창작과 비평

大韓民国の「隠された犯罪」と在日同胞という主体

2015年 冬号(通卷170号)

 

 

金孝淳『祖国が捨てた人々』、ソヘムンヂプ、2015年

權赫泰(クォン・ヒョクテ/ 聖公会大 日語日本学科 教授)

 

 

「暗数犯罪」(hidden crime)という言葉がある。「隠された犯罪」と言った方がわかりやすいが、辞書的には「実際に起こったが司法機関に認知されずに公式統計に集計されない犯罪」という意味である。犯罪学や犯罪統計によく登場する概念である。暗数犯罪を完全に根絶することは、もちろん不可能である。しかし司法機関の犯罪認知範囲を拡大し、被害者の声を「光のあたる領域」に引き出す努力によって「暗闇の領域」を減らせば、社会の健全さは増える。もちろん、こうした論理は司法機関、すなわち国家の「健全さ」が前提されていてこそ可能である。もし国家が「健全」でなければ、さらには犯人すなわち加害者が国家であるとすれば、どうなるだろう? 国家が犯罪行為の主体となり統治領域に属している人に拷問を加えたりその人を監獄に閉じ込めたり、ひどくは死刑にまで処したのに、その犯罪は未だ認知領域の外側、すなわち「暗闇の領域」にあるとすれば、どうなるだろうか?

じっさい、我々はこのような事例を数え切れないほど知っている。日本帝国主義の時代や反共軍事独裁政権時代に、いわゆる「国家」が主体となって起こした事件のせいで発生した数限りない人々の悔しさに接する時、暗数犯罪という言葉は、犯罪学の用語とは違ったコンテクストで思い浮かぶ。このうち最も極端な事例は、1970~80年代に起こった在日同胞政治犯事件である。母国語と母国文化を学ぶために玄界灘を渡って来た100人以上の在日同胞が、国家犯罪の犠牲者となって「スパイ」に「仕立て上げられた」。彼ら・彼女らは孤立無援の状態で当時の中央情報部、保安司、法廷が振るう野蛮な「国家暴力」を前に、想像もできない苦痛を味わった。

彼ら・彼女らの声が少しずつ聞こえ始めたのは「手続き的民主主義」が定着してきた1990年代以降である。国家の暗数犯罪を裁くためのさまざまな努力が制度的に形をなすようになり、これを「移行期の正義」という名のもとに「過去事清算」と呼ぶ。このころに作られた多くの「過去事委員会」が法的真実を明らかにし、当時の国家の「悪行」が間違いだったことを明らかにしようとした。不十分ながらもその結実は新聞記事などをつうじて少しずつ伝えられもしたが、これを体系的に整理し伝える作業は考えたほどには進まなかった。

しかし在日同胞政治犯事件に限っては、最近、意義深い二つの事があった。一つは在日同胞政治犯事件の「真実」を掘り起こした金孝淳の『祖国が捨てた人々――在日同胞留学生スパイ事件の記録』が出版されたことであり、もうひとつは本書の出版を契機に10月19日に「我々はなぜスパイになったのか?――在日同胞政治犯事件にみる韓国社会と在日同胞の生」という討論会が開かれたことである。在日同胞政治犯被害者の康宗憲、金元重、金整司が当時の状況と現在の心境を堂々とした口調で「証言」したその席は、金孝淳の本とともに国家の暗数犯罪を暴露し、そうすることで彼らの悔しさを「光のあたる領域」に引き出そうとする試みであった。

とすると、在日同胞政治犯事件をいかに見るべきか? かつて民青学連事件で投獄されたことがあり、言論社の日本特派員を経験した著者の金孝淳は、同書で「在日同胞の特殊な位置」、分断、日韓公安機関の癒着、金大中拉致事件など、数々の要因を複合的に見なければならないと語る。本書はこの点に非常に忠実だ。綿密な調査によって具体的な事実を再構成し、関連してほとんど「無知」に近い韓国の読者に在日同胞政治犯事件の真実を伝える。この意味で本書には二つの読み方がある。一つは反共軍事独裁政権下で犯された最たる人権弾圧の事例についての忠実な証言集として、もうひとつは在日同胞について「知っているようだが実際には何も知らない」韓国社会の無知を暴き、在日同胞についての理解を助ける入門書として。この二つの読み方は「我々」にただならぬ問いを投げかける。とりわけ後者の問題は在日同胞という存在が朝鮮半島に暮らす人々の歴史とどのように絡み合っているのかという問題に関連する。

もちろん、在日朝鮮人への関心は韓国社会では低いとは言えない。しかしながら印象的なのは、韓国社会で「生産」される在日同胞の存在は、ただただ日本の民族差別の対象であって、これを韓国社会と関連した問題であると認識する傾向が薄いという点である。在日同胞問題に対する一種の「外部化」戦略である。「我々のなかの在日同胞」として見る、すなわち在日同胞問題を内部へと引き込もうとする視点がとても弱いのである。評者はかつて書いた論文で解放後の韓国社会では在日同胞に対して、韓国語を話せない「パンチョッパリ(半日本人)」、朝鮮総連などから連想される「アカ(共産主義者)」、そして経済大国日本の資本主義を背景とした「金持ち」というイメージが作られており、こうしたイメージはそれぞれ「民族」「反共」「開発主義」という三つのフィルター(回路板)が作動した結果であると問題提起したことがある。

金孝淳の本は、反共というフィルターがどのように作動して在日同胞を「アカ=スパイ」に仕立て上げるのかを「我々のなかの在日同胞」という視点から分析するものであると思われる。だとすれば、著者のその問題意識を在日同胞政治犯事件が韓国社会に与える含意というレベルでどのように押し広げるべきか。これは一言でいえば、彼ら・彼女らを国家の「犠牲」になった受動的存在としてではなく、歴史に介入しようとする「主体」として位置づけることができるのかという問題である。事件の悲劇性を強調するために反共政権の暴力性に無知だったという純真さを強調し、彼ら・彼女らの選択を没主体的なものだとみなす瞬間、彼ら・彼女らが母国留学を決意してそれを実行に移すとき、また、危険を認知していながらも韓国に住み続けようとするとき、あるいは過去事委員会の調査に応じて自身の経験を証言したり再審請求によって無罪を主張するとき、彼ら・彼女らが恐怖と苦悩のなかでも一貫して捨てようとしなかった主体性の回復への渇望が、隠されたりなおざりにされる可能性があるということである。

彼ら・彼女らの決断を歴史、すなわち故国の民主化と統一に介入しようとする/介入した個人あるいは在日同胞社会の主体的努力のひとつとして位置づけることはできないだろうか? これは在日同胞政治犯事件を、狭くは韓国の民主化運動史に、広くは朝鮮半島の現代史に、さらに広くは社会運動史の世界的様態のなかに、どのように思想的に位置づけることができるのかという問題でもある。この作業が大韓民国の「成功」(政治的民主化と経済成長の同時達成)という結果に合わせて、「純粋な」民主化運動を選別するかたちで「過去」を加工・解釈して大韓民国という時空間の「汚点」を取り除くための「自負の戦略」になってはならない。加えて、「自負の戦略」に在日同胞政治犯の復権が利用されているとすれば、これは彼ら・彼女らの主体的決断を「没主体的」なものにしてしまう結果につながる。

スパイを作り出したメカニズムは今になっても大きく変わっていない。かつては在日同胞だったとすれば、今はセトミン〔北から脱北してきた定住者〕などへとその対象が変わっただけである。すなわちそのメカニズムは今なお生きているのである。だとすれば、歴史に介入しようとした主体も生きているとはいえまいか。在日同胞政治犯事件から学ぶことは、大韓民国の領土の外側にも、歴史に介入しようとする主体が生きているという、いまさらめいた気づきである。

 

翻訳:金友子(きむうぢゃ、立命館大学言語教育センター嘱託講師)