창작과 비평

[書評]米軍による空中爆撃を通してみた朝鮮戦争

 

キム・テウ(金泰佑)『爆撃』(チャンビ、2013年)

 

ハン・ソンフン(韓成勲)/延世大学校社会発展研究所・研究員、hany@yonsei.ac.kr

 

 

 

朝鮮戦争においてもっとも多くの命を殺傷した攻撃は、空中攻撃である。民間人であれ、軍人であれ、例外ではなかった。若手歴史学者のキム・テウ(金泰佑)が、執拗に取り上げているこの爆撃は、1950年6月26日の朝鮮戦争勃発の次の日から、停戦協定に至った1953年7月27日の夜まで、朝鮮半島で行われた軍事作戦のことであった。本書の学問的な意味は、単純な事実の再構成しただけでなく、多様な米軍文書に基づき、空中爆撃の実情を赤裸々に暴いていることにある。よく知られていることとは異なり、空中爆撃は、空にある爆撃機からだけでない。爆撃支点を調整し、ターゲットに正確に誘導することは、戦術航空統制センターの統制班員の役割であった。

軍事作戦としての爆撃が、政策的に採択される過程は、1・2次大戦に遡る。爆撃技術の発達は、日本帝国時期の空中爆撃から冷戦時期における独島爆撃と朝鮮戦争当時の南北地域に至るまで、様々な形態として行われた。著者は、アメリカの議会の反対にも関わらず、戦略爆撃が軍事的価値を得られた体系的な過程を、資料と指揮官の証言を通じて明らかにした。戦術の航空作戦の構造を総合的に見られるこの叙述は、爆撃成果を作成した図面と、爆撃前後の現場の様子、各種の写真などを通して、読む側に戦場の様子を生々しく感じさせてくれる。何よりも評価できる本書の成果は、2次大戦時における空中爆撃から、民間人の大量虐殺の前史を追跡しながら、「白い服を着た人々」とされる韓国人に対する無差別爆撃と、小規模の村を燃やすこと、ナパーム弾の登場と実験などを告発していることにある。戦争初期に登場した焼夷弾実験は、北朝鮮地域で敢行された都市破壊作戦、空軍力を「政治的な圧力手段」として活動する新しい戦略概念であった航空圧力戦略とともに、多くの民間人の犠牲をもたらした。爆撃に参加した操縦者の回顧は、これらを跡付けるだけでなく、彼らがどのように「戦争機械」になっていき民間人を攻撃したのか、この過程において人種主義がどのように働いたのか、また虐殺に対してどのように自己合理化していったかを、よく説明している。

朝鮮半島における米空軍が、任意に行った「肉感に依存した試し爆撃」や「見栄えが良いものや大きいものを攻撃」するという空中爆撃の形態は、村や居住地の破壊をもたらした。そして、北朝鮮の地域に集中された「焦土化作戦」は、戦闘の様相を変えた。著者は、金日成と北朝鮮の指導部がアメリカ空軍の爆撃に対応するため、軍事作戦を夜間移動と攻撃に転換し、後方では、被害復旧の対策を準備したという事実を鹵獲文書を通して詳細に取り上げている。北朝鮮地域に対する爆撃が、北朝鮮の人民に与えた恐怖と心理的な影響、避難民の南下と爆撃の相関関係などは省略しているが、十分、意味のある叙述であると考えられる。

爆撃と被害、この過程と結果において、どのようなことが起きていたかを検討することは、爆撃の戦術的な政策という軍事的範疇を脱した視点を必要とする。こうした点において、本書は、膨大な資料で爆撃過程を追跡している。ひいては、それの政治的意味までよく見せてくれている。朝鮮戦争における米軍の爆撃は、どの戦争よりも強い政治的意図を帯びている。前述したアメリカの極東空軍による航空圧力という戦略は、停戦協定の締結支点まで持続された。後になってからは、北朝鮮地域に爆撃できるところがもっとあるかを疑うほど、都市と村落だけが残った。貯水池爆撃は、2次大戦当時、連合軍が行った戦略のそのままであったが、非人道的軍事作戦の一種であった貯水池爆撃は、主な補給路を遮断する軍事的側面より、むしろ稲作をダメにすることによって得られる政治的・心理的効果の側面で、重要な破壊作戦となった。軍人たちの生存のことは言うまでもないが、北朝鮮の人民たちの生存と直結された問題が、この「灌漑水路」であった。

著者が提示しているように、爆撃は物質的な被害と人命損失だけでなく、北朝鮮の人民に想像できないほどの大きな恐怖を残したのである。心理的不安と恐慌をもたらしたこの爆撃は、戦争以後、北朝鮮の人々が反米意識を持つことになった重要な要因となる。単純な主義主張ではなく、戦争体験に基づいて形成された反米主義は、北朝鮮の指導部と人民に実在する脅威の産物であり、政治的結果であった。

注目すべき論点は、また存在する。核兵器、原子爆弾に対するアメリカの戦術的政策と関連したことである。歴史の事実として知られているように、米軍は朝鮮戦争で原始爆弾を使わなかった。しかし、アメリカは、核兵器を使用するための戦術的訓練として、核弾頭を除去した模造原子爆弾(dummy bombs)を朝鮮半島に投下した。中国人民支援軍の介入によって、戦況が悪くなった1950年11月30日、トルーマン(H. S. Truman)大統領は、記者会見において核兵器を使用できると明らかにした。以後アメリカは、核爆撃を、数回にわたり論議し、これは、いつでも使用可能である選択肢だった。加えると、米空軍は、1951年4月5日、原子爆弾の使用許可が出てから、原子力委員会で空軍第9爆撃大隊に、マーク―4という原子カプセル9個を移転させた。アメリカは結局、この武器を使用しなかったが、その年の9月に、核弾頭がない爆弾を北朝鮮の地域に落とした。 ハドソン・ハーバー作戦(Operation Husdon Harber)と知られているこの訓練においてアメリカは、原子爆弾の使用能力を確立するため、朝鮮半島の戦場を核実験室として利用したのである。

最後に、本書のもう一つの重要な成果として、爆撃に加担したアメリカ軍人らが証言している民間人殺害行為に対する心理的叙述が挙げられる。証言資料において適切に引用しているように、本書は、このような意味において、個人に刻印された戦争の意味を反芻させている。戦闘現場との物理的な距離により、兵士たちがもつ民間人殺傷行為に対する心理的負担感には、その差が発生している。殺害と物理的距離に関する最近の研究は、大体遠くにいる敵は友達として考えないことを証明している。著者は、戦闘で殺人をもっとも容易にさせることは、小銃手からの射撃ではなく、遠(近)距離爆撃や爆弾投下であることを立体的に叙述している。

 

翻訳=朴貞蘭(パク・ジョンラン)

季刊 創作と批評 2013年 冬号(通卷162号)

2013年 12月1日 発行

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