[文学評論]動的記憶の文学―黄晳暎文学が立っている
『客人』の衝撃について書きたいと思う。沈鬱な夢の記述にはじまり賑わしい巫祭へといたるこの作品は、芸術創造がそのままで鎮魂の祭りであるような文学のあり方を、驚くべき仕方で私たちに教えた。そして東アジア冷戦の信じがたい暴力とその暴風のさなかに置かれた人々の「記憶」の困難を教え、さらに、「想起」のリズムというものを教えた。
記憶、特に戦争の記憶について、私たちの社会ではよく記憶の風化、という言い方をする。岩に刻みつけられた文字が、長い年月、風雨にさらされ摩滅していくように、かつては鮮やかだった記憶も、時とともに薄れていくということだ。が、このように自然のイメージを流用する記憶の表象は、事実に照らして誤っているし、理論的にも転倒している。記憶と忘却の過程は、自然過程ではなく、現在と無関係に進むようなものではない。想起とは、倉庫のなかを探すように過去の事実を見つけることではないのだと、黄晳暎の創作活動を通して、私たちは理解する。__想起とは、過去の事実の単なる再生産ではない。かつて見えていなかったものが新たな意味をおびて見えるようになること、出来事の潜在的な意味を顕在化すること、なぜかつてはそれが見えなかったかを知ること、つまり過去の想起とは過去に関わるより以上に現在に関わる行為なのである。現在を危機のときとして感知した人々が、その切迫した危機感のなかで過去を振り返り、新たな文脈において記憶を記憶していく。この東アジアの作品は、記憶がこうしたきわめて動的なプロセスであることを、文学的実践それ自体において示してきた。更新された枠組みのなかで自分たちを新しく表象し直し、それによって自分たち自身を繰り返し生み出していく。過去の歴史を想記し再記憶する運動は、従属なき主体化へと向かう実践であり、それゆえそれ自体の歴史を持つ。そして、それは黄晳暎において文学史と重なりあうことになる。
黄晳暎はしばしば、自らの文学世界に決定的な変化をもたらす契機となった出来事として、ベトナム戦争に言及する。この作家は一九六七年から一年あまりの間、ベトナム戦争に海兵隊員として従軍した。当時の韓国の参戦に対する一般的な認識は「自由の十字軍」だった。七〇年代になってからも、全体として「南ベトナム敗亡」といった視点が支配的だった。ベトナム問題を客観的に扱うことは一種のタブーとなっており、一般的に、この出来事を自分たち自身の民族の統一、民族解放の一つの準拠として見る認識は、成立困難だった。
だが、作家がベトナムの戦場で目にしたものは、自らの民族問題を解決するために戦っているベトナム民衆の姿である。それはとりもなおさず韓半島、朝鮮民族の自主的統一を考えるうえで、重要な参照項に他ならない。作家は、爆弾の降ってくる塹壕のなかで身を縮めながら、もし助かったなら、かならずわが民族の分断問題、民族問題を文学に表現すると誓ったという(和田春樹との対談、『客地』日本語訳版に採録)。・・・ベトナム戦争は、朝鮮戦争だったのだ。
恐ろしい覚醒の瞬間だったことだろう。歴史の局外に身をおいて第二次大戦後のアジアを眺める者であれば、ベトナムと韓半島とが、ともに冷戦の対立図式を押し当てられ分断の問題を抱えていること、その現状を共通分母とした解放の課題をともに負っているということを、たやすく見てとるかもしれない。その認識は正しい。だが、その正しさが歴史を動かすことはない。自らは生きた歴史の局外にいるがゆえの明察であり正しさであるからだ。では、歴史の渦中にいるものにとってはどうであるか。実際の戦場では、韓国兵士という被圧迫者は、ベトナムの被圧迫者に対し、非常に苛酷な圧迫を加えていた。歴史の見物人ではなく、みずからが歴史の行為者である場合、距離を置いてベトナムを見ることなどできない。最も切実な参照項でありながら、最も認識困難であるベトナム戦争を文学的に形象化するには、韓国人としての罪責感があまりに強かった。
しかし、光州事件の後、アメリカはもはや、韓国戦争を共に戦った友軍でも民主主義の国でもなく、光州市民に対する討伐作戦にゴーサインを出した帝国主義国となった。アメリカにたいするこのまなざしの転換は解放後の歴史のなかで画期的な変化である。現在を生きる者が、その切迫した危機感をもって過去を振り返るとき、掴み取られた記憶は思想になる。更新された歴史的文脈のもとでベトナムの再記憶が可能になり、六二五の経験、四一九の経験が、自覚的な歴史経験となっていく。
こうした動的な記憶の作業は、自分たち自身に自らの歴史を与える行為であり、新しくされた歴史の中に自らをくり返し生み出してゆく行為である。躍動感にみちた自己創出の運動は、やがていわゆる公的歴史を書き直す歴史学の作業にも深くコミットする力をもつにいたった。朝鮮戦争中の民間人虐殺の被害規模は、「真実和解のための過去事整理委員会」他の事業によって明らかにされていく。それまで重要な「同盟国」たる米国の戦争犯罪行為に関しては、韓国の社会的感性そのものを構造化していた冷戦の規制の下で、長く封印されてきた。味方でないなら「アカ」であるという二項対立図式が支配する場にあって、「味方」の瑕疵をあげつらうことはできなかった。事実が明るみにでるということは、実証的研究の成果である以上に、こうした二分法によって細部にいたるコントロールを受けてきた社会的心性と情動を再編することでもある。記憶は過去の表象である以上に、より多く、現在を生きる人々の社会的感性の表象なのだ。記憶を更新する運動は、自分たちの感性、主観性を組み替えること、自分たち自身を固有の文化と運動の主体として創り出す自己創出の行為となる。それゆえ、歴史の新しいパースペクティブは、同時に文学的創造の地平をも切り開く。
韓国戦争は、世界史のうえに冷戦時代の始まりを決定的に告げた戦争であり、同時にユーラシア大陸の東端のごく小さな半島に起こった局地的な戦いである。その半島のなかの小さな村には、子供のころに魚取りを教えてくれたおじさんを殺害した記憶、隣人が隣人のために犠牲になった記憶、おびただしい一人称の苦痛の記憶が折り込まれている。いったいどのような小説の美学が、この出来事の重層性を一体のものとして文学化できるのだろう。戦線は、局面ごとに、半島の全体にローラーを掛けるように往復し、そのたびごとにおびただしい数の住民が避難民となり、虐殺の犠牲となった。「附逆者」が、あるいは「協力者」が、そのときどきの戦局によって、集団処刑や報復暴力の犠牲となった。こうした事件について、「同族相残」という理解は不充分であり、浅薄でもある。人々は沈黙し、長い時の経過が、記憶の分断を深化させた。この沈黙の質は、物理的に経過する時間によって解きほぐせるものではない。なにが、記憶の時を満ちさせるのか。
韓国の民主化に共鳴するかのように東欧の民主化も加速した。こうした連関はイデオロギーの観点からでは整理不可能であるかもしれない。が、明らかなのは、このとき人々の潜在的力量が、それをせき止めていた壁を決壊させるほどまでに上昇していたということだ。それをはっきりと意識するまえに、人々は第二次大戦後の国際秩序がその底深くで動きだそうとしている地鳴りを、自分たち自身の足音として聞いていたのだろう。__もちろん、私たちはすでに、その後の世界が、民族主義の噴出に苦しみ、超大国の一極主義に苦しみ、そして世界化した新自由主義の支配下ですっかり不幸になっているのを知っている__『客人』のあとには『パリデギ』が書かれなければならなかった。冷戦の悪夢から醒めたものは、後期近代の別の悪夢のなかにいた。では、覚醒とは幻想であり、無意味であるのだろうか。そうではないだろう。歴史が動き出す音が聞こえてくるとき、人々はいつでも自分たち固有の世界を、別のやり方で夢見ていたのではなかっただろうか。そして記憶の文学は、痛ましく死んだ死者が見た夢、果たされなかった約束を想起し、かつて起こった出来事の潜在的な意味を想像力のなかで開花させようとするだろう。
黄晳暎はこのころ、韓国政府の許可なしで朝鮮民主主義人民共和国を訪ねた。帰国できない状況のなか、五年もの間、亡命者としてドイツ、アメリカなどで流浪の生活を余儀なくされるが、そのため、作家は東西ドイツを分けていたベルリンの壁が崩壊し、歴史の壁が開いたところにいあわせた。
『客人』の登場人物のひとりは、「時が満ちてきた」といっている。時が満ち、閉ざされていたものを開く準備が整った。開こうとしているのは東西ドイツの壁だろうか、南北の境界線であろうか。どちらでもあり、どちらでもない。『客人』にあって開かれるのは、時が満ち、生者と死者との、幽冥の境である。ヨセフの前には死んだ兄ヨハネがたびたび現れ、また、兄の手にかかった人々が現れる。そして話しかけてくる。今、虐殺記念館を見学していた団体は、あれは生きている者たちだったのか?それとも死んだ人たちか? 「牛山の叔父さん」も、やはり日々の風景の中に、痛ましく死んだ者たちの姿を見ていた。農作業をしていると、彼らが列をなして、向こうのあぜ道を通り過ぎていく。以前はそうして通り過ぎるだけだった死者が、最近になって、話しをするようになった。出てくれば会えばいい、話せば聞いてやればいい。
「そろそろ世の中が変わろうとしているのか、前より頻繁に現れるようになった」「あのことに関わった人たちの時が満ちてきたという知らせだよ。準備が整ったということだ。」
このように『客人』は、想起のリズムを、明示的に語っている。文学的出来事として描かれなければならないのは、世界政治の再編であるよりも、それまで闇に沈んで地表近くをひらひらと漂っていた人々の記憶の解放である。世界史の時が満ち、準備が整い、ひとつの広場に生者と死者がおぼつかない足取りで集まり、その場所に初めて記憶が浮かび上がってくる。生者と死者とのそれぞれが相互にとって語り手となり、聞き手となり、ひとつの記憶の広場ができること、それこそが文学的な事件と呼ぶに値する。
被害者と加害者が、それぞれの一人称で、すさまじい暴力の記憶を語る。そしてその戦争はというと、還暦をむかえていまだ終わることができずにいる。これは現時点で暗鬱な文学であるはずだ。だが、そうであるにもかかわらず『客人』には、同時になにか押しとどめようもない躍動感がみなぎっている。この作品は、それが実際の作品として実現するまでの記憶の運動、記憶の更新作業を、暗黙のうちに語り出しており、私たちがそのことに心揺さぶられるせいではないだろうか。
歴史経験が文学化されるには、いわゆる審美的距離というものが必要だ。だが、五〇年代の戦争と完成された作品との距離は、何であれ遠ざけてみれば静かに眺めうるという距離とは違う。『客人』の作家にとって、文学創造は、歴史と記憶の地平を切りひらくことと別のことではない。この比類ない小説美学は、とりわけ日本の文学環境のなかに身をおくものを戦慄させる。もちろん日本の文学も美的完結を目ざしていないわけではないのだろう。しかしながら、それは往々にして、後期近代に入ったどの社会にあっても流通可能な感性の表現を、パッケージ化された文化商品として完成させるという課題と同一視されている__この観察が間違っていればよいのだが。すくなくとも私たちは美的完結と歴史的政治的抗争のダイナミズムが一体であるような作品を持たず、しかもその乏しさを自覚する契機を、文化の内側にもっていない。
過去を新たなコンテクストにおいて掴み、自分たちに歴史を与え、そうして自分たちを、くり返し生み出してゆく。歴史の悲惨の中にあってさえなお人は変わることができ、自らを解放することができる。この動的過程を体現するのが「一郎」という死者と、その名前の軌跡である。解放前の彼は、家族も家もない作男であり、名前もなく、誰でもなかった。新しい支配者としてやってきた日本人が「イチロウ」なる名を彼に与えるが、書類の記入例などによく使われるこの名前は、固有性とは逆のものをより強く感じさせる。尊厳の剥奪と被支配の記号のごときこの名前は、彼の同一性を示す名として日本が敗亡した後にもなお文字=痕跡として残存する。これは侮辱の中で生きるということだろうか?しかし、文字を覚え、自由や権利の観念に出会った彼は、この名=文字を維持したまま人民委員会代表の「朴イルラン」へと自らを変容させていく。過去は消えるのではなく、前に生じたものは後に生じたもののうちに縮約され、継承されるのだ。そうでないなら、生命も時間も蓄積もなく、成長もなくなることだろう。被支配の経験をも尊厳へと転じさせる歴史の力を自らの力とすること、それが本質的な解放であり、だから再びすさまじい暴力に押し流されていくこの人物の運命はことのほか悲痛である。
作品は、惨劇をどう描くのだろう。分割不可能な一つの出来事であり、にもかかわらず相互に異なる行為者がそこに参加し、したがって内的には多数であるような出来事を、どう認識し、記憶するのだろう。
その場に居あわせた者が、その目で見たものを証言する。一般的にはそれが証言の真正性の構造だ。だが、観察主体とその対象という認識論的な図式には、個人主義と私的所有のイメージがつきまとう。この図式は「出来事」の内的多数性をうまくすくい取るものとはいえない。唯一不可分のその場に居合わせることなどだれにとっても不可能なのだ。というより、内的に多数である出来事の真実を目撃できるようなただ一つの場所などというものは存在しない。左目と右目さえ、違うものを見ているのだから。これについて、自由主義的個人主義の文化は、私とあなたはしょせん違うものを見ていると結論することだろう。だから人と人は分かり合えないと。しかし、広場の文化において、左目と右目は違うものを見ており、だからこそ、そのために私たちは世界を立体的に感じ取ることができるのだと考える。記憶の集団性、共同性の認識は、主観客観という認識論とは異なる、出来事の哲学を基盤とする。
マウリツィオ・ラッツァラートはバフチンの対話論を、文学理論にととまらない社会哲学、「出来事」の哲学として読んだ。ラッツァラートが描き出す「出来事」の哲学にあって、認識とは、相互に異質な人々の間の協働作業、それぞれに異なる脳をもちよった「脳の協働」として理解されている(『出来事のポリティックス』)。記憶は、どうだろう。記憶とは、ある場合には、個々人の脳のなかに収蔵されたまま、脳の所有者の生命が消えるのと一緒に消えてしまう。しかし、相互に異なる人々の協働による記憶の作業は、出来事を出来事として、あったことをあったこととして描きだし、それ以前には見えていなかった意味の地平を描き出し、そして行為者たちの主観性を変えていく。出来事を出来事として描くことができるのは、こうした協働によってなのだ。『客人』では、ひとつの同じ平面にあつまって、死者が一人称で語り、彼の仲間が語り、彼を殺害した加害者も一人称で語る。この平面にあっては、それぞれが相乗的に聞く主体であるとともに語る主体となっている。出来事のなかに畳み込まれていた潜在的な意味を開き、出来事をその都度あたらしくされた枠組みで理解しなおし、そして出来事の意味を協働によって内的に深めていく。
土地解放とは、韓国社会のキリスト者たち__いち早く西欧思想にアクセスできる立場にあった階層、結局は富裕な地主層にとって、かつての作男、文字も読めない無学な下男に自分の土地財産を没収されることだった。そのうえ「やつら」は、かつての主人に対等な口をきくようになった。これでは天地がひっくりかえったも同然だ、無秩序をもたらした「アカ」は根絶やしにしなければならない。だが、「文字を読む」ということについて、別の語り手であればこんなふうに語るだろう。「考えてみろよ。おまえたちがぞんざいな言葉遣いをしても、間抜けあつかいしても、いつも黙って何も言い返さなかった一郎が、字を読むようになった。パクイルランと自分の名前もハングルで書けるようになったのだ。解放とはこういうものなのではないのかね。」__一方に「十字軍」と「サタン」の二分法にあらゆる細部を落とし込む思考があり、他方に人は歴史のなかで変わっていくことができるという思考があり、それらが出来事を構成していたのだ。
生者と死者が同じ平面に集まって、ひとつの場を開き、かわるがわる語りだす。正統的なリアリズム文学の理念からすれば、まず客観的な事実の全体が存在し、部分はその全体のなかに適切な位置と比重を付与され、配置されることになる。だが、この小説が扱おうとしている出来事の場合、そうした構築法にはそもそも意義がない。この広場でなされるひとつひとつの記憶の語りは、事件の経緯や、それを条件付けていた構造をトータルに見渡す視点に立ってなされてはいない。証言の連なりは、まさに「前後の順序も繋がりもなく、ある場面では詳しく、別の情景では簡略される」。それは夢の論理にも似ているだろう。このリアリズムは、過去におこった出来事を再現するそれではなく、出来事のなかに織り込まれていた潜在的意味を開くことで、異なる思考の布置に入っていく動的な過程なのだ。
幸い、信川虐殺の事実については、実証史学による検証がなされている。だが、それでもなおこの出来事のなかには、歴史として記述されえない部分がある。真実は内部から語られなければならないが、死者の経験は絶対的に単独である。作者自身も書いているように、この出来事を書くにはリアリズムの刷新が必要だった。重要なのは、その方法が、人々の想像力の土壌に根ざし、共同の文化に根ざしているという点だ。全一二章の構成とは、黄海道の「客人巫祭」の形式に対応しているという。死者に声をあたえ、死者を慰めるには、死者たち自身の文化によらねばならないということだろうか。翻訳へと限りなく開かれようとするこの世界文学の内にあってなお存在し続ける翻訳不可能性が、この記憶の文学を本質的に支えているのである。
私には韓国語の能力もなく、韓国の民衆文化についてごく限られた知識しか持ち合わせていない。だから、私はかならず的はずれなことを感じるはずであり、それは残念なことである。ただ、それが世界文学のひとつの意味であればよいのだかとも思う。以前、四三事件のマダン劇、光州事件のマダン劇の公演を見たことがある。虐殺の犠牲者、青白い死者たちは、少しずつゆっくりとその身を起こし、はらしがたい無念を解きほぐし、劇の最後にいたって生き生きと踊り出し、観客を引き入れていた。死者と生者の間の距離が全くちがう。私は驚愕した。『客人』のリアリズムはしばしば「魔術的」と形容される。だが、語られることのない死者の記憶、秘められた惨劇の記憶とともに生きる文化のなかにあって、これは生活と感性の真の現実、真にリアルな世界なのかもしれない。
死者たちと生者たちとが集まる夢の場面にも似た人々の記憶は、ひとりの個人の脳の内に閉じ込められた記憶ではなく、それを語り聞く共同の場を開く。それは和解や赦しという課題をあらかじめ設定したうえでの作業ではない。これより前には実在せず、この場とともに顕在化する記憶は、その都度さらに深められ、さらに立体化され、新たな文脈を創り出し、常に開かれた過程なのだから。この共同の場はつねに動的な過程にあり、それゆえ全体というものをもたない。新しいリアリズムが、新しい共同体の思想とともに創出される。
黄晳暎が語り出す「光州共同体」は、とまどうほどに美しい。光州ではもちろん、戦闘があり虐殺があった。だが、人々が経験した五日間の自治的な期間、その間におこった出来事、そのことのために、作家は光州の時代を革命とよぶ。それはすでに革命だった。多くの知人友人が犠牲になり、作家は自分だけが生き残ったようにさえ感じたという。その絶望の経験は、同時に目が眩むような喜びの経験と一つのものでもある。
私たちは、絶望は絶望であり、喜びは喜びであると考える。私たちはいまだ、それを一つのものとして語る言葉をもっていない。だが、私たちは絶望のなかに、しばしばたとえようなく美しい共同体が立ち現れることを知っている__レベッカ・ソルニットは、そうした絶望の中の希望に注目する独特な感性をもったジャーナリストだが、彼女の著書『災害ユートピア』は、二〇一一年三月の災害の後の日本社会で広く読まれた。コントロール社会では、情動の流れはつねに調整され、最適化されている。が、なすすべもなく打ちのめされ、世界からその意味が剥がれ落ちてしまったとさえ思えるとき、コード化されていた私たちの情動はいったん解除される。そして私たちは自分の怒りを仲間の怒りの姿のなかに映し出し、無念さをその最も強い無念さで、愛や希望を最も生彩ある色合いで、憎悪は覆い隠されない状態で、感じとるようになる。危機のなかに立ち現れる共同体において、私たちは自分の感情の強度を、仲間の感情の強度のなかに見いだし、そうして自分たちが日常のなかで自ら手放してきた尊厳をついに発見するのである。
光州の「共同体」とは何であったかを私が理解できるとはとても思えない。ただその予示的な革命の記憶をもとにして、八〇年代の民主化運動が、政権を取るというより、誰が政権を取っても関係ないようなもう一つの文化の編成を維持し創出することを考えるようになった、という点にやはり激しく心を揺さぶられる。文化サークルを基盤として、生産、消費の共同体が構想され、民衆文化運動が組織化され、そしていたるところの集会にマダンクッが登場したという。広場に参加した人々が文化の作り手であり同時に受け手であるような文化形態が、想起され、創出された。
技能や芸術的な才能や技能の所産として文化をとらえる理解は、文化を完成した文化商品として思い描くことだろう。もはやそこに何かを付け加えることはできず、ただ消費するしかないような完成品として。だが、売り買いするための文化として文化を捉えるのやめてしまえば、どれほど豊かな出来事が起こるだろうか。文化創造のなかで、人々は状況の主人公になり、そのなかで自分たちを表象し、そして自分たち自身をくり返し生み出していく。その通路が開けたならば、すでに革命は到来しているのである。そして文化を組織するように政治が組織されるのでないならば、政治的革命はついに偽の革命にとどまるだろう。それがどんな文化であり革命であるのか、私はまだうまく想像することはできない。それでも、ひとつの文学作品が生まれる過程のなかにさえ、たとえば『客人』が書かれるにいたる過程の中にさえ、私たちは豊かな共同性を予示的に見いだすことができるのだ。
遡って読むと『武器の影』も『懐かしの庭』も、多数かつ多層的な視点から構成されていた。一つの戦いの場に韓国軍兵士、解放戦線の都市ゲリラ、ベトナム政府軍将校、脱走兵やベトナム人商人たちがいて、彼らはあるパートでは一人称で語り、別の箇所では三人称で叙述される。彼らの表層の言葉と秘められた動機、思考の揺れと果敢な行動とが出来事を構成する。短い夢のような日々をすごした恋人たちは、その過去の追想に生きるのではなく、別の場所で、別の時間を生きる。相手のことを忘れてしまうくらいに異なった感情的経験を蓄積し、もはや永遠に出会う機会を失おうとしている。その恋人たちが、重なり合うことの決してない時間経験をそのままに、しかし同じ一つのキャンバスの上に描かれるのである。人々は、異質の時と場を経験し、そして、一つの調和した全体をなすような場を構成することは決してない。ひとつの小説の中の相互に異なる言葉、粒だった言葉たちの編成は、その彼方に、他者との出会い、出会いなき出会いによって出現する新しい生の可能性を開いて見せる。
私は『客人』を、日本語の訳文を通して読んだ。そのように読むとは、いったい何を読むことになるのだろうか。私はどこまでも的外れな読者であるほかなはい。ひとつの作品がその固有の場ならざるもう一つの場で読まれ、的を外して読まれるということに、それでももし何か意味があるなら、それはどういうことを意味するのだろう。
現在、世界文学とは、かつての教養主義的「名作」、あるいは英文学や独文学、仏文学など国名を冠して呼ばれるような各国の作品をかき集めたものではなくなっている。むしろ、国家と国家の間、国際的秩序のあわいから、近代国家体制とポスト近代の世界秩序の暴力に抗議し、その枠組みに収まることのないもうひとつの声をあげるもの、それが私たちの時代の世界文学である。おそらく、朝鮮戦争の文学、さらに四三事件の文学、国家創設にまつわる暴力の記憶の文学は、それゆえ、国家形成を完了した問題としてではなく絶えず継続する過程として思考している。その意味で、本質的に国民文学ならざるものであり続けることだろう。そして、私は一方で、モールトンの古風な世界文学の定義を、ここで思い出す。モールトンによれば、世界文学とは各人が国民的見地から見た全世界の文学だという。自国文学を基準にそれぞれの世界文学像を描く、日本人であれば日本の夜空にかかった世界文学の星座を見上げるということだ。別の夜空には、別の星座が広がることだろう。
黄晳暎は、ベトナムの戦場で、この戦争が韓国戦争であることを腹の底から理解したという。そして、このベトナムは別の場にも想起のチャンスを開いている。植民地時代に日本の軍属として夫を引っ張られた女性の記憶のなかでは、六〇年代末にアメリカによって息子を兵士としてベトナムに引っ張られた記憶が、歴史経験として二重映しになっている__許南麒「火縄銃の歌」の三代続く蜂起のネガのような記憶だ。彼女の記憶の中で、ベトナム戦争の帝国アメリカに、かつての帝国日本が重なりあう。『武器の影』は、黙説法で、日本を描いている。韓国軍兵士は、一日の命の値段が一ドルすこし、その血の代償で彼らは、米軍PXのラジオやテレビ、冷蔵庫を買う。その全部が、日本の製品だった。__日本の読者は、ベトナム戦争の「特殊需要」を足がかりにして高度経済成長を実現してきた日本経済の戦後史を裏側から知ることになる。もしそこから記憶を遡ろうという気さえあれば、朝鮮戦争を通して日本は急速な戦後復興を果たしたことを想起するのはたやすい。黄晳暎は、自らの解放のために戦うベトナム民衆の姿のなかに韓国戦争を見出したが、別の意味で、日本にとってもベトナム戦争は、韓国戦争だった。だが、日本の集合的社会的記憶のなかに、朝鮮戦争は登録されていない。かろうじて記憶に残ったのは朝鮮特需である。日本は他者の戦争のたびごとに、その都度、重ねて他人の死に寄生したのだが、それを恥辱としてでなく、経済的繁栄への序章として記憶した。たぶん今でも、わたしたちは幻想の中で生きている。
済州島四三事件を生涯の文学的テーマとした金石範先生は、「記憶の他殺、記憶の自殺」という言葉をしばしば使う。いったん「アカ」の烙印を押された済州島の人々は、まず容赦ない暴力によって沈黙を強いられ、そしてその後の時代を生き延びるために自ら記憶を消さなければならなかった。自分の経験、その目で見たものが、およそ言語を越えていたせいもある。人々は、語り得ぬもの、表象できないものを自分たちの内に抱え込んだ。その精神を「忘却」を軸に構築するというのは、どのような事態なのだろう。一方で、なにかを決して思い出すまいとし、ついにはなにを忘れようとしていたのかも忘れた主体とは、いかなる主体なのだろう。
東アジアは地理的実体ではなく、かつて日本の帝国主義植民地体制の下に形成され、その負の遺産のうえに冷戦期の米国か自らの影響力を重ね書きしたヘゲモニー空間である。米国は、東アジアの構造を、一体の戦略空間として視野に収めていたが、日本は日米関係の枠内に自らの「世界」を閉ざし、東アジアを否認した。そのため、日本は米国の冷戦戦略の下で自らが担った客観的役割を理解しそこなってきた。これは、私にとっては現在の日本の文学の乏しさの問題である。
東アジアの白地図上に、記憶と忘却という主題系を設定し、『客人』に至るまでの躍動する想起のリズムを置き、また「記憶の他殺、記憶の自殺」の苦痛を置く。あるいは、台湾の文学、たとえば五〇年代白色テロの記憶を描いた記録文学『幌馬車の歌』__映画『悲情城市』の原作となった__をその地図上に加えることができる。『客人』では、「自由の十字軍」が上陸し、三八度線を越えた五〇年一〇月の日付が殺戮のゴーサインとなったが、同じ日付が中国軍の方向転換を促し、台湾で国民党による白色テロの引き金を引くことになった。韓半島にも台湾にも、自分の死を死ぬことができなかったおびただしい死者がいて、そこに放りこまれた時の姿勢のままで地面の下に眠っている。もう一つの東アジア冷戦の地図は、地底の死者たちが見た夢の記憶の地図ではなかっただろうか。こうして描かれた五〇年代の記憶の地図のうえで、恥辱を繁栄に置き換えた日本はぽっかりと空虚に見える。ここでは忘却そのものが忘却され、想起のチャンスはくり返し取り逃がされた。記憶なき人間とは、いったいどのような人間であろう。私たちの夜空にかかる世界文学の星座において、まずなによりも、想起を通して自らを生み出してきた黄晳暎の作品群がその北極星の位置にあるのは、そのためだ。
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