창작과 비평

[特集] 文学性とコモンズ / 黄静雅

 

創作と批評 180号(2018年 夏)目次

 

黄静雅(ファン・ジョンア)

文学評論家・翰林大学校翰林科学院HK教授。著書に『概念批評の人文学』、訳書に『ペニーとエニー』(共訳)、『奪われたグローバリゼーション』、編著に『小説理論を再読する』など。jhwang612@hanmail.net

 

 

1、文学というコモンズ

 

キャンドル革命の熱気は、南北首脳会談や板門店宣言のような巨大な変化を触発したかと思えば、制度や日常にも入り込み、さらに持続的な形としてつながっている。わずか2年余りの時間が過ぎただけだが、この革命を作った、またその革命が作り出した断絶の感覚は、以前の生の慣行を、歴史的な順序よりもはるか遠くに葬り去り、二度と戻ることがないということを毎瞬間想起させる。これまで文学においても、変化の気勢にさらに直接に呼応することを望む動きが見られた。このような傾向は、「政治的正しさ」という言葉を、あらためて、しかし本格的に召還しながら、ルポルタージュに近いほどの社会性を前面に掲げ、先端の社会的イシューをわれ先にと扱う作品として見られる。だが他方で、文学はその革命の名において、古い慣行の温床であると非難されることもあった。最近の「me too」運動に至るまで、いわゆる文壇内の性暴力に対する告発が、文学の場の全体に対する非難と懐疑を触発した、複雑かつ息苦しい事態がその端的な事例である。ある評論家は、文学に向けられた多くの批判や自己批判をめぐって、「制度は相変らず問題であるゆえに、楽しく乱打されるのであり、「文学」は数多くの問題や矛盾にもかかわらず、いまだ達成されていない無意味な引用で、絶えず試みられる「無限動力の夢」のようなものであり、最善を尽くして空転しながら、それを見守る人々を絶望に落とし入れているところ」であると沈鬱に診断した[1. ユン・ジェミン「レアルポリティークRealpolitikを越える韓国の「文学性」――再びそれを越えるための試み」、『文学と社会ハイフン』2017年春号、47頁。本論文は沈鬱な診断に一貫するのではなく、「レアルポリティーク」の物質性に対抗して、「文学性」を成功的に制度化した、過去の試みを継承する必要を強調する。]。

文学に見られるこの2つの傾向は、少し考えても緊密につながっている。文学に向けられた社会的慨嘆が大きくなるほど、当面のイシューを即刻扱うことによって、その慨嘆に内包された要請に符合しようとする衝動も膨張する。著しく社会的であるという理由で、このような傾向を文学の仕事から逸脱していると言うならば、きわめて古い文学の自律性論と異なるところがないだろう。このようなものも明らかに文学の仕事である。文学に向けて権力と腐敗と暴力を語り、また文学を通じて社会的発言や暴露を模索するこの事態は、多少逆説的な形であっても、J・ランシエール(J. Rancière)のいう「文学の政治」と相対している。ランシエールは、歴史的概念としての「文学」が位階と区分を解体し、誰もが、どのようなものに対しても、どのようなことでも、それを書いて受容できる平等とともに定着したと指摘したことがある[2. Jacques Rancière, The Politics of Literature, trans. Julie Rose, Polity 2011, 4~13頁参照。これによれば「文学」は19世紀になって、現在の意味、すなわち「学んだ者の知識」でない「書く芸術」(art of writing)という意味で広く使われるようになった。だがランシエールは、そのような一次的意味よりも、再現に関連する位階や区分を破壊した、近代的芸術体制(美学的体制)の確立に、「文学」が決定的な契機であったことに焦点を合わせる。]。彼はこのような「文学の政治」をはじめとする政治一般を「コモンな(共通の)ものの活動領域」(the sphere of activity of a common)[3. Jacques Rancière, Disagreement: Politics and Philosophy, trans. Julie Rose, University of Minnesota Press 1999, 14頁。この一節はデヴィッド・ハーヴェイの「コモンズの未来」(『創作と批評』2017年秋号)にも引用されているが、そこではコモンズが矛盾的なものであり、政治が本質的にそのように論争を誘発するという点、言わば不和の導入であるという点を強調するために引用される。一方、広く知られたランシエールの「感知可能なものの配分」という概念自体も、「共同のもの」を表わしており、その境界を設定することと関連している。Jacques Rancière, The Politics of Aesthetics, trans. Gabriel Rockhill, Continuum 2004, 12頁参照。]と定義したが、現在の事態は、また制度と市場と所有関係が、文学をどのように分割しようとも、ある種の根本的な、あるいは潜在的な次元において、文学はみなにとって、みなが分かち合えるもの、すなわち1つの「コモンズ」であることをあらためて想起させる。

コモンズと関連してM・ハート(M. Hardt)とA・ネグリ(A. Negri)は、「共通のもの」(the common)が、空気と水のように物質世界に属した共同の富(wealth)だけでなく、「知識、言語、コード、情報、情動など、社会的相互作用と、以降の生産に必要な社会的生産の結果もまた一層重要なものとして」含まれると定義した[4. Michael Hardt & Antonio Negri, Commonwealth, Harvard UP 2011、序文、ⅷ。彼らがおおよそ「共有地」のように物質的なものを連想させる「コモンズ」という表現を避ける理由もこれと関連するだろう。本論文では、コモンズに関連する用語上の違い(およびそれに含まれる一定の立場の違い)は論外としてコモンズの議論として通称する。]。このような観点から見ても、言語を媒介として、知識、規範、情報、情動などのすべてと関係する文学がコモンズに属するということには疑問の余地がない。彼らの議論をもう少し見るならば、さらに文学のように知的で文化的なコモンズこそ、今日、最も重要なコモンズであるという推論に至る。「価値評価の過程で非物質生産のヘゲモニー、あるいは優位に向かった傾向」があるという点で、今の資本主義は過去と根本的に異なり、ここでは「たとえばイメージ、情報、知識、情動、コード、社会的関係が、資本主義的な価値評価の過程で、物質的商品や商品の物質的様相を凌駕している」からである[5. 同書132頁。一方、デヴィッド・ハーヴェイは、ハートやネグリが「非物質的生産」を把握する方式の限界を指摘しながら、マルクスにすでにこのような発想があり、さらにマルクスは、生産の非物質的かつ「客観的な」契機を強調した反面、ハートやネグリはそのような客観的契機を十分に考慮していないことが、たとえば資本の金融化を強調しながらも、圧倒的比重を占める「擬制資本」(fictitious capital)の問題を考えない部分に見られると指摘する。ハーヴェイの指摘とハートやネグリの回答に関してはDavid Harvey, Michael Hardt, and Antonio Negri, “Commonwealth: An Exchange,” Artforum 48:3 (2009)214~15頁参照。]。ランシエールが、「文学」の歴史的成立がすなわち文学的平等と民主主義の導入であると考えたように、ハートやネグリも社会的生産で非物質性の重要度が増大する今日の変化が、すなわちコモンズ自体の威力が強化される過程であると楽観する。「現在の資本主義的な生産および蓄積の形式は、資源と富を私有化しようとする相も変わらぬ衝動であるにもかかわらず、逆説的に共通的なものの拡張を可能にして、またさらに要求」し、非物質生産が支配的な新たな生産方式において、「生産者らはますます…(中略)…共通のものに対する開かれた接近だけでなく、高度な自由を要求するように」なるというのである[6. Michael Hardt & Antonio Negri, 前掲書、序文ⅸ~ⅹ。]。

だが、現在の諸傾向が文学を一種のコモンズとして再確認するとしても、またハートやネグリのコモンズ議論が文学に有効であったとしても、文学をコモンズとして見ることができるという点が、いわゆる「文学性」といえる、だから文学の、核心的に文学らしい性格に、どのように、またどれほど深く関係するかという問いは残る。文学は他の何に先立ってコモンズなのか、あるいはとりあえずコモンズではあるが、それよりさらに重要なことに異なるどのようなものか、という問いのことである。この問いは一次的に、文学とはどのようなものかを問う形式だが、これに適切に答えようとするならば、術語に位置するコモンズを、主語の位置に召還する必要が生じる。文学がどのようなものだからコモンズなのかを探る方向と、コモンズがどのようなものだから文学がコモンズであるかを振り返る方向が、互いに接する地点において、議論が成立しなければならないのである。

この問いを逃さない線において、コモンズの議論をもう少し見てみよう。知的・文化的コモンズと関連して、D・ハーヴェイ(D. Harvey)は、それが物理的コモンズとは異なり、稀少性の原理に支配されることはないが、「質的低下とエンクロージャーの論理(a logic of debasement and enclosure)からは自由でないために、変質し腐敗して価値が落ちることがある」と指摘する。情報の商業化、フェイクニュース、SNSのコメント操作のようなことを考えるならば、「今日、再現物に対する最も深刻な批判は、情報の質の堕落をはじめとして、情動、記号、コードの堕落」と関連していることは、簡単に納得できる事実である。ハーヴェイは、この現象が「資本主義が作り出した最も巨大なコモンズ」、すなわち貨幣の持つ価値の堕落や通貨切下と似ていると考える[7. David Harvey, Michael Hardt, and Antonio Negri, 前掲論文221~22頁。]。当然、文学もやはり質的低下と価値下落という問題から自由ではない。しかしこの問題は、初めから文学において価値というものがどう構成されるかを考えなければ、適切に接近することはできない。これはまた、文学がコモンズとしてどのような特性を持つのか、あるいは文学がコモンズであるならば、このとき「共通のもの」、あるいは「分かち合い」がどのような性格かという問いにつながる。

「代案近代性」(altermodernity)を標榜しているだけに、ハートとネグリのコモンズ論も、貨幣価値を越える新たな価値理論を重要なものとして強調する。彼らは新たな価値が「抵抗にあふれ、創造的で無限なとき、ゆえに人間活動が権力の均衡を超過し、その内部の間隙を明らかにするときに作られる」と考えた。換言すれば、国家や資本が「自分たちの正当性を明確に示すことで掲げてきた、発展に対する管理が、マルチチュード(multitude)の抵抗、労働力、また社会的単独性(singularity)などの全体を、これ以上阻止できないとき、そのとき価値が存在するだろう」としたので[8. Michael Hardt & Antonio Negri, 前掲書319頁。]、彼らの議論において価値とコモンズは、相互に構築する関係であると理解できる。ハーヴェイは、このように作られるコモンズの代案的な価値がどのように客観化されるのか、そのとき貨幣価値とどのように距離を維持するのか、疑問を提起することもあった[9. David Harvey, Michael Hardt, and Antonio Negri、前掲論文222頁。この指摘に含まれるハーヴェイの問題意識は、貨幣価値と距離を維持すべきということでなく、貨幣価値に移される方式を具体的に思惟すべきという要請のように見える。]。だが、初めからこのような疑問が提起される理由は、価値が貨幣価値の外側やその向こう側で作られるという、起源的な素材次元とは別に、初めから貨幣価値に還収されそうになってもそうならない、その性格、換言すれば、価値の「創造性」、あるいは「無限性」自体が、十分に解明され得なかったためかもしれない。この地点において、文学における価値、そして何よりも、文学における「分かち合い」が持つ性格を探求した批評家、F・R・リーヴィス(F. R. Leavis)を想起することとなる。

 

2、リーヴィスのコモンズ論

 

C・P・スノー(C. P. Snow)のいわゆる「2つの文化」(Two Cultures)論を辛辣に論評した論文で、リーヴィスは、スノーが物質世界を扱う科学的業績の美しさと驚異を賛嘆した部分をめぐって、それより先次的であり、それを可能にする(だがスノーにはまったくわからない)「協同的創造」(collaborative creation)があるが、それが「言語を含む人間的世界の創造」であると語る。人間的世界という表現は、一瞬、伝統や遺産のようなものを連想させるが、過去にすでに作られて、私たちがそれを使ったり頼ったりするのではなく、「現在を変えるための、生きた創造的反応においてのみ生きている」世界、換言するならば、協同的創造を通じて生成されるだけでなく、それを通じて持続する世界のことを言う[10. F. R. Leavis, Nor Shall My Sword: Discourses on Pluralism, Compassion and Social Hope, Chatto & Windus 1972, 61頁。]。リーヴィスの問題意識に照らせば、この世界を単に文化的コモンズというのは穏当でなく、ハートやネグリが区分した、物質的生産と非物質的生産の両者の前提になる人間文明としてのコモンズに近い。

ならば、コモンズの議論が核心的に狙っている、所有という面ではどうであろうか。コモンズ論が示す問題意識の根幹に、私的所有に対する批判と抵抗があり、ハートとネグリの議論もまた、財産権を神聖視する「財産共和国」(the republic of property)を克服し、「共通の富」(common-wealth)に進むことに焦点を置く。リーヴィスの文学論は、もちろん財産権を直接扱いはしない。代わりに彼は「人間的世界」で何かを持つということがどのような意味かを語る。科学と技術の前例のない発展で変化が加速化され、変化の結果もまた重要になる状況に直面した人類にとって、「まっとうな人間であることの知的な保有」(full intelligent possession of its full humanity)が切実であると指摘する過程で、リーヴィスはこのときの保有、あるいは「持つということ」とは、「私たちに属するもの、すなわち私たちの財産に対する、堂々とした所有権(ownership)」を言うわけではないと説明する。法律的意味から見ても、所持したり保有していることを意味する「possession」と財産所有者としての権利の「ownership」は区分されるが、リーヴィスが単にそのような区分を言っているわけではない。ここで「持つということ」とは、私たちに属するものでなく、むしろ「私たちがそれに属した…(中略)…ものに向かった、根本的で生きた敬意(deference)」を意味する[11. 同書60頁。]。慣習的な所有観念に前提となる主体・対象の関係を転覆させながら、実はそのような形で所有できないということに気付き尊重する行為だというのである。

このような転覆が成立する条件は、「まっとうな人間になること」というものが逆説的に「まっとうに」人間に帰属せず、「知らされないことに開いており、それ自体もまた測定され得ない」ためである[12. 同箇所。]。そうした点で人間的世界もやはり人間的なもの以上の世界によって成立すると見なければならない。ならば、通常的に何かを持つということの意味がまったく異なるにもかかわらず、相変らず「持つ」と表現するのはなぜだろうか? おそらく私たちが属する何かに向かった悟りと尊重が、一回的な出来事でない、引き続き生きて維持されるものでなければならないからだと考えられる。このような意味における所有は、先に言及した「生きた創造的反応」として成り立つ「人間的世界の創造」に適当に照応して、「財産共和国」の解体が私有か、国有か、あるいは共有かを論じる次元で終わらずに、「持つということ」自体に関する考えを変更するところにまで達していることを喚起する。

多少、抽象的で漠然と感じられるリーヴィス式のコモンズ論は、文学を論じるとき具体的な実感を加える。リーヴィスの議論において、本来、コモンズの時空間は、彼が「第3の領域」(the third realm)と指し示したところにある。ここで「第3」という表現は、「単に私的でも個人的でも、また実験室に持ち込んだり、ぴたりと指定できないという点で公的でも」ないという意味である[13. 言語観をはじめとして、リーヴィスの文学論一般に関しては、キム・ヨンヒ『批評の客観性と実践的地平』(創作と批評社、1993)、チョン・ナムヨン「リーヴィスの作品批評と言語の創造的使用」、『英米文学研究』6(2004)など参照。本論文は、リーヴィスの文学論の中で、コモンズの議論と関連が深いと思われる部分に議論を限定している。]。この独特の領域が、どのような性格であり、またそれが単に独特の領域でなく、他の何かに先んじる「先次的な」領域であることを正しく理解しようとするならば、文学、特に文学において成立する判断が価値を帯びる機制を考えるべきだとリーヴィスは言う。彼は「人間的世界」の重要な一部である言語において、「個別存在が、ある種の意味の中で出会ってはじめて意味」というものがありうるように[14. F. R. Leavis, The Living Principle: ‘English’ as a Discipline of Thought, Chatto & Windus 1977, 58頁。]、たとえば、1編の詩は「ページに書かれた黒い文字に対する個々人の再創造的(re-creative)反応としてのみ「そこ」にあり」、このような反応が互いに「出会えるように」なるものが詩なのである[15. F. R. Leavis, Nor Shall My Sword、62頁。]。

もちろん私たちは、印刷されたページの文字を示して、これが詩であると指し示すが、リーヴィスが語るのは、詩が本当に詩らしく存在する方式、ゆえに協同的創造を通じて生成され、それを通じて持続し、また「所有」されるものとして、詩が存在する方式である。文学におけるこのような「再創造的反応」と「出会い」は、すなわち(批評専門家の専有物でない「誰にも」開放された)批評的判断(judgement)過程それ自体である。批評的判断は、他人のものをそのまま使っては意味がないという点で個人的である。だが、その「内在的形式」は「これはこうである、そうではないか?」と「そうだ、しかし」で構成される対話、さらに正確には、無数に互いを触発する対話の連鎖であり、この連鎖はまた価値の流通過程と異なるところがない。ここでは自分の「所有」を主張する行為が、共通の「所有」であることを強化し、またそうであってこそ「所有」の隠れた主体を示す。詩を「ある意味で公的な世界の、共通して接近できる何物かとして「そこ」にあらしめる」行為として、批評的な価値判断は協同的創造の凡例である[16. 同箇所。]。

リーヴィスの文学論を参照すれば、「一般的には「共」的なものとして理解されるコモンズが、実際においては「公」「共」「私」の領域全般にわたって作動」するという事実が再確認されるが[17. ペク・ヨンギョン、前掲論文23頁。]、コモンズがこれらの領域を単に合わせるにとどまらず、その領域が可能なために先行すべき場が、コモンズの本来の居所であるという点も明らかになる。詩を「そこにあらしめる」批評の協同的な創造過程は、「コモンズを通じて資源を得て主体になる過程、…(中略)…共同体を能動的に構成および再構成する全過程を指す」「コモニング(commoning)」と相応するだろう[18. 同論文28頁。]。ただしこの時も、コモンズがコモニングと別途に存在し得ず、むしろコモニングを通じて構成され再構成される「ために」、コモンズがはじめて存在するという、したがってコモニングこそがコモンズであることが、文学においてより一層明確になる。ハーヴェイが投げかけた価値の客観化という問いはどうなるだろうか。リーヴィスの議論をみると、価値がどのように客観化されるかという問い自体が、(異なる)価値が客観化をどう(異なるように)理解させるかという問題に、すでに転化していることを発見する。そのために、資本主義の支配的な価値形態の貨幣価値とどのような関係かという問いが、全面的に無化されることはないが、貨幣価値とはただ協同的創造という「客観的」出来事をきわめて曖昧にし、概して歪曲して反映するに過ぎないということを忘れない、格好の方便となる。

 

3、文学の自律性と文学の死

 

文学がその根本においてコモンズであり、文学をはじめとするコモンズとしての人間的世界が「公」「共」「私」の区分よりも先次的であるという洞察はつねに重要だが、誰にでも開いていて、どのようなものでも、またどのような方法でも語りうるということが、一層表面化した今日の文学を考える際にも特に意味深長である。文学の役割が誰にでも「ある」という事実が明らかなほど、その「あること」に込められた本来の意味が、より一層重要だからである。だが、また、それだけに強いてそのことを考えない方法も多くなる。実際に文学が「いつも、すでに」コモンズであることをさっさと認めてしまうことによって、むしろコモンズがどのような意味なのかを問うことを放棄する可能性はいくらでもある。たとえば言語とは窮極的に特定の個人が独占できない疎通手段であるから、当然コモンズであり、だから言語を媒体とする文学もやはりコモンズであるという、いつもの論法がそうである。このような形の整理は、文学をコモンズと呼称すると同時に、その事実をめぐってさらに考える必要がないことを保証する論法である。

構造主義やポスト構造主義が示したように、理論において起きた「言語への旋回」も、やはり社会や歴史を含む具体的な生や現実に近付くことを意味しなかった。言語体系の内的構造や文学的言語の構造的特異性に没頭し、言語の自律性、あるいは文学の自律性という論題を直接裏付けたり、あるいは自律性の不可能性を言及しつづける否定的な方式として論題自体を持続させるのが常であった。韓国文学の歴史においても、文学の媒体は言語であり、言語とは基本的に社会的で歴史的であるから、文学もまたつねにすでに社会的で歴史的であるという爽快な認定が、「文学と社会の拮抗という緊迫した現実的議題を、基本的に封じ込めたり、あるいは迂回させて」しまうこともあった[19. ソ・ウンジュ「1970年代の文学社会学の言説地形」、『現代文学の研究』45(2011)499頁。本論文は1970年代の文学社会学の導入が、実際には文学と社会の関係を深く検討しない弁明として作用したと評価する。]。このような点でリーヴィスが、文学の「そこにあること」をどのような経路で説明するのかについても注視する必要がある。彼は言語が協同的であるから文学がコモンズであるとは主張しなかった。むしろ、文学における意味と価値をめぐって成立する協同的創造こそ、言語が持つコモンズとしての本性を最も如実に体現するというのが彼の論旨であった。

韓国文学において文学の自律性という論題は、実に粘り強い生命力を示し、「近代文学終焉論」や「文学の政治」論議にまで迂回し、最近では数多くのフェミニズム文学に対する評価を契機に、政治的正しさの反対の側で、相変らず1つの地平として機能する。言語の自律性よりも、もしかしたらさらに長く、文学の自律性の土台の役割をしたのは、私的主体、あるいは個性的主体としての「個人」の自律性である。「厳密に言って、韓国社会には個人がない」といういつもの慨嘆が、実は「韓国社会は十分に近代化されていない」という意味を伴って長らく流通したことにも見られるように、文学的主体としての個人の強調は、近代的主体の想像に続いた問題として、近代化のアジェンダと緊密に関連していた。このとき「個人が不在であること」は、単に不在を指し示すのではなく、不在を語る方式として個人を核心の主体として確立する。

たとえば「韓国文学の可能性」という重大な主題を扱った1970年のキム・ヒョンの論文は、「韓国ではいかなる種類の芸術が可能なのか」を問うて、この問いが「今日の韓国社会が要求する理念型はどのようなものか」を考えさせるということから始める。彼は「文化担当層がいまだ形成されず」「現状況を与えられた環境として受け入れる」態度を強調しながら、これに合う理念型として「身分的不平等を真理として受け入れることで、それを跳び越える困難な精神的曲芸」を遂行する、換言すれば「ありのままの状態を受け入れて認めることによって、それを克服するという仏教的態度」を提示する。このような精神主義に耐えられる主体は個人しかないが、それも「高い個人意識のために得られる、個人の強烈な勝利」を成し遂げることができる、一種の超越的な個人である[20. キム・ヒョン「韓国文学の可能性」、『創作と批評』1970年春号。引用は44~46頁、54~56頁。]。

このような議論には、個人と現実、あるいは私的なものと公的なものの間の区分が、多分に極端な方式で記入されている。個人対現実の構図において、公的領域に相応する集団主体がまったく扱われないわけではもちろんない。1960年代末のキム・ジュヨンの小市民文学論に提示された、文学的主体の「小市民」は、近代的な公的主体を考えるときよく想起させる、「市民」に対する対抗概念として登場した。だが、それが実際に遂行した機能は、事実上、公的主体を私的な領域に再還収する役割であった。キム・スンオクをはじめとした60年代文学を、シャーマニズム、因襲、風俗などの前近代的性格からついに脱却した、近代文学の分岐としてで提示しながら、キム・ジュヨンはその特徴として、個人意識あるいは個人化をあげ、これをまた「小市民意識」として指し示す[21. キム・ジュヨン「新時代文学の成立――認識の出発として60年代」、『アジア』1969年2月号、253~55頁。小市民文学論に関する詳細な分析は、拙稿「小市民文学論と近代化」、『人文論叢』74:3(2017)参照。]。なぜ市民でなく小市民なのかをめぐって、彼は、韓国社会で市民はいまだ不在である反面、小市民意識こそ「出発の端緒であり、無視できない現実の中の方法論」として与えられていると語る。だが、初めから彼にとって「市民の持つ最も重要な意味は、意識を自律的に行い、意識された考えを自律的に表現するという点」なので、結局、不在の市民は、個人意識の主体として実在する小市民と概念的に区分されることはない[22. キム・ジュヨン「継承の文学的認識――<小市民意識>の把握が持つ方法論的意味」、『月刊文学』1969年8月号、58頁、51頁。]。

それ以降も、自律性の議論は、私たちみなが、個人というもの(あるいはいまだ個人が完成されてないこと)以外に、共同の、あるいは共通の次元を積極的に感知しない。代わりに、個人意識の持つ自律性で世界を精神的に超越したり、あるいは超越の失敗を個人意識の兆候として、また世界と対立する「困難な精神的曲芸」を様々な方式で繰り返してきた。このような個人の理念型は、内面性の主体や真正性の主体として変奏されつづけ、ついに超越の不可能を認めたまま、死を宣告されることもあった。だが、不在をめぐってそうであるように、死を嘆く方式で、個人主体を空っぽの中心に立てておくことは、いくらでも続くだろう。いわゆる近代文学の終焉論が語った文学の死も、やはり近代文学自体が「すでにそれ自体として自らの消滅に対するまなざし、自らの不可能性に対する省察」であったという、ゆえに最初から「すでに「死」に浸潤されていた」という論理を通じて[23. キム・ホンジュン『心の社会学』、文学トンネ2009、119頁、122頁。]、むしろ文学の出発点であり、文学的自律性の可能性に逆転することもあった。初めから死とともにあった近代文学の代わりに、実際に死んで、俗物あるいは動物になったと宣言された真正性の主体にも、また機会が与えられる[24. 「近代文学の終焉は、近代小説の死を越えて、近代小説を可能にするある種の価値、精神、態度の社会的構造の真正性の倫理それ自体の死を示している」。同書131頁。]。「歴史の終焉にもかかわらず、残余的に残った一握りの否定性、ここに相も変わらず、文学のある種の真の可能性の跡が残っていると言うのは、はたして難しいことであろうか」と反問し、今度は真正性をさらに繊細に分別して「(フーコー的)装置としての内面/抒情的自我(歴史性)と真正性(現実性)の分離を企画」し、そして終焉を迎えたのは、「既存とは異なった方式(キャンペーン)として作動する真正性であって、真正性自体ではない」と逆転する[25. カン・ドンホ「破壊された夢、展望としての批評」、キムヒョンジュン・ウ・チャンジェ・イ・グァンホ編『韓国文学の可能性――『文学と知性』の論理1970-2015』、文学と知性社、2015、336頁、343頁。]。

このように文学と文学の主体が奥深い内的否定性を媒介に死と復活のセンチメンタリズムを演出する間にも、簡単に否定できないのは、「歴史の終焉」あるいは意味ある現実変化の不可能性であった。この圧倒的な否定性を背景に繰り広げられる文学の蘇生は、謙虚であれ悲壮であれ、結局、自律性の閉鎖された空間を抜け出すことができない。協同的な創造の凡例として、生と現実の創造的な可能性を証言する文学に対する尊重とは最も距離が遠い。ランシエールは「芸術が集団的な存在条件の絶対的変化を遂行する能力を持っているという考え」[26. Jacques Rancière, Aesthetics and Its Discontents, trans. Steven Corcoran, Polity 2009, 19頁。]が終わったという主張が蔓延した後の芸術を2つに分類する。1つは「崇高」概念が示すように、芸術の真の急進性とは、芸術の単独性、換言すれば芸術と現実の間の根本的な異質性、ないし通約不可能性を強調するところにあるという態度である。他の1つは反対に芸術が世界を変えることもなく、また何らかの単独性を主張する立場でもないために、いわゆる「関係的芸術」がそうであるように、曖昧な共同の所属感を鼓吹して、漠然とした連帯感を呼び起こすことによって、社会的な仲裁機能を担う[27. 同論文21頁、120~23頁参照。]。韓国文学の場において、文学の自律性論が示したスペクトラムも、まさにこの2つを軸に展開してきた[28. これと関連してカン・ドンホの前掲論文は示唆的である。彼は「歴史の終焉といわれるこの暗澹たる時代の無気力の中にあるということを、現実的にそして経験的に否定できない」(347~48頁)としながらも、他方で希望を保つために、「歴史としての批評の批判的対話の可能性」は相変らず断念しないことを強調する。また彼は、「内面を唯一の形式とする、独白的あるいは自己告白的な真正性でなく、「対話的真正性」への転換」を要請するが、またその一方で「徹底してこの対話が、思惟の通約不可能な地点に導くように、積極的に促さなければならない」と注文する(353頁)。終焉と希望、対話と通約不可能性の間の埋められない間隙が、まさに文学的自律性の「政治」であろう。]。

 

4、文学というコモニング

 

終わったというには、あまりにも生き生きしている歴史的時間を経験する今日、文学の場においても公共性を強調し、文学の自律性の終焉を宣言して、新たな文学の到来を語る声が前面に出ている。「これまでの文学の支持と再生産に寄与してきた文学の自律性のテーゼや、その神話が崩壊し」「「私」の価値で整えられた社会と文学の構造」が変わったと診断しながら、「ネットワーキングされた発話」と「連帯の情動」を語るキム・ミジョンの議論もその1つである[29. キム・ミジョン「「私―私たちの」という主語と作る共通性――2017年、文学の公共性再考」、『文学3』2017年1号、21頁、24頁、22頁。]。彼女は、チョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』(民音社、2016)が呼び起こした共感と批判を例にあげながら、文学をめぐる技術的・物質的条件の変化や、その変化が引き起こした言葉と感覚の変化、そして何よりも「文学の場に向かって直接自らを発話し、欲望を主張しようとする新たな読者たち」が、既存の文学的「大義/再現」を揺さぶっていると考える[30. キム・ミジョン「揺れる大義/再現の時間――2017年の韓国小説の内と外」、『文学たち』2017年冬号、48頁。]。韓国文学に直接言及してはいないが、イム・ギョンギュもやはり「文学の自律性はすでに神話となった。いや(ラカン的な意味で)排除(foreclosure)されたといえる。復元不可能になったのである」と強調し、「文学と政治の境界が瓦解し、文学と社会の境界が瓦解し、文学とジャーナリズムの境界が瓦解しながら、新たなハイブリッドな文学」、あるいは「政治的正しさの文学」が登場したことを告げる[31. イム・ギョンギュ「政治的正しさvs.芸術の自律性――多文化時代の文学の運命」、『文学トンネ』2017年冬号、388~89頁。]。

だが、このような自律性終焉論は、文学がその本来の社会性を通じて、社会性自体をどう異なるように示すか、そして文学が、個人の協同的創造という存在方式を通じて、主体と対象に対する通念をどう変えるかを見ることはない。だから「文学がこれ以上、社会を象徴化できない無力に耐えられない、とでも言うように、より一層、直接的に怒っているかのように、文学の中に社会が入ってきていると強弁」するに過ぎず、「文学において作用する主観性を、個人でなく相互主観的な共通性に還元することによって、「主体なきエクリチュール」でなく、より濃密な主体を呼び込む」という批判を、不可避的に惹起している[32. ソ・ドンジン「抒情詩と社会、アゲイン!」、『文学トンネ』2017年夏号、282頁、285頁。]。社会的で政治的な懸案を扱ったり、「直接自身を発話して」広く共感を呼び起こそうと考えるのは、自律性言説ほどに古くからあるものである。そのようなことを、さらに多くの人々が、さらに直接的で意識的に行うようになる傾向もつねに潜在していた。だが、どのような正しさ、あるいはどのような共感も、私たちを本当に生きられるように生かしてくれているのかという問いには代えられず、公共性もやはりその問いの磁場で発生してこそ当然なのである。

文学の公共性に対するおおよその主張は、事実上、ランシエールが語ったこと、かつて歴史的な文学、そして近代的な芸術体制が成立させた「誰でも、どんなものに対しても、どのような方法でも」という平等を繰り返して陳述するにとどまる。ランシエールの文学的平等が見逃しているのは、「誰でも」と「何」の集合それ自体でなく、その集合が互いに関与して触発する出会いであるとき、そしてその出会いが成し遂げるものが意味の構築であり、価値の創造であるとき、はじめて文学は成立するという点である。個人あるいは諸個人がつねにすでに持っていたが、また新たに享受することになった役割を行使することが、コモンズとしての文学の持つ一面であることは明らかである。その過程で発生する不一致と不和、共感と連帯も意味ある出来事である。だが、さらに根源的な意味において、文学の役割とは、自分のものとしても、また、みなのものとしても存在せず、ただともに新たな価値を作るコモニングとしてのみ、そこにあることを記憶することが、何よりも重要であろう。すべての優れた作品は、そのようなコモニングの「強烈度」とともに、私たちのもとに到来しているのである。

 

〔訳=渡辺直紀〕

 

 

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