプロセスを早めるために、この事件をうまく利用した。また明らかに中国を威嚇する意図を持って大軍事演習(地域戦争ゲーム)に協力したのである。
菅政権が「北朝鮮の脅威」に「中国の脅威」を加えたことは、菅の率いる民主党政府の安全保障方針を推進するために効果的であった。自民党は民主党よりはるかにタカ派だと思われていたが、自民党政権下ではこれは考えられないことであった。8月27日、菅首相の私的特別諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」がまとめた「防衛計画の大綱」改定に関する報告書が内閣の「安全保障会議」で協議された。2011年以降10年間の防衛力の指針となる「新防衛大綱」において、日本は従来の「基盤的防衛力」の原則を「動的防衛力」に置き換え、米国との既存の安全保障連携を強化し、東シナ海の島嶼部に自衛隊を配備する。報道によると、沖縄県での自衛隊駐留を現在の2100人から2万人に増強し、200人規模の部隊をまず与那国島に新設し、宮古島、石垣島も視野に入れた展開となる。軍事評論家の前田哲男は報告書は、従来の「専守防衛」の姿勢から大きく逸脱し、
「タカ派的新防衛計画大綱」で、民主党政権の安全保障に対する基本姿勢を自己否定する内容だ。『動的防衛力』への転換は専守防衛の実質的な放棄で『争う自衛隊』に変貌するといえる。」と書いた。
実質的9条改正あるいは9条停止論であって、9条の「平和」条項に縛られない軍事大国再生を勧告するものと受けとめてた。


読売新聞, 2010年11月11日

 
沖縄にとって、尖閣騒動と、日中関係悪化に備えての菅政権の軍備強化計画は特に重大な意味合いがある。地図を見れば一目瞭然だが、中国の中心部から太平洋に出る航路は、南西諸島を通過しなければならない。宮古島と沖縄本島の間の宮古海峡の公海は中国にとって決定的に重要である。2010年3月から4月にかけ、いくつかの中国海軍の小艦隊がここを通過した。
国を挙げての中国への反感と恐れの渦に沖縄も巻き込まれ、政府側にはこれで反基地闘争が弱まるのではという期待がある。沖縄県議会と石垣島と宮古島の市議会が先日、尖閣諸島は石垣市に属する日本固有の領土であり、日本政府は「毅然たる」態度で彼らを守るよう、(中国に対し)もっと強い態度を取るよう要求する旨の決議をしたことは、菅内閣や防衛・外務官僚たちをさぞ喜ばせたにちがいない。県知事選で仲井真が当選したことも、菅には朗報に思われたかもしれない。仲井真は日米合意見直しと県外移設を約束し当選したが、それは当選するために世論に迎合し、選挙前にやむなく態度を変えたのであって、それ以前は基地を100メートルも沖に出せば認めてもいいという姿勢であった。
尖閣・釣魚島諸島の領有権と中国非難で沖縄と本土の意見が一致したと言っても、そこには相当な違いもある。第一に、1945年の沖縄戦の経験から、沖縄の人は軍隊が民間人を守らないことを身をもって知っている。尖閣を守るといっても、そこを軍事化し、日中が敵対する場所になれば、沖縄の安全が強化されるどころか、より大きい脅威にさらされることもわかっている。また伊波洋一は、沖縄人が中国と長く友好的な関係にあった歴史の記憶から、本土とは対照的に、沖縄人にとっては中国は脅威ではなく、「身近」に感ずると述べている。第2に、沖縄にとって尖閣は、国家の次元ではなく、地元の生活に直接かかわる問題である。尖閣諸島周辺の海域は国家の安全保障やガス、石油の鉱区として重要なのではなく、優良な漁場として貴重な場所なのである。沖縄国際大学の佐藤学は、「国境が『開放されている』というか、沖縄の将来は、国境を超えて自由に交流する場所という点にある。沖縄はなんとしてでも隣の国々との結びつきをもっと強くする努力をしないと、追い詰められてしまう。」と危惧している。


将来は?

 
元東大教授、和田春樹は絶海の無人島をお互いが「固有の領土」だと主張するのは愚かだという。しかし無人島と言っても島嶼は戦略的にも、経済的にも非常に重要な場所である。戦略的には北東アジアの中心に位置ており、経済的には、島嶼の周辺が排他的経済水域(沿岸から200海里)として東シナ海に何百平方キロも広がる資源を抱えている。実力を行使するまでに対立を悪化させ、領土や資源問題において一方が勝てば全部、負ければゼロというアプローチは当事者すべてに大災厄をもたらす道であり、当事国はその危険性を常に念頭に置く必要がある。
また、今回の問題で起こった中国における反日感情やデモを、国民の不満をそらせるため政府がやらせているのだと言って、中国国内に広がる日本への不満や猜疑心を見て見ぬふりをするのは簡単かもしれない。しかし、9月の衝突事件後、反中国の感情で日本中が押し流されたことを見ると、中国人の対日不安感や猜疑心が、根拠のないことではないことが確認された。
日本のマスコミは、揃いも揃って中国が脅威であるとか、中国は理解できない「他者(other)」のように取り上げるが、日本が尖閣諸島の領有を決めた当時の歴史的状況、過去の侵略の歴史から来る日本への中国の猜疑心を理解することには、まるで関心がない。日本の尖閣「領有」を当然の前提としている。セン船長は故意に巡視船にぶつかったのか、ビデオの映像をネットに流したのは誰だったかと言うことばかりに報道が集中し、日本が鄧小平の「棚上げ」協定を踏みにじったことにも、中国が領有権を主張する傍ら、日本の領有権になんら問題がないとして中国を軽くあしらって取り合わなかったことにも、さらには有力な言論人が「中国は手に負えない」とか、中国が「外交上の衝撃と畏怖」で日中関係を悪化させたなどと言って中国を非難していることにも、何の批判も出ない。
また、中国バッシングは「ヤブヘビ」の可能性があるのではないか、という議論はどこからも出てこない。日本は、帝国主義時代の加害国としての責任を認める正式な法的処置をまだ取っていない。従軍慰安婦や南京虐殺を否定する有名人の面々、教科書を書き変えようという企ての数々、靖国参拝に行く首相などを苦々しく眺めてきた被害者側の憤怒が今までは抑えられてきたが、尖閣問題をきっかけに表面化した可能性が大きい。かつて中国が戦争の賠償を放棄すると決めたとき、周恩来は、「我々は忘れようと務めます。あなた方は忘れないでください。」と言ったと伝えられる。日本は忘れてはいけない。
尖閣・釣魚島諸島問題について、英語で出版されたものとしては一番詳しい本の著者、菅沼雲竜によると、問題解決には4つの可能性があるという。日中が合意するか、日本が一方的に行動を起こすか、戦争を起こすか、もしくは国際司法裁判所で決めてもらうという選択肢である。これらのうち、日中合意だけが現実的選択であると菅沼は強調している。日本は尖閣諸島を30年間立ち入り禁止区域にして誰も入れず、日本の「実効支配下」にあると頑なに主張してきた。菅政権は「東アジア共同体」建設に協力する鳩山ビジョンから大きく離れ、領土、資源、環境問題で中国へ対抗的アプローチを見せているが、それでは解決に向かわない。
東アジアの平和と安全は、半世紀以上にわたって米国の戦略上あいまいに残された「封じ込めの楔」を地域の政府と人々が積極的に取り除く努力にかかっている。
沖縄にとって尖閣・釣魚島事件は、沖縄と中国、韓国/北朝鮮の歴史的つながりをもう一度顧みるよい機会であった。かつては人々も、国々も結ぶ架け橋として活躍し、繁栄を誇った琉球王国は、過去2回、1609年と1879年に日本本土に強制的に吸収された。2回目のいわゆる「琉球処分」後、沖縄と中国との長い友好関係に終止符が打たれた。近代史は沖縄に苛酷だった。そして今、独善的排他主義と軍国主義の波が沖縄の岸辺に打ち寄せている。沖縄は中国、韓国/北朝鮮、日本本土のいずれにも近いというユニークさを生かし、万国津梁(しんりょう)の鐘に刻み込まれた古の時代と同じく、東アジアの架け橋としての沖縄という国際的ビジョン持つ以外に、この嵐の時代を生き抜く道はないと思う。