창작과 비평

分断体制と87年体制の交差点にて

 

 
 金鍾曄(キム・ジョンヨプ) 韓神大学社会学科教授。著書として『笑いの解釈学、幸福の政治学』『連帯と熱狂』『デュルケムのために』、
編書として『87年体制論』がある。 kim.jongyup@gmail.com
 
 
 
 

1.ルビンの壺

ゲシュタルト心理学でよく例示される「ルビンの壺」という絵は、私たちが背景を何と思うかによって、形状が異なって知覚されることを示している。黒を背景と思えば壺に見えるし、白を背景と思えば向かいあう二つの顔に見える。李明博政権と朴槿恵政権をどのように知覚するか、あるいは金大中政権と盧武鉉政権をどのように認知するかも、こうしたゲシュタルト心理学の洞察に照らしてみる必要がある。

韓国社会の民主派は、87年体制を背景にして李明博政権を把握した。ある人は彼の執権を民主主義がうまく作動していることを示す正常な過程と、ある人は憂慮がなくはないが、さほど深刻ではない逸脱と認知した。だが、多くの人々は李明博政権の執権後の行動スタイルから民主的法治国家の破壊を知覚した。それで、総選挙と大統領選挙で進歩・改革陣営が勝利することで、韓国社会を急いで正常な軌道に戻さねばならないと思うようになった。そのように事態を把握するようになった経緯は納得しうる。盧泰愚政権から盧武鉉政権に至る過程は、不満足で紆余曲折に満ちていたとはいえ、民主化が着実に進展した過程とみることができた。同じ見地から、金大中政権以来の経過も簡明に照らされる。金大中・盧武鉉政権期に社会・経済的な民主化に失敗したことが保守派の執権を招いた。今日社会・経済的な民主化をきちんと実践できるというなら、そしてそれを遂行できる政権を樹立できるというなら、代価は小なくなかったにせよ、李明博政権を二歩前進のための一歩後退と整理していくことができる。2010年の統一地方選挙から2012年の総選挙、大統領選挙に至る過程で現れた、民主的大衆の熱烈な参与(アンガージュマン)はこうした認識と密接につながったものだった。

しかし、総選挙の敗北、またそれに次ぐ大統領選挙の敗北は、多くの人々の認知的背景を87年体制から分断体制へと移動させた。解放後の韓国社会で保守派が執権していない期間はわずか民主政権十年間にすぎなかったということ、韓国社会が相変わらず「一方に傾いた運動場」だという事実に、人々はあらためて気づいたのだ。こうした観点は、2012年選挙敗北による「メンボン」[メンタリティーの崩壊、つまり内面的・心理的崩壊]から脱しようという防御機能の側面もあり、選挙敗北の責任がある民主党(または当時の民主党指導部)の弁明とみることもできようが、心理的動因や政治的な我田引水は別にして説得力がある。確かに、分断体制はずっと民主主義の深化と展開に強力な妨害要因として作動してきた。そして今、社会革新の方向摸索にも非常に大きな障害要因として作動している。

ところで、「ルビンの壺」体験と似た精神的当惑は、民主派の前に金大中政権と盧武鉉政権の時に、まず保守派が経験したようだ。保守と進歩、あるいは右派と左派のような用語は政治的区別の用語である。こうした区別と関連した韓国社会の脈絡を理解するため、筆者は保守と進歩の代りに保守と民主という区別を用いた。こうした区別は、「民主政権10年」のような表現に潜在したものでもある。もちろん民主派よりは進歩改革派、あるいは進歩改革陣営のような表現がより広く使われ、そうした表現も説得力をもつ。しかし筆者は、民主派という用語が簡潔である以上の長所があると思う。区別の両項目は、それぞれ相手でないことを通じて意味を獲得する。保守/進歩の区別図式では、進歩は保守ではないもので、保守は進歩ではないものである。同じ線上で、保守/民主の保守は民主ではなく、民主は保守ではない。さて、このように区別すれば、分断体制下で保守が民主的法治を完全には受けいれない集団であることを示しうる。そういう保守を守旧と命名するのも一つの方法である。しかし、守旧という言葉が保守内の一部集団(わが社会の保守内でヘゲモニーをもった集団であるが)を超えて、その集団全般を指すのは無理があると思う。 分断体制の守護者である保守派の観点からみれば、金大中政権の樹立はIMF危機[1997年]という自らが招いた度外れの危機状況の中で一度ぐらいは大目に見てやれることだった。金大中の急進性は長年の弾圧過程である程度飼い馴らせたとみなしていたし、彼を迫害したことへの淡い罪意識、そして光州と湖南地域全体に対する負い目もあっただろう。

だが、盧武鉉は容認できなかった。金大中の当選のような逸脱は、体制の弾力性のために一度ぐらいは受容できたが、盧武鉉の当選は逸脱を構造へと転換させる可能性をもった脅威的事件だった。民主派にとって朴槿恵の当選がそうであるように、盧武鉉の当選は保守派には「メンボン」を誘発した事件だった。盧武鉉前大統領に対する保守派の奇異なまでに強烈な敵愾心は、自らが経験した「メンボン」、つまり分断体制という安定した背景を捨てて不可避的に他の認知的枠組を導入せざるをえないかもしれないという危機感と無関係ではない。彼らは民主化を望んだとしても、分断体制と両立可能な民主化を望んだだけで、それを解体する民主化を望んだわけではない。そのため、87年体制が分断体制を内部から破壊する水準に達するほど発展することは許せなかった。

しかし、民主化の移行とともに分断体制は以前の安定した状態には二度と戻りえないということを受け入れられず、それを再び安定させようとする保守派、そして分断体制と87年体制を一緒に考慮せず、認知的な背景交代の中で混乱する民主派、いずれもバランス感覚を失ったのだ。私たちがおかれた状況、より具体的にはあの総選挙や大統領選挙、また現在、私たちが直面する朴槿恵政権の様々な様相をきちんと把握するためには、分断体制と87年体制という二重の枠組を通じて事態を把握する必要がある。つまり、分断体制が87年体制の中で貫徹される方式と、87年体制が引き起こした分断体制の構造的変化を、内的につなげて考えなければならない。こうした展望は、「揺らぐ分断体制」という平易な表現の中にすでに宿っている。要は、その洞察を活性化して状況の中でより徹底的に適用することである。

 

 

2.揺らぐ分断体制の帰結

解放後の韓国社会の変動を分断体制論の観点から考察すれば、四つの段階に分けられる。第一は、[1945年]8・15解放から朝鮮戦争を経て、1953年停戦に至る分断体制の形成期である。第二は、停戦協定後から第二共和国が[1961年]5・16クーデターによって崩壊する時まで、分断体制が具体的にどういう形態の社会構造と発展パターンを韓国社会内に形成し、貫徹するかが不確実だった移行期といえる。自由党の独裁下で、[1960年]4・19革命と5.16クーデターという二つの代案が形成され、競争した時期である。第三は、朴正煕の執権から1987年民主化移行の以前までの期間で、全斗煥政権期を含めた「長い朴正煕体制」と命名できる権威主義的な発展国家体制の時期である。分断体制論の観点からみれば、この時期は分断体制と「長い朴正煕体制」が相互に安定した関係にあった分断体制の安定期といえる。1961~1987年民主化移行の以前までを「長い朴正煕体制」と呼ぶのは不便である。「軍事独裁体制」とか「61年体制」という名称を使うのがもっといい面がある。だが軍事独裁体制は、文字的意味では、軍部がクーデターを通じて権力を掌握した後、軍部という枠組を維持して独裁を行った南米の事例に最もよくあてはまる。だから、この表現を使おうとすれば、括弧を使いつづけねばならない。61年体制の場合、呼称の面ではすっきりするが、朴正煕の否定的遺産との対決が必要な状況が要請する歴史意識を形成しがたい。それで難点はあるが、朴正煕体制という表現を選んだ。以下、朴正煕体制という表現はすべて「長い朴正煕体制」を指す。 この時期に、分断体制は朴正煕体制によって支持され、朴正煕政権は分断体制から莫大な支配の正当性と統治の資源を獲得した。そして最後の第四は、民主化移行から現在に至るまでの87年体制である。87年体制は朴正煕体制とは異なり、分断体制を侵食して不安定化すると同時に、その発展方向の選択と調整が分断体制によって深刻に制約される関係にある。白楽晴教授はこうした状況を「揺らぐ分断体制」と命名したが、「揺らぐ分断体制」については、白楽晴『揺らぐ分断体制』、創作と批評社、1998年、を参照。そして、分断体制の観点からなされた時代区分については、白楽晴『韓半島式統一、現在進行形』、チャンビ、2006年、46~48頁、を参照。 前述したように、私たちの観点はそうした動揺の帰結をもう少し深く考察することである。

1)敵対的な相互依存の新たな変形

分断体制の核心的特徴の一つは、南北の既得権集団間の敵対的な相互依存である。こうした敵対的な相互依存性は分断体制が存続する限り維持されるが、その分断体制が揺らいでいるため次第に弱まる。しかし、それは敵対性の弱まりとしては表れない。非敵対的または互恵的な相互依存と、相互依存なき敵対という二方向への変化がともに可能であり、87年民主化後の経験は二つの可能性がともに実際に具現しうることを示した。

敵対を弱めて平和な相互依存関係をつくっていく流れは、1991年南北基本合意書の採択後の南北交流・協力の増大、金大中・盧武鉉政権期の太陽政策と二度の南北首脳会談に求めることができる。これに比し、反対の流れは李明博政権後に明確に感知される。分断体制が安定していた時期に、南と北は相手の脅威を自らの体制維持のための資源として活用し、そのためむしろ真の危機には進まなかった。だが、分断体制が揺らぎながら、むしろ高いレベルの敵対が持続することも可能になる。李明博政権期の[2010年]5・24措置と延坪島砲撃のような事件、そして今年2月北の第三次核実験と一連の軍事的緊張がそうした例である。周知のように、韓国と米国は北の核実験に対応して「イーグル演習」を実行し、その過程でB-52戦闘爆撃機に次ぎ、B-2戦略爆撃機が南の上空を飛行した。当然、北はそうした軍事訓練に強く反発し、それによって深刻な危機状況がつくられた。最近、米・朝間そして南北間の緊張高揚の過程についての詳細の分析は、徐載晶「北の第三次核実験と朝鮮半島の非核化平和体制の展望」、『創作と批評』2013年春号、386~411頁を参照。 そして、そうした過程の延長線上で開城工業団地が閉鎖されたが、本稿執筆の現在まで開城工業団地の再稼働をめぐる交渉で、南北当局は互恵的な相互依存の最も代表的な事例である開城工業団地さえ、相互依存なき敵対のひき臼で引き砕いてしまうような態度を示した。筆者は、2010年に発表した「李明博時代、民主的法治と道徳性の危機」(『創作と批評』2010年春号、15~35頁)において、李明博政権が自らの統治危機を南北関係の緊張を助長することで突破しようとしたが、「2000年6・15首脳会談を契機に解体期に入った分断体制を再び安定化しようという試みは成功できない」し、「李明博政権さえも民主政権期に敷設されたレールから長期間は外れられない」と述べたことがある。しかし現時点でみれば、民主政権10年の成果は簡単に離脱できないレールの上に韓国社会を載せたというのは難しいと思われる。民主政権がつくったのはレールというよりは道路であり、韓国社会は運転手が変われば、その道路から離脱して別の道に行ける自動車のようだといえる。

全体的に見て、分断体制の動揺がつくり出した「振り子運動」の振幅は大きくなっている。そうした意味で、分断体制を再び安定させようとする保守派の試みでも、分断体制は以前より一層大きく揺らいでいる。このように深化した分断体制の動揺は、社会構成員に単純化された認知の枠組を強要した分断体制の安定期とは異なり、はるかに難しい認知的課題を課している。なぜなら、分断体制の動揺期には、平和の可能性および事例と、緊張の可能性および事例が同時に増大し、両者が複雑に絡まる過程を経験するようになるからだ。
しかし、こうした認知的課題をきちんと処理しにくくする要因が作動しているようだ。まず現局面では、保守派による主要メディアの掌握が重要な理由の一つである。大衆メディアの偏向は危機の社会的体験をかなりの程度、そして一定期間遮断し、転置しうる。これは些細なことではない。今日、大衆メディアを通じずに世界を観察したり、理解するのは難しくなった。「ハムレット」のホレイショーがそうであるように、人々は「そのように聞いて、それをある程度信じざるをえない」。

次に、認知のハードルが高まる傾向を挙げることができる。分断体制を生きていく過程は、長期の例外状態の中で例外の常例化を経験することだった。分断体制下で達成した社会的近代化の過程もまた極めて急速かつ突進的なものなので、多くの事故と葛藤で点綴されていた。そうしたすべての事件に対して敏感さを維持するのは、日常生活の営みを妨げるほど疲れることである。それで、韓国社会の成員はスッポンに噛まれて釜のフタに驚くよりは、二度とスッポンには驚かない[何かを見て驚くよりは、何を見ても驚かない]のだ。

最後に、分断体制の形成とともに形づくられた世界史的な現状維持が、朝鮮半島では相変わらず独特の方式で貫徹しているというほのかな洞察が、大衆レベルで作動しているようだ。東西冷戦は解体されたが、中国の経済的上昇によって形成された「G2体制」は、むしろ分断体制を生んだ朝鮮戦争からの米・中間の軍事的勢力均衡に対する既視感を形成する。北は米国による世界最長の封鎖に耐えられないために、核問題を起こしてでも現状打破を図っているといえる。だが大衆は、分断体制の動揺が米中関係という制約の中にあり、その線を超える変動が起こるというのは極めて難しく、まだそうした兆候はないと判断したようにみえる。こうした判断が危機への認知的ハードルを高める心理、そして大衆メディアによる情報選別および統制と結合して作動しているようだ。

2)反北/親北図式の形成と強化

87年体制の樹立とともに、近代的な政治発展と民主化による社会的・イデオロギー的な分化が政治体制内に受けいれられる。あわせて政治的反対派全般を「アカ」と命名して粛清したり、「スパイ」にしたてて死刑に処するのは、簡単に活用できない方法になった。そうするには、政治的分化が深く進行して保守派がみても「左派」に属する人がとても多くなるのだ。だが、保守派の立場では、そうした政治的分化を分断体制の枠内に閉じ込めうる新たな意味論が必要になる。そうした必要を満たすのが、反北/親北の区別図式である。この図式は、政治的他者を「アカ」あるいは「スパイ」と定義し、粛清することが社会的な信憑性を喪失した時、北に対する態度表明を強要する形で、分断体制固有の敵対の政治を受けつげるようにする。

繰り返し活用されることで、反北/親北の区別図式が極めて幅広くゆきわたったという事実は、最近の「イルベ現象」[イルベとは、日刊ベスト貯蔵所という極右派の若者が運営するサイトの略称で、「歴史を歪める」と社会的に厳しく批判された]にみられるように、青少年層にまでこうした区別図式が深く浸透し、攻撃的な言葉遊びの次元になったことからうかがえる。こうした拡散に劣らず、いや、それより注目すべき点は、反北/親北の区別図式が強化された形で適用され、それによって韓国内部の葛藤が南北の葛藤に劣らず、それ以上に深化する現象になっており、この点を二つの例を通じて考察したいと思う。

一つは、「従北」という単語の出現である。他者の精神的奴隷性を直接問題にしているこの言葉は、「親日」のような言葉をはるかに上回る侮辱的意味をもつ。周知のように、私たちの近現代史は、政治的他者を識別すると同時に軽蔑するために「親日」「親米」「親北」(一部集団には「親盧」という言葉もここに含まれる)のような単語を使ってきた。「従北」とは異なり、こうした単語はすべて連結関係を参照して他者を批判する。例えば、「親米」の文字的意味は米国人との人間的関係、米国に対する個人的経験、そしてそれに発源する情緒的態度を指す。批判は、そうした社会的連結の中で組織された個人的利益が民族的利益を作動させる含蓄的意味を通じて実現する。このように直接は対象を批判せず、含蓄された意味を経由する批判はかなり節制されたものである。 そのためか、保守派でさえあえて使えなかったこういう言葉が、民主労働党の分裂時の進歩陣営内部から出現したが、それは三つほどの意味をもつようだ。第一に、反北/親北という敵対的区別が保守派のみならず民主派の間でも貫流し、より激烈な形で貫徹されうるという点である。第二に、こうした単語が進歩政党の内部から発源されたため、保守陣営がそれを「楽しんで」専有し、それによってそれが簡単にヘゲモニー的な力をもつようになったという点である。最後に、「従北」という表現がもつ強い侮辱性のために、自主派が北と関連して表した深刻な誤りを、政治的省察の対象とすることがむしろ妨げられた面があるという点である。それによる分裂の影は、2008年民主労働党の分裂に次ぎ、昨年統合進歩党の分裂にも及んだ。2012年統合進歩党の分裂には2008年民主労働党の分裂、それも誤った方式で進行した分裂の遺産が存在している。民主労働党の党内葛藤で平等派は自主派の「従北主義」に批判の焦点をあてたが、それにより自主派の覇権主義の問題が論争の中心には上げられなかった。統合進歩党の分裂は、この時に論争の対象にならなかった覇権主義の問題の事後爆発の性格がある。民主労働党の分裂に対する詳細な研究として、チョン・ヨンテ『派閥:民主労働党の政派葛藤の起源と終末』、イマジン、2011年、を参照。

特に、最後の側面は少なからぬ政治的後遺症を生んだ。統合進歩党の内紛は、泣きっ面に蜂のように、民主党中心の「革新なき統合」に対する大衆の失望を野党勢力全体に対する幻滅にまで導いた。それにより、野党勢力の総選挙敗北の収拾と路線および組織の整備をより困難にした。そして、こうした一連の過程は野党勢力全体が安哲秀という個人に過度に入れこむ契機にもなった。

従北問題が進歩陣営内部まで反北/親北図式が深く切りさく様相を示したとすれば、保守派によるこの図式の適用は、当然守られるべき限界を超えて暴走する様相を呈している。それを如実に示すのが、この数カ月間韓国社会を混乱へと追い込んだ「盧武鉉前大統領のNLL[北方限界線]放棄発言」騒ぎである。

国家情報院の選挙介入事件と、それが含みもつ朴槿恵政権の正当性の危機を隠すために、与党勢力は6月20日[2007年]10・4首脳会談の対話内容の抜粋を公開した。次いで6月24日、同院院長が直接「国家情報院版」の対話録原本を公開した。国家情報院院長の「クーデター的」行動が招いた深刻な政治的葛藤の終息を名分にして、7月2日国家記録院の原本閲覧が国会本会議で評決に付された。そして、3分の2以上の議員の賛成で通過した。しかし、閲覧のために何度も検索が試みられたが原本を探し出せず、結局与野党の合意によって国家記録院に10・4首脳会談の対話録原本はないという結果が、7月22日に発表された。

このように展開した事態には、その不法性と軽重を論ずる以前に、発生自体だけでも驚くべきことがあまりにも多い。国家情報院のトップが直接秘密を「曝けだす」ザマは海外のメディアでさえ驚きを表明した代表的な例である。だが筆者には、二つの点がより印象的である。一つは、国家情報院版の対話録「原本」から盧武鉉前大統領のNLL放棄を読みとった朴槿恵政権と与党セヌリ党のイデオロギー的乱読症候群であり、これは反北/親北図式を相手側に適用しようとする強迫観念が自ら引き起こした盲目性がどれほどかを示している。もう一つは、自分の正しさを立証することに埋没したせいか、国家記録院所蔵の原本閲覧と公開を主張しだした民主党の行動である。朴槿恵政権と与党セヌリ党の扇動、そして保守系の新聞と放送のゴマカシにもかかわらず、国民の多数が国家情報院版の原本から盧武鉉前大統領のNLL放棄は読み取れないと賢明にも判断した状況下で、民主党がそうした立場をとったことは、彼らの政治的判断能力が極めて憂慮すべきレベルにあることを示している。

だが、何よりも驚くべきことは、こうしたすべての過程を支えている事実、つまり合法的に選出された大統領の統治行為にも反北/親北図式を直接適用させうるし、また適用したという事実である。分断体制下で今までよくある政治工作、それも有力な政治家に向けた工作が相次いだ。民主化後も、金大中当時野党総裁を狙った1989年「徐敬元議員密入北事件」や、1992年「李善実スパイ団事件」などがあった。しかし、そうした場合にもその政治家をスパイ事件と結びつけようとはしたが、彼らの政治行為を直接親北行為あるいは利敵行為とはしなかった。しかし今度は、盧武鉉前大統領が在任時代に大統領として行った行為、それも大統領に委ねた平和統一の努力という憲法的な職責にあたる最高レベルの統治行為さえ、反北/親北の区別図式に従属させているのだ。

この過程を通じて、二つが以前よりさらに鮮明になった。一つは、保守派が執拗に反北/親北図式の適用を試みる根本目的は、韓国社会内における保守派の既得権維持という点だけである。万一そうでなければ、たとえ盧武鉉前大統領がNLLを放棄すると発言したとしても、それを何とか隠そうとするのが正常であり、それが秘密と分類されていれば、暴きだして揺さぶる理由はさらにない。もう一つは、分断体制の動揺が保守派をより柔軟な集団にしていく可能性はまずないという点である。その理由は、保守派の核心的利益を分断体制の維持なしに守っていくのは極めて難しいからである。分断体制下では、保守派が民主派の政策を民主派より果敢に採択するオフサイドプレーを期待しがたい。この点については、拙稿「保守派のオフサイド戦略と分断体制」(チャンビ週刊論評、2011年5月25日)、を参照。 彼らは、今まで成功してきた支配および政敵粛清の方式に執着し、そうした試みが適合性を失っていく状況でも、そうした方式が成功する可能性を最後の一滴まで搾り取ろうとするだろう。そうした性向に照らしてみてこそ、先に指摘したイデオロギー的乱読症候群も理解が可能である。

 

 

3.朴正煕体制と87年体制

前で、分断体制の最も気楽な安息の場が朴正煕体制だったことを指摘した。87年体制は分断体制を揺さぶったが、依然存続する分断体制によって制約されるという時、その制約は先に指摘した敵対的な相互依存の新たな変形と反北/親北の区別図式の強化に劣らず、87年体制が脱皮できなかった朴正煕体制からくるともいえる。ゆえに、87年体制と分断体制という二重の枠組を通じて私たちの現実を照らすというのは、87年体制の内部に構造的に貫徹している朴正煕体制を考察することと脈が通じる。考えてみれば、分断体制を再び安定させて87年体制の行路を分断体制の枠内に縛ろうとする保守派の試みは、朴正煕体制への郷愁を経由することで成功できたし、朴正煕の経済的嫡子・李明博と実の娘・朴槿恵の執権はその明白な例証である。それゆえ、87年体制をよりよい体制へ止揚しようとする試みは脱皮しえなかった朴正煕体制との対決を要請する。

朴正煕体制は、権威主義的な発展主義体制といえる。民主化の移行は社会の多様な勢力が権威主義的国家からの解放を追求できるようにした。国家―銀行―大資本の三者同盟では権威主義的国家の下位パートナーだった大資本派は、自由化プロジェクトを通じて脱権威主義を追求し、三者同盟下で排除されていた民衆部門は、民主化または民主主義の深化というプロジェクトによってそれを追求した。この二つのプロジェクトの競合が、87年体制を特徴づける。

ところで、こうした朴正煕体制から脱皮しようとする二つのプロジェクトは、ともにその体制の一軸である権威主義については各々異なる方式で挑戦したが、もう一つの軸である発展主義(あるいは成長主義)には挑戦しなかった。その理由は、民主派も保守派も発展主義のヘゲモニー下にあったからといえる。したがって、発展主義がそうした力をもちえた理由を考えてみる必要がある。

1)発展主義

近代社会は一般的に体制運営に社会成員すべてが参加できるし、その成果を配分されうると掲げる。したがって、人々はみな政治的過程に参加できると信じ、そのことを要求する。勤労意欲を表明して経済活動に参加できるし、それに参加すれば生活費が保障されるのが正常な社会だと信じる。学習能力があれば義務教育を履修できるし、最小限の医療サービスが可能であるべきだし、宗教的信念を選べるとか、あるいは宗教を選択しないこともできる。そのように社会に含まれている状態が提供する機会を個人が活用しないことはあるが、初めからそうした機会を個人から剥奪して、彼を社会的に排除するのは正当化できない。

とはいえ、実際の体制運営は社会的正当化の原理を十分に実現できない場合が多い。つまり、栄養状態が悪いとか、文盲だとか、職業がないとか、収入がないとか、身分証がないとか、司法機関の保護を受けられないとか、住居不安に悩んでいるとかいうのが、時には小規模に、時には大規模に発生する。そして、そうした事態は体制への不満を蓄積させ、時には体制の危機を招く。

したがって、こうした不満を鎮静化するため二つの意味論が発展する。一つは、体制の成果を分配できない特定集団を敵視し、その理由を規範的あるいはイデオロギー的につくり出すことだ。「排除の正当化」(justification of exclusion)と命名できるこうした方式は、性差別や人種差別を考えると容易に理解できる。もう一つは、現在の排除状態を「まだ包含されていない状態」と規定し、迫りくる未来に包含が実現されることを約束するもので、「包含の時間化」(temporalization of inclusion)と命名できる。こうした「包含の時間化」が社会的な説得力をもてば、現在味わっている排除から生じる不満が体制に挑戦する力に発展しにくくなる。

体制能力の限界を補完するこの二方式は、第二次大戦後に樹立された米国のヘゲモニー下の世界体制においても確認される。ウォーラーステインによれば、米国は戦後復旧のために世界的規模の福祉国家計画を立てた。だが、こうした計画は体制能力の限界によってトルーマン政権期から撤回された。冷戦は世界的規模の福祉国家プロジェクトの第一次排除対象をイデオロギー的に正当化し、排除された地域を軍事的に封鎖する装置だった。他方、社会主義陣営ではない米国のヘゲモニー下におかれた地域に対しては「包含の時間化」が提示された。それが、その時代のグローバル文化の形で提示され、定着したのが発展主義である。彼によれば、あらゆる国家は米国が形成した政治・経済・文化的スタンダードに向けた追撃発展の線上におかれるのだ。より詳細なのは、イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以後』、カン・ムング訳、当代、1996年、を参照。 朴正煕体制が掲げた「我々も一度豊かに暮らして見よう」というスローガンは、米国のヘゲモニー下で提示されたグローバル次元の追撃発展モデルの国内版だったわけだ。

しかし、朴正煕体制の試みは分断体制下での韓国の発展主義だったために、二つの特徴が付加された。一つは、米国が朝鮮戦争を通じて冷戦の先端に立っていた韓国社会における発展主義の成功に深い関心を寄せたという点である。米国の韓国への支援は、実際第三世界の他の様々な国に比べれば、かなり高いレベルだった。もう一つは、分断体制下で南北の統治集団がそれぞれ自分の体制の正当性を高めるために発展主義に深く献身したという点である。世界的な次元と朝鮮半島の次元の双方で、韓国の発展主義は体制競争の形で遂行されたのだ。こうした理由で、韓国の経済成長と発展は大成功を収めた。

発展主義が高い成果をあげれば、その体制内の個々人は現在を過去より良いものと経験することになる。そして、そうした経験の継続による蓄積は未来の改善に対する期待を形成する。朴正煕体制の経済発展の成果は極めて高かったために、発展主義に基づく期待も安定化した。かくして、一方で期待が明らかな経験的根拠をもち、他方で経験が期待に照らして解釈されることで、発展主義は体系統合を超えて社会統合レベルへと浸透していく。体系統合は、市場や国家のような行為者の個人的選択や規範的内面化に依存せずに達成される統合であり、社会統合は価値と規範を経由して達成される統合という意味で、社会学で広く使われる用語であるが、ここでもそうした意味で使った。 こうした社会統合は二つの特徴を帯びる。一方で、それは当初発展主義が目標とした、現在の排除または不平等を、遠からず達成される包含によって正当化するのに寄与する。他方では、それは個人の経験と期待を結びつける統合、つまり時間的であると同時に個人化された統合であるため、発展主義の進行とともに深化する社会的不平等を隠蔽したり、それが中心テーマに浮上するのを抑制する役割を果たす。それにより、「トリクルダウン効果」のようなイデオロギー的概念がたやすく社会的信憑性を得るようになる。

2)発展主義の失墜と福祉プロジェクト

体制運営の成功によってのみ社会統合が成就される社会は、前者が満たされる場合は強い統合力をもつが、逆に体制運営の失敗はおろか、成果の下落だけでもすぐに社会・文化的な危機に突っ走る弱さを見せる。そういう場合、経験と期待の連結が解けてしまい、その裂け目に不安が満ち潮のように噴きあげて入りこむ。

成功した場合ですら、そのために成長率の下落を味あわざるをえない発展主義も、そうした可能性を構造的に内包する。一定レベル以上の成長率だけが、個人と家族に過去よりも良い現在を保証できるからである。60年代半ば以来、高度成長を重ねた韓国社会も、90年代になって成長率が鈍化しはじめ、それにより発展主義への懐疑が膨らんだ。

そうした懐疑を煽るのは、発展の成果として歓迎された近代化の破壊的結果が可視化されたからである。環境、住宅、教育、医療、老年など、高度成長によってのみ問題が解決された社会的再生産領域の様々な問題が解決方法を失ってアップアップしはじめる。そうした破壊的結果の蓄積として出産率は世界最低、自殺率は世界最高などの指標に直面するが、少なくても否定的な結果の面で、韓国社会はこれ以上追撃すべき対象がないことを悟った。そのため国民所得二万ドル、OECD加盟、先進化など追撃発展の新たな象徴が提示されても、以前のような社会的情熱を引き出せなくなった。

発展主義が当初結合させていた集合的プロジェクトと個人的プロジェクトも分裂する。IMF危機は、この点で決定的な影響を及ぼした。社会の基幹部門で維持されていた「終身雇用」の崩壊は、発展の成果を個人にもたらす核心的伝導ベルトが切れたことを意味していた。こうして、個人/家族と社会をつないでいた細い絆が切れ、社会全体が低成長社会へ進入したことにより、発展主義によって隠蔽されたり、転置されていた葛藤が表面化する。「トリクルダウン効果」の虚構性が暴露されると同時に、家計の分配葛藤も激化する。あらゆる家計が地位上昇の展望よりも地位下落の展望に直面するからである。韓国社会で角度を異にして議題化された様々な問題、例えば激烈な教育競争、相続への情熱、経済格差の拡大と甲/乙関係[経済の両極分化による持つ者と持たざる者の関係]、青年の失業と恋愛・出産・結婚を放棄したという「三放棄世代」の出現などは、激化した分配闘争に由来する現象だといえる。わが時代の特徴は、将来の希望が特定の職業ではなく、「正規職」あるいは「甲」になろうとする大学生にうかがえる。ある広告・広報学科の学生は、何がしたいかという筆者の質問に対し、広告をやりたいが、広告会社に行きたいのではなく、大企業の広告担当部署で働きたいと言った。彼は正規職になりたいのである。

だからといって、発展主義の信憑性の創出と、それに基づく信頼の撤回がすぐに実現するわけではない。発展主義が成功していた時期の良き思い出は絶えず郷愁を呼びおこす。これとともに、発展主義の幻想を維持する二つの補完的方法が作動する。一つは、未来を搾取することである。過去より良くなりがたい現在を、そう感じないために、つまり(経済的に簡潔に表現すれば)、所得と支出のすき間を埋めるためにクレジット・カードの使用とローンを増やすのである。もう一つは、社会的企画だった発展主義を個人のレベルでより体系的に適用し、貫徹するのである。私に投資し、私を管理し、私を革新するのだが、2000年代に韓国社会を席巻した自己啓発書の熱風は、まさにこうした傾向を代弁している。

発展主義への郷愁や発展主義を補完する技法のおかげで登場したのが李明博政権だった。だが、李明博政権期に発展主義は社会的信憑性をほぼすべて喪失した。発展主義と深くつながっていた土建は過去の機能的脈絡を完全に喪失し、四大河川事業[李政権が推進した国家的土木事業]でみたように、膨大な予算のムダ、そして巨大な自然破壊として表れた。未来搾取の場合、韓国社会を広範なローン社会へ進入させただけであり、ローン社会の発達と、それが引きおこした問題についての詳細な分析は、チェ・ユンギョン、イ・ホンオク『略奪的金融社会』、ブッキー、2012年、を参照。 それぞれ千兆ウォン台に上昇した家計ローンと政府および公営企業の債務でみるように、すぐに持続不可能に直面した。発展主義の個人化も同様である。自己啓発のような禁欲的な実践が社会的補償と連結される蓋然性は極めて低く、ただ強度高い自己搾取に留まる可能性がはるかに大きいこと、自己啓発の補償を最も確実に得た者は自己啓発書を売って金持ちになった著者だけという事実が広く知られはじめた。こうした自己啓発の構造的限界に対する分析として、ソ・ドンジン『自由の意志、自己啓発の意志』、石枕、2009年、を参照。また、数年前から社会に吹き始めた「ヒーリング熱風」は自己啓発の自己破壊的経験とも関連する。 あわせて、米国発の金融危機は米国のヘゲモニー危機を一層明白に浮き彫りにしたと同時に、発展主義(そして新自由主義)へのグローバル文化的合意を崩壊へと導いた。イマニュエル・ウォーラーステイン『米国覇権の没落』、チョン・ボンジン、韓基煜訳、チャンビ、2004年、を参照。金融危機の効果については、ロビン・ブラックボーン『世界経済危機の信号弾、サブプライム危機』、ソ・ヨンスン他訳、道、2009年、68~128頁、を参照。

こうした過程に対する反応が、李明博政権下で急速に浮上した福祉論[言説という訳語もあるが、以下含めて福祉をテーマとする議論・主張]である。福祉も、根本理念は発展主義と同様に、すべての包含である。しかし福祉は、発展と二つの面で異なる。まず福祉は、その課題を発展のように時間の中に投影するよりは、水平的な社会的連帯へと移転する。そのために発展とは異なり、個人化されたプロジェクトにはなり得ない。次に、発展が体系統合の成果を社会統合へと拡散する傾向があるとすれば、福祉は社会統合の成果を体系の再設計へと構成していくといえる。

もちろん、福祉プロジェクトの転換に要求される道徳的洞察と社会的連帯感の蓄積は、韓国社会で極めて微弱である。しかし、韓国社会はハイレベルのダイナミズムとスピードを有しており、そのために福祉論もまた極めて素早く、幅広く拡散した。この点は、盧武鉉政権期でも進歩政党の枠内に閉じ込められていた福祉論が、民主党を超えてセヌリ党にまで浸みこみ、少なくても外観上は、あらゆる政党に全面的に受容された点によく表れている。そうした意味で、2012年は発展主義が崩壊すると同時に、代案的言説が拡張する局面だったし、それほど新体制への転換を模索してみるにたる状況だったはずだ。こうした状況に応じようとする言説的企画の代表例として、白楽晴『2013年体制づくり』、チャンビ、2012年、を参照。

だが、そうした可能性を実現すべき基本的土台である政治的多数の形成というハードルを野党勢力は越えられなかった。政党の運営能力とリーダーシップをはじめとする様々な面で、野党勢力は劣勢を呈した。特に大統領選挙はリーダーシップの問題を全面化したが、皆が記憶するように、民主党の大統領候補予備選はもちろん、文在寅と安哲秀の候補単一化の過程、そして公式選挙運動に至るまで、すべて大衆の目の高さと期待に合致できなかった。

こうした過程全般に隠れているより基本的な問題は、分断体制の制約を正確に見定め、87年体制から開かれる可能性を実現し、分断体制の内部破壊へと導いていく知的一貫性と組織的凝集力の不足だといえる。確かに、保守派が動員する敵対の政治を見抜く眼目や中・短期的政策と長期的ビジョンを結合させて大衆の信頼を得る能力は、分断体制の動揺が課する認知的複雑さに耐えうるほどの統合的思惟と路線を必要とする。こうした課題を成就するためには民主派内で論議と論争をより活性化する必要があるが、そのための糸口づくりのために、最後の節では白楽晴教授が提起した変革的中道主義を再検討したいと思う。

 

 

4.変革的中道主義

保守派は、民主化移行後の民主主義に向けた社会的圧力に、発展主義と新自由主義の結合で対応したように、今日87年体制から生成する社会的危機に対しては発展主義、新自由主義そして残余的福祉、つまり普遍的権利としての福祉ではなく、脆弱階層に対する救護的福祉の結合により対応している。そして、その目標は民主化と福祉プロジェクトを分断体制と両立可能な範囲内にとどめることである。それは、彼らが口にする「民生」という言葉の内実である。しかし、民主なき民生、あるいは残余的福祉で補われる民生を通じて体制を制御するためには、李明博政権が磨き上げた放送掌握のような反民主的な慣行を捨てることができない。いや、放送掌握なしに保守派の統治を想像するのはすでに難しい状況である。南北首脳会談の対話録さえ政治工作の対象とみなすので、南北関係に前向きの姿勢をとるのも容易ではないだろう。インターネットサイトをかけ回って「対北心理戦」を遂行し、反北/親北図式を絶えず稼動させることからも脱皮できないだろう。ともあれ、保守派はあらゆる政策レパートリーと統治手段を動員して分断体制の再安定化を試みるだろうが、それを達成することはできない。むしろ、保守派が稼動するあらゆる手段は揺らぐ分断体制の産物であり、分断体制をさらに深く動揺させる作用をもたらすばかりだ。

とはいえ、こうした状況自体からそれを打開する力が自然に凝集されるわけではない。むしろ社会的危機が一層ひどくなり、日常的な生活がさらに深刻な不安へと追われることにより、人々はすくんで革新と冒険を避け、小さな安全のためにやむなく屈従の代価を支払おうとすることもある。こうした退廃を防ぐためには、民主派の革新が極めて重要である。白楽晴教授は、昨年総選挙での野党勢力の敗北と統合進歩党の分裂が発生した直後、民主派の革新のために変革的中道主義をあらためて提起している。そこで白教授は、韓国社会の様々な政治および社会運動の路線と変革的中道主義の違い、そしてそれが抱えている弱点について論じている。

1)「変革的」中道主義から「変革」が抜けた改革路線ないし中道路線とは異なる。ただ変革は変革でも、その対象は分断体制なので、国内政治における改革路線とはいくらでも両立可能である。ただし分断体制の根本的な変化に無関心な改革主義では、変革的中道主義という「中道」に達しえない。

2)変革とはいえ、戦争に依存する変革は排除する。「変革」という単語自体は戦争、革命など、あらゆる方式での根本的変化を包括するが、今日の韓(朝鮮)半島の現実で、そうした極端な方法は不可能である。だから、変革的「中道主義」なのだ。

3)変革を目標とするが、北だけの変革を要求するのも変革的中道主義ではない。南も変わる、朝鮮半島全体が一緒に変わらないで、北だけの変化を期待するのは非現実的なだけでなく、南社会の少数層の既得権の擁護に傾いた路線であり、中道主義ではないのだ。

4)北はどうせ期待できないので、南だけ独自の革命や変革に重きをおこうという路線も変革的中道主義ではない。これは分断体制の存在を無視した非現実的な急進路線であり、時には守旧・保守勢力の反北主義に実質的に同調する結果になることもある。

5)とはいえ、変革を「民族解放」と単純化する路線も分断体制の克服論とは異なる。これもまた、分断体制と世界体制の実情を無視した非現実的な急進路線であり、守旧勢力の立場を強化するのがオチである。

6)世界平和、生態親和的な社会への転換など、グローバルなアジェンダを追求して日常的実践も怠らないにしても、グローバルな企画と局地的な実践を媒介する分断体制の克服運動への認識が欠けていたら、変革的中道主義とは距離がある。白楽晴「2013年体制と変革的中道主義」『創作と批評』2012年秋号、22~23頁、を参照。

こうした六つの路線の中で、2)と3)の立場は民主派の自己革新とはあまり関係がない。関心がある部分は1)、4)、5)、6)だが、それぞれ穏健改革主義、平等派、自主派、エコロジーとほぼ一致する路線である。これに対する白楽晴教授の批判を、今までの論理によって再整理すれば、三つに要約できる。第一に、これらすべてが揺らぐ分断体制が課する認知的複雑さに耐えられない。第二に、そのために揺らぐ分断体制の状況では、自らの路線に埋没しては自ら設定した目標の成就自体が達成しがたい、という点を認識できない。最後に、このため彼らの具体的選択と行動が、ある意図しない結果を生じうるかについて分別する力もまた弱い。

こうした問題を詳細な事例を挙げて指摘するよりも、ここで指摘したいのは、民主派の革新はこうした弱点を克服し、互いに融合していくことにあるという点である。変革的中道主義がある用途をもつとすれば、まず上記の四つの路線、そしてそれと連係した社会運動および政治集団がそれぞれの盲点を訂正し、互いの課題を連係させて協同しうる認知的枠組の形成に寄与する点にあるだろう。変革的中道主義がそのように作動するなら、例えば、改革主義は分断体制という条件の下では、民主的法治の制度化さえ脅かされざるをえないということ、したがって、改革と変革は連係すべきだという認識に達しうるだろう。平等派なら、現在私たちの苦痛から直接分断矛盾を思惟できる道を分断体制論によって切り開いていき、日々直面する北の問題に対して素朴な普遍主義の旗を振る無力さから脱することができるだろう。他方で自主派は、分断体制克服の根本的な動力はもはや傷ついた民族主義ではなく、韓国社会内部の民主化の進展という認識をより鋭敏に整えていけるだろう。最後に、エコロジーは生活様式の文化的レパートリーにとどまらないために、一方では凡俗な大衆の欲求と連結すると同時に、より変革的なビジョンと連結する必要に気づくだろう。

最後に、変革的中道主義を媒介にした民主派内の様々な集団の自己省察のレベルアップには、本稿で明らかにした発展主義に対する批判的な問題意識も深く考慮されねばならない事案である点を指摘したい。分断体制の克服をめざす最も重要な動力が韓国の民衆と民主派に託されている限り、低成長が社会的不安と競争強化の火打石にならないように防ぐのは極めて重要なことだからだ。

だが、警戒すべき点がある。発展主義を超える方式で低成長に対抗する第一次的企画は福祉論から与えられたが、多くの人々がすぐ期待するような北欧の福祉国家をめざす追撃発展の軌道にそい、それを達成できると考えるのは幻想である。私たちはすでに何かを追撃発展する段階を過ぎた社会であり、追撃発展という発想を支えていた米国主導の世界体制自体がひどく変形した。

福祉論から私たちが得るものは、排除なき包含の近代的企画を社会的連帯によって実現するのが福祉であり、それの実現がハイレベルの道徳的連帯感を必要とする、という基本的洞察である。そして、この洞察に基づいた福祉を実現することは創意的実験であってモデルのコピーではない。この創意的実験が必ず突き抜けていくべき課題は、社会全般にハビタス(habitus:体質)のように沈殿した「成長中毒」を超えていくことである。つまり、低成長という現実を脱成長主義あるいは脱発展主義的な態度で大胆に受け入れ、転換させるエコロジー的な感受性が必要なのである。逆にエコロジーは、まさにこのように発展主義に対抗する福祉プロジェクト自体を革新する媒介項になる時、社会的信憑性を獲得しうるだろう。

 

翻訳: 青柳純一

季刊 創作と批評 2013年 秋号(通卷161号)

 

2013年 9月1日 発行

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