창작과 비평

マイノリティーの目で韓国社会をみる④: 「脱北者」を越えて

2016年 冬号(通卷174号)

 

 

李向珪(イ・ヒャンギュ): 漢陽大学校エリカキャンパスグローバル多文化研究院研究教授。共著に『私は朝鮮労働党員であるよ:非転向長期囚、金錫亨の口述記録』、『北朝鮮教育60年:形成と発展展望』などがある。
hyangkue@hanmail.net

 

 

誰も私にかまわないのに、外に出るといたずらに委縮される。それで近所のスーパーマーケットに行く際も軽く化粧をし、香水も少しふりまく。ここに来てから家族みな体重が減った。念のため薬局に駆虫剤を買いに行った。陳列棚に薬が多かったが、駆虫剤を探しにくかった。店員に聞いてみるといいが、話せなかった。人々がどう思うか気になった。そこでそのまま帰ってきた。たまにわけもなく心細くなる時がある。私はまだここが不慣れであり、私を眺めるか否かに関わらず、他の人々の目を意識することとなる。

娘たちは学校から家に帰ってくると、床に就くまで韓国語でひっきりなしにしゃべる。韓国の歌を歌い、ハングルを読み、夕食は韓国の食べ物を食べる。娘たちより遅れてここに着いた私は、娘たちがここの生活にうまく適応していることを望んだ。友達も付き合い、学校の勉強もよくでき、ここの食べ物もよく食べて、ここの人々とよく話し合うことを期待していた。ところが、娘たちは友達がいなかったし、韓国の食べ物を食べたがり、ぜひ必要な場合ではないと、家の外へ出たがらない。私は内心心配しながら、今日も娘たちと韓国の音楽を聴き、韓国の食べ物を作って食べる。

私は近所のスーパーマーケットで安いものもクレジットカードで買う。自分の名前の三文字を署名するその瞬間が好きだからである。名前を書く瞬間、私の前にいる店員にこう語る気がする。「あなたが見ている私が私の全部ではありません。私はここに来る前にあなたが知らない多くの経験をしましたし、今はわが生の一瞬間に過ぎません。私はあなたが今見ているより大きいです。」そのようにハングルで自分の名前を
書いたら、買い物籠を持った手に力が出るし、足取りが堂々となる。

自分の国で繰り広げられた惨憺たる人権侵害について書いた文章を、立ち遅れて読んだ。無辜に死んだ生命、十分に悔やまれ得なかった若い霊魂たちが思い出されて気が重かった。家を出て街を歩いた。眩しい日差しの下、それぞれ住んでいるここの人々は生の悲痛さについて何も知らずに、豊かでのんびりと暮らしているように見えた。私がここに属していないような気がした。この人々と私とはいかなる共通の記憶を持っていないということに、そして私はこの人々が楽しむ豊かさと余裕に寄与したところがないということに気付いた。それでこの社会が素敵ではあるが、自分のものではなさそうに思えた。

私は去る夏にイギリスの小さな海辺の都市に移住してきた。夫と子供たちが二ヶ月前に先に来ており、私は韓国での仕事と家を片付けてから合流した。2002年にロンドンで暮らしたことがある。その際、夫の故郷であるここでうまく定着できるだろうと信じていたが、思ったより容易くなかった。わずか2年後に二人の娘を乳母車に乗せて、逃げるようにイギリスを発った。韓国で私たちはそれなり一生懸命に暮らしたし、何よりも子供たちは、たとえ学校では「多文化学生」と呼ばれたが、韓国の子供としてよく育ってくれた。そして、12年振りに再びイギリスに帰ってきた。

韓国で私はずっといわば「脱北青少年」と「多文化青少年」の教育と社会適応を手伝う仕事をした。韓国ではこのように他の文化から移住してきた人々を、多様な名で分類し、区別付ける。もう私と子供たちは、韓国の政策用語を借りるならば、「結婚移住女性」と「中途入国青少年」となって夫と父親の国へ移住してきたわけである。すると、これまで韓国で私が「彼らのために」行なったことが「彼らの立場から」再び見え始めた。

 

一番目の物語―視線

 

私が他人の視線に縮み上がる際、それは実際に他人が私をそう見ているためなのか、それとも他人が私をそのように見るだろうと私が考えるためであるか。私はこの点が気になった。なぜならばここでは誰も私を眺めていないということに、ある日気付いたからである。そこでもしかしてその漠然たる「他人」は誰なのか、その視線はもしかして自分が作り出したものであったり、自分が増幅させたものではないか、疑惑を持つことになった。

実際にここの人々は他人に対してあまり関心がなさそうに見える。街頭にはあらゆる特異な服装と行動をする人々がいるが、自分に害を与えない限り別に不便な視線を送ったりはしない。体中に刺青をした人、短いスカートに羽根のついた帽子をかぶったお婆さん、スキニージーンズをはいたゲイカップル、公園に横になってキスする恋人……皮膚の色や外観の異なる数多い種族が街を共有している。韓国では振り返ったり、からかったり、舌を鳴らす人がありそうだが、彼らがどうともなく街を闊歩する状況は、まもなく私に妙な気安さを与えた。その気安さが私に来たした些細な変化は、真夏中、袖のない服と半ズボンをはいて街に出ることであった。それは韓国ではやってみなかったことである。私の歳に、私の体つきでそう着ると、「迷惑」だと人々が見なしそうだった。服を着ることが一体なんだと、韓国にいる時はそれがそんなにも難しいことであった。一度も日差しに晒されなかった肩が黒く日焼けした。その些細な自由が私の体の緊張をほぐした。

そうするうちに嫌疑が強くなった。私がここに来て感じた他人の視線は、実際ここの人々がアジア人を眺める視線というよりは、長い間韓国社会で暮らしながら学習した、それで結局ここにまで持ってきたわが心の中にある他人のレンズであるかもしれないということを。少なくともそのレンズが私の萎縮感を増幅させうるということを。韓国社会は私に絶え間なく他の人の視線に敏感でいることを教えたし、私はそれをあたかも自分の考えのように真面目に受け入れたようだ。他の人の視線に合わせながら多数に属しているという安堵感を感じる間、いざ「私」は萎縮していた。

夫はここで語学研修に来たいろんな国の学生たちに英語を教える仕事をする。ヨーロッパ、南米、中東から来た若い学生たちに教えながら、去る12年間教えていた韓国の学生たちがどれほど謙遜で誠実であったかが改めてわかったという。一生懸命がんばらないと不平を鳴らした芸体能大の学生たちにすまない気がするんだと、韓国に長く暮らしながら誠実さの基準があまりに高くなったようだと反省する。それから韓国の人々はもう少し自信感を持っていいと言う。中学校に通ううちの子供たちも韓国ではまったく自慢することではないのに、ここの子たちはすごく自慢すると言う。言われてみれば、われわれは自分の遂げた小さい成就を充分自慢したり祝う前に次の目標を立てる、そうしてその遥かな決勝点の前で再び小さくなる経験をあまりに長い間繰り返したようだ。それで自分を自慢することが、自ら優れていると思うことが恥ずかしいことになってしまったようだ。私は決勝点の前で常に「より熱心にすべき」存在である。悲劇は、その決勝点は私が決めたものではないという事実である。そこでわれわれは常に自らを足りないと思いながら、絶え間なく搾取したようだ。そして、自分を抑圧していた視線でもって同じく他人を眺め、評価し、抑圧することによって、その搾取のメカニズムに被害者でありながら同時に加害者として参加してきたのではなかろうか。

イギリスには北朝鮮の難民たちが数多く住んでいる。ニュー・モールデン(New Malden)という韓人密集地域には韓国の人、北朝鮮の人、朝鮮族が混ざって住む。まさにコリアタウンである。北朝鮮の人だけで1000名位いるという。ニュー・モールデンに住む北朝鮮の人を何年前に会ったことがある。彼女は韓国で住んでからイギリスに来ることになって、同じような境遇の北朝鮮の男性と結婚して息子と共に住んでいた。夫はスーパーマーケットで働くが、勤勉だと認められてもうすぐマネージャーになるという。シリア、アフガン、ソマリア、スーダンの難民に比べると、北朝鮮の難民はものすごく勤勉で真面目なので、地域社会の歓迎を受けるという。その話を聞いて新鮮な衝撃を受けた。韓国では北朝鮮の人々、特に北朝鮮の男性たちはよい評価が受けられない場合が多い。社会主義国家の配給体制に慣れていて、一生懸命に働く代わりに福祉システムに依存して暮らそうとしたり、職場でトラブルを起こして首になりがちであったり、保険の詐欺で一攫千金を狙う破廉恥な人としてしばしば膾炙される。移住民は彼らがどのような土壌に定着するかによって異なる方式で適応していくはずだが、このような姿が本当に韓国に住む北朝鮮移住民の典型ならば、その発現に韓国社会が負うべき責任はなかろうか。いや、いつも勤勉誠実であるべきだと、福祉システムに依存しないようにと、職場に順応しろと要求することは正当なのか。われわれが高い基準の勤勉誠実を彼らに求めながら非難する瞬間、われわれ自身もその絆の中により深く束縛されるわけではなかろうか。

私は去る10余年間、百名の超える北朝鮮移住民に出会った。主に青少年と女性たちであった。彼らが共通的に語るのは韓国人の「視線」である。韓国の人々が彼らを眺める妙な視線。身なりと口ぶり、あるいは自らの告白で北朝鮮の人であることが明かされた後に受けることとなる関心、同情、優越感、無視、教化、助言、軽蔑、配慮の視線と態度を語ってくれた。最初はそれが歓待なのか警戒なのか、親切なのか抑圧なのか見分けがつかないが、すぐそのすべてが合わせられた複雑な視線だということがわかる。そして、人々がそのような視線で見る以上、自分は決して韓国の人々と同等な関係が結べないということを見抜く。そうなると、北朝鮮の人だと告白したことを後悔したり、北朝鮮から来たということが現れないように努める。韓国人のように話し、食べ、着、化粧しようとする。自分を「北朝鮮の人」という範疇にぐっと押し込めるその視線を避ける方法は、他の人々と同じくなる方法しかないと考える。

最初の質問に戻って、私が他人の視線に縮み上がる際、それは実際に他人が私をそう見るからであるか、それとも他人が私をそのように見るだろうと私が考えるからであるか。その答えは社会によって異なるようだ。イギリスに住む私が感じる他人の視線は、私自らが増幅させたところが大きいということを告白する。それは韓国社会が私に社会化させた態度である。だが、韓国に住む北朝鮮移住民が感じる韓国の人々の視線は、たとえ自分の内面で増強された面があるとしても、絶え間なく言葉と行為で表現される実在に近い。ところで、この視線は事実彼らにのみ向いているわけではない。韓国社会では誰も他人の視線から自由でない。縁故も、背景も、高級趣向も、お金も、資格証も、労働の英雄らしい勤勉誠実さもなしに韓国の地に来た北朝鮮移住民を見る視線、それが何なのか、その視線を受けることがどのような感じなのか、われわれ皆少しずつは知っているのではないか、われわれの記憶の彼方に埋めておいた侮蔑感を探ってみると。

 

二番目の物語―適応

 

「もう適応したか」という質問を受けると、すこし考えさせられる。時差の適応もできたし、近所の地理も適度にわかり、三食をうまく作って食べられるし、夜によく寝て朝によく起きる。子供たちも大した問題なしに学校生活をしているようである。適応したようだ。ところが、もう一方で考えてみると、子供たちと私は未だイギリス人の友達がほとんどいないし、韓国の歌を聴き、韓国の食べ物を食べ、インターネットで韓国の放送を見る。私が家族以外に話し合う人のほとんどは、「カカオトーク」とインターネット電話で疎通する、韓国にいる韓国の人々である。生がここに来る前とあまりに連続されていて、私は時々韓国にいるという錯覚をしたりもする。果たして私はここに適応したのか。

韓国の虹青少年センターで移住青少年の支援事業をする際や、韓国教育開発院で脱北青少年の支援関連の研究と実践事業を行なう際、私たちはこの支援を通じて彼らが韓国社会に「適応」するよう手伝うべきだということを暗黙のうちに前提した。このために適応の程度を測定する指標を作り、適応を手伝ういろんなプログラムを開発し、彼らの適応を手伝うために教師研修を進めたりもした。私たちはその適応が彼らを一方的に韓国社会に「同化」させることではないと引き続き主張したが、私は事実私たちが目標とした適応と同化との間にいかなる根本的な違いがあったかよくわからない。私たちのものを「強要」するかの可否は、私たちが「北朝鮮なるもの」をどの位「認定」するかによっているということがわかったのはずっと後になってからである。

S奨学財団は「学びの場支援事業」を行なう。ここで私は支援される学びの場を手伝う専門委員として働いた。特に脱北青少年のための教育機関をコンサルティングしてあげることが主な業務であった。このような機関の中には子供たちの共同生活施設がある。子供たちはこの施設で暮らしながら近所の学校に通い、放課後はここでいろんなプログラムに参加しながら時間を過ごす。脱北した女性たちがいざ韓国に来てからはお金を稼ぐために外地に出かけながら、幼い子供たちをこのような施設に預けるしかない現実が悲劇的だと考えたが、いざ子供たちは兄弟の多い家庭の子供たちのようにわいわい騒ぎ立てながら明るく暮らすようであった。このような施設の中には北朝鮮の人々が設立して運営するところもある。私は、北朝鮮の人々が運営する機関に行くと、上辺では笑いながらお疲れ様と言いながらも、腹ではもしかして子供たちが手放されたりはしないか、厳しく訓育されたりはしないか、より詳しく見てみた。そして、北朝鮮の教師たちがこの子供たちの社会適応をより遅れさせそうで、韓国の教師を採用する計画があるか、地域社会との交流現況はどうか必ず聞いてみた。その後、何年間そばで見守りながら彼らの持った真正性がわかるようになり、この方々を教育者として尊重する私はそれなりに「公正な視角」を持っていると信じた。去年、A学校で混乱を経験する前までは。

A学校が習いの場放課後プログラムとして「集団舞踊」を申請した時、私たちはやや迷いはしたが、その試みを尊重して予算を支援した。すでに多文化学生に対する政策は、移住してきた母親の本国文化を尊重する方向へと進んでいたので、北朝鮮的なものに対してもある程度包容が必要だと思えた。中間点検および事業運営のコンサルティングのために機関を訪問した際、そこの教師たちは子供たちの実力を見せる思いで浮ついていた。子供たちは「子供行進曲」に合わせて集団舞踊を節度あるようにやり遂げた。たとえ歌は「自由の大韓民国を末永く輝かす新芽だよ」で終わったが、子供たちの動作と視線はあたかもテレビ番組の「南北の窓」に出る北朝鮮の学生のようで私は大変慌てた。この気まずさの余り、子供たちに聞いた。「おもしろいですか。」子供たちは大きい声でそうだと言った。「これすると、何がいいですか。」子供たちは自信感が出来たという。学校に行って発表もうまくできるようになったと言う。それでも私は気が軽くならなかった。「ここのダンスもできますか。」子供たちはシスターの「シェイクイット」のダンスができると言った。私は早速インターネットでその歌を探して子供たちに聞かせてあげた。集団舞踊の節度ある動作をしていたその子供たちが腰を回しながら「もっとホットに」体を揺らし始めた。そうしたら北朝鮮の教師たちは心が不便となり、私は安心した。初等学生の扇情的な律動を見る不便さより、この子供たちが韓国のダンスが踊れるということを確認した安堵感のほうがより大きいという事実にうろたえながらも。

私の住むイーストボーンは小さい都市でありながらも、「ケイ・ポップ」(K-Pop)が好きな子供たちがかなりいるという。韓国に対する印象はよい方である。次女と同じ年生の一人はハングルを独学して娘にカカオトークを送り、長女と同じクラスの一人は韓国の人々は皆肌がよいのかといいながら韓国人に生まれるといいなと言ったそうだ。ここのどこにおいても三星とLGの携帯電話と家電製品、現代とKIAの自動車が見られる。われわれはここで韓国人だということを少し誇らしく思い、韓国語を使い、韓国の音楽を聴くことをはばからない。幸いにも韓国で生まれたので、幼いときから習ったこと、慣れたこと、好きなことを捨てる必要がない。韓国的なことをするためにはイギリス的なことも同じくできなければならないと、誰もわれわれに要求しない。私がA学校の学生たちに求めたそれを。

カナダの心理学者であるジョン・W・ベリー(John W. Berry)のモデルによると、移住民が移住してきた地域の文化と自分の元の文化の両者を如何に受け入れるかによって、彼は同化(Assimilation, +-)、分離(Separation, -+)、統合(Integration, ++)、周辺化(Marginalization, --)という四分面の中の一箇所に位置することとなる。両文化をすべて肯定的に見なす「統合」こそ、最も健康な状態だと述べるが、私は北朝鮮移住民たちが自分の成長した文化を韓国でどれほど肯定的に見なせるかが気になる。それは彼が如何に主観的に感じるかということだけでなく、韓国社会が北朝鮮社会の日常的経験をどれほど容認するかにかかっている。ずっと前のことが思い出された。

約10年前に中学生向けの統一教育を進めたことがある。二つの学校から集った学生の800余名を対象に、大きな舞台で脱北大学生の4名が自分の北朝鮮での生活について語り、学生たちの質問を受ける方式で進行した。発表者たちには北朝鮮に対する自分の記憶を率直に語ってくれるように前もって頼んだ。否定的な面だけでなく、よい記憶を語ってもいいと言っておいた。一人の男子学生は北朝鮮のきれいな水について語った。村の前の川水を手で掬って飲んだが、ここに来て水を買って飲むということに大変驚いたという。女子学生は故郷では村の人々が皆互いに知り合って暮らし、大変なことは皆一緒に助けてくれたと言った。ここに来たら、隣が誰なのかわからないし、エレベーターで互いに挨拶しないのが可笑しいといった。聴衆が多すぎて質問は観客席から飛ばす紙飛行機で受けることにした。質問の時間に中学生たちが飛ばす色とりどりの紙飛行機が舞台の上に落ちた。その中の一つをもらって読んだ女子学生の顔が急に赤くなった。そこにはこう書いてあった。「そんなによければ再び北朝鮮に行けばいいじゃない。」

韓国に来ている北朝鮮の移住民にとって適応とは何なのか。適応するために自分の記憶を消し、自分の育った社会を否定しなければならないならば、適応は努力する価値があることなのか。彼らにそれを要求することは正当なのか。もしイギリス社会が私にそのような適応を要求するならば、それでここに来る前までの自分の生を否定しなければならないならば、私はおそらく自発的に不適応を選ぶだろう。

 

三番目の物語―名前

 

2009年12月のある夕方、北朝鮮で教師であった人々10余名に会った。当時、私は韓国教育開発院の脱北青少年教育支援センターで研究企画チーム長として勤めていた。新たに始まる「NK教師アカデミー」事業を企画し、実行することがわがチームの仕事であった。NK教師アカデミーは脱北した北朝鮮の教師に所定の再教育の機会を提供して、脱北学生たちが在学する韓国の学校の補助教師として働けるようにする実験的な事業であった。教育部と協議して始めはしたものの、果たしてどのような人々が集ることとなるか、再教育の課程がどのように進められるか、修了後に一線の学校がこの人々を受け入れてくれるか、すべてが不確かな状況であった。すべてを柔軟に開けておいて、縁のある人々と課程を共に作っていくという心構えで始めた。

北朝鮮で「職業的革命家」と呼ばれる教師の威信は高い方である。初等学校の入学から卒業まで、中学校の入学から卒業まで一人の教師が引き続き担任を務める制度は、教師が学生の成長に責任を持つように責務性を強いる。韓国のように一人の学生が学校の内外で数多くの先生に会うせいで、結局教育が失敗した際、その責任が誰にあるかわかりにくい構造とは全然異なる。それでも勉強ができて、誠実な人々が教師となることや、この規範的な教師たちが乱世に適応力が落ちるという点は、韓国も北朝鮮も同じようである。韓国に来た北朝鮮の教師たちは他の北朝鮮移住民たちと同じく、食堂で働いたり、何をなすべきか方向が掴めずに、あちこちを転々としていた。他の人を教えたり、世話する仕事をする人は一人もいなかったし、自分の子女の教育に対してさえ自信がなさそうであった。

事業の説明をしながら、この課程が「資格証」や「就業」を保障するわけではないという点を、何回も強調した。後で彼らを失望させるか心配したからである。皆さんが教育現場で働けるように最善を尽くすが、就業は約束できないし、その代わり、韓国の教育について学べる「機会」を提供すると話した。教育制度、教科の内容、教授方法、学生指導、そして脱北学生たちが経験する困難さについて講義し、討論し、実習することと説明した。

冬の夜であったにも関わらず、部屋の中は暑かった。人々は上気していて、その機会に感謝した。誰も就業を要求しなかった。その代わり、これまでこのような機会をどれほど熱望してきたかを告白した。一人の先生はこのような話を聞かせてくれた。家の近所に初等学校が一つあるが、いつもそのまま通り過ぎれず、垣根の外でしばらくの間立ち止まっていたと。教室から聞こえてくる音、運動場で子供たちが遊び回っている音をじっと聞いていて、通り過ぎる人からにらまれる視線が感じられると座を立ったりしたと。学校を考えると、懐かしさと痛みが同時に湧くと言った。一時、北朝鮮で同僚教師であったはずの彼らは皆涙ぐんだし、互いに会ったことだけでも感激していた。

この事業はその後も多くの物語を残しながら、今まで続いている。何年か前から事業は統一部に移管されて、今も20余名のNK教師たちが脱北学生たちの多い学校で勤務している。相変わらず「NK(North Korea)」の二文字を条件のように付けてはいるが、それでも私は彼らに「教師」の名を取り戻してあげたことを誇らしく思う。彼らを一群れの「脱北者」に見なさず、ここに来る前にやってきた仕事を尊重し、個々人の経験と熱望に注目しながら共に生きていく方法を見出そうと試みたという点で、私はわが社会が十分ではないものの、一歩は前へ進んでいったと考える。

政策用語の使用が避けられない場合がある。「北朝鮮離脱住民」、「結婚移住女性」、「移住背景青少年」、「中途入国青少年」など、政策用語は支援が必要な対象を明白にし、彼らが経験する共通の困難さを表すという点で有用である。ところが、問題はこのように作られた集団の名が私の全存在を規定することになる瞬間、私はその名の中に閉じ込められることになるということである。その名前は確かに私の一部ではあるものの、決して全体ではないわけだが、人々はその規定の中でのみ私を眺める。さらにその名前は他人が私を眺める視線の中で付けられる場合が多いので、他人が考えを変えない限り、私はずっとそのイメージに留まることとなる。その場合、その名前を否定しないと、一歩も進んでいけなさそうな捕縛感を感じる瞬間が訪れる。

北朝鮮移住民は「脱北者」と呼ばれる限り、暴政と飢餓に苦しみながら死線を超えて辛うじて自由を探して来た人々、ここに来てからは適応しにくくて、韓国の人々の暖かい世話が必要な人々でなければならないわけだ。彼が北朝鮮でどんな仕事をし、何が好きで何ができるかは二次的である。カナダに行ったものの難民申請が拒まれて再び帰ってきた青年に会ったことがある。その青年はそこに行ったら、自分を脱北者として眺める視線から脱したことが非常に快かったという。それでもわが言葉が懐かしくて韓人教会に出始めたし、僑民社会はこの「脱北者青年」を積極的に支援してくれた。始めは多く助けられたが、次第に一人の力でもうまくやっていけるようになったという。英語もある程度できるようになったし、他の国から来た青年たちと友達になるにつれて韓人会の助けはあまり要らなくなった。ところが、韓国の人々は自分を引き続き助けが必要な脱北者として眺めたし、助けを断る度ごとに不快がった。自分が彼らを「裏切る」ような気がして苦しんだが、次第に教会に行かなくなったという。顧みると、その視線は韓国で住む際、自分が感じた視線と変わらなかった。脱北者は脱北者らしくなければならなかった。

私はイギリスの人々の前で私の名前をハングルで署名することが好きだ。それは人が私を規定するのではなく、私が私の存在を書いている感じを与えてくれる。私にとって私の名前はこれまで生きてきた数多くの記憶を盛っている器である。韓国に来て改名する北朝鮮の人々が少なくない。ヨンシリ、オギが韓国に来てソビン、テヒとなる。「脱北者」という名前から脱するためには、自分の固有な名前も共に捨てなければならないと考えているようである。「北朝鮮らしい」名前が烙印となること、それで自分の過去と決別すること、それは彼らのせいにする問題ではない。その決別を選択するまで経験したはずの心の崩れが感じられる。北朝鮮移住民に対する真正なる「歓待」は未だ遥遠である。[ref]私はこの詩ほど移住民をうまく表現した文章はないと思う。よく知られた、鄭玄宗(ジョン・ヒョンジョン)の詩「訪問客」である。「人が来るということは/実は物凄いことである。/彼は/彼の過去と現在と/そして/彼の未来と共に来るからである。/一人の一生が来るからである。/壊れやすい/それで壊れもしただろう/心が来るのである。/おそらく風は見分けられるはずの/心。/わが心がそのような風を真似るならば/つまるところ歓待となるだろう。」(鄭玄宗、「訪問客」全文、『光輝の囁き』、文学と知性社、2008)[/ref]

 

四番目の物語-関係

 

韓江(ハン・ガン)の長編小説『少年が来る』(創批、2014)を読んだ。1980年5月の光州をこう描くことができるとは。本を読んだ人々は皆数日苦しいという。私もそうだった。少年たちを哀悼しながら、私の悲しい心も慰めてもらいたかった。ところで、休養地の海辺で休んでいる人々はあまりに平和に見えた。私の世界と彼らの世界は全くつながっていないようであった。

人文地理学で「空間」(space)と「場所」(place)は異なる概念だそうだ。空間はそれこそ抽象的な三次元の世界である。この空間を人々が認識し、そこに社会的な意味を与えるようになると、場所となる。意味のある空間が場所であるわけだ。自分のものではないと感じた海辺は、ただ私が立っている空間でしかなかった。ここの平和さは絵の中の風景とあまり変わらなかった。どうすればこの空間が私に意味のある場所となろうか。その際、私はここが自分のものではない理由が、私がこの社会の豊かさと平和に「寄与」したところがないからだと考えた。それはおそらく光州民主化運動の物語が触れた私の原罪意識が私を萎縮させたからであろう。少なくともその時はそう考えた。

時間が過ぎて自分にもう少し寛大になった時、共同体に所属されることは「寄与」ではなくて、「関係」の問題だということを思い出した。私がここに属し得ない感じを抱くのは事実、私がこことまだ「関係」を結んでいないからそうなのだ。その際、海辺でもし知り合いの人に出会って、私がこういう本を読んだが、非常に気が重くなったと話したならば、それで少しでも共感を得たならば、そこはそれほど不慣れではなかっただろう。空間を場所にするのは「関係」のようである。

不幸にも韓国社会は他人と関係を結びやすいところではない。韓国では同じマンションに住んでもあまり言葉を交わさなかった。初等学校2年生の時、うちの子は「隣」をこう定義した。「隣は箱である。開けられるが、だれも開けない。」韓国のマンションはそうであった。韓国で何年前に会った一人の女子学生は、自分の父親があまりに可哀想だと言った。北朝鮮では常に父親の友達で家中が騒がしくて愉快であったが、ここではやってくる人が誰もいないという。ある日、父親はつくねんとこう話したという。「泥棒でもいいから、誰か訪ねてきたらいいな……」韓国社会はいつの間にか孤独な個々人が箱の中に入って一人で住む社会となった。寂しいのは北朝鮮移住民だけではなかろう。事実、私たち皆そうである。ただその箱の外に出ることがある人にとってはより難しいだけである。

関係を結ぶということは、その人と私との間に物語が作られるということである。物語を共有しながら、私は彼を完全で固有な一人として知り合うこととなる。彼を眺める社会的視線、彼に一方的に適応しろと言った不当な要求、彼を集団の中に閉じ込める名前はすべて彼を知る前のことである。一人を個人として知るようになると、彼がある一つの物差しで評価できぬ存在であることがわかってくる。私は運よくも生きながら多様な人に出会い、彼らの話を聞くことができた。それで「障害者」、「性少数者」、「移住民」、「脱北者」という単語を聞くと、思い浮かぶ具体的な人々がいる。そして、彼らのおかげで私は彼らにそのような名前を超えていろんな姿があるということがわかる。

多様な背景を持った高等学生たちが車座に座って自分のいきさつを話し、「統一韓国」で自分の生を描いてみる一泊二日のキャンプを企画し、進行したことがある。そこにはいわば「脱北学生」と「多文化学生」たちもいた。規則は簡単であった。各自20分ほど、いかなる妨げなしに自分の話をし、他の人々は判断したり評価したり助言したりしないで耳を傾けて聞くことである。霊魂が安全な空間で人々が語るストーリと、それを通じた疎通のダイナミックは、芸術と奇跡との間のどこかにあるようだ。子供たちは皆涙を流し、自分の話をこのように長くしてみたことは初めてだといった。それはたかだか20分であった。この間、そのキャンプに参加した一人の女子学生が、その時の経験がもたらしてきた変化について語ったことを聞き伝えた。その際、完全に理解してもらってから、もうこれ以上自分が北朝鮮で住んでいたことが恥ずかしくなくなったし、もうそれを隠さないんだと。

言いたいことを言って、それをよく聞くことは意外と力が強い。語れないと恨みとなる。当然言うべきことが言えないと、生きては心気症が起こり、死んでは怨霊となる。伝来された物語にこのような怨霊が多く登場するのを見ると、われわれは代々に埋められてしまった痛みが多いようだ。『少年が来る』を読んでなぜそんなに胸が痛んだかを考えてみると、80年5月の光州を生きた少年たちと若者たちの物語が匿名の犠牲者をわが隣として改めて眺めさせるようにしたからである。そのことを今になってこう聞いている自分がすまなかったからでもあり、われわれが相変わらず語らせない社会、語っても聞かない社会に住んでいるという挫折感のためでもあった。

ここの人々は話すことと聞くことが好きなようだ。イーストボーンの図書館は蔵書があまり多くないが、歴史書のコーナーはけっこうよく整っている。特に一次、二次世界大戦当時の人々の生に関する本がかなり多いのが印象的である。激動期を生きた普通の人々の生が書架をいっぱい詰めている。ここで歴史は暗記科目ではなく、未だ読まれ、再現される人々の物語である。書店に行っても歴史書が小説本や料理本ほど多い。コミュニティーセンターには地域住民の生涯史の物語がパンフレットのように置いてある。パブと呼ばれる酒場でもストーリーテリング集いの広告が見られる。広告を見ている私に、一人の男性が通りながら、誰でも来てただ聞くだけでいいと、人々が自身の生を語るが興味津津で驚くべきだと、自分は毎月参加するんだと、一度来てみてと勧めた。

こういう風景を見る度に少しうらやましい気がする。私はある話をする際ごとに「こういう話をしてもいいかな」という自己検閲をしてきた。80年代には「捕まえられるのではないか」と恐れたし、その後はこの話が「如何なる政治的立場に立っているのか」を先に計算しなければならなかった。日常的には「あまりにもったいぶっても、あまりに目立ってもならないし、私に期待されること以上を語ってもならない」と考えた。すべての対話が論争的で、理念的で、また階層的な葛藤を内包しているようで、芸能番組に関する話以外は安全な領域がないと感じた。そうするうちに、世の中には必ずすべき話とはなさそうであったし、結局私も自分だけの箱の中に入っていたようだ。誰でも自分の話ができて、他の人の話をありのままに聞ける社会になれば、われわれ各自が感じる生の抑圧は多く解消されるのではなかろうか。そのような社会ならば北朝鮮から来た人々も容易く箱の外に出て、自分の経験が話せるだろう。そのような社会ならば痛みを胸にしまっておいて心の病を持って生きる人も減るし、われわれの孤独も耐え忍べるだろう。そして、何よりも人々の間に関係が作られるだろう。

 

終わりながら再び始める物語

 

本稿を仕上げることがとても大変だった。話をすべて終えた後に「そこでこうすべきだ」という結論を書かなければならないが、方向が掴めずいろんな想念を書いたり消したり何週間も繰り返していた。そうするうちにまた異なる物語に出会った。

先週、韓国から送った引越しの荷物が届いた。荷物を運ぶ人足は三人であったが、その中の二人が北朝鮮の人であった。二人とも体つきが私よりも小さかったが、重い荷物を軽々と持ち上げながら嫌がる気配は少しもなかった。荷物が多くて申し訳ないと言ったら、これ位は仕事でもないと笑った。カップラーメンで食事を済ましながら一日中荷物を運ぶが、これほど熱心に働く人々はイギリスに来て初めて会った。韓国では韓国と北朝鮮の人々の異なる点がそんなにも目に見えたのに、ここでは抑揚は問題でもなかった。話があまりにもよく通じた。喜びの余りぞろぞろ付きまといながら話しかける私の口から「同胞」という言葉がすらすら出てきた。

私たちが新たに買った家は少し修理が必要であった。家の修理をする何名のイギリス人に見積もりを要請したが、二週間が過ぎても全く返事がなかった。この速度ならいつ工事が出来るのか期し得ない羽目であった。引越しの荷物を運んでくれたKさんが家の修理もするというので連絡してみたら、翌日、友達と息子を連れて二時間も車を運転してわが家を訪れた。直すべきところを見てみた後に、この仕事を彼らが受け持つことになった。ニュー・モールデンからイーストボーンまでは遠すぎるので、初めからわが家で一週間起居しながら工事をすることにした。明日彼らは道具と共に、米、キムチ、電気炊飯器、布団を載せてわが家に来る。ここの人々には聞いたことも、見たこともない光景となるだろう。

Kさんに会ってから私は安堵し、感謝したし、逞しかった。これはこれまで北朝鮮の人々に数多く出会いながらも一度も感じられなかった感情であった。なぜなのか。それはKさんが特別な人だからではなくて、これまで私が北朝鮮移住民と会った状況自体が非常に奇形的であったからだということにふと気づいた。これまで私は彼らとインタビュアーとインタビュイーの関係で、研究者と研究対象者の関係で、支援してあげる人と支援してもらう人の関係で会った。考えてみると、一人も対等に会ってみたことがない。私は常に観察者か、それとも恩を施す人であったので、今のように同等な関係の相互依存的な状況は繰り広げられなかった。今まで私は、そのような状況で彼らに対する私の判断がどれほど歪曲されうるかについては考えもしないまま、私が北朝鮮移住民たちをよく知っていると信じた。急に恥ずかしくなった。

これから私がここで彼らと結ぶ関係は変わりそうだ。第3地帯で互いに移民者として住んでいる北朝鮮出身の移住民と韓国出身の移住民との関係は、私が韓国人としての優越感を敢えて押し立てなければ、少しはより平等になるだろう。そうなると、彼らが、共に暮らす隣として見直されるのではなかろうか。その上、私たちは皆が皆に頑固な韓国社会から脱しているから。本稿を終えながら、私は未だある「結論」を出す能力がないということを告白せざるを得ない。まだより多くの物語を聞くべきだということを、そしてそれはより同等な立場で話し、聞く過程であるべきだということを知っている。なので私にとって本稿の終わりはまた一つの物語の始まりであるわけだ。

 

(翻訳:辛承模)