창작과 비평

[特集] 3・1運動、韓国近現代史から再び問う / 林熒澤

 

創作と批評 183号(2019年 春)目次

 

 

林熒澤(イム·ヒョンテック)

成均館大学名誉教授

 

 

1. 3・1運動に対する問題意識

韓国人の近代精神は、3・1運動によって目覚めたと言ってよいだろう。その所期の政治的な目的を達成することはできなかったが、3・1運動が切っ掛けとなり、韓国の近代文化が生まれ、その一環として、この地に新文学が花咲いたのである。これが、3·1運動に対する筆者の基本的な見解だ。

筆者は漢文学を専門としながらも、韓国の古典文学を手放すことができなかった。それゆえ、3·1運動を深く掘り下げることはできなくても、研究者の道へと進み50年余り過ぎた現在も、未だに関心を持ち続けている。機会あるごとに3·1運動への見解を示したり、学的な研究を行ったりもしている。以前、韓国文学史の認識の試論として「新文学運動と民族の現実の発見」[1. 拙稿「新文学運動と民族現実の発見」『創作と批評』、1973年春号;『韓国文学史の視角』、創作と批評社、1984。]という論文を発表した。3・1運動当時、目覚めた新知識層の意識が新文学運動へと発揚したと主張した内容である。そして、3・1運動からエネルギーを得て新たに組織された上海臨時政府の発刊した機関紙『独立新聞』に掲載された詩編を「抗日民族史」というタイトルで紹介した。単なる資料の発掘に留まらず、上で述べた主張を補うための意味も含まれている[2. 拙稿「抗日民族詩:上海版 『獨立新聞』所載」『大東文化研究』14集(1981);『韓国文学史の視角』収録。この論文で「域外における文学は、日帝の目に見える、もしくは目に見えない圧迫による牽制を受けながらも展開していった域內の文学とはかなり異なった様相を呈していた」(『韓国文学史の視角』、315頁)と指摘した。]

また、「1919年の東アジア、3・1運動と5·4運動」[3. 拙稿「1919年の東アジア、3·1運動と5·4運動: 東アジアの近代を読む方法論的な序説」、成均館大学の東アジア学術院が、3·1運動90周年に開催した国際学術会議の発題文として 『大東文化研究』66集(2009)に収録し、それを『韓国学の東アジア的な地平』(創批、2014)に修正後、掲載したもの。]では、韓半島(朝鮮半島)の3・1運動と中国で起きた5·4運動の歴史的な同時性と、どちらの運動も政治的に反帝国主義の民族主義の運動であり、新文学運動として文化革命的な性格を帯びているという事実に注目した。3・1運動に対する視野を東アジアにまで拡大して思考した作業と言えよう。

3・1運動は、韓国近代の本格的な出発点である。従って、その出発点は、韓国の近現代の抱えている対立の葛藤の発源処でもある。3・1運動は挙族的な運動であったため、革命的な影響力を幅広く及ぼすことができた。しかし、残念ながらも3・1運動以降は、名実相伴う挙族的な運動は起こらなかった。日本帝国の支配下で不可能であったことは言うまでもないが、1945年8月15日の開放さえも、全ての国民が共に万歳を叫びながら喜びを分かち合うことができない状況を迎えてしまった。南北の空間的な分離と左右の理念的な葛藤が入り混じり、結局は分断体制が慢性化し、そのまま長期化してしまった。そして、ろうそく革命に至り、ようやく歯止めがかかったのである。

日帝の支配から南北分断に至るまでの韓民族の運命に、外的な要素が決定力を行使してきたことは間違いのない事実だ。けれども、そこには内的な要因と生理が常に作用していた。我々は、こういった側面を優先的に省察し、深く思い悩むべきではないだろうか。

3・1運動の挙族的な叫びが衰えつつあった時、既に左右の思想対立は起こっており、徐々に悪性化し始めていた。そして、ついに1948年と1949年、韓半島に互いに排他的な二つの国家が誕生した。両者は互いに理念が異なるため、主張する伝統性の根拠も異なった。周知の通り、南側の大韓民国は、その伝統性を3·1運動に見い出し、法的系統を臨時政府に立てた。 一方、北側の朝鮮人民共和国は、金日成(キム・イルソン)が領導した「抗日革命闘争」を前面に掲げた。3·1運動に対しての左派から北朝鮮へと繋がる一貫した論理は、3·1運動を重視しながらも失敗の要因を探ることに焦点が合わされ、批判的な方向へと傾いていった。このように、南北の3·1運動に対する認識論には、見解にこそ違いはあるが、両者共に分断の論法であるという点では一致している。

3・1運動を伝統性の根拠としている南側も、3・1運動への見解は鮮明でなく曖昧である。それはなぜだろうか。大韓民国を主導した人々は、中国から戻ってきた臨時政府の人々とは立場や路線が合わなかっただけでなく、それ以降も対米依存的傾向から脱することができなかったからである。朴槿恵(パク・クネ)政権が「正しい歴史認識」という名の下、無理に3·1運動の評価を切り下げようとしたのも、右派の理念が対米依存へと極端化したものではないかと思われる。

今年は、3・1運動が100周年を迎える年である。そんな年に我々は何をすべきだろうか。最近、目の当たりにしている状況は、3・1運動へと目を向けさせ、その意味を再び考えさせる。これまで、学的なテーマの一つとして、3・1運動について考察し、見解を示してきたのも、韓半島の分断という現実に抵抗し、南北にそれぞれ存在する主流論理を批判しようという趣旨が多分にあった。大韓民国で熱く燃え上がった「ろうそく」、そこから始まった様々な状況を体験しながら、一層切実に抱くようになった思いでもある。

今の時代に燃え上がった「ろうそく」は、既に3・1運動によって提起されながらも未だに解決されていない課題を解決しようという民族史的な使命を担っていると言えよう。19世紀に上昇一路であった民衆運動は、ここにきて一大転換期を迎えたのだ。4·19革命や6月抗争のような多くの試練を乗り越え、今日の「ろうそく」に至って、ついに民族史的な課題が解決される可能性を見い出したのである。このような韓国の民族運動史の力動的な進化過程を考察し、さらに3・1運動を巡る近現代における争点を探ってみたいと思う。民主を目指した運動史における認識の枠組みの中での3・1運動の位置付けと、その歴史的意味を考察してみたいと思う。    

 

2. 運動史の進化過程において運動を省みる

本章では、中国の近代民国革命の父である孫文が韓国の3・1運動を評価し、独立運動を支持した発言から3・1運動に対する論を進めたいと思う。心山・金昌淑は、3・1運動直後に儒学者らの意見をまとめた文献をパリ講和会議に提出するため、こっそり出国して上海へと向かった。しかし、金奎植(キム・ギュシク)が韓国を代表してパリへと既に出発したため、文献を英訳して送付し、金昌淑自身は上海に残り、臨時政府樹立の活動に合流することになる。そして、彼は広州へと向かい、孫文に会うのである。孫文が金昌淑に接見して発した第一声は、「10年も経たない時点でこのような大革命が起きた例は古今東西の歴史上、非常に稀な出来事です」であった[4. 金昌淑が孫文と会うことになった経緯は、彼の自伝的な記録である「躄翁七十三年回想記」(『心山遺稿』、318頁、韓国史料叢書18集、国史編纂委員会、1973)に書かれている。]。その後、再び、睨觀・申圭植(シン・ギュシク)が韓国の臨時政府の典祀として孫文を訪ねる。申圭植は、以前中国に亡命し、辛亥革命当時、その闘争に参加しており、中国国民党の人々とも幅広い親交があった。孫文は申圭植に接見すると、「我が老同志」と歓迎しながら「北伐を終えてから、必ず韓国の独立運動に全力で協力する」という約束を交わした[5. 『孫中山年譜長編』(陳錫祺 編、中華書局、2003、1382~83頁)に孫文が申圭植に接見した事実が記載されている。韓国側の記録には、申圭植の娘婿の閔石麟(閔弼鎬)の残した「中國護法政府訪問記·孫大總統會見記」(『韓國魂 曁兒目淚』、睨觀先生記念會 編、臺灣、1955)がある。筆者は、この事実に注目し、「19世紀末、20世紀初の東アジア、世界観的な転換と東アジアの認識」(『大東文化研究』50集(2005); 『韓国学の東アジア的な地平』)において論じたことがある。]。前者は1919年の7月、後者は1921年10月のことであった。

当時の中国は、孫文主導の辛亥革命(1919)によって旧体制を覆すことには成功したが、大陸全域が混乱の渦に陥った状態であった。軍閥が各所に割拠し、首都の北京も保守・買弁的な軍閥勢力によって掌握されていた。それによって、孫文も南方の海辺へと追い込まれた状態であった。彼が申圭植に韓国の独立運動に積極的に協力すると約束しながらも「北伐を終えたら」という条件を付け加えたのは、こういった意味からであった。孫文は、北伐の成功を見届けることなくこの世を去ったが、彼の遺志は受け継がれ、中華民国の統一という大業が成し遂げられた。そして、韓国の独立運動に協力するという約束も守られた。臨時政府は中華民国の政府の支援に支えられ、中国の領域内に存立することができたのである。

孫文の3・1運動への評価は、決して過大評価ではない。主権を失い、植民地へと成り下がって10年も経たない状況下の国民が、しかも日本帝国主義の暴圧的な武断政治の下で挙族的に行った独立運動は、世界史的にも類をみない出来事であった。そのような運動が韓半島で如何にして起きたのであろうか。これが、まず最初の問いかけである。

3・1運動が植民地の被圧迫民族による自主独立の意思を示した行為であったことは間違いない。日本帝国とその支配下にあった韓民族の間で起こった事件だ。帝国主義の国々による植民地化が急速に進み、全世界で猛威を振るった20世紀において、3・1運動は世界史的な意味を持つ。従って、3・1運動は近代的なものであり、それ以前の歴史運動とは区別されるのだ。運動の形態にも明らかに違いが見られる。特に、その点に注目したい。

3・1運動の運動形態は、常に「3・1万歳」もしくは「万歳デモ」と呼ばれているように、大衆デモという方法で行われた。首都ソウルを皮切りに、韓半島全地域に万歳の叫び声が響き渡り、その声は海外の同胞社会にまで届いた。それだけでなく、「3・1運動の炎は、中国にまで燃え移った」と表現されたように、その影響力は中国大陸にまで及んだ[6. 朝日新聞取材班『東アジアを作った10の出来事』(原題:歴史は生きている 東アジアの近現代がわかる10のテーマ)、ベク・ヨンソ・キム・ハン訳、創批、2008、126頁。3·1運動が5·4運動に及ぼした影響関係について、筆者は「1919年東アジア、3·1運動と5·4運動」において論じている。]。それが、5・4運動である。このように、挙族的に各界各層の老若男女が総決起した。その代表部は社会の指導層や宗教団体の人物らによって構成されたが、先頭に立って運動を導く動力となったのは、他ならぬ学生集団であった。東京の留学生らによる2・8独立宣言は、3・1運動の先駆けとなっており、全的に学生運動であった。つまり、3・1運動は、近代的な知識の洗礼を受け、新教育を履修した知識人である学生らが主導したものであり、その運動の方法は非暴力的なデモから出発したものであった。

この3・1運動への問いかけに対する答えは、二段階に分けて考えた方がよいだろう。一つは、3·1運動の直接的な切っ掛けとなる段階であり、二つ目は、時間を遡って3・1運動の源をなす段階である。両者の境界線は従来の中国中心の世界が解体され、改革が不可避となった1894年だ。

1894年以降、日本の侵奪による危機が深刻化し、救国と改革が切実に求められ、義兵闘争と共に愛国啓蒙運動も活発に展開していった。にもかかわらず、結局は主権を奪われ、被植民地に成り下がってしまったのだ。近代になるや否や、難破してしまったようなものだ。韓半島の人々は庚戌国恥(韓国併合:1910)後にどのような行動を取ったのだろうか。ある者は痛恨の気持ちで亡命を選択し、ある者は挫折と失意に陥り、ある者は日本帝国にへつらって出世と安楽を得ようとした。そのような状況の下で多くの人々は生存のための活動を行っていたが、その中のかなりの人々が公私立の各種の学校に通ったり、日本へ留学したりした。このような一般の人々の生き方にも注目する必要があると思われる。植民地の経営者が施した教育制度であり、しかも民族差別的で、あらゆる制約が加えられていたにもかかわらず、その生き方には教育熱・向学心が感じられる。これは何を意味するのだろうか。韓国人特有の気質が当時も発揮されたものであり、不可避の近代に適応するための基礎体力を養う方法であったと言えよう。3・1運動の主力軍は、まさにこのような向学心によって力を蓄え、力量が増したのである。その直前に起こった愛国啓蒙運動や義兵闘争が無駄に終わってしまったかのように見えるが、実は消滅せず影に潜んでいただけで、1910年代に成長した学生らが先頭に立って運動を導くことになるのだ。それが3・1運動である。

それ以前の段階と言えば、壬戌民乱(1862)に始まり、東学農民戦争(甲午農民戦争、1894)に至るまでの19世紀の民衆運動であろう。農民たちは自らが受けた理不尽な扱いと苦しみを訴えながら抗議する集団デモを行い、それが火付け役となって民乱へと進み、ついには戦争状態へと発展したのだ。これらは、3・1運動とは歴史的な課題が異なり、運動の主体も違う。しかし、大衆デモであったという点では、類似性を見い出すことができる。一人一人が集って共感を抱き、同じ主張を掲げて、それを貫徹させるために訴えながらデモを行うという運動方法は、我が国の歴史上では、もう既に19世紀の農民抵抗の課程で登場していたのだ。それが民擾(民乱)である。

「民擾」とは、民が起こす騒擾という意味だ。民が集会を開き、合意された主張を貫徹させるために起こす行為を官の立場から不遜な態度で表現したものである。民の主張が受け入れられず弾圧された時、それに屈せずに激しく反抗すると、それが民乱になるのだ。民の集まりである「民会」は、民乱へと進む近道となった。19世紀に入る直前、黄海道の谷山(コッサン)の副使として赴任地へ向かう丁若鏞(チョン・ヤギョン)の前に、12条の要求事項を手にして現れた李啓心(イ・ケシム)は、史料上初めて登場する民擾形態の農民抵抗の指導者である。壬戌民乱当時、晋州(ジンジュ)の民擾の指導者であった柳繼春(ユ・ゲチュン)のことを、按覈使として派遣された中央の官人は「郷会・里会は彼の得意とするところだ」と表現している。「都会とか里会などは、難民が集って何かを企むこと」と見なしていたのだ[7. 晉州按覈使査啓跋辭」『壬戌錄』、韓国史料叢書8集(1958)、22~24頁。]

民会は民乱の出発点となったため、官にとっては非常に不穏なものとして映っていたのだろう。民会は、民の意見をまとめ、主張を導き出す一種の公論の場である。公論は、現代社会に劣らず朝鮮社会でも重視されていた。「公論とは、天下の国家の元気(源となる力)である」[8. 太祖時代に諫官が王に上奏した文書にある内容。『太祖実録』2巻、9年9月、乙卯。]と、建国の当初から強調されていた。では、公論は誰によって形成され、どこでまとめられたのか。それは、朝廷の公論であり、士大夫(両班)の公論に過ぎなかった。民の公論の場など朝鮮朝の体制下では、存在することも許されることもなかった。民会-公論の場は、19世紀に歴史の舞台に新たに登場したものであった。

1893年の報恩集会は、「敎祖伸寃」を要求する大会であったが、東学農民戦争の前夜祭とも言えよう。この大会の現場で「我々は、武器一つ持っていません。これがまさに民会というものです」と前提してから、「多くの国に民会が存在するそうです。朝廷の政領が民や国にとって不便であれば、会議を行い、討論をすると言います」[9. 報恩集会の当時、宣撫使として派遣された魚允中(オ・ユンジュン)が現場の様子を伝えるための報告文書に書かれた内容。『東學亂記錄』上、韓国史料叢書10集(1959)、123頁。]と述べている。自ら「民会」と称して非暴力を強調し、他国にも存在すると主張した。恐らく、議会のようなものを想定したのだろう。国家の政事に誤りがあれば、積極的に会議を開いて討論するという発言には、直接民主主義の趣旨が盛り込まれているように思われる。

近代以前の農業社会において頻発に起こった農民抵抗運動は、群盜という形態で行われていたが、19世紀に入ってから民擾という形態が登場したのだ。かの有名な洪吉童(ホン・ギルドン)や林巨正(イム・コッチョン)などは、まさに群盗形態の農民抵抗運動において英雄視されている人物だ。群盗形態は、武装闘争という点で積極的ではあるが、農民が自らの生活を捨てなければならないため、影響力の拡大には限界がある。労働者が作業場を捨てなければならないことと同じなのだ。民会-民擾は、合法的な方法であるため潜在的な影響力は無限大であった。それは当時の歴史が証明している。筆者は、『洪吉童伝』を読みながら、群盗形態の農民抵抗に注目した。その後、丁若鏞の「蕩論」と「原牧」に盛り込まれている民主的な思想を分析しながら、彼がそのような民主的な政治思想を思い浮べた現実的な根拠として、民会-民擾に内包された意味を見い出した。丁若鏞は、12条の要求事項を持って自分の前に現れた李啓心を見て、「そなたこそ、官長である私が大金を払ってでも手に入れたい人物だ」と激励した。自己の主張を持って堂々と現れた一人の民の行動から政治の主体となり得る可能性を見い出したのであろう[10. この段落で叙述した内容は、筆者が常に関心を持っていた問題である。この問題について、初めて注目し、論じたのは「洪吉童伝の新考察」(『創作と批評』、1976年の冬号、及び1977年の春号; 『韓国文学史の視角』)においてであり、筆者なりに学的思考を発展させて論じたのが「丁若鏞の民主的政治思想の理論的・現実的根底」(碧史・李佑成教授の定年退職記念論叢『民族史の展開とその文化』、創作と批評社、1990; 『事実求是の韓国学』、創作と批評社、2000)においてだ。その後も何度が言及したが、最近では「韓国文学を考える一つの道: 民衆運動・公論の場・正義」(『韓国古典文学研究』54巻、2018)において論を多少進展させた。]

東学農民戦争は、19世紀の歴史に変化をもたらした民擾形態の農民抵抗の頂点であり、終点でもあった。そして、大きく変化した環境の中で変容した運動方式として3・1運動が起きるのである。その間の1894~1919年までは、過渡期として新たな形態の運動を養成する期間であったと言えよう。韓国運動史の形態的な進化過程において、3・1運動は、まさに画期的な転換点となったのだ。3・1運動モデルは、4・19革命、そして6月抗争へと引き継がれた。

そして21世紀に入り、運動の主体と共に運動方式において驚くべき変形が起こった。21世紀型の運動方式である「ろうそく集会」である。21世紀型は同じ大衆デモであっても、かなり異なった様相を呈している。従来は、学生らが中心になって行動する、いわゆる「デモ」であった。非暴力的な集会やデモから始まっても、こん棒や催涙弾、水鉄砲などの暴力的な攻撃に、小石や火炎瓶などで抵抗することにより、状況はエスカレートしてしまった。ところが、2008年のソウルを熱くした「ろうそく集会」は、デモの現場に付き物であった催涙弾や小石は姿を消し、一般市民が自由に集り、母親たちがベビーカーを押して参加するような平和な光景が繰り広げられた。結果的に、これは2016年~2017年にかけて起きた巨大な「ろうそく集会」の予行練習になったと言えよう。2016~17年の「ろうそく集会」は、従来の学生運動の枠から大きく抜け出し、3·1運動の挙族的な局面を復活させた一面が見られる。

 

3. 3・1の革命的な意味、それ以降の左右統一のための思想運動

孫文は、3・1運動を大革命と見なした。当時は勿論、それ以降の韓国人の発言の中でも、3·1運動を革命と表現していることが度々ある。1944年に制定された「大韓民国臨時憲章」には「3·1大革命」という文言が盛り込まれている。3・1運動を革命、しかも大革命と強調した意味は何であろうか。それが本稿での二つ目の問いかけである。

3・1運動で終わったのか、それとも革命へと発展したのか。現在、この問題は、熱い争点となっている。筆者も深く考えたことはないが、果たして3・1は革命かという点においては、すぐに共感はできなかった。個人的には、当時の人々が革命と称したのは、確かな概念があったからではなく、修辞的な表現に過ぎないと思っていたからだ。しかし、臨時政府の臨時議政院の文書に接して考えが変わった。

 

3・1の政治的な志向:民国革命

筆者が偶然目にした資料[11. この資料は、成均館大学の東アジア学術院の尊經閣所蔵の『史料集』に入っていたものだ。全12巻の写本であり「資料集」という名称も図書整理者がつけた仮題である。4巻までは韓日関係史を中心にした独立運動関連の資料であり、5巻が本稿で取り上げた臨時政府の議政院の会議録の写本である。6~12巻は講談、及び漢文小説類などの雑多なものが含まれている。これらを集め、写し書きした人物が誰かは未だに確認できていない。各種の講談記録が震庵(ジン・アム)と李輔相(イ・ボサン)のものであるため、李輔相か、もしくは彼と関わりのある誰かによって記録されたものと思われる。]は、大韓民国臨時政府の臨時議政院の一定期間の会議記録の写本であった。議政院は、今の国会に該当する機構であり、臨時政府が成立する制度的基礎であった。臨時政府が成立した1919年8月18日の開院式から、翌年の3月3日まで開かれた議政院の会議の実況を記録した文献である。これを開放直後に誰かが書き写した70頁の小冊子だ。1974年に国会図書館が発行した『大韓民国臨時政府の議政院の文書』という本があるが、これは、大韓民国の国会が公刊した文献で、臨時議政院の関連書類を全て集め、整理したものである。この国家的な公式文献に、筆者が見た資料に該当する期間の記録は非常に簡略であった[12. 尹炳奭(ユン・ビョンソク)は、「1931年以前の議事録類は『独立新聞』などから転載したものであるため (…) 第2次史料」であることを明かしている。1932年の尹奉吉(ユン・ボンキル)義士が大事を成し遂げた直後、臨時政府に保管されていた書類が日本帝国に略奪されたからだ。『大韓民國臨時政府議政院の文書』、解題22~23頁、国会図書館、1774。]。本資料は、分量は多くないが、憲法を審議する期間の記録であり、国家の民族の重大事の前でお互いに意見を交し、言い争う経緯を詳細に知ることができる。ここでは、本資料の中で、特に旧皇室を待遇するという問題に限定して論じて見たいと思う。

君主制から近代国家へと転換する際に争点になりがちな問題は、帝王の存在をどう処理するかという問題である。隣国の中国の場合、辛亥革命により清の皇帝体制が覆されたにもかかわらず、復辟(追い出された皇帝が再び王位につくこと)運動が起こり、革命以降の中国を混乱状態に陥らせる引き金となった。最後の皇帝溥儀が後に日本の侵略軍の操り人形となり、虚位の満州国の皇帝として利用されたことは有名な話である。日本の場合は、近代国家へと変身すると同時に幕府の権力は打倒されたが、国家の中心に天皇を立て、軍国主義が天皇制と結びつくという事態が起きた。一方、韓国の場合は、主権の喪失と同時に、隆熙皇帝(純宗)が退位すると、君主制を復活させようとする動きは見られなかった。復辟運動が全く起きなかったわけではないが、反応がほとんどなかったのである。このような現象も韓国ならではの特性ではないかと思われる。勿論、それには様々な原因を挙げることができるだろうが、結局は大韓帝国の最後にその原因があった。500年続いた旧制度の枠組みが解体されることによって、旧制度への回顧的な情緒が解消される結果を生んだのである。

臨時政府の憲法の母体となったものは、「大韓民国臨時政府憲章」であった。この憲章は1919年4月11日に、臨時憲法は同年の9月11日に公布された。本資料は、臨時憲法を審議・制定した期間の会議の記録である。臨時憲章の第1条は「大韓民国は民主共和制とする」であり、第8条には「大韓民国の旧皇室を優遇する」という条文が入っている。第1条は、特に問題なく通過する。国体を民主共和制とすることには、もう既に十分な共感が形成されていたと思われる。しかし、「旧皇室を優遇する」という条文に対しては、かなりの論議があったようだ。呂運亨(ヨ・ウニョン)は、「革命は徹底的に行われるべき」だという論理で皇室の保護に反対し、安昌浩(アン・チャンホ)は、「皇室も自給自足すべきだ」と、皇室の人々も一般人として生きてゆくべきだと主張した。趙琬九(チョ・ワング)が皇室優遇の必要性を力説し、一旦、本条項は8:6で通過する。しかし、金泰淵(キム・テヨン)が再び「皇室優遇案の削除を動議」することによって、討論が再開されたが、やはり趙琬九の説得によって、9:10で否決された。このように、かなりの反発を乗り越え、「大韓民国は皇室を優遇する」という条項がそのまま臨時憲法の第7条に盛り込まれたのである。

理論的には、皇室の優遇に対する反対論の方が当日の会議では圧倒的な雰囲気であった。趙琬九が最後まで皇室の優遇にこだわった理由は次の三つであった。一つは、「我が民族の統一のための一つの方針」になると思ったからであり、二つ目は、「この条項を削除した場合、人民の反発を招く恐れがある」からで、最後は、「我が旧皇室は主権を敵に奪われた」からという、いわゆる情状酌量論であった。そこには君主制の理念的な土台であった「忠」という倫理は全く見られない。単に、現実的な必要性を力説した一種の戦略的な主張であった。臨時政府の目指す民主共和制の国家は、伝統的な君主制を徹底的に否定する立場であったため、皇室の存在に対しても強く排撃する態度であったことは、はっきりと確認することができる。

臨時政府建立の中心人物の一人は、3·1運動の性格を「我が国の独立宣言は、我が民族の赫々たる革命の発軔(発動)であり、新天地開闢」であると述べている[13. 「大韓民国 建国綱領·総綱」、前掲書の21頁。]。「民族革命の発軔」とは、3·1独立宣言の冒頭に書かれている「我が朝鮮は独立国、我が民族は自主民であることを宣言する」という意味だ。「新天地開闢」とは、今後実現しようとしている国家社会の性格を示したものであるが、新しい世の中を切り開いてゆくという抜本的な革新の理想を描いたものだ。つまり、3・1運動は、独立宣言が民族全体の支持と反響を得ているという明確な証拠であり、それに基づいて大韓民国の臨時政府が発足したのである。そして、この臨時政府が実践しなければならない課業を以下のように明記している。

 

これは、我が民族の自力により異族(日本を指す)の専制を覆し、5千年続いた君主政治の旧殻(古い殻)を破り、新たな民主制度を建立すると共に、社会の階級を消滅させるための第一歩である。

 

①日本の帝国主義の殖民支配からの開放 ②5千年続いた君主政治の枠組み崩し ③ 階級のない平等な社会作り。以上の三つの課題を挙げ、民族の自主的な努力により成し遂げなければならないという基本的な方向性を明らかにしている。民族・民主の革命的な、この上なく確固たる意志が窺われる。当時の歴史の概念としては「民国革命」に該当するだろう。つまり、3・1運動は、民族国家・民主国家を樹立するための「民国革命」の性格を帯びていたのだ。

3・1運動は、民国革命という政治的な目的地の観点からすると、未完の革命であろう。しかし、文化的な面から見ると、被植民地という制約はあったが、新文学の発展が証明しているように、革命性を具現化していった。政治的な面でも、3・1運動によって民族解放闘争が活発化し、大韓民国の臨時政府が樹立したと言える。こうして見ると、3・1運動を革命と見なすことができよう。未完の革命である3·1運動は、言い換えれば「進行形の革命」なのである。「ろうそく集会」もこれと似たような性格のものではないだろうか。

 

左右対立の構造を克服する問題: 洪命憙と趙素昻

本稿の冒頭で、3・1運動以降、挙族的な運動が再び起こることはなかったという事実が韓国の近現代の最大の問題点であると指摘した。3・1運動直後、社会主義、及び共産主義思想の台頭により左右対立の構造が拡大され、固着化してしまった。民国革命が臨時政府を発足させるに至ったが、それは実現したわけではなく、第一歩を踏み出したに過ぎなかった。しかも、結局は左右対立によって分裂してしまった。3·1運動の勢いで盛り上がりを見せた新文学もやはり左派的な階級文学の登場により左右に分裂してしまう。そして、この左右対立の葛藤は、左右の統合という基本課題を生み出すことになる。

被植民地における対立は、敵前分裂に他ならない。左右対立が拡大、発展するに従って、これを克服して統一しなければならないという主張が最優先事項として取り上げられた。そうして、統一運動の実践的な努力と思想的な模索が多角的に進展した。本章では、国内で新幹会運動を導いた洪命憙(ホン・ミョンヒ、1888~1968)の中道主義と、国外の臨時政府で活動した趙素昻(チョ・ソアン、1887~1969)の三均主義に注目したい。なぜなら、両者とも統一のための思想運動であったからだ。

洪命憙と趙素昻は、あらゆる共通点と相違点を持つ興味深い人物である。一歳違いの二人は、朝鮮王朝末期に生まれて日帝強占期(日本統治時代)を体験したが、開放後、分断により勃発した内戦の際に一人は自ら北へ、もう一人は拉致されて北へと向かう。そして、彼らは北で余生を過ごし、そこで息を引き取る。二人とも幼い頃から家庭で漢文を学び、基礎教養を培った後、近代的な知識と思想を幅広く身に付けた。そして、ほぼ同時期に日本へ留学、近代学校に通うが、祖国が主権を失った1910年に中国の上海に亡命して独立運動に参加する。この時期に洪命憙と趙素昻は出会った[14. 趙素昻の「年譜」に、1913年「北京を経由し、上海に亡命。申奎植·朴殷植·洪命憙らと共に同済社を組織し、朴達学院を創立、革命青年を訓練する」という記録が見られる。三均学会 編、『素昻先生文集』 下、フェッブル社、1979、487頁。]。3・1運動当時、洪命憙は国内に、趙素昻は国外にいたが、それ以降も、一人は国内で、もう一人は国外で活動を続けた。洪命憙は基本的には文学人であったが、必要に応じて政治運動の先頭にも立った。一方、趙素昻は政治家であったが、文学的な文章も好んで書いたりした。思想的な面から見ると、洪命憙は左派的でありながらも民族主義的な色彩を帯び、趙素昻は民族主義的な特徴が濃厚でありながらも社会主義の論理を受け入れていた。

彼らに目を向けることは南側からは容易ではなかった。分断という状況の下で、彼らは北側の人であったからだ。文学を専攻している筆者にとっては、洪命憙と彼の著書である『林巨正』は以前から興味深い対象であった。趙素昻については、民族の偉大な指導者であるという程度の知識しかなかったが、最近、『素昻先生の文集』に接し、このように本稿で洪命憙と一緒に取り上げることができた。

洪命憙は、海外であらゆる苦難を体験し、1918年に祖国に戻ってから故郷の忠清北道・槐山(ケサン)で万歳運動を主導する。その後逮捕され、1年6ヶ月間獄中生活を強いられる。彼は、初期は社会主義者であり、その理論に精通していたという。1927年の2月に創立した新幹会は、彼が最初の提案者であり、事実上の主導者として知られている。彼は、「新幹会の使命」という論説を『現代評論』の1927年1月号に寄稿した。

 

 概ね、新幹会の進むべき道は、民族運動から考えると最も左側の道になるが、社会主義運動までも併せて考えると中間の道になるだろう。中間の道だからといって、必ずしも平坦な道とは言えないだろうし、中間の道だからこそ、却って分かれ道が多いかもしれない。

 

新幹会の目指す路線は、民族運動から考えると左派寄りであるが、社会主義運動まで併せて考えると「中間の道」であるという意味だ。彼が提唱した「中間の道」とは、左右対立を止揚する中道主義と規定することができるだろう。彼はこの「中間の道」は平坦どころか、却って険しい道のりであろうと予想している。

なぜ、中間の道なのか。彼は「我々の民族的な運動は、正しい道へと正しく進んだとしても、究竟の成功は国際的な関係」によって左右されると前提しながら「国際的な過程がいくら我々に有利であっても我々の努力がなければ成功の可能性はなく、仮に努力なく成功したとしても、それは我々にとって望ましくないことは明白」だと述べている。「正しい道へと正しく進む」つまり、正道の中間の道を選択し、努力しなければ成功は望めないということだ。この正道の中間の道を選択して邁進するためには、「科学的な組織」と「団体的な行動」が持続されなければならない。これが、いわゆる新幹会の使命である。

この新幹会の使命を表明した論説は、2頁ほどの短い文であるが、彼の深謀遠慮が圧縮された内容である。彼の言う目の前の懸念とは、新幹会が内部の分裂と妨害工作によって解体される運命を向えることである。そして遠い将来への思慮とは、日本の軍国主義が崩壊し、国際的な関係が有利になったにもかかわらず、その絶好の機会にまともに対応できず、結局は分断へと進んでしまったことだ。全精力を注いだ新幹会運動が水の泡となってしまった事態は、何よりも洪命憙自身にとって深い傷となっただろう。それ以降、彼は隠居生活に入り、ひたすら『林巨正』の執筆に専念する。『林巨正』は、新幹会運動を行いながら、それと同時に既に新聞に連載を始めていた。歴史小説『林巨正』は、社会主義の理念を民族文学へと統合させることによって完成した我々の近代文学の偉大な成果である。彼にとって、新幹会運動が政治的な表現方式だとしたら、『林巨正』は文学的な表現方式だったと言えよう[15. これに関する論は、拙稿「碧初・洪命憙と林巨定: その現実主義の民族文学的性格」(『林巨定』(改訂版、全10巻)解説、サケジョル(四季)、2008)と「民族文学の概念と、その史的展開」(『新たな民族文学史講座』1巻、総論、創批、2009; 『韓国学の東アジア的な地平』)参照。]

洪命憙の主張した中間の道は、原論的レベルでの提示に留まってしまった。具体的な説明が足りなかったのは、口数の少ない彼自身の性格に加え、検閲を意識したせいもあるだろうが、それよりも運動の実践課程において、その方向性を定めていきたいと考えたからではないだろうか。結局、新幹会運動は、日本帝国の抑圧の下、中途半端に終わってしまい、彼の中間の道が具体されることはなかった。一方、趙素昻の三均主義は、実現できる土台がなかったため、終始、議論として改進した。

趙素昻は、1918年の末に中国の東北地域の吉林に滞在した。そこで呂準(ヨ・ジュン)・金佐鎭(キム・ジャジン)らの独立志士と一緒に大韓独立義軍部を結成し、「大韓独立宣言書」(「戊午独立宣言書」と呼ばれるもの)を作成して発表した。そして、1919年の初めに国内の秘密連絡員が3・1独立宣言書の草稿を持って来てはじめて、それを知ったのだ。その3·1運動の直後、上海に代表として参加するよう電報をもらい、歴史的な臨時政府樹立の作業に携わることになった。当時の感動的な光景を「我々は、議政院を組織し、臨時政府を組織し、そして臨時憲章を作成するために三日三晩夜を明かしたが、全く疲労など感じなかった」と語っている。さらに「自伝」では「『10条の憲章』などの重要問題を直接下書きした」と明かしている。「臨時政府憲章」は、趙素昻が起草したことは間違いないと思われる。1945年までの臨時政府の主要文献は、多くが彼の手によって作成された。彼は臨時政府の代表的な理論家と言えよう。

さらに、重要な文として上で引用した「大韓民国建国綱領」も趙素昻が1941年に作成したものである。この文献は、国会図書館公刊の『大韓民国臨時政府の議政院の文献』に収録されており、『素昻先生の文集』でも親筆の草案が確認できる。その時、臨時政府は中国の重慶に移っていた。当時の情勢は日本の軍国主義が中国全域から太平洋へと戦前を無理に拡大し、日本の敗亡が予想される状況であった。ようやく目の前に迫った光復の日、我々はどのような国家を建ててゆくべきか。その問いに答えて構想されたのが、まさに「建立綱領」であった。臨時政府の『官報』第72号に文献の全文が掲載されたという。文献は、総網・復国(光復の方法)・建国の3部で構成されており、上で引用した文は、総網の第5条にある内容だが、ここで第7条も見てみたいと思う。この条項は総網全体の結論と言える。

 

臨時政府は理想に基づき、革命的な三均主義により復国と建国との各段階を踏まえた上で、一環した最高の公理である政治・教育の均等と、独立・民主・均治(三均政治)の三つの方法を同時に実施する。

 

光復を迎えた時、我々はどのような国家を建ててゆくべきか。この課題に対して「革命的な三均制度」が全過程を通観できる「最高の公理」であるとしている。即ち、最も普遍的な原理原則であるという意味だ。政治の均等、経済の均等、教育の均等が彼の主義主張の三均だ。独立した民主国家として、真の「均治」が実現可能な世の中が訪れるのなら、「新天地開闢」と言っても過言ではないだろう。

趙素昻が三均主義を着想したのは、「自伝」によると1926年のことである。 その年、彼は「韓国唯一独立促成会」という団体を結成して「三均制度」というものを作り上げた。国内で新幹会運動が起こった時期であった。それ以降、彼は臨時政府での活動においても、帰国してからの政治活動においても、ひたすら三均主義の実践のために全身全霊を尽くした。彼自身が自らの人生を要約して「実践は三均を行うことにあった」と語っているほどだ。

彼は自分の三均主義に歴史的な淵源があるかのように語っているが、それは確かではない。筆者の考えでは、彼の三均主義は、丁若鏞の「原政」において表明された政治学と相通じるものがある。孔子の「政治は正である」という命題を「均」をもって解釈したものが丁若鏞の政治学だ。概して政治の原理は、均分・均衡・公平にあると説いたものである[16. 拙稿「茶山の民主的政治思想、法治と礼治」、ユネスコ・南楊州(ナミャンジュ)市行動主催「茶山・丁若鏞の解配200周年記念国際シンポジウム: 持続可能な発展、丁若鏞に道を問う」(2018.4.5~6)基調発題文。]。趙素昻が三均主義を着想した折に、丁若鏞の書物に目を通していたとは思えない。つまり、三均主義は、趙素昻の独創的な思想であり、悪性化しつつあった左右対立を克服するために悩んだ結果であろう。本人の読書や思想的な遍歴から得たものであろうが、彼は自分の思想を「物質と精神の統一、東洋と西洋の融合」と説明している[17. 趙素昻は、「自伝」で、自分の思想を要約して「新羅時代に最も活躍した『花郎』を以って本体とし、易学と弁証法を以って方法とする。理気を以って踏み出し、性相を以って戯れ、物質と精神を統一し、東洋と西洋を融合した。実践は三均を行うにあり、心が戯れるは三空にある。勇敢に韓国の主流思想を担ったものだ」と述べている。参考に、原文も載せておきたい。「以新羅時代最有力之‘花郞’爲體, 以易學與辨證法爲方法. 馳騁理氣, 傲遊性相, 統一物心, 融會東西. 在實行爲‘三均’, 在遊心爲‘三空’. 勇敢負擔韓國之主潮思想焉」(三均学会 編、前掲書、156~58頁)]。特に孫文の三民主義の影響が感じ取れ、さらには共産革命を強行するソ連の現実が反面教師となったのではないかと思われる。

趙素昻は、三均主義を臨時政府の基本精神として「建国綱領」とした。 三均主義はその根本であり、「建国綱領」は、その実践方法であるということだ。しかし、彼の思い通りに実現できただろうか。開放以降の状況から見て、実現不可能であったことは一目瞭然である。開放以前の臨時政府の内部においても、三均主義への支持が十分得られたかというと、実際はそうでもなかったようだ。三均主義自体は、かなり抽象的であったため、表面的にはそれほど争点化されなかったようだが、土地制度の問題においては、多くの論議を呼んだ。「建国綱領」の第3条に「土地制度は国有をもって確定する」と定められている。国有とは、私有に反する公有の概念である。「国有の範疇は、我々の祖先が極めて公平に分けてくれた法を遵守しながら、後世の私有兼併の弊害を廃止せねばならぬ」と説明している。議政院の会議で、この問題は激しい反発を買った。このような状況からして、恐らく三均制度は、十分な共感を形成することはできなかったと思われる。しかも、開放後の米国の軍政下では臨時政府自体が認められなかったため、趙素昻は個人的に帰国し、南側の単独政府にも参加できなかった。そのため、彼の三均制度は行き場を失ってしまった。それでも彼は、三均主義が「最高の公理」であるという信念を曲げず、奮発して実践可能な政党を結成したり、大衆宣伝をしたりして、全身全霊を尽くした。しかし、結局北に拉致され、彼の三均主義も失踪してしまう。

 

4. 韓国の近現代の3・1運動への借り

第1次世界大戦の終結は本格的な意味での20世紀幕開けの切っ掛けとなったが、東アジアの20世紀は、韓半島の3・1運動が中国大陸の5·4運動と連動することによって開始したと言ってよいだろう。

世界大戦が終わると、全世界の人々が「人類の新紀元」「解放の新気運」が到来したと喜びを分かち合った。ところが、「新紀元」と「新気運」が果たして東アジア、そして韓半島にも到来しただろうか。新気運が到来し、喜びの喚声が世界中に響き渡っていたが、被植民地は抑圧されたままだった。それ以降から現在に至るまでの歴史を振り返ってみると、1945年の第2次世界大戦の終結により解放の日を迎えることはできたが、韓半島では分断という障壁が生じ、体制の違う二つの国家が樹立することによって、現在まで対立、葛藤が続いている。

1989年、全世界的に冷戦体制が解体されるという外的な状況変化にもかかわらず、韓半島の分断体制に変化はなかった。しかし、世界史的な変化の気運が韓半島に全く訪れなかったわけではない。盧泰愚(ノ・テウ)政権の北方政策、金大中(キム・デジュン)政権の6・15宣言、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の10・4宣言など、南北・左右の対立を乗り越えようとする動きが見え始めた。この流れに逆らったのが、李明博・朴槿恵政権の守旧・反共主義であり、それに歯止めをかけたのが「ろうそく革命」なのである。

ここで、洪命憙の発言をもう一度思い浮かべてみたい。「成功は国際的な関係によって左右されるが」、国際的な状況がいくら我々に有利であっても「我々の努力がなければ、成功の可能性はなく、仮に努力なく成功したとしても、それは我々にとって望ましくない」。第2次世界大戦の終結や冷戦体制の解体のような有利な局面が到来したにもかかわらず、その好機をまともに生かせるような主体的な能力が我々に足りなかったのではないだろうか。これは間違いのない事実である。何よりも3・1運動以降に形成された左右対立の葛藤を解決できなかったことにその原因があり、それが核心的な要因であると思われる。韓国の近現代は3・1運動に借りがある。その借りをどう返せばいいのか。本稿での最後の問いかけである。前章で述べた二つの問いとは違い、この問いは、苦難の連続であった過去史から投げかけられたものであり、その答えは未来史に存在する。つまり、現在の我々が返すべき借りなのである。そのゆえに、難題の中の難題であるのだ。

しかし、最近、運動史の進化過程において驚くべき転機を作り出した「ろうそく革命」によって、ついに解決の糸口を掴むことができた。「ろうそく革命」の確かな成果と言えば、やはり南北関係の進展であろう。当初の3・1運動の目的地が民族・民主国家の樹立であったため、これは、韓国の近現代が3・1運動に返さなければならない借りの最優先事項である。ここで、我々が心掛けるべきことは何だろうか。それは、南北の対立葛藤を解消し、和合を図るという課題だ。主敵という概念で相手を敵のように扱ったり、対岸の火事を眺めたりするような態度では認識できないことであろう。100周年を迎え、3・1運動を称える言説が溢れかえっている。非常に喜ばしいことだ。しかし、指摘したい点もある。殆どのメディアは、北朝鮮の存在に触れず、意識していないという点だ。時には南北関係と共に米朝関係が発展しつつある状況の変化を歓迎しながらも、南北の平和共存に満足するに留まっているように思われる。

3・1運動の称賛論は、北の存在を排除する論理へと進む近道になりつつある。南北に分断された南側に樹立した国家は、自らのアイデンティティーの根拠を3・1運動に置いたという事実を冒頭で述べた。つまり、3・1運動に基づいた韓国の正当性は、北朝鮮を否定する論理として利用されてきたのである。このような分断の論理を克服することが最優先事項である。本稿において、3・1運動以降の左右の統合のための思想運動に特に力点を置いたのは、まさにこの問題点を深刻に見ているからである。

洪命憙は、新幹会運動を起こして「正道の中間の道」を主張した。彼の中道主義は分裂を防ぐための折衷案ではなく、真の「正しい道」であるべきことを強調している。正しい道を見つけ、正しい方向へと向かわなければならないのだ。その道とは、趙素昻の方法でいうと三均主義なのである。三均主義は、3・1運動の「民国革命」を成し遂げようとする試みから生み出されたものであり、左右に分裂した独立運動陣営を和合させようとする統一戦線論でもあった。

三均主義が臨時政府の議政院の会議で争点となったのは、土地の国有論であった。趙素昻の「建国網領」の中の親筆の草稿を見ると、最後に「資本主義の消滅」「階級の解消」「都市、農村、農工、統一」などの言葉が雑多に書かれている。「資本主義の消滅」という文句が目に留まるが、この「消滅」にはどのような意味があるのだろうか。問題は資本主義であるが、彼自身もそれ以上書いていないところを見ると、資本主義に対する懸念程度であったのではないだろうか。資本主義は、それを目指すことは望ましくなく、克服しなければならないと考えていたことは間違いないようだ。確かに三均主義と資本主義の相性は合わない。しかし、完全に否定しているのだろうか。彼は、土地の国有制に対する攻撃に、私有財産は保護し、土地は国有化すると説明している。「農工の統一」を考えたことも興味深いところだ。彼の脳裏にあった「資本主義の消滅」とは、資本主義を最初から排撃すべきだという意味ではなく、徐々に克服してゆく方法、それが消滅していく段階を考えたものと思われる。民族革命と共に、民主革命を念願したものが彼の三均主義なのだ。

今日のろうそく革命が21世紀を切り開いてゆくためには、韓国の近現代が3・1運動への借りを返すことから出発しなければならないだろう。最終の目的地が「新天地開闢」ならば、今日のろうそく革命とも相通ずる道であろう。勿論、20世紀と21世紀は、時代状況がかなり違い、そのため解決すべき課題にも相当な違いがある。ろうそく時代を切り開いてゆく「正しい道」を見つけるためには、3・1運動以降に提起された左右の統合のための思想運動は参照すべき事項であり、豊富な知恵を与えてくれるであろう。

 

翻訳:申銀児(シン・ウナ)

 

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