[書評]湛軒思想の正しい読解、呪縛と誤解を越えて
朴熙秉(パク・ヒビョン) 『博愛と平等―洪大容の社会思想』、 トルベゲ 2003年
金鳳珍(キム・ボンジン) 北九州市立大学国際関係学科教授 kimbongj@kitakyu-u.ac.jp
世界各地を徘徊している亡霊、その名は「近代の呪縛」。近代、とりわけその負の側面に惑わされたまま束縛されていることを意味する。その姿は複雑多様であり、またその根は深い。したがって、その正体を明らかにすることはアポリアだ。にもかかわらず、近代の呪縛というカテゴリーを設定し、これを明らかにしていく必要がある。近代の呪縛を越える作業は、我々皆の共通課題だからである。
近代の呪縛には近代主義も含まれる。近代主義とは、平たく言えば欧米の近代を絶対化する傾向性である。ここで注意すべきは、その土台には二元思考や二項対立思考が前提されていることである。それゆえ相対化を拒否したまま、たとえば「近代VS伝統」といった対立図式がつくりだされる。そうして近代と伝統の両面性、複数性、重層性はぼやかされてしまう。特に伝統にたいする誤解や偏見が再生産される。
10年前に著者を訪ねたことがある。彼は『銀貨と近代』(トルベゲ、2003年)という著書で韓国思想史研究の近代主義的視角を批判していた。「崔漢綺〔チェ・ハンギ、朝鮮時代後期の学者――訳注〕研究は『近代確認的』観点ではなく『近代省察的』観点から展開される必要がある」(6頁)ということだ。ただ、その観点をもう少し緻密に展開できていたらという物足りなさは、これまで残っていた。
著者は今回も『博愛と平等』のあちこちで近代主義的視角を批判する。しかしながらこれに代わる新たな視角は提示していない。彼の関心は湛軒・洪大容〔湛軒は号、ホン・デヨンは朝鮮時代の実学者――訳者〕の思想に関する既存の研究の修正と補完にしか注がれていない。彼は湛軒が晩年に展開した社会思想を「博愛と平等」というキーワードで整理する。そしてそこには「荘子と墨子が包摂されている」と主張する。
湛軒思想と荘子の関連性は、既に良く知られた事実である。しかし墨子との関連性はほとんど論じられてこなかった。著者は「洪大容の社会思想の熟成過程で、墨子は非常に重要な因子だった」と主張しつつ「この点を解明したものはこれまでなかった」(6頁)とする。その解明を試みた『博愛と平等』は先行研究にたいして意味ある修正・補完がなされている。
「湛軒思想と墨子の関連性」には、ある程度共感する。しかし、その全てにたいして共感できるとは言い難い。湛軒の「博愛と平等」の観念を墨子にのみ還元することはできないと思うからである。老子や荘子、孔子、孟子からの影響も考えられるのではないか。また、仏教や天主教とも関連づけることができるだろう。とすれば「墨子との関連性」は、下手すれば「機械的還元論」(42頁)にもなりうる。
伝統にたいする誤解と偏見を越えて見てみると、儒学のなかにも「博愛、平等」の観念が内包されていることがわかる。たとえば、天下は「公」すなわち全ての人のものである。公は「平分」(『説文解字』)であって、天下とは「平分」まさに「公平に分ける」共和世界なのである。その中で人ないし集団は、たとえば権利や義務を公平に分けることによって、調和・共存する。さらに四海一家の「大同」を図る。
先に言及した「平、分」とは、儒学や性理学のキーワードのひとつだ。これは「均、斉」などを含意する。これらの概念それぞれに平等の観念が込められていると考えてもよいだろう。この際、平等とは西洋近代の個人主義的平等を含みつつも、それを越える観念である。そして差等の観念とつながって――差延して――いる。言い換えれば、「平等VS差等」の二元思考、対立図式のカテゴリーを越えている。
周知のごとく、性理学は儒学をもとにして仏教や道教を融合させた思想である。その中には、これらさまざまな思想、宗教の要素と、それらが寄って立つ論理が批判的に受容されているのである。したがって性理学の内部には「博愛、平等」の観念もまた込められている。我々がこれをきちんと見てこられなかっただけである。そうなった背景には、近代主義、近代の呪縛、そして伝統にたいする無知などがある。
例えば性理学の基本命題「理一分殊」の理一は、「博愛、平等」の観念を内在させている。理は先に言及した「公」概念とつながっている。同時に、道をはじめとする四端「仁義礼智」、そして七情のうち「愛」などの概念ともつながっている。そして「天理自然」という命題に見られるごとく、「天、自然」の万物と人間を一つに貫き通す。この「一つに」には、「平等に」という意味もある。
著者もまた性理学のなかの「博愛、平等」を意識はしているようだ。例えば性理学の先輩格である張載(チャン・ジェ)の「気一言論」(32頁)を取りあげている。そこに平等の契機があるとしているのである。ただ、同時に差等の契機もともにあると加えている。これに比べて湛軒は張載の気の哲学を、その差等の契機は除いて取り入れたと主張する。湛軒の「人物均」という命題は、ただただ平等だということだ。
もちろん、「人物均」の命題には平等の契機がある。先述したように「均」概念には平等が含まれていると考えられるからである。しかしただ平等なのではない。「均」概念は差等ともつながっているのである。とまれ、湛軒思想にも差等の契機はある。いかなる思想や哲学も、差等、不均から完全に自由にはなりえないだろう。とすれば、湛軒思想における「均と不均」は、同時に考える必要があるのではないか。
著者はまた、「天地万物一体の仁」という王陽明の命題を論じている。これは性理学の「博愛、平等」を浮き彫りにして余りある命題だと、私は考える。著者の考えは違うようだ。王陽明の「仁」は、本質的に差等愛にあるとする。一方、湛軒は、王陽明とは異なり墨子の兼愛を受け入れ、またそれだけにひたすら「平等」を、さらには墨子を越える「平等」を思惟したのだと主張する(107頁)。
話は変わるが、「墨子の兼愛、博愛、平等愛VS儒家の差等愛」という著者の対立図には同意し難い。単純化の誤謬とともに、伝統にたいする誤解と偏見の轍を踏んでいるのではないかと思われるからだ。また、著者自身が指摘した「誇張や歪曲」(23頁)を生み出し得るからでもある。実際、著者は湛軒思想を過度に高く評価することによって、むしろ歪曲してしまった部分も見受けられる。
例えば、湛軒思想が性理学や既存の儒学を乗り越える様相を帯び、革新的世界観を導き出したと著者は語る(7頁)。これはある程度妥当である。ただ、湛軒のみでなく、別の多くの儒学者もそうだった。本書第5章で論じられている許均(ホ・ギュン、1569-1618)、張維(チャン・ユ、1587-1638)など、10人以上が(著者は否定するかもしれないが)その一部に属する。それぞれの姿や世界観の中身に違いがあるだけである。
湛軒が人間学、自然学、社会哲学等の分野で「完全に新たなパラダイム」を作りだしたとか、その思想の「スケールと創意性」は朝鮮をはじめとする東アジアで「類まれなる」(7頁)と評価しているが、過剰である。だから、ともすれば歪曲に成り下がる憂慮をぬぐいきれない。湛軒思想における「博愛、平等」には、もちろん注目すべき価値がある。ただ、行きすぎればその本質に辿りつけなくなるのではないだろうか。
著者は湛軒の「公観併受」と相対主義に注目する。であれば、それに込められた湛軒の思考や論理にも注目すべきであろう。二元思考、二項対立思考を越える思考の論理のことである。このような思考を私は三元思考と呼ぶ。いうなれば、一つや二つだけを見るのではなく、「一つでありながら二つ、二つでありながら一つ(一而二 二而一)」を見ることが三元思考でありその論理である。
著者は湛軒の強い「平等」志向と民権意識に注目する。ただ、これらがまるで湛軒の脱儒教や脱性理学的な性向の証拠であるかのように論じることには問題がある。繰り返しになるが、平等の観念は儒教にも性理学にも内在していると見るからである。これは民権意識も同じである。ここで論じる紙幅はないが、民権意識もまた儒教、性理学に内在している。
著者は湛軒の「華夷一」という命題を華夷論の「脱呪術化」(173頁)と解釈する。これはさしあたり妥当だといえる。しかし「華夷論の否定」(182頁)や、その「原理的否定」(35頁)という解釈は行きすぎではないか。たしかに、「華夷一」の命題だけを見れば、これは「華夷区分」の解体を意味する。ただ、湛軒の著作(『醫山問答』)の続く言葉において「華夷区分」はすぐに復旧される。湛軒の華夷論は「存続」するわけである。
私は湛軒の華夷論を分析し、華夷観を明らかにした論文を書いたことがある。詳細は「洪大容燕行録の対外観」(ソウル大国際問題研究所編『世界政治12』第30集2号、2009年秋・冬)を参照していただきたい。その論考で「華夷一」の意義は華夷観の「否定」ではなく「相対化」にあることを明らかにした。また、華夷論と華夷観は思想史的に同じ流れにはないとし、その流れを分けて説明した。
湛軒は「自己(国)中心的で閉じられた」華夷観を批判した。「相対主義的で開かれた」華夷観をもっていたからである。そのもとには三元思考とその論理がある。とすれば、湛軒の思想を正しく解釈するためには、三元思考とその論理が必要だろう。これは朝鮮をはじめとする東アジア思想史研究一般にも言えることである。
翻訳:金友子
2013年 6月1日 発行
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