창작과 비평

3・11以後日本文学における「以後」の想像力

2015年 夏号(通卷168号)

 

 

南相旭(ナム・サンウク)  一九七二年韓国生まれ。一九九九年渡日し、東京大学総合文化研究科、比較文学比較文化コースで修学。二〇一一年『三島由紀夫における「アメリカ」』(二〇一四年、彩流社による単行本化される)で学術博士学位取得。現に仁川大学日語日文学科で助教授として在職中しながら、日本及び韓国における保守主義及び右傾化傾向にかんする研究を進行中。三島由紀夫の「文化防衛論」の韓国語訳や、『지금, 여기에 극우주의(いま・ここに極右主義)』(共著、자음과모음、二〇一四)、『일본, 상실의 시대를 넘어서(日本、喪失の時代を超えて)』(共著、박문사、二〇一四年)などがある。

*これは、細橋研究所が主催したシンポジウム「セウォル号時代の文学」(二〇一五年四月一〇日、韓国放送通信大学に於いて)の発表文を書き直したものである。

 

 

一. 崩壊した書庫から

 

二〇一一年三月一一日午後午後三時頃太平洋で発生したマグニチュード九度の地震は、最高四〇メートルを超える津波を引き起こして日本東北海岸一帯に押し寄せた。その余波で約二万名の死傷者が出たのみならず、福島第一原資力発電所原子炉総6機のうち三機が炉心溶融し、つづく水素爆発によって数え切れないほどの数値の放射線物質が外部に拡がった。その結果、約一六万人の地域主民が地元から離れ、いまなお疎開しつつある。
地震が発生したちょうどそのとき、東京で障害をもつ五〇歳の息子と一緒に住んでいた七六歳の老作家の書庫では、夥しい量の書物と資料、古い原稿が本棚から崩れ落ちた。続く余震で不安を隠しきれない五〇歳の息子のためにかろうじて寝場所だけ仕立ててから、ずっとテレビの前に居座り、津波と原子力発展所の事故映像を見続けた彼は、ある映像を見て大声で泣いてしまう。
飼っていた馬の出産を手伝うために政府の避難勧告を無視し、危険地域に残った飼主は、仔馬が生まれても少しも喜べない。生まれた馬がこれから生きていく場である草原が放射線で汚染されていることを知っているためである。一つの命の誕生という、もっとも喜べる瞬間を素直に喜べないその飼主の暗い表情。それを見た作家は、その草原が「われわれ」が生きている間はもちろん、それより遥か長いあいだ「元に戻すことができない」のみならず、さらに「それをわれわれの同時代の人間はやってしまった」という思いに圧倒されて、「衰えた泣き声」を堪えることができなかったのである。悲惨な思いで崩れた書庫のなかにいた彼は、ダンテの「地獄変」に出てくる文章の意味がようやく理解できる。つまり「未来の扉がとざされるやいなや、わしらの知識は、悉く死物となりはててしまふ」ということの意味を[ref]大江健三郎『晩年様式集』(講談社、二〇一三年)、二一頁。[/ref]。
ノベール賞受賞作家である大江健三郎の、恐らく最後の小説となるはずの『晩年様式集』―この作品に関しては第4章を参照すべし―において彼は、福島の衝撃をそう記憶している。周知の通り、戦後日本において原子力発電所は、「原子爆弾」という大量殺傷兵器の技術を平和的に使用するという名目の下で導入され、一種の「未来の扉」として機能してきた。こうした「未来の扉」が爆発したということは、一時的には科学という「知識」の死を意味するかのように見える。だがすでに明らかになっている通り、科学という領域からも、何度も原子力の危険性が警告されてきたのではなかろうか。とすると福島原発事故は、科学の潜在的な危険性から目を逸らさせ、肯定的な楽観的な「未来」だけに目を向かせようにする、そのような「知識」の臨界点であるというべきかも知れない。
しかしそのような盲目性を果たして「知識」と言えるだろうか。それでなければ、ここでいう「知識」とは、そのような盲目性を許してきた、また別の「知」を指すのではなかろうか。つまり晩年の大江が福島原発事故に「知識の死」という衝撃を受けたとき、ここで「知識」とは、彼がそれだけ信頼し、なお守ろうとした「戦後民主主主義」まで含まれる「知」を意味するのではないだろうか。
実は三・一一以後これまでの日本を支えてきた「知の死」に気づいたのは、大江が始めてではない。例えば三・一一以後行われたある講演において若き思想家佐々木中は、西洋哲学において「大地」(ドイツ語でGrund、英語ではground)が、「根拠であり、理由であり、理性を動かせる何かであ」り、「法の根拠」でもあることを喚起させた[ref]佐々木中「砕かれた大地に、ひとつの場拠を」『思想としての3・11』(河出書房新社、二〇一一)一四頁。[/ref] 。このことは、三・一一による大地の揺れが、国家の法を含むあらゆる制度を支える「知」の揺れでもあることを語るためであろう。実際に彼は、事故以来日本政府の官房長官と東京電力が繰り返して言ってきた「想定外の大事件」ということばにおける「想定」には、まさに何の根拠もなかったことを、極めて常識的な文献検索を通して指摘した。又大江も『晩年様式集』において政府と東京電力の「想定外」という言葉には、「その危機を乗り越えるために『想定外』の現実に立ち向か」おうとする意志はおろか、あきらかめのアリバイのみ見えると批判している[ref]大江健三郎、同書、六一頁。[/ref] 。二人とも原発の爆発危険性を想定しようとはしない「知識」に依然として頼っている日本政府を批判しているのである。実際に日本政府は、市民と地域住民の反対を押し切って、福島原発事故を一種の「例外」とみなした上で日本中の原子力発電所を再起動させたし、さらに「知」の揺れに乗り出し、言論の自由を保障し自衛隊の海外派兵を禁ずる日本国憲法を変えようとする。
さて、こうした「知の揺れ」は必ずしも三・一一以後の日本にのみ当てはまるとは限らない。二〇一四年四月一六日韓国で、幼い学生たちをいっぱい乗せて静かな海の上を運航していた旅客船セウォル号が突然沈没し、三〇四人(このなかで修学旅行中であったダンウォン高校の学生は二五〇人)が亡くなったとき、失われたのは船に乗っていた人々の命だけではなかろう。とりわけ子供の「未来の扉」が閉ざされたまさにその瞬間、実は「わしらの知識は、悉く死物となりはててしま」ったことを、われわれ韓国の人々ももう理解できるのではなかろうか。なぜなら、われわれはなぜその船がそのように沈んで、それをテレビ画面で見ながらもなぜ救えず、その責任を誰に問うべきか、さらに亡くなった子供と残された遺族にどう話しかければ良いか、依然として全くわからないからである。
今日、いろんな意味で相当異なるしかないセウォル号と福島が、強引な形とはいえ、もしひとつの細い線でもかろうじて繋がれることができるならば、それはまさに二つの惨事が両国における「知」の臨界点を露呈させた事件であるという認識を共有する限りにおいてであろう。言い換えればセウォル号以後の韓国文学において、三・一一以後の日本文学が一つの参考点となり得るならば、それはもっぱら「崩壊された書庫」として象徴される、まさに「われわれの知」に対する絶望を共有することによってのみ初めて可能ではなかろうか。

 

二.「放射線」という新しい「現実」

 

それでは崩壊された書庫のなかの日本文学は、どのように新しい「知」の根拠を創ろうとするのだろうか。先に触れた佐々木中は、根拠の消失による共同体危機のなかの絶望こそが、かつて戦後直後の坂口安吾が見出した「文学のふるさと」であることを想起させる。佐々木が言っているように、敗戦直後安吾は、「むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひ」で、「モラルがないということ自体がモラムであると同じやうに、救ひがないということ自体が救ひ」であることに「文学のふるさと」を見出すことによって、閉ざされた未来の扉を開くための「新しい大地」として文学の可能性を提示していた [ref]坂口安吾「文学のふるさと」『現代文学』第四巻第六号。[/ref]。
このように日本文学の根拠を敗戦直後にまで遡って見出そうとする傾向は、佐々木以外に何人かに見れるけれども[ref]例えば吉本隆明の『第二の敗戦期』(春秋社、二〇一一年)を取り上げることができる。[/ref] 、三・一一以後日本文学が見出した「根拠」は、必ずしも敗戦直後の廃墟のなかで戦後文学者たちが見出したものにのみ頼るものではあるまい。新しい根拠探しは、何よりも先に三・一一以前と以後との違いをきちんと見分けることから始まったことを忘れるわけにはいかない。周知の通り、福島事故以後日本の変化を誰より早く前景化して注目された文学作品は、川上弘美の『神様2011』であった。一九九三年のデビュー作『神様』に三・一一以後の変化を坦々と書き込んだこの作品において、その変化とは次のように示される。

「今日は本当に楽しかったです。遠く旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。それから干し魚はあまりもちませんから、めしあがらないなら明日じゅうに捨てるほうがいいと思います」
部屋に戻って干し魚をくつ入れの上に飾り、シャワーを浴びて丁寧に体と髪をすすぎ、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被曝線量を計算した。今日の推定外部被曝線量・30uSv、内部被曝線量は19uSv。年頭から今日までの推定累積外部被曝線量・2900uSV、推定累積内部被曝線量・1780uSv。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。[ref]川上弘美『神様2011』(講談社、二〇一一)、三六頁。[/ref]

一九九三年の『神様』において川上は、日本人の日常生活において失われつつも、なお存在する神の存在を、とても可愛い熊を通して坦々と可視化した。それに対して二〇一一年の彼女は、非可視的な「神様」と共にした素敵な体験を終えて現実に戻ってきたという実感を、まるで今日使った金を家計部に綴るかのように、眠る前に書く日記のなかに書き込む、これもまた同じく非可視的な存在としての放射能の数値を通してたしかめる。この作品において三・一一以後の「現実」とは、このように非可視的なものの可視化が「日常化」される世界として表象されているのである。
このことは、三・一一以後日本人における「リアル」の変化をもっとも端的に示してくれる。というのも、放射能が日本人の実際の行動を決定する際に一つの根拠になっていたからである。実際に福島原発から二〇キロ程度離れた南相馬市で、98歳の老母とアルツハイマーにかかった家内、それから2歳の孫娘と共に住んでいた佐々木孝は、事故直後政府の避難勧告を拒んでいながらも、自分のブログ「モノディアロゴス」に放射能の数値をちゃんと記入していた[ref]佐々木孝『原発禍を生きる』(論創社、二〇一一)[/ref] 。これまで耳にしたこともないシーベルト(Sv)で表示される数値こそが、九八歳の老人と二歳の孫娘の避難可否を決める決定的な根拠だったためである。この数値は依然として福島県に居残っている幼稚園児や小学生の野外活動可否を決める根拠であったが、一方では「危機が統制されている」と主張する国家の偽善と臨界点を浮き彫りにする決定的な根拠資料でもあった。例えば高橋哲哉が、弱者に犠牲を強制する国家システムを批判するための根拠資料として提示したのも、政府が国民を安心させるために福島県の幼稚園児や小学生の野外活動のため、大幅に「緩和」したとてもなく高い年間被爆基準量であった[ref]高橋哲哉『犠牲のシステム』(集英社、二〇一二)、二八項。[/ref] 。川上もやはり、「強力なウイルス以上にあっけなく生物を滅亡へ追い込む可能性」を一種の「リアル」とみなし、原子力発電所がない世界のために積極的に社会にコミットすると決めるようになった[ref]川上弘美「3・11とデビュー作書き直し」(『サンデー毎日』第九〇巻第四七号、二〇一一)二三頁。[/ref] 。
これまで耳にしたこともない数値が、このように「現実」を動かせる強い根拠として認識されたのは、広島・長崎、そしてビキニ環礁で操業中であった第五福竜丸の被爆経験が一つの強力な「根拠」となったためである。むろん、戦後日本においてこの三回の経験は、永い間単に「一部の人々だけの現実」にすぎなかったし、こうした傾向は福島原発事故以後の日本社会においても当てはまるかも知れない。すなわち、 経済成長の神話を維持するために豊かな暮らしをもたらす肯定的なイメージとして原子力を表象し直そうとした日本政府の努力のもとで、二〇世紀半ばの被爆経験は長い間ただ「一部」の人々だけの経験に縮小され、非可視的なものとして言説の彼岸に置き去りになっていたことと同じように、福島事故以後故郷を離れ、避難生活をしている約一六万人の地域住民の姿は、二〇二〇年東京オリンピックという新しい「夢」によって遮られ、見え難くなっている。こうした状況のなかで文学は、「一部の経験」を可視化し、それを根拠として「みんなの現実」を動かせようとしているのである。
むろん、事故以後にも多くの日本人の日常がなかなか変わっていない現在の状況のなかで、文学による放射能に対する可視化は、現実的だというよりは、例示的であり、超現実的な傾向が強いと言わざるを得ない。このことは放射線がもたらす被害が直ちには現れないためだけではない。それよりもっと根本的な理由は、福島事件以後避難民と政府の避難勧告命令を拒んでその地域に居残った人々における「いま・ここ」の経験が、いまだ文学の言葉として生成されていないためであろう。戦後広島・長崎の被爆経験に対する本格的な文学的記録がやや長い時間を経てやっと可能になったように、「超現実的な経験」のリアリズム的な書くことは、逆説的にも時間的な経過を要するかも知れない。
こうした状況のなかで実際に福島の経験に基づいて「現実」を変えたのは、日本ではなく、ドイツであった。ドイツは福島原発事故をきっかけに、もっぱら科学者のような少数の人々にのみ「可視的」であった原子力の危険性と不完全性をすべての人々に明らかにし、さらに二〇一一年五月、二〇二二年までにドイツ内すべての原子力発電所を廃止するという歴史的な決定を下した。こうしたドイツ政府の決定は、歴史上の否定的な事件こそ、単純な歴史の例外ではなく、むしろ新しい歴史を開く一つの準拠点となるということ、言い換えれば新しい歴史は、これまで歴史の「進歩」において一つの誤りや例外的なものにすぎないと認識されやすい事件を、現在の「知」の限界をさらす指標であり、かつ未来の「根拠」として定礎できる限りにおいてのみ初めて可能になる、ということを示してくれる。こうした意味においてそれはまさしく「歴史的な決定」であると言わざるを得ない。

 

三.再び死者の声を聞く

 

ところで、放射能数値に対する絶対的な信頼は、戦後日本を支配している一つの構造的なアポリアを露呈させる。つまり一つの科学(原子力発電所の安全性と経済性)を否定するために、もう一つの科学(個人の命の危険性を示してくれる放射能測定器)を頑なに信頼するしかないというアポリア。絶滅武器である核の「平和的な利用」を唱え始めた瞬間にすでに、日本人は「科学という名の下で行われる近代性」という構造のなかにより強く拘束されてきたのである。では、こうした拘束に対し文学はどう対応できるのだろうか。
実は三・一一以後の日本文学の特徴は、可視的なものと非可視的なものとの区別を、もう「科学の合理性」にのみ委ねないように試みるという点にある。その代表的な例が、津波によって亡くなった方々の声をラジオ電波にして流そうとする試みで話題になった、いとうせいこうの『想像ラジオ』である。だがこの作品が注目を集めたのは、「非科学的」な死者の声を「非可視的」なラジオ電波という科学を通して「再現」するという発想の斬新さのためだけではない[ref]日本文学において死者の声を呼び出したのは、この作品が初めてではない。例えば芥川龍之介の「藪の中」(一九二二年)では生存者たちの証言が異なると巫女を通してでも被害者の声を呼び出したし、三島由紀夫の「英霊の声」では巫女を通して二・二六事件と太平洋戦争で亡くなった若き兵士たちの声を呼び出し、昭和天皇を批判する。巫女を通して死者の声を聞けると思うのは、前近代的な文化と相対できるかも知れないが、まさにそのために逆に可視的なものを中心とする文化に対する、強力な批判ともなる。『想像ラジオ』もまた、津波の映像を繰り返して「再生」するテレビとインターネットの動画という視覚媒体に対する批判的な省察が込められている。[/ref] 。より肝心なのは、非可視的なものを可視化しようとする文学的な営みに伴う倫理性に関する重大な問いを、書く人や読む人に同時に投げかけているという点である。
例えば災害地域でボランティア活動をしていると遺体の声が聞こえることもある、という話に対する、ボランティア活動のリーダー青年による次のような反応は、死者の沈黙に対する、今日ほぼ一般化された倫理を喚起させてくれる。

「遺体はしゃべりませんよ。そんなのは非科学的な感傷じゃないですか。(…中略…)俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。亡くなった人への慰めの気持ちが大事なのはよくわかるんですけど、それは本当の家族や地域の人たちが毎日やってるってことは体育館でも仮設住宅でもいくらでも見てきたじゃないですか。段ボールで位牌作ってでも、皆さんは鎮魂をしています。
その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きてる人の手伝いが出来ればいいんだと思います。[ref]いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社、二〇一三)、六四頁。[/ref]

遺体の「声」の可能性を、「非科学的な感傷」として相対化し、「生きている人のことを第一に考えなくちゃいけない」というこの青年の主張は、遺族に対する支援が目的であるボランティア活動のリーダーの立場としては正当である。だがこのような論理こそ、悲劇的な大惨事に対応したきた国家のそれと重なるという点を見逃してはいけない。逆に言えば、上の引用を通して私たちは、国家が如何に自らの責任から逃れるのかがたしかめられる。つまり国家(或いはこれに準する権力集団)は、死者の声に耳を傾けようとするもっとも人間的な行為を、「非科学的な感傷」として斥けるか、或いは犠牲者の遺族という存在を死者に対する共同体次元の哀悼不可能性の指標として利用するか、どちらかによって、自らの責任を回避できたのである。
むろん、近代国民国家は国家のために犠牲した者を共同体の次元で記憶しようとするし、その遺族に対しても哀悼の念を表してはいる。しかし、国家政策の失敗のせいで犠牲になった人たちに対する対応はどうだろうか。戦後の日本政府は、広島・長崎で亡くなった方々に集中される視線に負担を感じるアメリカの提案を受け入れ、その視線を「未来」へ向けさせようと「原子力の平和的な理由」を目的とする原子力発電所を積極的に導入した。こうして原子力発電所を推進した日本政府が、広島・長崎で犠牲になった人々に対する責任を認めたのは、被曝からほぼ五〇年が過ぎた後のことであった。実は死者に対する忘却の対価がいかなるものだったのかということについては、福島原発周辺だけではなく、津波によって廃墟となった東北の海岸沿いの地域を通してもたしかめられる。そこの神社が高いところに位置することそのものが後世に伝える一つのメッセージであることに、震災後の人々は改めて気づくことになったのである。
三・一一以後のことが描かれている『想像ラジオ』において一九四五年八月の広島・長崎だけではなく、同じ年の三月の東京大空襲が短いながらも強く言及されているのも、まさにそのためである。共同体の安全は、共同体のために犠牲された人々だけではなく、むしろ共同体によって犠牲になった人々の、歴史に書き込めない「声」を通してのみ担われ得るということを、三・一一が喚起させてくれたからである。よって、三・一一以後の文学は、それがたとえ「非科学的」であるとはいえ、死者の声を聞くのに迷わない。例えばそれが次のような呪いと文句でいっぱいだとしても。

亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ、とおやじさんが仕事帰りに植木道具を置きに行くと奥の座敷から廊下に出てきて茶碗酒片手で俺によく言うんだよ。叫び声が町中に響き渡ったはずだし、悔しくてどうしょうもなくて自分を呪うみたいに文句を垂れ続けたろうし、熱くて泣いて怒って息を引き取るまで喉の奥から呻き声あげたんだぞって。[ref]いとうせいこう、六六頁。[/ref]

もちろん、 いとうせいこうが「DJアーク」という死者が行うラジオ番組に、呪いと悔恨といった否定的な感情を込めた声のみが流されるわけではない。この死者は突然訪れた自分の死を認知し世間と国家に対し強く怒っていたものの、その番組のほとんどは、震災に巻き込まれたすべての人々の安否を心配するか、自分の家族に対して生きているあいだ自分が犯した些細な過ちについて許しを求めるような内容である。
とはいえ、作家がせめて非常に少ない紙面を通しても、死者が「無言であの世に行った」と考えてはいけないと語っていることを見逃してはいけない。こうすることによっていとうは、今日日本人の「知識」が、多くの死傷者を出した事件を「まるで何もなかったようにフタをしてい」き[ref]いとうせいこう、一三二頁。[/ref] 、もっぱら生き残った人々(或いは生き残れる人々)にのみ焦点を合わせることによって悲劇的な事件が繰り返されるということを強く批判し、「死者」の声を通して「生」の再生を図ろうとするのである。

 

四.これから生まれてくる子どもたちのために他者の倫理を受け入れる倫理へ

 

このように死者に対する対話の試みは『想像ラジオ』だけに限らない。すでに故人となったエドワード・サイードの『晩年のスタイル』(on late style)を、作品題目を通しても共有しようとする大江健三郎の『晩年様式集』(in late style)こそ、現在日本人が忘却している死者との絶え間ない対話をもっとも積極的に行っている作品であると言えよう。というのも、その死者に、晩年の友人であったサイードや自分の母親、精神的な師匠、自殺した義兄だけではなく、以前作品に登場したいわば「カタストロフィの最中で自爆し」た登場人物までも含まれているからである。
むろん、大江にとってこうした試みは初めてではない。六〇年代の重要作品はもちろん、二〇〇〇年代に発表された『取り替え子』から『水死』までの一連の作品のなかで、大江はまるで「一つの習慣」であるかのように死者と対話を交わしその痕跡を文字化してきたし、と同時にこうした試みの倫理性についても、長らく作家の陰(あるいは抑圧)に隠れてきた他者(あるいは家族と遺族)の視点を設けて反省的に考察してきた。こうした作品傾向は、とりわけ二〇〇〇年代以後発表された作品において著しく表れるけれど、このことは同時期の社会的・個人的な変化とかかわっている。つまり長らく自分たちの理念であった「戦後民主主義」にまさしく礎ともいえる憲法9条を変えようとする政治的・社会的な危機と、生理的な老化が伴う個人的な判断能力の危機に直面していた作家は、他者の視点を積極的に導入すること(書くこと)を通して、それを乗り越えようとしてきたのである。
二つの危機に直面し、それと戦おうとする大江の「晩年スタイル」は、「日本の戦後民主主義世代のカタストロフィ」を本格的に取り扱っている『晩年様式集』においても続いているが、例えば福島原発事故以後、大江が呼び掛け人の一人として参加している「原発ゼロ」運動において発したことばに対する妹の批判は、大江の危機とそれを乗り越えようとする努力をよく示してくれる。つまり二〇一二年七月一六日、東京代々木公園で開かれた「さよなら原発十万人大会」にて大江は、日本プロレタリア文学者である中野重治の「春さきの風」といった短編小説を引用し、「私らは屈辱のなかに生きています」という、非常に印象深いことばを残したけれど、その過程において彼はまるでこの詩が中野の実際体験を「再現」しているかのように語る過ちを犯してしまったことを、その大会に一般人として参加した妹が批判しているのである。
ここで大江の些細な誤りとそれに対する批判を取り上げるのは、ここにこそ二〇〇〇年代以来の大江の作品を理解するための一つの鍵があるためである。こうした場面を通して大江は、現代日本において自分を含んだいわば「戦後民主主義世代」に対する信頼性が落ちっているということを前景化すると同時に、それにもかかわらず自分が犯した過ちとそれに対するいかなる批判をも隠せずに記していく姿勢を最後まで貫くことこそ、まさしく「戦後民主主義」であることを強く喚起させようとするのである。
ところで、大江にとって何よりも大事な「戦後民主主義」とは、実は次のように他者の倫理を受け入れることに躊躇わないことでもある。

三・一一後、すぐにドイツは「源発利用に倫理的根拠はない」として、国の方向転換を始めました。わが国でいま、「倫理的」「モラル」という言葉はあまり使われませんが、ドイツの政治家だちは、次の世代が生き延びることを妨げない・かれらが生きてゆける環境をなくさないことが、人間の根本の倫理だ、と定義しています。この国の政権が、その行動の根拠に、政治的、経済的なものしか置いていないのと対比してください。[ref]大江健三郎『晩年様式集』、講談社、二〇一三年。三一一〜二頁。[/ref]

いまから七〇年前、大江はすでに一度他者の倫理を受け入れたことがある。その他者の倫理がまさにアメリカによって起草された日本国憲法における「すべて国民は、個人として尊重される」という条項で可視化される「民主主義」であるということはよく知られている。大江はこうした他者の法を「根拠」とし、広島と沖縄の人々から、自分の息子のような障害者、在日外国人に至る、すべての人々の人権を擁護してきたし、自らの霊魂も救済しようとしたのである。そしていま、大江は広島と福島に代表される日本という他者の経験を、自分の倫理的な「根拠」としたドイツ政治家たちの倫理を、また自分の新たな倫理的な「根拠」とすることを決意する。
しかしこのような倫理的な「根拠」の移動を決定づける「根拠」は又何であるのか。『晩年様式集』の最後を飾る大江の長詩はこれをよく示してくれる。日本人自らが創り真理として信じてきた「皇国思想」が、敗戦によって崩れた日、生徒の前で「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ校長の姿を見た大江少年は、もう学校には行かず森に入って「自分の木」のもとで「私は生き直すことができるだろうか!」と問い続けていた。そんなある日、森で滑り傷だらけになってやっと帰ってきた彼に対し、母は次のように語っていたという。

傷だらけの 私を裸にし、
自分で集めた薬草の
油を塗ってくれながら、
母親は嘆いた。
子供たちの聞いておる所で、
私らは生き直すことができない、
と 言うてよいものか?
そして 母親は私に
永く謎となる 言葉を続けた。
私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。[ref]大江健三郎、同書、三二七〜八頁。[/ref]

大江が七〇年をかけてやっと辿り着いたこの謎めいたことばに対する答えを、いまここでわずか何行の言葉で解明することは恐らく不可能であろう。だが少なくとも私たちは、大江の倫理的な判断の根拠が、自分が亡くなるとはいえ、死者としての「私の言葉」をその一部として分有できる「私ら」に対する強い信念と深くかかわる、ということだけはわかる。そしてここでいう「私ら」とは、すでに亡くなった人よりは、まさにいま生まれたばかりの、又これから生まれてくる子供であり、彼らに向けられ、呼びかけられている言葉であるということを。

 

5.「以後」の想像力—破壊された言葉の世界

 

『晩年様式集』以後大江がもっぱら日本人の「未来」のために反原発・反改憲デモの最先鋒で活躍するとき、すでに原発廃止を決めたドイツで滞在しながら、両国の言語で作品活動をしていた多和田葉子は、大江がもっとも心配している又別の地震が起る場合を仮定する、ディストピア小説「不死の島」を発表する。二〇二三年ある日、ドイツのある空港の職人が、日本国籍のパスポートに手を触れようとはしない場面から始まり、日本の「情けない」過去(もちろん、私たちにとっては未来)が徐々に回想される形で進行していくこの作品で、日本の近未来は次のようなシナリオでカタストロフィを迎える。
「フクシマの恐怖は終わった」と言われ始めた二〇一三年頃、テレビ番組で或る男が登場し、天皇のお言葉を名乗って原発廃止を訴えてからまもなく、天皇と首相が公けの場で姿を消し、二〇一五年ついに日本政府は「Zグループ」と名乗る集団によって民営化される。そのときから日本から世界へ発信されるすべての通信は断絶され、二〇一七年太平洋地震が発生して大型の津波によって首都圏が呑み込まれる場面は、衛星を通して辛うじて接することができる。ドイツで日本にいる家族のことを心配する「わたし」は、アメリカで手に入れた本を通して日本の現状況を推測するしかないけれど、それによればこの地震で新たに爆発した四機の原子力発電所で漏れた放射能物質によって老人たちは亡くなる能力を失ってしまう反面、子供たちはみな病んでいて、もう「若い」というのは「若さ」を意味し得なくなる。小説はそのような世界で最近流行っている一つのゲーム(太陽電池で動くゲーム機でプレイするという)を次のように紹介することで終わる。

恨みを持って死んだ人たち、言いたいことを言いそびれて死んだ人たち、そういう死者たちの亡霊の語る理解しにくい言葉や断片的な妄想をうまく並べて一つの物語を作って、彼らにふさわしいお経を選んでやると、亡霊が成仏して消える、というゲームなのだが、消しても消しても新しい亡霊が姿を現すのはどういうわけか。それでも気を失うことなく遊び続けた人がこのゲームに勝ったことになるのだが、「勝つ」という言葉の意味を覚えている人もほとんどいなくなってしまった。[ref]多和田葉子『献灯使』講談社、二〇一四年。一九九頁。[/ref]

ここでは、先ほど触れたいとうせいこうの『想像ラジオ』のように亡者に対する怨恨が言及されてはいるものの、すでに亡くなった者に対する哀悼を一種のゲームに比喩されている。こうした表現は、死者に対し哀悼すぎる雰囲気を批判的にとらえるかのように見えるかも知れないけれど、しかし多和田にとって上記の表現は、いまの日本にとってはすでに亡くなった者に対する哀悼より、もう一度大地震が起る前にドイツのように原発を停止させることが遥かに緊急な課題として認識されていたことを示してくれるものである。もし原発が停止しない状況で大地震が再び起るとしたら、その時はいま亡くなった者に対する「哀悼」ということばが、ことばそのものとして何の意味もなし得ないほど、死者で溢れるからである。そのときの「哀悼」は、まるでアウシュヴィッツでそうだったように、まさしく単純な機械的な反復という意味としての「ゲーム」にすぎなくなるはずだ。とすれば、そのとき、果たして大江的な意味としての「私ら」は存在できるのだろうか。
「不死の島」の後で発表された『献灯使』を見る限り、原発事故で廃墟となった大地で「私ら」の持続はできないと言うしかない。前作において日本列島から遠く離れた視点で描いた日本の近未来の姿を、内側からより繊細に描き出したこの作品において、日本は鎖国を決めた民営化政府の統治のもとですべての外来語の使用が禁止された空間として表象されている。これまで何の違和感もなく使われた「ジョギング」ということばさえ「駆け落ち」に置き換えられた世界で、死ぬ能力を失って百歳を超えても犬とジョギングできるほど健康な老人義郎における外来語にまつわる記憶が、大震災以後閉ざされた日本に生まれ、カルシュム不足で「蛸のように歩」く曾孫である無名に自然な形で共有されるはずがない。汚染された大地によって生じた身体上の「現実」の違いは異なる世代のあいだに言語の意味内容の共有を妨げるし、言語の意味が持続されない限り、恐らく死者とともに創っていくしかない「私ら」も不可能であるはずだから。さらに鎖国は先ほど触れた現代ドイツ政治家たちの倫理のような、他者の倫理を受け入れる可能性を徹底的に封印する。こうした世界こそ、大江が語れなかった戦後日本のカタストロフィのもっとも悲劇的な像ではなかろうか。
要するに多和田にとって原発事故による放射能の流出は、単に血液と遺伝子の破壊で終わるのではなく、異なってくる身体感覚によって共同体の根拠となる言語の共有を破壊する事件として認識されているのである。ことばを操る小説家であるだけに、多和田は放射能という「現実」が言語を破壊する前に、まだ破壊されていない言語の力で、このままだと来るしかない「未来」を生々しく見せつけることによってこれを回避しようとする。こうした多和田の戦略は、言語を通じて非可視的なものを可視化しようとしたという点においては先に見てきた作家たちのそれと似ていると言える。だがしかし、彼らが主に歴史の流れの中で忘却した過去を可視化しているのに対し、多和田はいまだ来ていない未来を可視化しているし、何よりもその未来が、「私ら」を維持するためのの最終的な根拠である言語のカタストロフィとして予感されるという点において特別である。

 

6.破壊された言語を如何に再生していくのか。

 

以上に見てきた三・一一以後の日本文学が描いてみせる「以後」は、セウォル号以後の韓国文学が描いてみせる「以後」と重なる部分が少なくない。
二〇一五年四月一〇日に開かれた細橋研究所主催のシンポジウム「セウォル号時代の文学」にて、評論家咸燉均(ハム・ドンギュン)は、韓江(ハン・ガン)の長編小説『少年が来る』(創作と批評社、二〇一四年)と李永光(イ・ヨンガン)の詩「修学旅行、行ってきます:幽霊六」を取り上げて、「同情と憐憫も共感も、さらには「記憶」さえも越えて、死—屍の“いま・ここ”に接触しようとする、精神の極限的な試み」が行われていることに注目していたが、これは前に触れたいとうせいこうの『想像ラジオ』の場合と似ている。こうした類似性は、両国の作家たちが共に、国家の声にうずめられた、「声無き声」を可視化する責任が文学にあるのに共鳴し、これまでやってみたこともない、深い哀悼の方法を各々の方式で試みていたことを示してくれる。ただ、いとうの方が死者の声をユーモラスで暖かく描いてみせるのに対し、韓国作家の場合その声のトーンは悲しみでいっぱいである。こうした違いは、両国の文化的な違いよりは、出来事や作家個人の性向の違いなどを顧慮し、さらに深く省察してみる必要がある。
何よりも、三・一一とセウォル号以後、両国文学において同じく言語が破壊されたと認識されている点はとりわけ目立つ。セウォル号沈没追慕詩集『私たちみながセウォル号であった』(実践文学社、二〇一五年)においてバク・チャンセは、二〇一四年四月一六日以後、「船員を船員と(…)/船長を船長と(…)/大統領を大統領と(…)/大韓民国を大韓民国と呼べられなくなった」(「よべられないものが多くなった」)と歌っているが、これは多和田における言語破壊に対する危機感とほぼ似ているような情動が韓国においてもリアルタイムで現実化されていたことを示してくれる。
ところで、言語的な感覚を共有できなくなった現実によってもたらされた言語破壊が、誰よりもセウォル号で亡くなった方々の遺族にもっとも深刻に現れているということは、遺族たちの声を採録した『金曜日には帰ってきな』(四一六セウォル号惨事市民記録委員会作家記録団、創批社、二〇一五年)を通してたしかめられる。だがそれは、この作業に参加していた作家キム・スンチョンが細橋研究所主催のシンポジウムにて語ったように、当初遺族の言語が「獣か怪物の声のように聞こえてき」たためでも[ref]ジョン・ホンス「セウォル号と文学の場」創批週間論評(http://weekly.changbi.com/)二〇一五年四月一五日。 [/ref] 、よってそうした「声」を、「採録」という過程を通してかろうじて「人間」らしく言語化できたためでもない。採録に添って遺族のことばを丁寧に読んでいくと 、彼らが事故当時自らの言語行為が果たして適切であったかどうかを何度も問い直す場面が注意を引くが、例えば二年四組み、故キム・ゴンウ学生の母親ノ・ソンザさんの次のような発話は、もっとも代表的な例となるだろう。

あきらめてしまうと、出て来たことがそれだけでありがたくて、感謝するようになりました。だから荷物を取りまとめながら言いました。「神様、ありがとうございます。感謝致します。帰ってきて、息子、ありがとう。」周りの人はみな羨ましがっていました。これが羨ましがるべきことなのか。でもそれが羨ましいのです、そこでは。そして互いに祝うのです。これが話になりますか。しかしそうしました。だから私は辛いわけです。なぜ私がこれに感謝しなければなりませんか? いったいなぜ? しかし感謝しますって、ああ、狂ってしまったのよ。何が感謝かよ。子供が死んで海から出て来たのに、何が感謝かよ。これこそ地獄ではないの。[ref]『金曜日には帰ってきな』、創批社、二〇一五年。二九〜三〇頁。強調は引用者による。[/ref]

事故後、ペンモク港にいた遺族たちは、時間が流れるにつれて、子供たちが死んでいても「帰ってき」たら、みな「ありがたく思い、感謝」した。こうした言語行為は、子供の遺体さえも見つからない親たちに対する、最小限の思いやりの表現であった。しかし亡くなった子供たちをつれてペンモク港から離れ、お葬式を済ませ、それから又多くの事件を体験しながら、そのときの「祝い」と「感謝」という極めて「人間的」な言語行為がむしろ、遺族にとって一種のトラウマになってきた。というのも、本当に非人間的な状況のなかでどうしてわたしたちはあえて「人間」としての品格を守ろうとしたのだろうか(それもそのように亡くなった子供のように!)と、反問せざるをえなくなってきたからである。このように自分の言語行為それ自体を疑う彼らの様子から、私たちは彼らと私たちの言語が如何に分節し、破壊されていくのかを、息を飲んで見守るしかないのである。
だがしかし、決して忘れてはいけないのは、そう反問する時点で彼らは「獣」か「怪物」であるどころかむしろ、誰よりも遥かに人間的になったという点である。「子供が死んで海から出て来たのに、何が感謝かよ。これこそ地獄ではないの」と、ノ・ソンザさんが言ったとき、このことばは現実に挫けられてでっちあげられたことばの使用を拒み、むしろ極めて常識で健康的な言語で破壊された現実をそのまま写っているのである。要するにこのことばは、「セウォル号事故は一気に三百名が死んで多く見えるものの、年間交通事故で亡くなる人の数を考えるとそう多いとは限らない」と言った公営放送局の報道局長のことばが隠した現実を、とても透明な言語で表すことによって、危機に落ちた私たちの言語を再生させてくれるのである。
したがって『金曜日には帰ってきな』は、単に遺族の破壊されたことばの記録だけではなく、言語再生の記録とも言える。つまり遺族たちは長い慟哭と沈黙の時間のなかで自ずとことば本来の意味に近づき、そこにできるだけ長く滞留することによってやっと歪んだ「現実」の姿を映し出すことに成功したのである。たとえそれがまだ完全な形での再生とは言えないとはいえ。
それにしても、これだけ完全に言語が破壊される瞬間を経験した彼らに、如何にそのような「再生」ができたのだろうか。
遺族の近くで彼らと共に泣きながら、それを待ち続けてきたという点において、「作家記録団」の存在を見逃すわけにはいかない。むろん、遺族とのインタビューという形式は、日本においてはかつての大江が広島と沖縄で、それからオーム真理教事件以来は村上春樹が試みたことがあるが、一人の小説家ではなく集団という形で行われたという点においてはっきり異なる。こうした集団による採録という形は洗練された文体を駆使する小説家の記録に比べて、一貫性に欠ける恐れはあるかも知れない。だがしかし作家記録団こそ破壊された言語の治癒は、もっぱらことばで「私ら」をつくっていくときにこそ可能であるといった大江の「箴言」にいっそう近づいたと言えなくもない。
しかし何よりも忘れてはいけないのは、遺族が示した言語の「再生」は、子供が残したことばを自分のことばの「根拠」とすることによって初めて可能だったということである。遺族が長い沈黙を破り、再び泣きながら吐き出したことばの根拠として子供のことばを丹念に提示したのは、決して偶然ではあるまい。自分の未来の扉が閉ざされていくのも知らなかったときに記されたそのことばのほとんどは、ことば本来の意味に充実し、愛と感謝と希望をこめた素直なことばであったし、こうしたことばの力は、ことばを失われた遺族のことばを再生させる、おそらく最後の、だったひとつの根拠となったはずであろう。そしてそれは遺族にだけ限るのはあるまい。例えば国語先生になりたかった故シン・ホソン学生が残した詩における、つぎのような問い掛けは、いまこの瞬間、私たちの問い掛けとして共有できるのではなかろうか。

鳥たちの巣になり得るところ
植物たちが集まって住めるところ
この小さな樹で何ものかは泣き笑ったはず
この樹を伐り落とそうとするきこりは誰か
それをやめさせない私らはなにものか
根方だけ残った樹は
水をやっても光をやっても無駄だ
思い出を守りたければ
樹を抱きしめて見てみろ[ref]同書、一三六頁。強調は引用者による。[/ref]

悲しみのなかでこうした問い掛けを共有し、その問い掛けに込まれた倫理的な要請を受け止めて、私の生の「根拠」とすることによって初めて「私たち」は、やっと「静かな海を/永遠に/一緒に航海」できるのではなかろうか[ref]セウォル号犠牲者故シン・スンヒ学生の詩「航海」。同書、七五頁。[/ref] 。

 

〔訳=南相旭〕