창작과 비평

[特集] 「キャンドル」の新社会づくりと南北関係 / 白楽晴

2017年 春号(通卷175号)

 

 

〔特集〕「ロウソク」革命、転換の始まり
「キャンドル」の新社会づくりと南北関係

 

白楽晴(ペク・ナクチョン)
文学評論家、ソウル大学名誉教授、『創作と批評』名誉編集人。最近の著書として、『白楽晴が大転換の道を問う』『2013年体制づくり』『文学が何か、再び問うこと』『どこが中道で、どうして変革なのか』などがある。paiknc @ snu.ac.kr

 

 

本稿は元来、韓(朝鮮)半島平和フォーラムの教育プログラムである韓平アカデミー第3期の最終講で、「新社会づくりと南北関係」というタイトルで講義した内容を修正、補完したものである。[ref]講義と質疑応答、討論はマロニエ放送(http://www.maroni.co)で録画し、ユーチューブに流れた。[/ref]アカデミーの講義は主に南北関係の専門家が行ったが、昨年12月15日に私の番が近づいた頃には、受講生も南北関係に関する専門的な論議よりも、韓国社会で盛んに進行中のキャンドル・デモにより関心が集中している状態だった。当日レジュメのみを配布し、発言した内容を文章形式にすると同時に、その後の事態進展と私自身が練磨した部分を追加して反映させ、今回かなり大幅に手を加えた。一部で叙述の順序を変え、タイトルも多少修正したが、基本的な論旨は変えなかった。受講生を含む当日のすべての参加者に感謝したい。[ref]合わせて、廉武雄教授の細橋研究所での年頭特講(2017年1月20日)「キャンドル、広場と密室、そして想像力」と会員の討論からも多くを学んだ点を明記したい。[/ref]

タイトルとは異なり、本稿でも講義でも南北関係の現況は特に扱わなかった。市民が「新社会づくり」を主導する広場では、それは大きな懸案には浮上していない。だが、その時々の現象として現れる南北関係と、私たちの現実を構造的に規定する南北関係は別次元の問題である。後者に対する正しい認識なしには前者に対して一貫して賢く対応することができず、一見南北関係とは無縁のような新社会づくりの課題も円滑に修正できないというのが本稿の主張である。「南北関係」をあえてキーワードの1つに選んだのも、そのためである。

 

Ⅰ.「キャンドル」は革命なのか

現在の状況をみて多くの人が「市民革命」といい、「キャンドル革命」というのに、私も同意する立場である。昨年10月末にソウルで始まって全国へと広まった、キャンドルを掲げる市民のデモは直接的なエネルギーという点で「キャンドル」を強調するのは適切である。[ref]徹底して平和的という点で「名誉革命」と呼ばれたりもする。これは、英国の立憲君主制を確立した1688年の革命を英国人が the Glorious Revolution(名誉な革命)と呼び、「名誉革命」と翻訳してきたことに借りた呼称だが、英国の当時の王朝交代自体は1640年代のピューリタン革命に比べて流血事態が少なかっただけで、完全な無血革命ではなかった。[/ref]一方、どういう意味で「革命」とか「市民革命」というのか、多少の整理が必要なようだ。

革命といえば、政権の転覆にとどまらない社会全体の大々的な転換を意味するのが常識だが、国民の直接行動によって大統領の中途退陣が実現したとしても、それが自動的に革命と認められるわけではない。憲法裁判所が大統領の弾劾訴追を認めたとしても、その後の事態が本質的な変革に達しない「未完の革命」に終わる可能性がある上に、「キャンドル」が誇る平和的デモと憲政秩序に対する基本的な尊重は革命とはほど遠いのではないか、という問いも可能だからである。後者の問題から考察してみよう。

「キャンドル」は明らかに既存の革命概念とは異なる面が多い。だが、まさにこの点で、世界的にも新たな性格の革命をつくり出しているのかもしれない。市民の蜂起で政権を変え、社会的転換を実現した例として、韓国では1987年の6月抗争があったし、共産党独裁の終末というはるかに根本的な体制変化を達成しながらも、その極めて平和的な性格から「ベルベット革命」という名がついた1989年チェコスロバキア(当時)の市民革命もあった。だが、韓国の全斗煥政権やチェコの共産党政権下ではともに自由な選挙空間を奪われ、市民蜂起以外に道がなかったという共通点がある。その反面、87年体制が獲得した選挙空間は、たとえ2012年李明博政権の不法な選挙介入によってひどく汚染され、朴槿恵政権期の「漸進クーデター」の試みに脅かされていたにせよ、次の大統領選挙を放棄せねばならないほど閉ざされた状態ではなかった。その上、2016年4月の総選挙が「漸進クーデター」の試みに一撃を加え、政権交代の可能性は高まってもいた。それにもかかわらず、市民が大々的に出動し、任期が残った政権を退陣させるのは、独裁政権に対する蜂起とは異なる次元の事件である。ある意味では、独裁体制と闘う時よりも大衆の蜂起が難しい面があるからだ。私自身もそうした困難に注目していたので、早くから「2013年体制」の建設を主唱し、87年体制を克服する「大転換」を夢見てきたが、「キャンドル革命」と朴槿恵の中途退陣を予見できなかった。

まさにこのことを、韓国の「キャンドル革命」が成し遂げたのだ。大衆参加の規模も「ベルベット革命」と比較にならないだけでなく、チェコの「市民フォーラム」のような指導部がない状態で、秩序整然かつ徹底して平和的に、前例がないほど多様かつ粘り強く、創意的な大事件が実現した。こうしたあまりに「おとなしい」デモへの不満が一部の参加者や論者によって表明されもした。だが、「キャンドル」の平和デモは原理的な平和主義というより、現実的な成功のために「集団知性」が選択した卓越した戦略と見るのが正しいようだ。[ref]2016年11月、広場の多様な声を載せた文集『11月:すべての権力は国民から生まれる』(サムチャン、2017年)でも平和主義に対する批判を時々目にする。例えば、「キャンドルは燃やし続けねばならない。だが、警察が定めたポリスライン内で、裁判所が指定してくる集会空間内で、保守マスコミが賞賛する平和フレーム内における歓呼と喊声だけでは物足りない。闘いに勝とうとすれば、あるいは相手を驚かしたければ、予測可能なシナリオで進むのは難しい」。(高東民「労働者、キャンドルと出会う」57頁)これは原論上、正しい言葉だ。だが、キャンドル・デモの平和的で、たぶんに祝祭的な性格こそ、最も「相手を驚か」した集団知性の成果ではないか。「朴槿恵後を悩む既得権勢力には、キャンドルの民心がいつ平和集会のフレームから脱するかが本当の恐怖なのだから」(同頁)という診断も半分は正しい。一方で、彼らが4・19のような激烈な大衆行動を気にもしようが、「暴力デモ鎮圧」という手慣れたフレームこそ、彼らが希望することでもある。[/ref]

もちろん、2016年のキャンドルは87年抗争の再演ではなく、全く異なるタイプの市民革命である。そして、それが可能になったのには客観的条件の変化も加勢した。その一つは、87年に一応達成された民主的な憲政秩序である。これがなかったなら平和的なデモは、三・一独立運動時(1919年)もそうだし、5・18光州抗争時(1980年)もそうで、87年6月抗争でも一部そうだったように、当局の無慈悲な弾圧に曝されただろう。87年体制下でも平和デモに対する強制鎮圧はもちろんあったが、朴槿恵―崔順実の国政蹂躙と不正腐敗により大多数の国民の憤怒が爆発した時、強権を振り回しうる体制ではなかったのだ。

キャンドル革命を可能にした他の客観的条件は、この間に発達したスマホなどの先端コミュニケーション機器とSNS(社会関係ネットサービス)の大々的な普及である。2008年キャンドル・デモ当時、ニュー・メディアが大きな役割を果たしたが、その後8年たって実現した技術発展と暮らしぶりの変化は当時とは次元を異にした。こうした様々な条件の土台の上に、三・一独立運動以来百年近く続いてきた平和的抵抗運動の伝統と学習がついに光を放ったのである。

余談だが、私は2013年体制づくりの失敗で大いに傷心していたが、今思えば、必ずしも不幸なだけではなかったと思われる。まず、当時野党候補が執権した場合、いくら準備と能力が不足したとしても、朴槿恵大統領よりもできなかったとは想像しがたいが、ただその事実がわかる人は珍しかっただろう。「朴槿恵が当選したら、これほどではなかったろうに…」という人が大多数だった可能性が高く、それで2016年総選挙にセヌリ党が勝利し、2017年大統領選に朴槿恵がまた出馬して圧勝した可能性が高い。さらに、朴槿恵氏は選挙運動期間や就任当時の華やかな公約に大部分背いたが、「100%国民統合」という約束だけは、逆説的に95%達成したと思われる。弾劾訴追による職務停止の直前、彼女に対する世論支持度は4~5%に過ぎず、応答者の90~95%が男女老少、地域や世代の違いを超えて否定的な評価によって「統合」されたのである。[ref]マスコミ報道でよく言われる概略的な数字だが、大統領が職務遂行時に「間違った」という評価と、弾劾審判を前にした状態で弾劾に賛成するか否かは区別しなければならない。最近の世論調査では、大略15%内外が弾劾に反対すると伝えており、朴槿恵退陣後のキャンドル革命の完遂を妨げようとする勢力は、それ以上の可能性が高い。[/ref] のみならず、政権交代ではなく、それをはるかに超える「時代交代」をしようという公約も、50%程度は達成したわけである。時代の大々的な交代のために、広場のキャンドルが結集してつくり出し、未曾有の市民行動で社会と参加者の生活をかなり変えたからである。公約の巨大さに比べ、50%は十分な達成率といえよう。

 

Ⅱ.キャンドル革命の展望と課題

キャンドル革命が「未完の革命」に終わる可能性は、もちろん残っている。だが、私たちが失敗した革命と未完の革命、限界をもったままで一応成功した革命を、きちんと区別する省察を行なう必要がある。

キャンドルが国会の弾劾訴追決議を引き出しても、もし憲法裁判所で弾劾が棄却されれば(その後の事態がどういう形で進行するにせよ)、キャンドル革命としては一応失敗というべきであろう。こういう失敗は現在では想像しがたい。憲法裁判所の裁判官の法律家的な常識とプライドも無視できるものではなく、何よりも弾劾過程における市民行動がすでに「見せ場」を作った局面である。弾劾可決後の寒い天気にもかかわらず、全国で100万余人が街頭にくり出した12月10日の第7回集会は、232万人という歴史上最大規模のデモで国会の弾劾可決を強要した12月3日の第6回集会に劣らない意義をもつものだった。新年になり、憲法裁判所の迅速な審議の進行と猛烈な寒さの襲来によって参加者数は多少減ったが、朴槿恵退陣以外のいかなる結果も許さない、という勢いは旧正月後も確固たるものにみえる。

「未完の革命」は少し問題が異なる。代表的な前例に上げられるのが、1960年4月革命だが、市民が血を流して蜂起し、李承晩大統領を退陣させたという点で明らかに失敗した革命ではなかった。だが、デモの群衆が要求した再選挙の代わりに既存の国会による改憲が実現し、7月の選挙で民主党が執権したが、翌年朴正熙の5・16クーデターで軍事政権が成立した。最近よく使われる「トンビに油揚げ」という表現をかりれば、初めは比較的主人の言葉をよく聞いた温厚な犬が、結局は真に荒々しい犬になる結果をもたらしたのだ。

キャンドル革命が未完に終わるシナリオとは、弾劾後60日以内に行われる大統領選挙で、キャンドル市民が要求する新社会づくりを遂行できる意志とか、能力がない人物が当選する事態だろう。4・19の経験をふまえて留意すべき点は、改憲が実現するとか、政権交代が実現したとしても、「未完」の憂慮が消えるわけではないという事実である。改憲問題は後でまた言及するが、政権が交代してもキャンドルの民心に対する共感や認識が不足するとか、その課題を実行できる能力がない大統領であれば、混乱のみが増す憂慮がある。軍事クーデターが再発する時代ではないにしても、事実上軍部よりもっと強力な今日の既得権勢力がそのまま残って古い社会を別の方式で蘇らせ、ついには次の大統領選挙で大統領を取り戻す可能性が濃いのである。

6月抗争後の事態をみても、「未完の革命」とか「トンビに油揚げ」という論者が少なくない。だが、これは社会変革より政権の行方に執着する話だと言える。「両金(金泳三・金大中)」の分裂によって87年体制の最初の大統領を盧泰愚に渡したことは、6月抗争に参加した人々には地団駄を踏む出来事であり、実際に改革作業に多くの困難をもたらしたのは事実である。しかし87年12月の選挙は、以前の軍部独裁勢力が「護憲撤廃」という国民の要求を受け入れ、7~8月の労働者大闘争を通じて労働者の市民権獲得が始まり、かなり民主化された憲法を制定した後に行われた選挙だった。従って、盧泰愚政権も87年体制の大きな流れに逆らいきれず、金泳三、金大中、盧武鉉政権へと続いて民主化のさらなる進展があった。いわゆる「民主改革陣営」の人々は、李明博・朴槿恵政権が「民主政権10年」の成果を逆転させたと言いがちだが、紆余曲折の形ではあれ、初期の20年間に進められた民主化を、野党政権10年に限定するのも一種の陣営論理である。こうすると、李明博・朴槿恵が盧泰愚・金泳三の「保守政権」と区別してしかるべき「反動」と「逆走」の政権だった点があいまいになる。87年体制は、1953年の停戦協定体制と分断体制という過去の軍事独裁体制の基盤を共有した生来の限界をもっていたが、南の社会として一応大転換を実現した市民革命の成果という評価も、87年体制の初期10年の成果を認めることで説得力をもつ。[ref]例えば、拙稿 「大きな積功、大転換のために」、白楽晴他著『白楽晴が大転換の道を問う:大きな積功のための専門家7人のインタビュー』(チャンビ、2015年)、22~26頁を参照。[/ref]だから、野党が政権獲得に失敗した選挙であった87年12月の大統領選挙は、今回の第19代大統領選挙に比べると決定的な転換点ではなかったと思われる。現在は新しい社会に対する広場の要求がある程度は議題化されてはいても、制度化はほとんどできていない状態で、その作業の大部分を――2月の国会で一部は実現したとしても――遂行する大統領を選ばねばならないヤマ場なのである。

キャンドル市民の要求が単なる政権交代を超えて、この間「ヘル・コリア」をつくり出した韓国社会のあらゆる積弊を清算し、新たな時代の幕を開けろという点は明白である。具体的な議題でも、特別検察捜査を通じた人的な清算、財閥改革、検察改革、選挙制度改革、教育改革、地方自治の強化など、多くの課題が提示されている。問題はこれらの大部分が広場の喊声だけではなく、熟議と立法の過程を要する作業であり、次期政権の性格に決定的に左右される作業でもある。従って、今は「終わりではなく始まり」であり、「朴槿恵以後の『誰』ではなく、朴槿恵以後の『何』を語るべきだ」[ref]金錬鉄「まだ行くべき道は遠い」、ハンギョレ、2016年12月12日、27頁。[/ref]という指摘は一応傾聴に値するが、早期の大統領選挙が確実視される現時点で再考する必要がある。[ref]金錬鉄教授自身も、韓平アカデミーの講義後の討論で、「誰」を考え始める時だという点に同意した。[/ref]「何」をやるかは結局人であり、「誰」を語ることを避ける市民社会の活動家や知識人の態度には、「お供えに目を凝らす」という非難と、特定候補を上げたり下げたりする印象を避けようとする慎重さが作用しているのは事実である。

ここで本格的な人物論を行なう考えはないが、キャンドル革命で「政権交代」というフレーム自体に重大な変化が起きたことを指摘したいと思う。政権交代が時代交代の必要条件の一つであるのは言うまでもないが、私は「2013年体制づくり」を掲げた時点で、ただ選挙勝利にのみ執着しては選挙勝利(=政権交代)さえも逃がしやすいという点を強調した。実際、大統領選挙に敗北して朴槿恵政権にひどく苦しみながら、政権交代に対する国民の熱望はより強くなっていたし、関心は一体誰が朴槿恵とセヌリ党の牙城を崩して選挙勝利を成し遂げうるかに集中された。大統領選挙の敗北後、文在寅民主党前代表に対して全羅道の民心が背を向けた最も大きな理由も、彼が政権交代をなしうる人物ではないという判断であり、それでも全国的に彼の支持率1位が維持されたのも、それなりに知られているし、前回選挙で48%の得票という前歴がある彼を除いては、適当な候補が見つからないという理由だったろう。

キャンドル革命で朴槿恵と親朴系が没落し、セヌリ党が分裂したことで状況は大きく変わった。実は、私は87年体制下で「国民統合」が論議されるたびに、これは分断国家・韓国の現実を軽視した理想論であり、現実としてはセヌリ党が政権を失った後でこそ、守旧勢力主導の守旧・保守同盟から合理的な保守主義者が離れていき、意味ある社会統合が可能だろうと主張してきた。[ref]例えば、拙著『2013年体制づくり』(チャンビ、2012年:日本語版は『韓国民主化2.0』、岩波書店、2012年)、73~75頁。[/ref]しかし、早くて2018年に可能と思ったこの宿題を、キャンドル革命が一気に達成した。つまり、キャンドル革命でまだ完遂されたわけではないが、現政権と与党に壊滅的な打撃を加えたことで、市民は政権交代を半ば達成したわけである。

潘基文氏の不手際な行動と突然の出馬放棄で、その点はより明確になった。一方で、文在寅氏が与党候補の誰を相手にしても勝利するだろうという展望が高まり、いわゆる彼の大勢論が力を得ている反面、政権交代を史上目標とするフレームが弱まる気配も見られる。少なくとも、「反文在寅連帯の大テント」構想が致命傷を受け、大勢論が87年体制内の政権交代に向けた大勢なのか、新社会づくりをなしうる大勢なのか、を検討する余裕が生じた。「果たして文在寅が勝てるだろうか」を問う状態から「そうだ、勝てる確率が高い」という展望が高まって先頭走者の立場が強化された。その反面、「これなら、政権交代は誰が出てもほぼできるのではないか」という考えとともに、「それなら今こそ、誰がキャンドル後の大韓民国を率いるのに最も適わしいか」、「単に一票でも多くとって当選できるかではなく、誰がキャンドル共同政権の構成と運営に最も有能なのか」[ref]「キャンドル共同政権」は、朴元淳ソウル市長が主張したスローガンだが、次期政権は誰が当選しても与小野大が不可避なので、改革課題の遂行のために与野党を超える幅広い「連政」が必要であるという、安熙正忠清南道知事の発言もそれと一脈通じる。「キャンドル共同政権」が確かに既存の野3党の共同政権に局限されるべき理由はないからである。だが、「大連政」は話が違う。通念上、大連政とは二つの巨大政党の連立政権を意味するが、安知事はセヌリ党が改革課題に賛同するのが前提だとしても、民主党がセヌリ党と大連政をするのは名分も薄弱で、現実味も乏しい。安定した国政運営のためならば、野3党の「小連政」だけでも国会の過半数が確保され、「正しい政党」まで参加する「中連政」ならば、セヌリ党による国会先進化法の悪用を防いで改憲さえも可能になる。「正しい政党」が参加するのに、選挙に負けて過ちを悔い改めた(?)セヌリ党が参加できないのはどうしてだという論理も可能だが、そういう調子で立法部内の反対派を根絶やしするのが健康な事態かは疑問である。[/ref]という点に関心が移る兆しもみえる。

特定候補に対する有利か不利かを離れ、これは望ましい進展である。問題は「誰」の適合性をどのように決定するかである。もちろん、各党にはそれなりの党憲と予備選の規則があり、連合候補のための政界の離合集散も可能である。だが、市民がキャンドル革命で社会を変えてきたのに、次期政権の行方は古い時代と大きく変わらない方式で、政党と政治家が思い通りに候補を決め、国民はそのうちの1人を選択しろというのは馬鹿げた話である。キャンドル市民が大統領候補の選定過程にも何らかの形で介入するのが道理であり、ただ大規模なキャンドル集会がその作業に適合した現場ではなく、集会を主管してきた「朴槿恵政権退陣非常国民行動」も性格上そうした作業を管掌しがたい。その一方、「民主、正義、平和、平等のキャンドル市民の名誉革命を完遂するために、『広場民主主義』の意志を結集しうる『改革主体』として、『国民運動体』を樹立」しようという「千人宣言」(2017年1月18日)が出されるとか、「退陣行動」に参加しているいくつかの個別団体の主催で重要な政治家を招いて市民討論を行なう方案も模索していると聞く。私自身は特別な妙案をもっておらず、昨年末に発表した「新年コラム」における、次のような原論的な主張を繰り返したい。

 

ある特定の方式が最善だとはじめから決めておく代わりに、今までのキャンドル革命がそうであったように、多様かつ開放的な態度で実験を重ねていくならば、市民自らも従来の固定観念を振り払う自己教育の過程になり、集団的な知性が再び輝くのです。キャンドル集会や「万民共同会」に主要候補を招いて話を聞いてみることもできるし、規模を少し縮小してより沈着な討論と評価をやってみる方法もあるでしょう。どんな場合でも、SNSなどを通じて討論の続きや検証も当然あるでしょう。時間は多くありませんが、いま始めれば民意がより忠実に反映される方法が生まれるでしょうし、直接民主主義と熟考する民主主義を同時に強化し、代議民主主義も改善する先例を生み出せるでしょう。[ref]拙稿「新年も動きましょう」、『チャンビ週刊論評』(weekly.changbi.com)2016年12月28日、同日のハンギョレに同時掲載(日本語版は『世界』2017年4月号に掲載された白楽晴「今年も動きましょう」252~254頁)。[/ref]

 

Ⅲ.「朴正熙モデル」の克服

ところで、「誰」に対する論議が必要なように、「誰」を点検する時に「何」を、どのようにやり遂げる人物なのか、が重要な基準になる。そうした点で、キャンドル革命の課題として重要と提起された、いわゆる朴正熙モデルの克服について考察してみたいと思う。

一部では、朴槿恵の弾劾とともに維新時代がついに幕を下ろしたと診断して、朴槿恵が没落してついに「朴正熙神話」も終わったと、時期尚早に喜ぶ声も聞かれる。「時期尚早」というのは、朴槿恵の当選後、政府によって人為的に拡げられた朴正熙神話が、その娘の想像をこえる国政失敗と、これに対する国民的な断罪でほぼ致命的な損傷を受けたのは事実だが、同時に「父親の四半分だけでも……」という思いが残る人も珍しくないからである。[ref]少なくとも、大邱地域では朴正熙神話が大きく揺らいでいないことを物語る現場報告として、ハンギョレ2017年1月12日、10頁の記事「朴槿恵が嫌でも左にはいかない……朴正熙の顔に唾するのがシャクにさわる」を参照。[/ref]より重要なのは、「四半分もできなかった」というのは厳然たる事実であり、朴槿恵に対する断罪とは別に、朴正熙および朴正熙時代に関するより科学的な評価が伴わなければ、「神話」の復活もありうると思う。[ref]10年前の文章で私は次のように主張したが、今も基本的に同じ考えである。「朴正熙に対するノスタルジアこそ、朴正熙時代の最悪の遺産に属する。基本的な諸般の権利に対する無関心、人間の苦痛と貧困に対する無感覚、対話と妥協を通じた問題解決に対する拒否感、そして『いい暮らしをしよう』という乞食の哲学以上のすべての個人的または共同体的な哲学に対する無知などを、そのまま内蔵しているのが『朴正熙ノスタルジア』である。こうした遺産は、朴正熙時代に対する適切な判断がなされ、朴正熙また彼の正当な役割が認められるまでは、その病的な作用をやめないであろう」。(拙著『朝鮮半島式の統一、現在進行形』、チャンビ、2006年、第14章「朴正熙時代をどのように考えるか」、275頁:青柳純一訳『朝鮮半島の平和と統一――分断体制の解体期にあたって』、岩波書店、2008年、137頁)[/ref]

維新時代がついに終わったとの主張も正確な表現ではない。維新政権の亡霊を蘇らそうとする朴槿恵の試みに死亡宣告が下されたのは確かだが、厳密に言えば、維新体制は1979年釜馬抗争と10・26事件で崩壊した。全斗煥政権が亜流の維新独裁を6月抗争時まで引き継いだとしても、87年体制の定着によって維新時代を蘇らそうとするのは不可能になった。くだらない復元の試みが混乱を極大化させただけである。

他方で、朴正熙式の経済成長モデルというなら、これは今も威力があって、きちんと克服できなければ、朴正熙神話の復活の助けになる可能性が高い。ただこの場合も、正確にいかなる経済モデルを指すのかを検討する必要がある。

経済成長の追求自体は資本主義の一般的属性なので、それと朴正熙モデルを同一視するのは、資本主義的成長の多様な経路を単純化するだけでなく、「朴正熙モデル」をむしろ簡単には克服できなくしてしまう。一部では「新自由主義」と朴正熙モデルを同一視しているが、世界的に新自由主義が資本主義の新たなパラダイムとして登場したのは1970年代であり、それは色々な面で朴正熙式の発展国家モデルとは相反する性格だった。朴正熙時代の経済成長はたとえ貧富の格差を拡大したにせよ、基本的に「国民経済」を単位としたのに比べて、新自由主義はグローバルな資本家階級の利益を絶対視し、個別の国民国家はそうした汎世界的な階級利益の極大化に従事する道具という性格を強めたものとみなければならない(もちろん、そうした機能の遂行に必要なほどの国民経済の備えは許されるが)。韓国に新自由主義が本格的に入ってきたのは、多くの論者が指摘するように、1997年の国際通貨基金(IMF)の救済金融が契機であり、いわゆる進歩的な論者があまり認めない点だが、その時の金大中、盧武鉉政権は対案を模索する努力もせずに一方的に導入したわけではない。李明博・朴槿恵政権になってこそ、それが一層勢いを増したが、それでも朴正熙式の開発独裁に対する政権担当者の未練と「封建的な」利権勢力の温存によって、新自由主義と前近代的な発展主義が入り混じる奇形的な経済が形成されたと判断される。

それゆえ、朴正熙モデルを国家主導の発展国家または「開発独裁」に限定して理解するのがより相応しく、生産的なようだ。それを通じて韓国は目を見張る高度成長を実現した代わりに、政経癒着と不正腐敗、格差の拡大と社会葛藤の深化など、今日の韓国経済の足を引っ張る問題点を抱えるに至った。その正確な様相は専門家の分析に任せるが、朴正熙モデルの成立条件として必ず指摘すべき――実は、専門家がかなりよく見逃す――事項がある。つまり、独裁政治と経済成長を結合した朴正熙式の開発は、朝鮮半島の分断と南北の対決状態、そしてグローバル次元の冷戦体制という現実の中で可能だった、という事実である。5・16革命公約の第一項は「反共を国是の第一義」とみなし、塗炭の貧困に苦しむ民生を救い出すクーデターの名分とは直接的な関連がないスローガンであり、実際に執権期間中、朴正熙は李承晩時代に劣らない大々的な「アカ狩り」を行なった。7・4共同声明など南北和解を志向するような措置を取ったが、すべて自らの権力保全と独裁強化に徹底的に利用した。

朴正熙モデルのこうした成立条件は、87年以後もきちんと清算されなかった。87年体制は1961年以来の軍事独裁を終息させたが、独裁に堅固な基盤を提供していた1953年以来の分断体制を克服できなかったことで、決定的な限界を抱えて出発したという診断も、そうした意味である。独裁の清算にかなりの成果が実現される中でも、経済と国民意識の多くの部分で朴正熙モデルが依然として威力を保ち、ついには「朴正熙ノスタルジア」に染まった勢力の大々的な反撃を許したのも、まさに「朴正熙モデルの成立条件」の本質的な持続性のためだった。それゆえ、キャンドルが要求する新社会に適合した経済・社会パラダイムをつくる作業は、87年体制のこうした限界を克服する作業でなければならない。実際、守旧・保守勢力は87年以後も厳存する分断の現実を徹底的に意識し、「従北狩り」や「安保危機」を造成して自らの既得権を強化してきた。それでも、対案的ビジョンを標榜する多くの知識人や活動家が今も、分断のない外国の「先進的」モデルを模倣しようとするか、とにかく南だけの完全な自由民主主義、社会民主主義、社会主義、または平和国家のような、各種の先進社会を建設しようと没頭するなら、「後天性分断認識欠乏症候群」と揶揄されるのは避けられないだろう。知識人の言説も、キャンドル革命の成果として従北言説がかなり弱まり、効果が落ち始めた今回の機会を十分に生かすべきであろう。

 

Ⅳ.改憲に関して:憲法と裏憲法

差し迫った大統領選挙の日程にてらし、その前に改憲するというのは常識的に納得しがたい。それでも早期改憲が主張され続けている。私が思うに、これは実際にできるか否かの改憲推進を環にして、「大テント」や「小テント」をつくろうとする政略的な下心か、たとえ政略を離れた本心だとしても、金南局教授の指摘通り、市民より国家を優先する国家主義的な発想である。[ref]金南局「改憲、国家主義的な近道の誘惑」、ハンギョレ2017年1月16日、27頁。[/ref]いずれの場合もキャンドル市民の民心とはかけ離れたもので、今回のキャンドルは1987年のような改憲運動ではないばかりか、敢えて言えば、護憲運動に近い。憲法に明示された民主共和国の骨格を守ろうとする主権者が直接立ち上がったのであり、何よりも「憲法が守られなかった国を憲法が守られる国へと変えるという、より本質的な革命」[ref]前掲の拙稿「新年も動きましょう」。[/ref]が起きたのである。もちろん、キャンドル革命で社会が変わっているので、憲法もそれに合わせて改定するのは正しい。改憲論者が直そうとする条項が、キャンドル市民が守ろうとした憲法第一条でないのも事実である。ただ、どの条項をどのように直すのかに関する討論に、市民が十分な時間をかけて幅広く参加すべきである。従って、改憲論議自体を無条件で先延ばしにするのも適切ではない。むしろ、候補や政党ごとに自らの改憲構想と予想スケジュールを提示して選挙に臨むのが道理だろう。

憲法を論議する時に忘れてならない点は、大韓民国には公布された成文憲法以外に、一種の「裏憲法」が存在するという現実である。統合進歩党への解散判決の時、憲法裁判所自らが明らかにしたように、大韓民国の法秩序は「北韓という反国家団体と対峙している大韓民国の特殊な状況を考慮」して運営されるので、憲法第1条や第10条、第11条などが保障する国民のあらゆる権利も、「分断という特殊な状況」によって制約されてきた。その端的な表現が国家保安法だが、[ref]拙著『2013年体制づくり』、「韓国民主主義と朝鮮半島の分断体制」144~147頁を参照。[/ref]より広くは「アカと見なされた者には権利が認められない」という一種の慣習憲法が作動してきたのである。政界の改憲論者が主に狙う「帝王的大統領制」の本当の根も、実は、この慣習憲法、裏憲法にある。実際に87年憲法は、従来の第五共和国憲法や維新憲法に比べると、大統領の帝王的権限を画期的に制限し、その憲法がきちんと守られれば、かなりの程度は分権型の政府運営が可能であった。もちろん、もっと手を加える余地がないわけではない。特に、中央政府の権限を大統領と首相の間でどのように分担するかという話の前に、地方自治を強化して中央政府の権限を縮小する必要があり、国民の基本権を拡張して政府全体の権限を相対的に減らすべきだろう。しかし、87年市民革命でも完全になくせなかった裏憲法を残したまま成文憲法を直すだけなら、本質的には何も変わらないに等しい。

だから、私たちが最も急ぐべき改憲とは、この裏憲法の廃棄である。裏憲法は成文化されたものではないので、国会で改定する性質ではない。方法は主に二つあると思われる。第一に、南北関係の改善・発展を通じて北韓を「反国家団体」とか「主敵」としてよりも、交流・協力および究極的な再統合の対象とみなす国民意識の変化である。これは実際に、87年体制最初の20年間にかなりの進展をみせたが、李明博政権以来の逆走を重ねた結果、今回のキャンドル群衆の間でも「南北関係の改善」が至急の課題として浮上しないほどになった。この間、南北関係の悪化が分断体制のもう一方の軸である北韓の行動に起因した面を勘案しても、韓国内で裏憲法の作用が南北関係の改善を妨害し、ついには盧泰愚政権以来の成果を逆転させる結果をもたらしたのも否定できない事実である。第二に、国内で裏憲法を信じて様々な不正・腐敗と国政蹂躙を犯す輩を罰し、「文字にあった憲法第一条を今こそ全国民が歌い、身をもって書こうとしている時代」[ref]韓寅燮「『主権者革命』の時代へ行進するために」、ハンギョレ2016年12月17日、14頁。[/ref]を切り開いて裏憲法を無力化する道である。完全な廃棄まではまだ道が遠いが、キャンドル革命によってその作業がどの時よりも大きく進展した。弾劾審判の大統領側弁護人がキャンドル群衆をすべて「親北左派」で括った発言も、裏憲法の戯画化・無力化を手助けするのに貢献したといえる。

 

Ⅴ.キャンドルと朝鮮半島、そして世界体制

1987年当時、「民主」とともに「自主」と「統一」が運動圏の主要スローガンだった。その時は今より「分断認識欠乏症候群」はもっと少なかった。ただ、分断を意識しているが、南北双方で支えあう分断体制に対する認識は乏しかったので、87年体制は民主化をきちんと遂行し、次の段階に躍進する過程につなげることができなかった。キャンドル群衆もまた分断体制に対する認識で武装しているとは言いがたく、南北関係に対する市民の問題意識も広場で間歇的に表現されるにとどまった。だが、前に指摘したように、裏憲法を廃棄して完全な民主共和国を実現するという作業には、国内での民主憲法の守護と南北関係の発展という二つの道があり、その二つが緊密にかみ合っているという認識こそが、「分断体制論」の核心である。この間、南北関係の悪化が裏憲法の受恵者の横暴を助けてきただけに、彼らに対する確固たる断罪は南北関係の改善に再び道を切り開くし、これはまた韓国社会の民主化と正義の実現に貴重な貢献となる。このようにかみ合って展開されるキャンドル後の新たな社会は、南の人々の生命と安全を守り、生活の質を高めるためにも、南北の緩やかな結合をまず図るもので、究極的には世界史になかった新たな形態の汎朝鮮半島的な共同体を建設する変革を成就しうるであろう。[ref]本稿では、別途の論議を自制したが、朝鮮半島体制の変革を志向する国内の改革的な統合路線を、私は「変革的中道主義」と呼んできた。これに対する人々の論議を集めた本として、鄭鉉坤編『変革的中道論』(チャンビ叢書5、チャンビ、2016年)、そして注6)にあげた拙稿「大きな積功、大転換のために」の第6節「何が変革で、どうして中道なのか」(56~63頁)を参照。[/ref]

最後に、キャンドルの世界史的な意義について、一言付け加えたい。2016~17年韓国のキャンドル革命でもう一つ特異な点は、世界的に民主主義が後退し、暴力が乱舞する時期に起きたという事実である。ソ連と東欧の独裁政権が崩壊した大勢に乗った「ベルベット革命」や6月抗争などの一連の変化とは対照的である。その時以後、資本主義の世界体制は気候変動をはじめとする生態系の危機が一層深化する一方で、グローバルな資本過剰、人工知能・ロボットなどの画期的な発展による働く場の縮小傾向、国際秩序を管理していた国家間体制の衰退による局地戦の増大と難民の大量発生など、諸問題に対処しうる能力をほぼ喪失した状態である。これによる大衆の不満は時おり「オキュパイ運動」のような民主的な改革運動を生みはしたが、大抵は米国トランプ大統領の当選やヨーロッパにおける極右政党の勢力拡張に見るような、ファシズムに近い形をとりがちである。まさに、そうした大勢に逆らう市民革命が韓国で起きたのである。これはキャンドル革命の今後がそれだけ険しく、難しくなりうるという意味でもある。国際関係や世界経済の現況がともに87年体制の枠内での政権交代では支えきれないレベルであるのはもちろん、南という枠を超えて朝鮮半島と東アジアで、世界史の隙間に活路を発見していかない限り、今後の見通しは立たなくなっている。このためにまず、大韓民国に実力を備えた民主政権を樹立すべきであり、南北関係の画期的な改善を通じて韓国経済の活路を求めると同時に、東アジア、さらにはユーラシアの地域協力で朝鮮半島が障害物になってきた現実を打破しなければならない。そうすれば、すでに始まった天下大乱期に不可避の混乱を他より少なくして生活基盤を確保できるし、世界が大乱期を越えて新たな文明建設へと進んでいく過程でも、創造的かつ比較的安全な拠点を提供しうるであろう。

 

翻訳: 青柳純一