2013年体制の建設における北朝鮮という変数
特輯_2013年體制議論の進展をために
鄭鉉坤(チョン・ヒョンゴン) 6・15共同宣言実践南側委員会執行委員長、細橋研究所常任企画委員。主な論文に「南北社会文化交流発展のための方案」「南北交流ガバナンスの実態分析および評価」などがある。jhkpeace@empas.com
今、南と北の関係はどのあたりに来ているのだろうか。他人のように過ごすことに慣れ切ってはいないとしても、互いを切実に必要とする関係とは言えるだろうか。今更ながらこんな問いをするのは、李明博政府の時代に南北関係に質的変化が生じたという直感が故である。
南北関係の歴史的転換は2000年の6・15南北共同宣言から始まった。それからもいくつかの重大な変化があったのだが、今になって我々はまた2013年体制の建設という新たな課題を自覚している。2013年体制ということで2012年の権力交代期を主要な契機と捉えていることは明らかであるが、2012年の歴史の重みが韓国社会だけで規定されるわけではない。北朝鮮でもまた2012年はひとつの重大な節目の年である。2012年は北朝鮮の体制成立100年の歴史が数えられる年であり、北朝鮮はいわゆる「強盛大国」を闡明している。しかも北朝鮮は絶対的指導者を失って総力体制を稼動中である。我々はまた彼らのこのような歩みが及ぼすであろう影響を鋭く注視している。
我々が2013年体制を論じるさいに南北関係を含めねばならない理由は、今、2013年体制が、最小限の南北共有地点を通過せねばならない時に来ているからである。それは他でもない、1953年停戦体制の解消という問題だ。
1. 2008年8月以降の朝鮮半島情勢と対北政策の決算
南北関係または米朝関係において、北朝鮮がみせる行動の半径と動機そしてそれが及ぼす影響については「体制認定」の観点から見るのが有効である。その見解に従えば、南北関係と米朝関係はパワーバランスを回復しようとする意志のなかで相互対称性が貫徹されてきたことがわかる。その相互対称性は、いうなれば北朝鮮の核とミサイル開発がアメリカを脅かすだろうという点だけでなく、アメリカからの攻撃の脅威に対応するための手段であるという、この二つのことを同時に認めることで、相互脅威を減少させようというものであり、その表れが2000年10月の米朝共同コミュニケだった。南北関係については、北朝鮮に体制認定を保障しながら同じく韓国が感じている戦争の危機を減少させるという共感帯があり、それが2000年6・15共同宣言の意味 6・15共同宣言以後の南北関係および米朝関係の本質的意味を「体制認定」の観点から叙述したものに拙稿「6・15共同宣言10年を読む:体制認定の苦難の道を越えて」『創作と批評』2010年秋号、318-335頁参照。 だと思われる。
今でこそ明らかだが、2009年4月に行なわれた北朝鮮の人工衛星発射と5月の第二次核実験は、体制内部の動機がより大きく作用したと見られる。それは体制維持という本質的動機とその延長線で後継構図を確定させねばならないという特殊な動機までを含んでいる。我々の知るところでは、北朝鮮は2009年1月に後継者を選定し、これを内部に周知した。しかし今なお注目せねばならないのは、北朝鮮が感じていたであろう体制維持の深刻性が、外部から来ると感じられる脅威と非常に密接に結びついているという事実である。まず2008年8月に金正日委員長の脳卒中後、韓国政府が北朝鮮崩壊論の側に身を固めていった点がそうだったし 、 各国政府や企業の非公開資料を暴露するウィキリークスが公開した米国防部外交文書は、李明博政府の高官らが北朝鮮崩壊論に執着していたことを赤裸々に示している。『民衆の声』2010年12月6日;北朝鮮急変事態対備計画と受け取れる「復興」計画が明らかになったのが2010年1月13日であるが、この計画は2009年下半期から作成されていたと報じられた。『文化日報』2010年1月13日。同時期に北朝鮮が中国の態度は不透明だと判断した地点がそうである。中国が北朝鮮の地政学的価値にもとづいて対北関係の戦略を整理しなおしていた時期が2009年秋だとすると 、 中国の立場が変化した正確な時期は分かり難いが、第2次核実験後に北朝鮮を猛非難した中国官房言論『環球時報』が国連の対北朝鮮制裁が議論された6月18日に“Time for US to show N. Korea some goodwill”という論説を掲載してアメリカに北朝鮮の憂慮を解消するために行動するよう促したのが変化の契機という指摘に注目したい。李ナムジュ「中国の戦略と韓半島の選択」韓半島平和フォーラム、2009年11月、月例討論会発表文(http://www.koreapeace.co.kr 2012.1.25検索)。そして同年10月5日に温家宝総理の平壌訪問時に金正日委員長が空港で出迎え、数十万の平壌市民の歓迎を受けたこと、訪問中に中朝経済協力を確認することによって対北朝鮮制裁の無力化を明確に表わしたことが、中国の戦略的態度決定における終止符と理解される。したがって中国が立場を整理したのはこの二つの時期の間と推察できる。北朝鮮としては2008年8月以後の時点で絶対的指導者の逝去に伴う体制安全保障に関してさらに大きな憂慮を抱いていたことは想像に難くない。
2009年4月に北朝鮮が人工衛星発射を強行したことに端を発する一連の事態の展開は、アメリカとしては少々驚きだったかもしれない。2009年初めに出帆して対話原則を明らかにしたオバマ政府の善意に対して北朝鮮が拒絶したようにも受け取られかねないものだったからである。そしてこのような局面の展開こそ、アメリカ内部に否定的対北認識が広がる契機となったことは否定できない。惜しいことにこうして定着したアメリカ内の認識が、北朝鮮崩壊論へと動いた韓国政府の戦略構図に自らを任せたアメリカの限界として作用した。
中国では、すでに指摘したように、北朝鮮が核実験を強行するに至ってようやく戦略的協力関係へと転回したのだが、この決定には北朝鮮の核実験が影響していると見てもよいだろう。結果的に北朝鮮の核実験は中国が持っている対北影響力の実態を暴露した出来事となったからである。中国が感じていたであろう北朝鮮の地政学的価値は、その翌年に起こった天安艦事件の展開においてもう少し鮮明になった。天安艦の「爆沈」の恩寵の名の下にアメリカの空母を西海に進入させようとする軍事プレゼンスがそれであるが、中国包囲という意味が明白になったからである。当時アメリカはこのように軍事力を見せつけることで、沖縄の在日米軍基地・普天間を維持させようと空母の軍事力展開範囲を急速に拡張した 。 普天間基地をめぐる日米間葛藤は2009年に民主党への政権交替を通じて総理になった鳩山由紀夫の基地移転公約に従ったものだった。しかし鳩山は2010年5月22日の天安艦事件を理由に基地移転公約を撤回し、それから10日後に退任した。その後7月に東海(日本海)で米空母が参加しての米韓軍事訓練が実施され、これには日本の海上自衛隊もオブザーバーとして参加した。クリントン米国務長官は同年7月のベトナム・アセアン地域安保フォーラム(ARF)で南シナ海制海権問題を取り上げて中国を刺激し、9月には日中間の釣魚島(尖閣諸島)紛争、日露間クリル列島紛争にも介入する。これに対抗して中国は西海と東シナ海での軍事訓練の様子を公開し、5月および8月に金正日委員長と胡錦濤主席の首脳会談を開催した。黄俊皓「天安艦、時代の話題になる」『創作と批評』2010年冬号、504-505頁参考。
そして米中と南北さらには日本も含んだこのような力の圧縮的表出は、同年11月の北朝鮮による延坪島砲撃において絶頂に達した。もはや北朝鮮をつうじてアメリカを牽制できるような構図がこの事件によって露わになったのである。その衝突が起きている間に北朝鮮の金正日委員長は強力な中朝連帯の道を開き、1980年の第6次党大会以後中央党会議としては30年ぶりに朝鮮労働党代表者会議を開催、北朝鮮体制の最大の危機とも言える後継構図を整えたのである。
他方で2011年5月17日、某メディアは李明博政府の対北政策の転換が大多数の国民の意見であることを確認させてくれる世論調査結果を報じた 。 『毎日経済』、2011年5月17日参照。しかしこの調査で注目すべき事実は、保守だと自己規定する人々、ハンナラ党支持者たちにおいても同じ見解が見出される点だった。当時の調査で対北政策再検討の意見を表明したのは58.2%で、持続すべきとした34.9%よりも2割以上多かった。この意見には54.25%の保守層と51.1%のハンナラ党支持層が同意した。国民の大多数がこのような見解を持った最大の理由は、中朝協力のせいであることが当時の世論調査機関の見解だった。このような力が作用したせいか、李明博は統一部長官を玄仁澤[ヒョン・インテク]から柳佑益[リュ・ウイク]に交代させた。
対北政策の核心軸が青瓦台[大統領官邸]をつうじて作動すると考えるなら、統一部トップの変更にそれほど大きな意味はない。しかしここで重要なのは、南北関係の未来よりも「当時」の意味である。未来は依然不透明だったし、楽観的でもなかったが、「少なくとも過去のような道筋ではだめだ」という意味が「当時」に含まれているからである。これが柳佑益統一部への交代劇の意味だった。
もちろんそれまで李明博政府が対北政策の転換を試みたことはなかったとは言えない。2009年8月に金大中大統領が逝去してから、弔問をめぐる政治サイドのやりとりにおいて北朝鮮が持ちだした南北首脳会談の提案に関して、実際に対北接触を推進した事実が認められるからである。そんなこともあって李明博大統領本人でさえ2010年1月28日にイギリスBBC放送とのインタビューで「(金正日国防委員長との)年内会談もありうる」と語ったのである。問題はこのような試みが李明博政府の一貫性と真正性に基づいていない点にある。結局、2010年3月26日に発生した天安艦事件に直面して、これを北朝鮮の仕業であると押し通してからは、南北関係を安保問題に飛び火させ、またこれを選挙にも利用した。
李明博政府が南北関係のために何かしようとしたからといって情状酌量し難い理由が、2011年5月に再度噴出した。政府の主要当局者らが南北首脳会談のために北朝鮮との秘密接触に乗り出したが、異例にもその内幕が暴露され、恥をさらしつつ霧散したのである。ハンナラ党支持者らの間でも対北圧迫政策の失敗が明らかになったのだから、政府がこれに気付かないわけはなく、それは李明博政府をして南北関係転換にたいする政治的欲求を呼び起こさせたと考えられるだろう。
残念なのは南北首脳会談開催を試みさせた動機が、主には政治的利害打算にとどまったことであり、この不純さが「天安艦問題」を引き起こし、また自縄自縛に陥ったという事実である。天安艦問題とは、天安艦事故の原因を北朝鮮の攻撃であると性急にも宣言し、これによって対北圧迫の手段である5・24措置を施行したことを指すが、南北関係を正常化させるためにはどうしても天安艦事故にたいする「謝罪」を聞かねばならないという点がその核心である。天安艦事故の調査が一種の政治行為に偏ったという指摘は、5月20日の調査発表およびそれに伴う5・24措置のからくりが、既に4月19日から21日までの劇的な状況展開において作られていたことからも確認できる 。 2010年4月19日、金泰栄国防長官(当時)が北朝鮮の仕業であると言及し、20日には大統領自らが北朝鮮の介入の物証を探しだすと野党代表者との会合で約束し、21日には政府の外交および安保関連部処が北の仕業であることに備えた検討に入った。この時の検討事項が5・24措置の骨子となった。拙稿「天安艦事件の流れと反転」姜泰浩編『天安艦を問う』(創批、2010年)参照。この措置が劇的な理由は、少なくとも公式見解としては4月6日まで合同情報作戦処長、国防部長官、駐韓米軍司令官、国家情報院長が北朝鮮介入の事実を否認してきたからである。4月16日に船体が公開されたが、その後、破断面の肉眼確認で爆発の可能性を読み込んだのが、実行者を北朝鮮の人間とする政治行為の駆動力となったわけであるが、科学的検証には結局のところ耐えられなかった。
残念なことがもう一つある。現在の南北関係を規定する力、朝鮮半島情勢に影響する力が主に北朝鮮から来ていることである。認め難いであろうが、それが金正日委員長の見せた、悔しさ余っての歯ぎしりの結果であり、また、李明博政府が受け取った成績表である。その点で今後の南北関係は北朝鮮の存在感をより強く意識することになるだろう。
2.北朝鮮体制運営における変化を読む
北朝鮮の体制の現状を理解することはできるだろうか? この問いに答えるのは簡単ではない。北朝鮮は常に曖昧な姿を見せる 。 ここに二つの統計がある。一つは国連児童基金(UNICEF)が2012年1月25日に発表した資料で、北朝鮮の咸鏡南北道、両江道、江原道の6ヶ月以上5才未満の児童のうち約80%が栄養失調と報告されている。この調査の信憑性は高い。なぜなら2011年11月末、北朝鮮保健省の協力によって1000人あまりの医師が派遣され、調査対象25市郡に住む児童約21万人の88%を対象に調査が実施されたからである。他の統計は世界食料農業機構(FAO)と世界食糧計画(WFP)が2011年11月に発表したものがあり、2011年の北朝鮮の食糧生産が2010年より8.5%増加して550万トン(精米後の白米基準466万トン)に達したことを確認している。これらの数値は北朝鮮の1年の需要量540万トン(白米)に比べて74万トンが不足しているが、北朝鮮の年間食糧輸入量約32万トンと当年に中国と米国から受ける支援分を含むなら、大きく不足したわけではなかったとも主張できる。対北支援が必要なのかどうかを判定することさえ容易ではないのである。とすれば、対北政策はいかなる根拠をもって遂行されるのか? 今もその価値志向や有用性において異彩を放つ対北抱擁政策は、対外的安保環境の改善が、北朝鮮の改革・開放を促すだろうとの診断に基づいている。しかしこの診断に首肯するとしても、北朝鮮の進むその道はそれほど平坦ではないだろう。
北朝鮮の体制運営においてひとつの分岐点になるのは、内部の生産力が枯渇していることをどう認識するのかにかかっているが、北朝鮮自身がこれを感じ始めたのは1980年代半ばと思われる。この時期から北朝鮮は常に内的緊張と外的緊張が絡まるループにはまっていった。ここで言う内的緊張とは、朝鮮労働党統治の正当性の水準を指すが、それはまずもって食衣住(北朝鮮では「衣食住」をこのように言う)の問題に端を発する。じっさい、金正日委員長の死亡後、北朝鮮の権力指導は内部の緊張が権力関係から発するものではないことを示している。そして外的緊張とは対外関係を指すが、じっさいに北朝鮮の住民の生活は外的関係と密接に関係している。
国際的な冷戦体制が維持されていた時期には、北朝鮮は中国、ソ連との「友好価格」のおかげで輸入価格が低く済んでいた。この時期の北朝鮮の対外関係は社会主義圏に限られてはいたが、自らの資源をスムーズに動員できたおかげで、状況はそれほど悪くはなかった。北朝鮮が内部資源を動員する余力のあった1970年代も、北朝鮮は第三世界と活発に外交していた。北朝鮮は1975年10月の国連第30回総会で韓国に駐屯していた国連司令部の解体を引き出したこともある 。 北朝鮮の外交において1970年代は「世界化」と呼ばれる。少なくとも1970~74年の間、北朝鮮がヨーロッパ資本主義国家から導入したプラント総額は5億7000万ドル以上だった。北朝鮮は1975年8月にペルーで開かれた非同盟外相会議で正式に会員となり、その結実が同年10月の国連総会決議案の可決である。鄭圭燮『北韓外交の昨日と今日』日新社、1999年、134-137頁。この流れが1980年代を過ぎる頃に変わっていく。北朝鮮が西欧の資源を取り込むために合営法を導入した1984年がひとつの峠だったと言える。当時の試みは成功しなかった 。 合営法の制定後、北朝鮮は1989年まで総計53件の合営実績を残したが、フランスとの1件を除くとヨーロッパとの実績はない。1987年に北朝鮮は140のヨーロッパ債権銀行団によって債務不履行国家に指定され、その後朝総連を除いて北朝鮮に投資する企業はなかった。鄭圭燮、同上、195-196頁。北朝鮮はこの時期に「8・3人民消費品生産運動」も打ち出したが、これは予備資源を動員しようとの試みだった 。 林秀虎『計画と市場の共存』三星経済研究所、2008年、77-78頁。結局、自力更生への心情的依存によって対外資源の必要性に対する切迫感が薄まったと言えるだろう。しかし1989年のベルリンの壁崩壊を発端に社会主義圏の解体が続くと、その安易さの実体が現れた。この時期の北朝鮮の国家財政は対外貿易の急激な縮小によってほとんど底をつき始めていた 。 社会主義圏の崩壊によって北朝鮮に現れた波及は、事案別に少しずつ異なる。まず国家財政は1995年から反映されるが、当時の歳入が243億ウォン、歳出が242億ウォンだった。これは194年の416億ウォン、414億ウォンに比べて50%をほとんど下回る水準である。貿易の削減は1991年にすぐに現れたが、ソ連との貿易規模が3億6500万ドルで、前年の22億2300万ドルに比べて約7分の1に急減した。1990年当時、対ソ貿易量が善貿易量の53.1%であることからすれば、その打撃を実感できる。林秀虎、同上、93-100頁。傷口に塩塗るかのように1995年から3年間にわたって押し寄せた自然災害は、一挙に北朝鮮の農業生産力を崩壊させ、深刻な食衣住問題が浮き彫りになった。餓死者が続出する酷い苦難の行軍だった。北朝鮮は苦難の耐乏を経験し、その後南北関係と米朝関係の根本的改善のための新たな選択を試みた。とすると、北朝鮮が2001年の新年社説で「苦難の行軍で勝利した気勢に乗り、新世紀の進撃路を開いていこう」 北朝鮮の新年社説は1997年が「苦難の行軍」の最終段階であることを直視している。「皆が今年の苦難の行軍で栄誉ある勝利者となろう」というスローガンが同年に出された。そして1998年の新年社説では「『苦難の行軍』の厳しい峠の克服という成果をあげ、新たな前進と飛躍の突破口を開いた」と自己評価した。と評価していたその選択は、北朝鮮にいかなる教訓を与えたのだろうか?
2012年初頭に我々は北朝鮮に対する二つの新たな指標に触れることになる。ひとつは、北朝鮮の携帯電話使用者が100万人に達したというものであり、もうひとつはロシア極東アムール州のコジェミャコ知事が発表した内容、すなわち数百人の北朝鮮労働者がアムール州の建設を担うであろうという、さらには未開拓の農地を北朝鮮に提供するという発言である 。 『世界日報』、2012年1月21日。北朝鮮の携帯電話価格は250ユーロ、一ヶ月の使用量も20ユーロにもなるという。機関需要者が30万人いるとしても、70万人の個人が携帯電話を使用していることになり、その財源が気にならずにはいられない。この購買層は開城工業団地から輩出されてはいないはずだ。そして「朝中」合作地区の黄金坪・威化島経済特区と羅先経済特区もようやく軌道に乗り始めたことからすれば 、 北朝鮮と中国は黄金坪・威化島経済特区開発着工式を2011年6月8日、羅先特区着工式を6月9日に行った。これらの場でもない。とすると残るは市場を通じて成長した個人か、海外派遣労働者であろう。
そうだとして、2000年以後の北朝鮮の変化に南〔韓国〕はじっさいのところどれほど寄与したのだろうか? ここに非常に冷静な評価がある 。 南北は2000年以後に協力の新たな機会を迎えたが、互いに寄与して内部変化を共に起こすことはできなかったという評価する者もいる。徐東晩「南北が共にする‘2008年体制’」徐東晩著作集刊行委員会編『北朝鮮研究』創批、2010年、406-426頁参照。それは北朝鮮が野心的に打ち出していた7・1改革措置も韓国の手助けなしに進められたという指摘であるが、ブッシュ政権の妨害がその主犯だった。その後金剛山観光は現金支援を理由に、10万人の北朝鮮労働者を雇用していた委託加工業は5・24措置で、農業構造改革の可能性を開いた肥料支援は南北関係の悪化で、すべてが頓挫した。結局残ったのは開城工団だけである。その点で、今の南北関係は質の下がった状態だと見てもよいだろう。
他方で北朝鮮の新しい購買層が保有する余裕資金が市場の拡大に寄与するであろうとの予測もできるだろうが、まだ性急だ。携帯電話など、大概の新しい市場流通は当局にコントロールされているからである。
じっさい、「市場」を包摂した「国家計画」の意味するところは何も目新しいものではない。これらの国家計画部門が市場部門を通じて剰余を得ることで国家財政を拡充してきたという北朝鮮社会主義の現状に対する理解の仕方は、北朝鮮研究者であれば誰もがそう理解しているものに過ぎない 。 梁文秀「所有制の変化なき市場化政策」尹大奎編『社会主義体制転換にたいする比較研究』ハンウル、2008年、121-151頁。問題なのは今後この関係がどうなるのかであるが、これについては二つの可能性がある。ひとつは中国のように市場の役割が拡大すること。周知のごとく、中国市場は農業改革によって個人資本家を形成し、この資本家たちが消費財・生産財・労働市場など多様な商品市場を通じて私営企業や郷村企業を組織しながら市場との連携、計画外の非国有部門を形成したと理解される 。 朴ヒジン「北韓と中国の経済改革比較研究:計画と市場の関係を中心に」梨花女子大学博士学位論文(2006年)。こうした中国の市場のあり方を今の北朝鮮と比較することはできない。しかし市場の意味を小商品生産に限ってみれば、別のことが言える。たとえ北朝鮮の市場にはまだ輸入品が多く、市場の拡大が商品生産に体系化されていなくとも、最低限の商品生産には関係しているからである。すでに1990年代半ばごろから全生産活動の5~10%が計画外生産だったし、2002年の7・1措置によって消費財では生産額の30%を市場に販売できた。生産財に関しても、2007年に5%水準で市場販売を許容したという調査がある 。 林秀虎、前掲書、153頁。 もうひとつの可能性は市場の閉鎖だ。しかしこれはありえない。先に説明したように、食衣住の供給における内的緊張を内部資源の動員で解決するには限界があり、すでに限界を超えて久しいからである。
ここでの論点は、計画外市場の成長の可能性とその社会勢力化を検討することではない。むしろ注目すべきは、北朝鮮が羅先市を運営する、そのやり方である。羅先市の売台規模は1997年の時点では4000個ほどだった。今、吉林省の投資計画によれば、売台は今後30000個に増加する。羅先市が経済特区である点で制限的ではあるが、市場は抑制しながらも国家流通網に入れるという北朝鮮の構想を理解するには十分だろう。開城、羅先、黄金坪といった特区や労働者の海外派遣など、外部との境界面の形成によって生産力構成を拡張していくこと、そしてこの過程を北朝鮮の指導層の唯一統治力に服従させること、これらは成功如何に関係なく、苦難の行軍以降ここ12年間の統治経験であり現在の志向点だと言っても無謀ではあるまい。
3. 分断体制の変化と2013年体制
2013年体制についてはだんだんと共感の幅が広がっているところである。この体制は「87年体制における民主化が新段階に躍進するのみならず、これまでの極度の両極化傾向を反転させ、国家モデルを生けとし生けるものにやさしい福祉社会に変え、正義・連帯・信頼といった基本的な徳目を尊重する社会的雰囲気を再生するなどの課題を設定してい」る。そしてここで「革新的アジェンダのひとつであり、ある意味ではその他のアジェンダの成功を左右するのが『1953年体制の解消』作業」 白楽晴『2013年体制の確立』創批、2012年、61頁。である。
ここで言う1953年体制は、停戦協定体制に限定して理解されもするし、またそれが長く持続したことで成立した分断体制であるという意味にも押し広げられる。どちらにせよ、分断体制についての整理なくしては1953年体制の解消をきちんと論じることは難しい。そのために問題となるのは、分断体制が変化してきた歴史的コンテクストである 。 朝鮮半島の分断体制については、南北再生産構造の相互依存性を直視する「分断体制論」が深みのある理解を示しており、南北それぞれの内的改革と変革が分断体制克服の要諦であるとみなす。これは民主化と統一が内的に連関した作業であることを意味してもいる。金鍾曄「分断体制と87年体制」『87年体制論』創批、2009年、41-42頁。
我々が4・19や87年6月抗争について語る時、それが我々内部の動力によってなされたということに異論はない。しかしここで我々は4・19が5・16クーデターに踏みつぶされ、87年の民主化が遅らされてきた逆作用を見出すことになるのだが、この逆進あるいは遅れは、分断体制が作用した結果である。ただ、別の面からみれば、4・19と6月抗争自体が分断体制の作用力を克服したものであることも明らかである。重要なのは、4・19から5・16へと覆されていった力の作用と、87年6月抗争の後に現れた民主化にたいする逆作用の力には、大きな違いがあることである。そして南北朝鮮のそれぞれの改革の中で分断体制が解消されていくという、この歴史的コンテクストが分断体制論の精髄でもある。
分断体制は2000年の6・15共同宣言によって決定的打撃を受けた。南北の支配層はもはや互いを媒介に民衆の利益に反して私的な利益をむさぼる構造を再生産する名分を失った。そして2007年の第二次南北首脳会談に至る過程で南北相互の利害関係はむしろ民衆の利害関係にさらに近接していった。李明博政府時代に分断体制が再強化されたと見る向きもある。そしてこのような利害の代表的な例が天安艦事件にたいする次のような見方である。北朝鮮が天安艦を攻撃することでこれを内治に利用し、韓国政府もまたこれを活用するという見方である。これは分断体制を固定的な構造と捉えることによって生じる認識の誤謬だ。この認識が成立するためには北朝鮮は天安艦を攻撃してこれを公然と言いふらさねばならず。また李政権は選挙で勝たねばならなかった。しかし両者共に現実とならなかった。むしろ北朝鮮は天安艦事件を否認し、かえって中国との関係を緊密化させる契機とすることに自らの利益を見出した。
とすると、今、分断体制はいかなる状況に来ているのだろうか。そして今後どのように変化していくだろうか? 最も望ましいのは交流協力による民族経済共同体の形成だろうが、そのためには1953年体制を突破しなくてはならない。1953年体制について言うなら、そこには既に60年ほど延命してきた間に積み重なった複雑さがある。それに数多くの交渉のなかでほぐされてきた過程もある。そこで当事者である北朝鮮の態度が重要になるが、それとともにアメリカの認識変化も連動して作用している。
伝統的に北朝鮮は停戦体制の解消に関して、南北不可侵宣言、米朝平和協定の締結、そして駐韓米軍の撤収という図式を維持してきた。この図式には、少なくとも2002年10月に第二次北朝鮮核問題が持ちあがって新たに召集された六者会談が第三次に至るまでは、決定的な変更はなかったと思われる。もちろん、駐韓米軍については2000年の南北首脳会談で朝鮮半島駐屯にたいして了解があった。また、1998年6月に開かれた国連司令部と北朝鮮軍の将官級会談で北朝鮮が南北朝鮮とアメリカの三者による「暫定平和協定」を提案し、韓国が協定の当事者となる問題も解決の糸口が見えたこともあった。当事者問題は北朝鮮の米朝平和協定の主張に亀裂を入れる決定的事案だっただけに重要な内容である。
北朝鮮が一層明確に伝統的図式を変更し、これを明文化したのが第5次六者会談二段階会議の成果である2005年の9・19共同声明である。ここで北朝鮮は米朝平和協定を米朝国交正常化と当事者間平和協定に調整した。このような北朝鮮の態度変更には、アメリカの立場の変化が作用したのだが、すでに第4次六者会談でアメリカは「米朝国交正常化」を北朝鮮核問題の解決法と連携させる構想を打ち出していたことが功を奏した。
周知のように、9・19合意枠組みはその後バンコ・デルタ・アジア銀行(BDA)に預けられた北朝鮮の資金の性格が問題視され、大変な目に遭った。そしてその対決の末にようやくブッシュ大統領が終戦条約構想を口にした。ブッシュ大統領の言及が条約なのか協定なのかについては判断が分かれる。2006年11月18日、ハノイで開かれた韓米首脳会談では「条約」と言ったようでもあるし 、 徐柱錫[ソ・ジュソク]国家安全保障会議室長(当時)は、終戦条約または平和条約だと証言する。金鍾大『盧武鉉、時代の垣根を越える』木と葉[ナムワスプ]、2010年、475頁。2007年9月7日にシドニーで開かれた韓米首脳会談では「平和協定」と言ったようにも理解できる 。 国政弘報処『参与政府国政運営白書8:日誌/資料』、2008年、476頁。条約(treaty)の場合、米上院の3分の2以上の賛成で批准され、協定(agreement)の場合は米上下両院の過半数の賛成で批准されると知られている。白楽晴、前掲書、164頁。ともあれ、このような内容は2007年の南北首脳宣言では終戦宣言をまず推進するとして調整され反映される。10・4南北首脳宣言には次のように書かれている。「南と北は現停戦体制を終息させ、恒久的な平和体制を構築していかねばならないとの認識を同じくし、直接関連する三者または四者の首脳が朝鮮半島[原文は韓半島]地域で会談し、終戦を宣言する問題を推進するために協力していくことにした」。以上がこれまでの状況である。
では、何がどのように変化したのかを見てみよう。まず、南北首脳宣言におけるこの合意は、韓国の政権交代で無視された。そして米朝間でも核物質検証問題が障害となり、2008年12月の六者会談首席代表の接触を最後に六者会談は2012年1月25日現在まで開かれていない。その後北朝鮮は第二次核実験に続いて2009年6月13日にはウラン濃縮作業を宣言し、翌年11月には2000基以上の関連施設の遠心分離器を公開した。この過程には北朝鮮がまず非核化措置を取るよう要求し、対北制裁を推進してきた韓米の「戦略的忍耐」が並行している。2012年1月12日、国際非政府機構核脅威防止イニシアチブ(NTI)は「核物質安全指数」報告書で北朝鮮を世界九大核保有国に含めた 。 『ソウル新聞』2012年1月12日。これが最近までの状況である。
我々は再び終戦宣言という合意点に立ち、そこから始めることになるだろうが、次に挙げる一つの事柄については答えを持っておかねばならない。それは、六者会談が再開されて朝鮮半島の非核化問題が平和協定の議論と同時に進むなら、北朝鮮の変化した部分も含めた核能力全体を交渉対象にできるだろうかという点である。
まず、北朝鮮の立場から見てみよう。2005年7月22日に発表された外務省声明が一つの教本となる。この声明には「平和体制樹立は朝鮮半島非核化のために必ず経るべき道筋」であると表現されている。比較的最近のものとしては2011年7月27日に朝鮮中央通信に掲載された「停戦協定と朝鮮半島」という論評がある。この論評で北朝鮮は「平和協定締結は非核化を含む朝鮮半島問題の解決の第一歩」 『聯合ニュース』2011年7月29日。 であると主張している。これは米朝ニューヨーク第一次接触の直前に出されたものであり、アメリカに宛てたメッセージと考えられる。それに先立つ7月24日、北朝鮮外務省の朴義春[パク・ウィチュン]はASEAN地域安保フォーラム(ARF)での演説で「対話と交渉をつうじて朝鮮半島の平和と安定を保障し非核化を推進しようとすることは、朝鮮民主主義人民共和国政府の一貫した立場」 『聯合ニュース』2011年7月24日。であると明らかにした。この流れは平和体制が構築される方向で北朝鮮の核能力全体が交渉の対象となりうることを意味する。
だとすれば、アメリカはどうだろうか? 北朝鮮の第二次核実験後である2009年11月21日、クリントン国務長官は同年12月8日に予定されていたボズワース対北政策特別代表の平壌訪問を前に、北朝鮮が検証可能な方式で非核化を推進すれば米朝関係正常化と停戦協定に代わる平和協定の締結および経済支援などの検討も可能であるとの立場を示した。当時、クリントン長官の発言は「関係正常化と平和条約締結を検討するつもりです。この問題を論じる準備はできています」 KBSニュース、2009年11月21日。というものだったが、これは議論に前向きであるという明確な意思表示と理解できる。であればやはり、変化すべき地点は韓国政府だった。
4.南北連合戦略の必要性
平和体制と朝鮮半島の非核化が並行するか否かがそれほど難しい問題ではないとすれば、次にはその両方の同時解決にかかる時間を検討せねばならない。
平和体制は大きく見て停戦協定から平和協定への転換、米朝国交正常化そして恒久的平和保障管理機構の形成からなるといえる。加えて、直接的な要素ではないが明らかに影響を及ぼすであろう南北経済共同体形成も、深く考慮すべきである。北方限界線(NLL)をはじめとする境界線の確定や国連司令部の解体、軍備統制などは平和協定に入る問題だが、これらを解決していくにあたっては米朝国交正常化ができるかどうかが影響するだろう。米朝国交正常化はまた、核問題とも深く連関している。さらに米議会が国交正常化の前提条件として人権問題を挙げることは必至である。ここで我々は、1953年停戦体制の解消は北朝鮮核問題と同時に解決せねばならないことが理解できる。
そして北朝鮮核問題なら、我々が模範としている9・19共同声明や、また2・13合意にも既に教本が示されている。北朝鮮の核施設・核物質・核兵器というように大まかに分けて、これを細分化して各段階別に「行動対行動」の原則を立てて核廃棄へと向かう経路を設計するだろう。さらに各段階に伏兵が潜んで合意全体の歯止めとなる威力を発揮していることもすでに確認されている。この問題を解決するためには、次の三つの原則に込められた知恵を掴みとらねばならない。第一に、北朝鮮核問題を南北関係の発展とともに解決していることである。第二に、北朝鮮核問題を朝鮮半島の平和体制とともに解決していくことである 。 「北朝鮮核問題は米朝の敵対関係の産物であり、米朝関係が正常化して朝鮮半島平和体制が構築されれば解決できる問題であって、長い時間がかからざるをえない。したがって南北関係の改善をつうじて、米朝関係の改善と北朝鮮の核廃棄という与件および環境を醸成していかねばならない。イム・ドンウォン「南北和解協力と韓半島平和プロセス」、2011年11月8日、韓半島平和アカデミー発表文(http://www.koreapeace.co.kr 2012年1月27日検索)そして第三に、平和体制を南北連合のような統一志向体制とともに解決していくことである 。 「平和協定が締結されて米朝関係が正常化し、外部の経済支援が増大するとしても、それだけでは分断国家の体制安全は保障されないのである。(……)結局、6・15共同宣言第二項に既に提示された南北連合という解法を本格的に追求する道しかない。」白楽晴「‘包容政策2.0’に向けて」『創作と批評』2010年春号、84頁。ここには南北経済協力、北朝鮮核問題、平和体制、南北連合など、それだけでも大きなテーマが含まれており、同じくその一つ一つが別のテーマの前提として作用するが、決してどれか一つが先に完結することのない、冷たい現実が表現されている。またその中にはもっと重要な意味がある。複雑に感じられるかもしれないこの指摘は、関係するあらゆる事柄の未来に向かっていく過程であると考えれば、数ある世界の事柄と何ら変わりない単純さを見せてくれる点である。重要なのは目的地を見失わずに常に正しい道を進むべく選択する知恵である。
南北連合はまさにこの地点で他の問題との連結を促す重要なリンクとして浮上する。なぜか?
核心は、北朝鮮をめぐる戦略的環境が大きく変化した点にある。それは二つに分けられる。「安保から成長へ」と進むことがひとつであり、「自主」を強調することがもう一つだ。このような環境は北朝鮮の核戦力の強化と中朝協力構造から帰結する。ここで「自主」の問題は中国との関係で新たに発生する。そしてこれが北朝鮮が南北経済協力を望む内的動機として作用する。かつてと違う点があるとすれば、中国との協力をつうじて自らの生存の中心を確保してから対南関係に着手しようという点だ。関連して北朝鮮は10・4宣言にはいくつもの経済協力事業があるが、その中心はやはり開城工団の質量的拡大にあると思われる。開城は5・24措置にもかかわらず生き残った南北協力工団である。北朝鮮としては開城工団を計画通りに三段階で2000万坪まで拡張することで海州工団まで押し広げる10・4宣言の構想が必要なのである。この構想が西海における共同漁労、平和水域と連携して西海平和協力特別地帯を構成する。10・4宣言の幾つかの企画は韓国側が提示したものであるが、2007年当時にあって、北朝鮮はここまで自ら考え出せなかった。そしてさらに重要なのが、10・4宣言が南北首脳会談、総理級会談、そして各分野別長官級会談の運営枠組みを確定した点である。予想するに「自主」と「成長」というキーワードはこの南北連合水準の運営とつながりうる。
以上を踏まえて、次のことを主張したい。今必要なのは複雑ななかで道を見失わずに進むことのできる目的地であり、それが10・4宣言で既に端緒を開いた南北連合ではないか 。 これに関して李鍾奭[イ・ジョンソク]は、平和協定以前にも南北連合へと進むための枠組みを一つ一つ積み上げていこうと主張する。その例として南北長官級の南北関係発展委員会(仮)と常設事務所を提案している。李鍾奭「2013年体制と平和・安保戦略」細究研究所・韓半島平和フォーラム共同主催シンポジウム「‘2013年体制’に向けて」(2011年11月25日)史料集、14-15頁。
南北連合戦略が立ち止まった場合、実行レベルの知恵で補わねばならない。ここでは三つだけ強調しておこう。とりあえず終戦宣言から出発できるのなら10・4宣言が履行されることで北朝鮮とアメリカは国交正常化以前でも平壌とワシントンに連絡事務所を開設できる。第二に、終戦宣言によって平和協定論が実質化されれば、北朝鮮核問題の解決の仕方も変化する。この時点で朝鮮半島非核化交渉は、北朝鮮の核能力全体を入れて計算することになるが、この時に各段階での検証は既に障害とはならなくなる。第三に、西海境界線問題は最後まで我々を悩ます事案ではあろうが、平和協定を議論する南北米中の四者枠組みでならば接近が容易になる。
最後に指摘しておきたいことがある。先に北朝鮮が外部との関係拡張によって新たな生産力を拡充しながら首領制統治体系を維持しようとしていると指摘した。北朝鮮のこの方向性は「(抗いがたい)グローバル化への、統制された行進」だと説明できるとすれば、このような北朝鮮と疎通できる韓国の条件は何だろうかという点である。開放性と統制という二重性の上で、韓国は全く変化せずに北朝鮮だけに変化を強いては、開放戦略の面目が立たないのではないか。この構図において北朝鮮の変化に最大の影響を与えうるのは、韓国社会の改革である。したがって、2013年体制の建設における決定的変数は北朝鮮にあるというよりは韓国にあるのである。
翻訳: 金友子
季刊 創作と批評 2012年 春号(通卷155号)
2012年 3月1日 発行
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