[書評] 北朝鮮で韓国社会に出会う
権憲益・鄭炳浩 『劇場国家北朝鮮』, 創批 2013年
「ミサイル発射」「戦争の危機」など、反復される北朝鮮発のニュースにはじっさいのところ食傷気味であるが、ふと北朝鮮についての新事実に触れることもある。北朝鮮の外交部が平壌駐在の外交官に撤収を勧告したという知らせに、周囲の人は、北朝鮮に他の国の外交官もいるのかという反応を示す。一国に別の国の外交官がいるという事実は至って常識であるのに、「世界でもっとも閉鎖的な国家・北朝鮮」というイメージと、私たちの先入観のせいで、こんなことにも気づかずにいられるのではないだろうか?
本稿は2012年にイギリスで出版された権憲益(クォン・ホンイク)と鄭炳浩(チョン・ビョンホ)という二人の人類学者の共著『North Korea: Beyond Charismatic Politics』の韓国語訳『劇場国家北朝鮮――カリスマ権力はいかに世襲されるのか』の書評であるが、冒頭に別の話題をもってきたのには、以下のような理由がある。本書を精読しながらずっと「私の知る北朝鮮、あるいは韓国社会が見る北朝鮮」はいかなる姿をしているのだろうかと考えさせられた。加えて筆者が、共著者の鄭炳浩の研究背景として説明している「2000年代初頭、韓国の人道主義団体の一員として平壌を訪問」 (20頁)した当時に撮った映像を、夜を徹して整理していた修士課程の大学院生の一人でありつつも、北朝鮮の専門家ではないからである。
ただ、筆者は脱北者ではない北朝鮮の人々を対象としたフィールド調査をもとに博士論文を提出したということもあり、「この20年のあいだ、平壌製の衣類がどのように中国を経由して韓国に入り、その衣類を韓国の人々がどのようにして中国製と考えて着るようになるのか、さらに韓国社会で売れない衣類がどのように再度北朝鮮に輸入され、平壌の人々が、自分の近所の人が作った服を中国製と思って着るようになるのか」については説明することができる。そして「開城工団は北朝鮮唯一のドル確保の窓口」と分析する韓国の対北専門家とは違って、「ここ2、3年間の丹東〔中国、遼東半島の都市〕の北朝鮮の女工たちの規模(一万人以上)と月給(開城工団の五万人ほどの賃金よりも最小で2、3倍高い)を考えるなら、北朝鮮社会で開城工団が占める位置の変化を推測できる」といった意見を述べることができるくらいだ拙稿「中朝国境都市・丹東をめぐる民族誌的研究:北朝鮮人、北朝鮮の華僑、朝鮮族、韓国人の関係をつうじて」ソウル大学大学院博士学位論文(2012年)。
そんな筆者が本書を読む前に選択した方法は、まず別の書評を参照することだった、北朝鮮の三回目の核実験から三日後に出た本書の紹介は、インターネットでいくつも探すことができた。取り急ぎ、ヘッドラインで私は本書に注がれる韓国社会の視線を読むことができた。「三回目の核実験、ミステリー北朝鮮を見つめる」「三代世襲、核実験、体制維持にもがく北朝鮮」「行き詰まりドラマ、北の政治も幕引きか」「北朝鮮、巨大なトルーマンショー」などである。
本が出版されるやいなやあふれ出した書評の数々であるが、人類学を学んでいる私は主観的な疑問をもった。本書の著者である権憲益は英ケンブリッジ大の碩座教授であり、旧ソ連とベトナムの農村についての研究で認められ、人類学分野では権威のあるギアツ賞を受賞した研究者である。もう一人の著者、鄭炳浩は10年以上も北朝鮮について客観的な視線を維持すると同時に北朝鮮を訪問する機会を活用して人類学のフィールドワークをおこなっていることを、筆者は知っている。とすれば、もしかして著者らの意図とは異なって韓国社会に存在する北朝鮮についての偏向した視線が、本書にたいする理解を制限しているのではないだろうか?
先に列挙した書評のタイトルと内容を読んで、あるいは英語版とは違う韓国語版のタイトル「劇場国家」から感じられる先入観をもって、本書を手に取った韓国の読者たちがいるかもしれない。しかし本書は序論で北朝鮮に対する立場を明らかにしている。該当部分を引用してみよう。「じっさいに北朝鮮の政治体制にはミステリーがない。北朝鮮という国家は謎のような存在でもなく、そうあったこともない。(・・・中略・・・)北朝鮮の政治体制は現存する別のいかなる政治体制にも劣らず現代的で、また、グローバルな現代性との接触の産物である。この点で北朝鮮は現代世界でそれ以上でも以下でもない『もうひとつの国』というブルース・カミングスの主張は正しい」(10-11頁)。そしてこの主張を裏付けるために著者らは人類学の知識と研究成果、北朝鮮現地での調査経験、日帝強占〔植民地支配〕期から現在までの歴史的流れと背景、さらには他国との比較分析を試みる。
たとえば北朝鮮の先軍政治が「北朝鮮固有の発明品ではまったくなく、暴力革命論と進歩思想の歴史において見慣れたもの」(131頁)であるとか、「北朝鮮という国家が一種の記念の文化のうえに打ち立てられたことを認識することが重要だ。これはヨーロッパや他の地域の多くの現代的国民国家でも同様である」(162頁)ことなどに言及し、北朝鮮を別の国と比較するとき、根本的に類似している地点はどのあたりで、またどのような変化がゆえに再びかけ離れていくのかを指摘する。「北朝鮮の食糧危機は世界的な地政学的体制としての冷戦の終結に伴う付随現象」(240頁)であることを、中国、旧ソ連、東欧のみならずベトナムと韓国の事例まで引用して明らかにしている。すなわち、「見慣れぬ場」である北朝鮮社会でさまざまな国に出会うことができることを示しているのである。
しかし上記に言及したほとんどの書評が主に「北朝鮮の新指導部は現代的な政治的権力と権威の本性に逆らう人為的な芸術政治の力にはじっさいに明らかに限界がある、という赤裸々な歴史的教訓と真実に向き合わねばならない」(279-280頁)という結論の一部分、すなわち劇場国家としての北朝鮮の限界にのみ注目する。評者らは本書が繰り返し投げかける「カリスマ権力はいかに世襲されるのか」という問いからは目をそむけたまま、「北朝鮮の三代世襲の最後の失敗」という観点に本書の内容を極限する傾向がある。なぜこのように本書が伝えんとすることが、韓国社会では狭められてしか認知されないのだろうか? 偶然にも北朝鮮の三回目の核実験の後、すぐに出版された本書の運命であると言ってしまうには、あまりに胸苦しい。
他方で個人的には本書を閉じた瞬間、韓国人類学界で教材として愛用されている『見知らぬ場で自分に出会う』(韓国文化人類学会編、一潮閣、2006年)という本が思い浮かんだ。1970年代初頭に生まれた筆者であるが、本書のなかで北朝鮮社会を理解するためのいくつかのキーワード、すなわち章のタイトルとして提示された「大国喪」「総代」「革命烈士陵」「指導者にささげる贈物」「道徳経済」など、見覚えがあったからである。私はその理由を鄭炳浩の寄稿文(『プレシアン』2012年12月14日)の一部に見出した。「金正日の後継構図が本格化した1970年代初頭から北朝鮮では多くの本が禁書として消え去り、一般に歌われていた歌が禁止曲となり、服装や頭髪に至るまで生活検閲も強化された。どこかで見
たような風景ではないか? 自由民主主義韓国でも、維新時代を生きた人は皆経験した終身権力の統制方法だ」。私もまた主観的に読み、書評をしてしまった。
翻訳:金友子
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