[書評]東アジア的な近代性に対する新たな模索
日本人の韓国史学者である宮嶋博史が長い間詮索してきた研究書を評することは、西洋史研究者である私にとってはかなりの重荷である。しかも『私の韓国史勉強』『日本の歴史観を批判する』という題目は、一層負担を感じさせる。しかし、本書が示している幅広い歴史的な視野や世界史認識の新たなパラダイムを模索する大胆な試みは西洋史学者である私の関心を引くに充分である。実は、10年前の2003年に著者が「近代を見つめなおす」(『創作と批評』2003年夏号)という試論的な論文で同様の試みを行った時、私はそれに対し、批判的な見解を示したこともあった(「世界史の読み直しとヨーロッパ中心主義」『創作と批評』2003年 秋号)。著者はその論文で、東アジアの「近代」を資本主義の統合以降と見なす通常的な認識とは異なった代案的な歴史観を示したのだが、それは東アジアにおいて開港以前の前近代(又は「近世」という曖昧な用語)と見なされていた16~18世紀を「近代」と見るべきという主張であった。今回刊行された2冊の著書において、彼はヨーロッパ史的な概念ではなく、独自の東アジア的な近代性を捕捉するために16世紀以降の東アジアを思い切って「小農社会」に基づいた「儒教的な近代」と定めている。
著者の小農社会論は韓国史学界では所謂「内在的な発展論」と対立する論争的な仮説として知られている。このような論難の多い問題は、韓国史の実証的な研究を伴ってはじめて解決されるものであるため、専門的な研究なくして何ら見解を述べることはできない。ただ、著者の問題意識の創意性と基本的な論旨に見られる洞察力、それを支えている実証的な研究の地力が感じられることだけは確かである。小農社会は、奴隷制‐封建制‐資本主義という欧州の歴史に基づいた東アジアの認識を批判する代案的な歴史論であると同時に、日本史を東アジアの共通性の中で見つめることにより、日本の史学界に根付いている「脱亜入欧」的な傾向を克服するための仮説と言えよう。又は、韓・中・日の三国の共通点の中で相違点を判別する比較史のための仮説と言えるかもしれない。
『日本の歴史観を批判する』は、我々が予想するような右翼陣営の歴史歪曲に対する批判ではなく、日本の進歩的な歴史学界を含めた学界全般に共有されていた西欧偏向的な歴史意識を批判している。本書は日本の西欧的な近代化、つまり「脱亜入欧」成功の歴史的な根拠として認識されてきた二つの論点に注目している。それは、日本だけが東アジアで唯一ヨーロッパと近似した封建制を確立したという主張と、中国及び韓国とは違って儒教の弊害から抜け出すことができたという主張である。著者は、日本の歴史を西欧の歴史と近似したものと見なそうとする封建制の言説や、韓国にも封建制が存在したと反論する韓国史学界における通念のどちらも、誤ったヨーロッパ中心的な歴史観から生まれたものと見ている。これは、今まで西欧の「封建制」を普遍的な歴史発展段階として見なし、その概念を官僚制的な集権体制が定着した朝鮮に適用してきた韓国史学界に対する痛烈な批判でもあった。
ヨーロッパの封建制社会とは違い、小農社会は土地の所有者であろうが、小作農であろうが、独立的な経営の主体としての小農が圧倒的な社会であったわけだが、このような小農社会的な性格こそが全体の世界史において、唯一東アジアの「近世」(著者の主張に従うのなら「近代」と規定すべき16~18世紀)以降の社会にだけ存在する独特な特徴であるという点を著者は強調している。農民が自分と家族の労働力だけで農地を経営する小農社会への転換は、東アジア地域での人口の急速な増加と農業技術の変革という条件の下で成立し、中国では明時代の前期以降に、韓国と日本では17世紀頃に定着した。この時期の東アジアにはヨーロッパの封建制社会のような領主の大土地所有に基づいた直営地経営は殆んど存在しておらず、支配層の中国の士大夫、韓国の両班(ヤンバン)、日本の武士は農業生産から離脱し、土地貴族的な性格を持っていないか(士大夫と両班)、もしくは非常に弱かった(武士)のである。それゆえに、著者は朝鮮の支配階層であった両班も一般の庶民と同じく土地所有者であるだけで、土地に対する特権を持ってはいなかったことに注目している。
小農社会は国家や社会全般にかけて支配階層の存在様式を規定し、その体制に合った理念を伴っていたというのが著者のもう一つの核心的な主張である。それは、集権的な官僚体制が再生産できる経済的な土台でありながら、朱子学の理念的な受容に適した社会であったと言える。ヨーロッパ型の土地貴族層の不在と独立小経営の農民階層の遍在は官僚制的な支配を可能にし、支配階層のこのような存在形態は儒教、特に朱子学的な政治思想にぴったりと当てはまったというのである。その理念の担当者である士大夫層や両班層は、儒教的な教養能力を基準として人材を登用する科挙制度を通して評価される比較的開放された階層であった。勿論、中国と朝鮮には多少の偏差はあり、朝鮮の両班の方が身分的により閉鎖的であったことは確かであるが、朱子学の理念が両班により社会全体へと広がり、朝鮮王朝は朱子学的な理念を国家運営の基本とすることができたのである。著者によると、この時期に日本も不完全ではあったが、政治的な支配理念として朱子学を受け入れ、中世の分権体制を一時期否定したりもしたらしい。しかし、科挙制度や文官官僚制が定着せず、人文的な教養の足りない武士が支配をしたため、周辺部的な限界がそのまま露になったということである。著者は近代の殖民侵略などに現れた日本の脆弱な平和意識も儒教的な文明主義をまともに体験できなかった周辺部の限界と無縁でないと見ている。
このように、東アジア的な「近代」が小農社会に基づいた儒教的な近代であるなら、「近代」の定義上、今の時代もそれに相当するという意味であり、その特徴的な性格が現在まで受け継がれているという意味でもある。そのことを著者はこの2冊の本の中であらゆる次元で整理している。小農社会に相応する農業形態と村落構造の定着から家族制度の形態の変化、家父長制の強化と女性の地位低下、相続制度の単独相続への変化、政治的支配と土地所有の間の乖離による民衆の均質化、あらゆる肯定的・否定的政治文化の形成に至るまで、小農社会が社会構造全般に与えた根本的な変化が現在も依然として作動しているというのである。そのような視線で見た時、西欧の歴史に基づいた概念は薄れ、これまで我々が意識できなかった東アジア的な特質を改めて知ることができると主張しているのだ。
しかし、このような構造的な特質が現在も存在しているという事実を根拠に、小農社会の成立が東アジア全体の歴史を二つに分ける画期的な変化であるという著者の主張に、私は疑懼の念を抱かざる得ない。なぜなら、東アジアにおいて、それが資本主義的な近代への変化よりも遥かに重要であるという意味を含んでいるからだ。著者は「小農社会の成立前後の東アジアの社会構造の大変動に比べれば、前近代から近代への変化はむしろ相対的な意味では些細なことである」とまで主張している(『私の韓国史勉強』72頁)。前近代として見なされていた16~18世紀を「近代」として設定すべきだと著者が力説する理由は、資本主義的な近代への変化を小農社会の連続性の中に存在する比較的小さな変化として見なしているからであろう。
著者は、歴史学の最も根本的な存在意義が「近代」を現在の生活と直結した時代として把握するところにあるため、歴史学において最も重要なことは近代と近代以前を区別することであると主張しているほど、歴史学の実践的な問題意識を強調する傾向が見られる(『私の韓国史勉強』325頁)。しかし、今日の東アジア的な近代性を小農社会と儒教の理念に求めるならば、一体如何なる志向の実践的な意識が要求されるのかが確かではなく、しかも、このような歴史認識が資本主義的な近代を生きる我々にどのような実践的な意味を持っているのかも疑問である。つまり、我々の生きてゆく近代の実相、さらには近代を超えようとする我々の歴史的な方向性をむしろ見失わせるではないかと懸念されるのだ。それは、近代世界を支配している資本主義の問題を歴史的な視野から遠ざけているからだと思われる。現在の東アジアの空間をより深く具体的に理解しようとするならば、「小農社会は儒教的な国家を経由してきた資本主義社会」という視覚を持つ必要がある。そのような独自的な体験が、資本主義以降を想像し設計するに当たり、如何なる肯定的な働きをするかを考える方が、歴史学の実践的な問題意識に必要なのではないだろうか。著者が規定している「東アジア的な近代性」を、むしろ資本主義的な近代と複合的に結合した東アジア特有の前近代的な遺産として見なした時、著者の学問的な情熱を注いだ立論は、現在の近代克服への道のりにおいて必ず参考すべき重要な洞察になると思われる。
翻訳:申銀児
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