창작과 비평

「腐る」資本主義が良いパンをつくる

2014年 秋号(通卷165号)

 

 

- 渡邉格著、チョン・ムンジュ訳『田舎のパン屋で資本論を焼く』、THE SOUP, 2014
(原著名『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』、講談社、2013)

 

 

朴賛逸 / 料理人、作家

 

 

「自然界では菌の活躍を通してすべての物質が土に戻り、生きているあらゆるもののバランスはこの『循環』の中で維持される。(…)まさにこのような自然の摂理を経済活動に適用させればどうなるか。各自の生を尽くすための背景に腐敗という概念があるとすれば、腐る経済は私たち各自の生を温和で楽しいものにし、人生を輝くものにしてくれるのではないだろうか。」(韓国版、p.9)

本書の著者である渡邉格のこのような認識は、実際今日の多くの労働者たちのそれと相通じるものである。なぜ会社は儲かるのに、労働者は貧困になるのか。世の中におカネが溢れるのに、なぜ自分たちにはおカネがないのか。おカネの多い人々はなぜ今持っているおカネに満足せず、より多く稼ごうとするのか。技術を身につけるために就業した最初のパン屋さんで、著者はその実体を目の当たりにする。息をつく暇もなく、機械的に働いて少しでも必ず利潤を「上げる」現実から、彼は労働の疎外を直視する。そして、その理由を「腐らない」資本主義の循環構造から探し求める。

私はパンを焼いている。洋食料理人は誰でもパンを焼く。まるで韓食堂でご飯を炊くように。パンは大体同じ、と思うかもしれない。それは良いパンを食べたことのない者の限界である。お店の美味しくないご飯を食べながら、焚き火で炊き上げた炊きたての新米ご飯を丁寧に作ってもらったお袋の味を思い出したことがないだろうか。ふっくらつやつやで、口に入れる前から香ばしい穀物特有の香りを漂わせる美味しいご飯を。
ところで、良いパンは別にある。少なくとも渡邉氏のパンは良いパンと思われる。普通産業社会で売れている大量生産されたパン―著者の表現でいえば、資本主義的パン―は、著者のパンと本質から違う。じゃあ、私たちが食べるパンはどのようにつくられるのか、ごく簡単に説明しよう。いや、そもそも簡単なので、付け加えることもない。水と小麦粉、イースト、改良剤、砂糖。これが現代式の「便利な」パンをつくる。『田舎のパン屋で資本論を焼く』(チョン・ムンジュ訳)に数多く登場する「酒種」(自然状態で存在する菌種を、酒を通して増殖させた酵母)でつくるパンとは極めて違う。すべての材料を混ぜてこねた後、一定の温度で膨らましてから焼く。これが全部である。著者が大事にしている「個性のある」酵母による個性のあるパンを期待することはできない。製パン技能士は国内労働者の中でも最低賃金をもらっている。少し前までも最低賃金どころか、交通費のみで一日12時間くらいずつ働かされた。「修行する」という名目の下で、徒弟として酷使されていたのである。彼らの仕事は主体的な労働者の仕事ではない。単に機械のできない部分に参加する一種の「工程」としての仕事である。

それでは、著者はどのようにパンをつくっているのか。本を開くと、パンをつくるために3分ですべての準備を終える私のような料理人には想像もできないことを、彼は行っていることに気づくようになる。パンをつくったことのある人なら、「何、こんなバカな…」と叫びたくなるほどである。著者は、各章のはじめに絵とともに、パンを焼く方法を説明しているが、それがなんと計10本である。すべての材料を混ぜてこねた後、一定の温度で膨らましてから焼く、と私が先述したこととの違いを、本書を通して確認していただきたい。そのようにつくった著者のパンは、食べてみなくても香ばしくて深い味がし、またもっと食べたくなって唾液が出てくるだろうと予想がつく。それが循環する労働、腐る資本の本質に最もよくつながっているパンだからである。

自身の労働がどれくらいの価値で使われるか確認しようとする、すなわち、マルクス(K. Marx)の『資本』の初歩的理解を求める人であれば、本書の中で独立的な章として設定されている「田舎のパン屋のマルクス講義」を読んでいただきたい。特に、著者は8つ目の同講義において私たちの労働が現代資本主義社会においてどのように堕落するようになったかをパンを通して説明する。技術革新によってパンの値段が下がれば、(それを買って食べる)労働者がむしろ疎外される現実についてである。パンを焼く人であれば、彼の引用するマルクスの次の「宣言」が非常に有効である。
「労働者は機械の単なる付属物となり、 最も単純で、 最も単調な、 最も容易に覚えられる操作だけが要求される」(『共産党宣言』)

高度産業社会といわれる今日¡¢この宣言は廃棄されたと思われているが、私たちが生きる社会の基盤は依然としてこのような労働が支えている。最低賃金ももらえない警備職や清掃職、料理人のような職種からその現実を正確に目睹することができる。例えば、多ª¯の料理人や製パン技能士は1日10時間以上働くが、その労働時間や与えられない休みを算定すれば、大半は最低賃金以下の労働をしていることになる。私たちが買って食べるパン1個、1,500ウォンののり巻き1本は、マルクスの話のように「最も単純で、最も単調な」労働を遂行する労働者の犠牲で存在するのである。
著者のこのような試みはまだ実験中といえる。7年という時間をかけたものの、恐慌のような外部からの衝撃がない状態で持続されたものだからである。また著者自ら認めているように、大都市と田舎の状況はいろいろと違う。資本主義が集約された形で人間の心まで操縦してしまうような大都市から抜け出した状況において行う実験なのである。しかし、私たちが注目するのは、この実験成敗というより、労働の価値が「意図と信念」によって変わり得るという確認である。7年という時間は、それを認めることにおいて決して短くない時間である。私の働く台所の片隅に本書が置かれている。最初は書評を書く目的で読み始めたが、今は私や私の同僚たちの労働に対する省察の拡大鏡として活用する。著者の言葉を借りれば、「腐るのは自然の摂理である。ところが、おカネは腐らず、どんどん増え続ける。おカネも腐らせ、経済も腐らせよう」とする生活へ自ら飛び込んだ人の素晴らしい記録なのである。

 

翻訳:李正連(イ・ジョンヨン)