창작과 비평

東アジア文学の現在/未来

特輯_東アジア地域文学は可能であるか



崔元植(チェ・ウォンシク) 文学評論家。仁荷(インハ)大学人文学部教授。著書に『民族文学の論理』『韓国近代小説史論』『生産的な対話のために』『文学の帰還』『帝国以降の東アジア』などがある。ps919@hanmail.net

 

 

1. 「東アジア」と「文学」の間

 

「アジアは現在にあらず、未来にあり」(亜洲者 不在現在 在未来也)。西勢東漸の流れの中で、中国を初めとするアジア全体が屈従していた時代にも、梁啓超(1873~1929)は未来のアジアに希望を仮託した。今、アジアは現在なのか、未来なのか。東アジアにその範囲を限るならば、アジアは生きている現在、もしくは近い未来と言えよう。だからと言って、決して他のアジア国家を過ぎ去った過去や遠い未来として見做しているわけではない。未だにそのような人種差別的/階級的偏見の視線が所々潜んでいることには間違いないが、もはや世の中はそれほど暗くはない。もし、過去の覇権主義をコピーした偽物ならば、そのような(東)アジア論には断固として反対である。「中国の平和」(Pax Sinica)、「日本の平和」(Pax Japonica)もしくは「アジアの平和」(Pax Asiana)などと表現されるような中心主義は、真の(東)アジア論にはなり得ない。全ての地域/国家、そして全ての国民/種族は、それ自体が不滅の現在であり不死の未来であるからだ。

勿論、東アジアが生きている現在だからと言って、一路順風なわけではない。6•25戦争(朝鮮戦争)とベトナム戦争以降、比較的に安定を保っている東アジアは、脱冷戦時代が進む中でその不安定性も徐々に増大しつつある。冷戦によって支えられたものではあったが、東アジア地域の復興の土台となった域内の平和は、今、韓半島(朝鮮半島)の分断線の調整可能性によって揺らぎ始めているのだ。分断体制の揺れという条件が米国の一極支配を脅かす中国の浮上 だからと言って勿論中国に問題がないわけではない。政治的な寡頭制や社会的両極化などの懸案を補填できるような経済成長も硬着陸の危険をはらんでいるという予測が中国内でも提議されている。と相まって、東北アジアは急速に内燃化している。米国の西退東進と中国の東勢西漸が交錯する転換期的な争いの中で、大国の絡み合う東北アジアは予測不可能の渦の中にある。米国と中国という主動線に、今は多少の衰えをみせてはいるが、まだまだ強力な日本、そして「欧州とアジアの橋」と自称し東アジアへと復帰するロシア ロシアの東アジア復帰を伝統的な防俄論の立場から見る必要はない。最近ロシアが進めているガス管や鉄道事業に対する論議からも分かるように南北を繋ぐロシアの役割は重要だ。ソ連の技術と資本により成された北朝鮮の重工業施設を再び動かすことのできる鍵を握っているという点、米国・中国・日本とは違い、韓半島の統一によって利益が得られる国家であるという点、そしてロシアの仲裁なくして北核問題を解決することは困難であるという点などを想起させながら「新北方時代」の到来に備えるために韓国のロシアに対する研究を強調したバク・ジョンス(サンクトベテルブルク大学)の忠告に耳を傾ける必要があろう。(ハンギョレ、2011.10.12)まで、これらの4強が重なり合っている東北アジアは、まさに世界史的な雷管であろう。大陸進入への橋頭堡であり大洋進出への渡し場と言える韓半島、4強の集注するこの結節点が果たして如何なる役割を果すのか、楽観と悲観が入り混じる。東北アジアは、再び20世紀を繰り返すのだろうか。悲観を押さえる楽観的な症候ははっきりと現われている。何よりも東アジアがお互いを、そして自分自身を見つめ始めたのである。ひたすら米国を見つめる視線が未だに強力ではあるが、否定的であれ肯定的であれ、経済的な相互依存の深化に基づいた生活世界の相互浸透と拡大が、もはや後戻りできないほど進んでおり、今や東アジアは「一つのテキスト」に近づいたと言えるだろう。「嫌韓流」の台頭などは、東アジア市民の交際が正常な状態になりつつある間接的な証拠である。接触と交流が深まれば、争いが起こるのは当然のことだ。周知の通り、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以降、東アジアはほぼ鎖国状態にあり、国民の間の交流は殆んどなかった。近代以前は中国文明の優越性が染み込んだ、そして近代以降は日本のアジア侵略に伴った文化的な一方通行だけが横行していた。このような意味において、最近、東アジアで起こっている文化的な相互交流の意義はいくら強調しても物足りないほどである。

それに比べ、東アジア文学は現在とは言えない。「東アジア」と「文学」の間には、まだ飛び石が置かれた程度であり、初の相互交流と言える「東アジア文学フォーラム」も2回ほど行われた程度である。 韓・中・日の文人たちは、大山(テサン)文化財団の主導により、2008年にソウルで最初の会合を行った。二年ごとに三ヶ国を順番に回りながら開催することにしたフォーラムは2010年度の2回目の大会が国家間の紛争にも関わらず、日本の北九州市で開催された。来年、第 3回のフォーラムが中国で行われる予定であり、より一層安定していくと思われる。 韓・中・日三ヶ国の文人の間の双務的接触が三者関係へと進化した東アジア文学フォーラムの発足は画期的でありながらも、その余白は大きい。東南アジアの除外はさて置くとして、東北アジアの中でも北朝鮮が排除されているのは問題である。だからと言って、直ちにフォーラムの門戸開放をしたところで解決される問題でもない。先ず、三者関係を友好的に進行させることに力を注ぎ、徐々に結合の範囲と程度を相応的に高めていくしかない。

経済協力の増大にも関わらず、政治的葛藤を見せている最近の韓中関係を中国のマスコミは「政冷経熱」と要約しているが、これは東北アジア全体にも当てはまると思われる。文学も政治と同じ状態である。例えば「文冷」である。葛藤の中でも接触が頻繁である域内政治に比べ、お互いの無知に対して気付くことすらできない隠蔽された地域文学の方が冷え切っていると言えよう。最近の文化、特に大衆文化の交流の熱気は言うまでもなく、域内の知識人の間の識見交流この言葉の創案者は故小田實である。彼はこれをスローガンにした雑誌『識見交流』(2002. 6)を刊行したが、残念ながらも創刊号が終刊号となってしまった。も徐々に広く深く行われている現状において、地域文学における冷気は異常なほどである。

これは言葉の職人である文人の間の越境的な交流と協力における困難さを想起させる。「種族の方言」を境界とするそれぞれの国民文学の意識的・無意識的な道具である文人は、母国語の最終的な守護者である。いくら単独者的な傾向の強い作家であっても、その「方言」を自らの文学の言葉として選択した瞬間、彼はその使命感から抜け出すことはできない。勿論、文学は境界を飛び越えようとする衝動を孕んでいる。特に近代以降、読書市場の膨張の中で、通訳、翻訳、翻案、そして文学賞などにより、文学は方言の境界を越境している。ところが、この越境は一つの方言の拡大であり、他の方言との真の接触とは言い難い。意外にも文学は政治に劣らず領土的である。それぞれの国民文学の領土性を脱領土化するためには、以前とは違った東アジアの到来を望む政治的想像力が要求されるのだが、それは東アジアを各方言の境界の外部、もしくはその境界の上に設定する大胆な思惟と緊密に絡み合うのである。ある意味では「政冷」と「文冷」はコインの表裏の関係と言えるかもしれない。「政冷」が解決すれば「文冷」が解決し、「文冷」が解決すれば「政冷」が解決するのだ。恐らく東アジア文学の出現は、最終の段階、もしくは最高の段階を示すものであり、過去の双務的な関係はそのまま進展させながら、新たに発足した相互交流も活発に行われることが何よりも切実に望まれる。

 

2. 地域文学の現在: 邦玄錫(バン・ヒョンソク)、劉在炫(ユ・ジェヒョン)、全成太(ジョン・ソンテ)、 金衍洙(キム・ヨンス)

 

東アジア文学の未来を予想しながら、本格的な論議の土台を設ける基礎的な作業として、先ず地域文学がお互いをどのように意識しているのかを確認してみたい。日本文学、中国文学、ベトナム文学などの地域文学に対する無知のため、韓国文学に限定するが、その中でもやはり、東アジアが意義のある文学的場所として探求された作品が集中的に登場し始めた21世紀初の韓国小説をその対象としたい。 脱北者を初めとする分断に関連した主題を扱った小説、韓国内の移住労働者などを扱った小説、韓国/朝鮮のディアスポラ問題を取り扱った小説、そして黃晳暎(ファン・ソッキョン)の『沈清』(文学村、2003)や金仁淑(キム・インスク)の『昭顕』(子音と母音、2010)のような歴史小説なども除外する。これらの主題は一つ一つが独立的で総合的な照明が必要だからである。

その先駆をなしたものが邦玄錫(バン・ヒョンソク)の中編集『ロブスターを食べる時間』(創批、 2003)であろう。 邦玄錫は、80年代の労働文学を決算した『明日を開く家』(創批、1991)刊行以降、長らく沈黙していたため、この作品集は非常な注目を浴びた。労働運動を取り扱った「宿り木」(1996)と「冬の尾浦湾」(1997)、そしてベトナムを取材した「存在の形式」(2002)と「ロブスターを食べる時間」(2003)、明確に区別される異なる系列の中編を収録したこの小説集は、労働文学の出口がベトナムであるということを物語っている。勿論、「宿り木」と「冬の尾浦湾」が単に出口の役割に止まっているわけではない。復職した全教組の教師の目を通して「文民政府」時代の韓国社会の俗物性を描いた前者や、内外の条件変化の中で下降する労働運動を正面から把握した後者などは、退潮期における文学的な応戦として申し分ない。けれども、後者には自己憐憫と繋がった観念論が溶け込んでいる。本人も文学もこの上なく健全な邦玄錫さえも時代のウィルスに感染されてしまったのだ。「冬の尾浦湾」に登場する若い労働者の自嘲--「90年代なんて意味ないでしょ?80年代の別冊付録に過ぎないんですよ」(295頁)—が喚起させるように、労働文学も密かに「別冊付録」へと移動してしまった。

ベトナム系列はどうだろうか。実はこちらも「別冊付録」、即ち(ベトナム戦争)の後日談である。戦争以降、戦士から作家へと転身したヴァン・レ(Van Le)と、労働文学以降、新たな方向を模索している邦玄錫との出会いを軸とし、両国の後日談が交織しているベトナム系列の小説は二重の後日談と言えよう。しかし安っぽい後日談とは異なる。作家はこう述べている。「周囲をうろついて10年経って、やっとベトナムを舞台とした物語を書く勇気が出た。(…) 遠回りしている間に色褪せてボロボロになってしまった私の文学の旗が恥ずかしい限りだ。けれども構わない。たとえ、もっと情熱的に愛することはできなかったとしても、一時期熱く燃えるように愛したものを辱めることなく耐えることができた。たとえ、遠回りはしたが、降伏せずに耐えることができた。そして、以前愛せなかったものを愛せるようにもなった。耐えることは容易ではなかったが、無駄なことでもなかった」(「作家の言葉」)。黃晳暎(ファン・ソッキョン)の『武器の陰』(月刊朝鮮連載、1985~88)に代表される参戦世代のベトナム小説とは違った新世代のベトナム小説が誕生する苦痛の過程を感動的に証言しているが、これは韓国の民族文学/労働文学が東アジアへと越境する最初の道しるべであった。

「ロブスターを食べる時間」は「冬の尾浦湾」と傾向的には似ている。この中編小説の主人公はベトナムに進出した韓国の造船所の課長であるチェ・コンソク。非参戦世代でありベトナム通のコンソクは韓国人管理職と現地の職員、そして当国の間で起こる葛藤の調停者である。彼は常に中立を保っている。依然としてベトナムに対する偏見を根強く持っている管理職の人々に対して批判的であるが、ベトナム戦争で韓国軍の果した役割によって発生した否定的な遺産を、若い世代の韓国人にも無意識的に適用しようとするベトナムの参戦世代の視線に対しても「私がしていないことを私に言わないでほしい」(79頁)と述べているほど冷静である。小説はキム部長とボ・ヴァン・ロイの争いにより本格的に点火される。ドイモイ(Doi Moi、市場改革)の流れに乗って再びベトナムへと戻ってきた韓国軍出身のキム部長と、かつては不屈の戦士として、そして現在はその会社の社員として生きているロイとの対決は、言わば、新版ベトナム戦争である。葛藤のポイントが明確な小説の序盤には緊張感が漂っている。ところが、チェ課長が辞職したロイの故郷であるジャディンを訪れ、「朴正煕(パク・ジョンヒ)軍隊」の虐殺という残酷な事実を知ってからは寧ろ緊張感が緩んでしまう。韓国もベトナムも戦争の被害者なのだから過去を忘れ未来へと進もうとロイを説得するコンソクの(150~51頁)の発言は主客転倒と言えよう。和解や容赦は加害者である韓国ではなく、被害者であるベトナムが主体である。直接的な加害者でないコンソクに責任を問うのも正しいとは言えないが、だからと言ってコンソクがロイに和解を強要することもできない。なぜこのような転倒が生じたのだろうか。主動線と幾重にも重なっている補助動線、即ち労働運動の過程において命を落としたD重工業の労働者であった兄のコンチャンの中の二重性に注目する必要がある。コンソクがあれほど嫌っていたコンチャンは参戦軍人であった父親とベトナム女性の間に生まれた息子で、言わば労働運動者でありベトナム人民の換喩である。その兄は労働運動の過程で疑問死した。コンソクが幾ら兄の命日に供養を行い追悼しても、もはや兄との和解は不可能である。死んだ者は生きている者を許すことはできない。誰かが代わりに許すこともできない。兄の死により永遠に不可能となった兄との和解をロイとの和解により補おうとする感傷が転倒のポイントであろう。他者の苦痛を自分自身の中へと受け止めるのではなく、自分の苦痛をむしろ他者に転嫁することにより、結局ベトナム人民との和解は弥縫策(一時しのぎ)になってしまった。この作品の限界は韓越修交の問題点とも結びついている。韓日間の長期的な拮抗を考えると、勝者の寛容という修辞で美化されながらベトナム戦争に対する韓国の責任問題がまともに問われることがなかったため、韓越関係の友好的な樹立だけでなく、両国の内部の改革においても否定的な遺産となってしまったのだ。

「存在の形式」は「ロブスターを食べる時間」よりも虚構性が薄い。その代わりに場所性は濃い。「レ・ロイ通り」から始まるところから見て、後者の空間的な背景はホーチミン市と思われるが、何故か「クァントイ省」もしくは「クァントイ」と設定されている。ところが、クァントイ(省)はベトナムに存在しない。エデ族の山岳村として設定されているロイの故郷「ジャディン」も同様である。「ジャディン」とはサイゴン又は南ベトナムのことを指す。しかし「存在の形式」は最初から「サイゴン」(10頁)、即ちホーチミン市を露出しており、その中でも特にベトナム戦争を取材した韓国の監督のシナリオをベトナム語に翻訳する三人の共同作業が行われる主人公カン・ジェウの住居は生き生きと接写されている。ベトナム語を知らない、恐らく助監督と思われるイ・ヒウンと韓国語を知らないベトナムの解放映画社の監督レジテュイの間で両方の言葉を媒介するカン・ジェウ。この興味津々の三人一組のトロイカがシナリオの韓国語を一つ一つ分析し、それにぴったり合ったベトナム語を見つけていく討論の過程自体が、フローベール(G. Flaubert)の「一物一語説」(mots justes)に見られる偏執症とはレベルの違う文学的な求道となっている設定自体が象徴的である。この通訳過程は韓国語とベトナム語が出会う光り輝く点火であると同時に、韓国とベトナムがお互いに溶け込み合う相互疎通の再生意識である。翻訳室となってしまったサイゴンのジェウの住居は、敵として向かい合っていたベトナムという見知らぬ空間をアジア的な友愛の芽生える暖かい場所として再び創造していく神秘的な工作室としての役割を果しており、まるで霊性の宝冠でも冠ったかのように「地霊」(genius loci)が眩しく作動している。

「存在の形式」も「ロブスターを食べる時間」のように、ベトナムと運動に対する二重の和解を追及している。ベトナムとの和解が主動線とするならば、韓国の革命運動の問題は補助動線であるわけだが、この作品においても補助動線が問題である。カン・ジェウは後日談を患っている。勿論、レジテュイも時折患ってはいるが、運動の現場から離脱したジェウの味わった苦痛とは比較することはできないだろう。過去から間欠的に吹き寄せる風の根源に、今は各自の道を歩んでいる仲間たち--弁護士となったムンテ、今も運動の現場にいるチャンウン、そしてベトナム通へと転身したジェウ--が存在する。この運動のトロイカの一人であるムンテがサイゴンに出現することにより、奥深く秘められていた傷が露出し、チャンウンに対する罪悪感とムンテに対する怒りの間で分裂していくジェウの精神的な癒しが構造の焦点である。その担当医師がレジテュイ、つまりヴァン・レ 1949年に北ベトナムのニンビン省で生まれたヴァン・レは、1966年の高校卒業後、17歳で志願入隊、1975年戦争が終わるまで戦士として戦った。戦後、詩人、小説家、映画監督として活躍したベトナム最高の作家である。本名はレジテュイであるが、詩人への夢を抱いて、戦死した仲間の名であるヴァン・レを筆名とした。2003年に訪韓している。である。彼は作品の後半部を支配している。「友人がお互いを理解し合うことができなければ、この世の中を誰と共に生きてゆくことができようか」(66頁)。レジテュイの戦場で得た知恵の言葉に導かれたジェウは、一緒に来たゴルフ仲間と離れて一人でクチトンネルを訪れたムンテと和解し、チャンウンに対する罪悪感から解放される。ヴァン・レのお陰で翻訳のトロイカは勿論のこと、運動のトロイカも和解へと至るこの作品の結末は教養小説を想起させる。敗北と勝利という二分法的発想から離れて、「今、ここ」という条件に即応した新たな心構えを見せる「存在の形式」、ひいては『ロブスターを食べる時間』という作品集全体が大人の成長物語であることに気付く。しかし、ここに問題が生じている。ヴァン・レをメンターとしている一種のカルトがむしろベトナムに対する小説的な接近を制限する可能性があるという事実である。「私が知りたかったことは最初からベトナムではなく、ここにいる今の我々だった」(330頁)という作家の言葉のように、自分の問題だけに没頭してしまったために、主動線であるベトナムは背後へと追い出されている。例えば、この作品の舞台であるサイゴンの特性が殆んど現われていない点もそうである。統一後、ホーチミン市に改名されたサイゴンにどのような変化があったのか、苦境はなかったのかなど、北ベトナムによる武力統一がもたらした問題点を小説的に把握したならば、韓半島の問題を解決する上でも非常に役に立ったと思われる。 肯定と否定の両辺をなくした批評的な態度こそが、ベトナムと韓国の友好を築き上げるための互恵的な態度の核心であることを今一度確認しておきたい。

『ロブスターを食べる時間』に次いで、劉在炫(ユ・ジェヒョン)の連作小説集『シアヌークビル物語』(創批、2004)が刊行された。この作家の経歴が非常に興味深い。学生運動出身として92年度に文壇に登場したが、ソ連の解体により方向性を見失った彼はIT関係の仕事に就いた。しかし90年代末に突如東南アジアへと旅立ち、インドシナを一回りした後、99年度に再び作品を書こうとカンボジアを訪れている。 ソウル新聞、2004.6.4. 今度はカンボジアが労働文学の出口の役割を受け持つことになったわけである。「ベトナムを理解しようとする若い作家たちの集まり」(1994)を中心に、時間をかけて準備した邦玄錫とは違い、劉在炫は孤独な遊撃隊であった。方法もかなり違う。邦玄錫がベトナムにおいて自分自身の問題の解決を試みたとするならば、劉在炫は自分自身を括弧で囲んだままカンボジアを探索している。「労働小説に自信はないが、だからと言って時間の停止してしまった「後日談小説」の中に閉じ込められるのは嫌だった」 注8に同じという言葉からも分かるように、労働文学の苦境の中で、韓国人が一人も登場しない奇妙な小説が誕生したのである。このような小説を韓国文学と言えるかどうかという疑問が提起されるのは当然のことであろう。しかし、韓国人によって韓国語で書かれた小説が、韓国人が登場しないからと言って韓国小説と言えないわけではない。しかも、シアヌークビルという窓を通して、内戦以降のカンボジアを熱心に覗き込んでいる作家の姿を想像すると、この小説集も二重の後日談であることに気付く。後日談を患っている韓国の作家が、これまた後日談を患っているカンボジアを観察しているからである。

前半の三つの連作「ソムサンとトゥイアン」「大麻は育つ」「それでも大麻は育つ」は、内戦を鎮め辛うじて発足したカンボジア王国(1993)の直面した市場開放の混乱の中へと陥った「シアヌークビルの卑劣な日常」注8に同じ。をリアルに描いている。シアヌークビルという設定も物語の場所として申し分ない。1964年にカンボジア唯一の深水港(deep-water port)として建設され、観光リゾート地として再開発されたカンボジア第三の都市であるシアヌークビルは、売春、麻薬、腐敗、裏切りによる残酷劇、さらにはクメール・ルージュ(Khmer Rouge)改革軍と麻薬商人の互換さえも自由なポストモダンな残酷劇が日常化している地獄である。この暗黒小説を読みながら、もしかしてこの地獄とは作家の心の奥に存在しているものではないかという疑問が浮かんだ。この連作で目に付くのは、韓国の商品が登場するという点である。「「山頂楽城」という赤い文字が刻まれた韓国産のワゴン」(49頁)や「韓国産の大林(テリム)のオートバイ」(98頁)が作品の中で走り回っている。韓国は確かに存在しているのだ。人物ではなく商品として。人よりも先に進出した韓国資本が遠く離れた奥地(?)を疾走しているという点が、この連作の独創性の証拠という反語法が何故か軽く感じられる。

四つ目の連作である「朝鮮民主主義人民共和国から来た男」は設定自体が興味深い。北朝鮮の同胞と出会ったという理由だけではない。これまでは既得権の罵り合いしか見えなかったのだが、 プノンペンの政治が介入するとカンボジアが以前よりもくっきりと見え始めたからである。全体的な視野の欠如した微視的な語りは息苦しい。プノンペンと格別な友好を交わした平壌(ピョンヤン)の視覚によりシアヌークビルを見つめる支点が絶妙であり、その軸となっているのが、「統一道場」を運営している主人公のイ・ウッジョ上尉である。「祖国統一戦争」即ち6•25戦争中に戦死した人民軍の「英雄」の孫にあたり、共和国に対する忠誠の並外れた彼が、何故このような所でテクォンドの師範として暮らしているのか。元々彼は「金日成(キム・イルソン)首領が生前にシアヌーク王の安全を守るために自ら送った」(51頁)王室の特殊警護隊所属であった。「平和協約の成立により総選挙を控えた」(160頁)1993年、プノンペンに到着した彼は、首相の警護員の手首を骨折させた責任を問う形で休暇を取らされ、自分の故郷の咸興(ハムフン)に似ているこの都市を訪れ彷徨っているのである。王の反対にも構わず首相が推進していた韓国との修交(1996)は、解放以降のカンボジアの行方をはっきりと示しており、実はイ・ウッジョの曖昧な休暇も親社会主義的なシアヌーク王のカリスマの衰退を反映したものであった。しかし、このような興味津々な物語の構図に比べ、物語の進行はだらだらと引き締まりがない。道場の唯一のカンボジア人の弟子を師範公演中にミスで死なせてしまい、主人公の溺死を暗示して締めくくっている物語の進行はどこか物足りなく虚しい。北朝鮮という温室から引っ張り出されて、酷烈な外気に触れ枯死してゆくイ・ウッジョという人物をこのように無駄にしてしまうなんて、何ともったいないことだろう。

五つ目の連作「シアヌークビルのラブ・アフェア」は、この小説集を代表する秀作である。この短編の主人公は、七年前に地雷で夫を失ってから小さな果物屋で生計を立てながら暮らしているチャンナとアンコールの酒造工場で働くことになった娘のセンライだ。構成の焦点は、賢いセンライと男前ではあるが単純なタクシードライバーのラチャニーが結婚できるかどうかである。チャンナがこの結婚に婿養子という条件を出したからだ。結婚の障害はオートバイ保管所の社長タマラによって取り除かれる。天上の乙女が地上に舞い降りるというマハサンクランの日の朝、タマラがチャンナに再婚を勧めたのである。「この険しく苦しい月日がいつまで続くのか分からない」けど「残ったもの同士お互いに力になって険しいこの世の中を乗り越えて」(229頁)行こうと語る農夫マカラの落ち着いたプロポーズをチャンナも受け入れ、母娘は同じ日の同じ時間に結婚式を挙げることになる。そして、この二人の結婚式は「シアヌークビル住民みんなのお祭りのように」(231頁)行われた。 チャンナがカンテン(カンボジアの伝統木造家屋)を準備してくれなかったことに機嫌を損なったラチャニーは、酒に酔いつぶれて寝てしまい、残されたセンライは「この役立たず」(232頁)と呟きながら長い初夜を一睡もせずに明かす結末の小さな騒動が実に愛らしい。この暖かい短編は貧しながらも高貴なシアヌークビルの民衆に捧げる最高の献辞であるだけでなく、韓国とカンボジアの間に架けられた最初の文学的架け橋と言っても過言ではない。

全成太(ジョン・ソンテ)の『狼』(創批、2009)は、全10話のうち6話がモンゴルを取材したモンゴル短編集である。「2005年の秋から翌年の春までの半年をモンゴルで過ごした縁」で書かれたこの作品集は「社会主義から市場経済へと移行したモンゴル社会」を「韓国社会を照らし出す鏡」(「作家の言葉」)として捉えているという点で(文学)運動の苦境からインドシナを思索した邦玄錫・劉在炫と似ている。文壇に登場(1994)して以来、農民文学/農村文学を追求し続けてきた土着派の全成太 が、遠くモンゴルへと目を向けたところを見ると、「喪服の脱げない喪主のように」 全成太「ヨンイの考え」(2001)、『国境を越えること』創批、2005、115頁。彷徨っていた当時の彼の姿が目に浮かぶようだ。農民文学の出口としてモンゴルを集中的に考察した『狼』が書かれるまで、予備的な試みもあった。「国境を超えること」(2004)は、その最初の試みと言えよう。カンボジアからタイへと移動する旅行に同行したパクと日本人女性のナオコとの情事を中心に、分断に同情する東ドイツ出身の日本留学生ヤンや韓日関係に関心の高い日本の大学生クロダとの退屈な会話を挿入したこの短編は観念を扱うにおいて未熟であり、まだ準備段階という印象を受ける。『狼』に収録された「川を渡る人々」(2005)は、「国境を超えること」に続く作品で、脱北の瞬間を捉えたものである。この短編の問題点は「中国僑胞(在中同胞)」(184頁)という言葉に集約される。「僑」とは仮住まいを表す。他郷/他国に住む余所者を指す「僑胞」という言葉の使用を今後は自制すべきであり、紛れもなく中国人である朝鮮族に対してはなおさら注意が必要であろう。「僑胞の男性」という言葉がしきりに使われているこの短編は、それゆえに現実味にかける。越境を過剰に意識したせいであろう。意味が強くなると声が死んでしまうというパンソリの金言はやはり名言である。

これらと比較して、モンゴル系列は換骨奪胎と言えよう。何よりも「南と北の漸移地帯(移行帯)としてモンゴルを捉え」 吳昶銀(オ・チャンウン)「空間の感受性と帝国の感覚」『侮辱された人々のための自由』、実践文学社、2011、99頁。た点が目につく。その重要な場所が「木蘭食堂」と「南方植物」の背景となっている木蘭食堂である。「平壌からやってきた若夫婦が直接管理」(75頁)しているこの食堂は「二年前に開店」(18頁)した。ソ連に次いでその支援を背に負い二番目に社会主義国家となったモンゴル人民共和国(1924)は早くに北朝鮮との修交(1948)を行った。ところが、1990年、旧共産圏国家の中で一番最初に韓国と修交したかと思えば、二年後には市場経済体制へと転換している。そして北朝鮮の去った場所は韓国によって埋められた。木蘭食堂は引き上げて行った北朝鮮の復帰であったが、それは勝利的なものではなく後退的なものであった。韓国の旅行客と在蒙同胞が主なお客であったこの食堂で起こる様々な出来事を生き生きと描いた「木蘭食堂」と「南方植物」は常時的な南北接触の実験室として漸移地帯に注目した最初の成果である。しかし、食堂を取り囲む外部の話が必要以上に長く、時には不自然な印象も受ける。例えば、十年前に民間特使として北朝鮮を訪れた後、自分のミスで北朝鮮の関係者が懲戒処分を受けたことにショックを受けて画業を止め、ウランバートルで暮らしている「木蘭食堂」の男性がその代表的な例であり、さらに、食堂を「分断商売」(18頁、76頁)と何度も強調しているところも木蘭食堂の複合的な生態とは少々合わないと思われる

「二度目のワルツ」もやはり漸移地帯としてのモンゴルの特徴がよく現われている。この短編の背景はウランバートルではなく、ソ連軍の開発した北部の都市ボルガンである。「彼らの去った1980年代の中後半の時間の中に閉じこもっている」ような「小さくて古い灰色の都市」(142頁)ボルガンで、韓国の小説家「私」が放送局の依頼により「北朝鮮のお婆さん」を訪れる過程の中で朝蒙関係の隠された宝石に触れることになる。1952年に北朝鮮の戦争孤児197人の面倒をみてくれたモンゴル政府の好意のお陰でウランバートルで育った彼女は1959年に帰国した。1985年に40代の未亡人であった彼女は薬師として再びモンゴルを訪れ、北部の炭鉱都市であるエルデネットに配属されて北朝鮮の鉱山労働者の世話をしていた。1992年のモンゴルの体制変化により北朝鮮の労働者は引き上げたが(132~33頁)、彼女は草原の牧師と恋に落ちてモンゴルに残ったのである。このエピソードと共に語られるモンゴル文学の状況もまた興味深い。民族を否定した親ソの人民文学に支配されていた社会主義の独裁時代、流刑地の砂漠で自由と祖国を詠った抵抗詩人の存在を語るエピソードも興味深く(136頁)、「聞かせる詩ではなく読まれる詩」(135頁)を主張する「Blue Sky」こそ新たな時代を代表していることを物語っている。モンゴルにもついにモダニズムが上陸したのである。物語の中の「私」はどうだろうか。「私は祖国という言葉に一種の後進性を感じ、それを打ち破りたい欲望から自由になれなかった」(140頁)。この曖昧な態度の中で、その時代のモンゴルだけでなく、漸移地帯としてのモンゴルの核心が精彩に把握されていない点が残念である。

この小説集の最高の短編は「中国産の爆竹」と「狼」である。解放以降、都市に溢れる浮浪児たちを韓国人牧師の視線で把握していく前者は、牧師と浮浪児の関係、そして浮浪児同士の葛藤を描く様子が非常に優れている。特に人民宮廷の広場に続々と集まって来た子供たちが除夜の鐘が鳴ると一斉に死んだ仲間たちの霊を慰める爆竹を打ち上げる結末が感動的である。広場にパトカーが近づくと「子供たちは爆竹が打ち上がる方へと向かって一層団結していった」(177頁)という最後の文章は実に絶妙である。この子供たちこそがモンゴルの未来なのだ。「中国産の爆竹」が市場の散文に抵抗する都市の詩ならば、「狼」は草原の詩と言えよう。野生の自由に捧げる浪漫的な賛歌ではなく、市場の進軍の中で破壊された自由を哀悼する弔詞なのである。その中心に草原の悪霊である黒狼が動きめいている。悪霊は悪霊を呼び起こす。この雄の狼に魅了された韓国人事業家、「聖なる天と大地と神々」(39頁)に立ち向かうこの老いた狩人は資本の悪霊である。資本の悪霊が草原の悪霊を追っかけるハンティングパーティー、晦日の夜の狩猟の宴会が物語の核心である。「晦日に殺される魂は暗闇を永遠に彷徨う」(42頁)ことになるため、晦日の殺生はタブーだ。草原に伝わる長年のタブーを破る資本のハンティングパーティーに、寺院も、村長のハサンも、村長の娘チムケも、カザフスタンの牧師カサルも、運転手のバイラクも、飼育員のチョルロンも、そして口の利けない女性ホワも一役買っている。そして黒狼の呪いは嫉妬に目の眩んだ老いた狩人が自分の愛する女性ホワを殺害する狂気によって終わりを告げる。作家は悪をただの悪として単純化していない。「草原を横切るアスファルト道路」や「その黒い舌」(38頁)の後について入ってきた資本の悪霊に草原は既に魅惑されてしまったからだ。そして、この呪われた魅惑をモンゴルの草原の詩として作り上げたこの短編の成果が、新たな形式による試みを通してなされたという点こそが貴重なのである。この短編は それぞれ違った六つのモノローグで構成されている。村長、寺院の僧侶、狩人、カザフスタンの牧師、口の利けないホワによる一人称の語りの後に続く、狼とチムゲとホワと狩人の短いモノローグと結末の三人称の語り、この緻密な配置により草原の詩は完結する。複数の「私」でありながら文体が単一なのが多少は気になるが、文学的な越境に相応する形式的な冒険として非常に意義があると思われる。自己が過剰な邦玄錫と自己が省略された劉在炫とは異なり、自己と対象の間に視的均衡を保っている全成太の「狼」は最高の成果と言えよう。

金衍洙(キム・ヨンス)の小説集『僕は幽霊作家』(創批、2005)は最も幅広い越境を見せてくれる。 空間的には英国(「あれは鳥だったのかな、ネズミ」)・中国(「プノンショ(不能説)」「伊藤博文を撃てず」)・米国/日本(「偽りの心の歴史」)・パキスタン(「またひと月歩いて雪山を越えたら」)、時間的には朝鮮後期(「南原(ナンウォン)古詞に関する三つの物語と一つの注釈」)・1888年(「偽りの心の歴史」)・日帝時代(「恋愛だと気付くと同時に」)・6・25戦争時代(「こうして真昼の真っただ中に立っている」)など、まさに古今東西を飛び回っている。それでいて中心となる軸も存在している。「あれは鳥だったのかな、ネズミ」はロンドンを背景としているが作中の話し手は日本人であり、「偽りの心の歴史」は朝鮮にやってきたアメリカ人が主人公であるから、結局、焦点は韓国を初めとするアジアに集中しているわけだ。邦玄錫・劉在炫・全成太が事実主義に基づいて、ベトナムやカンボジアやモンゴルを熱心に思索したとするならば、金衍洙は米国や英国や中国や日本などの大国を自由に行き来している。ところが、 金衍洙の異国的な空間と異質的な時間は実存の条件というよりも「世界を再構成しようという」 、金炳翼(キム・ビョンイク)「語ることのできない生のために」『僕は幽霊作家』解釈、252頁。 即ち見慣れたものを見慣れないものにする道具的な装置に近い。近代文学の追求する合理的な単一性の真実に亀裂を入れる複数の異本、又は代替歴史を想像する物語の戦略はこの作品集のキーワード「幽霊作家」に集約されている。幽霊になった作家とは近代的な作家の死と繋がるわけだが、この小説集はリアリズムからの自由を模索する金衍洙の(ポスト)モダニズムメタフィクション集になるわけだ。

モダニズムの(東)アジアはどのような形であるか、アジア人、又はアジアを背景とした幾つかの作品を見てみたい。ロンドンを背景に、若い日本人留学生と同棲中の三十代半ばの韓国人留学生である姉、そして夫に死なれ、その姉のところにやってきた妹、この姉妹の話を日本人留学生の「私」の視線で語る「あれは鳥だったのかな、ネズミ」は非常にペダンチックである。韓国人と日本人が出会った時に発生する歴史の陰などはすっきりと取り除かれたこの小説は、作家が考案した仮想空間の中での急進的な実験であり、ロンドンは国籍を中和する役割を果している。このような知的な仕掛けは実際の歴史を扱った「プノンシュ(不能説)」ではどのように現われているだろうか。この短編は延吉の住民であり中国銀行の前で十年間占いをしなから生活している老人「私」が韓国人の小説家に自分の武勇伝を語るという形で進行している。彼は内戦が終わると、再び「朝鮮戦争」に動員された40軍の戦士であった。砥平里戦闘で負傷した彼を救った朝鮮人の女性救護員との絶望的な恋愛の末、本人だけが生き残り捕虜として捕らえられた話を長々と語りながら「人間の体に記録」(70頁)された歴史だけが真実であることを強調している。作家は老いた戦士の言葉を借りて巨大な叙事を一気に書き連ねているが、この老人の話も偽りである可能性が高く、巨視的であろうが微視的であろうか、全ての歴史は冗談であることを宣言したようなものだ。しかし、この短編の知的仕掛けは「あれは鳥だったのかな、ネズミ」ほど成功的ではなかった。変形が過剰すぎたのだ。この老人のモデルは延辺の朝鮮族であるべきだった。朝鮮族であればぴたりと当て嵌まるのだが、最後まで韓民族の仮面を脱がせなかった。内戦に動員され、再び「朝鮮戦争」に参戦した話、特にその中でも帰還捕虜に対する社会的な村八分の話は歴史の中でも最も敏感なトラウマの一つと言えよう。解放以降、敵と仲間が随時入れ替わる現実の中で老人が感じた戸惑いにかこつけて、このような冗談プロセスを進めるのは延辺に対して失礼であるだけでなく、ポストモダンに対しても反則である。これに比べると、ボストン出身の探偵スティーブンスンがブルックスの依頼により朝鮮へ行ってしまった婚約者のダッチを探しに行く物語「偽りの心の歴史」は、19世紀末の太平洋両岸の風景を背景に日付変更線の秘密を鋭く捉えた秀作であると言える。受取人をブルックスにした七通の手紙で構成した点も、六通目の手紙の差出人の名前を変え、どんでん返しを準備する腕前もかなりのものだ。サンフランシスコから出発し、横浜、長崎、済物浦(ジェムルポ)を経由し、ソウルへとやってきたスティーブンスンの道のりに従って配置された手紙は、東アジアを眺める平均的なアメリカ人の視線をそのままリアルに語ってくれる。「南部を再建したように」世界の辺境を一つにする「偉大なアメリカ合衆国の時代を作り上げていく」(87頁)ことに疑いを持たない帝国主義者のスティーブンスンは、中国を軽蔑し、日本を無視し、そして朝鮮を侮辱する。しかし、依頼人の婚約者と結婚した後、ソウルで暮らし始めるスティーブンスンの冗談のようなどんでん返しで小説は終わる。作家は彼の変身談を通して「この世界は想像通りに構成」(103頁)されるというポストモダンを今一度確認させるだけでなく、「誰も完全な存在で日付変更線を超えることはできないのかも」(103頁)という余韻を残している。けれども、この妙な言葉はスティーブンスンのソウル定着が米国帝国主義の無意識的な完成であるかもしれないという反語を示すことはできなかったようである。

山岳遠征隊を取材した「またひと月歩いて雪山を越えたら」は、複雑な内心を描いた精巧な作品である。この作品の背景となっているパキスタンを「東南アジア」(113頁)としたのはミスである。さらに、卞(ビョン)府使を弁護する異本である短編「南原古詞に関する三つの物語と一つの注釈」においても再考すべき点が二ヶ所ある。一つ目は「キトゥンソバン(男妾)」(165頁)であるが、ソウルのキーセン(芸者)は有夫、つまりキトゥンソバンがいたが、地方キーセンは無夫であったため、南原のキーセンはキトゥンソバンがいない。二つ目は「母親のあとを継いでキーセンになることはあり得ない」(168頁)と言っているが、賎民の場合は従母法により可能である。 遠く離れた雪山で、「88年ソウル五輪」と変革運動の拮抗的な関係を、80年代の学生運動の不在という自意識に囚われた小説家「私」の視線でじっくりと反芻しているこの短編は、金衍洙の執筆の原点、そのポストモダンの起源がよく現われている。そして、その終点はハルビンを舞台とした「伊藤博文を撃てず」であろう。四十一歳の未婚の弟に朝鮮族のお嫁さんを迎えてあげようとするソンジェの憂鬱な北国の紀行を語るこの小説もやはり複雑な心境になってしまう。安重根(アン・ジュングン)の英雄物語を偶然的なものとして相対化しようとする彼の衝動とは、実は巨大な叙事に対する疑問である。人民に卑しい生き方を強要するあの多くの輝かしい革命は一体何のためのものだっだのか。「プノンショ」と同様に、中国は歴史と運動に対するこのような懐疑を正当化する普遍的な空間として使われているだけで、夜空を背景に「ソンジェの後ろに巨大な疑問符のように聖ソフィア教会堂の丸い屋根がそびえ立っていた」(202頁)という最後の文章は痛烈であった。その痛烈さは金衍洙の実験が世界の変化の可能性に対する予定された切望という突き当たりに到着したことを告げる象徴でもある。『僕は幽霊作家』はリアリストだけでなく、モダニストにも東アジアは出口であったことを見せてくれる。彼の試みは「私」の救援に集中しているという点においては邦玄錫と似ている。勿論、否定的なことばかりではない。彼らの開拓的な実験のお陰で、それ以外の模索を試みることもできるようになったからである。

 

3. 東アジア文学の意味

 

柳中夏(ユ・ジュンハ)によると、「東アジア文学」という用語が韓国で初めて使用された例は『転換期の東アジア文学』(林熒澤(イム・ヒョンテク)・崔元植(チェ・ションシク)編集、創作と批評社、1985)においてである。韓・中・日の国文学の近代的転換過程を取り扱ったこの著書は、先ず三ヶ国の国文学を一つにまとめて考えようとした点が目に付くが、そうした過程において自然と「東アジア」という用語が生まれたのである。最初の東アジア文学論となる林熒澤の序文を見てみると、彼は先ず「歴史上、 長い間漢字文学を共有した一つの世界」(3頁)であった東アジアが現在は「統一的に意識されていないだけでなく」お互い馴染みのない空間に感じられるほど遠くなってしまった点に着目している。中国は「最も遠くて不気味な所」として、日本は「民衆の無限の反感をあびる」国として象徴される東アジアの不自然な分裂を克服する道はどこにあるのか。「韓半島の分断線に張りめぐされた鉄条網」の結び目を解くことがその糸口と思われる。このような役割をまともに果すため、「東アジア世界に対する主体的な認識と有機的な理解」への水先案内の一貫としてこの本が書かれたという主旨が伝わる。1993年『創作と批評』春号特集(拙稿「脱冷戦時代と東アジア的な視覚の模索」)を皮切りに本格化した東アジア論の予告編と言えるが、東アジア文学論は、この東アジア論とコインの表裏のような関係にあるのだ。さらに、この序文で留意したいところは「中国文学と日本文学を、より主体的に密度濃く取り扱うことができなかった点」(4頁)に対する反省である。「西欧文学の周囲はぐるぐると熱心に回りながら、祖先から代々蓄積してきた知的伝統はほったらかしにした」せいで、レベルの高い我が国の中国(文)学の学的レベルが、近代以降、下降し続けている現状を叱責し、中国だけでなく日本(文)学に対する「科学的・体系的認識」の再考も呼び掛けているこの著書は東アジアの出現のための東アジアの学知の実質的な蓄積を促す先駆的なものである。

次に拙稿「東アジア文学論の当面の課題」(1994)であるが、「各自別々に考察されてきた韓・中・日の文学を一つにまとめて考えようとしたもの」 崔元植『生産的な対話のために』創批、1997、417頁。が東アジア文学論の出発であったことをより明確に示しているこの論文は、韓国/北朝鮮の文学と中国/台湾の文学を分けることにより「外見的には三ヶ国であるが、実際には五ヶ国の文学で構成」されている東アジア内部の複合性に注目した。資本主義と社会主義という体制が対称的もしくは非対称的に交差する韓半島と両岸、そして脱亜の道を歩んできた日本とその侵略の対象となったその他の国家など、これらを一つと見做せるのだろうか。この予想質問に対して「現存の社会主義」が「近代の克服でなく、実は社会主義の名を借りた近代性のもう一つの違った表現」という点で、そして日本もやはり「明治維新以降の日本社会の悲願が日本の独立」(418頁)であるという点で、三ヶ国でありながら五ヶ国である韓・中・日を一つと見做す訓練を本格的に実践していこうというのが主旨である。それと同時に「新たな地域覇権主義へと進む」可能性のある東アジア主義を警戒し、この「地域における米国とロシアの占めている現実性」を考えながら東アジアを柔軟的に想定しようと提案している。依然として東南アジアを見逃しているのは限界と言えよう。方法論にも触れている。「盲目的な近代追従」に基づいた帝国主義的比較文学論と「浪漫的な近代否定」に対応する内在的な発展論を横切る第3の選択肢として東アジア文学論を位置づける態度から見て、当時の東アジア文学論が批評的というよりは文学的接近に近いということを示している。勿論、現在とも繋がっている。東アジア文学論という視座が長期的には「この地域の根本的な平和」(419頁)を構築するのに役立つものであり、究極的には西道の黄昏を超える文明的な代案として世界史/世界文学に堂々と参加する可能性もあるからである。

柳中夏の「世界文学、民族文学そして東アジア文学」(『黄海文化』、2000年夏号)は、東アジア文学を世界文学/民族文学の橋渡しとして積極的に思索した論文である。つまり、分断体制論と東アジア論の接合を試みているのだが、その出発は中国と韓国の文学的変化である。「リアリズム独尊論に対する批判」(47頁)と共に独自的な時代区分を廃棄し、「20世紀の中国文学」というキーワードで「文学史の書き直し」が試みられる(46頁)解放以降の中国の文学界と、「民族文学(論)が従来構築してきた陣営の「内破」」(49頁)をベースにした新たな文学構図を模索する脱冷戦時代の韓国文壇に現われた同時性に注目したものである。体制の違う韓・中の文学を一つにまとめて考察する論拠を見つけた彼は、引き続き南北関係の解氷と台湾の民進党の勝利という劇的な変化に助けられて、分断体制と両岸体制を「一つに結びつけて見ることのできる視座」(53頁)の確保という新たな接近構図を提案するに至る。韓国/北朝鮮文学と中国/台湾文学という識別を一歩前進させた彼の論議は二つの体制を連関的に把握することにより東アジアにおける冷戦体制の終わりを夢見て、そのための文学的実践として「世界文学・東アジア文学・民族文学という三重の層」でなされた「設計図」の構築を要求している。白永瑞(ベク・ヨンソ)の「中国に「アジア」は存在するのか」(1999、東アジアの帰還、創作と批評、2000)という問いにも相通じる柳中夏の討論は、韓・中だけに集中しているという限界はあるが、韓半島を軸とした東アジア文学論が解決すべき両岸という新たな軸を喚起させたという意味において貴重なものである。

白楽晴(ベク・ナンチョン)は「世界化と文学」(2010)において世界文学と国民/民族文学の言説に基づいて地域文学としての東アジア文学という問題を投げかけている。「「文学の世界共和国」の不公平な構造に抵抗するために並外れた威力を発揮することができる」という判断に基づいて、「過去の儒教文明圏、又は漢字文明圏の遺産の相続者である中国、日本、韓半島、ベトナムなどの国民/民族文学」を地域文学の基本構成として見做している。 白楽晴『文学とは何か問い直すこと』創批、2011、103頁。現在としては非常に現実的である。不公平な構造の中でも韓・中・日の文学が他のアジア国家の文学よりは多少ましな扱いを受けており、地域文学を支持する物的土台も備えているため、地域文学が成熟するまでしばらくの間は、この基本構成が軸の役割を担当するしかない。それだけ「東アジアは欧州の地域文学や英語圏の地域文学に比べ、遥かに遅れをとっている」わけだが、「北朝鮮の孤立と窮乏」に代表される内部の格差もまた深刻である。従って、内部的には「あらゆるレベルでの東アジア連帯を積極的に推進することにより、格差を極小化するために努め」(106頁)ながら、「欧州中心的な「世界共和国」」を超え、「多極化された「連邦共和国」」の一つの軸として東アジアの地域文学の建設に参加すべきだということが要点である。(107頁)

古文を媒介とした東アジア共同文語文学が解体されて以来、ばらばらになっている東アジア各国の近現代文学を一つに集めてみようという試みから出発した東アジア文学論は、今、地域文学という目標をはっきりと意識できる段階に達した。土台は設けられたのである。東アジアは、もはや地域の生活世界と深く交錯しているのだ。しかし、この目標は、当為性と至急性に比べると、まだ宣言的に過ぎない。要求されるものは何か。文化が生活ならば、文学はそれを引き上げる意識であり、運動である。生活世界と運動の分離、又は大衆と知識人の分節を超えることが要点である。文化と文学の意識的な接合が切実に要求されるところであるが、先ず東アジアに対する我々の鈍感な感覚を目覚めさせることが最優先だ。ソロー(H. D. Thoreau)が重要視した「無意識的な生活の美しさ」 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『ウォールデン』、カン・スンヨン訳、イチョウの木、2011、77頁。 こそが全ての上部構造の内発的種子であるが、例えば、韓国人が、中国人が、そして日本人が国の国民であると同時に東アジアの市民であるという共感覚を持って初めて、東アジア文学は「鶯の鳴き声が盛りに一番美しいように」鄭芝溶(ジョン・ジヨン)「詩と発表」『鶯と菊の花: 鄭芝溶散文集』、李崇源(イ・スンウォン)編集、キプンセム、2011、318頁。出現するからである。このような意味で心にアジアの存在しない、「病膏肓に入る」のように「西欧」が膏肓に入ってしまった知識人/文人社会の意識変化が何よりも要求されるのである。東アジア文学は「世界文学」という旧体制を解体しながらも、アジアの目でそれを再調停し、受け止める共生の戦略であるからだ。

東学と西学の新たな出会いの上に構築される東アジア文学の到来を促すための共同作業において、多者協力を調停するアジア人の役割を果すべき韓国の作家たちの責任は非常に重い。実際、事大交隣の時代にも中国と日本に対する朝鮮の学知/文学は並々ならぬものであった。例えば、日本学の先駆である『海東諸國記』や中国を思索した最高作『熱河日記』などが思い浮かぶ。国家理性的な接触の無味乾燥な記録となりやすい燕行録と海槎録形式の使行文学、このような限られた領域の中で優れた両作品が出現したこと自体が驚くべきことである。ところが、脱中華と相まった日本帝国の東アジア侵略による相互否定の交換の中で、近代以降中国と日本に対する韓国の学知と感覚は、むしろ貧弱になってしまった。日本への留学生が幾ら多くても、日本をまともに取り扱っている作品は非常にまれであり、中国文化に慣れた知識人のあれほど多くの亡命にも関わらず、中国を背景とした作品は殆んど見られない。 勿論、その逆も成立する。大岡昇平の『野火』(1952)は、フィリピンの民衆の苦痛よりも自己憐憫の形而上学に傾いており、井上靖の歴史小説『敦煌』(1959)は、中国を借りて戦争に動員された自己弁証に陥っている感がある。戦争を省察する日本の戦後文学の代表作に現われている東アジアの認識の限界を思うと、1949年以降、長期間の隠遁を経て、外出が始まったばかりの中国文学の事情も然程変わらないだろう。 韓国が冷戦時代を体験しながら一層悪化してしまったアジア忘却というものを考えると、脱冷戦の流れの中で2000年代の韓国文学がこれほどの文学的越境を成し遂げたのは小さな奇跡と言えよう。

それだけ民族民衆文学から派生された文学の危機が迫っていたということである。危機は韓国文学の脱境界化を促した。即ち東アジアは韓国文学の非常口であったのだ。危機が機会となったわけだが、これを基に新たな道しるべを意識する必要がある。先ず中国と日本を取り扱った作品が殆んど見られないという点だ。中・日を一気に結びつけることは簡単ではないが、この世界史的な国家に対する文学的把握は重要なポイントである。韓半島の21世紀を決定する運命と繋がっている点だけでなく、この両国を探索する作業自体が我々の中のアジアを目覚めさす楽しい旅行であるからだ。また、東南アジアが「東アジア」と釣り合うためにも、当然多大な配慮が必要である。多者協力に欠かせない実用性は勿論、東北アジアを相対化する多くの源泉を豊富に有しているからである。インド/欧州と関係の深い東南アジアは、中国/米国に傾いている東北アジアと興味深い一対をなしている。東南アジアと東北アジアを鑑とした時、両者の間を媒介する台湾や沖縄のような部分国家、又は独特な地方の意義が東アジア全体の文脈の中で一層鮮明になるという利点も忘れ難いだろう。最後に美学問題を疎かにしたことを反省したい。東アジアを新たな文学的意味として再創案するためには、その共感覚を具現させる新たな形式実験が重要視される。全成太の「狼」のような試みが一層活発化し、東アジアの美学として構築されるならば申し分ないだろう。

早くにポストモダンの襲撃を受けた日本文学は勿論のこと、解放の衝撃の中で混同された中国文学も、あらゆる危機に陥った条件も、東アジア文学にとって「禍を転じて福と為す」結果となった。韓・中・日の文人たちの出会いが始まったことや文学の危機が幾重にも重なったことが示しているように、 西欧文学への片思いに疲労が溜まり始めた韓・中・日の国民文学の状態が、むしろ脱境界の対話を促す機会を提供したわけである。読者が自国文学に偏ってしまい、なかなか他国の、特に隣国のアジア国家に興味を持たない日本もそうであるが、このような「ガラバゴス症候群」に陥っているのは中国も韓国も同様であるため、東アジア文学という多者協力の場が開かれたこと自体が希望的な兆しであるのだ。双務的でなく、多者間の関係として進んでいくとは何を意味するのか。それは何よりも先に東アジアという地域を一つの文学的な場所として設定するという意味である。ガラバゴス現象を乗り越え、東アジアを思索するということは、運動するということ、つまり世界的な代案の可能性としての東アジアの到来のために、それぞれ又は共に進んでいくことを言うのである。

2011年はチュニジアのジャスミン革命(一月)によって触発された「アラブの春」から始まり、福島(三月)を経て、帝国の心臓部で起こったお祭りのような占領デモで沸き上がった「アメリカの秋」で締めくくっている。青年層の不安と怒りによる全地球的な反乱の拡散により、今や世界は大転換の初期段階に入ったかのように、新たな世界の到来が予想される。東アジアの責任は決して軽くはない。古びた「世界文学」を更新する分権の創造的な場所として選択される東アジア文学の建設の意味を心に刻みつけよう。意義を立てることは成功への近道である。東アジアの作家たち、特に韓国の作家たちの強い自覚がいつにも増して切実に求められているのだ。

 

翻訳: 申銀児


季刊 創作と批評
2011年 冬号(通卷154号)
2011年 11月1日 発行

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