敬虔に振り返るな: 4·3抗争70周年を迎えて / 金時鐘
金時鐘(キ厶·シゾン)詩人
今日の慰霊祭はくしくも4・19学生革命記念日とも重なっています。
アメリカ占領軍の大大的な支援のもと、陰惨を極めた皆殺し作戦で、済州島4・3事件を鎮圧した韓国初代大統領李承晩は、この日、純真な学生たちの決死の抗議によって、その大統領の座を追われます。
若い命を真っ赤に路上に散らした186名の霊魂に追慕の尽きない祈りを捧げます。
このの鮮烈な4・19学生革命に比べて、わたしの体験はいかにも貧相で卑屈なものです。わたしは4・3事件から逃げたものです。そればかりか、その事実すらわたしは50年間も口をつぐんできました。
ともに暮している妻にさえ、立ち作った話をしたことがありません。
あれは1999年でしたか。「もうそろそろ心のうちを吐き出して精神的に楽になりや」と、先輩の金石範先生にせっつかれて、自分が経ってきた4・3事件を4・3慰霊祭の大勢の前ではじめて打ち明けました。
それまでわたくしが口をつぐんできたことは、まずもって2つの理由があります。
1つは、4・3蜂起事件の蜂起闘争は、49年半ばまでも人民蜂起といわれたものです。「民衆」はまだ「大衆」と言われた時代で、それよりも人民という言われ方に、より大きい共感がそそられていた時代でもありました。
わたくしはすでに明かしているとおり、済州南労党の党員の端くれでありました。そして、連絡員の役目を受け持つていました。
わたくしが4・3事件の関連者で日本に逃れてきたということを打ち明ければ、虐殺の限りを尽くしたアメリカ軍政部も含めた政権側は、済州島4・3事件を共産暴動だと言い続けていましたし、いまもその強弁に固執する右翼勢力の人たちの依然として根強い存在です。
南労党の党員の端くれとはいえ、わたくしが4・3事件から逃れて日本に来たとことを打ち明ければ、4・3事件は共産暴動であったという証明になる。わたしの思いからすると、人民蜂起という正当性が損なわれるような気がして、まず打ち明けるようなことができませんでした。
2つ目は卑屈であり、いかにも姑息なことでありますが、日本で住むことに執着したあまり、名乗り出ることがばかられました。
名乗りでるということは、わたしが日本に正当な手続きへずに、いわば不法入国したこと打ち明けることにもなります。出入国管理令は時効というのがありません。50年たとうと、80年たとう
と、日本国の国益に損なうものと認定されれば、いつでも強制送還されます。
わたしがへてきた経験してきた事実は、岩波書店で出していただいた新書版にわりと細かく書いておりますので、それを読んで下さることを期待しながら、ともあれ、宝くじに当たるような確率で日本で命を長らえてきたわたくしからすれば、わたしは一人息子でして、妹一人もいません。年老いた親父、おふくろは、わたしを生かすために、ありったけのもの、金に替えられるものを全部金に替えて、警官を買収して、漁船を買収して、クァンタル島という岩島で逃して四日間一人で潜んで、こちらに逃れることができました。
これはまたくもって奇蹟に近い脱出でありました。
お父さんがわたしを逃すときに、「たとえ死んでもわしの目が届くところでだけは死んでくれるな」と言って、わたしを逃してくました。
そのようなわたしからすれば、出入国管理令にひっかかって、強制送還されるということは、李承晩政権は倒れたとはいえ、軍の強権政権が以後30年近くもつづいていた大韓民国でありましたから、おそらくそのまま抹殺されたでありましょう。そういう恐怖を背負っているものとして、4・3関連者であることを打ち明けることができませんでした。
それが1997年だったと記憶しますが、東京と大阪で初めてわたしの身の上話をしたのです。
4・3事件のいきさつや、4・3事件の実相、4・3事件の本当の事実については、本日の慰霊祭の世話人の一人である文京株教授が条理を尽くして何冊も書き著していますので、わたしが重ねて申し上げるまでもないことではありますが、南北朝鮮を統一させるための過渡的措置として提起されていた信託統治案の提示に関しては、わたしの体験と照らして付言しておきたことがあります。
わたしたちはたしかに、1945年8月、植民地統治から解放されはしました。しかし、知ってのとおり、朝鮮半島がアメリカとソ連の分割占領下におかれてしまいます。
済州島にも当然米軍の占領統治が及んできました。分割占領はもちろん、済州島だけでも7万あまりから駐屯していた日本軍の武装解除のためもあって便宜的なものとされていたものでした。あくまでも分割は便宜的なものであったわけです。
分割占領にのぞむ米ソ両国が、朝鮮半島の戦後処理として構想していた枠組みは、ルーズベルトアメリカ大統領の発意による信託統治という考え方でありました。
朝鮮人自身の臨時政府を南北合わせて樹立はするものの、これを5年間に限って、4大国、アメリカ、イギリス、中国が後見、親代わりとなって世話をすることを後見と言いますが、その後見する信託統治のもとにおくという朝鮮統一独立案です。
その構想がアメリカとソ連との間で合意をみたのは、解放の年である1945年も押し追った12月末のことでありました。
信託統治の発表はその賛否をめぐって激しい対立が朝鮮半島を巻き込みました。植民地統治が終わって解放されたばかりだというのに、またもや統治されるのかという素朴な民族心情が激化して、信託統治にこぞって反対したんですね。
その当時、本国にいたものとして、あの信託統治の反対の気運は、それこそ津波のような高まりでありました。
ですが、わたしが所属していた南労党、書記長は朴憲氷氏でしだが、大方の民族心情が信託統治に反対であるのに、南労党は、ある日突然、それまでは金九先生らが先頭に立たれた反対闘争に同調していたわけですが、総決起集会の直前、信託統治を受け入れることに賛成、これを賛託といいますが、その賛託に南労党は立ち場を変えます。
この南労党に対する民衆の反発も大きいし、ここぞとばかりアメリカ軍政府は右翼団体とこぞって、民族の独立を阻害しているのは、南労党であるという口を極めた反南労党キャンペーンを繰り広げました。
当時に状況ですが、いま出たばかりの平凡社の金石範氏とわたしの対談集『増補 なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社ライブラリー828、2015年)で、解説で文京株教授は当時の状況、状態を実に的確に書き著していますので、短いのでここで紹介いたします。
「信託統治案の発表は朝鮮半島にその賛否をめぐる激しい対立と混乱をもたらした。北では民族主義者曺晩植が最後までこれを拒み、南では金九が重慶にあった大韓民国臨時政府を母体とする独立国家の即時樹立を掲げて猛反発した。これに李承晩ら反ソ・反共の右派も合流し、日帝時代のいわゆる親日派も便乗した。信託統治反対(反託)の運動は、すねに傷をもつ親日派が民族独の大儀をもって政治的復権する格好のチャンスを与えた。一方、当初、反託の立場を示した左派は、朴憲永の平壌への秘密訪問(四五年一二月二八日)以後、信託統治支持(賛託)にまわり、信託統治の賛否は、そのまま左右分裂となって解放後の朝鮮社会にとり返しのつかない亀裂をもたらした。一言でいえば、4・3事件とは、この「信託統治」の具体化に向けた米ソの話し合いがこじれ、便宜的な分割占領が、恒久的な南北分断へと向かうなかで起こった悲劇であった。」(p.255)
実に的確な指摘です。
つまり、5万人余りにも及んだ4・3事件の犠牲者、公的には3万人と言われていますが、最低でも5万人は下らないというのが、わたしのかたくなな実感です。この数年だけでも、4000人近い4・3関連犠牲者が新たに判明してきています。
いずれにせよ、これだけの目を覆うばかりの犠牲者が米軍政下で生じたのですから、同族想残とばかりは言い切れないものを、この4・3事件を抱え持ってます。
言い換えれば、米軍政庁がその気でさえあれば、この犠牲者の大半は死なずに済んだ"暴動"だったのです。それが、「赤一掃(パルゲンイ)」という名分でもって島民虐殺が容認され、支援さえ大大的になされました。
米ソの角突きあいによる第2次米ソ共同委員会の決裂、正確に言えば、1947年8月12日ですが、この決裂によってもたらしてものは、東西両陣営が対決する冷戦の発端となって、分断対立の一大要因を朝鮮半島に作り出したばかりか、"反共の大儀"が南朝鮮における政治情勢を席巻するまでに至りました。左派勢力の総検挙も米ソ共同委員会の決裂を機に、全国規模で民衆勢力の掃討にかかりました。
信託統治の可能性はもはやなくなりました。北朝鮮が進めている民主基地確立論が現実味を帯びて済州島の南労党にも、逼迫した気持ちで民主基地確立命よ主主主旦が党員間で熱い共感を呼ぶようになるました。
民主基地確立論というのは、46年2月8日、金日成の主動で構成された「北朝鮮臨時人民委員会」、この権力機関は曺晩植等の民族主義勢力を排除し、朴憲永共産党が進めていた民戦の組織構造をも現実的に否定して、つまり、信託統治が想定する「朝鮮臨時民主政府」の基礎づくりの意味合いをもっていた運動体を否定して発足した。
北朝鮮中心の権力機構でしたが、その臨時人民委員会の戦略的運動方針として、金日成が打ち出した「民主基地路線」に済州島南労党内の若手幹部たちが闘争の活路を見出そうとして使っていた呼稱です。当時現場におったものとして、やむをえないものだった思います。
この信託統治と民主基地確率論との二津背反的自家撞着に駆られていながら、それでもわたしは心情的に感情的に、島党内軍事委員会の動きに同調していました。南朝鮮にも民主基地を早く確立して、北と呼応して闘う方法しかないと思ったわけです。
わたしは自分の4・3体験を一冊にまとめはしましたが、自家撞着に陥ったことについては、ほとんどふれることはできませんでした。わたしたちがもうちょっと賢明、いや、わたしそのものが問題を広く見て取れる知覚を身につけていたならば、との悔いがうずまきもしますが、まだはたち(20)そこらの若輩には反ぶべくもない情勢認識でした。これは非常に誤解を買いやすい発言ではありますが、敢えて言いますと4・3事件の決起は一揆主義的なものであったのではないかという思いを禁じません。何万人もの犠牲者が出る「蜂起」になろうとは、島党軍事委員会だって想像もしなっかたことではなかったでしょうか。
わたしは日本に来て、ようやく広い視野で自分のことが振り返ることができて、信託統治に朴憲永南労党が賛成をした真意を知ることができました。
信託統治に反対をすれば、アメリカは南朝鮮だけを独立させることに回ることは、当然の手順のように、予想できたことだったのですね。ですから韓国だけを独立させるというアメリカの意図とその気勢を削ぐためにも、信託統治は受け入れるべき当然の課題ですね。それを血気にはやって、「まともや統治されるのか」という民族心情の激化が、信託統治のあるべき姿を見すごしてしまっていたのでね。
この自家撞着に陥った隘路について、わたしは回想記の形をとってぼつぼつ書いてきましたが、それでもその内実を浮かび上がらせることはできませんでした。
わたしは日本に来てからでも65年がたっていますが、いまでも眠りに就くのが怖いくらい、犠牲者といわれる惨殺体の映像にしばしば脅かされます。
犠牲者といえば、敬虔な思いにそそられる死者たちのはずですが、4・3事件の犠牲者たちは体の毛がよだつほど醜悪な腐乱死体です。その臭気はとてもじゃないか、耐えられたものではない。
4・3事件が勃発しで間もない6月半ばまでも、済州農業学校は大きい理村の吾羅理、我羅理に近いこともあって、民衆からは山部隊(サンプデ)と呼ばれていた武装隊との、連絡交信の主要拠点でありました。その農業学校を右手にしてまっすぐ延びている漢拏山の麓の観者寺の手前に訪仙門と呼ばれていた「トゥルロンギ」の峽谷があります。奈良の若草山のような秃山があって、その渓谷にはチンダルレの名所としてよく知られているところです。
わたしは中間連絡員で、農業学校からトゥルロンギまでの中間連絡を6月半ばまで受け持っていました。
夕方、4時ごろトゥルロンギの渓谷のくぼ地に牛をひいてくる少年か、農夫がおって、わたくしとの交信の連絡を取り合います。
その日は、昼間は討伐隊たちがやってきて、夜は遊撃隊が降りてます。わたくしは夜の闇にまぎれて戻っていくのですが、その日は、討伐隊が時間を延ばして再捜索に入っていたんですね。
わたしは草叢に潜みました。そのすぐ近くに撃ち殺されて腐敗している、農夫の死体がありました。野良衣のバジ(ズボン)の膝下に、ゲードル代わりの荒なわが巻きついたままでした。その臭気たるや、人間って、こんなにも無残に殺されて放置された死体はなぜこんなにも汚いのでしょうか。人間の腐るにおいは、死体にたかっている蛆のすさまじさは、いかなる表現も寄りつけません。
それほどにもあ済州島四・三犠牲者は身の毛がよだつ醜穢な腐乱死体です。
逮捕された赤色容疑者(パルゲンイ)見せしめのために、首を吊ったままぶら下げておききます。6月ともなれば、一週間くらいで首から下が抜け落ちます。そこに蛆がたかるのですね。
人間の死体にたかる蛆というのは、しっぽが長いのです。まず眼窩か湧きだし、ウジャウジャともつれてたかります。殺された生命は、顔を背けずにはいられないほど損なわれた肉体をさらします。
犠牲者を敬虔な気持ちだけで追慕するのは、わたしには罪深いことのように思えてならないのです。犠牲者は決して厳かなものではありません。死体にたかる蛆は日に映えて黄金のしっぽをくねらせながら死体をむさぼり、死を強いられた死者がそこで腐っているのです。
遊撃隊のみすぼらしいいでたちもめに焼き付いて離れません。捕らえられて処刑された遊撃隊員は、誰彼なしにたぶだぶのパジを膝下でひもくくったせめて戦闘服くらい着せてやりたい素朴な勇士たちでした。竹やり鎌、鉈で闘った、一気の範囲を出ない“暴徒”たちです。これを共産暴動と強弁して殲滅を図ったのですね。米軍政の横暴と単独選挙に反対して、止むにやまれずに立ち上がったのです。
わたくしも武装蜂起の側の末端のひとりでしたが、命ながらえる、逃げる、潜むということは、本当に死んだほうがましなほど、今にも気が狂うほど苦しいものです。
わたしが済州島を脱出したのは49年の6月ですが、その2か月ほどまえに、日本から引き揚げて2年しかたっていない母方のいとこの姉さんの夫である高南杓という人がいるのですが、平和公園の霊安室にも名前がありません。トドグ磯釣りをしていたところ討伐隊に虐殺された。
わたしが討伐隊によって虐殺された死体を最初に見たのは、この従妹の夫の高南杓兄の死体です。目の片方をくりぬかれていましたし、右腕は二の腕のところでもがれて、ひときりの皮膚でつながっていました。近親者の葬儀は検問を通りやすいこともあって、別算段をしている私も駆けつけたのですが、本当に憎しみがこみ上がりました。くりぬかれた目にはちがにこごりのように滞っていました。
日本から引き揚げてきてまだ朝鮮語もおぼつかないいとこの姉は、放心状態に陥っていましたが、とどのつまり行き場をなくしたわたしは済州島を脱出するまで、その姉のところに潜んでいました。討伐隊の方でも無茶をしたという思いがあるから、従妹のところまで再調査に入らないのですね。
青年同盟とかの組織につながっていた若者は捕まればたちどころに惨殺です。石で頭をつぶすほどの殺し方です。
中には逃げ場がなくて、済州島ではヌル(収穫後の麦わら束ねて積み重ねたもの)といいますが、ヌルに潜まるのです。討伐隊は問答無用に押し入ってきてヌルを目がけて一斉に射撃をします。しまいには火まで放ちます。
どれだけ無残な死に方をしたことか。
わたくしは49年6月、済州島を脱出するまで点点点と、アジトを五か所も変えて逃げまわっていましたが、三度目の隠れ家は改変の家の、裏庭にある物置き小屋でした。48年10月のかがりごろでした。シンバン済州島の巫女の銅鑼の音が風に吹かれて流れていたのです。
浜を石垣すき間からのぞきましたら、400メートルほど離れた渚で、済州島の海岸は砂浜ではなくて砂利浜なんです。赤、青、黄色の原色の祭礼衣装を着た女性のシンバンが夕日を浴びて、スローモーションの映画のように踊っているのですね。海に投げ込まれた犠牲者の死体がまた上がってこないため、遺家族たちが「早く遺体が上がってきてください」とお祈りをしているのです。
わたくしは今でも社会主義を信じているものです。朝鮮民主主義人民共和国のような独善、独断の“社会主義”をひけらかす王家体制の国があって、すこぶる評判がわるいのですが、そのような専横な“社会主義”ではなくて地声で気兼ねなく話ができる至って平明な、市民社会が基本になるような社会主義です。
年をとって生活に不安なく、勉学をするのに他を押しのければならないような教育制度でなく、働くことで収奪されない国家・社会が悪いわけがない。
武装蜂起の先頭に立ったわが先達の四・三の勇士たちも、そのような人民的な国家体制を願って生涯をかけた、とわたくしは信じています。ということは、わたくしも唯物史観を世界観としているもののひとりであるということです。
ですから、シャーマニズムは信じませんし、シンバン(巫女)の呪術も当然信じません。
小さいときから「シンバンは迷信だ」と、日本の先生ににいわれていたこともあって、シンバンというと、知らずのうちに軽蔑していました。そのようなわたくしがスローモーションの映像のような、浜辺で踊っているシンバンの鎮魂の祈りを見たとき、背筋から電気が走りました。
その土地の禍いは、その土地の神でないと鎮められないという、その土地の原初的な祈りに打たれました。
あれは48年の夏も終わりかけていたころのことでした。
海に投げ入れて殺したふた組ほどの犠牲者が砂利浜に打ち上がったことがあります。四・五人ずつが手首を針金でくくられていました。波が寄せるたびに遺体がずるずるこるられて、ズボンやパジ(韓服の男性用下衣)は帯を取り上げられていますから、剝き出しの下肢があからのようにすり落ちるのです。なかには骨がそのまま見える遺体もありました。
そのような犠牲者の恨みは、やはり、そこの地元の産土神、そこの土着の神じゃないと鎮まれない、ということを骨身に沁みてわかりました。
このことを申し上げるのはわたくし自身がシンバンによって救済された一人であることを告白したいからです。
私が指名手配で逃げを打っているとき、やむをえず母方の叔父の家に身を潜めたことがあります。裏庭からつづいている畠の種芋の穴ぐらに昼間はかくれていました。叔父貴はこの区域の区長でしたので、討伐隊、警察関係の上役あたりがしょっちゅう出入りしていました。叔父貴は自分の甥っ子が裏の畠に潜んでいるということもあってちょっとしたもてなしをしていたとも考えられますが、それを山部隊の方では、討伐隊とねんごろになって、情報を売っていると思い違いをしまして、49年2月13日の明け方、叔父貴を処刑しました。竹やりで腹部を2か所刺されました。
人間のいのちというのは、腸をはみ出たまま、裏の石垣をこえ小径に落ちるのですが、それでもすぐには死ななくて、3日3晩、牛のうなり声のような声をあげて苦しんでいました。わたくしが責められているようで、本当に自決をした方がいいと何度おもったかわかりません。
叔父貴の佗びしい野辺送りがすんだあと、これ以上叔父貴宅に負担をかけるわけにはゆかなくて、夫を虐殺されて放心状態がつづいている従姉のところに移りましたが、夜になれ何かに慿かれように裏門に立って、恨みの呪い声を張りあげていました。それでも隠れているわたくしの世話(??のあとかづけまで)は、実に用心ぶかく親身に看てくれました。叔父貴の長男、わたくしにはいとこの兄にあたりますが、終戦直後から済州市内で貨物運送会社を興して成功なさった方です。わたくしが自分が育った済州島に行けたのは1998年10月です。金大中氏が大統領に当選し、大統領を歓迎する祝賀会が大阪で開かれましたが、まだ朝鮮籍のままだったわたくしに思わぬ招請状が送られてきました。ただ1人の朝鮮籍の参会者でした。それがいい条件ともなったのでしょうか。臨時パスポートの発給を受けることができました。おかげでまる49年ぶりで、父、母の墓を尋ねることができました。八重むぐらの奥に、二つ並んで墳墓がありました。
臨時パスポートを手にすることができたのは僥倖としか言いようがないありがたいことでしたが、妻が同道することには悩みました。済州島に行けば、母方の親族たちから、人でなしと罵倒されることはもう目に見えていましたので、そのような不様な自分を、日本育ちの妻にだけは見られたくなかったからでした。
まわりからのつよい批判もあって、腹を決めて、1998年10月、妻といっしょに済州空港に降り立ちました。
まる40年間、親父、おふくろの墓のみてくれていた母方の甥と姪が駆け寄って来て、罵るどころか、「よく生きて帰ってくれました」と首にすがって泣いていました。済州島こそわたくしの墳墓の地だと、心に期するものがありました。済州島訪問にはまた、おおっぴらにできない、心のしこりもうずいていました。
墓参りのためとはいえ、済州島に行けばいとこの兄(山部隊に殺された叔父の長男)ともあいさつを交わさなくてはならない。かくまっていただいたこともあって、わたくしはずっと気がとがめていました。従兄は従兄で、わたくしへの気づかいからか、何となく目線を合わさないのです。
五年ほどが経って90分のわたくしのドキュメンタリー、「海鳴りのなかを」がNHKで放映されることになり、そのロケーションで済州島に行くことになりました。そのおり意を決して、6時間にもわたるシンバンの祭礼を執り行いました。
わたくしは親父、おふくろにお茶一杯差し上げたことがない不孝者です。わたしをかくまった叔父貴は誤解されて山部隊(サンプデ)に殺されました。わたくし自信が救われたかったのです。郷土の信仰に従っての鎮魂の祭礼を捧げました。
叔父貴のを霊を慰め、父親、おふくろの霊を慰める祭礼にひれ伏しました。従兄一家もそろって来てくれました。一日がかりの祭礼が終り、従兄とも手を握りあって別れましたが、従兄はわたくしの両手を包みこむように握ってね、済州弁でとつとつ「シジョンイのせいではないんだから…、おやじの運命だったんだから…、そんな時代だったんだから…、」と大粒の涙を浮かべて語ってくれました。心のすみずみにまで沁みわたりました。
東区圈の社会主義国が崩壊し、相次いで社会主義国のソビエト連邦まで解体してなくなりました。無くなって当然の国家体制だったと、早くから得心していました。社会主義はたしかに、世界観として共感し共有できる制度ではありました。ところが個々人の心情の世界まで統括しようとしていたですから、民衆の心が離れていくのは至極当然のことだったのです。
余計なことまでしゃべって時間を取ってしまいました。
わたくしが言いたかったことは、ひと言で尽きます。済州島5万の無辜な犠牲者たちを、身ぎれいなかたちで、神聖なかたちで際ってはならない。わたしたちが抱えている犠牲者は腐りに腐って、近づくこともできないほど醜い肉体を曝して息絶えた、浮かばれない死者たちです。わたくしはその犠牲者たちを、敬虔に祈ってはいられないのです。
長い時間、ありがとうございました。
2016年4月19日
大阪市生野区民大ホール。
四・三事件大阪遺族会主催