창작과 비평

「部屋の中の象」を語る時: 異国の地で感じる南北首脳会談 / 李向珪

 

創作と批評 180号(2018年 夏)目次

 

李向珪(イ・ヒャンギュ)

漢陽大学ERICAキャンパス、グローバル多文化研究院の客員研究員。著書に『フーアーユー』、『北朝鮮教育60年: 形成と発展、展望』(共著)、『私は朝鮮労働党員だ: 非転向長期囚、キム・ソッヒョンの口述記録』(共著)などがある

 

 

故郷を離れた少年

 

生前、何気なく話していたことが遺言となってしまった。

 

「私が死んだら、財産を処分して、五等分に分けなさい。それを、兄弟4人でそれぞれ分けて、残りの五分の一は、私の弟を探して、渡してほしい。もし、弟がもう亡くなっていたら、その子孫に渡してくれ」 

 

2018年2月26日、私の父は肺炎でこの世を去った。風邪がなかなか治らないと言って病院に行ったきり、結局、家に戻れなかった。家を出る時、それが最後になるとは思っていなかったことが、一人暮らしの父の台所の食卓を見ると分かる。もし、最後だと知っていたら、父の性格からして、おかずの皿をそのままにして出かけたりはしなかっただろう。死は予告なしにやってきた。

 

父の故郷は咸鏡南道(ハンギョンナムド)北青郡(ブッチョングン)新浦邑(シンポウプ:現在は新浦市)だ。彼は1950年12月に、自分の母親と弟を残し、故郷を出た。1950年の夏に戦争が始まり、連合軍が参戦すると、北朝鮮地域では、「原爆が落とされるかもしれない」という噂が広まった。わずか5年前に長崎と広島に原爆が投下され、戦争が終わるのを目の当たりにした朝鮮の人々にとって、原爆投下は十分あり得ることだった。彼は戦況が知りたかった。3歳で父親を亡くした長男である彼は、家族を守らなければならないという家長としての責任を感じていたのかもしれない。そこで、母親に一週間出かけてくると言って、家を出たのである。

母親は、故郷を離れる息子に「お父さんだったら、一緒に行こうって言ってくれたと思うけど、あんたは言わないのね」とつぶやいた。母親のその最後の一言が、一生、彼の胸に突き刺さり、忘れられなかった。彼は80過ぎてからも、お酒を飲みすぎた日は、いつもその話をした。あの時、二度と故郷に帰れないことを知っていたら、一人で家を出たりはしなかったものを、と自分を責め続けた。そんなに自分を責める必要もないのに。なぜなら、彼は故郷を離れた時、わずか15歳だったのだ。

彼は、釜山港で働きながら、戦争を切り抜けた。貧しい人々に厳しい世の中で無我夢中で勉強し、自らの力で、大学の教授にまでなった。彼は「若い時の苦労は買ってでもせよ」という諺があまり好きではない。できるなら避けたかった多くの出来事を自ら体験したため、それを自分の子供たちには体験させたくなくて、ひたすら努力した。

 

父が集中治療室にいた一ヶ月の間、私は、お見舞いに来てくれた父の友人、同僚、教え子、親戚らと多くの会話を交わした。彼らの記憶に残る父の姿をパズルのように一つ一つ組み合わせてみると、一つの大きな人物像が浮かんでくる。口数が少なくて、温和で、誠実で、親切で、控えめな人物である。それは、天安艦沈没事件やセウォル号沈没事故などが話題にあがる度に、私がいつも避けようとしていた老人の姿ではなかった。

 

気付いたのは二年程前からだった。ある教会や団体から送られたカカオトークの着信音が父の携帯から絶えず鳴っていたことを。着信音が鳴ってから数秒後には、大韓民国を「赤」から救おうと叫ぶピリピリした声が流れ出た。その度に、私はそっと部屋のドアを閉めた。そして、その怒りの声が収まってから、台所に入って何も聞こえなかったかのようにお昼の支度をした。度々立ち寄った実家での時間はいつもそんな感じだった。

意識もなくベッドに横たわっている父の傍らで、その携帯をそっと覗いてみた。そして、ここ数年間、父に絶えず声をかけていたのは彼らだったことを知った。途中途中、私の送ったメッセージも残っていたが、丁寧であっさりとした安否を問う短い文章からは、忙しいことを言い訳に会話を早く終らせようとしている様子が読み取れる。私は、父の人生最後の時間が、彼らの生硬な声で埋め尽くされたと思うと、悲しさと同時に怒りが込み上げてくる。ところが、この怒りが彼らに対するものなのか、自分自身に対するものなのか、よく分からない。

 

父は、生前、南北離散家族探しを申し込まなかった。自分の母親は亡くなっているという前提でいつからか、旧正月とチュソク(お盆)にはチャレ(茶礼:先祖を供養する儀式)を行うようになった。聡明だった弟がどんな生活をしているか気になっていたようだが、父は探さなかった。万が一、南に兄弟がいることが知られて、「境界線を越えて南に行った者の家族」として、理不尽な扱いを受けるのではないかと心配したからだ。20年程前、ある新聞社から出版された 『北朝鮮人名辞典』の中に弟の名前を見つけたらしい。咸鏡南道の剣徳(コンドク)鉱業連合企業所の所長だった。父は、その人物が弟だと信じることにした。聡明だった弟が連合企業所の所長として、幸せに暮らしていると信じたくて、積極的に家族探しをしなかったのかもしれない。人違いでないことを祈りながら。

お葬式で、棺を運んだのは、咸鏡南道から来た青年たちだった。その青年たちは、何年か前に牧師の義兄と姉の家で、家族のように一緒に暮らしていた「脱北青年」たちだ。父と故郷が同じ青年たちの手で父の最後を送り出すことができて嬉しかった。肉体から離れた魂はどんな形なのだろうか。果たして父は、背が低く、がっちりとした青年たちの姿を見ることができたのだろうか。新浦には行って来れたのだろうか。母親には会えたのだろうか。幼い頃に離れ離れになった弟には会えたのだろうか。

南北首脳会談で離散家族の再会を積極的に推進すると発表した。父のことを思い出して、涙を流した。余りにも長い時間がかかった。70年という月日が流れた。まさに一生涯である。多くの人々がそれを待つことなくこの世を去ってしまった。

 

 

よそよそしい少女たち

 

エリンは、自分が韓国人だと思っている。彼女の友達も皆知っている。将来、誰かに「どこ出身なの?」(Where are you from?)と聞かれたら、自分は「韓国人だけど、イギリスに住んでいたの」(I’m from Korea but I lived in England)と答えるそうだ。それが、韓国人の母親とイギリス人の父親を持つ彼女が、自ら見つけ出した答えらしい。

 

そのエリンから、今年からYと同じクラスになったと聞かされた時、本当に珍しいことだと思った。Yの母親は「脱北者」で韓国でしばらく暮らしていたが、かなり前にイギリスに移って来たらしい。韓国出身の母親を持つエリンと、北朝鮮出身の母親を持つYが、イギリスで同じクラスになる確率は果たしてどのくらいであろうか。人口10万人足らずの小さな都市に定着して暮らしているコリアンは両手で数えられる程しかいないのに。

エリンが言うには、同じクラスになってから、先生達が二人をよく間違えるそうだ。彼らには黒い髪の東洋人の顔が区別しにくいのだろう。皆は二人を間違えるけど、当の二人はお互いに気まずくなってしまった。

Yは、韓国人やアジア人だと思われるのをとても嫌がっている。誰かが、アジア人のことに触れると、 怒り出すYを見て、エリンは、Yがイギリス人として生きていこうとしている事を知った。Yは、もう既に完璧なイギリス英語を身につけていた。Yの本音を知って、エリンはYに接しにくくなった。韓国語で話しかけたいけれど、韓国語で話かけてはいけないような気がしたからだ。二人は、もう何ヶ月もの間、会話を交わしていない。韓国語でも英語でも。ある日、化学の時間に隣同士になった二人は、お互いに気まずくなってしまった。エリンは、私にこう言った。「ママ、これって、もう完全に‘部屋の中の象’(elephant in the room)だよ」

誰もが明らかに重大で面倒な問題が存在することに気付いていながらも、誰もそれに触れようとせず、気付かないふりをする状態、それを英語で「部屋の中の象」と表現する。大きな象が部屋の中にいるのに、それを見て見ぬふりをすること、それが、どれだけ不自然なことか、想像できるだろう。過去を振り返ってみると、私と父が一緒にいた空間にも、見て見ぬふりをした大きな象が存在していたような気がする。

 

韓国人が、海外に出ると一番よくされる質問の一つが「どこから来たの?」だ。コリアから来たと言うと、十中八九「北?南?」と聞き返される。子供たちも学校で同じような質問をされるという。韓国から来たと言っても、金正恩(キム・ジョンウン)の話をしてくるので、頭にくるそうだ(「キム・ジョンウン」と発音できない子供たちは、キム・ガイThe Kim guyと呼ぶ)。そう言われてみると、全世界で最も有名なコリアンは、金正恩ではないだろうか。

私は、「どこから来たの?」と聞かれると、「勿論、南からだよ」(Of course, I’m from South)と答える。「勿論」という言葉を使っているところを見ると、私は北朝鮮の人と自分をはっきりと区別したいのかもしれない。そこで知りたくなった。イギリスに住んでいる千人余りの北朝鮮の人は何と答えるのだろうか。なぜか、彼らも「南から」と答えるような気がする。

一般的に知られている北朝鮮は、そこから来たことを自慢げに言えるような国ではない。核開発とミサイル発射により、世界平和を脅かし、体制に反対する人々を政治収容所に閉じ込め、肥満気味の可笑しな髪型をした若い独裁者が君臨する国なのだ。だから、年配の人たちは北朝鮮に脅威を感じ、子供たちは指導者の髪型をあざ笑うのである。Yが、イギリス人として生きていきたいと思うのも、もしかしたら、自分が「北」出身だからではないだろうか。もし、それが理由ならば、寄りによって、エリンと同じクラスになったことが、Yにとっても、とても気まずいことであったに違いない。忘れてしまいたいのに、すぐ近くに南から来た子がいる。しかも、先生たちは二人をよく間違えたりするのだ。

 

 

祈り

 

久しぶりに胸が高鳴っている。今回は何となくいい予感がする。それでも、万が一のため、首脳会談を控えて、邪気を払おうと朝一の水を汲んで供え、カトリック教会に毎日行って、ロウソクに火を点して祈った。知り合いにも「もうすぐ南北首脳会談が行われるから、その会談が、韓半島(朝鮮半島)の平和の第一歩となるように祈ってほしい」とお願いした。首脳会談の前日には、祈祷の効果が高そうな方々に長文のメールを送った。ラクラン神父からは、こんな返事が届いた。「分かりました。我々も今回の会談が如何に歴史的で、重要な出来事か、十分承知しています。この会談によって、離れ離れになった人々が再会でき、平和への扉が開かれるよう、お祈りしましょう」。また、クリス牧師からは「我々は、もう既に、毎日韓国のために祈っています」という返事が届いた。多くの人々のお祈りの効果があったようだ。首脳会談の12時間は、まるで奇跡のようなひと時であった。

 

南北首脳会談の様子は、一日中ヘッドラインニュースとして流された。私は、既に何回も韓国のニュースで見た場面をBBCのニュースでも繰り返し見た。イギリスでも愉快で驚くような歴史的な会談として受け止められた。画面に映った両首脳の姿はとても素敵だった。(文大統領は勿論のこと、金正恩委員長もそう悪くなかった)

会談当日の午後、友人に会った。七十を過ぎたスジョンは、私と会談について話したくて、かなり盛り上がっていた。首脳会談成功を祈ってほしいという私のお願いに、彼女は数日間、韓半島問題について、かなり勉強したらしい。彼女は会談が成功して嬉しいと言いながら、離散家族について話し始めた。TVで、あるお年寄りが生きているうちに一度でいいから北朝鮮に行ってみたい、自分の故郷は北朝鮮だと言っていたそうだ。そのお年寄りの話をしながら、彼女は「ホームタウン(hometown)」という言葉を口にして目に涙を浮かべた。一生涯、故郷に帰れず、家族に会うこともできない状況。その事実は、自由な世界で暮らしている人々にとっては、想像しがたい悲劇なのだ。彼女の潤んだ目を見ながら、私は、今まで自分の父親の苦痛さえも理解してあげられなかったことに心が痛んだ。生まれた時から、そういう世の中に生きていたからなのか、私は、その状況を当たり前のように受け入れ、苦痛すら感じたことがなかった。

 

日曜のミサで、皆が「韓半島の平和のために」祈ってくれた。涙が出そうになった。ここ一年間、ミサで、韓半島のために祈ってくれたのは、もう三回目だ。ミサが終わってから、神父が私の所に来て、声をかけてくれた。そして、二人で会談成功への喜びをしばらく語り合った。南北の両首脳が会って、韓半島の平和について話し合うということ自体がどれだけ感激的なことか。再び過去へ後戻りしたり中止されたりしないように、どれだけ心から願っているか。韓国内の理念葛藤や世代葛藤によって平和への道のりが遠のくのではないか、どれだけ心配しているか。そして、韓半島の平和のために、私なりの役割を果たせるように、どれだけ熱心にお祈りをしているか。彼はこう言った。「ゆっくりと進んでほしいですね。傷を癒すためには多くの時間がかかるものですから」

その通りだ。千里馬のスピードで進むべき道があり、カタツムリのようにゆっくりと進むべき道がある。千里馬のスピードで進んできた政治的な変化を支え、動かすもの、そして止まってしまったり、後退してしまわないようにするもの、もしかしたら、それは、ゆっくりと自らの身体で地面を這いながら、誠実に作りあげてきた我々の日常の変化なのかもしれない。

 

 

祝宴

 

南北首脳会談に関する記事へのコメントの中に、「働き者の大統領」という書き込みがあった。去る一年間を振り返ってみると、納得のいくコメントである。それを見て、私も自分なりの役割を果したいと思うようになった。私には何ができるだろうか。

もし、今、私が韓国に住んでいたら、「語り合いの会」の拡大に尽力したであろう。 統一後のドイツでは、「東西フォーラム」が、東西の住民間の相互理解と社会統合に大きな役割を果したと言われている。既に韓国でも、このような「人生を語る」会があちらこちらで開かれている。非常に貴重で、時には神秘的な時間でもある。私の主催する「語り合いの会」に参加している、ある地域社会活動家の一人が、この語り合いの会について、こう評価した。「まるでこの世とあの世の間に存在するどこかに行って来たかのようです」。人々は、ただ、語り合うだけで、深い体験をするのだ。

平和で、魂が安らぐ空間で、自分の人生について正直に語ると、いつの間にか、心の奥のしこりが取れるのである。また、他人の話を自分の判断を挟むことなく、ただ聞いていると、自分の中に存在していた誤解や偏見、憎しみについて考え直すことができるようになる。そうやって、静かな話の流れに耳を傾けていると、いつの間にか、我々の心は和解の岸に辿り着いているかもしれない。世代葛藤、理念葛藤、南北の国民間のよそよそしさなども、このような語り合いを通して、徐々に解いていくことができるのではないだろうか。「部屋の中の象」が息苦しく感じられるのは、誰もそれについて語らないからである。韓国に、このような語り合いの場がどんどん増えてほしい。そして私もそれに参加したい。だから韓国に帰りたい……

そんな話をスジョンにすると、彼女は「ここでやれば」と言った。私は「ここで?コリアンが10人足らずのこの町で?」と思いながらも「彼女の言う通りだ。できないことはない」と思い直した。私は語り合いの会を、立派な場所で、マニュアルに従って行うフォーマルなプログラムのように考えていたのかもしれない。しかし、それは「プログラム」ではなく、自分を語り、相手の話を聞く「態度」であろう。日常生活の中で出会った人々に自分のことを真剣に語り、彼らの話を自分の判断を挟まずに聞いてあげること、それは、ここでも十分できることなのである。遥か遠くでしかできないことを夢見ながら、いざ、自分のいる場所で日常的に実践できることを疎かにしてしまう。それこそ誰もが嵌りやすい落とし穴なのかもしれない。だから、私は今、自分のできることをやろうと思った。

 

しかし、そう決心してからも、何かか物足りなかった。自分の人生において、二度と訪れないかもしれない、このような歴史的な瞬間に何か心に残る感動するようなことをしてみたいという願望が消えなかった。そこで「祝宴」を開こうと決心し、そこから、私の空想が始まった。

「7月27日がちょうどいいわ。きっと、その日に停戦協定が平和協定に変わるから。教会のホールを借りれば、100人ぐらいは入れるわね。韓国戦争(朝鮮戦争)に参戦した軍人たちも招待しないと。90代の方が多いから、出迎えの車も出配しなきゃ。遠くの国で起こった「忘れられた戦争」(ここでは、韓国戦争を‘Forgotten War’と言う)に参戦した人々の話を集まった人々に聞かせてほしいわ。祝宴の料理は無料で提供して、当日、寄付金を集めて、他の紛争地域の平和のために寄付できたら最高なんだけど。韓国大使館に連絡すれば、多少は支援が受けられるかしら。当日は、韓半島関連のニュースで溢れるでしょうから、BBCに連絡したら、取材に来てくれるかも。私も韓国の伝統衣装を着た方がいいのかしら?」

こんな空想に一人で更けながら、もっと強く決心を固めようと、神父に連絡をして、祝宴を開くために、教会のホールを借りることができるか尋ねた。構わないと言ってくれた。しかし、その瞬間、我に返った。

「私は、一体何をしようとしてるんだろう。一人で」。今、私の周りに手伝ってくれそうな人もいないのに、一人で国家イベントを企画しようとするなんて。そう思うと、突然、大きなプレッシャーが圧し掛かってきた。そして、憂鬱になってしまった。

 

一日中、ボーっと座っている私を見て、末っ子のリナが心配そうに「ママ、取り合えず、ぐっすり寝てから、明日ゆっくり考えた方がいいよ」と言ってくれた。翌日は、エリンが私の携帯に「3分瞑想」のアプリをインストールしてくれた。子供たちの目にも、私の状態が正常には見えなかったようだ。

瞑想のアプリのお陰なのか、落ち着いて、自分自身を振り返ることができた。私の気持ちが異常な程に高ぶっていたのは、南北首脳会談前後の半月の間に、あらゆる感情が一度に湧き起こって絡み合ってしまったからだ。待ち遠しさ、ときめき、焦り、希望、驚き、感嘆、喜び、プライド、恋しさ、悲しみ、もどかしさ、不安、懸念、無気力さなど、韓半島の地殻変動が私の気持ちも揺さぶったのである。このような複雑な感情の根底にあるのは、歓喜であった。私は、今嬉しいのだ。泥沼に嵌り、身動きできないと思われた南北関係が、未来に向かって進んでいく姿に感激し、私の生きている間には不可能と思われた南北統一が見られるかもしれないという期待で、胸がときめいているのである。この歴史的な瞬間に、少しでも役に立ちたいという気持ちが強すぎて、多少行き過ぎた想像をしてしまったのである。気持ちが落ち着くと、自分のしたいことがはっきりと見えてきた。今すぐにやりたいこと、待たねばならないこと、ゆっくりやらねばならないこと。

 

まずは、祝宴を開こうと思う。誰かのためではなく、自分自身のために。7月27日ではなく、日差しの眩しい日に。それは、教会のホールではなく、私の家の庭になるかもしれない。100人ではなく、4、5人で一緒に食事をするだけでもいい。新しく出会った友人、韓半島のためにお祈りしてくれた近所の人たちが来てくれたら嬉しい。私は、その日、父の話をするかもしれない。15歳の少年が戦況を探るために故郷を離れ、83歳で亡くなるまで終らなかったあの戦争が、ついに終りを告げたと。本当に「戦争は終った」と言えたら、どんなに嬉しいだろう。その祝宴の日に、私はエリンの服を着ようと思う。11年生(高校2年生)のエリンは、少し前に学校で卒業記念にお揃いのフード付きTシャツを注文した。背中に自分の好きな言葉をプリントしたそうだが、エリンのTシャツには、こうプリントされている。「もうすぐ消える質問、“North or South?”」

 

2018年の夏、これまで体験したことのない韓半島の新たな季節。私は、自分の居場所で、自分の役割を果たしているだろう。ゆっくりと、そして誠実に。