창작과 비평

教育の2013年体制を作ろう

2012年 春号(通卷155号)

 

特輯_2013年體制議論の進展をために

 


李基政  ソウル北工高__師。著書として『__育をとる者が大__をとる』『__語勉__のパラダイムを__える』『__申制度を__えれば__校が生きる』『__校改造論』などがある。gaedong11@naver.com

 

 


何を、どれほどなしとげるのか

 

 

国民が教育の2013年体制 「6月抗争によって韓国社会が一大転換を成し遂げたことを『87年体制』という概念で表現するように、2013年以後の世の中もまた、別個の『体制』と呼べるほど、もう一度大きく変えてみようというのだ」(白楽晴「『2013年体制』を準備しよう」、『実践文学』2011年夏号、363頁)。胸に響く言葉である。私たちの社会は87年にそうだったように、もう一度大きな変換を成し遂げねばならない。

そして、そこで教育は核心的な位置を占めなければならない。実際、「87年体制」の教育分野では、社会の他の分野で起きたほどの大きな変化は起きなかった。そのため、教育に対する国民の不満は極めて大きくなった。今私たちがつくっていくべき教育の「2013年体制」では、教育の「87年体制」でできなかったことまで一挙に実現すべきである。もちろん、それだけにより難しい課題となるだろう。に要求する課題があるとしたら、それは何だろうか。入試中心の教育を変えること、私教育[公教育である学校教育以外の予備校や学習塾、家庭教師、習いごとの総称で、高額の費用がかかる]問題を解決すること、崩壊していく学校の教室をよみがえらせること、この三つではなかろうか。入試と私教育、そして、学校崩壊はこの間(小・中等)教育に対する論議で絶えず繰り返されてきたテーマだった。これらは明らかに韓国の教育の最も深刻な問題である。それなら教育における2013年体制は、その解決を離れては成立できない話になるだろう。そして、わが社会全体の2013年体制もまた教育部門の画期的な改善なしには、その成功を語りえないだろう。ところで、惜しむらくは、私たちはこの問題の完全なる解決を目標とすることはできない。それは不可能なだけでなく、過度な目標設定は誤った政策、誤った実践へとつながりうる。私たちは目標を冷徹に限定しなければならない。

 

・入試教育の問題

 

入試中心の教育の最も大きな問題は、教育の偏狭さである。 入試教育から派生するもう一つの問題は、私教育の問題である。とはいえ、これは独立的に検討すべき課題である。そこで、ひとまずこの部分では、入試教育の偏狭さ(正確には学校教育の偏狭さ)という問題についてのみ考察しようと思う。この問題の解決は自然に私教育問題の解決にも繋がり得るだろう。私教育問題の相当部分が学校教育の偏狭さから由来するためである。注入式の教育、暗記式の教育、創意力を抹殺する教育などとよく言われるものである。こうした入試教育の偏狭さから脱皮すること、この課題で私たちの戦略的目標はどこまでであるべきか。入試問題で頭を悩ます私たちに「入試の廃止」は魅力的な誘惑とならざるをえない。どれほどすっきりしていて単純なことか。もちろん、入試廃止を明快に主張する人は少ない。だが、心の片隅でそれだけが入試問題の根本的な解決策だと考える人は多い。彼らの目にはこの文書で提示するすべての政策がつまらないように見えるだろう。しかし、入試の廃止は現実的に不可能である。いや、それが可能か否かを離れ、望ましいものではないだろう。

社会が発展しようとすれば、すべてのところに人材を適切に配分しなければならない。だが、人々はみなお金と権力と人気があるところに行くことを望む。こうした人間の本性のために、人材の配分をめぐる社会的葛藤は必然的である。この葛藤を最小化して社会統合を維持しようとすれば、社会構成員が承服しうる何らかのルールが必要である。この時、試験という手段がそのルールとしてそう悪いわけではない。特に大学進学段階の人材配分の過程では、試験が最小悪の方法でありうる。大学進学の段階で、試験ではない他の方法を通じて人材を配分するのは、より大きな悪を招きうる。

大学進学は、人材の社会的配分が本格的に進行する事実上最初の過程である。高校平準化を通じて、高校入試は廃止すべきだが、大学入試はその必要性をある程度認めざるをえない面がある。もちろん、大学進学というただ一度の過程で人生のあまりにも多くのことが決定されるのは誤りである。これは明らかにわが社会が解決すべき宿題である。とはいえ、それは入試の廃止ではない、他の方法を使って解決すべきである。「敗者復活戦」が広く存在し、個人が獲得できるお金と権力と名誉の格差が合理的な社会を作ることを通じてである。

大学入試は一種の必要悪である。完全な廃止は不可能であり、望ましくもない。だから、私たちの教育政策は大学入試の廃止が少なくとも近い将来には不可能だという前提の下に立てざるをえない。つまり、大学入試が存在する状況で入試教育の弊害を克服すべきなのだ。入試との妥協は不可避である。ここで私たちも戦略目標は「半分の解決」にならざるをえない。もちろん、残りの半分に対する討論と部分的な成果もともに実現すべきである。ところで、学校は入試教育の偏狭さを相当部分克服していけるのか、半分の解決は可能なのか。

よく入試教育という言葉でまとめて話されるが、その中にも多様なレベルの教育が存在しうる。説明の便宜のために1次元、2次元、3次元、4次元の教育が存在すると仮定しよう。4次元以上の高次元的教育は入試を越えてこそ初めて可能であり、入試にしばられる限り、私たちが到達しうるのは3次元教育までと仮定しよう。

ところで、大韓民国の学校教育は果たして何次元の教育だろうか。3次元的な入試教育をしているのか。それで、今や4次元的教育に発展しなければならないので、入試の廃止が切実に必要なのか。あるいは、私たちは3次元どころか、2次元にも到達できないで、1次元的教育に留まっているのではなかろうか(ここで1~4次元というのは、教育がうまく行っているか、行ってないかを分かつ言葉ではない。1次元教育にもうまくいく教育といかない教育が、4次元教育にもうまくいく教育といかない教育がある。ここで語るのは教育の基本の枠組、つまりパラダイムである)。

便宜上、試験をもちいて説明してみよう。大学入試には三種類の試験が存在する。学校試験(内申)、大学修学能力試験、大学別考試(論述)。この中で、原論的側面から最も価値のあるのは学校の試験である。実際、多くの人が当為的にそう考える。しかし、試験自体で見る場合、三つのうちでレベルの低いのが学校の試験である。批判も問題も多いが、最もレベルも高いのは大学別考試である。つまり、1次元は学校の試験、2次元は大学修能試験、3次元は大学別考試、そうした図式化が可能である。 現在の論述試験内容は、はたして十分なものだろうか、もっといい問題を提出できないのか、ということは別途に検討すべき問題である。ここで重要なことは、論述試験のパラダイムが学校の試験のパラダイムより遥かにレベルが高いという点である。もちろん、大学の論述試験はあまりにも難しい場合が多いが、ただ出題の難易度のためにレベルが高いというわけでは決してない。

教育的側面で最も価値ある学校の試験が最も低次元というのは、大きな問題である。学校の試験は1980年代に存在した学力考査と似たようなレベルで問題が出される。学力考査は修能試験より断片的な暗記の知識がはるかに多く要求される。与えられた教材を覚える単純な性質が最も必要な試験である。創意的な思考力は特に要求されない。教師は教材の内容を生徒に一方的に説明し、生徒は座って聞くだけの授業に最も適した試験である。だから、生徒を最も受動的にさせる試験であるともいえる。教科書や教材からそのまま出題され、生徒は幅広い教養習得のために努力する必要を全く感じないようになる。 拙著『内申を変えてこそ学校がいきる』、未来人、2008年、61頁。こうした学校の試験のパラダイムは80年代の学力考査のパラダイムと極めて類似する。

試験は授業と密接に関連する。学校の試験の基本パラダイムが1次元的と言うのは、学校の授業の基本パラダイムもまた1次元的であることを語っている。もちろん、例外はある。一部の教師の英雄的な努力によって入試の枠を超えた授業が進められたりもする。だが、そうした授業は主流ではなく、永遠に主流にはなりえないだろう。今の制度と環境で、そうした授業は持続と拡散が不可能だからである。このままなら、今後も学校の授業の主流は1次元パラダイムの授業にならざるをえない。

結局、わが国では学校と塾を通じて入試授業を超える高次元的な授業は存在できない。塾は基本的な性格上、両足をすべて入試に置かざるをえない。しかたなく入試に片足をのせるが、それでも他の足は入試を越えたところに置くのは、学校の授業でのみ可能である。ところで、今の学校の授業は高次元的パラダイムどころか、1次元的授業に両足を置いているのだ。

学校の授業がその片足を入試にかけざるをえないなら、それは修学能力試験や大学別考試でなければならない。ずっと以前に廃棄処分された80年代の学力考査パラダイムの試験に足をかけてはならない。今後学校の授業がその片足を入試(大学修能試験と大学別試験)にかけるが、他の片足は入試を越えたところに向かうようになるなら、それは私たちの教育に大きな発展となるだろう。そして、現実的に私たちが成しうることはそこまでである。

 

・私教育の問題


入試教育と同様に、私教育問題また半分の解決が目標とならざるをえない。私教育繁盛の原因のうち半分以上は教育外的なところから始まる。わが社会の構造と文化が私教育の繁盛をもたらす重要な原因なのである。したがって、社会の構造と文化が変わらない限り、私教育問題の完全な解決は不可能である。私教育の完全な解消は2013年体制の成功によらざるをえない。もちろん、私教育繁盛のもう一つの原因は学校教育にある。したがって、私たちは学校教育を改革することで、私教育問題の一部を解決することができる。結局、半分程度の問題解決、これが私たちの戦略目標である。

学校教育が私教育問題を招いた理由は何か。

第一に、前述したように1次元的パラダイムの学校の授業は修能試験と大学別考試に大した助けにはならない。それで、生徒と父母は入試の準備を塾に依存せざるをえない。これは、単に教師が現在の方式で授業を一生懸命にすることで解決できる問題ではない。教師が授業をいくら一生懸命にやっても、それが1次元的パラダイムに留まるならば、相変わらず授業は修能試験と特に大学別考試に大した助けにはならないだろう。 この問題を解決しようとすれば、結局学校の試験と授業のパラダイムを変えねばならない。これは幸いにも入試の論理と背馳しない。学校の授業のレベルを高めることが入試と背馳するものならば、成功は難しい。しかし学校の授業のレベル向上が入試の準備にも利益をもたらすならば、成功は難しくない。学校の授業を第二次、第三次次元まで高めるのは入試の準備にも直接的な利益をもたらすのである。

第二に、学校の授業のパラダイムを離れて、学校の授業自体が不十分である。授業のパラダイムも重要だが、その枠内でうまくやるか、やらないかも重要である。学校の授業は大抵の場合、塾に比べて極めて不十分である。学校の崩壊や教室の崩壊という言葉が出てくる現実である。

第三に、学校の授業は生徒の能力とレベルを考慮しない。学習速度が速い生徒が自分の能力に合わせて勉強するのは、学校では不可能である。もちろん、学習速度が遅い生徒が自分のレベル通りに勉強するのも不可能である。結局、学習速度が速い生徒が自分の力量に合わせて勉強しようとすれば、私教育に依存せざるをえない。学習速度が遅い生徒も学校の授業から落後するまいと思えば、私教育に頼らざるをえない。

こうした問題が解決されるなら、生徒の私教育依存度は著しく減るだろう。

 

・学校崩壊の問題

 

学校の没落や教室の崩壊という言葉が登場してから長い歳月が流れた。状況は少しずつ悪化している。もちろん、偏差はある。小学校よりは中・高の教室がより深刻である。女子生徒の教室より男子生徒の教室がよりひどく崩壊している。ソウルの場合、江南よりは江北でその程度がひどい。このように多様な事情はあるが、その基本的方向は学校の教室が崩壊していくということだ。

授業が崩壊すれば、授業のレベルを問題にすること自体が贅沢である。授業自体が成り立たないのに、低次元か高次元かを問うことに何の意味があるのか。入試教育か、入試教育を超えるか、を問うことに何の意味があるのか。結局、教室が死んでいく状況は教育の他のどんな問題よりも重要である。したがって、学校の授業を蘇らせることだけは半分の成功を目標としてはならない。学校の授業が蘇えることなしには、すべては失敗するしかない。そして、教室の崩壊は全的に学校から生じた問題である。社会の変化を待たずとも解決可能な問題なのである。

教育の2013年体制は、教室を完全に蘇らせる時に成立可能である。ここで私たちの戦略的目標は、半分の成功ではありえない。私たちの目標は学校の授業を蘇らせる完全な成功でなければならない。

 

 

学校教育を変える諸政策

 

 

入試教育と私教育、学校崩壊の問題をどのように解決すべきか。それぞれの問題に対するそれぞれの解決策を立てなければならないのか。もし、そうすべきだというなら、あまりにも複雑で難しいことになるだろう。だが、この三つを貫通するものがある。学校の無能という問題である。入試教育と私教育問題は相当部分が学校の無能に由来し、教室崩壊は全的に学校の無能のためである。

ここで言う学校の無能は、教師個々人の無能を言うわけではない。学校教育の制度とシステムと文化の無能を言うのである。もちろん、今の教師がすべて有能だと主張するわけではない。今の学校ではいくら有能な教師でも、到底どうすることもできないのである。3次元的な授業をできる教師も1次元的な授業しかできないし、卓越した才能をもつ教師も塾の講師より劣った授業をせざるをえないのだ。問題解決の核心は、学校が有能にならなければならないということだ。学校が有能になろうとしたら、どうすべきなのか。

問題が深刻であればあるほど、人々は万能の解決策を願うものだ。様々の問題を一挙に解決できるマスター・キーのような政策が存在するなら、どれほどいいだろうか。だが、不幸にもそうした解決策は存在しない。ともすれば、数十個の政策を体系的に実行してこそ、問題をある程度でも解決することができるだろう。もちろん、すべての政策が同じような効力を発揮するわけではない。波及力が相対的に大きい政策は存在する。ここでは、その中でも最も効力が大きい三つの政策、「ビッグ3」について述べる。

 

・中学・高校の無学年単位制段階別授業

 

生徒は各自、学習する能力と速度が異なる。学習に対する意思も大いに異なる。大韓民国の学校はこれを完全に無視する。大部分の生徒にとって、これは悲劇である。特に、学習速度が遅い生徒には恐ろしい悲劇である。学校が一方的に提供する授業についていけなければ、それで終わりである。学校はそうした生徒の面倒をみない。面倒をみること自体が、事実上不可能である。 我が国の学校教育の最も大きな問題点は、生徒の学習能力と学習速度を少しも考慮しない画一性にある。市民のマラソン大会を考えてみよう。全員がフルコースを目標にしなければならないのではない。フルコース、ハーフコース、10㎞など様々な段階がある。時には、5㎞の段階も存在する。我が国の学校教育は、こうしたマラソン大会の精神を真似るべきである。なぜ全生徒がフルコースを目標としなければならないのか。自らの力量に合った段階でやめることもできるのではないか。

多くの生徒にとって学校の授業はうんざりで、難しく感じられる。例えば、数学の場合が特にそうである。 学習能力を考慮した段階別授業の必要性が最も大きな科目は数学だと思う。数学の次は英語、その次は科学(その中でも物理と化学)ではないかと思う。体育と芸術(音楽、美術)の場合は、段階別授業をする必要性は全くないだろう。段階別授業の必要性は高校で最も大きく、中学校はその次になるだろう。小学校まで段階別授業を導入する必要はないだろう。全体的に小学校では現在の学級、学年体制を維持するのが望ましいと思われる。だが、わが国はすべての生徒が数学を全く同じ高い段階まで勉強しなければならない。数学に興味を失った生徒は授業時間に寝たり、雑談で時間をつぶさざるをえない。そして、生徒が寝ようと騒ごうと、学校の授業は彼らに配慮できない。制度がそのようになっている。教師の能力や慈悲の心が足りなくてそうなるのでは絶対にない。

とはいえ、先進国では生徒の学習能力と速度を相当部分考慮する、オーダーメイド型の授業が基本形態である。フィンランドの高校の場合だけとっても、授業は学年制ではなく、単位制で行われる。生徒は自分の能力を考慮して選択した教科の単位を取得すればいい。例えば数学の場合、最低6単位、最高11単位を取得するようになっており、数学に自信のない生徒は相対的に内容が平易な6単位だけとってもいい。要するに、能力と必要に合った授業が制度的に保障されるのだ。その上、固定された学年体制が存在しないので、卒業も学習速度が速い生徒は2年で、遅い生徒は4年かけてもすることができる。生徒の能力に合わせた授業が基本であり、生徒が自分の事情を考慮して卒業の時期まで自由に選択できるのである。 福田正治『フィンランド教育の成功』、ブックスヒール、2008年、95頁

小学校まで無学年単位制の段階別授業を導入する必要はないだろう。しかし、ここでも生徒の学習能力と速度を最大限考慮するのが正しい。ただし、小学校の場合、それが現在の学年・学級制度の中でなされるのがベターなだけだ。もちろん、これもまた学級当たりの生徒数が画期的に減らされてこそ、可能なことである。

この制度は、一方で私教育を誘発しうる。高い段階の学校の授業に早く到達するための私教育が存在しうるのだ。しかし、私教育を減少させる要因はさらに大きい。公教育において今より早い速度の勉強が可能であれば、わざわざ私教育を通じて先行学習する必要性は減る。無理に高い段階の学校授業についていくための私教育も必要でなくなりうる。何よりも学校の授業が正常化されることで、生徒が私教育に依存する理由がなくなる。

この制度は、学校教育の革命的変化のために絶対に必要である。この制度が政策的に導入されずして、学校教育が私教育との競争で十分な競争力をもつことは不可能である。単に学校教育の質的レベルを今よりかなり向上させることが目標なら、他の政策だけでも可能だろうが、私教育との競争まで念頭に置くなら、この制度の導入は絶対に必要である。

これなしに、学校授業の次元を高めるのは非常に難しい。今の内申制度においては教師が授業と評価に対し、すべての権限をもつことができない。だから、高次元の授業ができる能力と意志をもっていたとしても、低次元の授業に留まらざるをえない。無学年単位制が施行されると、教師は授業と評価に対して完全な権限をもつだけでなく、高次元的パラダイムの授業ができるようになるだろう。こうした教師がだんだんと増えていき、彼らの授業が当然の常識として受け入れられる時にはじめて、学校教育の次元は高くなれる。

この制度の波及力は非常に大きい。だが、他の制度に比べて、導入するのは非常に難しい。何より今の学校内申制と全面的に衝突する。今施行されている内申制の特徴は、すべての生徒に画一的な教育課程を強制し、一列に整列させるというものだ。ところが、無学年単位制の段階別授業が施行されれば、このような方式は不可能になる。これは私たちの現実で内申制自体の無力化につながる危険が存在するため、多くの反発を招きうる。先進国の場合も、大学進学において学校の成績はかなり重要である。だが、わが国の学校のように画一的な授業と試験を通じて生徒を整列させない。かなり難しいだろうが、私たちもこうした道を進まなければならない。

わが国では、試験で整列させる形態を強く批判する人々が、現在の内申制を擁護する場合が多い。進歩陣営の相当数がそうである。これは論理的に矛盾する。しかし、そうした人たちが多いのは私たちが直面した厳しい現実である。現在の内申制においては、教師が授業と評価に対して全的な権限をもつのは事実上不可能にもかかわらず、教師に完全な評価の権限を与えるべきだと主張する人の中に、現在の内申制を強化しなければならないと主張する場合が多い。これもまた、論理的に矛盾している。

進歩陣営が現在の内申制を擁護する理由は、不平等の緩和効果に注目するからである。学歴が高い江南の学校の一番と学歴が低い江北の学校の一番が全く同じ待遇を受ける。これは明らかに学校間の不平等を緩和する効果をもたらす。とはいえ、前述したように、現行の内申制は学校を無能にする主要な原因である。学校が無能になればなるほど、入試に対する私教育の影響力が大きくなり、これによって学校内の不平等は深化する。同じ学校でも貧富の格差は極めて大きい。学校が無能なら、内申制の不平等緩和効果を私教育の不平等の深化効果が圧倒するようになるのだ。

無学年単位制の導入が成功するためには、他にいくつかの制度を伴わねばならない。まず、高校平準化の制度を拡大し、強化すべきである。標準化地域を拡大し、既存の特殊目的高等学校と自立型私立高校などは、原則的にすべて一般の高校に転換すべきである。無学年単位制の段階別授業が施行されれば、現在の内申制は廃止され、新しい制度が施行されねばならない。前述したように、これはわが国の現実では内申制自体の無力化につながり得ることで、特殊目的高校と自立型私立高校の存在は、こうした可能性を一層高める。そして、特殊目的高校と自立型私立高校があると、とにかく高校入試も存在するので、これは中学校で無学年単位制を施行するのに大きな妨害要素になりうる。 無学年単位制の段階別授業が成功するには、高校平準化は強化され、特殊目的高校は原則的に廃止されるのがいい。とはいえ、高校平準化政策は無学年単位制のためのものではない。高校平準化の拡大強化は、それ自体で意味がある。私は以前、大学の入試を必要悪だと語った。やむなく存在せざるを得ないが、教育を偏狭にするので、そのように語ったのである。入試をなくすことが可能ならば、なくすのがよい。だが、大学入試はなくすのは可能ではない。高校入試は高校平準化を通じていつでもなくすことができる。なにより、高校平準化に対する社会的合意は十分に形成されたと見るのが妥当である。

次に教科書の自由発行制と自由選択制が施行されねばならない。 現行教科書の大部分を占める検定教科書を認定教科書へと完全に転換し、その基準を伸縮性あるようにすることもよい方案足り得る。この場合、教科書発行の進入の門を大幅に低くすることが重要である。一般の単行本を刊行することより特別に難しくないようにすべきだ。むしろ政府の支援を通じて教科書の発行を一層簡単にすることも考えるべきである。無学年単位制の段階別授業を成功させようとするなら、学習能力を考慮した多様な教科書が存在しなければならない。そして、教師は自らの授業パラダイムに合う教科書を自由に選択できなければならない。だが、今の教科書は種類は多いが、実質的には千篇一律である。ある科目の場合、20余種類もあるのに、調べてみると、似たり寄ったりに思われる。そして、学校レベルでは教科書の選択権があるのに、教師個々人には選択権がない。それで、今の教科書制度は学校の授業を画一的にする、一つの重要な原因である。

 

・クラス当たりの生徒数を20名に削減

 

高レベルの授業が可能になるには、クラス当たりの生徒数を画期的に減らさなければならない。これは過渡期を経ることなく、一気に先進国レベルにすべきである。クラスの生徒数を20名以下に減らせば、学校の授業は大きく変わるだろう。

生徒数を減らそうとする時、直面する問題が2つある。一つは教室の不足であり、もう一つは教師の不足である。クラスの生徒数を20名に減らそうとすれば、今より70%程度増しの教室と教師が必要である。

教室の不足を解決する方法は簡単である。それは現在の教室一つを半分にして二つにするのだ。これはクラス当たりの生徒数を次第に減らしていくより、物理的にもはるかに容易である。なぜか。一クラスの生徒数を25人に減らすとしよう。こうした方針を立てた学校には教室が今より平均30~40%ほど多く必要である。どのように供給するのか。この場合も教室一つを二つに分けて25名のクラスを作る方法が考えられる。とはいえ、今の半分の教室は25人が生活するにはあまりにも狭い。教室内に線を引いて机を配置してみれば分かることだが、25個の机を置く場合、計算がうまく成り立たない。二つの教室を三つにしようという意見がありうる。しかしそうすれば、教室のすべての壁を壊す大工事をしなければならない。学校の教室をすべてぶち抜き、教室二つを三つにする工事をすると考えてみよう。学校はすっかり工事現場になるだろう。費用も莫大だろうが、何よりも数カ月ほど休校しなければ完成しがたい工事である。教室の数を大幅に増やす方案も考えられる。この場合、二つの方法があるが、一つは運動場に建物を新築する方法で、もう一つは現存の建物の階数を高める方法である。二つとも賢明な方法ではない。費用も費用だが、やはり学校が一年中工事中とならざるを得ない。特に、学校の運動場がなくなるのは望ましくない。運動場はできるだけ現状のまま維持し、生徒だけでなく地域住民も利用できるようにすべきだ。こうした副作用を甘受するならいっそのこと発想を画期的に変え、クラスの生徒数を一挙に20名以下に削減するのが望ましい。 拙著『教育を把握する者が、大権を把握できる』、人物と思想社、2011年、40頁。

これに比べ、教師の不足は解決がかなり難しい。もちろんお金が無限にあれば簡単である。30万名ほどの教師を新規に採用すればいい。だが、それぐらいの教師を増やそうとすれば、毎年十何兆円の予算が必要である。ともかく政府の負担が大きい。国家予算は限定されている。どうすべきだろうか。次の三つの方法で、その負担を分散させればいい。

第一に、生徒の授業時間を20%ほど減らす。クラス当たりの生徒数を20名以下に減らせば授業の質ははるかによくなる。相当数の教師は授業のパラダイムまで変えるだろう。だから、教室の生徒数が画期的に減れば、生徒は授業時間が減っても今よりもっと多くの知識と知恵を習得できる。授業時間を減らしても授業の質の向上が、それを相殺して余りあるのだ。

第二に、教師の授業時間を20%ほど増やす。教室の生徒数を減らせば、教師は授業するのが今よりひときわ楽になる。同じ授業でも労働強度は顕著に緩和するのだ。そうすれば、政府は教師に労働強度の緩和という利益を提供するかわりに、労働時間の延長という負担を要求できる。一種のビッグディールである。

第三に、10万名の教師を新たに増員する。現在の教師数の約25%ほどである。新任教師の増員費用は約4兆ウォンと予測される。4兆ウォンの教育予算が増加することで、大韓民国の教育インフラは先進国レベルに跳躍できる。

 

・教育中心の学校制度の構築

 

学校の基本制度と運営を見ると、学校は教育機関ではないように思われる。学校の基本制度は教育外的な業務 教育外的業務の公式別称は、教務行政業務である。よく雑務と呼ばれる。私はこの間、拙著でこれを事務行政業務と呼んできた。病院の総務課や国会の事務局にあたる仕事と考えれば容易に理解できるだろう。医者の患者治療が教師の教育活動に該当するなら、病院の総務課がする仕事は教師の教育外的業務に該当し、議員の立法活動が教師の教育活動に該当するならば、国会事務局の仕事は教師の教育外的業務に該当するだろう。ところで、高等学校の国語教師である筆者は、学校に出勤すれば「国語科」で勤務するのではない。2012年に私は「体験活動部」に出勤した。他の教師もすべてそれぞれの業務部署に出勤して勤務する。医師が病院の総務課で、国会議員が国会事務局で勤務するとすれば極めて異常に見えるだろう。だが、それと似たようなことが学校では当然と見られている。を中心に構成されており、教育外的な業務が教育の上に君臨している。校長、教頭への昇進も、教育外的業務により多くの情熱を注いでこそ可能である。学校の制度が教師を、教育よりも教育外の業務に、より多くの情熱を注ぐようにさせているのだ。

この間、この問題は学校教育を滅ぼす主要原因として絶えず指摘されてきた。しかし、これが多くの国民には単に教師の業務を減らす問題としてのみ認識された。長い休みがあり、退勤も早い教師の仕事をもっと減らす必要があるのか、という反発を少なからず呼び起こしてきた。私がこの政策を主張しながらいつも感じるのは、やはりフレームの力は強力だということである。重要なのは、単に教師の業務を減らすことではなく、学校の基本制度と文化を教育中心に変えることなのに、一度論議が始まると、いつも業務軽減のレベルに還元されてきた。「教師の業務軽減」というフレームは、今も人々の思考を強力に支配している。とはいえ、強調しておくが、業務の量を減らすよりもっと重要なことは学校の基本的な運営制度と文化を変えることである。そのために教師の教育外的業務全体を、別途の組織に移転すべきである。

この政策は教員の「成果給」制を廃止し、その「成果給」を業務専任職員5万名の雇用に必要な予算として使用するなら、簡単に施行できる。教員の「成果給」は一兆ウォンをはるかに超える。業務専従職員5万人程度を雇用できる金額である。もちろん、これは教師の貴重な生活資金である。だが、教員の「成果給」制が呼び込んだものは、教育をより良くするための生産的競争ではなく、「成果給」をめぐる消耗な葛藤である。むしろなくすことが教育にはより望ましい。このお金で業務専従職員を採用すれば、教師は雑務から解放されて教育に専念できるし、学校の基本制度と運営を革新することができる。だから、学校教育は画期的によくなりうる。そして、5万人分の新たな働き口の創出は、働く場所を分け合うモデルケースになり得る。

「ビッグ3」政策を施行するのに必要な費用は、年4兆ウォン程度である。代わりに、大韓民国の学校の教育環境は先進国レベルへと跳躍する。そして、教師10万人と業務専従職員5万人を合わせ、15万人分の新しい働き口が創出される。この程度の予算で、これほど多くの働き口が創出できるのなら、そして学校教育のレベルを驚くほど高められるのなら、やってみる価値があるのではないか。

 

 

おわりに

 

 

ここで提示した方案は、教育の2013年体制が必要としている政策のすべてではない。もっと多くの制度が体系的に施行されねばならない。入試が存在し、大学の序列が存在する限り、いかなる教育政策も無意味だと考える人々には、このすべての提案がつまらぬものに見えることもあろうが、ここで提示した方案は何らかの意味あるものである。入試がなくなれば、学校教育が自然によくなるわけではない。大学の序列がなくなれば、学校教育が自然によくなるわけでもない。大学の序列がなくなり、社会構造が変わっても、学校教育は依然として低次元で無能でありうる。入試が存在しようとしまいと、大学の序列が存在しようとしまいと、学校を変える政策は施行されねばならない。そうしてこそ、学校教育がよくなり、私教育が減りうるのだ。

 

 

翻訳: 青柳純一
季刊 創作と批評 2012年 春号(通卷155号)
2012年 3月1日 発行

 

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