창작과 비평

[書評]遂に姿をあらわした「創批世界文学」

2012年 冬号(通卷158号)

 

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ他『創批世界文学』1~11、創批、2012

 

李在栄(イ・ジェヨン) 文学評論家、誠信女子大学校 教授  poesie21@gmail.com

 

 

創批(以下、チャンビ)から世界文学作品集が刊行された。近年、韓国の出版業界においては、世界文学に関する出版がもっとも活発的だったともいえる。出版業界における成功が不透明なこの時代に、このように大きな規模の企画を作り出し、投資をしてくれている出版社をみていると、読者の立場からいえばありがたい話である。

このような状況において、チャンビが世界文学作品集を刊行することは、格別に興味がある。なぜならば、今までチャンビが、韓国文学に注力していながらも、世界文学の分野においては、積極的に活動してこなかったから、とも言えるかもしれない。しかし、それだけの理由ではない。もう一つの理由としてあげられるのは、早い段階から、白樂晴が「民族文学と世界文学」という概念の双を掲げ、既存の世界文学という観念に対抗し、その上、民衆的な観点における批判的受容と価値評価を主張し、この概念に存在する「西洋中心的思考」を、絶えず問題化してきたことである。たとえば、季刊『創作と批評』(2007年冬号)において、世界文学に関する特集が組まれたことは、その良い例であろう。この特集が刊行されてから、世界文学の観念に対する批判的な検討が活発に行われ、2010年には『世界文学論』(金英姫・柳熙錫編)という単行本も出版されることになったといえよう。

こうした成果を出してきたチャンビが刊行する世界文学作品集が、どんな作品を、どのような方式で編成しているか、という読者の関心と期待が大きいということは、ある意味、当たり前のことかもしれない。「民族の局地的な状況に基づきながらも、現在の資本主義体制の展開に対抗できる、そのような意味を持つ、「普遍的」かつ反体制的な問題意識」(金英姫「今、我々にとって、世界文学は何なのか」前掲書、17頁)を反映し、今、ここにある現実に調合できる世界文学作品集が出されるのであれば、これこそが韓国で出版される「最新バージョン」の作品集になるのであろう。

「世界文学」という概念は、もうこれ以上、明白ではなくなったかもしれない。一般的に世界文学とは、「地域と国家の境界を越え、国際的に広く拡散され、芸術的に高い価値を持ち、世界の文学に大きな影響力を行使してきた作品、普遍的な問題意識と観点に到達した「作品」を意味する。すでに、このような規定においてもかわるように、ある作品が「国際的に広く拡散」していくためには、作品の外的な状況が介入してきた。また、その点において言えば、西洋文学はずっと有利な立場であったといえる。それから、「芸術的に高い価値」であることや、「普遍的な問題」であることなど、時代と地域によって、異なった評価が下され、規定されてきた可能性もある。したがって、単数としての「世界文学」は、西洋の正典を、普遍的な基準において、他の観念と構想を排除し抑圧するイデオロギーとして作用されやすいため、時代と地域、集団の問題意識と価値観、文学観などの差異による複数の「世界文学たち」が、もっと認められるべきである。こうした差異が充実に反映されるときこそ、「世界文学」は、漠然とした教養にとどまらず、現実の「人生(ライフ)」とつながっていけるのであろう。

それでは、果たして、我々は、「韓国の世界文学」をどれほど開拓してくることができたのか。私たちの固有の視点から評価し・選別した世界文学作品集は、我々の「文学的な力量」を試す基準であり、韓国文学界の権利・義務ともいえる。しかし、今までの作品集は――第3世界の文学を受容した際にも――、西洋文学界の視点を再生産することに過ぎなかったところが大きかったため、「韓国の世界文学」は、未だに至急に解決しなければならない、切実な課題を抱えているといえよう。したがって、既存の世界文学の観念を批判してきたチャンビから刊行された世界文学作品集が、この課題をいかに忠実に解決してくれるのかに注目することは、ある意味自然な話かもしれない。もちろん、この質問に対する答えは、長期的に見守るべきである。まず、今回の10編(10種、11巻)の作品の中で、一冊目である『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen Werthers)を中心に、簡単ではあるがその概観について述べておきたい。

創批世界文学の第1巻として、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が選択されたことは、上記で述べたその「期待」に外れているように見えるかもしれない。この作品は、愛に関する物語であるため、「現在の資本主義体制に対抗する」作品としては見えないからである。しかし、近代以後、西洋文学作品の大半が、「有用性」を崇拝し「物神主義」的な価値観を支配してきたという現実の中で、様々なかたちで抵抗してきたことを想起するのであれば、こうした「批判的な伝統」を我々の視点から排除する理由はない。むしろ、受容過程において、そうした性格がなくなったり、無力化していったりするとしたら、これを明確に表現することが、我々の課題であると考えられる。また、この作品における愛は、個人的なレベルの「恋愛話に過ぎない」ことではなく、因習と伝道された価値に埋もれた社会に対するウェルテルの激しい批判意識が前提されていなければ説明できないほど、強力な社会批判のメッセージが含まれているといえよう。ひいては、ウェルテルが言う自然、素朴、民衆、心、感情、個人性などは、目的に対する省察のない勤勉と節制、道具的な合理性だけで装ったまま、既成の体制の中においての達成を追及する市民が作り出す社会に対する拒否を予告しているともいえるかもしれない。若い世代に受け入れられる内容でありながら、市民社会の社会的状況に抵抗する意識を描いている『若きウェルテルの悩み』を、創批世界文学の「玄関」(第一巻)としてセレクトしたことは、適切であるといえよう。また、翻訳に関していえば、混同されがちな観念や、ゲーテ自身による主人公との「距離」を考慮せざるを得ないという、このややこしい原文を林浩培(イム・ホンベ)の翻訳で充実に再現した。とりわけ、作品の後半に出てくる、ウェルテルが読むオシアン(Ossian)の歌は、その翻訳がたやすくないはずだが、ドイツ語圏文学の翻訳において、もっとも信頼できる訳者の一人である林浩培は、この翻訳文においても独特な語調を、適切に、また自然な感じで行使している。ただ、一般読者に小説の内容をより理解してもらうための先行知識などの訳注が、この小説では省略されていることが、少し残念なところである。

全体的にいえば、巻1から確認できる忠実な構成と高い翻訳のレベルは、巻11までも維持されている。これは、訳者の力量の結果であるといえるが、筆者も経験したことのあるチャンビにおける繊細な校閲作業が、このような大規模の作業において、その力を発揮しているように考えられる。

巻11までの作品を言語圏として分類してみると、ドイツ語圏が二、スペイン語圏が一、英語圏が一、ロシア語圏が二、フランス語圏が二、日本語圏が一、中国語圏が一であった。初訳である『ラデツキー行進曲』(ヨーゼフ・ロート著、ファン・ジョンミン訳)は、ドイツ語圏文学に属する。このことをみると、東アジア文学に対するある種の「意志」は、一定的に反映されているように思われる。しかしながら、発刊辞で明記しているように、第3世界文学の受容を通じて、「世界文学の地形図を再び」描く作業は、まだ本格化していないようだ。もちろん、抵抗的な黒人文学の代表作ともいえる『アメリカの息子』(リチャード・ライト著、金英姫訳)を、英語圏文学の初めての作品として選択していることからもわかるように、西洋文学を選別する基準においても、すでにチャンビの視点が反映されている。チャンビが新しく描く世界文学の地形図は、これから、目録が広がっていくことによって、その具体的な姿があらわれるのだろう。過去の地形図で白紙の状態として残されていた支点を埋めていくという難しい(価値のある)作業に、真面目に、また迅速に取り組んでいくことを期待している。

今回、創批世界文学の「禁欲的」な表紙デザインには、作品と翻訳のレベルで勝負しようとする決意が表現されているようにもみえる。この勝負において、創批世界文学が誇れる勝利を得られることで、文化において「敵対的」である当代の現実を打開できるという、価値のある貢献ができることを願っている。

 

翻訳: 朴貞蘭(パク・ジョンラン)

 


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