[書評]熾烈な生と断固たる歴史意識との出会い : 鄭敬謨自叙伝『時代の寝ずの番』
安秉旭(アン・ビョンウッ)/ カトリック大学 国史学科教授 ahn@catholic.ac.kr
鄭敬謨(ジョン・キョンモ)の自叙伝は、三つの側面からの読みが可能である。一つは、激変する歴史の中で、時代の悲劇を全身で受け止め、熾烈に生き抜いてきた一人の知識人の一代記としての読みである。著者自ら「私は一度も世間と妥協しなかった」と本書の表紙で明かしているように、所信を持って妥協せずに生きてきた人生であった。多くの人々が栄達と出世への欲望に目が眩んでいた時期にも、彼は時代の「寝ずの番」として目を光らせていた。そのため亡命客として40年以上も艱難辛苦の人生を歩んでいる。
そのような著者が自分の人生に何の感慨もないはずがない。「大韓民国の国民の中で、この鄭敬謨よりも出世や栄達において有利な立場にいた人物が果していただろうか」(42頁)「大きな顔をして暮らすこともできただろうが、後悔などはしていない」(72頁)と、自問自答している。そうして人生を振り返った時、所々に滲み出る悔恨を強いて隠そうとしない人間的な正直さが一層しみじみと感じられる。今の時代において、そのような人物の存在が確認できるだけでも感動的なことである。
二つ目は、我が国の現代史の主要な出来事に直接に関与し、そして波乱に満ちた歴史の現場を直接目撃した人物の生々しい証言としての読みである。著者は休戦会談に通訳士として参加し、韓半島が南北に分断される現場を目撃した当時の様子を「祖国の地が二つに引き裂かれる光景は、まるで肉親が生体解剖される場面を目撃するかのような衝撃であった。」(138頁)と表現している。その一方で、彼は蟷螂の斧のような状況においても決して屈せずに抵抗し、多くの人々が回避し隠蔽しようとする真実を勇敢に暴き出した。彼の行跡はそのまま歴史の一部であり、彼の証言は歪曲された真実を正し、歴史叙述を改めさせる価値を有するものである。
著者は、日本と米国の干渉と策略によって民族史の歯車が狂い始めた現実に目を背けることができず、自分の運命をかけて、それを改めようと決心した。そして1989年、文益煥(ムン・イッファン)牧師と一緒に平壤(ピョンヤン)を訪問して金日成(キム・イルソン)主席と会談を行い、民族統一の礎として先駆的な意味を成す4․2共同宣言を発表している。これに関する詳細な記録は、今後も南北統一の歴史を叙述する度に言及且つ活用されるであろう。特に、「鄭先生、私は共産主義者だけど、実際のところは民主主義を実現させるために共産主義者になったんですよ」(395頁)という金日成主席の告白を直接聞き、証言した意味は大きい。
著者は、人生の中で多くの主要人物と出会っている。興味深いのは、彼らに対する鋭い褒貶である。ゆえに本書には無名の人物の知られざる献身的な活動を発見する喜びがある。そうかと思えば、著者の鋭い筆鋒により、有名な人物の機会主義的、若しくは偽善的な真価が一挙に暴露されたりもする。明確な主観による憚りのない著者の人物評に、全く問題がないわけではないが、暴露された人物たちの醜態には失笑を禁じ得ない。共同体社会の一員として如何なる行動が必要であるかを我々に気付かせてくれる。
著者が言及している多くの人物の中で、中学の同期生であるという李赫基(イ・ヒョッギ)は、評者もその行跡を調査していた人物である。著者によると同期生の中でも飛び抜けて優秀であった李赫基は、日本からの解放を迎え、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)の建国準備委員会と共に6万人に上る「国軍準備隊」を創設した。しかし、米国官庁の弾圧により「国軍準備隊」は解体させられ、李赫基は捕虜となって軍事裁判で3年の懲役を言い渡された。しかし、実際は、内密な支持により殺害されたということを耳にしたそうである。李赫基に関する詳細な内容が把握できれば、解放政局の自主的な建国運動が米軍政によって如何にして崩壊されたのかを解明することができよう。
三つ目は、縦横無尽の韓国現代史としての読みである。著者は生まれつきの歴史家である。「年寄りが昔話を聞かせるという思いで書き連ねているだけで、格式ばった歴史の講義をしようとしているのではない」(44頁)と語ってはいるが、教科書のような歴史書では決して学べない「生きた歴史」を生生しく我々に伝えてくれる。彼は、ただひたすら民族のために隠蔽された歴史を暴き出し、真実と偽りを振り分ける作業への邁進に生きがいを求めてきたと語っている。
鄭敬謨の歴史書には、特別な美徳が溢れている。まず、職業研究者の誰にも引けを取らない幅広い資料の収集力が素晴らしい。関連した核心史料を片っ端から読み込み、活用している。次に、鋭い批判意識と正確な判断力である。彼は、多くの現場で直接目撃した事実を隠さず公開し、その裏に隠された真実を見落とさずに暴き出した。最後に、読者を正確な認識へと導いてくれる優れた説得力がある。戸惑いのない明確な視覚は、歴史的な事件の本質を誰よりも正しく伝えてくれる。
韓半島にて展開されている全ての事態には、米国と日本という二つの常数が作用しているというのが著者の一貫した歴史意識である。彼は、我が国の現代史において納得のできない現象の背景と経過を謎解きのように明快に説明してくれる。そして「韓国戦争(朝鮮戦争)の起源を深く掘り起こしながら感じたことは、米国が6・25(朝鮮戦争)に対して何の準備もしていなかったということは真っ赤な嘘だという事実であった」(36頁)と確信を持って語っている。しかし、彼は「あの悲惨で残酷な戦争がなぜ起こったのだろうか。 金日成、或いは李承晩(イ・スンマン)が第一発を撃ち込んだからという単純な考えから抜け出し、じっくりと理性的に考えてみようという思いでこの本を書き連ねている」(513頁)と本書の執筆の意図を明かしている。我が国の歴史に対する著者の説明と解釈は、一つの明確な教訓に向かって前進している。それは、現在も続いている米国と日本の韓半島に対する支配戦略に関する認識だ。今日も多くの日本人の集団的な無意識の中には、明治時代に対する郷愁と執着が確実に存在していると言う。
鄭敬謨の人生は時代の流れに逆流することによって自ら招いた苦痛の連続であった。しかし、彼は時代の流れを予見し、民族に向かって常に呼びかける「寝ずの番」であった。そのような彼の行跡自体が一つの意味のある歴史ではないだろうか。一つ付け加えるなら、評者は偶然にも金大中(キム・デジュン)拉致事件、張俊河(ジョン・ジュンハ)疑問死事件、そして金賢姬(キム・ヒョンヒ)大韓航空爆破事件において政府レベルでの真相究明に参加したことがある。 金大中拉致事件当時の米国の航空機出没の実否、張俊河疑問死当時の金龍煥(キム・ヨンファン)の役割、金賢姬に関する調査内容などは、本書において著者の主張している内容と必ずしも一致しているわけではないということを明らかにしておきたい。
翻訳 : 申銀兒(シン・ウンア)
季刊 創作と批評 2011年 夏号(通卷152号)
2011年 6月1日 発行
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