中国の変化を如何に見つめるべきか: 韓中修交20周年を迎えて
李南周(イ・ナンジュ) 聖公会大学中国学科教授。政治学。著書に『中国市民社会の形成と特徴』『東アジアの地域秩序』(共著)『二重課題論』(編書)などがある。lee87@skhu.ac.kr
1. 中国の改革開放と批判的な中国研究の苦境
今年の8月で韓中修交20周年を迎える。韓国戦争以降、40年間敵対関係にあった両国は1992年の修交以来、驚くほどのスピードで急接近した。特に経済交流が急速に増大し、2011年の韓・中の貿易規模は2206億ドルに上り、米国及び日本との貿易額(米国1108億ドル、日本1180億ドル)を合わせたものよりも多い。人的交流の規模も既に600万人を超えている。中国関連の情報も溢れ返っている。しかし、このような状況にも関わらず、中国の変化を如何に理解すべきかという問いに対する明確な答えは出ていない。殆んどが独自的な文明の伝統と驚異的な人口を保有している中国の浮上を不安な視線で見つめているか、或いは結局中国が西欧的な価値を受け入れる形で世界に参与するであろうといった漠然たる期待を持って見つめているかのどちらかだ。これは韓国だけではなく全世界において見られる同じような反応と言えよう。しかし、今必要なのは中国の不確実な未来への断定的な、特に政治的な利害関係の介入した結論を性急に出すことではなく、現在進行形の中国の変化を長期的な視線で把握できるような思惟体系を作り出していくことだ。
そのためには冷戦時代に中国研究の一つの流れを形成していた批判的伝統の継承と革新が必要であろう。批判的な中国研究とは、主流的な思惟体系を中国にそのまま適用することを問題視し、それを通して我々が生活している社会(地球的レベル、地域的レベル、一国的レベル)に対する認識を再構成する切っ掛けとする接近方法である。過去の中国革命の歴史、中華人民共和国の建立という謂わば「延安の道」と社会主義時代の文化大革命を含む持続的な内部革命は、代案的な思惟体系と社会の可能性を探る世界の他の国家の試みを刺激してきた。韓国では1970年代の李泳禧(リ・ヨンヒ)の作業が「批判的」中国研究の出発点と言えよう。このような遺産は韓国よりも日本で多く見い出すことができる。脱亜入欧論から始まり日中戦争まで経験した日本の立場からすれば中国研究は自国の問題と緊密に繋がっていたのである。自国の問題を土台に中国を分析する作業を通して、知識と科学という疑わしい名目で精神活動を抑圧する日本の近代知識界の限界を克服し、学術的なアイデンティディーを確立しようと試みた竹内好がその代表的な人物と言えよう。彼は1960年代の安保闘争時期に「中国」を平等意識の樹立(「強者を助け弱者をいじめる」思想的な傾向を取り除く)のための媒介と見なしていたと明らかにした。(孫歌(スン・グー)『竹内好という問い』尹汝一(ユン・ヨイル)訳、グリーンビ、2007、87~88頁と269頁) このような問題意識は溝口雄三にも見い出すことができる。(溝口雄三・陳光興・孫歌「面対歴史的敬畏之念-溝口雄三教授東京放談」、陳光興・孫歌・劉雅芳『重新思考中国革命』台湾社会研究雑誌社、2010) 彼の研究の限界については多くの問題が指摘できるが、冷戦的な思惟から離れ、中国を理解しようとし、それを通して韓国を支配していた冷戦的な思惟に挑戦したという事実は我々にとって現在も重要な意味を持つ。1990年代まで中国に対する我々の関心は謂わば共産圏の研究という政策的な必要により行われたものを除いては、このような批判的な観点により刺激された面が多い。
このような批判的な中国研究の伝統は1990年代以降、深刻な挑戦に直面した。ソ連や東ヨーロッパなどの社会主義の崩壊により「批判性」の資源が消えてしまったのである。フランシス・フクヤマの主張した「歴史の終わり」は批判性の直面した危機を劇的に物語っている。冷戦の解体と同時に「理念的な進化の終着点にたどり着き、西欧の「自由民主主義」が統治の最終的モデルとなった」という意味で歴史が終結したという彼の大胆な宣言の前で批判性の居場所を探すことは容易でなかった。Francis Fukuyama, The End of History and the Last Man, The Free Press 1992。そして、このような狭い意味で定義された民主主義、人権、市場などは、挑戦を許さない思惟体系の根幹となってしまった。勿論、冷戦時代以降、世界はテロと暴力に満ち溢れ、彼の主張にも多くの批判がなされたが、その主張を覆すだけの挑戦は未だに現れていない。フクヤマは、最近中国の権威主義体制が一定の効率性を備えており(特にイランやロシアと比較した場合)、政治的な面で民主主義体制と見られているインドよりも効率的であると認めてはいるが、自由民主主義体制の方が優れているという信念を持ち、自由民主主義への転換なくしては中国も深刻な挑戦に直面するだろうと見通した。(Francis Fukuyama, “US Democracy Has Little to Teach China”, Financial Times, January 17, 2011)批判的な中国研究が直面した危機はこれだけではない。中国の変化は批判的な中国研究の土台を決定的に弱化させた。1980年代から始まった改革開放は中国内でも世界文明、即ち西欧が主導的に発展させた近代文明との「軌道の一致(接軌)」を新たな思惟の主要課題として浮上させた。1980年代に改革派が、中国は「地球における戸籍(球籍)」を剥奪される危機に陥っており、このような事態を避けるためには改革開放、特に世界文明の積極的な受け入れが必要であると主張したのは、中国の言説の急進的な地形変化を見せてくれる例と言えよう。 「地球における戸籍(球籍)」という表現は、帝国主義の列強により滅亡へと向かうかもしれないという危機意識を持ち始めた清朝の末から「地球から戸籍が消滅するだろう」という表現と共に使われてきた。中華人民共和国の建国以後は、毛沢東が1956年8月に行ったある演説で中国がこのような膨大な国土、人口、資源、そして社会主義という優れた制度を持ちながら50~60年の間に米国を超えることができなければ「地球における戸籍を失うことになるだろう」と言って国家建設を促した。1980年代以降は改革開放の切迫感を伝える表現として使われた。例えば、改革開放30周年を記念する『人民日報』の論評で「改革開放を実施しなければいつかは地球における戸籍を失うことになるだろう」と改革開放の正当性を強調したりもした。(「不改革開放、総有一天会被開除球籍」、『人民日報』2008.12.4)中国が1992年、社会主義市場経済論の採択以降、素早く推進した市場化と対外開放は、資本主義の世界体制に対する批判性を支える資源というより、むしろこのような批判性の土台を崩壊し、さらには歴史の終わりを証明する例のように思われた。
このような変化により批判的な中国研究は西欧の自由主義の言説に専有された。研究の焦点が経済的な市場化と政治的な権威主義の不均衡に合わされたのである。勿論、ここには市場化と開放化が必然的に西欧式の自由民主主義体制への変化を促すだろうという前提が作用している。冷戦以降、言説の領域において覇権的な地位を占めている民主主義、人権、市場などが、中国に対する批判的接近のための武器となった。勿論、制度の自律性に注目する制度主義的な説明に従うと、国家が市場の拡大と経済発展において能動的で積極的な役割を果すことができ、市場化と権威主義との同伴関係が時期によっては効果的に共存することができるとも言える。しかし、このような説明も最終的なモデルとして自由民主主義を前提としているため、既存の思惟体制を超えるものと見なすことはできない。
このような説明に従ってしまうと、中国の変化を理解しようとする試みは結局、近代に西欧の主導により作り出され冷戦解体以来人類社会の最終的なモデルとして確認された政治モデルと経済モデルを中国が受け入れるか受け入れないかという単一的なレベルの問いに帰結してしまう。そして前者は成功への道として、後者は失敗への道として見なされる。核心的な問題はこのような成敗を当然の結果として受け入れるか、或いは中国の変化の中で新たな思惟体系と世界の可能性を求めて探索を再開するかというところにある。中国内では既に1990年代初めから批判的な中国研究の復元のための試みが持続的になされている。 汪暉(ワン・フイ)が1994年に発表した「中国社会主義と近代性の問題(中国的社会主義与現代性問題)」が出発点と言えよう。振り返ってみると、この論文が中国よりも先に韓国で発表されたこと自体が両国間の知識交流の新たな可能性を示していたのである。(汪暉「中国社会主義と近代性の問題」『創作と批評』1994年、秋号)このような流れを主導した学者たちは「新左派」と呼ばれていたが、主に人文学的な省察に留まっていたため、1990年代までは特に社会変化に影響を及ぼすことはなかった。ところが、最近中国モデル論をめぐる討論と前後して彼らの論議が人文学的・思想的省察に留まらず、現実の政策に影響を及ぼす要因として登場した。1990年代後半、温鉄軍(ウェン・ティエジュン)などが提唱した三農問題(改革開放以降、都農の格差の深化によって農業・農村・農民において発生した問題を総称する表現)に対する討論とそれに対する政府の積極的な受け入れは新左派が現実の政策に実際に影響を与えた最初の例と言えよう。このような流れが、果たして批判的な中国研究の新たな可能性を示すものなのか、そして我々の中国理解においてどのような示唆を与えているのか。これらの問題に焦点を合わせ、以下、論を展開していきたいと思う。
2. 新左派の中国モデル論、批判的思惟の復元?
中国が西欧の発展モデルに代わる新たな発展モデルを作り出す可能性はまず急速な経済発展により注目されるようになった。中国の経済発展が既存の理論で予測されたことならば、中国モデル論などといった別途の論議が行われる理由はないだろう。まず、共産主義の実現を目指した中国共産党の主導のもとで市場化改革と経済成長が推進されているという点が、新たな説明が求められる現象である。さらに、21世紀に入り中国共産党は、「和諧社会(調和社会)」と「科学発展観」をスローガンに成長と効率重視の発展路線を克服する必要性を強調し始めた。科学発展観は今年の秋に開かれる中国共産党の第18回全国代表大会にて胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席を中心とした第4世代指導部の主要業績として党章に反映される可能性が高い。 現在の党章(2007年10月21日通過)では「中国共産党はマルクスレーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論と三つの代表の主要思想を自分の行動方向として定める」と中国共産党の指導理念を説明しているが、これに「科学発展観」が追加される可能性が高い。このような変化は1980年代以降、経済領域において多大な影響力を行使してきたワシントン・コンセンサス(Washington Consensus)と対比されるものであり、そのため中国の独特な経験を説明する必要性が提示されたわけである。 この時期の中国モデル論に対する論議については、全聖興(ジョン・ソンフン)の「中国モデルの登場と意味」を参考。(全聖興「中国モデルの登場と意味」全聖興編 『中国モデル論』ブキ、2008)
しかし、歴史上の資本主義の多様な類型を考えると、必ずしも中国の経験が新たなものとは言い切れない。ドイツや日本は勿論、韓国、台湾などの権威主義的な体制のもとで経済発展を成功させた例は少なくない。このような現象を説明するために作られた東アジア発展モデルや発展国家モデルによって、中国の経済発展もかなりの部分解明できる。即ち、中国の発展方法は資本主義的な発展方法の下位類型に過ぎないかもしれない。そういった見方をすると、今さら中国モデル論という名のもと、このような論議を展開するのは中国の現実への誤った認識と期待を拡散させる可能性を高め、新たな意味を見つけることは困難であろう。
現在、中国の変化は成功的な面も見られるが、多くの問題を抱えている過渡期的な状況であるという点で、中国の経験を他の行為者の見本モデルとして構成しようとする作業が説得力を持ち難いという事実は中国モデル論のもう一つの問題点と言える。現在、中国内では左派と右派のどちらも改革開放路線に不満を表している。1980年代とは違い、改革開放への批判的な声が非常に高まっているのである。例えば、2005年にある知識人は、改革開放に対するコンセンサスが崩壊してしまい、重大な改革措置はしばらく中断すべきだと主張して大きな反響を呼び起こした。孫立平「1990年代以来革命此休克療法更激進:改革共識基本破裂、人民需休養生息」『経済観察報』2005.9.20。この時期と前後して中国内では改革開放がもたらした貧富の差や腐敗のような問題に対して批判的な声が高まったのである。思想界の注目すべき変化の一つは、毛沢東思想(社会主義体制のもとでも資本主義の復活の可能性はあるため、持続的な階級闘争がなおも党の中心事業でなければならないという内容であり、文化大革命を発動した根拠となった)の正当性を擁護するいわゆる毛派勢力の登場である。資本家階級が消滅した社会主義のもとで資本主義が復活するということは毛沢東の考えすぎという評価がなされているが、彼らは改革開放以降の中国の現実が毛沢東思想の正当性を立証していると見ており、中国共産党の改革開放路線を全面的に否定する立場を取っている。このような理由で、今年の2月の薄熙来(ポー・シーライ)事件発生以後、党と政府に対して批判的なメディアへの統制を強化する際に彼らの運営しているウェブサイトが主な対象となった。その一方で、市場化改革を支持する側の間でも政治改革の遅滞などによる不満が募っており、最近は産業と金融部門において国有企業の統制力が再び強化されることを改革の後退として見なしている。このような現象は「国進民退(国有企業は前進し、民営企業は後退する)」と呼ばれ、中国社会において大きな問題となった。筆者が2012年5月に出会ったある著名な改革派元老経済学者は「過去10年間、中国の改革は遅滞した状態である」と断言した。中国共産党は最高指導部が大幅に入れ替わる第18回全国代表大会を控え、胡主席と温家宝(ウェン・チアパオ)総理が執権していた過去10年間を「輝く10年(輝煌十年)」と大々的に宣伝しているが、内部の亀裂を完全には隠し切れずにいる。
従って、中国モデル論に対する論議において新左派の知識人を含めた中国内の論者たちは中国の独特な経験を語り整理することは確かに意味のあることだが、他の国家が目指すべきモデルとして打ち出すことは望ましくないと主張している。彼らは中国モデルの代わりに「中国の経験」「中国の道」といった概念で中国の独特な発展過程を説明する。このような慎重な態度を前提とするならば、これまでの中国モデル論に対する論議の中に、批判的な中国研究の発展のための手がかりが全くないわけではない。特に新左派の論議の中で資本主義的な発展過程が中国においても複製可能かという問いがなされたということ自体が重要な成果と言えよう。即ち、中国の経験は資本主義世界体制の持続性についての疑問が提起される限界的な状況と新たな経路の可能性を同時に示しているわけで、これと関連した積極的な思惟が必要だということである。このような問題意識は中国モデルに関する論議が「西欧的な近代」の普遍性と有効性への抜本的な問いへと深化する可能性を示している。 成謹濟(ソン・グンジェ)「温鉄軍の中国経験論:中国の真の比較優位はどこにあるのか」『東アジアブリーフ』6巻2号、85頁。
例えば、新左派の知識人の一人である黃平(ファン・ピン)は中国の工業化・都市化・現代化が環境と資源の制約から比較的自由であり、対外的な植民化と対内的な収奪が当時に行われた西欧のそれらとは違って当然という点を強調しながら、それを解釈できる分析的な概念の必要性を唱えた。 黄平「‘北京公識’還是‘中国経験’」黄平・崔之元『中国与全球化:華盛頓還是北京公識』社会科学文献出版社、2005、8~9頁と14頁。このような問題意識を積極的に発展させた代表的な人物がジョヴァンニ・アリギ(Giovanni Arrighi)である。彼は歴史的な資本主義の循環から離れ、新たな世界秩序へと向かう可能性を中国の変化に求めている。特に資本家階級が中国経済と社会の管制高地の掌握に失敗し、政府が全ての資本(外国資本、公共資本、民間資本)の競争を積極的に奨励し、市場を支配の道具として利用しているという点に注目し、中国の市場経済を「非資本主義的」であると規定している。ジョヴァンニ・アリギ『北京のアダム・スミス:21世紀の諸系譜』姜抮亞(カン・ジナ)訳、キル、2009、458頁と507頁。さらに、社会主義的市場経済の発展が持続できれば、中国は文化的な違いを真に尊重する文明連邦の出現に決定的な役割を果すことができるだろうと期待している。 ジョヴァンニ・アリギの前掲書535頁。
このような問題意識は一国的なレベルのものではない。中国において西欧式の発展路線が複製不可能であるということは、地球的なレベルでの発展の環境と資源が徐々に制約されつつあり、対外的な殖民主義により内部の矛盾を転嫁して資本主義的な発展を持続させようとする試みもやはり限界に直面した世界体制の危機的な状況から生じたものだからである。もし、中国が近代的な発展を早くに始めていたのなら、西欧式の経路を目指すことも不可能ではない。今も中国が蓄積危機に直面している資本主義世界体制の突破口を提供してくれる可能性を排除することはできない。 デヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)『新自由主義:その歴史的展開と現在』チェ・ビョントゥ訳、ハンウルアカデミー、2007、306頁。しかし、現在の資本主義世界体制が崩壊危機とまでは言えないにしろ、ある変曲点に直面しているという兆候は続々と現れている。資源と生態の危機だけでなく、米国の双子の赤字(貿易赤字と財政赤字)の増加、基軸通貨であるドルの不安定性などの構造的な問題も深化しつつある。さらに経済的な面で世界体制に積極的に加わっている中国がこのような危機構造を生産する最も重要な内在的な要因ともなっている。即ち、中国の変化は一国的なレベルを超え、世界体制の変化に重要な意味を持っている。このようなレベルで接近するならば、批判的な中国研究は単なる中国への理解だけでなく、世界体制の危機を認識し、新たな可能性を探索する努力へと繋がらなければならないのである。
3. 中国共産党を如何に評価すべきか:二重的な批判の課題
しかし、現在の中国モデル論の論議が、中国の複雑な現実を説明し、目前の課題を解決するにおいてどれほど役立つかはやはり疑問である。最も大きな問題は新左派などによる論議が中国共産党の統治の正当性と中国の現実を擁護する論理へと転落する可能性があるという点である。
このような問題点を浮き彫りにする一つの例として潘維(パン・ウェイ)の中国モデル論を挙げることができる。彼は「法治」と「民主」を区別し、中国に必要なのは民主ではなく、法治であるという独特な主張により西欧式の民主主義の導入の必要性を否定し、中国式の政治モデルを正当化した。このような主張は西欧において多くの批判を呼び起こした。彼は近年中国モデル論に関する論議にも積極的に参加し、中国モデルを「国民経済」「民本政治」「社稷体制」から構成された三位一体モデルである「当代中華体制」にまとめて提示した。潘維『中国という新たな国家モデル論』、 エバーリッチホールディングス、2010。しかし、多くの問題を抱えている中国をこのような定型化された経済モデル・政治モデルをもって説明すること、そして当代中華体制という用語が示しているように、中国の5千年の歴史と伝統を一つのモデルに統合しようという試みは現実とかけ離れた一般化へと帰結する可能性が高い。中国の変化を歴史的過程の産物として解釈しようとする試み自体は問題ではない。しかし、その変化における多くの要素間の緊張関係を捉え、それらの相互作用を観察するのではなく、単純な一つの総合的な概念をもって歴史を説明するのは現実の複雑な問題を見逃すことになってしまうだろう。
このような問題点は新左派の知識人の一人である甘陽(カン・ヤン)の主張にも見られる。彼は儒教伝統、毛沢東(マオ・ツォートン)時代に根付いた平等と参与の伝統、そして改革開放以後形成された市場経済に対する信念と自由の追求という三つの文明の共存の中で中華文明の新たな発展を模索すべきという謂わば「通三統(三つの伝統を統一)」論を主張した。 甘陽「三種伝統的融会与中華文明複興」『21世紀経済報道』、2004.12.29。 新左派の知識人たちは、その中でも特に改革開放以前の社会主義の遺産の肯定的な側面を強調することに力を注いだ。 黄平•姚洋•韓毓海『我們的時代-現実中国從哪里来、往哪里去?』, 中央編訳出版社、2006。それは、これまで改革開放以降の歴史を改革開放以前の歴史と対立させてきた中国現代史に対する理解方法を再検討し、その内部の連続性を見つける切っ掛けを提供してくれた。例えば、中国を後進させたと考えられている毛沢東時代に、自立的な工業体系を建設し、独立的な主権を確保することにより保健及び衛生を画期的に改善するなど、改革開放以降の経済成長の基盤がこの時代に構築されたという点が強調された。このような説明にはかなり妥当性がある。即ち、中華人民共和国の歴史において改革開放以前と以後との間には断絶だけでは説明できない内的な関連性があるからだ。しかし、お互いに激しい亀裂と緊張が存在する文明的な資源を性急に和解、且つ総合しようとする行為はもう一つの偏向へと陥る可能性が高い。「G2」という造語が登場するほど中国の経済的実力が増大し、中国の道が成功へと向かっているという自信が強まったこと、そして2002年度に発足した共産党の指導部が少なくとも修辞的な側面では新たな発展観を強調したことなどが、中国の経験を新たな文明形成の可能性へと結びつけようとする性急な試みを生み出したように思われる。
このように中国が西欧式の近代を複製することができるのか、或いは西欧の資本主義的な近代とは異なった発展経路を辿るべきなのかといった問題意識が、中国において代案的な発展の道が現実化しているという主張へと繋がってしまっては批判的な中国研究とは程遠くなってしまう。これは地球的なレベルでの資本主義世界体制に対する批判的な意識が、中国の現実の前では停止してしまうことを意味するからだ。西欧の左派の中にはアリギのように中国の変化に新たな可能性を求める人々もいるが、これに対して非常に批判的な立場の人々も存在する。スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)は西欧で中国を資本主義の歪曲されたバージョンとして見なす場合が多いが、実はヨーロッパの資本主義の歴史を繰り返しているのであると指摘しながら、「中国式の権威主義的な資本主義こそ過去の残滓ではなく、未来の兆候である」と主張した。(スラヴォイ・ジジェク「民主主義から神的暴力へ」アラン・バディウ外『民主主義は、今?-不可能な問いへの8つの思想的介入』キム・サンフン、ヤン・チャンヨル、ホン・チョルキ訳、ナンジャン、2010) デヴィッド・ハーヴェイも「中国は「中国式」の特性を有しているが、間違いなく新自由主義化と階級権力を再構成する方向へと向かっていると結論付けることができる」と断言している。(デヴィッド・ハーヴェイの前掲書、306頁) 西欧の左派内でのこのような立場の違いは中国の変化を理解することが如何に大きな挑戦であるかを今一度確認させてくれる。貧富の格差の増大、頻発している大衆デモ、庶民層と公権力との衝突、政治的腐敗などの現実の中で、潘維の中国モデル論や甘陽の通三統論が生命力を得ることは容易ではない。批判的な中国研究は、中国内で西欧式近代性の現象的な対抗物を見つけ出し、それを代案的な道として承認することではなく、地球化に内在する近代性への省察と同時に中国共産党に対しても批判的な距離を保つ二重的な批判の課題を受け入れなければならない。
汪暉(ワン・フイ)の最近の論議はこのような面で前述の流れとは意見を異にする。彼は自由主義的なヘゲモニーが克服できる思惟体系の可能性を持続的に模索しながらも、そのような可能性が中国において既に現実化されたと判断するといった、現実の複雑な矛盾から目を背けるようなことはしない。最近の「脱政治」に対する彼の論議がそれを証明している。汪暉「去政治化的政治、覇権的多重構成与六十年代的消逝」『開放時代』、2007年2号。彼は文化大革命への改革開放以降の評価を問題にしている。改革開放以降の中国共産党は文化大革命を「全面否定」し、これと関連した論議は事実上タブー視された。汪暉も大衆運動内の派閥闘争とそこから始まった暴力などにより文化大革命が失敗に終わり、むしろ政治への幻滅をもたらしたという点を認めている。 しかし、この時期に官僚主義的な当局体制を克服し民主主義を作り出すための「下からの試み」が存在したことを否定してしまうのは不当であり、その経験に対する慎重な省察が必要であると主張している。特に文化大革命の歴史に対するこのような容易な処理の仕方が改革開放の時期に下からの政治を排除して政治を消滅させる結果をもたらした点に注目し、改革開放がもたらした多くの問題もこれと関連していると見ている。例えば、改革開放時期に新たに作られた「82年憲法」において、文革時期の「75年憲法」に含まれていた大鳴(言いたいことを言うこと)、大放(言いたいことを自由に言うことで、一般的に「大鳴」と合わせて「大鳴大放」と表現する)、大弁論、大字報などの4つの自由を保障するという項目を削除した事実を権威主義体制への転換を象徴する例として取り上げている。特に脱政治が新自由主義的な改革のための政治環境を作り出しているという点が彼の最も懸念している現象である。従って、改革開放のもたらした問題を克服するためには脱政治への反省がまず必要だというのが彼の核心的な主張である。
このような論議の中には中国共産党への批判的な接近の切っ掛けが存在する。彼は、中国の直面した最も大きな挑戦とは、地球的な資本主義の市場経済のもとで政党と国家が経済構造と同一化し牽制能力を失ってしまい国家自身の独立性を脅かされることだと言う。また、政党(中国共産党)の国家化(市場経済の各種の利益と緊密に繋がっている国家)がこのような傾向を加速化させる可能性が高いため、中国共産党が資本と市場から政治的な独立性を保つことが重要なポイントであると強調する。 これについては、汪暉「中国崛起的経験及其面臨的挑戦」『文化縦横』、2010年2号で詳細に論じている。中国共産党が社会主義的な価値を目指し、社会主義革命を通して建設されたという点で資本主義の世界体制と新自由主義を克服するために必要な思想的・歴史的な資源を有しているということは確かである。しかし、それと同時に脱政治化によって大衆の参与と監視が排除された状態のもとで中国共産党が新自由主義的な市場化の捕虜となる可能性もあると懸念を示している。
このように彼は中国共産党の建設的な役割に対する肯定とそれに対する批判性との間で均等を保とうとしているが、それが成功しているとは言えない。均衡を保っているというよりは両者の間で動揺しているように見えるからだ。
まず、汪暉は中国モデルに関する論議に参加する過程において前者の可能性をより積極的に評価した。彼は中国モデルというものが存在するとしたら、主権の独立性を確保及び維持している点とその独立性が政党(中国共産党)を通して完成したという点が核心的な特徴であると主張した。 汪暉の中国モデルについての最近の説明は「中国道路的独特性与普遍性」(http://www.chinadaily.com.cn/. com.cn/zgrbjx/2011-04/27/content_12408422.htm)を参考。この論文は「百年清華、中国模式」の講演をまとめたものである。さらに、中国共産党は既存のモデルを追及したのではなく、内部の理論闘争、政治闘争、社会実践などを通して新たな道を生み出し、その過程において党内に「自己矯正メカニズム(自我糾錯機制)」が存在したことを示してくれたと強調した。そして、最近の中国の変化、特に冷戦体制解体以降も政治安定と経済発展を維持しているところからその可能性を確認できるとしている。このような論理は彼が中国共産党の統治を正当化する御用学者へと変わりつつあるのではないかという疑いさえ持たせる。そのため1990年代に批判的な研究者と呼ばれることを望んだ汪暉自身が自ら批判性の基盤を崩壊しているのではないかという懸念の声も上がっている。 白承旭(ベク・スンウク)「中国の知識人の視野の中の「中国の崛起」: 汪暉の「中国崛起の経験と直面した挑戦」に付して」、 聖公会大学東アジア研究所主催の討論会「チャイメリカG2時代を歩む方法」(2011.4.27)討論文。
しかし、今年の薄熙来(ポー・シーライ)事件以降、彼の立場に大きな変化が見られた。このような転換には2012年に入って中国の内部と海外で国有企業の民営化改革を主張する声が高まっていることが重要な背景となっている。米国の前国務副長官ロバート・ゼーリック(R. Zoellick)が総裁である世界銀行(World Bank)が発表した「China 2030」でも民営化改革を勧めており、これを受けて中国内の改革論者たちも政府と共産党にトップダウン(top-down)式でこのような改革を推進することを要求している。汪暉の目には薄熙来事件に対する処理が、下からの政治の活性化を遮断し新自由主義的な改革を加速化させるための政治的条件を作り出す作業として映ったのである。しかし、まだ中国共産党が国有企業の民営化の推進など、市場化改革を加速化しようとする様子は見られない。彼は、この事件が既に直接的な発端とは関係なく、中国共産党の密室政治が地方と群衆の主導する改革開放の直面した問題を解決しようとする自発的な努力(重慶モデル、又は重慶実験)を否定し、新自由主義的な変化のための多様な環境を作り出す政治的な事件としての性格を帯び始めたと見ている。汪暉「重慶事件:密室政治と新自由主義の捲土重来」成謹濟訳『歴史批評』、2012年、夏号、170~72頁。このような状況の展開は中国共産党の自己矯正メカニズムだけに頼ることはできないということを意味し、そこで汪暉は人民の政治を復元できる政治改革を積極的に主張することになったのである。勿論、彼の主張しているのは私有化と資本ヘゲモニーを基本としている多党制とは異なった、人民の積極的な参与と人民の利益に有利な社会改革を結合した社会主義的政治改革である。特に、密室政治に相反する意味として自発的な政治行動の自由を保障する「公開政治」を強調している。汪暉の前掲書「重慶事件:密室政治と新自由主義の捲土重来」、180~82頁。このように汪暉の視線は、人民、即ち下からの動力に注目する方向へと移ったと言えよう。しかし、果して「下からの政治」に実体はあるのか、あるならばどのような経路を通して実現できるのか、といった問いへの明確な答えは出せないでいる。汪暉をはじめとする新左派が中国共産党とある程度の距離を維持することのできる客観的な土台、例えば大衆運動との連係などが欠如している点は彼の批判を多少空虚なものとしているように思われる。
4. 韓国における批判的な中国研究への道
韓国における中国研究は、中国の学者たちに比べて中国の現実や中国共産党という政治的実体との距離が維持しやすい。だからと言って、前述したような中国内の批判的研究の直面した問題から完全に自由なわけではない。特に中国が急速に浮上すればするほど、我々も対立的な二つの要素が引っ張り寄せる力により批判性は失われ、二項対立の構図へと編入される可能性が高い。一方では中国の浮上を牽制しようとする力が強く作用し、これが世界を理解するための新たな可能性を中国に求める努力を否定することになるだろう。また一方では、中国において近代自由主義ヘゲモニーへの挑戦が激しくなり、これが我が国の問題を解決するための新たな可能性を中国で探そうとする行動をかきたてることになると思われる。今後、中国の民主主義と人権、経済発展モデル、そして中国の浮上により変化した東アジア秩序などの問題と関連して、両者は対立的な解釈と展望を提示するであろう。ところが、中国に対する理解がこのように二つの方向へと分かれてしまうと、新たな思惟の可能性を失うだけでなく、中国の浮上がもたらした挑戦にまともに対応することすらできないのである。
このような意味で、中国の変化を正しく理解するためには中国研究の基盤となる思惟体系を絶えず問題化すると同時に、中国の現実を無批判的に受け入れることを避けるよう努力すべきである。このような努力が成果を上げるまでにはかなりの時間を要するであろう。間もなく中国で急進的な変化が起こるだろうといった期待や、人類社会が資本主義的矛盾から抜け出すことのできる道を中国が辿り始めたといった期待は、全て希望的な思考から生まれたものだ。前者の場合は、これまで多く予測されたが、全て外れてしまった。もし中国に何か可能性があるとすれば、それは中国内において既に実現の手がかりが現れているというよりは、中国が近代の発展路線をそのまま辿ることができるのか、もしそうならばどのような問題が発生するのか、さらには中国が新たな道へと進むための如何なる資源を有しているのかなどの問題を把握する過程で見つけることのできる未来の現実なのである。
中国の浮上は既に世界経済の深刻な不均等をもたらし、資源と環境の制約を一層深化させている。それと同時にインドやブラジル、ロシアなどで進行中の全面的な工業化までも考え合わせると、これは資本主義の歴史の中では前例のない挑戦である。このような挑戦が、歴史的な資本主義内に存在し、成功的に作動していた発展方法によって解決可能であるかについては疑問である。このような意味で、中国は我々にとって批判的な思惟を強化させる切っ掛けとなるかもしれない。だからと言って、中国にこのような挑戦を克服できる思惟体系が既に設けられているわけではない。中国は問題の一部分として見なした方が妥当であるため、中国の現実に対する批判的な態度を保つ必要がある。「知りたいこと」によって導かれた中国理解は現実からかけ離れてしまう可能性が高い。中国研究にある程度の志向性は必要であるが、「知っていること」とのバランスを維持すべきであり、その間隔から批判的な中国研究の可能性が生まれるわけである。白永瑞(ベク・ヨンソ)「中国、知っているだけ見ているか」『西南通信』、2012.4.25。そして、我々の批判的な思惟とは、中国に存在する思惟体系の輸入ではなく、新たな思惟を作り出していく共同の努力を促進するものでなければならない。
筆者は中国の学者たちとの交流過程を通して、近代における我が国の経験とその過程において蓄積された思惟の力が批判的な中国研究の発展に大きく寄与することができるという事実に気付いた。中国では1990年代の「新左派対自由主義の論争」から最近の「左右の論争(左右之争)」に至るまで、知識人の間で西欧式の自由至上主義と平等という価値が極端的に対立する様相が現れており、両者の緊張した共存が不可能な状態である。これが、中国の知識人社会の中での論争が極端的な対立へと至り、現実に影響を与えることを困難にする要因の一つである。これに反して、韓国では知識人たちが自由、平等、平和などの複合的な課題と向かい合い、これらの間に横たわっている張り詰めた緊張感に耐え、韓半島(朝鮮半島)と東アジアのレベルで新たな可能性を模索してきたと評価することができる。このような我々の経験が中国の知識人たちにも自分自身の思惟を再評価することができる切っ掛けを与えることができると思われる。特に資本主義世界体制からの漠然たる脱走を目指すのではなく、その圧力に耐えると同時に新たな道を模索しようとする持続的な努力と実践が、同時代的な矛盾を共有する韓国と中国の知識人の距離を縮め、中国の変化、そしてその変化が世界に及ぼす影響を理解するための共同の基盤を提供するであろう。韓中修交20周年を迎え、今後の我が国の中国研究が中国を対象とする知識生産を超え、両国が共に新たな思惟体系を作り出す方向へと発展することができればと思う。
飜訳: 申銀児
季刊 創作と批評 2012年 秋号(通卷157号)
2012年 9月1日 発行
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