창작과 비평

変革的中道主義と自由主義 / 金鍾曄

 

創作と批評 183号(2019年 春)目次

 

金鍾曄(キム・ジョンヨプ)

韓神大社会学科教授。著書に『連帯と熱狂』『エミール・デュルケムのために』『分断体制と87年体制』、編著に『87年体制論』『韓国現代生活文化史――1980年代』など。

 

 

1

 

誰かの思惟を構造的に糾明するということは、たとえてみれば思惟の変形生成文法のようなものを明らかにする作業であるといえる。私が見るところ、白楽晴の思惟の変形生成文法の1つの特徴は、2つの概念を向かい合わせることによって、2つの間に1つの場を生成することである。拮抗した緊張で屈折したこの空間で言説が解放される。創作と批評、民族文学と世界文学、世界体制と分断体制、近代適応と近代克服のようなテーマに見られるように、彼の思惟の根本概念は単独では立てられていない。対をなした概念の間の対立と緊張の中で、リアリズム論、民族文学論、世界文学論、分断体制論、二重課題論などが繰り広げられるのである。変革的中道主義もこのような一連の言説の1つであり、ここでも「変革」と「中道」という2つの概念が対をなしている。

それぞれの概念的テーマに内蔵された緊張の間に、ヴィトゲンシュタイン的な意味で「家族類似性」がないわけではないが、種差はもちろんのこと、緊張の強度の面でも違いがある。あるテーマは概念の関係設定が比較的簡単だが、逆説と思えるほど難しいものもある。おそらくそのような緊張が最も強烈なのは、近代適応と克服の関係かもしれないが、変革的中道主義もまたそれに劣らず高い水準の緊張を内包している。なぜ「変革」という政治的・経済的急進性は、「中道主義」という穏健な、または穏健に見える路線に帰結するのか? なぜ中道的なものが変革的であり、変革的であろうとするならば中道的であるべきなのか? このような問いに対して、中道主義が急進的な動機として充填されうるのみならず、それ自体として急進的かつ変革的であるという論拠を提示することは、さほど簡単な作業ではない。

白楽晴は、変革的中道主義の説得力を高めるために、これまで概して2つの作業を進めてきた。1つは私たちの社会変化の方向を指揮しようとした諸路線の欠陥を批判しながら、変革的中道主義のもつ合理性と価値を示すことであり、他の1つは、変革と中道の意味を「永遠の未来」を経て深化させることである。関連して彼は、仏教的な中道の意味や開闢を追求した韓国の近代宗教思想の意義を探索してきた[1. 変革的中道主義に対する詳細な議論は、白楽晴『どこが中道でどうして変革なのか』創作と批評社、2009、チョン・ヒョンゴン編『変革的中道論』創作と批評社、2016、白楽晴『文明の大転換と後天開闢』、パク・ユンチョル編、モシヌンサラムドゥル、2016、白楽晴ほか『変化の時代を学ぶ』創作と批評社、2018を参照のこと。 ]。このような試みは、真剣な討議の対象となりうる重要な理論的・実践的洞察を提供する。だが本稿では、同様の意図を異なる経路で探索してみたい。それはウォーラーステイン(I. Wallerstein)の世界体制論と分断体制論を論争的に対面させることである。ウォーラーステインと白楽晴の間の知的協力関係にもかかわらず、両者にさまざまな異なる意見や論争が提起されてきたという点で、このような作業がこれまでの議論と連続線上にあるものであり、本稿は単にそれにもう少し明示的に取り組み、変革的中道主義の逆説的な側面を解消して、世界体制と地球文化(geoculture)[2. ウォーラーステインの造語「geoculture」は「地球文化」「地文化」「地理文化」などと翻訳される。ここでは「地球文化」を選び、したがって訳書を引用する時も「地文化」や「地理文化」は「地球文化」に変えることとする。 ]の地平でそれがどのような地位を持つのか考えてみたい。

 

2

 

世界体制論と分断体制論がどのような関係に置かれているかについて、互いに異なる2つの表象が可能である。1つは両者の間に知的分業関係を設定することである。分断体制論は時空間的にさらに制限された領域を扱う理論として設定し、さらに包括的な理論の役割を世界体制論に委譲するのである。その場合、2つの関係は部分と全体、または普遍と特殊のような二分法によって叙述されうる。このような関係設定が見慣れたよう感じられるのは、一方では既存の社会科学的な常識が朝鮮半島の状況説明に加える制約を脱皮する(unthinking)作業が必要であった分断体制論が、その問題と関連して先行理論である世界体制論から相当な支援を受けているためである[3. イマニュエル・ウォーラーステイン『社会科学からの脱皮』、ソン・ペクヨン訳、創作と批評社、1994参照。 ]。そして他の一方では、分断体制論が分断体制の作動を解明するために要求される世界体制水準の説明を世界体制論に委任することによって、理論的負担を相当程度軽減してきたためである。

だが両者の関係をこのように表象することが、2つの理論の発展にとってさほど役に立たないのみならず、実際に2つの理論が結んだ論争的な相互作用ともあまり符合しない。筆者が見るところ、2つの理論の実際の関係は、民族文学と世界文学の関係と一定の類似性がある。白楽晴はゲーテ-マルクス的な世界文学と関連してこのように語る。

 

ゲーテが「世界文学」という用語で意味したことが、世界の偉大な文学の古典を一か所に集めておくのではなく、さまざまな国(当時としては当然、主としてヨーロッパに限定されたが)の知性人が、個人的な接触だけでなく、互いの作品を読んで重要な定期刊行物に対する知識を共有するなかで絆のネットワークを作ることであったという点である。すなわちこの用語は、私たちの時代の語法では、むしろ世界文学のためトランスナショナルな運動と呼ぶべきものにより近かったのである[4. 白楽晴「グローバル化時代の民族と文学」、キム・ヨンヒ・ユ・ヒソク編『世界文学論』創作と批評社、2010、37頁。強調は原文のまま。]

 

同じ線上で、世界体制論を、局地的に提起されて発展した理論の絆の中で生成するものとして把握する必要がある。そのように見るならば、世界体制論は、分断体制論が提起され発展するだけ信憑性と説明力を高められ、その過程で自らを矯正する開かれた企画となる。換言すれば、2つの理論は、全体と部分の関係や長期と中・短期の関係、または上位水準と下位水準の位階的な関係を結ぶというよりは、論争を経由した理論的な協業と相互構成的な連携の中に置かれていると言える。

このように2つの理論の間のさらに高水準の協業を牽引する論争はすでに多数提起された[5. これと関連して重要なテキストとして、白楽晴・ウォーラーステイン「21世紀の試練と歴史的選択」(『白楽晴会話録』4、創作と批評社、2007、115~60頁)と、白楽晴・ウォーラーステイン・イ・スフン・キム・ソンミン「急変する東北アジアと朝鮮半島の統一」(『白楽晴会話録』6、創作と批評社、2010、355~91頁)参照。 ]。そのなかで、変革的中道主義と関連して重要と思われる争点は、冷戦と朝鮮半島の地政学的地位の問題と、資本主義世界体制を克服するための反体制運動の戦略的原則の問題である。前者が、分断体制の作動が世界体制の動きとある種の影響をやりとりしており、そのようななかに朝鮮半島の持つ地位と意義を判断する問題であるとするならば、後者は、そのような条件の下で適合性の高い実践戦略と、それを後押しする認知的な土台がいかなるものであるかを検討する問題である。

まず冷戦の性格規定と朝鮮半島の地政学的な地位の問題から見てみよう。この問題について分断体制論の観点から明瞭な主張を繰り広げたのはユ・ジェゴンである[6. ユ・ジェゴン「歴史的実験としての6・15時代」『創作と批評』2006年春号・第2節参照。以下、ユ・ジェゴンの引用は、この節の各所から行なったものである。ユ・ジェゴンの立場に対する白楽晴の共感表明は、白楽晴ほか、前掲書、140~41頁を参照。 ]。彼の議論は三段階にわたって拡張する様相を示すが[7. 3つ目の段階は、ユ・ジェゴン自身が陳述したというよりは、彼の議論から筆者が読み解いた側面が強いが、筆者はそれが彼の議論の中に潜伏していたと考える。 ]、最初の段階はウォーラーステインの冷戦認識の受容である。彼はウォーラーステインの解釈の路線に従って、冷戦を共産主義vs資本主義の対決ではなく、「米ソ間の暗黙的な黙契と封鎖が1つになった体制」であり、アメリカのヘゲモニー維持のための多重的効果を持つ戦略的装置として把握する。まず、冷戦は共産圏封鎖を通じてアメリカの負担を減らして資本主義世界経済の膨張を主導し、次にイデオロギー的に東西両陣営の内部を統制することによって、既存の世界秩序に対する根本的挑戦を抑圧し、世界全域に安保国家体制を形成して、また世界体制に対する第三世界の抵抗と挑戦を封じ込めて統制可能なものにした。そして最後に、アメリカ国内の資本/労働の闘争や人種葛藤を統制することによって、資本蓄積を順調に行なうための装置であった。このような判断の線上で、ウォーラーステインは、1989年の東欧社会主義の没落をアメリカの最終的な勝利を示すと見る一般的な認識に対抗して、「アメリカは冷戦で勝利したのではなく敗北した。なぜなら冷戦は勝利できるゲームではなく、踊らなければならないメヌエットだったからだ」[8. イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以降』、カン・ムング訳、当代、1996、266頁。翻訳は筆者が修正。]と主張した。

ユ・ジェゴンは、このようなウォーラーステインの議論を土台に、次の段階の議論を展開する。彼によると、朝鮮戦争は、先に言及した冷戦の4つの効果を大幅に強化して、アメリカのヘゲモニー下の世界体制の安定に「決定的に」貢献し、カミングス(B. Cumings)が主張したように、「朝鮮戦争が世界史的にベトナム戦争よりもさらに重要な事件であり、アメリカ史の1つの分岐点であった」と主張する。そして一歩進んで「冷戦の本質がアメリカ覇権下の資本主義世界体制の強化にあるならば、朝鮮半島の分断体制は冷戦の古い遺物ではなく、その本質的な様相を顕在的にそっくり実現しているわけである。朝鮮半島の分断体制はいまや後進性の兆候ではなく、むしろヨーロッパ冷戦の解体でその存在理由がさらに明確になったものでもありうる」(強調は引用者)と主張する[9. このような主張は、ベトナム戦争の評価をめぐって分断体制論と世界体制論の間に存在する論点を示している。ウォーラーステインは1968年革命を重視するために、その重要な原因であったベトナム戦争もまた主要と考えて次のように語る。「ベトナム戦争は朝鮮戦争とはかなり異なる類型であった。それは非ヨーロッパ世界とあわせて、民族解放闘争の象徴的な(しかし決して唯一のものではない)地域であった。朝鮮戦争とベルリン封鎖が冷戦の体系・体制の一部であり1つのかたまりであったとすれば(アルジェリアと異なる多くの事例とともに)、ベトナム戦争は、この冷戦世界体制の制約と構造に対抗した闘争であった」(前掲書、362頁)。これに比べて白楽晴は次のように語る。「朝鮮戦争がある意味ではベトナム戦争よりもさらにアメリカにとって重要な戦争であったために、朝鮮の分断だけはアメリカが最後まで守ってきたと見ることができます。事実、ベトナム戦争はアメリカとして痛恨の敗北でしたが、譲歩できる戦争でした。なぜなら、それはアメリカの覇権に対する直接的な挑戦ではなく、本来が反植民地戦争でした。フランスに対するベトナム民衆の民族解放戦争でしたが、フランスがほとんど敗北したので、アメリカが入ってきて代わりにその場に来て、またアメリカも追い出されたわけですが、それが冷戦秩序を根本的に揺さぶることはありませんでした。ですから、ベトナム戦争の敗北というのは、アメリカが世界の大きな秩序を維持しながらも、耐えることができる敗北でした」(白楽晴ほか、前掲書、140~41頁)。 ]

ウォーラーステインに対して明示的な批判の形は取らなかったとしても、このようなユ・ジェゴンの主張は、ウォーラーステインの観点から見れば当惑するものである。朝鮮半島の分断体制が冷戦の本質ならば、東欧社会主義の没落を基点に「世界体制のアメリカのヘゲモニー時期(1945~1990)から出て、ポスト・ヘゲモニー時期に突入した」[10. イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以降』21頁。]というウォーラーステインの時代診断の説得力は大きく弱まり、彼の主張と異なって、冷戦のメヌエットが終わったどころか、韓国や北朝鮮はもちろんのこと、米・中・ロ・日が一緒に踊る複雑な群舞の形で続いていると言わねばならないからである。当然、同じ線上で、アメリカのヘゲモニーをポスト・ヘゲモニー時代として貫徹させる核心的な推進力も、分断体制の変革に源を発すると言うことができる。

続いてユ・ジェゴンは、冷戦の本質が「アメリカ覇権下の資本主義世界体制の強化」であるという2つ目の段階の議論を、ブッシュ政権とネオコンが試み、現在でも続いている「テロとの戦争」に適用する。テロとの戦争ももう1つの冷戦戦略として把握されうるというのである。「現在のアメリカの覇権主義の企画と同盟国の統制、また国内抑圧体制の維持の試みは、冷戦戦略の延長線上にあり」、アメリカの「タカ派集団がテロとの戦争に誘惑を感じる決定的な理由は(……)テロとの戦争は最初から究極的な勝利の概念がありえないゲームなので、アフガンでもイラクでも北朝鮮でも、誰でも選び取って踊り続けることができる」というのである。

このようなユ・ジェゴンの主張は、テロとの戦争の意味を新しく照明可能にするだけでなく、冷戦という用語自体を脱皮する(unthinking)必要性もまた提起している。彼が冷戦の本質であると規定した(アメリカのヘゲモニーの境界面で起きる)二重の封鎖戦略(反体制運動を境界の向こう側に封じ込めると同時に、自らの内部の反体制運動を馴致する戦略)を、術語でなく主語の場所に位置づけて、冷戦をアメリカ主導の世界体制のヨーロッパの境界面で成立した二重の封鎖であると規定することもできるからである。換言すれば、ヨーロッパの冷戦を二重の封鎖戦略の一類型として把握するのである。同じ論理によって、アジアの境界で起きた二重の封鎖をもう1つの類型として設定し、冷戦と異なる名称を付与することができる。その名称がどのようなものになるかわからないが、その場合、朝鮮戦争とベトナム戦争という二度の「熱い」戦争を体験したこの地域で起きたことを、「冷たい」戦争と命名することから離脱することができるだろう。そして一歩さらに踏み込むならば、アメリカのヘゲモニーの境界面で発生する封鎖戦略を、ヨーロッパ型、東アジア型、中東型、中南米型、もう一歩進んで、南アジア型やアセアン(ASEAN)型などとして拡張して区分することができる[11. このような諸類型の間には、当然、構造的な複雑性の違い、また世界体制の変動の中で持つ情勢的な重要性の違いが存在する。たとえば、私たちが属する東アジアは、驚くべき水準の経済成長と途方もない軍事力の蓄積が同時に起きているという点、またきわめて複雑な内的構造を持つ分断体制が東アジアの構造形成の中心軸であるという点で、通常の境界面とは異なっている。そして東アジアと分断体制が世界体制全般の動きと関連して持つ重要性もまた増加の一途にある。 ]

このような類型論または形態論が必要なのは、「冷戦」という言葉で包括するには世界がきわめて複雑で、その複雑性を制御しようとするアメリカのヘゲモニープロジェクトも、相手によって多様な種差を生産せざるを得ないからである。アメリカのヘゲモニーの下で包摂され封鎖される諸地域は、それぞれ互いに異なる歴史的体験と資本蓄積の力量、また政治的凝集性および抵抗能力を備えている。1945年以降、たとえばヨーロッパや東アジア、アラブ世界、そしてアフリカや中南米が、みなアメリカの二重の封鎖の下にあったとしても、また相変らず第一世界に属する西ヨーロッパやヨーロッパ帝国主義の侵奪を受けたとしても、植民化を体験していないだけでなく、19世紀以前まではヨーロッパ経済を凌駕する規模を持っていた東アジア[12. ケネス・ポメランツ『大分岐』、キム・ギュテほか訳、エコーリブル、2016参照。]と、植民化を体験したアラブ世界やアフリカ、そして15世紀以来のヨーロッパ、また19世紀以降、アメリカの政治的・経済的支配から自由でなかった中南米世界で、封鎖の様態が異なる様相を示すのは当然でもある。

このように見ると、分断体制は、アメリカのヘゲモニープロジェクトと朝鮮半島の住民の政治的選択と闘争が結合して形成された特殊な体制ではあるが、例外的なものではまったくない[13. この場合、周辺部の特殊性が意味するところは厳格に規定されるべきである。なぜなら、周辺部の特殊性とは中心部の一般性ないし普遍性と対照する時にそうであるわけだが、中心部の一般性も一般性に格上げされた特殊性に過ぎないからである。]。たとえば、私たちにとって相変らず休戦ラインが維持されているならば、アメリカでは3千キロに達するメキシコとの国境に、高さ9メートルの障壁を建てるために50億ドル以上の予算をめぐる闘争が、アメリカの政府と議会の間に繰り広げられている。そのようにアメリカのヘゲモニーの境界面は、特殊な封鎖形態とその歴史で満たされており、領土的な支配論理に加えて、資本蓄積の論理、そして該当地域の住民たちの政治的・経済的選択(この選択は当然、集団的選択と個人的選択の総合のすべてが該当する)の相互作用の中で絶えず変化が起きている。このような事実は、世界体制論が分断体制論のような局地的理論によって矯正され再調整されるべき開放的プロジェクトであるべきことを示しているが、先に世界体制論と分断体制論の間に存在する、もう1つの争点であると指摘した、反体制運動の戦略と関連しても、このような理論的作業が必要なことを物語っている。次は2つ目の争点を扱う順序だが、そのためにまずウォーラーステインの自由主義分析とそれに宿る曖昧さについて見てみよう。

 

3

 

反体制運動に対するウォーラーステインの分析と戦略的な提案に取り組むために、フランス革命とその効果、近代の3つの政治イデオロギー――すなわち、保守主義、自由主義、社会主義――のそれぞれの指向と機能、また中道的自由主義[14. ウォーラーステインは、『近代世界体制IV――中道的自由主義の勝利・1789-1914』(パク・クビョン訳、カチ、2017)を出版してから、自由主義よりは中道的自由主義という表現の方をより頻繁に使用する。その理由は、自由主義の内包と外延について一般的な合意が存在しないために、政治的に遂行した機能を強調する表現を付け加え、自由主義の規定をめぐる不要な論争を避けようとするものと思われる。以下では「中道的」という修飾語を使わない。]の勝利と没落という3つの主題についての彼の解釈を見てみよう。ウォーラーステインは土台、政治的上部構造、そしてイデオロギー的上部構造のようなマルクス(K. Marx)の基本概念において前提になっていた国民国家モデルを打破するために、それらをそれぞれ資本主義世界体制、国家間体制、そして地球文化のような概念に拡張した。だが、「世界体制全体で広く受容され、その後、社会的行為に制約を加えた一連の思想、価値、規範」[15. イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界体制IV』16頁。]といえる地球文化は、資本主義世界体制が形成された長期の16世紀(1450~1640)に出現することはなかった。産業革命が起きた「長期の19世紀までは、世界体制の政治経済学とその散漫な修辞学の間に乖離が存在」[16. 前掲書、413頁。]したが、フランス革命の文化的影響で、この乖離を克服するためのイデオロギー的努力が広がり、それがある程度成就したのである。したがって地球文化形成の核心的推進力はフランス革命から出たと言える。

ウォーラーステインによれば、フランス革命は、政治的変化の正常状態という概念と、主権が君主でなく人民にあるという思想を正当化した。このような一組の信念が示した結果は多面的で複合的だが、その最初の結果は、そのような観念とその拡散に対する反応形態として、3つの近代的イデオロギーである保守主義、自由主義、社会主義(または急進主義)が出現したことである。最初に登場した保守主義は、大革命が引き起こした変化をできるだけ抑制すると同時に、人民概念を伝統的な社会集団に還元しようと考えた。自由主義は変化の不可避性を受け入れるが、それを適切な水準と速度で調節することを望み、人民を諸個人に還元しようと考えた。そして社会主義は変化を加速することを望み、単一な人民の存在を主張した。

このような3つのイデオロギーはすべて反国家主義的な指向を持っていた。保守主義は伝統的な身分秩序と組合的諸集団の有機的関係を重視し、自由主義は「自由放任」を主張し、社会主義は無政府主義の影響を受けた(だからマルクス主義もまた国家死滅論を主張した)。だが、遅延、調節、加速化の中で、何であれ変化の様相を決定し、その手綱を握るためには、国家権力が必要であった。したがって3つのイデオロギーはすべて内面的には国家主義的な指向を持っていた。もちろん、つねに個人的自由を強調した自由主義は、国家主義を正当化するためにより大きな困難を経験した。だが自由主義は「つねに個人主義という羊の皮をかぶった強力な国家のイデオロギー」[17. 前掲書、33頁。 ]であった。

3つのイデオロギーの競争で勝利したのは自由主義だった。自由主義は時には社会主義と提携し(たとえばフランス革命で1830年7月革命まで)、時には保守主義と同盟を結んだ(たとえばフランス第2帝政期)。社会主義に対しては、体制が自らを改革する能力を失うほど過度に体制の負担を加重させてはならないと説得し、保守主義に対しては変化の不可避性を受け入れることを説得した。自由主義を迂回した社会主義と保守主義の提携がなかったわけではないが、2つの間の同盟は「本来、一時的な戦術に過ぎなかった」。このように残りの2つのイデオロギーを馴致し説得する力(この力は何よりも体制の守護者らが持つ政治的・経済的権力によって後押しされたものである)を持つ自由主義が、「1848年以降(……)世界体制で文化的ヘゲモニーを掌握し、地球文化の根本的核心を構成するように」[18. 前掲書、同じ箇所。]なる。

勝利した自由主義は、最初はヨーロッパの人民(または体制挑戦的な「危険な階級」)、そして後に世界人民(またはヨーロッパの外部世界の「危険な階級」)が要求した、権力と富の分配に対応して提示した譲歩のプログラムは、「選挙権、福祉国家、そして民族的アイデンティティ(national identity)」の保証であった[19. イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以降』185頁。]。ヘゲモニー交代期であった1914~45年の間に途方もない激変があったが、1945年以降、3つのプログラムは少なくとも1960年代末まではうまく作動した。普通選挙権はどこでも拡張を繰り返し、植民地解放闘争は自由主義(ウィルソン主義)と社会主義(レーニン主義)の双方から支持を受け、実際に1945年以降相当な成果を上げ、中心部国家では福祉国家が樹立された。「1914年以前の数十年間は、自由主義がヨーロッパで勝利したものと見なせるならば、1945~1970年は自由主義が全世界で勝利したと見ることができる」[20. 前掲書、220頁。]

だが1960年代末から状況が変わる。地球的自由主義の約束した成就が限界に直面したためである。「アメリカは世界秩序の保証者とは見なされず、むしろ帝国主義的な宗主として」、ベトナム戦争での敗北が示すように、「耐えられないほど拡張したあげく脆弱性を示す迷走」を見せ、ソ連は「アメリカのヘゲモニーの片棒を担いだパートナー」として非難された。また西ヨーロッパの社会民主主義と第三世界の民族主義左派は、政権獲得に成功したりもしたが、約束した進歩を成就できないことを示した。そして「人種、ジェンダー、民族性、性的趣向、その他可能なすべての面における他者性のために抑圧される人々」に対して、旧左派は、階級闘争と民族闘争の優先権を主張して待つことを主張したが、それは結果的に非常に抑圧的で位階的なものであった[21. イマニュエル・ウォーラーステインほか『資本主義には未来があるのか』、ソン・ベクヨン訳、創作と批評社、2014、57~59頁。]

ウォーラーステインが見るところ、このような地球的自由主義の限界を暴露し、そうすることでそのヘゲモニーを終息させたのは1968年革命である。自由主義的改革主義と社会的自由主義(または社民主義)、また第三世界と東欧社会主義など、自由主義ヘゲモニーの下にあったすべての政治勢力が根本的な懐疑の対象になったのである。成果の面で見るならば68革命はさほどすごいものではない。それは資本主義の世界体制を解体するどころか、さまざまな国ですみやかに鎮圧された。それでもウォーラーステインが通常の社会理論家よりも68革命の意味を高く評価するのは、反体制運動がきちんとした道を進んでいくためには、地球文化としての自由主義から脱皮することが核心的な鍵であり、その面で鮮明な分岐点を形成したのが68革命であったという判断のためである。

68革命の教訓、すなわち、自由主義から脱皮した新たな反体制運動が備えるべき戦略的指針に対して、ウォーラーステインは多様な提案をしてきた。そのなかで本稿の主題と関連して重要な意味を持つのは、国家権力の争奪を反体制運動の主要戦略とすることを拒否すべきというウォーラーステインの主張である。

 

1つの要素は、明確に国家権力の争奪を通じて社会変革を成就しようとする過去の戦略との明確な断絶である。政府の権威を一手に引き受けることは有用ではありうるが、概してまったく変革的でない。国家権力は、当面は極右の抑圧的な力を駆逐するために特定の状況で使用される、重要な防御戦術として見なされるべきである。国家権力は応急処方(pis aller)であると考えるべきである。なぜなら、それは既存の世界秩序を再正当化する危険を内包しているからである。私が分析してきた自由主義イデオロギーは崩壊したにもかかわらず、それとの断絶は、疑うまでもなく反体制勢力が踏み出すことが最も困難な一歩である[22. イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以降』344~45頁。翻訳は筆者が修正。]

 

このような主張はウォーラーステインの自由主義分析から導出されうる一貫性ある帰結である。だが事態が簡単でないのは、ウォーラーステインのそのような主張に但書の条項のように付いていた「特定の状況」という言葉にみられる。ウォーラーステインによると、反体制運動家は国家権力を最初から冷遇してはいけない。なぜならば、国家権力は極右の抑圧的な力を駆逐するために使用できる防御戦術の価値を持っているからである。類似の立場をウォーラーステインは反復的に表明する。彼は『アメリカ覇権の没落』においても、反体制運動の戦略を議論しながら、「防御的な選挙戦術を活用しよう」といい、「国家の選挙は実際的な問題だから、実際的に重要な51パーセントの票を獲得するために、このような諸伝統を尊重する連合勢力を創り出すことは決定的に重要である」[23. イマニュエル・ウォーラーステイン『アメリカ覇権の没落』、チョン・ボムジン・ハン・ギウク訳、創作と批評社、2004、342~43頁。]と語る。

しかし、このようなウォーラーステインの言葉はただちにさまざまな疑問を呼び起こす。ひたすら防御的にのみ、国家権力または選挙制度を使用するということは何を意味するのか? 防御的なものと攻勢的なものとの線を鮮明に引くことは可能なのか? 現在の社会福祉を縮小しようとか、難民を追放しようという極右の挑戦をはね除けることができるならば、私たちはなぜ福祉をさらに拡張したり、難民に対してさらに包容的な政策を選ぶまでには進まずに、現在の水準を守ることにとどまるべきなのか? また、国家権力を勝ち取ってはいけないものの、51%の多数を形成するために努力すべきだということが正確に狙うところは何か? 多くの場合、51%の多数はすなわち国家権力の獲得を意味するのではないか? ウォーラーステインは特定政策を防御するために51%を形成する連合に参加しても、防御が成就すれば、連合から離脱する形で国家権力に参加することを回避すべきだと語るかもしれない。だが少なくとも一定期間51%を維持して防御が可能ならば、ウォーラーステインのような提案は、現実政治において実現されうるだろうか?

ウォーラーステインが提案する自由主義イデオロギーとの断絶の方案にはらむ曖昧さは、もう少し一般的な形でも見られる。彼はこのように主張する。「複合的で内的に民主的なさまざまな諸集団が、複数の戦線で繰り広げる戦略の中には、現状維持の防御者らを凌駕するほどの1つの戦術的な武器がある。それは旧自由主義イデオロギーを文字通り受け入れて、その普遍的な完遂を要求することである」[24. イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以降』346頁。翻訳は筆者が修正。]。反体制運動家は「自由主義者らが決して意図しないこと」、すなわち「自由主義イデオロギーのスローガンを真剣に受け入れることによって、体制に「過負荷を与える」(overloading)戦略」[25.前掲書、302頁。]を使用すべきというのである。

だがこのような主張は苦境を自ら招く。自由主義の約束は偽りであると暴露し、それと断絶しようと主張すると同時に、それを「文字通り」「真剣に」受け入れることは、どのように同時に成就できるのか? 自由主義者が自らの約束を履行しようとする意志を示さない限り、ウォーラーステインが意図した過負荷自体が起きることはない。したがって自由主義に対する「過負荷戦略」とは、自由主義者が自由主義を守ろうとせねばならず、反体制運動家自身もある程度は自由主義者であってこそ可能な戦略である。イデオロギーは単純な外観ではないのである。

ならば、自由主義者と断絶しながら自由主義者であれと主張するというのは、どのように理解されるべきか? ウォーラーステインによると、自由主義はつねに包含を通じて排除を正当化してきたと語る。包含なき排除では、フランス革命から始まった人民の権利の主張を自由主義が鎮静化させることはできなかっただろう。だが、自由主義の暗い裏面は、その包含自体が排除のためのものであるという点、すなわち、彼らが望んだのは(ウォーラーステインが「ランペドゥーサの原則」と呼んだ)「何も変えないためにすべてを変える」という点である。それが自由主義の無意識である。これに比べて、自由主義を真剣に受け入れる反体制運動家が指向するのは、「すべてを変えるためにすべてをやること」であり、排除なき包含である。そうした点で彼らは、暗い裏面のない真の自由主義者、無意識なき自由主義者と言うべきであろう。

このような推論が、ある種の当惑するような逆転と思われることもある。社会主義/急進主義が、さらに正確には自由主義のヘゲモニーから解放された社会主義/急進主義、または反体制運動が、「真の」自由主義と変わるところがないというのは逆説的に見えるからである。だが、ウォーラーステインが社会主義をどのような方法で定義してきたのかを考えるならば、これはさほどおかしな推論ではない。ウォーラーステインにとって社会主義は計画経済体制やプロレタリア独裁のようなプログラムではなく、人民主権の宣言に源を発する、排除なき社会的包含を加速しようという運動である。したがって、自由主義と社会主義の間に引かれた線は、自由主義の約束が盛り込む内容と関連したものではない。線はその約束が排除を正当化するために動員されたものかどうか、そして可能ならば包含を猶予しようということなのかどうかの間に引かれている。だが、このような点を受け入れる時も、相変らずウォーラーステインの反体制運動論には曖昧さが残っている。変化の加速化がつねに急進主義の要件なのかも確実ではないからである。私たちはウォーラーステインの議論をアメリカのヘゲモニー体制の境界面に持っていって論争的に取り組む必要がある。境界の経験とそれにもとづく言説を通じて、ウォーラーステインの反体制運動論の曖昧さをもう少し除去できるからである。もちろんそのような作業のための最も重要な資源の1つは分断体制論である。

 

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 「立つところが変われば風景も変わってくる」[26. チェ・ギュソク『錐』1、創作と批評社、2015、205頁。]。同様に、分断体制論とそれにもとづいて提起された変革的中道主義の方に事態を照明するならば、世界体制論の自由主義分析をそのまま受け入れることはできず、延長線上にある反体制の運動戦略もまた参照対象以上はなることはない。分断体制論と世界体制論を対照してみると、私たちは即座にウォーラーステインが精魂を込めて批判した自由主義が、変革的中道主義と驚くほど似通っているという印象を受ける。そのような印象を引き起こす最初の要素は、分断体制変革のための実践の中心の層位が国民国家の水準であるということである。分断体制はもちろん標準的な意味で国民国家ではない。だが、分断体制の規模や国家間の体制内における地位は、国民国家「水準」である。分断体制変革のための努力は、国民国家以下の市民社会水準の実践と、そのような市民社会のさまざまな集団の間の超国家的な連帯を必要とするが、相変らず南北朝鮮の政府間交渉、および国家間の体制水準の交渉が最も重要な部分を占める。

分断体制論がそのような交渉を通じて成し遂げるべきと主張してきた国家連合が、国家主義を脱して、脱国民国家的な政治体を実現する歴史的実験になりうるのであり、そのような実験を通じて、既存の国家間体制に亀裂を生み出し、他の体制への転換を模索する跳躍台になりうる。そしてその実践的課題が、韓国・北朝鮮の国家権力を改造するということであるから[27. 白楽晴「国家主義克服と朝鮮半島における国家改造作業」『創作と批評』2011年春号、95~112頁。]、「現在の世界的な移行期の間には、地域的水準と世界的水準において同時に作業することが効果的だが、国民国家の水準で作業するのは現在としてはその有用性が制限されている」[28. イマニュエル・ウォーラーステイン『自由主義以降』14~15頁。]というウォーラーステインの主張は、朝鮮半島ではまったく政治的現実性がない。まさにこのような点のために白楽晴は次のように語った。

 

地球時代をむかえて「全地球的に思考し、局地的に行動せよ(Think globally, act locally)」というスローガンがかなり魅力を増しているが、このとき「局地」が個々人の生活現場と地域社会から出発するものの、所属する国家と周辺地域までも排除しない多層的なものであるという認識に陥るならば、「局地的行動」は責任ある「全地球的思考」の表現になりえないだろう。だが、このようなさまざまな層位の中でも、民族および国家の層位が特に重要なのは、近代世界が作り出したものの中でギリシャ的な意味における政治的共同体(polis)をそれでも髣髴とさせたのが(往年のいくつかのきちんとした)国民国家だからではないかと思う。そのために、少なくともこれまでの近代人は、「政治的動物(zoon politikon)」としての自らを深刻に傷つけずに、自らがすでに所属したり、所属しようとしたり、離脱または変形しようとする国民国家の問題と、これに直結した民族(nationalityまたはethnicity)の問題に対する実践的な対応を省略できないのである[29. 白楽晴『統一時代の韓国文学のやりがい』創作と批評社、2006、37~38頁。白楽晴はウォーラーステインを直接名指しすることはないが、彼に向かって次のように批判することもあった。「1968年以降の反体制運動は、国家次元の政治活動をあまりにもたやすくあきらめてしまう傾向があるが、単純な反国家主義から脱して、さらに適合した国家構造の創案に進むべきである」(白楽晴「朝鮮半島における植民性の問題と近代韓国の二重課題」『創作と批評』1999年秋号、23頁)。]

 

国家活動の方向を設定し調整しようとする実践は省略できないだけでなく、ウォーラーステイン式の語法を借りるならば、反体制運動において要のような重要性を持つこともある。資本主義の世界体制は資本の脱領土的な支配戦略が望むほど平坦ではない。でこぼこした世界において全域的に(globally)妥当な実践戦略は存在しない。したがって国民国家が反体制運動戦略で占める意味もまたアメリカ・ヘゲモニーの境界面においては劇的に転換を体験することができる。

同じ問題は、時間の地平において変革戦略を照明する時にも出くわすことになる。変革的中道主義は戦争に依存する変革を拒否する。未曾有の暴力手段が蓄積された朝鮮半島において、戦争とはすべてを燃やしてしまうことであり、そのような戦争による変革の勝利には、「ピュロスの勝利」という言葉さえ使用がためらわれるだろう。当然、平和的で漸進的な変革、「相当期間にわたる持続的過程としての統一」だけが可能かつ望ましいというのが変革的中道主義の核心的な主張である。だが漸進的変化とは、自由主義が保守主義を説得し、社会主義的な要求を馴致するために使ってきた基本的レパートリーである。だが変革的中道主義はまさにそのような漸進主義が変革的であることを主張し、民族解放を叫び、統一過程を加速しようとする急進的試みが、むしろ保守の位置づけを強化する結果を産むのが常であったと批判する[30. 白楽晴『朝鮮半島式統一、現在進行形』創作と批評社、2006、75頁以下。]。局地的条件によって、変化と社会的進歩を加速しようとする努力の意味が保守的な効果を持つものに転倒するからである。

同じ線上で、漸進主義の動機と機能もまたまったく異なる方向に転換される。自由主義において漸進主義と改良主義とは、社会的な包含の要求を遅延するためのもの、すなわち現在の排除を未来の包含を通じて馴致しようとする動機から出発するが、変革的中道主義の漸進主義は、分断体制という複雑に絡まった糸をほどくためにかかる時間自体によって強制されたものである。すなわちこの漸進主義は遅延のためのものでなく、主体の方における忍耐と自制という積極的要素を含蓄したものである。分断体制は先に指摘したように、韓国と北朝鮮、また朝鮮半島周辺諸国がともに踊る群舞の中で再生産される。したがって、分断体制の変革は、この群舞の中の行為者らが自らの利害関係に決定的な損失がないと考えて選択した諸行為の結合の効果を通じてのみ可能なものである。要するに、分断体制の変革と地政学的な現状の変更は、舞踊曲のメロディをひっそりと変えるような、慎重かつ根気ある実践が必要である。したがって自らの要求の程度を自ら調節する自制と忍耐が必要であり、変革的中道主義は自らの情熱の一部を自らの制御のために使用できる政治的な実践様式を指し示すのである。

このような実践のためには、一方では政治的多数を形成し、他の一方ではその政治的多数形成の論理自体の革新が必要だが、変革的中道主義はそのような課題に対する応答として提示されたものである。政治的な多数形成のために、変革的中道主義は(筆者の用語でいえば)自主派、平等派、そして自由派(自由主義者)をまとめた民主派を形成することを主張するが、現在の状況ならば、それが実際に政治的水準に出てくる様相は、民主党の政権獲得とともに成長する正義党による牽制と牽引程度にとどまる。そのような程度の自由主義的な改革では、「激しい葛藤と分裂が政党体制に受容されえない現実」を再確認するにすぎないこともあるが、「政党体制が発展しているという西欧において、社会主義政党と保守主義政党との間の政権交代は常時的に成り立つが、その交代が社会支配体制の変化にはあまり続くことがないのとは異なり、韓国の現実では、保守・中道政党間の政権交代だけでも、強固だった支配体制の亀裂にともなう社会的な波紋がより大きかった」[31. ユ・ジェゴン、前掲文、289頁。]という点に注目する必要がある。そうなる理由は、ウォーラーステインが考えたように、「極右の抑圧的な力」を駆逐すべきことが、「特定の状況」のことではなく、数十年間続いた恒常的な課題であることが分断体制の特性だからである。

変革的中道主義は、このような勢力連合論から一歩進んで、仏教的「中道」概念を活性化することによって、連合内部の構造的革新についても提案するが、その革新の性格をウォーラーステインとの比較を通じて見てみることもできる。ウォーラーステインの観点で見れば、変革的中道主義は自由主義と社会主義/急進主義の間の提携のようなものだが、彼は両者の提携ではつねに自由主義ヘゲモニーが貫徹されると考える。したがって変革的中道主義はいま一度自由主義と同一視されるだろう。

だが、すでにウォーラーステインの議論において、自由主義と社会主義/急進主義の間の分岐点はさほど鮮明ではない。両者はある政治的・経済的プログラムの内容によって区分されるのではなく、何も変えないためにすべてを変えようとすることと、本当にすべてを変えようとすることの間の区別だが、残念ながらそれを分ける線がさほど明確なものではない。ウォーラーステインであれば、両者を区別するある種の指標を「包含の遅延」に求めるであろう。だが、私たちがすでに見たように、変革的中道主義は包含の遅延自体が内的自制の所産でもありうることを示している。

筆者が見るところ、変革的中道主義が自由主義と異なる点は、ウォーラーステインが考えたことのないこと、すなわち自由主義が社会主義のヘゲモニーの下で包摂されることにある。ウォーラーステインは、諸イデオロギーの関係を規定する時はつねにヘゲモニー概念を自由主義のヘゲモニーという脈絡において使用する。だが、自由主義が「1789年以来、3つの主要な変形の中で色を示した、たった1つの真のイデオロギー」[32. イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界体制IV』46頁。]であるというウォーラーステインの主張は、歴史的経験を一般化するものにすぎない。すなわち、自由主義のヘゲモニーという歴史的に実現された支配的形態がそうであったということである。

私たちはもう1つの形態のヘゲモニーを指向でき、それが不可能なわけではない。いや、ウォーラーステインもまた知らず知らずのうちにそのような可能性に希望を抱いたのである。たとえば、彼は民主主義と自由主義の関係についてこのように語る。「いまや自由主義者らが民主主義者らに従うべき時である。万一、彼らがそうするならば、相変らず有益な役割を担うことができる。自由主義者らは民主主義者らに、愚かで早急な多数の危険を引き続き想起させることがあるだろうが、集団的決定を下す時、多数の根本的優位を認める脈絡の中においてのみ、そのようなことが可能であるにすぎない」[33. イマニュエル・ウォーラーステイン『私たちの知る世界の終焉』、ペク・スンウク訳、創作と批評社、2001、148頁。]

だが、その民主主義と関連して、彼はこのように語る。

 

1848年以降(自らを民主主義者と呼んだ)マッツィーニ(G. Mazzini)が社会主義者らと重要な戦いに陥った時、社会主義者らは自らのスローガンに「社会的」という用語を付け加え、「普遍的な民主社会共和国のために」というスローガンをかざして回った。これがおそらく「社会民主主義者ら」という用語の起源ではないかと思う。もう少し中道主義的な政治を標榜する他の人たちまで、「民主主義者」という用語を使うと、これ以上それだけでは急進主義者であることを示せなくなり、そのためにいまや「社会的」という区分が必要だと考えるようになったのである[34. イマニュエル・ウォーラーステイン『アメリカ覇権の没落』205頁。]

 

民主主義は、自由主義者らがその言葉を自らに重ねることを望んだので、社会主義者らが(愚かにも)引き離そうとした単語であった。だから、いまや自由主義が民主主義に従うべき時であるというウォーラーステインの言葉が意味するのは、本来の意味における民主主義の下、すなわち(ウォーラーステインが規定したところの)社会主義のヘゲモニーの下で自由主義が包摂された状態をいう。そうする時、ウォーラーステインの言葉にあるように、自由主義は有用性を発見する。だから、変革的である時においてのみ、「本来の中道にまた近づく」[35. チョン・ヒョンゴン編、前掲書、91頁。]という白楽晴の主張は、まったく逆説でないばかりか、近代世界のイデオロギー的地形一般においても確認されることである。ここでも急進的立場から出発する時においてのみ、はじめて真の自由主義者でもあるからである。

 

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世界体制論と分断体制論の知的分業を念頭に置くならば、分断体制論で導き出された変革的中道主義が、ウォーラーステインが激烈に批判した自由主義ときわめて似た様相を示すというのは驚くべきことでありうる。だが、両者の関係が持続的な協業関係にあるとみるならば、私たちはこの問題とさらに明瞭に対決する必要があり、分断体制の観点で世界体制論を矯正することもできる。分析単位を世界に拡張することを力説してきた世界体制論が、相変らずヨーロッパ中心主義に閉じ込められているとは言えない。だが、世界体制論が注目してきた中心/周辺の位階的な構造とは、体系全般の構造を規定する権力資源の面で、中心と周辺の間に大きな格差が存在することをいう。したがって、中心部は体制の構造に対して周辺よりもさらに説明力が高い。そうした点のために、世界体制論が周辺部よりも中心部の方をさらに分析の中心に置くのは、理論的に避けられない面がある。だが、まさにそのような理論構成の戦略的選択は、不可避的に盲点を内包することになる。そのような盲点は、立地点と展望を交代させることを通じて示すことができ、まさにその地点が私たちを知的協力に導くのである。

そのような盲点の1つが「冷戦」理解の問題だが、先に見たように、東アジア、そして分断体制の観点から見れば、冷戦の本質を新たに照明しようと考えた世界体制論ですら、アメリカヘゲモニー体制のヨーロッパ的な境界面を一般化する傾向を示していることがわかる。この問題は、単に中心部の中心の分析をしてきた世界体制論の局地的状況に対する鈍感さを指摘するだけにとどまらない。それは、地球文化としての自由主義に対するウォーラーステインの分析内部に、ある盲点を誘発していることを追跡させる。

彼は、地球文化という表現を通じて一般化可能な文化的前提が世界体制全般に広まっていることを主張する。しかし、体制の境界から眺望してみれば、地球文化はさほど画一的でないということが見えてくる。ウォーラーステインが地球文化の核心と見た自由主義イデオロギーも、足を踏み入れたところによってそれぞれ機能しており、68革命によって私たちが自由主義イデオロギーから離脱したということも確かではない。68革命の教訓によって、国民国家水準の政治的実践にこれ以上重要性を付与してはならないという主張も一般的な説得力を持つわけではない。すでに指摘したように、分断体制論では、国民国家水準の政治的実践は変革の中心的な舞台という地位を失わない。そして、その分断体制を変革するための実践においても、ウォーラーステインが社会主義/急進主義の特徴であると規定した変化の加速は、適合性を持つことがない。むしろ必要なのは、自由主義と同様の慎重な調節である。しかしその調節は、自由主義においてそうであるように、社会的包含を遅延するためのものでなく、きちんとした包含、または平等の拡張と自由の制度化のための内的自制にはじまる。外観上の類似性にもかかわらず、それは相異なる意図と社会的帰結を持つのである。私たちはこのような内的自制によって調節された変革を、キャンドル革命を通じて経験したこともある。キャンドル革命は平和的で根気があり、自制心が深く、闘争過程の中にすでに解放された経験の愉快さを引き付ける姿勢の変革性を豊かに示した。

まさにこのような経験のために、私たちはウォーラーステインの自由主義分析が示した曖昧さを、さらにたやすく識別することができる。自由主義を批判しながら、同時に自由主義を文字通り受け入れる作業が、ウォーラーステインの理論では理論的アポリアとして登場する。だが、2018年から始まった南北朝鮮の対話と、米朝交渉をはじめとする朝鮮半島周辺で繰り広げられることの核心にあるものが、何も変えないためにすべてを変えようとする勢力と、本当にすべてを変えようとする勢力との間の緊張に満ちた対決の過程であるということを直観できる私たちにとって、それは実践的な難題ではあり得ても、理論的アポリアではない。何も変えないためにすべてを変えようとする人たちと、本当にすべてを変えようとする人たちは、外観上、似たような目標を持っているように見える。実際にその分割線は曖昧なこともある。変革的中道主義は、本当にすべてを変えようとする人たちが、その曖昧な分割線を明瞭に自覚し、適合的に行動するための準則であると言えるだろう。変革的中道主義者は何も変えないためにすべてを変えようとする人たちを、本当にすべてを変えるところまで導くべきだからである。もちろん私たちの社会には、相変らず何も変えられないと頑として居座る勢力もおり、あきれたことにこのような勢力との戦いですら簡単でないのが分断体制の現実である。だが、そのように戦線が複雑なために、変革的中道主義を「学ぶ」必要はより大きくなるのである[36. 追伸のように付け加えたいのは、本稿は自由主義を取り上げて論じたが、残念ながら韓国の自由主義についてはまったく取り上げられなかったという点である。事実、私たちの社会の自由主義は、保守主義をなだめて社会主義を馴致させる威力を持ったどころか、1953年以前は保守主義も社会主義もともに、その後は保守主義に怖気づいた虚弱な自由主義であった。剛健な自由主義的思想家や実践家がいなかったわけではない。韓国社会においてそのような人たちが自由主義国家を建設するために行った闘争は、それ自体としてきわめて高い進歩的価値を持ったものであった。しかし、1987年の民主化以前まで、自由主義は基本的には保守派の下位パートナーの役割を担った。私たちの自由主義は、自らが主導していない民主化への移行のおかげで、はじめて体制運営のヘゲモニーを一瞬握ったが、それさえもきわめて脆弱なものなので、保守派の攻勢にしばしば屈服した。私たちの社会に見られた自由主義の多様な様相(おそらく特に文学において見られる様相)を取り上げることは興味深い作業だが、それは他の機会に譲りたいと思う。]

 

 

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