창작과 비평

ゲーテが予感した近代の二重課題

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』と『ファウスト』2部を中心に
 

2013年 冬号(通卷162号)

 

 

 
林洪培 (イム・ホンベ) ソウル大学校独文科教授。文学評論家。主な論文として「『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』に現れた社会意識」、「ルカーチのゲーテ受容に対する批判的考察」などが、訳書に『若きウェルテルの悩み』、
『ルカーチ美学』(共訳)、『ナルチスとゴルトムント』などがある。limhb059@snu.ac.kr
 
 
 

1. はじめに

 
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749~1832)が生きていた時代のドイツは、前近代的封建体制が温存するなかで、近代化の入り口に入りかかった歴史的過度期を迎えていた。人口の1パーセントの貴族層が国土のほとんどを分割所有したまま、租税免除などの独占的特権を享受しながら支配層として君臨し、彼らに仕える国民の40パーセントは自分の土地を持っていない農奴状態で、一生奴隷労働に従事していた。国の富を支える産業基盤も弱かったし、政治的には神聖ローマ帝国という中世の古い屋根のもと、300個余りの群小領邦国家が乱立する混乱状態を免れ得なかった。こういう時代を生きたゲーテの文学をもって、近代適応と克服の二重課題を論じるということは、一見時代錯誤であるかのように見える。近代の二重課題が資本主義世界体制の圧迫に耐えながらも、国家と地域および地球的次元で多様な形で発現される構造的矛盾を直視して、近代克服の可能性を探索するという趣旨から提起されたものであるならば近代の二重課題論に対する概括的説明は、李南周、「二重課題とは何か」、『二重課題論:近代克服と近代適応の二重課題』、創批、2009、11~26頁参照。

、ゲーテと同時代のドイツは封建性の克服と近代化そのものとを、切迫した時代的課題として抱えていたからである。ところで、ドイツが19世紀の後半、圧縮的近代化を通じて列強に進入する過程で、民主主義を始め近代的価値の核心は富国強兵論に埋もれて失踪されたし、その破局的結果が二回に渡る世界大戦とファシズムへと繋がったということは、周知のとおりである。このように盲目的近代主義が招いたドイツ史における惨禍は、近代化と近代克服が決して段階的な課題ではないということはもちろんのこと、近代適応と近代克服もまた「二つの同時的課題ら」ではなく、「両面的性格を持った単一課題」白楽晴、「再び知恵の時代のために」、『韓半島式統一、現在進行形』、創批、2006、115頁。であることを反芻させる。そういう脈絡からゲーテの文学はドイツの封建的後進性を直視して近代化の時代的課題を受容しながらも、決して近代主義に埋没されずに近代世界の複合的矛盾を同時に穿鑿したという点で、二重課題論と繋がり得る萌芽的端緒を含蓄している。例えば、ゲーテの出世作である『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen Werther, 1774)は、全人的自我実現を夢見る若者を自殺へと追い込む封建的桎梏の時代像を証言すると同時に、単に封建性の克服にのみ限定されない人間解放の熱望を見せてくれる。ウェルテルの悲劇的挫折とともに未完の課題として持ち越される近代的移行の問題は、中年期の代表作『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(Wilhelm Meisters Lehrjahre, 1796, 以下『修行時代』)で核心主題として浮上する。西欧文学史で教養小説の典範として評価されるこの作品で、ゲーテは個々人の完全な人間的完成と平等な社会共同体の実現とが果たして如何に合致され得るかという難題に取り組む。この小説の執筆時期に起こったフランス革命は、ゲーテの歴史観を推し量る試金石となるが、次の発言で見るように、ゲーテは暴力革命には断固と反対し、斬新的改革を擁護する立場であった。

私がフランス革命の友となれなかったことは事実であります。私は革命の蛮行に身の毛がよだち、毎日のように激怒しましたし、当時では未だ革命の有益な結果は見えなかったからです。また、私はフランスでは取り返しの付かない必然の結果として起こったことと同じような光景を、ドイツの人々が人為的に図ろうとするのを見て、知らない振りができませんでした。だが、私は支配者たちの専横に味方して庇ったわけではありません。私は如何なる大革命も百姓の間違いではなく、為政者の間違いのためということを確信していました。(…) 私は如何なる暴力的転覆も憎悪します。そうしたら、よいものを得る分だけ、破壊するに決まっていますから。(…) われわれに未来の展望を開けてくれる、そのような改善ならどんなものであれ大歓迎です。しかし、すでに言及したとおり、暴力的なこと、一気に飛び越えようとすることは何であれ、私の霊魂に逆らいます。そういうことは自然の道理に合っていないからですね。ヨハン・ベーター・エッカーマン、『ゲーテとの対話』2、ジャン・ヒチャン訳、民音社、2008、53~54頁。(1824年1月4日の対談。翻訳は部分的に修正した。)(強調は原文通り)

 
 
フランスで革命と旧体制の崩壊が歴史的必然だったならば、ドイツではそうする与件が成熟していなかっただけでなく、歴史において暴力を伴う急激な跳躍は自然の道理に外れるということである。ここで「自然の道理」とは単に自然に戻っていこうという言葉ではなく、身分差別とあらゆる悪習を正当化する実定法に立ち向かって、すべての人間のうまれつきの尊厳を「天賦人権」として尊重すべきだという自然法(Naturrecht)思想と一脈相通ずる発想だということも、銘じる必要がある。このような複合的脈絡からゲーテは一貫して中道的改革路線を堅持したが、その「中道」が新旧の適当な折衷に留まらず、人間と社会に対する根本的省察へと進んでいくという点で、ゲーテ特有の古典的成就が始めて可能となる。本稿ではゲーテのそのような問題意識を念頭に置きながら、『修行時代』と『ファウスト』(Faust, 1831)の2部を中心に、ゲーテが近代的移行の課題に伴う複合的矛盾を如何に穿鑿しているか見てみたい。
 

2. 教養小説と近代的移行の問題

 
バルザック(H. Balzac)の『幻滅』(Illusions Perdues, 1843)には、高位貴族と国王までも愚弄しながら無所不能の権力を振り回す言論の活劇像が物語の一つの軸となっているが、これを見守るパリ駐在のドイツ公使が、ドイツにはこのような新聞がなくて非常に幸せだと胸を撫で下ろす場面が出てくる。作品の背景となる1830年代までもドイツには世論を主導する公論の場が不在であったという後進性を皮肉るくだりである。『修行時代』で富裕な商人の息子である主人公のヴィルヘルムが、平凡な市民の生で痛感する劣敗感は、ドイツでは公論の場が相変わらず宮廷の密室に閉じ込められて、市民階級には徹底に遮断されているという、錯綜した現実認識の所産である。ヴィルヘルムが見るに、貴族は「公人」の地位をもって社会的影響力を行使するが、市民(Bürger, 中産層市民)として生まれた者は狭小な専門職能に埋没されて、生まれつきの素養を釣り合いが取れるように完成して、「普遍的な教養」に到達する可能性が遮られている。なので、市民は「私はどんな人であるか」という人格的「存在」の物差しではなく、「私は何を持っているか」という「所有」の側面でのみ人間の務めができる。『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、アン・サムファン訳、民音社、1996、402頁以下参照。 ヴィルヘルムはそのような身分的制約を克服して、より広い社会で公人として活動したいという抑えきれない欲求を感じ、まさにそれが彼の追い求める教養の理想である。公人としての活動を完全な人間的陶冶の前提条件として想定しているのである。だが、公的活動は貴族層の専有物なので、貴族と平民の身分差別が克服されない限り、全人的教養の欲求は決して充足され得ない。ヴィルヘルムは身分差別が貴族の傲慢や市民の順従のせいではなく、「社会構造」の問題だと正しく認識するが、いざその自分は「政治」には関心がないとして自らの限界を吐露する。このことは当然個人的な限界である前に、市民革命が夢見れない境遇に置かれたドイツ市民階級の歴史的限界であり、暴力革命の可能性そのものを遮断しようとする作家の考えも働いた結果である。
 
これと関連して作品には貴族と平民の衝突可能性を仮想のシナリオのように提示するエピソードが登場するが、家業を承継しろという父親の意に反して流浪劇団の俳優として渡り歩くヴィルヘルムが、ある伯爵夫人としばらく恋に落ちて夫人の旦那を狂信者に改宗させる奇異な事件がそれである。ヴィルヘルムと伯爵夫人が互いに恋情を抱いていることに気付いた男爵夫人は、伯爵が遠く出張した間にヴィルヘルムに伯爵の寝巻を着せて、代役を任せる変な陰謀を企むが、寝室で伯爵夫人を待つヴィルヘルムは予定になく早く帰宅した伯爵と出くわす。ところが、伯爵は鏡に映されたヴィルヘルムの姿を自分の分身だと錯覚して、これを霊魂と体が分離される死の前兆として受け入れる妄想に苦しめられながら、結局世の中から目を背き、狂的な信仰人となる。作品の終わりの部分で再び登場する伯爵は全財産を献納して、新しい教団の開拓に夢中となり、「殉教」の覚悟までしながら「聖人」の位に上がることを夢見る。そして久しぶりに再会したヴィルヘルムをとんでもなく「イギリスの侯爵」だと見誤る。
 
この短いエピソードは見掛けだけの無能な貴族層が、歴史の舞台から退出される不可逆の時代的変化を圧縮して示しているし、伯爵の寝室が御前会議の場所を兼ねたルイ14世の寝室を連想させる換喩だと見なすと、封建的旧体制の没落が取り返しのつかない歴史的必然であることを示唆し、ひいては平凡な市民階級出身のヴィルヘルムをイギリスの侯爵として見上げることも、将来渡来する新しい時代の主人が果たして誰なのかを喚起するところがある。バフチンはこのように非常にささやかに見える小さい時空間を、力動的な歴史的時空間へと変換させるゲーテ特有の想像力を、教養小説のリアリズム的可能性として高く評価したことがある。ミハイル・バフチン、「教養小説とリアリズム歴史の中におけるその意味」、『言葉の美学』、キムヒスク・朴鐘昭訳、ギル、2006、287~347頁参照。 もう一方、伯爵の狂信的没入はゲーテの次の世代のドイツ浪漫主義者たちが、計算的理性が横行する近代に適応できずに、中世を黄金時代として礼賛した時代錯誤的な退行を予見する側面もあるが、そのように近代主義に対する浪漫的抵抗が復古的退行へと帰結される様相も、ドイツ式近代移行の複合性を見せてくれる。
 
『修行時代』で近代的移行の課題はヴィルヘルムの教育者の役割をする「塔の結社」という秘密団体と、その中心にある「ロターリオ」という人物を通じて表現される。ロターリオはたとえ貴族ではあるが、知識の増大と時代の進歩がもたらしてくる利益を幅広く共有すべきだという進取的な考えを持っている。そういう脈絡で自営農には税金を賦課しながら、貴族の領地には免税特権を与えることは不当であり、そのような特権を廃止してこそ、貴族も所有の正当性を認められ、まともに公民の役ができると力説する。また、領地内の農民にも領主の許可なしに自由結婚を許容してこそ、彼らがより幸せとなって国家もより優れた国民を得るわけだから、国益にも役に立つと語る。彼のこのような功利主義的な平等志向は、市民権が確立された後代の観点から見ると、別に新しいこともない穏健な常識に属するものであろうが、かつてシラー(F. Schiller)がロターリオを指して「サン・キュロット的」と言ったほど、ゲーテと同時代には実現の可能性が希薄な急進的発想であった。進取的な啓蒙主義者たちの集いである「塔の結社」が秘密裏に活動するのも(ゲーテがモデルとしたフリーメイソンの活動方式を想起させる面もあるが)、そのように穏健な社会改革の構想でさえ、ほとんど反響が得られなかったドイツ的後進性を反証する。それとともに、ドイツにおける近代的改革は19世紀のドイツ史が立証するように、公的領域から排除された市民階級の力では不可能であり、上からの改革のみが現実的代案であることを確認してくれるのも事実である。
 
もう一方、ロターリオの改革路線が現実ではすでにブルジョア的展望へと吸収されているということも、留意すべきくだりである。当時、貴族の領地のなかで王が賜った世襲封土は、自由売買が禁止されていた。ロターリオは貴族の特権を支えてきたそういう封土が、かえって富の増進を遮る足枷になっていると慨嘆しながら、土地売買の自由化を主張するが、実際ヴェルナーという投機師と合作して差し押さえられた農地を買い入れて、再び売り渡す土地投機の事業に身を投じる。ヴィルヘルムの妹と結婚したヴェルナーは、ヴィルヘルムが相続で引き継いだ財産をその何倍に増やすほど、腕のいい事業家であるが、複式簿記を「人類最高の発明品」だと見なす当時、小説で複式簿記はブルジョア的事業手腕のコードとして通用された。例えば、ゲーテの次の世代であるスタンダールの『赤と黒』(1830)で、貧しい大工の息子であるジュリアン・ソレルはラ・モール侯爵家に秘書として入って、侯爵自身もすべて把握してはいない財産状態を複式簿記で一目瞭然と整理してあげるが、これに感動した侯爵は実の息子にも与えなかった勲章を、朝廷から得てソレルに授与する。彼は、姻戚関係のヴィルヘルムが見るにも人を「商品」と「投資の対象」としてのみ取り扱う、徹底した資本家的俗物であるとともに、「一生懸命に仕事ばかりするうつ病患者」として描写される。ゲーテの次の時代に栄えるブルジョアジーの典型を先取りしているヴェルナーの歪んだ人間像は、彼の事業パートナに変身するロターリオの改革路線が、将来現実化して渡来する資本の時代が果たして真正の人間的価値および幸福と両立できるかという疑惑を強く呼び起こす。
 
作品の結末を飾る「身分を越えた結婚」は、そのような疑問と結びつけて考えてみる余地がある。ヴィルヘルムと結婚するナターリエは、ロターリオの妹として厳然と貴族の身分である。当時、平民と結婚する貴族は男女を問わず相続権が剥奪されていた現実的制約を考え合わせると、多分に抽象的談論の水準に留まる社会改革の論議よりもこのような結婚こそ、むしろより急進的な社会契約の実験だと言えよう。ナターリエの性格において注目すべき点は、幼い時から貧しい人々に金銭では積善を施さないで、その代わりに古着を修繕してあげるといったふうに、「貨幣」という概念を知らずに育ったし、そのような善行を生の唯一の喜びとして見なしながら生きてきたという事実である。そういう点でヴィルヘルムとナターリエの結合において、貴族的特権の自発的放棄よりもっと大事なメッセージは、真の人間的幸福とは人間を含めたすべての価値を商品の価格として換算する貨幣の交換価値を超克する次元でのみ可能だということである。もっぱら富の増殖だけを唯一の幸せと見なすヴェルナー類の物神主義と対蹠的な関係にあるナターリエの「美しき霊魂」は、そういう点ですべての人間関係を利潤動機に還元して作動する資本主義的近代の克服を通じて形成される新しい人間像の見本と言えるし、ヴィルヘルムが普遍的教養の要件と見なす公人の役割だけでは確保されない全人的徳目を体現している。
 
ヴィルヘルムが羨望する公人の地位が、完全な人間らしさとはかけ離れて食い違うこともあり得るということを示す標本的事例が、他ならぬロターリオの乱れた愛情遍歴である。彼は時代の推移を広々と見抜く進取的改革思想の所有者であるが、また一方では小作人の娘、卑賤な演劇俳優、貴族婦人などと愛情遍歴を繰り広げた挙句、ナターリエに劣らぬ秀でた人となりの所有者であるテレーゼという女性を真心で恋して、ついに結婚を決心するに至る。ところが、一時付き合っていた貴婦人がよりによってテレーゼの母親だという事実が後で明かされながら、結婚の計画は水泡に帰する。そういう中でもロターリオはまた異なる人妻と浮気をして、その夫との決闘で怪我をしたりもする。ロターリオのこの危なっかしい曲芸は、たとえ頭では進歩的時代精神を悟ったが、生まれつきの体質だけは相変わらず旧体制の貴族振りから少しも脱していないことを示す。そういう点で「心の中が鉱石の屑でいっぱいならば、よい鉄を生産しても何の所用があり、私が私自身と合一を成し得ないならば、農地を整理しても何の所用があるだろうか」(『修行時代』、402頁)というヴィルヘルムの自問は、誰よりロターリオに当たる言葉である。一時、家の反対を押し切ってアメリカの独立戦争にアメリカ側として参戦して、それによって大きな負債を負っているロターリオの個人的境遇は、フランスのブルボン朝がアメリカの独立戦争を支援するために抱えることとなった莫大な負債の解決を訴えるために召集した三部会議が、結局王朝を倒す革命の導火線となったという歴史的事実と重なって微妙な象徴性を持つ。そういう脈絡から見ると、ロターリオの危なっかしい貴族的冒険主義は、あえて自ら進んで貴族の特権を諦めなくとも貴族身分と旧体制の自滅を呼びつけるはずの胎生的要因であるわけだ。ところが、ナターリエがヴィルヘルムに求婚することで彼を救援するのとはまた異なる様相として、ロターリオはテレーゼによって救済される。テレーゼの母親が実母ではないという事実が再び明かされながら、結局テレーゼとの結婚が成し遂げられるのである。テレーゼの父親は妻が妊娠できなかったため、妻の許しを得て家の女中を代理母としてテレーゼを産んだが、このことに恨みを持った妻は公然と乱れた生活をしながら夫に侮辱を与えたり、テレーゼの持ち分の遺産まで独り占めする遺言書を夫から書いてもらう。それによって赤貧の境遇となったテレーゼは両親の不幸な結婚生活を反面教師として逞しい女性として成長したのである。ナターリエとともに彼女が「アマゾン」と呼ばれることは、二人の女性が男性(主義)的偏僻と欠陥、それから因習的な女性像までもすべて乗り越える人間的完成の境地を見せてくれるためであり、まさにこの点も『修行時代』で記憶に値するくだりである。『ファウスト』2部の結語である「永遠に女性的なるものが/われらを引き、昇らせる」という言葉は、二人の女性にもそのまま該当される。
 
テレーゼの出生来歴が反転を繰り返しながら明かされる過程は、ルカーチがバルザックのリアリズムの小説で満開する叙事様式だと指摘した「劇的」要素に当たる。ゲオルク・ルカーチ、「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」、『リアリズム文学の実際批評』、バン・ソンワンほか訳、カチ、1987、76頁参照。 ところで、ゲーテの教養小説からバルザックの社会小説へと移行する過程を、単に叙事的進化の観点からのみ見るには、両者の間に懸隔の差が出ることも事実である。例えば、『幻滅』で際立った劇的反転は、成り上がりを狙う人物間の冷酷な競争において例外なく富と権力の論理に左右されるし、その分だけはある程度予測可能な面がある。しかし、もう一方でそのような無限競争は決して満たされない資本主義的欲望の悪魔的力動性によってつき動かされるので、あたかも巨大な賭博場に巻き込まれるかのような予測不許の恒久的不安定性が限りなく増幅されるし、そのような混沌の劇的反転へとつながるプロットが一切の批判的省察を無効化しながら吸引する様相を呈する。そういう意味でモレッティはバルザック小説のプロットが一切の内面的省察を排除する「散文」(provorsa:顧みず「前へのみ進んでいく物語」という意味)の完璧な勝利を見せてくれると述べる。フランコ・モレッティ、『世の中のすじみち:ヨーロッパ文化の中の教養小説』、ソン・ウンエ訳、文学ドンネ、2005、297頁参照。例えば、主人公のリュシアンはもっぱら出世のため、一時の熱烈な自由主義者から「真性」王党派へと一朝にして変身するが、少しも良心の呵責を感じないし、その一方で、あたかも『修行時代』に出る「塔の結社」を連想させる急進的共和主義者グループのダルテーズ一行が披瀝する高踏的談論は、「マクチャンドラマ(複雑に絡み合っている人物関係、現実ではあり得ない状況の設定、非常に刺激的な場面を用いて話を展開させるドラマのことを言う。「マクチャン」とはもともと坑道の行き詰まった所を意味する。訳者)」を彷彿させる作品中のあらゆる醜聞のサスペンスに比べると、むしろ空虚なこだまのように聞こえるのである。これと違って『修行時代』の劇的要素は、ほとんど登場人物自らもまだ気付かなかった自分と周りの人物たちとの過去事を再構成する方式で展開される。過去と現在を横線と縦線のように交織するこのような記憶術に負って、自分と世の中を絶え間なく新たな観点から眺め、判断できるようにしてくれる内面的省察の空間が生じてくるし、多様な世間経験をバルザック小説における幻滅ではなく、人間的成熟の過程として消化し得る可能性が開かれるのである。
 
『修行時代』が教養小説でありながらも、後代の社会小説ではかえって見い出しにくい独特な社会的総体性を具現する秘訣は、そのように互いに置き換えられない多様な個人の固有な経験が互いを照らし返しながら、相まって個人的視野を越えて社会全体に対する立体的眺望を可能たらしめるところから見出せる。一方、あらゆる先進的教育理念を説破する「塔の結社」がすべての人物の行跡を記録として書き残して、教育の教材とする啓蒙の方式は、近代的啓蒙の訓育が体系的抑圧のメカニズムへと逆転される危険に晒されるという点で、言わば「啓蒙の弁証法」を予見したこともゲーテの卓見である。例えば、ミニョンとハープ楽士の死は、そういう意味で「塔の結社」の一律的な啓蒙の訓育が招いた悲劇である。先述した伯爵がだしぬけに介入してこの悲劇に加勢する様相は、一方的近代主義がいざとなると復古的退行とかみ合えることを示している。拙稿、「ミニョン—浪漫的霊魂の悲劇的肖像」(アン・サムファン編、『ゲーテ、そして彼の永遠なる女性たち』、ソウル大学校出版部、2005、215~31頁)参照。バルザックの小説でダルテーズ一行は「ドイツ人の尊敬を受けている汎神論者」ゲーテに対抗して、「精密な分析科学」を主張したりもするがバルザック、『幻滅』、イ・チョル訳、ソウル大学校出版部、1999、243頁参照。、スピノザの影響を受けたゲーテの汎神論は、時代錯誤的な神政復帰論ではなく、人間史と自然史を合わせて天地間の万物の有機的相関性、固体と全体との間の総体的な連関性を強調する発想である。これまで見てみたように、微視的な個人史と巨視的時代史を稠密に結合させて生き生きとした人間像として造形し出すゲーテ的想像力は、まさにそのような思惟に負ったものである。ゲーテ的叙事が同一な形で反復されるわけにはいかないだろうが、原子化した個人を管理監督する高度の抑圧体系が感覚的瑣末主義をそそのかす今の時代でこそ、決して「精密な分析科学」では取って代われないそういう創作の態度が切実に求められていることも事実である。
 

3. ファウストの白夜

 
『修行時代』の結末部には「塔の結社」が世界至る所に人力を分散させて、万一の「革命」に備えて安全を図ろうとする、やや大それた話が出てくる。
 

この頃は財産を一箇所に集めて持っていたり、お金を一箇所にのみ投資することは、決して能事ではないのよ。だからといって財産をあちこち分散させて管理することも大変なことだし。そこでわれわれは他の方途を考え出したわけよ。だからわれわれの昔の塔から一つの団体が世の中へ出ていって世界至る所に広がり、またその団体に世界各地の誰もが加入できるようにするということなのよ。だが、万が一でもある一国の革命が誰かの財産を丸ごと強奪する場合に備えて、互いにわれわれの生計を保険に入れておこうということだよ。私はこれからアメリカに渡って、われわれの友であるロターリオ氏がそこに滞在していた間に開拓しておいたよい環境を利用するつもりだよ。(『修行時代』、812~13頁)

 
このような趣旨から「世界同盟」を結成しようとする彼らの構想は、作中人物の意図を超えて新しい時代をつき動かす資本の世界化を暗示する。『修行時代』では未だ曖昧な形で提示されたこのような世界史的変化が、結局資本主義世界体制の成立へと帰結されることを示すドラマが取りも直さず『ファウスト』2部の歴史的ビジョンである。1部の始めにすでにファウストは「はじめに言葉ありき」という聖書の句を「はじめに行動ありき」と新たに翻訳することで、天地創造の神的権能を僭称しながら自分の意思通り世の中を再創造しようという抱負を披瀝するし、「自分の自我をば人類の自我にまで拡大し」(1774行)以下、作品の引用は次の版本に従うが、翻訳は多少修正した。『ファウスト』、キム・スヨン訳、チェクセサン、2006。(なお、日本語訳に際しては、<『ファウスト』第1部、第2部、相良守峯訳、岩波書店、1971>の該当箇所を参照しながら引用した。訳者)ようとする彼の野心は、この世界史的個人の運命が直ちに人類史的ドラマとして展開されることを予告する。
 
2部1幕で富の神であるプルートスに扮したファウストが、牧羊神のパーンに扮した皇帝を「血のようにたぎり、ほとばしる黄金の火」で焼死させて、皇帝の富貴栄華を一夜で灰にする「仮装舞踏会」が繰り広げられる。メフィストーが演出するこの幻想劇は、決して悪魔の魔法ではなく、旧時代の古い権力を崩して権力の座に上がる現代の新しい君主が、他ならぬ資本権力であることを見せてくれるアレゴリーである。ここで「流行」、「詩人」、「知恵」、「希望」、「不安」などが仮面をかぶって配役として登場するアレゴリー的記号らの乱舞は、資本の威力に晒されていくすべての価値の没落と無政府状態を暗示する。そして2部全体の独特な構成原理として神話と現実、古代ギリシャと現代のヨーロッパ、地上と地下、深山幽谷と世界の大洋とがメビウスの帯のように幾重にも絡み合わされる時空間の圧縮もまた、固定された伝統的世界を一挙に崩して地理的境界を横切る資本主義の地球的拡散という歴史的脈絡から理解される必要がある。そういう意味でファウストが「資本の地球的野望を見せてくれる不動の原型」フランコ・モレッティ、『近代の叙事詩』、ゾ・ヒョンジュン訳、セムルギョル、2001、89頁。ということは、暴圧的資本家でありながら植民地征服者として登場するファウストの面貌から如実に確認される。
 
2部の後半部でファウストは海岸の広大な沼地を陸地に変える大規模の干拓事業を繰り広げると同時に、港を建設して海上進出を通じて富の蓄積を試みるが、現場の指揮官として先頭に立つメフィストーは、たったの二隻の船で出航して、いろんな異国の地で生産された多彩な産物を船いっぱい積んで、二十隻の巨大な船団で帰港する。そうしながら「自由な海は精神をも自由にする」(11177行)ので、莫大な財貨をどのようにかき集めたかその手段の是非は問う必要もないし、「力があれば権利もあるはず」だから、力がつまり正義という弱肉強食の論理を正当化する。それのみでなく、「戦争と貿易、海賊の仕業は互いに切り離せない三位一体」だと主張するが、「三位一体」というキーワードが暗示するように、これは西欧列強の植民地争奪戦と収奪を「荒涼たる海岸の醜い地域」として表象される野蛮的未開地に対する西欧的文明化の召命として美化する詭弁である。手段と方法を構わぬこのような植民地収奪を通じて、「全世界を懐のなかに収める」ファウストは資本の世界化を通じて構築される新しい世界帝国の主人であるわけだ。
 
ファウストの干拓事業はたとえ百姓のために住み心地のよい土地を設けてあげるといった大げさな名分を掲げるが、いざと事業が推進される具体的実像は人命の犠牲をも辞さない過酷な労働搾取に基づいた資本蓄積と、資本主義的近代化の暗い裏面を表わす。干拓事業を見守るフィレモンとバウチスという老夫婦の証言がこの点を端的に示してくれる。
 
人身御供の血も流れたに違いありません、
夜分に苦痛をうったえる悲鳴がひびき、
燃える炎が海の方へ流れてゆくと、
朝にはちゃんと運河が一つできているのです。(11127~30行)
 
人間を供物に供えて、超高速で推進されるこの工事を「人間精神の傑作品」と見なすファウストは、老夫婦が住む小さい丘までも手に入れたくて躍起になる。「眼のまえではおれの領地は無限に広いが」(11153行)、その丘の菩提樹何株が「おれの世界所有を駄目にしている」(11226行)と激憤するファウストの限りない貪欲は、資本の飽食性には如何なる限界もないことを見せてくれる。結局、ファウストの欲望を満たすため、メフィストーは老夫婦のあばら屋と抵抗する老夫婦までも一緒に焼いてしまう。開発至上主義に犠牲となった竜山惨事を思い浮かばせるこの場面に続いて、女人の形象で登場する「心配」というアレゴリーはファウストにこう警告する。
 
ひとたび私に掴まえられたら最後、
その人には全世界も役に立たなくなります。
永遠の暗闇がおりてきて
太陽の昇り沈みもなくなります。
外部の感覚は完全でも
内部に暗黒が巣食うのです。
ありとあらゆる宝物を何ひとつ
わが物とすることができなくなります。
幸福も不幸も、共に悩みの種となり、
満ち足りながら、餓えになやむ。(11452~61行)
 
霊魂が暗黒に閉じ込められているのに、全世界を手に入れたとしても何の所用があり、結局いくら富強であっても心の窮乏を免れ得ないということである。しかし、無限に広い帝国を所有しながらも満足しきれないファウストは、当然このような警告が耳に入らないし、そういうファウストに「心配」が「人間は一生涯、盲なのです。/ではファウストさん、あなたも結局盲になりなさい!」(11497~98行)と呪詛を下すや、めくらになるファウストは干拓事業の完工を促しながら、こう叫ぶ。
 
(盲になって) 夜がだんだん深くなってくるらしい、
だが心の中には明るい光が輝いている。
おれは、考えたことを急いで仕上げよう。
主人の言葉ほど、重みのあるものはない。
寝床から起きろ、家来たち、一人のこらず。
おれが大胆に立案したことを見事に実現してくれ。
道具を手にとれ、シャベルや鋤を使え。
指示してある仕事は、すぐに仕遂げなければならぬ。
厳格な秩序を守り、急いで精を出せば、
この上ない立派な報いが得られる。
またとない大事業を完成するには、
千本の手を指揮する一つの精神でたくさんだ。(11499~ 510行)
 
人命を供物に供える暴圧的な搾取とともに、この場面は労働者の膏血を搾り出す「資本の本源的蓄積」G. Lukács, Faust-Studien, in: Probleme des Realismus III, Berlin 1965, 568頁.を示す縮小版であり、一糸乱れぬ労働過程を「数千の数足を使いこなす一つの精神」として表象する点では、労働者たちが自動化した機械的生産体系の肢体(「手足」)へと編入される現代的集団労働を連想させる面もなくはない。カール・マルクス、『政治経済学批判要綱』2、キム・ホギュン訳、ベクイ、2000、369頁。「労働手段は資本の生産過程に編入されると、多様な形態変換を経るが、その最後の形態が機会であったり、またはいっそ自動装置(Automat)によって、自動で運動する動力によって、稼動される自動化した機械的生産体系である。(…) この自動装置は多数の機械的で知能的な機関でもって構成されていて、労働者自身はそれの意識的肢体としてのみ規定されるだけである。」(翻訳は部分的に修正した。)めくらになったにも関わらず、「心の中の明るい光」に眩惑される精神的白夜の状態で、ファウストは自由と平等の地上楽園を夢見る。
 
自由も生命も、日毎にこれを戦い取ってこそ、
これを享受するに価する人間といえるのだ。
従って、ここでは子供も大人も老人も
危険にとりまかれながら、有為な年月を送るのだ。
おれもそのような群衆をながめ、
自由な土地に自由な民と共に住みたい。(11575~80行)
 
ファウストのこの最後の台詞は、後日、旧東ドイツの学界で社会主義建設の正当性を擁護する典拠としてよく引用されたりしたが、ゲーテ自身はサン=シモンが主唱した汎世界的労働者国家を批判のモデルとした。サン=シモンは社会を巨大な工場に組織して、徹底に統制された集団労働で自然を征服して自由と平等の地上楽園を建設すべきだと主張した点では、初期社会主義理念の音頭取りであったが、徹底した産業主義の世界化が基督教に取って代わる新しい「世界宗教」だと説破した点では、自分の意図とは無関係に資本主義世界体制の渡来を予見した人物でもある。そしてこれまで見てみたように、ファウスト式近代化の企画こそ現実社会主義が資本主義世界体制の下位体制として存続した20世紀の地球的現実に当てはまることも事実である。ひいてはホムンクルスという人造人間まで作り出して暴力的支配と戦争の道具としようとする技術万能の近代主義に対する批判的省察は、『ファウスト』を21世紀のドラマとして読める余地も提供する(2幕参照)。
 

4. むすびに

 
ゲーテは20代後半からヴァイマル共和国に招かれて一生、国政の重責を引き受けて現実政治に勤めた。当時、ヴァイマルが属していた小共和国は、人口10万の郡単位の規模で領土のほとんどが山林地帯なので、資源が足りなく、貧窮な小国であった分、政治家のゲーテはドイツの後進性を誰より痛感しながら、国富を増進させることに全力を注いだ。それとともに、近代化を先導していたフランスやイギリスの社会像を注視し、世界史的動向の学習に精進したゲーテは、急変する進歩の時代を含めてすべての歴史的経験は、絶え間なく新しい観点によって随時再照明されるべきだという所信を披瀝したことがある。
 

われわれの時代には世界史が随時叙述し直されるべきだということに、もうこれ以上疑問の余地はなかろう。それは言うなればより多くの事件が新しく明かされたためではなく、新たな見解が出てくるためであり、進歩する時代とともに生きていく人は経てきた経験を新しい方式で見下ろし、判断できる観点へと導かれるからである。Goethe, Die Schriften zur Naturwissenschaft I vol. 6, Weimar 1957, 149頁.

 
そうしながらもゲーテは当時、ヨーロッパの半周辺部であるドイツで、封建的後進性が温存するなかで近代的移行の勢いが共存していた歴史的過度期の複合的発展様相を、単に順次的な進化としてのみ見なさないで、『修行時代』のロターリオのような人物が全身でもって示すように、それをいろんな時代の矛盾と葛藤が絡み合っている複合体として捉えた。ゲーテが同時代の先進的理念に注目しながらも軽く同調しないで、その現実的具現が果たして人の暮らしの実像にどのような変化をもたらしてくるかを穿鑿する方式で創作に臨んだのも、そのような歴史的均衡感覚の所産だと言える。死ぬ一年前に脱稿した『ファウスト』最終本を生きている間は出版できないように封印したゲーテは、「混沌とした商取引と学説」が乱舞する昨今の時代精神は、決してこの作品が理解できないと、その封印の理由を明かした。そのように近代世界を牽引する時代精神の大勢に逆らって誕生したこの作品を、かつてヘーゲルは「世界精神」が確固たる自己意識に到達し、自由に向かって発展していく「人類史の弁証法的完成」のドラマだと賞賛したがG. W. F. Hegel, Vorlesungen über die Ästhetik III, Frankfurt a. M. 1986, 557頁参照.、そのような世界史的誤読とは違って、作品の実像は西欧中心主義と植民支配、労働搾取に基づいた暴圧的近代化と技術的近代主義に対する鋭い批判的省察を見せてくれるものである。近代的発展の加速化を均質的総体ではなく、そのような複合的矛盾が亀裂を起こしながら人間らしい生を脅かす危機の重畳と加速化として洞察したという点で、『ファウスト』の真正なる現代性がうかがえる。ゲーテはファウストの性格を指して、「最高の知識とあらゆる財貨にも満足を知らないので、全方位に突進するが、結局より不幸となるばかりの近代人の本性」Goethe, Faust, München 1989, 444頁. に符合すると強調したことがあるが、資本の物神が支配する時代の大勢に適応しなければ、人間らしい生どころか、生存さえ難しくなる今の乱世にこの人類史のドラマを読み直すべきわけも、われわれの生きる時代が相変わらずファウスト的欲望に支配されているためであろう。
 
 
翻訳:辛承模

 

季刊 創作と批評 2013年 冬号(通卷162号)

2013年 12月1日 発行

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