창작과 비평

[特集] 主体の変化とろうそく革命: 幾つかの最近の小説 / 韓基煜

 

創作と批評 182号(2018年 冬)目次

 

ろうそく革命以降、韓国の文学は如何に意義のある変化が遂げられたのだろうか。この問いへの答えを主体の変化という点に焦点を当て、今の時代の革命と文学について考えてみたいと思う。革命が一つの社会を根本的に変えるものならば、革命の主体も根本的な自己変化に努めるべきであろう。過去のような古い関係や慣行、価値観に合わせて体質化されてしまった自分自身は変えず、世の中を一気に変えようとするのは妄想に過ぎない。

文学と革命の関係を論じたものを見ると、革命期には、作家の出身や社会的な公共性を前面に押し出しことが多く、そういった傾向が強まると公共性という名の下、創造性を抑圧してしまうことになる[1. 例えば、ロシア革命では、このような傾向が労働主義的な「プロレタリア文学(Proletkult)に現れたが、レフ・トロッキー(Leon Trotsky)は、これに抵抗した。これに関する詳細な論議は、Leon Trotsky, Literature and Revolution, ed. W. Keach, tr. R. Strunsky, Haymarket Books 2005, 9~33頁を参照。]。逆に、創造性を口実に、公共性を乱してしまう恐れもあるため、真相を見極める批評の役割が非常に重要となる。そういった意味で、文学は誰のものでもなく、誰もが享有できる共有領域であるという「文学コモンズ(commons)論」の意味を改めて考えなければならないだろう。「コモンズ」と言うと、一般的に共有と公共が真っ先に思い浮かぶが、「文学というコモンズ」の核心は、作家と読者を含めた当代の人々の「協同的な創造」にある[2.  黄静雅「文学性とコモンズ」『創作と批評』、2018年、夏号。特に第2節「リビスのコモンズ論」(20~23頁)を参照。]。その過程での作品評価の作業も、不滅の正典を確立して保存することではなく、その都度特定の作品の意味を問うことにより、文学というコモンズを再創造する批評作業と見なすべきだ。

つまり、「創造的な破壊」と言われている革命も、このような「協同的な創造」の産物と言えよう。ろうそく革命は、現在を生きている人々の―古いものの破壊と転覆を含む―「創造的な協同」の具現であり、この時代の文学と革命を共に語らなければならない根拠もここにある。本稿は、ろうそく革命が文学に如何に反映されたかを考察するのではなく、主体の変化を中心に、ろうそく革命に相応しい文学の可能性を花咲かせた幾つかの作品について、論じてみたいと思う。

 

 

1. ろうそく革命の主体

 

どのような革命であれ、その主体が根本的に変化するためには、観念や意識レベルだけではなく、身体や無意識レベルでの変化が必要だ。つまり、存在自体が変わらなければならないのだが、それは非常に困難な道のりである。新約聖書での予言のように、ペトロが鶏が鳴く前に、イエスを三度否認したのは、決して彼の信仰心が薄かったからではないだろう。彼は、イエスの予言を絶対あり得ないことと気にも留めなかった。師のイエスのためならば、命をも捨てる覚悟の自分が裏切るはずがないと思ったに違いない。しかし、決定的な瞬間、古い自我が最後に彼を掴んで離してはくれなかった。意識すらしたことのない、その最後の古い殻を破ってはじめて、彼は、新たな存在―信仰の「岩(ペトロ)」―になり得たのである。

しかし、主体が根本的な自己変化を図る方法は、その主体を誕生させる革命の性格によって違ってくる[3.  アラン・バディウ(Alain Badiou)の哲学によると、革命(政治的な出来事)は、芸術・科学・愛情上の出来事と共に、「出来事としての真理」が具現される重要な形式である。革命の主体とは、革命以前に存在するものではなく、革命という真理が到来した瞬間、構成されるもので、その真理の出来事に忠実な存在である。(Alain Badiou, “The Ethics of Truths,” Ethics: An Essay on the Understanding of Evil, tr. Peter Hallward, Verso 2001, 40~57頁を参照)]。例えば、87年の6月抗争は、俗に「(苦労して)お粥を作って、犬にやる始末」(「無駄骨を折る」という意味で、この抗争により大統領の直接選挙を勝ち取ったが、リベラル派は分裂し、結局、泰愚大統領が当選したことを喩えた表現)と、人々は嘆いた。しかし、これは「87年体制」という民主化時代を勝ち取った革命であった。当時、主導勢力であった大学生の殆どは労働者になるという「存在の移転」を実行し、独裁政権を打倒するため、合法、非合法を問わず、民主化運動に参加した。この革命の主体は、光州(クァンジュ)市民を虐殺し、政権を握った全斗煥(チョン・ドゥファン)政権と闘わなければならなかったため、自分の生命と将来をかけ、並々ならぬ覚悟で臨まなければならなかった。しかも、彼らは身元を隠したまま、大衆を組織し、「街闘(デモ)」とストライキを主導しなければならない重い荷を背負っていた。このような深刻な主体化の方法は、87年抗争の戦闘的なデモ―警察と救社隊(労働運動を鎮圧するために企業側が雇用した人々)の催涙弾や棍棒に対して、火炎瓶や小石で対抗した防御的な暴力―にも一部反映されている。焼身自殺という極端な方法を取ったりもしたが、この時代の主体の悲壮な覚悟は、イ・インフィの小説、その中でも特に、詩人のパク・ヨングンとパク・ヨンジン烈士をモデルとした「詩人、カン・イサン」(『廃虚を見つめる』、実践文学社、2016)に詳細に描かれている。

それから30年経った現在、我々が迎えたろうそく革命は、市民の主導による民主主義抗争という点で、6月抗争を受け継ぐものでありながらも、その主体化の方法は、あらゆる面で異なる。ろうそく革命の始まりである、2016年10月末から2017年4月までのろうそく抗争の中で、最も際立ったのは、特定の指導部の事前計画に従って行われたものではなく、自発的に参加した人々の創意的な協同によって行われたという点だ。市民団体の連帯機構である「退陣行動」(朴槿恵政権退陣非常国民行動)が集会を主催したが、抗争を主導したというよりは、管理役に近かったと言える。23回にわたり、1700万人が参加した大規模な抗争の主体は、「セウォル号の真相究明」「朴槿恵退陣」のような共通のスローガンを叫びながら、多くの「積弊」を強く批判したが、その表現方法は悲壮ではなかった。この自発的な主体は、非暴力的な方法を守り、スローガンや講演、行進、自由発言などを通して訴えたため、闘争の場は、お祭りの場となっていった。

しかし、ろうそく革命の主体が6月抗争の主体より厳しい生活を強いられていないわけではない。彼らは、30年前のように独裁政権の下で国家暴力に抑圧されたりはしていないが、「Hell朝鮮」と言われるほど、パワハラや不公平、そして侮辱や嫌悪などが日常的な出来事である時代を生きている。ある論者は、「(2008年の)大衆が階級・民衆のような伝統的な抵抗主体から抜け出し、新しいもの自体への熱狂の産物であるとすれば、(2016年の)ろうそくは、そのような大衆が新自由主義の狂風の中であらゆる苦境を経験し、侮辱と嫌悪の時代を耐えに耐え、結局は広場へと再集結した情動的な主体」[4. キム・ソンイル「広場政治の東学:6月抗争から朴槿恵弾劾ろうそく集会まで」『文学科学』2017年、春号、159頁。括弧は引用者。]であると主張する。2008年のろうそくの主体と2016年のろうそくの主体を対蹠的な性格としながら、その転換の理由に「新自由主義の狂風」を挙げていることには同意しかねるが、「情動的な主体」という概念の的確性の是非を検討する意義はあろう。

「情動(affect)」[5. 「affect」の訳語。この概念は、スピノザの定義「情動化する、情動化される(to affect and be affected)が内包しているように、存在(身体)同士の出会い、もしくは衝突の際の状態のことで、存在の力(力量)、存在同士の関係、その相互作用による変化に関するものだ。この用語の訳語に関する論議とジル・ドゥルーズの解釈については、キム・ジェインの「ドゥルーズの‘アフェクト’概念の争点:スピノザを超えて」『内と外』、43号(2017年下半期)を参照。]とは、情緒(emotion)や感情(feeling)と関連した身体(存在)の状態のことであるが、意識以前の流動的で混乱した状態なので、固定化された概念として把握することは難しい。情動は、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuzeの「生成(becoming)」の哲学を経て、既存の境界―身体と精神、感傷的なものと理性的なもの、意識と無意識の間の境界など―を横切り、世界を持続的に変形させる力として認識されている。この変形の力がよい方向にばかり作用するわけではない。マッスミ(B. Massumi)が注意を促しているように、情動は「それ自体が一つの力であるため、ねじれることもあり、人生否定へと反動するかもしれない」のである。そして、「存在力量の肯定が憎悪という極端な感情へと至り……否定と反動の力へと移行する情動的な転換を見ることになる」ということだ[6.  ブライアン・マッスミ『情動政治(Politics of Affect)』(ジョ・ソンフン訳、カルムリ、2018)の「韓国版の著者の前書き」(8頁)]。つまり、情動は肯定と否定のどちらにも作用可能な存在力量であり、「情動的な転換」は、情動の「アナーキズム」的な属性が表面化する支点と言えよう。ろうそく集会の場で実感したように、今の時代の主体にとっては、SNSの役割やオンライン上の存在感が以前よりも遥かに重要となり、情動的な力が一層強くなっているという現象も意味深い特徴である。

いずれにせよ、この概念は表象システム(Representational System)を横切ることにより、過去には無視されがちであった非識別領域に注目できるため、主体の新たな面を映し出すには有利である。今回のろうそく集会で際立ったフェミニズムの様々な訴えもそれに当てはまる。「朴槿恵退陣」を口実に女性に対する卑下や嫌悪を表出した場合―予定されていたDJ DOCの公演が中止になるなど、―激しい抵抗に遭った。それ以降、急速に広まった「#MeToo」運動や恵化(ヘファ)駅デモなどを考えると、フェミニズムの声は、表象-代表システム上での性差別の撤廃を求める男女平等への訴えだけでなく、無意識の男性優越的な発言や言葉、慣行に対する「情動」的な抵抗でもある。一方、障害者学校の設立を巡る葛藤や「済州島での難民反対」などでも分かるように、障害者や性的少数者、外国人労働者、難民などに対しては情動的な力が否定と反動へと転換する様子がしばしば見受けられることもある。

今回のろうそく抗争の性格を巡って、それが「単純な朴槿恵の退陣を超え、『Hell朝鮮』からの脱出など、より根本的な変化を求めている」[7. ソン・ホチョル「6月抗争と‘11月ろうそく革命’:反復と差異」『現代政治研究』10巻2号、2017年8月、78~79頁。]という意味で革命であるという主張にも一理はあるが、韓半島(朝鮮半島)レベルでの視線が確保できなければ、現在の革命的な変化に対して近視眼的な判断をする可能性が高くなる。今や、分断体制も不可逆的な解体の道へと踏み出し、これまで反共・反北という理念的・情緒的なメカニズムの下、憲法の上に君臨していた「裏面憲法」[8. この概念に関しては、白楽晴の「『ろうそく』の新社会づくりと南北関係」『創作と批評』、2017年、春号、30~32頁を参照。]の作動にブレーキがかかったということ自体が「根本的な変化」の始まりなのだ。この「裏面憲法」は、分断の現実に対する否定的な情動を必要以上に高めることによって我が国を「Hell朝鮮」にした主な要因でもあった。

ろうそく抗争2周年を迎えた今、我々の革命はどの辺りまで来ているのだろうか。2018年の韓国は「#MeToo」運動やあらゆる分野での積弊清算及び、パワハラ清算を通して、既得権者に都合よく慣らされていた社会の体質変化は始まったけれども、依然として雇用不安や首都圏の住宅価格高騰など、経済的な現実は一向に回復していない状態だ。一方、南北関係では、画期的な突破口を切り開き、韓半島が平和と統一へと進む可能性が再び開かれた。しかし、これも米国や国内の妨害勢力による抵抗が想像以上に激しい。このような相反する流れがろうそく革命の二つの戦線を形成している状況だが、現在、主要な戦線と言える韓国社会の内部の改革がなかなか進まず、苦戦を強いられている。ろうそく革命の主体の動力が、万が一否定的な情動へと転換すると、革命は危機を迎えるかもしれない。長期化する可能性もあるろうそく革命を最後まで守り抜くためには、政治経済的な改革への取り組みを実践する一方で、改革の主体が自らの否定的な情動に耐えながら、そのような情動に振り回されないように自己変化を成し遂げる必要があろう。

 

 

2.主体の自己変化と瞬間の人生: 黄貞殷の「笑う男」と鄭美景の「釘」

 

ろうそく革命時代の文学だからといって、必ずしも革命を素材にする必要はない。ろうそく革命の起源的な事件であるセウォル号(2014.4.16)も同じである。セウォル号であろうが、ろうそく抗争であろうが、素材を中心として接近するには限界がある。けれども、素材主義ではなく、ろうそく革命の目指すところと密接した方法で、核心的な問題を問いながら奮闘している作品も少なからずある。その一つが黄貞殷(ファン・ジョンウン)の「笑う男」シリーズ[9. 最初の短編は『パ氏の入門』(創批、2012)、二作目の短編は『誰でもない』(文学ドンネ、2016)、中編は『創作と批評』、2016年、冬号に掲載。中編に関する興味深い議論は黄静雅の「民主主義はどんな『気持ち』なのか」『創作と批評』2017年、春号、62~67頁を参照。]だ。

シリーズの中で、二作目の短編「笑う男」は、体質化された身体の問題を取り上げている。一人称の話し手であるドドは、彼の恋人であるディディを交通事故で亡くす。一緒に乗っていたバスがワゴン車と衝突した時、彼は隣に立っていた彼女を支えず、自分のカバンを掴んでしまったばかりに、ディディはバスの外に放り投げられてしまった。ドドは、決定的な瞬間、大切な恋人ではなく、全く意味のないカバンを掴んでしまった自分のことを理解することも許すこともできなかった。自分の意思とは関係なく、無意識的な行動のせいで恋人を守れなかったことが、ひたすら嘆かわしかった。この事件の後も、彼に幾つかの出来事が起こる。強い日差しが照りつけていたある日、彼は一緒に立ってバスを待っていた老人が自分の方に倒れようとした瞬間、身を除け、到着したバスに乗り込んだ。その老人は彼が立っていた場所に「ゴンと強く頭を打って倒れ」た(177頁)のである。作家がこの二つの出来事を通じて問いかけていることは、自分の意識的な考えとは違った別のパターン化された部分である。

 

決定的な瞬間、除けてしまう人間は、次の瞬間にも除けてしまい……カバンを掴んでしまう人間はまたカバンを掴む。そういうものではないだろうか。決定的に〔彼〕という人間になること。これまで通りの織り方。これまで通りの織り目……自分も気付かないうちに織り上げてしまうパターンの連続、連続、連続。(184頁、強調は引用者)。

 

これを、一個人の間違った習性と言えるだろうか。「決定的に〔彼〕という人間になること」、つまり存在を決定付ける、ある連続的なパターン、例えば、存在のメカニズムとしての体質と言えるのだが、この場合の体質とは生まれながらのものではなく、社会から習得されたものである。逆に言えば、各個人のそのような体質が社会の体質―英語で「体質(constitution)には、憲法という意味があるように―を構成するものでもある。従って、お互いに繋がり合っている体質を変えることが、いわゆる革命なのである。ドドに起こった二つの出来事は、どちらも彼が無意識的な存在のレベルで、自分の意識的な考えとは相反する情動―人の命よりも自分の所有物の方が大事であるとか、人が死のうが死ぬまいが関係のないことだとか―を自分も気付かないうちに織り上げていることを暗視しているのだ。

これは、セウォル号事件の根本的な原因―人の命よりもお金を優先する社会的な体質―を思い出させる。三作目の中編「笑う男」では、d(ドド)がある少女との出会いを切っ掛けに、そのような体質をどのように変化させて新たな存在に生まれ変わるのかを感動的に描いている。ペトロがイエスを裏切ってはじめて、新たな存在に生まれ変われたように、ドドも決定的な瞬間にディディを裏切り(目を背け)、悲惨な結果を目の当たりにしてはじめて、新たな存在に生まれ変わる可能性が生じたのである。ドドからdに名前が変わったのも、そのような革命的な存在への変化を示していると思われる。「笑う男」シリーズは、主体の自己変化という主題を周密で力強く描いたろうそく革命時代の文学の秀作の一つと言えよう。しかし、作品の全ての要素が徹底的に存在の体質化された部分と、その変化の可能性に焦点が合わされて、過度に省察的で倫理的な面もある。

文学の主体は、他の何かの主体である前に、自分自身の人生の主体を意味し、人生の主体に恋人同士の愛情は革命に劣らぬ「真理の出来事」かもしれない。そういった面で、セウォル号事件とろうそく集会の間(2016年5月)に発表された鄭美景(ジョン・ミギョン)の恋愛小説「釘」(『夜明けまでぼんやりと』、創批、2018)は心に響く作品だ。革命ではなく恋愛、それも「失敗した」恋愛を取り上げているが、「Hell朝鮮」の日常に耐えながら自分の人生の主体になろうと必死になっている過程を、その失敗の鮮明さと共に鋭く描き出している。この作品の幾つか重要なポイントを押さえてみたいと思う。

金融業に携わっていたゴンは解雇されてから妻と別居しており、その別居中にスーパーの家電コーナーの販売員のグミと付き合い始める。彼はグミのワンルームマンションでほぼ同棲のような生活を送る。性格も世の中を見つめる態度も全く違う二人の関係は、夏の間続くが、ゴンが元職場の上司から新しい職場を紹介されることによって終わってしまう。あらすじは、「Hell朝鮮」の見慣れた世態を描いた風俗小説のように思われるが、二人の関係を出会いから別れまで緻密に描きながら細かい感情までも捉えた作家の冷静な視線と巧みな言い回しのお陰で、「釘」はこの時代の人間関係を深い所まで観察している優れた作品となっている。ゴンとグミの人柄は勿論、彼らの職場でのストレス、欲望、強迫観念、さらにはグミの部屋に迷い込んだ野良猫に対する態度[10. アニマル・ライツ運動の観点から見ると、病院代が高いからといって、野良猫を容赦なく見捨てるような―「処理はお任せします」(41頁)―グミの態度よりは、野良猫に同情し、ペット用品を購入して面倒をみるゴンの態度の方が正しいと思われるかもしれない。しかし、グミは、猫を慰めの対象としておらず、ゴンは、猫から必要なだけの慰めを得てからは、グミのもとを去ったように、猫を残して去ってしまう。]に至るまで、二人の違いを繊細に描いている。

この小説は「笑う男」とは違い、透徹した自己省察と自己変化を試みる人物は登場しない。その代わり、ゴンとグミを交互に話し手として活用する「内包された作家」が存在し、解釈と論評を通して、二人の人生における問題は何かを途中途中垣間見ることできる。ゴンは、それまで自分がコントロールできないことは、緊張した時に目の下がピクピクすることぐらいだと自信に溢れていたが、今は「(誰かに)認められることと安定」(25頁)という強迫観念に囚われていることを自ら認めている。元職場の上司に呼び出されて、酔っ払ってグミに電話をかけ「出勤できることより、俺自身を認めてくれたことがすごく嬉しい」(36頁)と繰り返して話すのも「認められることと安定」への強迫観念が如何に強いかを物語っている。そして「認められることと安定」を得た以上、グミとの関係を持続させる動因は消えてしまうのだ。そんな彼の電話に、グミもやはり別れを予感する。

グミの問題は何であろうか。グミの考えなのか「内包された作家」の論評なのか曖昧であるが、「ゴンは自分の欲望に必死にしがみ付くことによって不安を先延ばしにするタイプであった。グミは逆だった。事前に諦めることによって不安の種をなくしてしまうタイプであった」という陳述から、不安な現実に対応する二人の方法が違うだけで、「どちらの方法を選んだとしても、大して変わらない」(36頁)と言いたいことが分かる。実際、グミの方法では「認められることと安定」への強迫観念から抜け出すことはできるが―一日中立ったままの姿勢で「犯してもいない過ちに許しを請うような独特の声」(18頁)で接客しなければならない―過酷な労働状況から開放されることはできない。

作品自体は、このような中立的な陳述から大きく外れることはないが、陳述の次元を超えている場合もある。もしかすると、それが、この小説が輝いて見える理由なのかもしれない。グミの望みは、ゴンと一緒に座席に座って自動洗車サービスを受けること、雨音を聞きながら眠りにつくこと、本で読んだ内容をゴンに聞かせてあげることぐらいだった。これらは、実に素朴な欲望であるが、「認められることと安定」への強迫観念から抜け出した人だけが、欲望を満たしながら、明かりが差し始める「境地」でもある。小説の結末(「再び冬の終わり」)でゴンは、去る夏、グミとの恋愛中に幸せだった瞬間を思い浮かべる。

 

泡の中でグミと並んで座っていた瞬間が自分も好きだった気がする。泡がフロントガラスを覆っていたが、不思議にも明かりが差し込んだ瞬間。思い返してみると、あの日の明るい光はきれいになったガラスからではなく、思わずワーと叫んだ低い声、フロントガラスをそっとなぞっていた指先から溢れてきたものだ。それはグミの目の輝きだったのかもしれない。

また、次も来よう。洗車が終わって、洗車機を振り返って見つめているグミに何気なくそう言った時、彼女の返事は断固としていた。

 

次?次なんてものはないわ。(44頁)

 

今、ここに明かりが差し込む人生の瞬間が存在し、そんな瞬間に「次?次なんてものはないわ」という断固な言葉も存在する。まるで、自分の人生の奥深くに打ち込む「釘」のように痛い言葉だ。二人の関係が終わりに近づいた時に発せられたこの言葉は、二つの意味を含んでいるように思われる。人生本来の明かりと人生に明かりが差し込む瞬間は、次回もそのまま反復する可能性はないという事実と、同時に彼らの関係が終わりに近づいているという予感を示しているのだ。この小説は、消滅する関係と輝く瞬間の人生を交差させることによって、一つの重要な問いを投げかけている。明かりの差し込む人生が続く「次というもの」がなければ、人生はどのように続いていくのだろうか、人々に関係を持続させる力は何であろうか。今の時代の文学作品の中で、明かりの差し込む人生のその瞬間の大切さを強調する作品は少なくないが、そのような問いを投げかける作品は殆どない。この問いに忠実に答えるためには、より時間をかけて見極める必要があるだろう。

 

 

持続的な人生と心: 金錦姫の長編『ギョンエの心』

 

金錦姫(キム・グミ)の『ギョンエの心』(創批、2018)は、興味深い恋愛小説でありながら、今の時代の特徴的なあらゆる出来事を活用したスケールの大きい作品だ。例えば、セウォル号事件や仁川ビアホール火災(1999.10.30)などの事件を中心に、当時友人と恋人を亡くした男女二人の主人公がトラウマを克服する過程を「笑う男」よりも遥かに現実的な―持続的な人生と変化する関係の―脈略の中で探求している。しかし、それだけではろうそく革命時代の「新たな」長編とは言えないだろう。語りの方法も新しくなければならないが、この小説は「心中心の叙事」と呼べるような自分なりの独特な方法を発明したようである。

「心中心の叙事」を語るといっても「心の社会学」や「心のレジーム」を論じようとしているわけではない[11. キム・ホンジュは、「心」という言葉を「マインド(mind)よりも、ハート(heart)に近い意味の種類」として取り扱っており、「人間の認知・情緒・意志的な行為能力の源を総合的に指示する傾向」に注目している。参考にすべき主張ではあるが、西洋哲学中心の立論と思われ、「心」に関する東洋的な思惟とは距離があると思われる。「心の社会学を理論化しよう」『社会学的な波状力』、文学ドンネ、2016、505~506頁を参照。]。ここで「心」を中心にしている理由は大きく二つに分けられる。一つは、長編小説の叙事の方法と関連している。長編の場合、何よりも持続的な人生の時間の流れを書き綴らなければならないのだが、従来の叙事の方法の大きな二つの流れは、事実主義小説の線形的な叙事と、モダニズム小説の「意識の流れ」に沿った破片化された叙事に大別できる。ところが、この小説は両者を結合しており、敢えて区別するなら後者に近いと言えるが、二人の主人公の「意識の流れ」ではなく、「心の動き」に従う方法を取っている。

もう一つは、「情動的な主体」について論じながら注目した、情動のアナーキズム的な属性を念頭に置いていることだ。情動の概念が今の時代の特徴的な社会現象、もしくは主体の新たな面を把握して論じる際には有用であるが、そのような有用性を活用する方法だけでは、情動のアナーキズム的な運動を制御する方法がないからだ。だからと言って、この小説がその解決策を提示しているわけではない。だが、情動中心ではなく、心中心[12. 情動と心は、同じような意味で使われており、現象的にはかなり重なる。しかし、情動は、持続的な変形過程を通して、あらゆる境界を崩しながらも依然として「有」の世界にとどまっている。それに反して、心は千差万別に変化しながらも、ある瞬間、痕跡すら残さず消えてしまう「有無」の境界に縛られない境地がある。]の物語でなければ、「Hell朝鮮」という情動の渦巻く海に飛び込んで前に進む勇気を出すことはできない[13. これと関連しては「心」について学ぶことの重要性を強調した、白楽晴の「統一時代・心学び・三同倫理」『どこが中途で、なぜ変革なのか』、創批、2009年を参照。]。

この小説は「物事の中途へ(in medias res)」飛び込む古典的な手法を使い、ある中小企業(バンドミシン)に勤務するパク・ギョンエとゴン・サンスの出会いから始まる。興味深いのは、二人とも同じ事件によりトラウマを抱えており、失敗した恋愛体験があるのも同じで、しかも、既に特別な縁で結ばれていた―火災の際に命を落としたE/ウンチョンを通してお互いに縁があり、サンスのフェイスブックのアカウント「お姉さんは罪が無い」(以下「姉罪無」)を通してメールのやり取りもしていた―のだが、二人はその事実を全く知らないという点だ。いつ、その事実が明らかになり、どのような影響を及ぼすか、推理小説のような好奇心をかき立てている。途中から始まった小説の叙事は、それぞれ二人の過去を語りながら、ゆっくりと物語を進めていくのだが、過去と現在の出来事/時間の繋がりは、既に指摘したように、心を中心に語られる。

しかし、心というのは微妙で、全てのことを心が決定するのだが、その心は自分もコントロールできない場合がある。ギョンエとサンジュの関係でのギョンエの心がそうである。サンジュと別れても、そしてサンジュが結婚して三年経っても、関係を絶つことができないのは、「心が終わらなければ、何も終わらない」(60頁)からである。サンジュとの繋がりを絶つことができない「ギョンエの心はロマンス的な欲望でも、関係回復への情熱でもない、一種の敗北感」(138頁)に過ぎないが、ギョンエはその心をどうすることもできない。この感情が、通念的な未練と決定的に違う点は、Eという存在、及び彼の喪失と関連している。「サンジュを死んだと思って生きていくこと。それは少なくとも自らを被造(物)、と呼んでいた時代に誰かを失ったことのある人には不可能なことだった」(161頁)からだ(第2章「E」の冒頭部分でサンジュとの関係が初めて登場するのも偶然ではない)。ギョンエはその心を「廃棄」できないまま、サンスと一緒にベトナムへと旅立つことを決心する。

「心」は、このように非合理的に動くが、だからこそ合理的な方法では不可能なことができる。例えば、無意識の奥深くの動きまで捉えることもできるのだ。サンジュとギョンエの心の繋がりが無意識の中では、かなり奥深くまで根付いていて、それはサンジュという人物がそれだけ美徳を備えているという立証でもあるが、だからこそギョンエとしてはサンジュとの関係を乗り越えることが自己変化を成し遂げる重要な要となっている。

無意識のレベルで心の動きを決定する要素は生命力であるが、この小説の心は生きている方へと動く。いくら縛りつけても既に死んでしまったり、死にそうな関係から抜け出そうとする。しかし、新しい関係が生まれなければ、古い関係から抜け出すことは容易なことではない。ギョンエはサンスと生きた新たな関係を結ぶことにより、ついにサンジュの影から抜け出すことができたのだが、無意識的に手を握った二つの場面がその瞬間である。最初の場面(159~160頁)は、サンジュとの関係が終わろうとしている瞬間で、二つ目は、ほぼ関係が終わった瞬間である。サンスは「姉罪無」ハッキング事件で傷ついた状態で一人で想像を膨らませ、悲しくなって「自分も知らぬ間にギョンエの手を握ってしまった」(258頁)

 

サンスはギョンエの手を握りながらも、放心状態で気づかず、ギョンエが握り返してくれた瞬間、気がついた。最初は、サンスがギョンエの手の上に手をのせて握ったが、今度はギョンエがサンスの手の上に手をのせて握り返した。何も存在しない。サンスはそう思った。こうやってお互いに手をのせ合って握っているこの瞬間、脳裏には何も浮かばず、どんな煩悩も存在しないのだ。(259頁)

 

サンスの手を握った時、ギョンエはもっと触れたいという衝動と同時に自分をしっかりと抱えて持ち上げられるような力を感じた。自分だけでなく、サンスのことも片手で持ち上げることができそうな力を感じたのだが、なぜサンスのことを思うと、このような力を感じるのか。なぜ力が必要だと思うのだろうか。(268頁)

 

二人は、特に理由もなく、お互いの手を握り合ったまま、一人は何の煩悩もない状態―ゴン・サンスという名のように、常に存在するが〔常数(サンス)〕、空(から)の〔空(ゴン)〕―となり、もう一人は「自分をしっかりと抱えて持ち上げられるような力」を感じるこの場面は、「釘」の明かりの差し込む瞬間を想起させる。勿論、その瞬間がそのまま反復されるわけではない。グミとゴンの関係とギョンエとサンスの関係が違うように、彼らの関係の中に内在された、ある生命力が発現する方法も違って当然だ。確かなことは、このような新たな関係が形成されることにより、サンジュとの繋がりを絶つことができなかったギョンエの心は、ほぼ消えてしまい、その後離婚すると訪ねてきたサンジュに背を向けることができた。これは、ギョンエが体質化された心の「被造(物)」から存在へと、そして人生の主体へと移行したということだ。

もう一つの心中心の叙事の長所は、過酷な現実が引き起こす多様な情動を繊細に感知するが、それに振り回されない能力である。サンスが大学入試試験をもう二度と受けないと言ったばかりに父親にバスケットボールを投げつけられる家庭暴力の場面(35~45頁)や、兄のサンギュが幼い転校生を「スイス製のナイフで脅かし、屋上に連れて行った後、縛って暴力を振い、二日間そのまま放置したこと」(122頁)で、兄の代わりにサンスと父親が謝罪に行く場面(118~124頁)などは、これまでの単純な識別体系では表現しがたい情動と雰囲気をリアルに描いた名場面である。後者の場面には、衝撃、絶望、憎悪、恐怖、敬畏、悲惨、怒り、卑怯、憤り、温もり、当惑、苦痛、照れ、純粋な羞恥心など、多様な言葉が登場するが、これは「人間が多様な顔を持っているように、その悪もグラデーションで存在するという」(15頁)ユジョンの考えを想起させる場面だ。

主体の立場からこの暴力場面を考えると、サンスの心が、あらゆる種類と強度の身体的・感情的試練を体験することにほかならない。それにもかかわらず、サンスが否定的な情動に完全には掌握されないのは、彼の心に空白が存在し、常に他人の心を想像しながら、その想像の世界へと嵌ってしまうからだ。例えば、謝罪のために訪れた「ベッコン食堂」で、被害者の少年の母がサンスの気持ちを察するような言葉をかけると、「サンスの心、その寂寞とした冷たい心に、ほんの一瞬、温もりが感じられ」(120頁)、その温もりのお陰で、メニューにある「味噌酒グッパ」という言葉に気が付き、想像力を膨らませる。そして、彼は「自分の立場も忘れ、あの母親は味噌と酒グッパなのか、それとも味噌酒とグッパなのか、とにかくそれを売って息子のために生きてきたんだと思うと、涙がポロリと」(121頁)出そうになった。このような純粋な心のお陰で「サンスは自分の兄とはできるだけ違う、いや全然違う人間になろうと決心し」たので、「結局、その事件によって人生の方向が変わったのはサンギュではなく、サンス」(123頁)であった。この暴力の世界での試練がサンスの主体を変化させたのだ。

サンスがフェイスブックで運営している恋愛相談ページ「姉罪無」もやはり、心を分かち合い、鍛える場である。それだけに「姉罪無」という仮想現実は特定の素材として取り上げられているのではなく、今の時代において必須不可欠な領域として探求されている。しかも、サンスはここで「お姉さん」と呼ばれている。つまり、女性として振舞わなければならなかったのだ。昼は会社でゴン・サンスチーム長として、夜は「お姉さん」として裏表のある二重生活を送っていた。

 

もしかすると、このような二重生活のせいで、サンスは職場で浮いていたのかもしれない。「お姉さん」からゴン・サンスチーム長への転換は単に自宅―サンスは必ず自宅でだけメールを書いた。セキュリティーのために―と職場という二つの空間の移動だけではなく、多少大げさに言うと、存在自体が転移しなければならなかった。しかし、そのような存在の転移のせいで、バンドミシンでの生活はサンスを「お姉さん」でも「お兄さん」でもない、「それ」のように感じさせた。(37頁)

 

この文で、最も目に付くのは「存在の転移」という表現だ。以前は、大学生が労働者へと「存在の転移」を行ったが、ろうそく時代にはそうすべき理由がなかった。殆どの大学生がもう既にアルバイトの非正規の労働者だからだ。むしろ、オン・オフライン空間で常に存在を転移させ、現実との境界も曖昧になってしまうのが、今の時代の主体が置かれた立場である。けれども、ここで問題とされているのは、ゴン・サンスチーム長から「お姉さん」への転移ではなく、「お姉さん」からゴン・サンスチーム長への転移であるところに注目する必要がある。サンスにとって、オンライン上で「お姉さん」として生きていく方が、オフラインで物(「それ」)扱いされる現実より遥かに人間的で大切だった。だから、このようなサンスの二重生活は、今の時代、オンライン上での生活の方が多くの割合を占めつつあることを意味するだけでなく、オン・オフラインのどちらが真の人生の空間であるかと問いかけると同時に、オンライン空間がオフライン(社会現実)での生活に対する批評の場になり得ることを示している。勿論、オンラインもオンライン次第で、「姉罪無」ページは男性中心の社会現実を批判し、傷付いた女性の心を慰める場であるため、サンスにとって「唯一の生きる意味であった」(34頁)

サンスは、職場では「傲慢な利己主義者とか、非常識な人間、さらには拷問官」のように思われていたが、ギョンエはサンスが「自分の心の秩序が整った人であり、ただ、そのような自己倫理を外部と共有することが苦手なだけ」(158頁)の人物だと思っている。サンスとギョンエが親しくなったのは、二人を結んでいた縁だけでなく、与えられた現実に従わずに「自分の心の秩序」と「自己倫理」に従って批評的に行動するのを、お互いに認め合ったことが大きなきっかけとなる。例えば、ギョンエは労働をする人々に対する信頼と尊重を基本的な原則としているが、だからと言って、組織労働者らの誤った慣行まで支持しているわけではない。バンドミシンの長期ストライキが崩れたのは、ギョンエが「ストライキ中に起こったセクハラ問題を労組側に抗議したから」(25頁)であり、この事件でギョンエは非難といじめを受けるが、ジョ先生のアドバイスに従って辞表は出さなかった。現実の誤った論理や慣行と闘いながらも、観念的な根本主義ではない批判的な現実主義の態度を持ち合わせていると言えよう。

サンスがギョンエを待ち続ける最後の場面は、持続する人生と心に対する、この小説の立場を圧縮して伝えている。サンスはギョンエが「姉罪無」のユーザー名「フランケンシュタインフリージング」であることを知っていたが、彼女には言えなかった。ギョンエはサンスが自分の本音を隅々まで覗き込んだことを知って傷付き、やり取りしたメールを電子ブックにしようという提案も最後まで拒否した。にもかかわらず、サンスはギョンエが戻ってくるのを待っていた。夏が過ぎ、秋が近づいた頃、「恐らく、ギョンエは永遠に戻ってこないかもしれないという思いが初めて」(349頁)サンスの脳裏をよぎった。このように待ち続けるということは勇気が必要なのである。

 

サンスは、誰かが家に入ってきて、自分の許可も得ず、コーヒーポットにお湯を沸かしているところを見つける。そして、周りを見回す。本棚にぎっしりと並べられた文庫本の小説とビデオテープ、既に亡くなっているけど、今もポスターの中で微笑んでいる俳優、飾られたアジサイのドライフラワー、レースをつけたカーテン、「お姉さん」達のメールをプリントした紙、水気をしっかりと絞った布巾、メモに書かれた自動車税の納付期限などを。そうやって自分に背中を向けて立っている人の片方に傾げた首、伸びてポニーテルにした髪、ちょっと狭いその肩は、サンスが毎日何度も想像したものだった。(351~351頁)

 

ある人の生活空間とその中に存在する色んな物、そして、ついに戻ってきた恋人をリアルに描写したこの場面は「釘」の明かりが差し込む瞬間とは対照的な感じだが、異なった方法と雰囲気で、その瞬間が訪れたのである。恋人の視線で、見慣れた自分の生活空間を見回した瞬間、その中の様々な物の一つ一つが静かながらも明澄に自分自身を表していた。サンスが自分の心を整えながら待ち続けた結果、今のこの瞬間が訪れたのだが、ただ待ち続けるからといって、このような瞬間が常に訪れるわけではない。ギョンエは、自分の不在中、サンスが自分の身近な人々の傷付いた心を癒すために一生懸命努力しながら、見せてくれた彼の心の秩序と生命力を認め、そして信じていたので、彼の元へ戻ってきたのである。サンスもまた、ギョンエがそう思っていることを信じて待ち続けたのである。

 

『ギョンエの心』により提示された仮想現実は、実際現実の一部分や補完の意味の域を超えている。実体論的な考えにこだわらなければ、仮想現実でも実際現実でもない、どこでもアクセス可能な「第三の領域」が協同的な創造の空間として開かれていることに気付くだろう。そういった意味で、Eの言う「燃える時間」、つまり「映画で重要なのは、あらすじでも場面でも俳優でもなく、その場に座っている観客と上映されている映画の間に生じる、その瞬間の時間という」(64頁)文章は示唆に富む。「Eが、自分の見た映画について興奮して話すと、ギョンエは映画の内容ではなく、Eがそうやって一人で夢中になっていた時間と心の動きが気になって、少し寂しくなった」(230頁)り、「その映画について話している間、またそこに行って来た気がして嫌」(231頁)だったと反論した。その「夢中になっていた時間」と「心の動き」と「そこに行って来た」という行為が再び反復されることはないからだ。ここで言う「そこ」とは「文学のコモンズ」論での「第三の領域」と同じであろう。

『ギョンエの心』は、作家が『ジェーン・エア』のような古典作品や最近の多くの小説、映画、音楽、SNSのページに「夢中になっていた時間」、その時の「心の動き」、「そこ」に行って来た体験のお陰で、今この場に存在する。そして、この小説の読者達にとって、また違った「夢中になる時間」「心の動き」「そこ」へと入る通路となっている。ろうそく革命の時代に書かれた、この独特な作品は、協同的な創造の産物であり、そのような創造的な作業を可能とする通路でもある。

 

翻訳:申銀児(シン・ウナ)

 

 

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