창작과 비평

2013年体制と変革的中道主義

2012年 秋号(通卷157号)

 

 
 
白楽晴(ペク・ナクチョン)  文学評論家、ソウル大学名誉教授。近著に『どこが中道でなぜ変革なのか』『統一時代の韓国文学の価値』『白楽晴会話録』(全五巻)などがある。paiknc@snu.ac.kr
 

 


1.『2013年体制づくり』の刊行後

 

拙著『2013年体制づくり』(チャンビ、2012年、以下『体制づくり』と略す:邦題『韓国民主化2.0――「2013年体制」を構想する』、岩波書店)が刊行されて半年が過ぎた。ダイナミズムを誇る韓国社会はこの間にも大きく変化したが、特に政治分野での変化が大きかった。4月11日の総選挙では、著者を含む多くの人々の予想に反して与党・セヌリ党が勝利した。総選挙直後に世間の注目を集めた統合進歩党事件は、多くの曲折を経た末の現在、今後の進路が不透明な状況になっている。大統領選挙(以下、大選と略す)の局面も本格化し、セヌリ、民主両党の党内選挙が華々しく展開され、安哲秀教授の出馬がほぼ確実視されるにつれて、政局は新たに揺れ動く気配である。

私としてはまず、総選挙の結果を間違って予測したまま「2013年体制づくり」を論じた自らへの反省からはじめるのが順序であろう。未来予測に失敗すること自体はいつもあり得る。問題は、その失敗が2013年体制論を通じて警戒していた目前の勝利への過度の執着と、それに伴う安易な楽観に起因し、そのため自ら反省したように、「総選挙で敗北した場合、2013年体制の建設はどうなるのか、に応える設計図がなかった」 白楽晴、尹汝雋、李海瓉の鼎談「4・11総選挙以後の韓国政治」、『創作と批評』2012年夏号、183頁。これと似た反省の弁を、総選挙直後(4月19日)に『プレシアン』とのインタビューでもしている(「2013年体制、どういう大統領になるのかがポイント」、『プレシアン』2012年4月23日)という点である。重ねて言えば、2013年体制のためには総選挙の勝利が必須だ、という論議を深く考えずに展開したのである。そこには、次期(第19代)国会を野党側が掌握しないと、政権交代を実現しても次期大統領の国政運営はスムーズにいかないだろう、という判断とともに、総選挙を通じて朴槿恵候補の鋭鋒を挫くことで大選勝利が確保されるだろう、という期待も作用した。その中で、立法府を掌握することの重要性に関する部分は今も有効な判断だが、韓国社会に実在する勢力バランスを次期大統領とその支持勢力がうまくコントロールし、ある意味では活用すべき現実であり、2013年体制自体を不可能にする要因ではない。反面、大選勝利に対する安易な期待は、実際に政権交代を実現しようとすれば、早急に正さねばならない安逸な姿勢であった。

そうした安逸さは、野党側の連帯に関連しても表れた。総選挙勝利の必要条件たる選挙連帯が辛うじて達成できた時、それが十分条件とはいかに程遠いものかを冷静に評価できなかったのだ。特に野党側の二政党が、双方ともいかに不誠実で、2013年体制の建設準備がいかにできていなかったか、選挙敗北後に実感することになった。とはいえ、そうした選挙連帯なら初めからしない方がマシだという判断には同意できない。それすらなかったら、セヌリ党は前回の総選挙時のハンナラ党に次ぐ圧勝をたやすく収めたし、そういう議会は2013年体制に決定的な障害になっただろう。

ともあれ、総選挙での野党側の敗北にもかかわらず、2013年以後大きく変貌した世の中、「2013年体制」と呼ぶに値する新時代を熱望する国民は依然として数多い。2013年体制論という言説にしても、新時代に向かう願を大きくたてて、その準備を着実に進めてこそ、2012年の選挙勝利も見通しうるという基本的論旨は、総選挙の敗北後、より断固として堅持する必要を実感する。

それゆえ、2013年体制論も新たな状況の展開と、それによる省察を土台にして一層進展させるべきなのだ。本稿では、拙著『体制づくり』の初めに強調した「心の勉強」(第1章42頁参照)から出発し、『体制づくり』ではほとんど触れなかった「変革的中道主義」に再度注目してみようと思う。『体制づくり』執筆の際、総選挙を控えて、できるだけ多数の読者を意識して難解な概念用語は最小限にしようと思ったが、その後の教訓を反芻して新たな出発を誓う以上、より根本的な省察が不可避である。結局、「希望2013」を実現して「勝利2012」を確保しようとすれば、概念作業上の労苦は多少伴うにせよ、変革的中道主義の本意と現実的用途を精査するのは省略できないようである。

 

2.分断体制内の心の勉強・中道の勉強

 

たとえ心の勉強が重要とはいえ、一般の読者や聴衆が相手の場合、そういう話を長くしないように注意している。そうした中で、去る5月24日曹渓宗禅林院の招きで講義する機会を得たので、「2013年体制と中道の勉強」というタイトルで仏教的中道の勉強について少し詳しく言及した。ここに、その話から相当部分を援用した。

心の勉強について再論するのは、政治問題を倫理問題に還元させるためではない。「改革しようと思えば(……)改革され革新された人がいなければ」ならないが、「こうした準備がなされずに、改革しようとすれば複雑化し、無秩序を招くだけ」(大山・金大擧)拙著『どこが中道で、どうして変革なのか』(チャンビ、2009年)の第14章「統一時代・心の勉強・三同倫理」、292頁を参照。この間の私の作業に多少ともなじんでいる読者には、「分断体制」の概念をあらためて説明する必要はないだろう。そうでない読者は、前掲『体制づくり』の第7章「韓国民主主義と朝鮮半島の分断体制」で比較的詳しく紹介したので、参照してほしい。ということを、あらためて実感する現実だからだ。これは2013年体制をつくろうとする場合、各自肝に銘ずべき点であり、「分断体制が怪物であるなら、分断体制内で長い間生きてきた私たちすべてが心の中に怪物を1つずつもっている、という点」拙稿「北の核実験後:南北関係の“第三当事者”たる南の民間社会の役割」、前掲書、141頁。もまた忘れるべきではない。

変革的中道主義という際の「中道」とは、元来仏教用語である。儒教でも、「中庸の道」の縮約語として使うこともあり、「中庸」の概念とも大きくは異ならないと思う。とにかく、有と無の両極端をあわせて超える空の境地が中道だが、もちろん空自体にも執着しないでこそ、真の中道になる。空を悟ったからといって、何事にも「空」を掲げるような態度は、「空」に対するもう一つの執着であり、真の中道にはなりえない。こうした態度を「唯識仏教」では、「悪取空」と規定し、そうした部類を「悪取空者」と称するという。 龍樹菩薩『中論』、金星喆・訳注、経書院、2001年(第3次改訂版)、「訳者後記」を参照。つまり、中道とは真理が空であることを説破しながらも、自らへの執着はそのまま抱いているの(我有法空)ではなく、私と法がともに空(我法両空)の場として、日常生活で貪・瞋・癡に決別する修行、および現実の中での菩薩的行いをやめた「空打鈴」とは関係ないのだ。

「空」ではない貪・瞋・癡からの決別を語るにしても、具体的な政治・社会の現実とかけ離れた超歴史的な課題を設定するという疑いは相変わらず残る。実際、欲の深い心と、憤って憎む心、そして愚かな心という三つの毒心はすべての人間、いやすべての衆生が抱いている問題として、これをとり除く勉強はいつの時代であれ、難しい。その点を認めながらも、私たちが属する資本主義世界体制では、それらが体制運営の原理になっている事実を洞察することが重要である。これについては、「統一時代・心の勉強・三同倫理」でも言及したことがあるが(前掲書、294~296頁)、ここで多少敷衍しようと思う。

貪心といえば、資本主義が人間の貪欲を肯定し、これを社会発展の動力とみなしているのは、誰もが認める。この時、個人的レベルでは貪欲とはみなしにくい企業家はいくらでもいるが、「利潤の無限追求」という体制原理を軽視して成功するケースは少数の例外にとどまるものだ、という点が重要である。いや、個人レベルの禁欲と自己犠牲さえ、「成功」の道具、つまり貪欲さによって体制の運営に服務する方便となる、という体制なのだ。

瞋心、つまり憤って憎む心についても、絶えず競争者を淘汰してこそ、生き残れるのが資本主義の作動原理である。もちろん殺伐な競争が発展を刺激することもあり、実際資本主義の夥しい成果は、それに起因してもいる。しかし、これは遊びやスポーツ、または学問や芸術のような――もちろん、こうした活動も資本主義の発達とともに、勝者独占の傾向が強まりやすいが――「善意の競争」とは本質的に異なる。個人的な憎しみは全くなくても、他人を負かしてこそだし、自分に入ってくる利益がなければ、負かした相手に関心をもってはならないのが体制の原理なので、許しと分かちあい、世話するような気持の動きは、それ自体が競争勝利の道具にならない限り、例外的にしか存在しない。

癡心に関連しては、資本主義以外の「対案がない(There Is No Alternative)」という命題こそ、愚かさの極致に該当する。すでに述べたこと(前掲書、295~296頁)だが、イデオロギーによる支配がこのように全面化するのが、資本主義時代の愚かさの核心である。とはいえ、人類史の社会なら、それなりのイデオロギーに支配されない例はなかったし、少なくても科学の発達と知識の普及の面で、資本主義の近代が歴史上最も啓蒙された時代という反論も可能である。しかし、問題は個々人がどれほど賢くなったかではなく、まさに「啓蒙」と「科学」の名により、科学的知識ではない真の悟りの可能性自体が否認されるのが、近代的な知識構造の特徴だという点である。仏教では、知恵の光明から疎外された衆生の境地を「無明」と言うが、こうした「無明の構造化」が科学的な真実までイデオロギーにしてしまうのが、資本主義の時代である。

資本主義一般のこうした現象は分断体制という媒介を経ると、一層深刻かつ低劣な形で表れる。最も著しいのは、おそらく怒りと憎しみの威力だと思う。分断の相手に対する憎悪がむしろ思想的健全さの担保となり、社会的弱者や少数者に対する配慮さえ排斥の対象になることがよくある。何かあると表出する「親北左派」の呼号がそれである。さらに、不遇な隣人に余分な食糧を分けてやるのは、わが民族伝来の美風だが、北の飢える子供や同胞への人道的支援ですら「バラまき」というレッテルを張り、容赦ない攻撃の対象にするのが常だ。

こうした状況で、貪心の作動は歯止めがなくなる。資本主義の構造化された貪心への民主的な牽制装置として、先進国では常識といえるものでも社会主義、または共産主義と罵倒されることがよくあり、個人的貪心の赤裸々な発動は「自由民主主義」と「市場経済」の名により擁護される。今日韓国が世界的な経済大国になっても賤民資本主義のレッテルを剥がせない理由でもある。

同時に、資本主義世界体制より歴史がずっと短く、性格が特殊な分断体制ですら、これ以外には対案がない、まるで自然に与えられた生活環境のように見なす癡心が蔓延している。そして、分断体制はそれなりに持久力があり、一つ誤れば爆発する危険がなお存在する現実にもかかわらず、南の社会の集団的貪欲と憎悪の念を発動させ、休戦ラインを勝手に廃棄できるように思うのもまた、「無明」の威力を示している。

こうした毒心の威勢は北でも、北特有の貪・瞋・癡が猛威をふるっているので、さらに克服しがたい。分断された双方の相互依存的な敵対関係と、これによる分断体制の自己再生産能力は、まさにそうした点から出てくる。例えば、北当局の敵対的・好戦的発言と時々行われる挑発行為は、南の社会で憎悪の念の威力を絶えずかき立てる。ひどいと、いわゆる挑発行為の証拠が薄弱な場合でも、「北の体制は悪い、だから悪い行動すべてが北の仕業だ」という論理ならざる論理の助けで簡単にやり過ごす。これは、「米帝国主義と南朝鮮の親米事大主義者は悪い、だから、我々の不幸すべては彼らのせいだ」という、北特有の癡心と相互補完の関係にあるのは言うまでもない。

そのため、心の勉強を順調に進めるためにも、貪・瞋・癡の威勢を保障して育てあげる分断体制をまず打破しなければならない。「変革的中道主義」の変革対象が分断体制であるのも、そのためである。

ここで不必要な混乱を防ぐために、「中道」「中道主義」「変革的中道主義」などの概念の相互関係を、一応整理してみるのがいいかもしれない。政治路線としてよく標榜される中道主義ないし中道路線・中間路線は、仏教的な中道とは全く異なる次元の概念であり、内容上も距離が遠い。ただ、それが「変革的中道主義」となる場合は、現実政治の路線にもかかわらず、元来の中道に再接近するのだ。中道の「空」が「悪取空」にはなるまいと思えば、今ここでの貪・瞋・癡の克服作業と結合しなければならず、今日の朝鮮半島の場合、そうした心の勉強は分断体制の変革を志向する政治的実践を伴わざるをえないからだ。

 

3.変革的中道主義をめぐる議論の進展

 

では、変革的中道主義の具体的内容は何か?

この問いへの答え方も『中論』から借りられそうだ。つまり、何が「空」で、「中道」なのか、その内容を直接教えようとするより、何がそうではないのかを悟らせていくことで中道に達する方法である。変革的中道主義も、やはり私たちの周辺でよく見かける理念とどう違うのかを明らかにしていくなら、自然とその道筋が見えるのではないかと思う。

1)「変革的」中道主義から「変革」が抜けた改革路線ないし中道路線とは異なる。ただ変革は変革でも、その対象は分断体制なので、国内政治における改革路線とはいくらでも両立可能である。ただし分断体制の根本的な変化に無関心な改革主義では、変革的中道主義という「中道」に達しえない。

2)変革とはいえ、戦争に依存する変革は排除する。「変革」という単語自体は戦争、革命など、あらゆる方式での根本的変化を包括するが、今日の朝鮮半島の現実で、そうした極端な方法は不可能である。だから、変革的「中道主義」なのだ。

3)変革を目標とするが、北だけの変革を要求するのも変革的中道主義ではない。南も変わる、朝鮮半島全体が一緒に変わらないで、北だけの変化を期待するのは非現実的なだけでなく、南社会の少数層の既得権の擁護に傾いた路線であり、中道主義ではないのだ。

4)北はどうせ期待できないので、南だけ独自の革命や変革に重きを置こうという路線も変革的中道主義ではない。これは分断体制の存在を無視した非現実的な急進路線であり、時には守旧・保守勢力の反北主義に実質的に同調する結果になることもある。

5)とはいえ、変革を「民族解放」と単純化する路線も分断体制の克服論とは異なる。これもまた、分断体制と世界体制の実情を無視した非現実的な急進路線であり、守旧勢力の立場を強化するのがオチである。

6)世界平和、生態親和的な社会への転換など、グローバルなアジェンダを追求して日常的実践も怠らないにしても、グローバルな企画と局地的な実践を媒介する分断体制の克服運動への認識が欠けていたら変革的中道主義とは距離があり、こうした論旨をエコロジーとの関連で述べたのが、拙稿「近代韓国の二重課題とエコロジー」、李南周編『二重課題論』(チャンビ言説叢書1、チャンビ、2009年)である(特に、第3節「分断体制克服運動という媒介項」を参照)。現実的にも少数派の限界を超えるのは難しい。

前述したように、変革的中道主義の概念は『体制づくり』でほぼ姿を隠した。しかし、私自身の言説では長い間重要な位置を占めていた。私たちの時代の真の進歩は変革的中道主義だと指摘したのは2006年が最初だが、『韓半島式統一、現在進行形』(チャンビ2006年)第2章「6・15時代の大韓民国」中、「6・15時代の真の進歩は『変革的中道主義』」(30~31頁)を参照(同部分の邦訳は、拙訳『朝鮮半島の平和と統一』、岩波書店、2008年、第5章104~105頁)。この論旨は同書第4章「分断体制と『参与政府』」の補足で「変革的中道主義と韓国民主主義」として敷衍された(58~61頁)。基本的発想は6月民主抗争により「民族文学の新段階」が開かれる状況で、「6月以後」を見る当時の重要な視点3つを批判する必要性を提起する形で発表した。拙稿「統一運動と文学」、『創作と批評』1989年春号、拙著『民族文学の新段階』(創作と批評社1990年)、124~129頁参照。つまり、上に列挙した「変革的中道主義でないもの」の中で、1)に該当する中産層の穏健改革路線と4)と5)に該当する急進運動圏のいわゆる民衆民主(PD)路線と民族解放(NL)路線を乗り越えながら、これらすべてを賢く結合させようというものだった。もちろん、これは87年体制内で一つの主張として残り、今その実現は2013年体制にかけられた形勢である。

これに呼応する論議も少なくない。『創作と批評』誌上では、李南周「グローバル資本主義と朝鮮半島の変革」(2008年春号)などがこのテーマを扱った。同号には白楽晴、趙孝済対談「87年体制の克服と変革的中道主義」も掲載された。もちろん、私自身このテーマを考え続けてきたが、『どこが中道で、どうして変革なのか』に至って「変革的中道主義」は本全体を貫くメイン・テーマに近づき、序章「市民参与統一過程は大丈夫なのか:中道の勉強、変革の勉強のために」、第7章「変革と中道を再考する時」、第13章「2009年分断現実の一省察」(前掲『韓国民主化2.0』、岩波書店、第7章108~125頁)、第15章「変革的中道主義と少太山の開闢思想」などで集中的に論じた。また、金基元の近著『韓国の進歩派を批判する』(チャンビ、2012年)は「変革的中道主義」という概念を採用していないが、「NLとPDの進歩的思想には発展的に継承すべき部分もある。民族問題と階級・階層問題への批判意識である。それを現実にあうように応用するが、古い思考の枠組は果敢に捨てねばならない」(179頁)とか、分断国家である韓国社会では「進歩・改革・平和」の相互補完的な三重課題が存在するという認識(214~222頁)の類は変革的中道主義と親和的な発想である。 ただ、彼が設定したX(進歩⇔保守)、Y(改革⇔守旧)、Z(平和協力⇔緊張対決)という三つの軸が、「韓国社会の理念・政策地形」の分析道具としてどれほど有用かは分からない。この構図の大きな長所は、韓国の社会科学者の現実分析においてしばしば無視される「南北関係」を追加したことで、二次元的な平面図では把えにくい三次元の立体的な認識を求めた点であり、通常の「保守対進歩」の構図は現実の中で「守旧対改革」戦線とは一致しないという点は、金基元の古くからの持論であり卓見である。だが、客観的な分析道具として機能させようとすれば、Y軸とZ軸もX軸のように両極が「善悪ではなく、調和のとれたバランスを達成する関係」(210頁)として設定すべきではないかと思う。これに関する論議は別の機会にゆずる。

『体制づくり』で「変革的中道主義」という表現をあえて自制したが、4月総選挙後の状況は論議を基本から再開する必要性を教えてくれた。統合進歩党事件にしても、どういうものが本当の進歩なのかを徹底的に討論する必要性を想起させてくれた。私自身も総選挙直後に韓国進歩連帯、統合進歩党、民主労総、汎民連南側本部および韓国女性連帯が共催した招請講演(2012年4月25日、永登浦駅舎3階講堂)で、統合進歩党と進歩団体の組織文化の刷新を注文して、変革的中道主義の主張を再開した。 当日配布された講演要旨および『統一ニュース』(www.tongilnews.com)2012年4月26日の記事「進歩陣営、閉鎖的な組織文化を刷新しなければ」参照。

統合進歩党の運命がどうなるかは、現在では予測できない。しかし、近づく大選もそうだが、2013年体制を建設する長い途上で、いわゆる進歩改革勢力の幅広い連合政治は依然として必要だろうし、これは総選挙で民主、進歩両党が達成した政策連帯よりもはるかに堅固な価値連合であり、実践的にははるかに伸縮性のある役割分担を許容する性格でなければならない。いや、基本的価値とビジョンを共有する連帯こそ、戦略的な柔軟性をもちうるのだ。これに反し、4月総選挙における政策連帯は、候補単一化という選挙連帯のための一口実に留まるのがせいぜいで、一方では選挙連帯の代価として相手が受容しがたい政策をもちだし、「足を引っ張る」手段として作用した。もちろん、「価値連帯」または「価値連合」という表現が登場してはいた。だが、「政策連帯」をただ体よく包装したにすぎず、時には選挙連帯自体を拒否する名分にも利用された。実際、「李明博政権の審判」という低次元の目標や抽象的な美辞麗句ではない、「共同の価値」は各党内ですら共有されなかったし、真摯な議論もなかった。

幸い、総選挙後に既存の政策連帯の弱さと不十分さに対する反省とともに、特に統合進歩党の党内葛藤の過程で本格的な路線論争が繰り広げられた。現在の政治地図を一瞥するなら、民主統合党は前掲6項目の1)に近い面はあるが、伝統的に南北関係の発展には積極的で、2)~5)に対する反対の立場が確固たる方であり、より進歩的な勢力との連合政治を準備する過程で変革的中道主義に近づく可能性がある。統合進歩党の場合は、いわば「変革的中道主義左派」としての位置づけが可能な政派と、5)の立場を固守する政派――この場合ももちろん、路線自体の問題と非民主的な方式でもとにかく組織を掌握し、その立場を貫徹しようとする作風の問題は区別すべきだが――の対立として、当面の大選局面では意味ある役割を果たせそうもない状況である。だが、こうした見解の違いが公論化されたこと自体は一つの進展である。一方、朴槿恵候補とセヌリ党は李明博政権下で気勢を上げていた2)と3)(戦争辞さず論と吸収統一論)に該当する勢力を牽制し、1)(穏健改革主義)に近い路線を標榜している。しかし、この集団の体質化された守旧性と、やはり体質化された指導者の権威主義および後向きの歴史認識を脱皮して変革的中道主義に近づいてくるとは期待しがたい。変革的中道主義にとっても、12月大選が決定的な勝負になるしかない理由でもある。

 

4.大選局面での検証基準たる変革的中道主義

 

そうとはいえ、大選局面のスローガンが「変革的中道主義」にはなりえない。変革主義と中道主義という、通常相反する二つの単語の結合が、朝鮮半島特有の現実を反映したこの概念の強みであり、「最後に、『変革』と『中道主義』という、一見相反する概念の結合が可能なのは、私たちが朝鮮半島式統一という特有の歴史現場に位置しているからであることを想起しようと思う。南北は6・15共同宣言を通じて、以前のいかなる分断国家も歩めなかった平和的のみならず、漸進的かつ段階的な統合への道に合意した状態であり、この合意の実践に両極端が排除された広範囲の勢力が参加する場合、戦争や革命なしでも漸進的な改革の累積が真の変革に繋がることが可能だろう」(拙稿「変革と中道を再考する時」、『どこが中道であり、どうして変革なのか』、178~179頁)話題を生む魅力とも言える。だが、難解な概念は選挙戦では無用の長物である。「勝利2012」に使えそうなスローガンはやはり「希望2013」であり、概念としては「2013年体制」が限度ではないかと思う。それでも、2013年体制の内容を、変革的中道主義を基準にして検証することは可能であり、また必要でもある。

例えば、「経済民主化」の場合を考えてみよう。これは与野党双方が核心的な政策目標として打ち出したことで、2013年以後の政府の優先課題に浮上した。ところで、財閥規制、不公正取引の根絶、中小企業の育成、労働権の保護など、経済的民主主義を実現する各党や候補者の具体的な政策構想を点検する上で、変革的中道主義はあまりにも抽象的なレベルが高い概念である。こうした点検は専門性を備えた別途の作業に当然任せねばならない。とはいえ、政策構想と構想者の基本姿勢に対する検証を変革的中道主義の観点から行うことは、それなりに必要である。

まず、変革的中道主義は分断体制の変革を目標にしているため、分断体制がもたらすあらゆる利権を固守する勢力、あるいはそうした勢力が雲集している政党が経済民主化を実現する適格者であるか否かは、一応疑ってみるべきだ。重ねて言えば、分断体制の克服というのは朝鮮半島南北の漸進的・段階的な再統合過程であると同時に、南北それぞれ内部の改革を通じて反民主的な既得権勢力を弱め、また制圧していく過程である。そのため、経済民主化を標榜する様々な政策が、そうした歴史的課題の他の議題とどれほど緊密に結合しているのかが、経済民主化自体の成敗を分けるのだ。

特に、政治的民主主義と経済的民主主義は互いに切り離しえない関係にあることを熟知する必要がある。これは、いわゆる進歩陣営でよく聞く、87年体制を通じて韓国社会は政治的民主主義を達成したが、経済的民主主義は達成できなかったという言説が、むしろボカしてきた真実である。6月抗争後、民主政治に必須の手続をかなり勝ち取ったのは事実だが、87年体制の成果というなら、これに加えて経済面では、労組活動の自由を拡大して企業に対する国家の勝手な統制を弱める「経済的民主主義」の成果も少なくなかった。ただ、このように自律権が増した大企業が社会統合を破壊し、国家権力まで脅かすほどに肥大したのが87年体制末期の現実であり、こうなったのは87年体制下で韓国の政治的民主主義もまた、厳然たる限界内に留まったという事実も作用したのだ。

もちろん、政治民主化の険しい道自体、経済民主化がダメだったせいでもある。ここで私たちは、鶏が先か、卵が先かを論ずるより、各種の経済改革政策が変革的中道主義の核心課題である民主主義に、どれほど忠実であるかを問わねばならない。ある意味で市場経済――市場自体よりも巨大企業法人が支配する今日の資本主義経済――は、民主主義と本質的に相反する面がある。例えば、「一人一票」対「一ウォン一票」の原理上の違いがそれである。経済を一人一票制で運営することはもちろんできない。だが、いわゆる市場経済が国全体を民主主義ならぬ「銭主主義」社会を作るのを防止するため、経済の民主化、つまり経済領域に対する民主政治の介入が必要となる。したがって、公正な言論、検察の改革、反民主的な歴史事実の直視、選挙制度の改善など「政治民主化」の議題に無関心なままで、経済民主化の達成はできなくなるものだ。

朝鮮半島の平和は、変革的中道主義による検証過程においてもう一つの核心的事案である。経済民主化とは異なり、平和問題が大選政局で大きな争点になる確率は高くない。しかし、政治民主化と経済民主化が緊密に関連しているように、国内の民主主義の問題全体が南北関係と関連しているのは分断体制特有の現実である。したがって、2013年以後の韓国を率いていく大統領と政党が、こうした現実をいかに洞察、認識しており、それを打開するためにどういう腹案をもっているのかは、国の将来を左右する事項である。

いや、これは南北関係に限定される問題ではない。大韓民国はすでに世界10位圏を往来する経済強国であり、東北アジアの平和体制のみならず、東アジアやアジア全域にわたる地域紐帯を強化していく過程でも、米・中・日・露とはまた違う中枢的な位置を占めている。世界のためにも韓国はどういう大統領になるのか、それほど重要なのである。単に、「誰がやっても李明博のように南北関係をめちゃくちゃにはしないだろう」と簡単に思うべきではない。そのため、南北関係と国際関係で韓国がもつ潜在力を十分に発揮させる大胆なビジョンを提示する候補が現れれば、選挙戦でも爆発的な支持を得る可能性がなくはない。

多くの人々が2013年体制の課題と考えるもう一つが、社会統合・国民統合である。変革的中道主義の観点では、南北関係の発展と朝鮮半島の漸進的な再統合過程を無視した南の国民だけの統合は望みがたく、特に2012年に統合がすぐにも可能なように考えるのは錯覚か欺瞞であろう。社会統合を根底的に阻害する守旧勢力との一戦は避けられない状況である。『2013年体制づくり』第4章「再び2013年体制を考える」内の「本格的な社会統合は2013年体制の宿題に」(73~75頁)を参照(前掲書、第11章)。だが、この分野でも2013年以後に対する構想と準備は今から進めていかねばならない。

この問題もまた、変革的中道主義という検証基準に絞って観察してみることにする。先ほど変革的中道主義で「ないもの」を列挙したが、それらが中道主義で「ない」理由の中には、いずれも本当の社会統合の理念にはなり得ないという点が含まれている。現状では、1)(変革ナシの改革路線)がそれでも多くの大衆を確保した方だが、分断時代に分断体制に関する経綸に欠けた散発的な改革は大きな成功を収めがたく、穏健な改革まで拒否する守旧勢力を制圧できない。ただ、南の社会の改革作業に真摯に取り組んでみれば、近視眼的な改革主義を越えて変革的中道主義に合流する可能性が切り開かれる。

前掲の2)(武力統一)や3)(戦争ナシの吸収統一)のように、守旧勢力なりの変革路線がないわけではない。だが、実現の可能性がまずない、こうした構想が一定の勢力を維持するのは、こういうやり方で南北対決を煽るのが韓国内での既得権を守るのに役立つからである。換言すれば、北の変革は名分にすぎず、実質的には分断体制の変革とそれに必要な韓国内の改革を止めることに貢献しているのだ。

一方、4)や5)に該当する勢力――一般にPDとNLと呼ばれもする急進勢力――は双方とも少数集団に留まっており、既存の路線に固執する限りは、多数勢力になるのは難しいだろう。いや、数が減っていくだけだろう。それに比べて6)のエコロジー、平和主義などは世界的な市民運動の後押しで、より強固になっていくが、国内政治の現実ではやはり孤立を免れがたい。もちろんエコロジー運動の場合、ドイツでのように現実政治に根を下ろす可能性もある。ただ、そうなるためには変革的中道主義に合流、または少なくともそれとの提携が不可避だろう。ともあれ、4)、5)、6)すべてが中道の勉強と分断体制の勉強を通じて、各自がもつ合理的な問題意識を新たに成立させ、変革的中道主義がより豊かになればと思う。

こうして実現される2013年体制の統合された社会は画一化とは無縁で、多様性と創造的葛藤があふれる社会になる点を強調したい。政党政治の領域でも、変革的中道主義路線に立脚した巨大政党の類を夢見たりしない。変革的中道主義の理念を共有しながらも、変革と改革に相対的に消極的な保守政党、それより多少積極的な中道改革政党、そして変革的中道主義路線を共有するが、平等、自主、エコロジーなどの価値に並み外れた情熱をもつより急進的な(諸)政党が互いに競争することが望ましい。そして、彼らの並存と選択的提携をスムーズに行う比例代表制の大幅な拡大など、選挙制度の改革も考えてみるべきだ。その一方で、体質的に分断体制の変革を受容できない守旧勢力も、彼らなりの極右政党をもちうるし、平等主義、反帝国主義、またはエコロジーという理念的純潔性を固守する勢力の場合も同様である。ただ現在のように、強力な守旧勢力がかなりの合理的な保守主義者まで包摂して最大政党として君臨する構図は壊すべきなのだ。

 

5.『安哲秀の考え』へのいくつかの考え――結論に代えて

 

2012年の大選政局で当面最大の変数は、安哲秀ソウル大融合科学技術大学院長である。本論の脱稿が間近い8月初め現在、彼はまだ出馬の意志を明らかにしておらず、出馬時にどうなるかもわからない。だが、彼の去就が政局の様相を大きく揺るがす要素であることは間違いない[訳注:9月19日に出馬宣言]。これは他の候補を無視するわけではない。一方の朴槿恵候補は一種の定数たる位置を占めて久しく、他方の民主党候補はまだ数人が候補指名争いの最中にあり、すぐに誰か一人に落着させにくい、という意味だ。

安教授自身は、最近『安哲秀の考え』(金寧社、2012年:以下、『考え』と略す)という著書を通じ、「私たちが望む大韓民国の未来図」を提示しながら、出馬の可否を依然未定にしている。「私を支持してくださる方々の意を正確に把握してこそ、進路を決定できるでしょう。そして、私にやりきる能力があるか、冷静に判断するのは重要でもあります。まず本書をはしりにして、私の考えを具体的にお知らせしていかねばならないでしょう。私の考えを明らかにして、期待とは異なると思われる方が多くなれば、私には資格がないのだし、私の考えに同意する方が増えたら、前に進んで行かざるをえないでしょう」(52頁)

出版されるや否や、本は記録的な売上げを達成中であり、テレビの芸能番組への出演とも重なり、世論調査で彼の支持率が急上昇した点からしても、著者は「今後進んで行かざるをえない」状況が作られているわけだ。特にここにきて、彼が「私はとてもやりきる能力がないようです」と急に取り下がるなら、民主党を含む野党側全体に大打撃になる公算が大きい。出馬の直後に、検証に耐えられずに落馬するのでなければ、民主党の公選候補を抑えて野圏単一候補になろうと、単一化選挙での敗北後に相手候補を推戴しようと、支持者の政治参加を積極化させてこそ、時代の責任を果たす形になってしまったようだ。

もちろん『考え』に対し、すべて同意し、支持しているわけではない。一方では「教科書的な模範解答のつぎはぎ」とか、「ウンザリする正解主義」という批判があるかと思えば、他方では北の核問題に関する安教授の考えは北の立場と同じだ、つまり正解どころか、危険千万な誤答だという指摘もある。7月25日国会外交通商統一委員会全体会議で、セヌリ党金ヨンウ議員の質問に対する柳佑益統一相の答弁。ただ柳統一相は、金議員が安教授の著書であることを明らかにしないまま読んだ特定の部分を指して非核化に関する政府の既存の立場を明らかにしただけだ、という統一部の代弁人の釈明があった(「柳佑益統一相、安哲秀の北核見解に『北と同じ』」、『ハンギョレ』2012年7月26日)。また、本の内容に対するより真摯な書評を通じ、「安哲秀は手抜き建築物である」という結論を下した人もいる。金大鎬「安哲秀は手抜きの建築物だ――〔寄稿〕『安哲秀の考え』を読んで三回驚いた」、『プレシアン』2012年7月28日。『考え』は一種の公約集ないし公約予備集なので、公約としての適切さをめぐって是非を問うのは当然必要である。しかし、文学評論家たる私が指摘したい点は、本書が他の公約集や出馬用の著書とは異なり、一つの「作品」に該当する響きをもったという事実である。その点で『文在寅の運命』(文在寅著、架橋、2011年)も似ているが、やはり選挙用より自分自身を省察して整理する作業に重きを置いた本であるためだろう。あらかじめ進路と戦略を定めておき、それに合わせて内容を開陳する大部分の選挙用の著書とは異なり、著者の安哲秀教授と編集者の諸貞任世明大ジャーナリズム大学院教授がともに心を開いて対話し、模索する過程の真剣さが伝わってくるからだろう。出馬宣言の前に政策構想から提示して読者に支持を訴えることこそ、高度に老獪な戦略だと見る向きもなくはないが、少なくとも読後の実感は能動的な読者の役割を残しておく「作品的」性格に近い。 これはまた既存の政治家と比べての話だが、自分が作り出した「映画」を見せて観客には品評の機会だけを与えるのに比べ、安哲秀現象は個々人が直接参加して内容を作っていく「ゲーム」的性格を帯びているため、若者が熱狂するという陳重権教授の分析(「イシューをすくいあげる男・金鐘倍です」107回「〔全方位トーク〕安哲秀はなぜ?」、2012年6月1日)を想起させる面でもある。

しかし、読者がいかに著者の考えに共感したとしても、「私にやりきる能力があるか、冷静に判断する」との一節には参加する道がない。それは安教授だけの役目であり、読者や国民大衆は安教授が一旦判断した後、それが正しかったか間違っていたか、事後判断するしかない。いわば、例えば『考え』は非常に立派な「文書ファイル」だとしても、どういう性能の「実行ファイル」が含まれているのか、文書だけでは判断できず、実行ファイルが開封されてこそわかる。もちろん、初めから完璧な実行プログラムである必要はなく、一応開封して短期間にアップグレード可能なのかが焦点である。それほどのレベルなら、まず実行しながら使用者のフィードバックを受けて「前に進む」追加の共同作業も可能だろうが、読者があらかじめ手伝いうる場面はないのである。

『考え』に提示された政策構想に対し、ここで詳しく論評するつもりはない。二点だけ言及しようと思うが、まず福祉と経済民主化の分野では(少なくとも私のような非専門家が見ると)、どの専門家にも劣らず、具体的かつ包括的な構想を準備したようだ。特に、大多数の福祉専門家や野党候補に比べて際立って見える点は、経済民主化が革新経済の育成・発展に直結していることを体得している印象を与える点である。こうした経済民主化の構想が、変革的中道主義とどれほど合致するのかは更に検討すべき事案だが、著者が「福祉・正義・平和」という三大議題を提示して、その相互依存性を強調した点は励みになる。 金大鎬社会デザイン研究所長は、安教授が「正義に対する錯覚」を犯していると酷評したが、この断定は言い過ぎだ。金大鎬自身はスタートラインでの公平な出発を「公正」、決勝戦での合理的格差ないし不平等を「公平」と規定しながら、安哲秀の書に後者への言及がないと批判する。しかし、安哲秀が公平な出発と公正な競技運営を要求しても、均一な結果を要求しないのは、結果の一定な格差ないし不平等を認めたものであり、次に行われる競走でもスタートラインが公平で競走過程に反則がなく、敗者に再起の機会を与えねばならない、との話には結果の格差が「合理的格差」になるべきだ、という考えが含まれていると思われる。この場合、「合理的格差」の具体的内容がどういうものであり、どのように実現されねばならないか、をめぐる批判はいくらでも可能である。だが、その点に思い至ることを基本概念への錯覚だとして、初心者の間違いと断定するのは生産的な討論に役立たない。

平和関連は福祉と経済民主化の項目のように詳しくはないが、統一を「事件」ではない「過程」として把握した点や、平和体制構築の緊要性と北の人権問題の重要性を同時に論じたこと(151~159頁)などは、本人の省察が込められた発言と思われる。ただし、天安艦事件[訳注:前掲『韓国民主化2.0』第1章を参照]については、「私は基本的に政府の発表を信じます。ただ、国民に説明する過程がきちんと管理されておらず、問題が拡大したと思います」(159頁)という、一種の「守備型の正解」に留まっている。だが、科学者であり古い体制との果敢な決別を主張する安教授が、この問題に関しても独自の学習と省察を積んでほしいと願う。

ともあれ、問題はやはり「実行ファイル」である。そうした点で『考え』の内容に国会と政党政治をいかに変えるのかについての論議がないのは、「文書ファイル」としても物足りない点であり、これに関して金大鎬の批判が鋭い。「こうした内容が抜けているのはページ数のためではないようだ。政治家中の政治家である大統領をやろうという人が、政治や政党のシステムに対する理解が低いのは深刻な問題だ」。 金大鎬、前掲書。他方で、総選挙前に第三の政党を建設して韓国政治を刷新しよう、という周辺の一部の人々の提案を安教授が拒絶したのは、「身を投じて政治的新紀元を開こうという責任意識と豪気に欠ける」からだとか、「安哲秀が歴史的機会を逃し、歴史的召命を投げ捨てた」(金大鎬、同前)などの主張は一方的な断定である。むしろ第三の政党の建設が「政治的新紀元」どころか、ハンナラ党=セヌリ党を助けるのに都合がいい、と看破する政治感覚を示したのが、政治的経験のない安教授だったのかもしれない。に、安教授は「疎通と合意」を何よりも重視して、「常識と非常識(または没常識)」の対立構図を語ってもいる。これは2013年体制が社会統合の時代になるためにも、守旧勢力との激突はまず不可避である、という私自身の考えとも符合するように思われる。常識を基礎にして疎通して合意しようと言っても到底通じないのが、進歩・保守の理念を越えて、ひたすら自分の利得だけを守ろうとする「守旧」の特性ではなかろうか。彼らを選挙勝利と議会関係などの制度政治を通じて制圧し、牽制する方策は「実行ファイル」の必須装置の一つであろう。

これはまた、12月大選でどういう連合政治が勝利のための最善策なのかに対する「政治工学的」な計算も要求する。だが、問題はやはり「2013年体制」と称すべき画期的な新時代を切り開こうとする多くの人々の熱情であり、国民の不安を煽って再び変化ならぬ変化で世間を惑わそうとする勢力を断固として許さない市民の決起である。意志が確固としていれば、それに見合った計算をする人々は、時が来れば出てくるものなのだ。

 

翻訳: 青柳純一

季刊 創作と批評 2012年 秋号(通卷157号)
2012年 9月1日 発行

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