창작과 비평

[書評]『近代の特権化を越えて』

2013年 秋号(通卷161号)

 

金興圭(キム・ペクヨン)『近代の特権化を越えて』、創批 2013

 

金白永(キム・ペクヨン) / クァンウン大学校教養学部・教授  kimby@kw.ac.kr

 

 

 

定年を目前にした元老学者が、ここ10年間の学界における「主流談論」になってしまった脱民族主義論と植民地近代性論に対し、臥薪嘗胆の戦意を燃やしながら、過去数十年間蓄積してきた学問的実力を一つに注ぎ入れ書き上げた論争的著作。短い寸評として紹介しがたい思惟と、観察力における幅と深さを揃えている本書は、韓国現代文学の専攻者として学問的履歴をスタートした著者が、朝鮮後期の文学史へ学問的迂回路を経て、何年前に近代への帰還を決心してからぶつかることとなった「桑田碧海」という現実から感じた衝撃に関する告白からスタートしている。「消極的内発論者」として、ひたすら朝鮮後期における近代への内省的転換可能性を穿鑿してきた著者が、2006年頃から「近代への帰郷」を準備しながら感じたことは、実に「橋が燃え、渓谷が水に浸かってしまった」という惨憺たるものであった。いつからか、公然として内発論の時効満了が宣布されている中で、今は、前近代社会・文化に関する研究は、学界の周辺部へ追い出され、「民族」と「民族主義」は、時代錯誤的な「笑いもの」になった。そして、学界は、近代の外来性を前提とした言説が支配する世の中になってしまったということだ。著者が「断層的近代性論」として通称している最近の支配的研究傾向には、内発論の失効を認めている著者も、看過できない重大な問 題がある、とのことが本書の主張である。

全6章として構成された本書において、著者が提起する主要争点は、4つに要約することができる。各章には、学界の問題的現実に対する「老学者」の状況認識における切迫感と焦りが繰り返されている。一つ目、1920年代初め、突然現われた恋愛感情に対する大々的な噴出は、果たして、西欧と日本から輸入された新しい現象であるか(第1章「朝鮮後期詩調における不安な愛と近代の恋愛」)。二つ目、韓国人の民族意識と集合的アイデンティティは、20世紀に突然現れた現象であるのか(第2章「政治的共同体における想像と記憶」)、三つ目、「統一新羅」という観念は、日本の植民史学により発明されたものなのか(第3章「新羅統一言説は、植民史学の発明なのか」)、四つ目、韓国の近代文学は、伝統文学と断絶された「翻訳された近代」なのか(第4章「韓国の近代文学研究と植民主義」)。とりわけ、第3~5章は、2008年に刊行された『新羅の発見』(ファン・ジョンヨン編)に対する著書の批判からスタートしているが、以後は、2011年まで『創作と批評』と『文学ドンネ』において、著者とユン・ソンテ(尹善泰)、ファン・ジョンヨン(黄鍾淵)の間における反論と再反論として、熱く展開された論争過程の産物である。双方の文をともに読まなければ、文脈に対する正確な理解とバランスの取れた事態把握が不可能である点を指摘しておきたい。各章の結論だけをおいてみると、著者の問題提起は大体一貫しているし、妥当であると考えられる。また、ある部分においては、もっとも生産的で建設的な提案を盛り込んでいる。たとえば、クォン・ボドゥレとキムとドンシク(金東植)として代表される「恋愛の伝播論」の限界を批判しながら、著者はそれを朝鮮王朝の規範的統制の体制下において、抑圧されてきた欲望の社会的質量が、1920年代初という歴史的条件を迎え爆発したこととして把握すべきであると主張している。彼は、18~19世紀の詩調において急増している「不安な愛のモチーヴ」を、それの前史としての兆候と読解することを提案する。また、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の圧倒的影響下において、韓国の近代民族主義の形成史を、「記憶なき想像」として考える脱民族主義論的観点に対する著者の批判も、もっとも説得力がある。近代韓国の民族は、シン・ギウク(申起旭)とヘンリー・イム(Henry Em)の問題的主張とは異なり、無から突然出現した現象ではなく、高麗・朝鮮時代における、約10世紀にわたって言語・種族・宗教・統治・体制などにおける熟成と受容を通して持続的に出現してきた政治的・社会的集団性の自覚に基づいており、それを「相続/拒絶」(descent)した結果として形成されたとしている。

恋愛の起源の問題において、「ヨーロッパと近代を不適切に特権化した」ギデンズ(A. Giddens)の限界を超えて、ロマン的な愛に関する歴史人類学的研究を本格化すべき必要があるという主張や、ダンカン(J. Duncan)やホブズボーム(E. J. Hobsbawm)の論議を典拠として考え、民族形成に関する原初主義と近代主義の二分法的対立構図を乗り越えようとする主張に異議を提起する人は、多くないだろう。しかし、このような主張に到達するために、著者が論理を展開する方式には、多少、―相手の論理に対する過剰単純化と指摘できるような―、問題の素地があるようにみえる。三つ目と四つ目の論点をめぐって、著者とユン・ソンテ、ファン・ジョンヨンの間に、そうした激しい論戦があった理由も、このような著者の倫理展開方式と無関係ではないかもしれない。

「統一新羅」観念が、植民史学者の林泰輔により作られたというユン・ソンテの主張には、明らかに「荒い」ところがあり、「すべての近代は、植民地近代」というキム・チョル(金哲)と、ユン・ヘドン(尹海東)の言明には、形式論理的に批判の余地があることも事実である。これは、イ・グァンス(李光洙)の文学的実践に関する研究を通じて、韓国の近代が「翻訳された近代」という含意を引き出すファン・ジョンヨンの主張も同じである。しかし、そうした主張の裏面においた同時代の研究者の問題意識の行間を理解しようとする観点に立つのであれば、そのような問題点は、理論的な主張全体が排撃されたり、棄却されたりする致命的欠陥であるというよりは、今後、理論的説明力を高めるため、より厳密な検証と細部的補完が必要な作業仮説の未精錬された部分としてみるべきである。それを「バリバール―ウォーラーステインに対する単純な誤読の産物」として見なしたり、「植民地時期の従属的回路に閉ざされた弱視ないしは視野狭窄症」として断定したりするのであれば、相手のこのような批判を学問共同体の発展のための、生産的論争や今後の大乗的協業のメッセージとして受け入れることは容易くないと思われる―このように、刺激的で、時には暴力的に感じられる言辞は、断層的近代性論を、「二行叙事の影」に陥り、「近代の外来性」だけを過度に強調する「外発論」として規定するところにおいても繰り返される(第5章「植民主義と近代の特権化を越えて」)。

結局、著者は、断層的近代性論が「過去に対する意図的評価切り下げ」の傾向性を持っており、文学史・思想史・芸術史を含めた韓国文化の研究者が、「近代という概念に特権的地位を付与する「試行母型」から脱するべきである」と結論づける(第6章「特権的近代の叙事と韓国文化研究」)。しかし、筆者がみる限り、決して同一的なものとして考え難い植民地近代性論と内在的発展論の近代認識を、同一なものとして見なすことで、植民地近代性論に内在された「発展論的近代」の疑いを追究するのに執着している著者の姿は、まるで幽霊と対話しているような感じがする。その幽霊は、著者には、まるで明確な意図と目的を持つ一連の同質的・学問的実践の総合であるように見なされているが、筆者が見る限り、それは実体がもっとも弱い、異質的分子の集合として、著者の主観が過度に投影された観念的構成物としてみえる。

これに関連して指摘しておきたい一つ重要な問題は、著者が「断層的近代性論」の一般を、一つにまとめて批判している過程の中で、植民地近代化論と植民地近代性論の差異を看過している点である。著者が問題視する「特権的近代の叙事」は、ある意味としては、今日の広義の韓国歴史学界全体が、暗黙的に共有してきた「エピステーメー(episteme)」であり、「マンタリテ(mentalités)」として、「断層的近代性論者」だけの限界や過ちとして見なされる性格の問題として見ることは難しい。それは、根本的に「西洋史/東洋史/国史」や「古代―中世―近代」と構成された近代史学の学制的区画化、その自体に常に、またすでに内在されている性質であり、近代ヨーロッパにおいて創案され、日本帝国の植民主義を通して、韓国に移植された「近代=文明」の時空間における秩序その自体にほかならない。単純化して言えば、内発論と植民地近代化論がその表面的な理論的主張における「相極性」にも、このような目的論的近代概念に対する価値論的立場を共有している反面、植民地近代性論は、少なくともこれに対して系譜学的批判の問題意識を持った省察的な理論的な実践という点において質的差別性を表している。したがって、植民地近代化論とは異なり、植民地近代性論については、その研究関心が過度に近代に集中されている点において、問題意識や対象設定の制限性や理論的な不完全性を批判できるかもしれないが、近代に特権的価値を付与していると批判していることは穏当ではない。近代認識問題と関連して、著者に一つに見えた幽霊は、少なくとも二つ以上の別箇の実態に対する錯視現象の産物である。

にもかかわらず、筆者が本書を現時点における韓国の近代研究者にとって「必読書」になる十分な価値があると考えたのは、ただ単に本書が、無責任な清算主義と「認識論的断絶」が横行する我々の学界における「瘠せている土壌」では珍しく、真剣で責任感のある老学者の学問的自己告白であるから、という理由だけではない。何よりもこの本では、自分の学問的履歴の大半を注いできたという、「慣れている」内発論の陣地から離れて、「見慣れていない」近代性論の領土を、新しい探求領域として選択した勇気のあるポスト―内発論者が、韓国の近代研究における問題的現実に対して投げかける、重みのある警告のメッセージが盛り込まれているからである。それは、斬新さと明朗さを武器として、国際化とグローバル化を免罪符とし、容易い流行と模倣を繰り返してきた多くの近代研究者に、自省の警鐘を鳴らしている。その響きの強度は、おそらく人によって、―とりわけ、世代と観点によって―、大きく異なると思われるが、文学・歴史学・社会学・人類学・政治学・文化研究の広範囲の学制的領域を乗り越えながら、韓国・近代研究の前後方というあらゆるところにおける紛争地域と脆弱地帯に踏み込み、心地よくない課題を提起する老学者の指摘には、傾聴すべきところが少なくない。この論争的な著作が、韓国近代研究における差評点検のための、小さいが緊要なマップとして広く活用されることを期待する。

 

翻訳=朴貞蘭(パク・ジョンラン)

季刊 創作と批評 2013年 秋号(通卷161号)

2013年 9月1日 発行

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