창작과 비평

[卷頭言] ブラックリストと「裏面憲法」のない社会を

2017年 春号(通卷175号)

 

 

朴槿恵大統領の顔色がいつにも増して明るくなったことがある。金淇春元秘書室長の任命式でピンク色のジャケットを着て彼を迎える大統領の顔色が明るくなった。互いの利用価値を本能的に気づいた二人の切ないが「間違った」出会いだったのである。それ以後、青瓦台(大統領官邸)が発動した数多くの違憲的・不法的措置の中でもブラックリストはこの二人にとって会心の作であろう。中央情報部対共捜査局と検察公安部で長年働いた金淇春は、独裁政権への批判者を「赤」として追及したり、スパイとして操作した「今までにない」選手であり、朴正熙の鉄拳統治を懐かしむ朴槿恵にとってこのような反人権的人物はむしろ心強く思われたであろう。

 

ブラックリストの存在は昨年10月国政監査において都鍾煥議員の発言でその一端が確認されたことがあるが、特別検察官が朴槿恵-崔順実国政壟断を捜査する過程においてその全貌が明らかになった。朴槿恵が首席秘書官会議で「国政指標が文化の隆盛であるのに、(朴槿恵政府に批判的な)左寄りの文化芸術界に問題が多い」と指摘すると、金淇春は「文化芸術界の左派の策動に闘争的に対応せよ」というような指針を下した。首席秘書官らはこのような指示を文化体育観光部に、文化体育観光部は下部機関に順次に下達し、指示事項を実行することによって、政府と見解の違う文化芸術家及び団体を政府の支援から排除した。

 

2015年初、朴大統領は当時金尚律教育文化首席に「(文化体育観光部が)『創作と批評』『文学トンネ』などの左派文芸誌のみに支援し、健全な文芸誌には支援をしない」と支援政策の修正を指示した。その後、優秀文芸誌支援事業は縮小、ついに廃止され、2つの出版社からの出版図書は「世宗図書」(優秀図書支援事業)目録からも多く脱落した。その他にも演劇演出家のパク・グニヨンとイ・ユンテクが創作産室演劇分野支援と文学創作基金支援から排除され、小説家の金愛爛と金衍洙の場合、北米韓国文学学会からの招聘がキャンセルされ、評論家のファン・ヒョンサンを含む文人の多くが芸術委員会審査委員から除外された。釜山国際映画祭はセウォル号惨事を取り扱ったドキュメンタリー映画「ダイビングベル」を上映したことで、利用館執行委員長が辞退の圧力を受け、予算も大幅削減された。ノーベル文学賞候補として言われている高銀詩人等がブラックリストに含まれており、大統領がブッカー賞インターナショナル部門受賞者であるハン・ガンへの祝電を拒否したことは聞くに堪えない。

 

朴槿恵政権のブラックリストは、過去独裁政権の検閲とは違って身体的危害を加えない反面、徹底に制度的不利益を与える。劣悪な条件で創作する文化芸術人に政府支援を打ち切り、外部支援を遮断する下品な検閲方式なのである。ブラックリストの名分を依然として従北・左派勢力に対する対応から探し求めているが、実際とはあまりにも大きな乖離があるということも目につく。言論に公開された9,473人のブラックリスト名簿はセウォル号の真相究明を要求したり、または選挙で文在仁と朴元淳を支持した人々と知られたが、彼ら全員を従北・左派と規定するのはおかしなことである。

 

特に印象的なのはブラックリストを主導した人たちが、それが大きな犯罪であることに自覚がないということである。金淇春は逮捕令状審査でブラックリストが犯罪であることを知らなかったと陳述し、朴槿恵もチョン・ギュゼとのインタビューでチョ・ユンソンの拘束に対して「別に、、、賄賂罪でもないのに、拘束までするとは、、、やりすぎだ」と話したことから、それが憲法的価値を蹂躙する重い犯罪であることを認識していないことを見せている。大統領就任宣誓の初句―「私は憲法を遵守し」―を誓約した当事者が表現の自由のような核心的な憲法条項は眼中にもないのである。もしかすると彼らがとくにブラックリストと関連してこのように図々しく―これは罪ではないというように―対応するのには憲法の他に頼れる何かがあるからかもしれない。

 

朴正熙(維新)時代と全斗煥時代に厳しい弾圧を経験した本誌としては、今回のブラックリスト事件から既視感が感じられるのも事実である。ところが、今回の事態は維新独裁を復活させようとする時代遅れの発想であるだけではなく、維新時代のはるかに前から綿々と続いてきた韓国社会の問題点を画然と露わにしている。大韓民国は民主主義憲法を持っているものの、分断国家の成立以来、とりわけ朝鮮戦争以後分断固着化によって韓国社会に深く根を下ろした反共反北の慣習的価値体系に絶えず苦しめられており、その陰からいまだに脱していない。憲法的拘束力を超過して作動しつつ、守旧既得権層の支配を強固にするのに寄与してきたこのような慣習的イデオロギーを、白楽晴は「裏面憲法」と命名したことがある。

 

朴槿恵と金淇春が大韓民国の憲法を正面から違反し、それに相応しい罪意識がなかったというのは、彼ら自らが裏面憲法を充実に守ったからかもしれない。未来メディアフォーラムが「ブラックリストは正当な統治行為」と強弁したり、太極旗集会への参加者が「赤は殺してもよい」と書かれた盾を持って来たり、李仁済元議員が「今のロウソク集会は憲法を破壊しようというもの」と非常に奇怪な主張をする時も裏面憲法の影響力は強力に発揮される。つまり、韓国社会においてブラックリストは裏面憲法の後押しによって作動するものなのである。

 

しかし、大統領の弾劾局面において広場に溢れ出る市民は、凄まじい裏面憲法の前でまったく委縮しなかった。「従北左翼(「ザパル」、日本でいう「ブサヨ」―訳者注)」という非難にもぶれることのない広場で最も人気を集めたスピーカーは、多分に慣習的に闘争を鼓吹する労働運動の指導部や政治家より、各自の厳しい生活から湧き出るそれぞれの言語で生々しい話を聞かせてくれた一般市民や個々の労働者であった。全種類のお決まりを拒否する市民の集団的知性とフェスティバルの雰囲気、そして平和デモ原則が輝く広場であったがゆえに、極端で硬直した顔の裏面憲法が入り込む余地はなかった。

 

市民は「大韓民国のすべての権力は国民から出る」という憲法第1条を叫びながら堂々と広場を行進したが、情報機関や検察の検閲と弾圧を経験した人たちにとって、その光景はロウソクの護衛の下で憲法を抱え込んで裏面憲法の闇のど真ん中を貫通していく感じであった。今はブラックリストをつくった現職大統領の弾劾審判の瞬間が近付いてくるにつれ、裏面憲法に頼ってきた守旧既得権勢力も総力闘争に出てくる状況である。ロウソク市民は国の主権者として緊張を緩めず、本当に「悪い大統領」を追い出し、裏面憲法の完全廃止にまで進んでいかないといけない。それがまさにブラックリストのない国をつくることなのである。

 

 

今号の特輯「ロウソク革命、転換の始まり」は、昨年の秋から今まで続いているロウソク集会の革命的性格を分析して、それが成し遂げたことと成し遂げることを点検し、私たちの前にどのような選択が置かれており、韓国社会の大きな転換がどこから始まれるかを論じる。

 

白楽晴は、今回のロウソク集会が既存のいかなる革命や構想とも違う新しい市民革命であるという事実に注目し、それを「ロウソク革命」と呼ぶことに躊躇しない。彼は、平和デモを集団知性の戦略的選択と把握し、世界史に類を見ない平和的革命と新世界づくりを希望する。分断状況の認識に基づき、朝鮮半島・東アジアの平和を図り、朴正熙モデルの克服と裏面憲法の廃止を通じて新世界を作ろうということである。なお、ロウソク革命を完遂するために今の政治界が肝に銘じるべき助言も欠かさない。ユ・チョルギュも朝鮮半島に限らない幅広い視野をもって、緊迫した米中利害関係の衝突や緊張局面において韓国が進むべき道を打診する。一対一交渉を推進しようとするトランプ以後のアメリカと、多者交渉における求心点の座を狙う中国とが衝突する時、むしろ韓国の立地が生まれると展望し、サード問題もこの角度から解いていくことを注文する。またこのような情勢の中で韓国の経済問題、とりわけ4次産業革命と低成長に対する対応策は「分配」にあることを力説する。

 

黄静雅はロウソク広場の「情動」を最近の文学作品を通じて論じ、民主主義はどのような「気持ち」であるかを問いただす。セウォル号以後韓国社会の話頭になった「じっとしている」ことの情緒をキム・グミ小説を通じて読み、それがどのように「じっとしていない」ことの情熱を発生させるかを分析する。人生の「神聖さ」と「くだらなさ」が交差する瞬間を穿鑿した黄貞殷小説を通じては、人生の「くだらなさ」が広場の光として進化する心の軌跡を追跡する。特輯の掉尾を飾るのは、1987年6月を経験しなかった若い世代のロウソク座談「私たちはロウソクを持ち上げた」である。江南駅事件以後のフェミニズムアクショングループと梨花女子大学学生会、ロウソク広場の退陣行動において活動してきた参加者らがロウソク集会を経験した各自の所感を率直に聞かせてくれる。ロウソク集会の原動力になった各界の青年たちがコミュニケーションを取り合いながら、新しい民主主義を思惟する姿が興味深い。

 

ロウソクの機運は「現場」欄にも続く。歴史学者の韓洪九は題目通りに「ロウソクと広場の韓国現代史」を闊達な文体と主体的市民の視線で追跡する。韓国現代史においてなぜ数多くの人々が広場に出て来ざるを得なかったのか、広場は私たちにとってどのような意味であったかを振り返る中で、今こそ韓国社会を立て直す時であり、それゆえロウソクを消すことができないという主張が切実に伝わる。

 

今号の創作の「詩」欄は、キム・グァンギュからユ・ジンモクまで10人の詩人が個性のある声で聴かせてくれる多彩な詩で飾った。今年の「小説」欄の長編連載は最近韓国文学において最も注目されている作家の一人であるキム・グミが担当する。ミシン会社で働く「天下り」のチーム長代理と不愛想な女職員間の話がどのように展開されるかお楽しみいただきたい。すでに各自しっかりした作品世界を構築しているカン・ヨンスク、キム・リョリョン、金愛蘭の短編はそれぞれのやり方で新しい小説叙事を試みる。

 

「文学フォーカス」は、今号から新たに進行を担うソン・テッス詩人とチョン・ジュア評論家がキム・オン詩人を招いて近作詩集と小説5冊について興味深い討論を行う。注目される新作をめぐって参加者各々が固有の観点と個性的な語法で聞かせる生々しい批評的な話である。「作家スポットライト」では、小説集『光の護衛』を出版したチョ・へジン小説家をシン・ミナ詩人が訪ねて「闇箱に開いた針穴から広がる光のパノラマ」のような彼の作品世界を検討する。「文学評論」では、パク・サンス詩人が2000年代の「詩的主体の倫理的冒険」と2010年代の「日常再建の倫理的責任感」とを比較し、最近の詩と詩批評の風景を素早く検討しながら明確な自己観点を力強く叙述する。

 

「論壇」の3本の論文は、当該分野の重要な争点を深く取り扱う。アメリカの政治哲学者であるナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)は資本主義と社会的再生産間の構造を「資本とケアの矛盾」という問題枠で分析したが、新自由主義的金融資本主義が自由主義フェミニズムの一部を包摂する状況においてフェミニズム運動の行路に悩む示唆に富んだ論文である。アン・ビョンオクは気候変化と関連してイ・ピルリョルの「気候変化、人工知能そして資本主義」(本誌201年秋号)に対する反論として技術楽観論的立場を分析・批判する。地球の平均気温の上昇幅を摂氏2℃以下にするというパリ協約の目標、さらに1.5℃にまで下げて設定する目標が気候科学の面においてはもちろん、人類の未来においても緊要な政治的選択であることを強調する。ク・ガブはウィリアム・ぺリー(William J. Perry)元アメリカ国防長官、ソン・ミンスン元外交通商部長官等の近作回顧録4本を丁寧に検討する。朝鮮半島及び東アジアの国際情勢に深く介入した彼らの陳述を交差検証する作業を通じて、北朝鮮の核問題と南北関係を解決していく手がかりを探る一方、「文学」としての回顧録の意義を発見する。

 

「散文」を準備する気持ちは重かった。繊細で品のある作品で韓国小説文学において重要な位置を築き上げてきた故チョン・ミギョン作家を追悼しながら、後輩作家のチョン・ジア、チョン・イヒョンが故人の人生と文学を振り返る論文を載せた。矛盾と葛藤の世界を断固たる視線で最後まで眺めた優秀な作家を早く亡くした悲しみがそのまま伝わる。二人の作家に感謝し、故人のご冥福をお祈りする。

 

昨年各界の専門家の招聘インタビューを行って話題を呼んだ「読者の声」は、今年「読者レビュー」に衣替えする。創批に対して関心と愛情をもつムン・ビョンフン、イ・ジュへ読者が前号を細心に読んだ所感を寄せてくれた。今年の「寸評」は、ハ・デチョン(科学)、ヤン・ヒョシル(女性)の二人を固定筆者として迎えた。二人を含めて、短いが手間のかかる充実した論文を書いてくださった7人の方にお礼を申し上げる。

 

最後に、今年で51回を迎えた大山大学文学賞の発表と受賞作を載せる。大きな激励とお祝いのお言葉を贈る。今後韓国文学を率いていく有望株のデビュー作に注目していただきたい。

 

2017年を迎えて本誌にいくつかの変化があった。編集委員会からチン・ウニョンが退き、チョン・ヒョンゴンが常任委員となる。そして2011年に制定した創批人文評論賞(旧社会人文学評論賞)公募が2016年をもって終了した。これまで関心を寄せてくださった読者の皆様に感謝申し上げ、今後多様な方法で韓国社会に対する斬新で実践的な人文学的探求と批評的作文を声援する方法を模索することを約束する。

 

今冬ロウソク市民はすでに多くのことを成し遂げた。守旧既得権勢力の激しい抵抗にもかかわらず、大きな異変がない限り大統領の弾劾は採択されるであろう。ところが、それに満足してはいけない。『創作と批評』はロウソク市民読者の皆様とともに、新しい社会づくりに取り組み、ロウソク革命の完遂のための創造的思惟と熾烈な論議の場になるよう最善を尽くしたい。

 

韓基煜

 

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)