창작과 비평

台湾「郷土文学」の東アジア的文脈

特輯_東アジア地域文学は可能であるか


白池雲  文学評論家。延世大国学研究院の研究教授、中文学。訳書に『ウィミ』、『熱烈な読書』、『時間』などがある。  jiwoon-b@hanmail.net
*本稿は『中国現代文学』第58号(2011.9)に発表した論文「東アジアの中の郷土文学」を改稿したものである。

 

 

1. 「第3世界」という橋梁

 

韓国で台湾文化は大衆的関心を受けたことが殆んどない。冷戦期の東アジア域内における社会主義勢力の防御基地として樹立された両国の友好関係が、脱冷戦時代に至って断交(1992)で終結したことは歴史のアイロニーである。勿論、断交以前においても両国が相互理解に基づいた真なる友好国であったとは言いにくい。「自由中国」という名でより親しかった台湾は、中共に奪われた中国の代理者(surrogate China)でしかなく、彼等の生そのものがわれわれの視野に真摯に入ってくることはなかった。しかし、「逆説的」意味で台湾「熱」が韓国文化界に意味深長に起った時がある。大体1980年代初めから後半との間、ある特定な知的・文化的雰囲気のなかで台湾と韓国は暫くの間出会い、決別した。短い邂逅はその後、知らぬ間に少しずつ忘れていったが、そのまま忘却に放っておくことではない。

「熱」というにはあまりに非自覚的であったこの文化現象の発端は、1983年、創作と批評社で出版された黃春明(ファン・チュンミン)の中短編集『さよなら、再見』であった。1970年代当時、台湾文壇の主流であったモダニズムの強力な批判者として登場した「郷土文学」作家の黃春明の作品集が、小説家の李浩哲(イ・ホチョル)と少壮の中文学者であり評論家である成民燁(ソン・ミンヨプ)の優れた翻訳で韓国の読書界に紹介された。台湾文学に対する情報がほとんどなかった韓国文壇に、民衆的で土俗的な言語で台湾社会の矛盾を鋭く暴いたこの小説集が齎してきた波長は、少なくなかったようだ。その端的なる例が、この本に載せられた短編「二人のペイント工(兩個油漆匠)」が1980年代韓国の代表的な民衆劇団である「演友舞台」で上演された事実である。ソウル大の演劇部出身の吳鍾佑(オ・ジョンウ)によって「チルスとマンス」として脚色されたこの演劇は、初演(1986)当時、評壇と観客の両方から好評を受けながら、ソウルだけで397回の公演に、なんと5万の観客を呼び集めるなど、空前の大当たりだったし、文盛瑾(厶ン・ソングン)と姜信一(カン・シンイル)という大スターを輩出した。それに続き、80年代の「コリアンニューウェーブ」を導いた朴光洙(バク・グァンス)監督のデビュー作として映画化されて(東亜輸出公社1988)、同時代の最高の俳優である安聖基(アン・ソンギ)が主演を演じた。大鐘賞の新人監督賞・脚色賞、ロカルノ国際映画祭の青年批評家賞(3位)などをさらったし、第39回ベルリン国際映画祭に出品されたりもした。

40代以上の韓国人なら、大多数が「チルスとマンス」を見たり、少なくとも聞いて知っているだろうが、その原作が台湾小説であることを知っている人は以外と少ない。 2007年、演友舞台30周年を記念して「チルスとマンス」の再公演を知らせる連合ニュース(2007.3.29.)の記事は、「チルスとマンス」が「自他が公認する1980年代韓国における最高の創作劇」だと伝えている。 台湾に対する無知と無関心が主な原因であろうが、この作品が当時、韓国社会の矛盾と疎外階層の鬱憤を生々しく表現する、あまりに韓国的なテクストとして再誕生したこともまた、主な理由ではなかろうか。それが可能であったのは、まず1970~80年代の韓国と台湾社会の構造的類似性のためであった。1970~80年代の台湾と韓国は、内では軍部独裁、外では対米・対日従属外交を足場にして輝かしい成長神話に向かって疾走していた。台湾原作と韓国演劇のなかの主人公たちは、その騒がしい宴会に招かれ得なかった客であった。若干の変形もあった。台湾東部の山間出身の貧しい原住民である「アリ」と「猿」は、韓国に渡って基地村のパンパンの妹を持った「チルス」と、非転向長期囚の息子である「マンス」となった。純朴な田舎の雑役夫を瞬く間に死へと追い立てるメディアの非情さを通じて資本主義の貪欲的な速度を告発した原作より進んで、「チルスとマンス」は分断と冷戦の痛みまでをも刻んだ、一層政治的なテクストとして再誕生したのである。

ところで、黃春明の韓国渡来の裏面にはもう一つの文脈があったわけで、それはまさに1970年代の知識界に起った第3世界熱であった。 『創作と批評』1979年秋号の「第3世界特集」は、このような知的雰囲気をよく示している。この特集の基調論文「第3世界と民衆文学」で白樂晴(ベク・ナクチョン)は、4·19以後の参与文学論が民族文学論へと深化する過程で「第3世界文学」が欠落されたことを反省的に自覚しながら、第3世界の民衆の観点から外国文学を主体的に受け入れる際、当面のリアリズム論─民族文学論が補完できると述べた。 まず、『さよなら、再見』が当時、創作と批評社が企画・刊行した「第3世界叢書」の一環であったことを記憶する必要がある。アレックス・ヘイリー(Alex Haley), ガッサン・カナファーニー(Ghassan Kanafani), ハリー厶・バラカート(Halim Barakāt), ウングギ・ワ・シオンゴ(Ngugi wa Thiong'o)など、アフリカ、ラテンアメリカ、中東の作品を網羅したこの叢書は、1976年から1988年まで総16巻が刊行されて、『さよなら、再見』はその中の第6巻であった。「台湾文学が黃春明に及んで第3世界文学としての普遍性を獲得」したことを闡明した表紙の文句や、「はっきりした作家意識に基づいた第3世界的特色」が「分身であるかのような」韓国文学に深い共感を呼び起こすだろうといった訳者の言葉は、当時「第3世界」が黃春明を読む重要なコードであったことを示す。植民地と冷戦、軍事独裁、外勢依存的経済発展など、近代以来東アジアが経た屈曲の深層を類似の歩みで歩んできたにも関わらず、不思議なほど互いを振り向かなかった韓国と台湾にとって『さよなら、再見』の出現は見えない紐を可視化する貴重な瞬間であった。

それから黃春明の小説集が韓国に来る過程で日本の知識人の行った媒介的な役割もまた、見逃せない。韓国語版の『さよなら、再見』が底本とした『さよなら・再見』(田中宏・福田桂二譯、1979)は日本で最初に翻訳された台湾現代小説集であった。この本の出版を主導した田中宏は、日本─アジア関係史の研究者であるとともに、第3世界、その中でも在日コリアン、在日中国人を中心としたアジア連帯に精力的な活動を繰り広げた人物である。思うに、韓国語版『さよなら、再見』が出版された具体的切っ掛けは、1981年、日本の川崎で開かれた第1回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)文化会議であったようだ。ここには黃春明は勿論、田中も参加したが、その会議記録が1983年、創批の「第3世界叢書」第11巻の『民衆文化と第3世界』として出版された。『さよなら、再見』の「訳者解説」で李浩哲(イ・ホチョル)が黃春明の発言を詳しく紹介していることから見て、 そこでは「1982年東京で開かれたシンポジウム」となっているが、「川崎」に対する誤記である。黃春明、『さよなら、再見』、李浩哲訳、創作と批評社、1983、281~82頁;日本アジア・アフリカ(AA)作家会議編、『民衆文化と第3世界』、申庚林(シン・ギョンリム)訳、創作と批評社、1983、227~29頁参照。 AALA文化会議が黃春明の存在を韓国に認知させる一つの契機であったことは明らかであろう。

第1回AALA文化会議がなぜ日本で開催されたか、その具体的背景に対しては知られたところが少ない。資本主義陣営と社会主義陣営をそれぞれ第1世界と第2世界として見なす西欧式第3世界論や、米・ソを第1世界として見なし、残りの富国を第2世界と見なす毛澤東の「三個世界論」のいずれも日本を第3世界として分類した場合はなかった。ただ、AALA文化会議の前身であるAA作家会議に日本が常任理事国として参加した点から見て、当時、非同盟陣営の内部の複雑な力関係が予測できるし、 非同盟運動がAA作家会議、そしてAALA文化会議へと続く過程の内部事情については、崔元植(チェ・ウォンシク)、「再び蘇った火種:第2回仁川AALA文学フォーラムに寄せて」(第2回仁川AALA文学フォーラム基調演説文、2011.4.28)参照。 金芝河(キ厶・ジハ)、金大中(キ厶・デジュン)救出運動など、1970~80年代の日本基層の広範囲な第3世界民衆連帯の活動 池上善彦は当時、東京がアジアの主要な人物と文化情報が交流する窓口として一種の「避難都市」的機能を持っていたと語る。「戰後日本の左派におけるアジア連帶」(亞洲現代思想計畫討論會発表文、2010.11)参照。
が日本でAALA会議が復活する基盤を整えたことと思われる。基調発表で針生一郞が民衆文化運動を通じた日本と第3世界の関係回復を強調したこと 針生一郞、「民衆の文化が世界を変えるために」、日本AA作家会議編、前掲書、13~19頁。や、この会議に至って韓国が非同盟運動関連の会議で初めて招かれたこともまた、このような背景と無関係ではなかろう。

以上の文脈から見るに、「二人のペイント工(兩個油漆匠)」が「チルスとマンス」となって1980年代韓国民衆文化の象徴として浮上したことは、決して偶然な現象ではなかった。大きくはバンドン会議(1955)の文化的産物と言うべきAA作家会議の後身であるAALA文化会議で表象される第3世界運動の流れのなかで、小さくは植民地期にアジアに犯した罪を第3世界民衆連帯でもって代わって贖罪しようとする日本知識人たちの手を経て、1980年代の、ちょうど成熟期に達した韓国民族・民衆文化の土壌の上に実を結んだのである。しかし、このように東アジアに溢れていた民衆文化の熱気のなかで韓国と遭遇した台湾文学は、惜しくも原作者の失踪によって然るべき名を得ないまま忘れていった。逆説的に両国で独裁政権が退き、民主化が始まった1987年を起点として両国の関係はより遠くなり、ついには1992年の韓中修交の直後、断交に及ぶ。

 

2. 東アジアの交差線上の「郷土文学」

 

台湾文学が韓国と出会う接点へと向かう道の要所に、もう一つの注目すべき選集がある。韓中修交を控えた1989年、「中国現代文学全集」が中央日報社から出版された。許世旭(ホ・セウク)・金時俊(キ厶・シジュン)・柳中夏(リュ・ジュンハ)・成民燁(ソン・ミンヨプ)など、中国現代文学界の元老と少壮とで構成された編集陣の企画のもと、総20巻で構成されたこの全集の中の第16巻と17巻が台湾文学に割愛された。16卷には白先勇(バイ・センヨン)の「臺北人」がホンコン小説の「半下流社會」(趙滋蕃)と共に収録され、17卷には陳映眞(チョン・インジョン)の「夜行火車」を始め、作家11名の短編が載せられた。何よりこの選集は当時台湾文学の相反した二つの流れを見せていて興味深い。初期の台湾留学派で中文学界の元老である許世旭がモダニズム文学の巨頭である白先勇を選んだのに反して、少壮派研究者の柳中夏は台湾モダニズムの盲目的な西欧追従を批判しながら現実参与的文学を主張した「郷土文学」の系列で選集を構成したのである。

まず確認しておきたいことは、第17卷の『夜行火車』の韓国出版が1977年から78年の間、高まった「郷土文学論争」を通じて台湾文学が東アジア知識界の視野に入ってきた状況と緊密に関わっていたという事実である。『夜行火車』の収録作を選別する過程で大陸から出た『台湾小説選』(全3卷、人民文學出版社、1979、1981、1987)と日本の「台湾現代小説選」シリーズ(全3卷、硏文出版社、1984~5)が参考となった。大陸版『台湾小説選』は白先勇など一つか二つを除けば、殆んど郷土文学系列の作品で構成されている。文革終結直後の台湾政策が転向的に変わっていた大陸の政治的雰囲気のなかで出版されたこの選集は、台湾文学が過去の西洋崇拝的な文化風土を反省し、「郷土へ回帰」していることを称えながら、事実上、台湾文学を大陸の現実主義文学の伝統のなかに編入させていた。 臺灣小說選編輯委員會、『臺灣小說選 2』(中國人民文學出版社、1981)、540~42頁。「編輯後記」参照。 日本の硏文出版社版「台湾現代小説選」の編者であった松永正義の回顧によると、大陸版『台湾小説選』の実際の編者である武治純(ウ・ズチュン)から直接聞いたところ、当時大陸は郷土文学論争を通して台湾文学に関心を持ち始め、この選集以後、台湾文学に対する研究も活発となった。このような動向が日本の中文学界に伝えられた影響もあったが、日本が台湾の現代文学に関心を持つこととなった切っ掛けもまた、1977~78年の間絶頂に達した「郷土文学論争」であった。 松永正義、「關于日本的臺灣文學硏究」、『中国現代文学』第7号、1993、245頁。

日本が台湾の郷土文学に注目し始めた社会的背景を理解するために、松永の回顧をもう少し見てみよう。彼によると、日本で台湾研究は1970年代に入って独立した学問領域として転機を迎えることとなる。ここにはまず、当時全世界的に盛んであった「マイノリティ復権運動」の影響が大きかった。そういう中で在日朝鮮人、在日中国人、北海道の蝦夷人、沖縄人などの権益問題が提出され、また日本の対アジア経済侵略に対するアジア各地の批判の声が高まりながら、もう一度植民統治の過去清算の問題が社会的にイシュー化したのである。また、1970年代以後、民主化運動を通じて台湾社会が内から変わり始めたことも重要な要素であった。 松永正義、上掲論文、243~44頁参照。 先述したように、日本で初めて翻訳された台湾小説集『さよなら・再見』の編者である田中宏もまた、日本社会でアジア連帯運動を主導した人物であることを思い合わせると、この時期の日本の台湾議論は単なる学術研究の次元を超えて運動の性格を強く帯びていたことがわかる。言うならば、日本内の反省的知識人たちのアジア民衆連帯が1970年代の台湾の民主化運動と交差する途中、1977~78年の郷土文学論争が日本の中文学界の視野に捉えられたのである。

それでは韓国の状況はどうだったのか。1992年10月、韓国中国現代文学学会の主催で開かれた「台湾現代文学」国際会議で金時俊(キ厶・シジュン)は次のように基調演説を始めた。

 

「台湾現代文学」は中国現代文学を研究するわれわれにとってさえ、非常に不慣れな文学として知られてきたのが事実である。だが、1970年代後半に台湾で「郷土文学論争」が発生し、その内容がわれわれに知られながら台湾文学を新たに認識し始めたし、これは韓国で1960年代にあった第3世界文学の民族文学論争と、また1980年代半ばから起り始めた中国大陸での第3世界文学議論と連関されてわれわれの関心を惹き始めた。 金時俊、「臺灣現代文學の歷史と動向」、『中国現代文学』第7号、1993、1頁。

 

上記の件は韓国が台湾の郷土文学に注目するようになったことに、中国、日本と似ていながらも異なる契機があったことを示している。取りも直さず1970年を前後して韓国文壇の理論と創作の重要な争点として浮かび上がった「民族文学論」である。原稿として残ってはいないものの、この会議に提出された柳中夏の発表文のタイトル「60年代文学の地形:韓国民族文学論と台湾郷土文学論の交差対比」 『中国現代文学』第7号、1993、「彙報」、279頁。もまた、この点を窺わせる。以後、2000年のある評論で柳中夏は、ウォーラーステイン(I. Wallerstein)の「世界体制論」と白樂晴(ベク・ナクチョン)の「分断体制論」との間を媒介する中間項目としての「東アジア論」という構造で90年代の創批の談論地形をまとめながら、その中間項目の具体的な輪の不在を一喝したことがある。そこで彼が提示したのが「分断された南北文学と兩岸文学」であった。1960年代の台湾文壇を横行したモダニズムとの対決のなかで1970年の代郷土文学が浮上する過程は、純粋─参与論争から民族文学論が浮上する韓国の脈絡と非常によく似ている。 柳中夏、「世界文学、民族文学、そして東アジア文学」、『黄海文化』第27号(2000年夏)、52~57頁参照。 両者の類似した構造と脈絡についてはより進んだ研究があって然るべきだが、ここでは1970年を前後して韓国と台湾の類似した社会構造が文学の場でも再生産されていたことを確認する程度に留まって整理しておく。

 

3. リアリズムとモダニズム

 

1980年代の台湾文学が東アジアと出会う状況の特殊性は、1990年代初め、アメリカで発表された二つの研究と比較する際、一層際立つ。「リアリズム」、「第3世界」、「民族文学」、「民衆運動」らが郷土文学を受け入れる前者の主なキーワードであったならば、後者はそれをモダニズムで読んだのである。

例えば、台湾系アメリカの中文学者であるイヴォンヌ・チャン(Sung-sheng Yvonne Chang)は、郷土文学をモダニズムとの対決構造のなかで捉えてきたそれまでの研究傾向が「モダニズムに対する誤解から始められ」たことだと主張した。彼女によると、郷土文学の発源地というべき『文學季刊』(1966年創刊)の創刊メンバーである陳映眞(チョン・インジョン)と、この雑誌が発掘した同時代のスター作家の黃春明は、事実、1960年代の台湾社会を風靡したモダニズムの動きのなかで生れた人物である。その分、意識したであれ、そうでなかったであれ、「郷土文学」の作家たちはモダニズムから自由ではあり得なかった。 Sung-sheng Yvonne Chang, Modernism and the Nativist Resistance (Durham & London: Duke University Press, 1993), 151頁. よってチャンは黃春明文学の母胎である「郷土性」をモダニズムで再構築するに至る。

 

そのような方式(「溺死一隻老猫」─引用者)は近代性に対する準備された幻滅を反映するが、これは殆んどの黃春明評者たちが考えるように「リアリズム的」なのではない。郷土文学論者たちの確信とは違って、これは郷土文学だけの排他的な特徴ではなく(王文興(ワン・ウォンシン)にも見い出される)、モダニストの核心的観点なのである。より重要なことは彼の作品が社会主義的メッセージではない、何よりヒューマニズム的メッセージを傳えているという点である。なぜならば、彼らはテクノロジーと民主主義を始め、近代文明を人間性の基本価値を脅かすものとして見なすからである。(…) 黃春明の初期作品は個人の内面の経験を精巧に、高度に繊細に取り扱ったし、人間性の終局的確信のための手段として悲劇的超越という浪漫的観念をよく運用した。 上掲書、155頁。

 

「溺死一隻老猫」(1967)は淸泉村に水泳場施設が入ってくることに反対した阿盛老人が、完工式の日、プール(pool)に飛込んで死ぬという内容の短編である。1960年代に最高潮に達した経済開発に蹂躙される田舎の風景を風刺的に告発したこの作品は、長い間郷土文学の代表的成就として見なされてきた。ところが、チャンは阿盛の死を「アイデンティティの喪失に対する実存主義的恐怖」 上掲書、156頁。として再解釈することで、この作品をモダニズムへと持ってきたのである。このような解釈は郷土文学陣営のリーダーである陳映眞にも等しく適用された。「鄕村的敎師」(1960)など、陳映眞の初期作に頻繁に登場する「苦悩する知識人」の歴史と、現実に対する介入意志は、常に実存的悲観のなかへ蚕食されてしまうことと解釈された。 上掲書、165~66頁。

ジェフリー・キンクレイ(Jeffrey C. Kinkley)もまた、「郷土文学」に関する類似した視角を提起した。陳映眞の小説をリアリズムではないモダニズムとして読むことを主張したこの論文は、実はフレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)の「第3世界文学論」を暗に狙ったものである。「私的なものと公的なものとの根本的な断絶」(a radical split between the private and the public)で代表される1世界文学とは違って、個人的なものと政治的なものとの間の緊密な関連性を3世界文学の特徴として際立たせたジェイムソンに対して、 Fredric Jameson, “Third-world Literature in the Era of Multinational Capitalism,” Social Text, No. 15 (Fall, 1986), 69頁. キンクレイは陳映眞の作品が3世界ではない、1世界の文学伝統に符合すると主張する。彼によると、陳映眞の人物が経験する内面的苦闘は社会的抑圧という、見える敵ではなく、存在を脅かす形而上学的な敵と闘う実存的戦いである。 Jeffrey C. Kinkley, “From Oppression to Dependency: Two Stages in the Fiction of Chen Yingzhen,” Modern China, Vol. 16, No. 3 (Jul., 1990), 251~52頁. 特に興味深い件は「夜行火車」(1978)の結末に対する次のような解釈である。

 

これは確かに「世界体制に対する」成功的な「抵抗」であり、幸せな、そしてやや政治的な結末であることは認める。しかし南の方へ行こうと言葉から連想されるイメージ、つまり広々とした砂漠への航海、真夜中に揺られながら台北から南下する貨物車は、そのような「メッセージ」に何か曖昧な色調を被せる。その起源から見るとき、貨物列車はエイリアンのような宇宙人の侵入者に対するゾッとする象徴となりやすい。おそらく陳映眞の最も興味深い手腕は、台湾本省人の主人公を社会不適格者として鋳造し、また大陸人の女人と台湾人の男子の相互救済的な結婚を最も不健全な求愛を通じて成し遂げたところにあるだろう。このようなモチーフは陳映眞の初期小説から始められる。 Jeffrey C. Kinkley、上掲書、257頁。

 

中編「夜行火車」は、先に触れた中央日報社版の台湾文学選集『夜行火車』の表題作でもある。多国籍企業の権力構造とその中にへつらって生きていく台湾人の屈辱的な生を赤裸々に見せることで台湾社会の対米従属性を批判したこの作品は、ついにアメリカ人社長の面前に辞表を投げつけた主人公がアメリカに行こうとした恋人の手を握りしめて故郷に向う南行き列車に乗り込む場面で終っている。アメリカの虚像を破り、現実回帰の誓いを再確認することで郷土文学の旗印を鮮やかに示したこの小説に対して、韓国語版選集の編者は「第3世界民族解放の問題」と関連して「今後の台湾の方向を力強く示唆」したと言ったことがある。 柳中夏編訳、『夜行火車ほか』、中央日報社、1989、370頁。

それに反して、同じ結末からある種の「不吉さ」を読み取って、この作品に「1世界性」を与えようとするキンクレイの試みはどこか反語的である。事実、キンクレイが陳映眞の「1世界性」を強調したことには、彼の作品が道徳的・イデオロギー的な重圧によって文学的成熟度が落ちるといった、それまでの評に対する反発が働いている。陳映眞の小説に社会的・政治的分析の要素が入ってはいるものの、常に曖昧に処理されているため、結果的にイデオロギーとならないということである。 Jeffrey C. Kinkley, 244~45頁. このような詳しい読解にも関わらず、アイロニーが感じられるのは次のような疑問からである。つまり、社会と政治に対する投身がイデオロギーに還元されない作品の芸術性に対する賛辞が、どうして「1世界的、すなわち、西欧主流文学の伝統」 上掲書、251頁。へと帰結しなければならないのか。

先に見てみるべきことは、キンクレイの反駁に前提されているジェイムソンの「第3世界論」に対するある種の誤解である。ジェイムソンが個人的リビドーを扱う私的なテクストのなかにアレゴリー的に投射された「政治的審級(a political dimension)」を「第3世界文学」の特徴として強調したことには、 Frederic Jameson、前掲書、69頁。 両者の間に深くあけられた深淵によって、「「知識人」という単語が滅びた種のように萎れてしまった」西欧知識界に対する批判が込められていた。魯迅の「狂人日記」に対する分析が「マルキシズム的伝統から「文化大革命」の意味を蘇らせよう」という提言へと繋がったこともそういう脈絡からである。彼が見るに、文化大革命の核心は「文化」を主観的・抽象的なものから客観的・集団的精神の領域へと逆戻りさせようとするところにあるからである。そういう脈絡から、文化的実践がつまり政治的なものであることが意識できないまま、狭い専攻領域に閉じ込められている西欧の知識人こそ、魯迅が絶望した「鐵の部屋(iron room)に閉じ込められた人々」であったのだ。 Frederic Jameson、74~77頁。「鐵の部屋の叫び」という魯迅の比喩をジェイムソンが活用したものである。「狂人日記」を書く直前、魯迅はある友に今の中国人は鐵の部屋のなかに閉じ込められて窒息し死んでいくが、眠っているので自分の死がわからないと語った。

一方で、キンクレイはジェイムソンが「第3世界論」に投射した抵抗的価値を省略したまま、1世界と3世界を芸術的優劣の関係として置き換えた。陳映眞を「成熟した芸術性を備えた1世界的」作品として読んであげようとする彼の善意が不審に思われるのはそのためである。ここには暗暗裏にリアリズムに対するモダニズムの優位が前提されている。彼は「社会的なもの」を拒み、「個人の実存」を排他的に固守することでモダニズムを限定し、それを再び「西欧主流的文学」へと連結させたのである。結果的にキンクレイはジェイムソンが嘆いた1世界文学の現実──公と私の分裂(the public-private split) Frederic Jameson, 71頁.──を文学作品の芸術性を推し量る物差しとして再び呼び出して、それでもって3世界文学の価値を証明しようとした。しかし裏返してみると、歴史的な主題を個人の実存的問題として曖昧で複雑に描き出したという彼とイヴォンヌ・チャンの解釈は、非西欧文学テクストに個人的リビドーと社会的経験が内密に連結されているといったジェイムソンの主張を繰り返しているのではなかろうか。 「第3世界文学」を概念化しようとするジェイムソンの試みそのものに対しては、もちろん批判の余地がある。アイジャーズ・アーマッド(Aijaz Ahmad)は世界は資本主義的生産様式の地球的拡散と、それに対する抵抗という単一なる原理で成されているのみで、「第3世界」を特徴化することは同質性(homogeneity)に基づいて非西欧を他者化する西欧主義だと批判する。正統マルキシズムに基づいて彼は「第3世界文学論」であれ「第3世界論」であれ、すべて資本主義と妥協したブルジョア理論に過ぎないと主張する。Aijaz Ahmad, In Theory: Classes, Nations, Literatures, (London & New York: Verso, 1992) 第1章、3章、8章参照。しかし、毛澤東の「三個世界論」の問題性を念頭に置くとしても、「第3世界(文学)論」が特定の時期、東アジアの知識界で受け持った進歩的役割そのものは否定しにくい。「第3世界(文学)論」が西欧と東アジア知識界に残した功過については別途の研究が必要であろう。

このような問題点は残るが、キンクレイとチャンが郷土文学を見る新しい窓を開いてくれたことだけは確かである。彼らの話のように、郷土文学が自分の臍帯であるモダニズムから全的に脱することは不可能であったろう。また、陳映眞と黃春明作品の「モダンフィール」(modern feel)は、彼らを運動的次元だけでなく、芸術的にも高く評価する重要な根拠であり、郷土文学陣営でそれを理論的に充分明らかにできなかったことも事実である。それと共に、郷土文学が50年代の反共理念に基づいた純粋文学と70年代に新たな局面に達したモダニズムをまるごと否定することによって、白先勇や王文興のような成熟したモダニズムに対する正当な評価を放棄したという指摘も Sung-sheng Yvonne Chang, 162~69頁. 傾聴に値する件である。これに1968年を前後して台湾で左と右、毛とコカコーラ、陳映眞と張愛玲(ジャン・アイリン)、革命とロックンロールが事実一つのコード、つまり大きな枠で国民党の保守的独裁に対する抵抗のアイコンとして受け入れられた社会文化的状況 鄭鴻生、「臺灣的文藝復興年代: 七十年代初期的思想狀況」、『思想』第4期(2007.1)、81~102頁。
を考慮する際、モダニズムの二重性を充分了承しながら60年代の時代像を反映する産物として歴史的意味と限界をバランスよく評価する作業が必要である。例えば、白先勇と共にモダニズムの双璧として数えられる王文興の『家變』(1972)がなぜ当時は勿論のこと、今までも台湾文学のキャノンとして居座っているか、それが描き出した「憤る青年」の像がなぜそれほど台湾の若者層を熱狂させたかについて郷土文学は正面対決できなかったのである。そういう点で1980年代に入って郷土文学を文壇の中心から激しく追い出したポストモダニズムと「台湾本土主義文学」の波は、郷土文学が当時まともに勝負できなかったモダニズムの大反撃であったわけだ。

 

4. 民族文学と郷土文学

 

郷土文学とモダニズムの関係は確かにわれわれにあるデジャビュを与える。4·19革命を切っ掛けに既成の反共(純粋)文学に対する反発から純粋─参与論争が繰り広げられて、金洙暎(キ厶・スヨン)と申東曄(シン・ドンヨプ)という異なる傾向の二人の詩人を通して成し遂げられた「参与文学」の理論的成熟のなかで1970年代の民族文学論が発進した。50、60年代の権威主義体制に抵抗して、文学の社会的責任を提起したという点、創作方法として(「事実主義」ではない)「現実主義」を掲げて理念的に「民族」、「民衆」、「第3世界」を強調したという点、植民地期の左翼文学の流れを受け継ぎ、モダニズムとの対決のなかで成長してきたという点などで民族文学と郷土文学は確かに並々ならぬ類似性を見せる。しかし、韓国の民族文学が90年代まで持続したのに反して、郷土文学は1977~78年の郷土文学論争を頂点にして早く衰えていった。後日、ある評論で陳映眞は郷土文学が短命であった主な原因として理論的精巧化と創作実践の不足を挙げた。内では「郷土」、「民族」、「民衆」のような概念が明瞭に整理できなかったし、外では「モダニズム」に対する批判と分析が貧弱であったので、再び押し寄せてくる西欧の舶來品のポストモダニズムにまともに対処できなかったということである。 陳映眞、「回顧鄕土文學論戰」、薛毅 編、『陳映眞文選』(三聯書店、2009)、136頁。

韓国の民族文学論が80年代の民衆文学陣営との激しい論争を経て「リアリズム論」として定立され、90年代のポストモダニズムの潮流に立ち向かって「モダニズムとの対決という課題」 白樂晴、「リアリズムに関して」、『民族文学と世界文学2』(創作と批評社、1985)、360頁。を遂行する過程で新しい理論的定立段階を迎えたことに比べれば、台湾の郷土文学は一瞬にしおれて消え去ったのが事実である。もちろん、そこには台湾の特殊な政治的・文化的状況があった。1979年の高雄事件で大多数の左派系列の作家たちが投獄されながら、郷土文学は陣営そのものが瓦解した。それに40年近くに達する戒厳の終結とともにやってきた「民主化の春」は、アイロニーも「反中」コンプレックスと絡み合った「台湾民族主義」を養った。90年代の台湾の文化界は「脱中国性」へと変わった台湾版ポストコロニアリズムが主流をなしていた。このような状況で文学人生の全般を通じて一貫して「祖国統一」を主張した陳映眞の立地は急速に狭くなってきたのである。

陳映眞文学の「第3世界性」を反芻する最近のある評論で、台湾学者の陳光興(チョン・クァンシン)は黃晳暎(ファン・ソクヨン)の『古い庭園』(創作と批評社、2000)を彼の前に向かい合わせる。長い長期囚生活を終えて出獄ヒョンウがユンヒとの思い出がこもった昔の隠れ場を訪ねていく場面で、陳光興の胸は名状しがたい感激で一杯になる。それは彼にあたかも次のように語ってくれるかのようである。

 

われわれは負けた。だが、最善を尽くしたことに、われわれは自負する。わが社会がいよいよ圧制の鎖から脱したということに、抵抗として「体制順応」という罪意識を振り捨てたということに、われわれは自負する。われわれが成し遂げたことは多くなく、民主の道はまだ程遠い。しかし、われわれの参与と創造は今日の社会の所々に民間の活力を発散させた。 陳光興、「陳映眞的第三世界」、『臺灣社會硏究』第84期(2011.9)、142頁。

 

分断と独裁が韓国現代史に残した傷が、台湾というコンテクストに移っていってもおぼろげな痛みを伝えるこの状況は、両国間の深いところに隠された紐帯を事新しく感知させる。談論として郷土文学は無くなったが、それが提起した問題は未だに有効である。台湾の解放が全中国の解放、ひいては全人類の解放のなかで可能だという陳映眞の信念は、中国との長い対決構造のなかに刻まれた種族葛藤と社会分裂の渦からなかなか抜け出て得ない今日の台湾社会が反芻すべき金言である。近来の台湾文学がこのような問題をどのように解き明かしているかは稿を改めて検討すべきことであるが、「帰郷」(1999)、「夜霧」(2000)、「忠孝公園」(2001)陳映眞、『忠孝公園』、ジュ・ジェヒ訳、文学と知性社、2011。など、植民と分断、冷戦を合わせた巨視的視野から台湾の過去と現在を眺望した陳映眞の中短編は、その中で注目に値する成果であるに間違いない。特に国共内戦中に大陸に残されて、老年となってやっと故郷を訪ねるが、兄弟たちに冷遇されて帰ってきてしまう「帰郷」の主人公や、戒厳の時期、数多い弾圧と虐殺に加わった過去に圧されて神経衰弱で死んでいく「夜霧」の人物には、黃晳暎の『お客さん』(創作と批評社、2001)の主人公のリュ・ヨハンの形像が片鱗のように散らばっている。長い空白を渡って、いつの間にか台湾文学と韓国文学は再び互いに向かっているのである。

郷土文学と民族文学は確かに歴史の過ぎ去った跡である。しかし文学が如何に現実に介入して、究極的に人間解放の課題に寄与するかを問う真摯なる探索は、変わった時代と潮流のなかでも綿々と受け継がれている。この間、韓国の評壇の争点として浮上した「詩と政治」議論は、美的なものと政治的なものとの関係を新しい世代の感性地図のなかに再配置する試みと言える。即自的政治性を超えながらも現実介入への意志を手放さない若い批評家たちの苦悶は、つまるところ民族文学と90年代の「リアリズム」の遺産の上に置かれている。文壇ではないが、最近台湾は陳映眞の文学と思想を再評価する一連の作業が進行中である。 特に「第3世界論」を始め、中国と日本、韓国との関係のなかで陳映眞を読み直そうとする台湾知識界の試みに対して、私たちも当然関心を傾けるべきであろう。民族文学論もまた、台湾を始め、周辺地域の文化地形と横的に連携する際、過去に見られなかった新しい脈絡と意味が見い出せるかも知れない。民族文学と郷土文学を出発点として20世紀後半の東アジアを横切って存在した特定の文化遺産の跡を復元する過程で、「東アジア文学」という新しい議論の場が開かれることを望んでみる。

 

翻訳:辛承模(シン・スンモ)

季刊 創作と批評 2011年 冬号(通卷154号)
2011年 11月1日 発行

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