[書評]合理性の「合」は、非合理性である。
グ・ガプウ(具甲祏)/北韓大学院大学校・教授、kwkoo@kyungnam.ac.kr
「シークレットファイル」と「将軍35名の証言で再構成する」という刺激的な文句が、タイトルの前後につけられているが、『シークレットファイル西海戦争』(以下、『西海戦争』)は、二つの問いに対する答えを見つけようとする「社会科学的な散文」である。一つは、朝鮮半島・西海の「北方限界線」(Northern Limit Line, NLL)が国境であるかどうか、という国際政治的な問いである。もう一つは、朝鮮戦争時においても安全だった西海5度海域が、なぜ1990年代後半に入り戦場になってしまったのか、という社会科学的な意味を持つ歴史特殊的な問いである。これらの問いと答えは、1962年10月、核ミサイルによるキューバ危機当時、アメリカの外交安保政策を分析した『決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析』(グレアム・T・アリソン著、宮里政玄訳、中央公論社、1977年。Graham Allison, Essence of Decision, 韓国語版は、『決定のエッセンス』モウムブックス、2005年)に示された三つの「概念のモデル」が媒介している。『西海戦争』は、西海で起きた5回の戦闘の過程を再構成しているが、本書では、一つ目に、国家が国家利益を極大化する「合理的行為者」として行動するという観点に対して意義を提議し、二つ目に、「組織形態的観点」を通して、「まるで自律神経のように、自体的に動こうとする軍隊という組織の特徴が作動」することによって、「自己破壊的な様相」、すなわち「戦争の出現」を見ようとしている。そして、最後に、「世論に便乗して、政府内において名声と権力という利益を追求する官僚集団が、政治的な目的で西海問題を接近する」過程を検討する「政府政治的観点」について取り上げている(12頁)。このような三つの側面は、いわゆる個人的・組織的なレベルの合理性における「合」が、国家的なレベルにおいては、非合理性として現れるということである。戦争のような極点的な衝突は、非合理性と非合理性が「会う」ときに発生する。
本書は、NLL論争の歴史的起源を探っている。冷戦の非対称的な終焉は、力説的な戦線として、歴史的な運動を停止したNLLの「再発火」を引き起こした国際的な要因となった。1991年、韓国と北朝鮮は、UN同時加入で互いの国家のアイデンティティを認めると同時に、南北基本合意書の締結を通して、南北関係を特殊関係として定義することもあった。韓国と北朝鮮は、この基本合意書の中で、「海上不可侵区域は、海上不可侵の境界線が確定されるまで、双方が今まで管轄してきた区域で」とし、「海上不可侵の境界線は、今後継続して協議する」と合意した。本書の指摘のように、冷戦時代のパク・ジョンヒ政府は、「西北海域における境界線の問題は、「憲法3条に準じて処理することとした」(37頁)という方針を持っていた。著者によると、「血と死をもって守ると考えないで放置していたその無関心が、まさに、長期間にわたる西海における平和が維持できた秘訣」(45頁)である。しかし、冷戦の非対称的な終焉が原因で、朝鮮半島における勢力バランスが崩壊し、NLLの問題も浮上した。
NLLが、「臨界量」(criticalmass)を超え、紛争線になる過程における記述は、本書の随一である。歴史的な条件が整えられたことは事実であるが、行為者と制度、どちらへも還元できない偶然の複合的な接合として、紛争の「出現」(emergence)が発生する。キム・ヨンサム政権下において実施された国会議員選挙(1996年4月11日)においては、冷戦解体以後、最初の大統領選であった1992年12月と同様、北朝鮮の脅威、すなわち「北風」が変数として働いた。1990年代半ばからアメリカに、新しい平和保障体系の樹立を要求した北朝鮮は、1996年4月4日、朝鮮人民軍板門店代表を通して、停戦協定による軍事境界線及び非武装地帯の管理業務を放棄すると発表し、武装軍人を板門店地域に投入した。本書によると、当時のキム・ヨンサム政府と与党は、北朝鮮からの脅威を利用し、総選において大勝をあげることができたのである。
1996年7月、国会では、野党が総選敗北という国内政治状況における突破のための媒介として、NLLを議題化する。野党が、北朝鮮の船舶がNLLの「超線」に対する対策を問い、政府が、「これが停戦協定の違反ではない」と返答するという、今日とは異なった状況であった。結局、青瓦台と国防部がNLL堅持という新たな安保概念を考案し、続いて合同参謀本部が戦線を守るという「地上軍式な思考」で、これを軍事作戦化した。そして、西海上のNLLにおける衝突に対比した標準行動の手続きが作られることで、結局、西海は戦争の道を歩むこととなる。各々の組織は、それなりの合理性によって動いたが、この合理性たちにおける「合」は、5回の戦争―第一延坪海戦(1999年6月)、第二延坪海戦(2002年6月)、大青海戦(2009年11月)、天安艦事件(2010年3月)、延坪島砲撃事件(2010年11月)―として現れた。前半の二回の戦闘は、金大中政府のとき、後半の3回の戦闘は、李明博政府時に発生した。著者の論理によると、これらの戦闘は、韓国・北朝鮮の「ジャン軍モン軍式」 の戒めと報復であった。
『西海戦争』は、この戦争を貫通する変数たちを見つけ出している。青瓦台と国防部の危機管理能力の不在、合同参謀本部の合同性の欠如、軍の組織形態が結合して、戦争が発生したとのことである。著者は、西海戦争という悪循環のスタートであった第一延坪海戦において、合参が「陸軍一色という編成で、海の戦闘を知らない」ため(85頁)、「北朝鮮の罠と距離を置こうとする現場の指揮官の決定を、上級の部隊が邪魔をしたこと」が、「もっとも間違った命令」(102頁)であり、北朝鮮の報復であった第二延坪海戦は、「ワールドカップ期間中に、南側が思い切って対応しにくいことを計算し、起こした挑発」(135頁)とみなしている。他方、ノ・ムヒョン政権時代においては、「復讐の情緒が、組織の文化になった海軍」(161頁)を青瓦台が統制し、軍事的な衝突がなかったと自評している。また、著者は、防いできた軍の報復意志が実現された事件が大青海戦であるとしているが、強圧的な対北政策を取ってきた李明博政権下において、南北軍事協力がなくなり、国防部に対する文民統制が緩んできたことで、この事件が発生したと解釈している。大青海戦は、前の二回の海戦とは異なり、「事前の兆候もなく、一瞬のうちに起きたこと」であり、「南北の軍隊間においてどっちがもっと素早く対応するのか」(171頁)が、海戦で有利な位置を占める決定的な要因となる事態が展開され発生した戦闘であった。また、西海で、「南北の高強度の軍備競争が開幕」(173頁)になったことを知らせた事件であった。その次が、天安艦事件であった。著者の論理が正しいのであれば、北朝鮮が報復をする番であった。『西海戦争』は、この事件の根源として、(北朝鮮の潜水艇による攻撃が予想されたが)合同作戦本部ではなく、「第二の陸軍本部」(199頁)を作ってしまい、これにきちんと対応できなかった李明博政府の人事政策を指摘している。天安艦事件以後、李明博政府は、アメリカの航空母艦のジョージ・ワシントン号を西海に呼ぼうとした。この「国内政治的な選択」で、東北亜の国際政治が揺れ動き、西海は、韓国・北朝鮮が助演でアメリカと中国が主演である、強大国政治の現場となった。続いて、2010年11月、G20会の誘致という国内政治的思案が終了すると、韓国は海上射撃訓練を再開した。これに対する北朝鮮の「準備された」対応が、延坪島砲撃であった。本書は、事件当時、韓国が自衛権を行使できなかった理由として、戦闘機に空対地ミサイルが装着されていなかったことを知らなかった合参の問題と米韓連合司令官に自衛権行使が可能かどうかを聞かなければならなかった韓国政府と軍の限界を指摘している。
「南と北が譲ることができない国家利益のため、西海で衝突するしかない、という単純な国家主義的な観点だけでは説明できないミステリがあった」(9頁)という著者の問題意識は、西海戦争の一つの原因として、韓国の国内政治地形と政府及び軍の組織形態を提示している。安保を強調する政治権力であること、安保を害するという力説は、「政治的重力」を、右側へ向かせる安保の国内政治化という現象から始まったことが、『西海戦争』を読んでから得た発見である。安保のような国家利益が、与えられたことではない政治的取引を通して構成されていることを見せてくれた。しかし、一方で本書は、「将軍の証言」に頼る「記憶の政治」を「交差点検」できる装置の不在が見られ、その記憶が偏在的に引用されているという限界も見られる。戦争の相手である北朝鮮における政策決定過程のブラックボックスが、相対的に封印されている状態である点も同じである。にもかかわらず、片方が、「臆病になったら終わるチキンゲーム」が繰り返されている西海をみて、冷戦時代の安定を懐かしいと思うより、朝鮮半島における平和の「国内的土台」を探索しようとするのであれば、「社会科学的な散文」の一つの道を開拓した本書は、読む価値があると考えられる。
翻訳=朴貞蘭(パク・ジョンラン)
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