[書評] 浮上する中国の裏面を語る
在日コリアン学者である尹健次が、韓国の知識人たちの思想をまとめた著書『現代韓国における思想の流れ』(当代、2000年)が話題を集めたことがある。論争の中心にある韓国学者としては、手が付けられなかった作業であるが、現場と一定の距離があった在日コリアンであるため可能であったということが、当時の評価であった。これが適切な評価であったか、韓国の学者たちにおける指摘怠慢に対する自己慰安であったかなどの判断は、読者のお仕事である。ただし、一定の距離を確保した外部者による観察が、内部者による視点より事態に対する客観的な理解に役立つという点は明確であろう。中国の主な思想家と実践家をインタビューした内容をまとめた著書、『中国をインタビューする』も、このような「美徳」がよく発揮された本である。
中国内における批判的知識人たちは、「啓蒙」という既知下において、科学と民主という近代的価値を追求するのに幅広い共感を形成した1980年代とは異なり、1990年代以後、様々な方向に分化されはじめた。欧米の近代化が、中国においても複製されるべきなのか。もしくは、複製されるかに対する問題提議がこうした分化を触発したといえるが、現在、これらの間に繰り広げられた論争の様相は、韓国における1980年代の「運動圏」論争を彷彿させるほど激しいのである。中国共産党の一党支配体制が、強固に維持される状況においては、こうした論議がすぐに中国の変化に影響を及ぼすことは難しいが、今後、中国が直面する問題に先立って提議し、考察している点においては、中国の未来を展望するのに決して看過できない現象である。それだけでなく、本書で登場するする面々は、「中国の異なる未来のために、奮闘する「問題的」人物たち」(5頁)という著者の評価に、まったく遜色がない。全体的に調和がよくできている「食卓」であるだけでなく、一つずつ別に吟味しても豊富な味を味わえるメニュが、この食卓には用意されていることである。
一つ心配なことは、登場人物の各々における思想的出発点、もしくは強調点が異なっており、主要問題に関する接近方法にも大きな差異がなく、これらを初めて接する読者であれば、消化に難しさを感じられるのではないか、という点である。その場合、人物の「個人事」や思想の流れではなく、彼らの考えが奮起する論争に読書の焦点を合わせるのであれば、混乱から脱することにも役立つのである。幸い、著者は、このような比較を可能にする問いを投げかけている。二つの事例を取り上げておこう。
一つ、文化大革命を含めた毛沢東の遺産に対する評価である。そこで、今日の中国の問題を解決するために役立つことができる要素を発見できるという立場と、毛沢東の遺産、とりわけ文革のような歴史において、どのようなポジティヴ的な要素を発見しようとする試みは、危険であるという立場で分かれる。崔之元は、「大衆民主」と「大民主」など、人民の直接的な参加(200-204頁)を、孫歌は「わが現実から出発し、我々に相応しい原理を作り」出す方法論(253-257頁)を継承すべき毛沢東の遺産としてあげている。新自由主義の浸透とエリート統治に対する不満が、毛沢東が再び呼び出される背景である。一方、銭理群は、「現在、もっとも重要な任務は、毛沢東体勢を徹底的に改革することであります。毛沢東体制を徹底に批判すれば、その中にある合理的な部分を取り出すことが可能となるでしょう」(45頁)とし、泰暉は、文革の「革新は、権力を握った人が人民を抑圧し、迫害することであります」(136頁)とするなど、毛沢東の遺産に対し、徹底した清算を主張する。
最近、中国では、改革開放以前の30年、すなわち毛沢東の統治時期に関する歴史論争が過熱されているが、これは主に毛沢東死後、中国共産党が推進した改革開放政策の正当性を主張するため、その間否定的に評価されてきた改革開放以前の歴史において、再び肯定的遺産を拾おうとする左派によって触発されたことである。中国共産党が、文革などを否定する歴史評価を出しているが、自身の統治正当性に否定的な影響を与えることを防ごうと、これに対する積極的な論議を禁忌させるのに不満を持った右派も、積極的に対応している状況である。毛沢東の帰還をめぐる論争の推移も、今後の中国の未来を展望するのに重要な試金石になるのであろう。
二つ、「平等」という価値をどのように実現させるかについても興味深いやり取りがあった。自由主義的志向が明確である泰暉さえ、「08憲章(2008年、中国における反体制人事たちが、中国の西欧指式多党制と三権分立などを要求し発表した宣言文―引用者)が、主に市民権と政治権利を強調しながら、経済・社会の権利を要求しない点も遺憾です」(164頁)と指摘することからもわかるように、中国では抽象的な自由だけを掲げる流れが主流を形成するのは難しい。しかし、不平等が拡散される原因とこれに対する処方策に対しては、論者によって大きな差がある。新自由主義を原因としてみなし、これに対処するのに国家と中国共産党における肯定的役割を強調する立場と、政治権力の独占を問題視し、中国共産党をけん制できる制度の建設を解決策として提示する立場との差異がそれである。左派は、労働階級もしくは人民の利益を代表する中国共産党が新自由主義を乗り越えるきっかけを内包しているという期待を捨てないが、右派がみる限り、現在の中国では市場と独裁の「間違った出会い」があるようだ。中国が直面している問題の複合性を考慮すれば、両者間における選択は簡単ではない。インタビューの対象者中、少なくない人々は、主義及び理念と距離をおいて、実際的な問題に焦点を合わせようとする態度を堅持する。「中国を左右、主義、理念の枠として理解しようとする問いを投げかけるたびに、彼はそこで捕まえられず、もっと走り出した」(110頁)という張律の「左からも思い存分やられて、市場化に押され消えてしまったのでしょう。私も私有化に反対なので、左が私有化を反対している点は賛成です。資本主義は嫌いです。だからといって、社会主義が好き?というのは、どんな社会主義を言っているのですか?」(109-110頁)という言葉は、多くの人々の心情を代弁している。
本書に登場する人物が、自身の考えをもっとも正直に、また真剣に示しているが、一つ惜しい点は、どのような社会を志向していても、中国の過去、現在そして未来が資本主義の世界体制と不可分の関係があるのに、少数の例外を除いては、すべて中国の国内の問題だけに集中している事実である。孫歌と同様、その例外に属している温鐵軍は、労働格差など中国の現代史における多くの問題を、中国が「ソ連の支援も断絶された状態で、外部に助けを求めないで、ひたすら単独で、自国の農民と労働者を搾取しながら、原始的な蓄積を進行させ」(64頁)た事情と関連づけて説明する。だとしたら、これからは中国が本格的に参加することで、資本主義の世界体制をどのように変化させるか、それが再び中国にどのような影響を与えるかという問いを一緒に投げかける時、中国の平等と民主などに対する論議が、決まりきった左右派論争に陥ることなく、未来に対する新しい想像の空間を作り出すことができると考えられる。
翻訳=朴貞蘭(パク・ジョンラン)
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