창작과 비평

[対話] フェミニズムが大学を救う / 白英瓊·劉賢美·全希景·崔娜賢

 

創作と批評 184号(2019年 夏)目次

 

白英瓊(ペク・ヨンギョン)韓国放送通信大文化教養学科教授。本誌編集委員

 

劉賢美(ユ・ヒョンミ)ソウル大大学院社会学科博士課程修了。韓国芸術綜合学校講師

 

全希景(チョン・ヒギョン)女性学者。生涯文化研究所オッキサロン研究活動家。梨花女子大講師

 

崔娜賢(チェ・ナヒョン)釜山大大学院女性学協同課程修士課程

 

 

白英瓊(司会) 今号の「対話」のコーナーは、フェミニズムと大学改革について語りたいと思います。キャンドル革命を持続させるには「フェミニズム」と「大学」がきわめて重要ですが、この2つの問題をつなぐ議論はあまりないようです。理想的に言えば、大学はフェミニズム教育の主体であり、論争と実践の現場であるべきです。ですが現実の大学は、フェミニズムが介入して改革すべき対象であるという事実を否定しがたいと思います。「あの多くの女子学生はどこに行ったのか」というような話をたびたび聞きますが、これは、大学までは平等だった女性と男性が、社会に進出して体験する差別が深刻だという意味です。あたかも女性たちが、大学では差別を経験しなかったかのようにです。実際に大学を性の平等の空間として見ることができるでしょうか? 大学生の中で女性の割合が高まり、女性の成就が目立つ分野が増えたからといって、このことをただちに、大学内で男性と女性が平等になった指標として見ることはできないと思います。もう少し根本的な問題を語るために、今日、3人の方をお迎えしました。現在の大学の緊急の改革課題はどのようなものであり、またこれらの諸問題がどのように社会改革の課題とつながるかを、フェミニズムの観点から語ってみようと思います。まず簡単な自己紹介からお願いします。

全希景 私は90年代に大学に入学して4年のころ学部で女性主義の集まりを作りました。その集まりで反・性暴力の自治規約を作る運動をしました。大学という空間が理想的ではあり得ないということに気付き、問題提起をしながら、少しずつ明確にフェミニストとしてのアイデンティティを持ち、90年代の中盤・後半に明確な流れを作った「ヤングフェミニスト」運動の近くで、多様なフェミニストたちと出会いました。総女子学生会の選挙で「真の女性」を掲げたキリスト教系列の候補に対する反対運動などを行ったりもしました。ですが、いわゆる進歩学生の運動家たちもやはり「臭い」のは同じでした(笑)。学生運動の家父長性を批判し、大学外の女性活動家たちと出会うようになって、2000年に作られた「運動社会性暴力根絶100人委員会」にも参加しました。そしてもっと勉強しなきゃならないと思って女性学科に進学し、大学院の博士課程を終えました。以降、講義をしながら、以前は問題提起の対象だった教える側の立場になってみると、また新しく感じるところが多くあります。現在は、加齢、疾病、世話を主題に研究中で、この主題を研究する「生涯文化研究所オッキサロン」で活動しています。

劉賢美 2000年代中盤、私が大学に入った時は、すでに学生会中心の学生運動が崩壊していました。90年代の中・後半に起こった反-性暴力の運動も、そろそろ終わりが近づいているという話が広まっていました。ですが一方で、障害者の人権、性少数者の言説に取り組む自治会や自治言論が活発な時期でもありました。私はそのような少数者言説の影響下でフェミニズムに接し、女性主義の自治言論でも「ナルリ(騒動)ブルース」という名前の女性主義者の文化集団で活動しました。そしてフェミニズムを学問的に学ぶためにソウル大大学院の社会学科に進学しました。社会学は他の学問より包括的で進歩的だという認識がありますが、なかでもジェンダーやフェミニズム研究は非主流でした。2012年末に黄昌圭(ファン・チャンギュ/前・サムスン電子社長、現・KT会長)を招聘教授として採用しようとする動きがありました。そのときの学科内部の葛藤を見て、大学と社会学の役割について悩むようになりました。以降は韓国性暴力相談所の付設研究所で常勤活動をしながら、現場に接したりもしました。また博士論文を書くために学校に戻った時、学科の教授のセクハラ・パワハラ人権侵害事件が明るみになり、大学院生の間で対策委員会を組織して2017年から問題提起をしています。

崔娜賢 私は2000年代後半に大学に入りましたが、学部に通う時、学生運動はもちろんのこと、フェミニズムのイシューに触れられる窓口がほとんどありませんでした。なので私もやはり別に関心は持っていませんでした。ですが卒業して就職まですると、「何か変だ」と考えることが多くなりました。最初の職場は男性の多い会社でしたが、変なことに10年働いても女性は昇進できませんでした。そして20代の女性社員の役割は、男性上司が仕事できつそうであれば、行って肩をもんだり、愛嬌をふりまくことだと言ってくるようなところでした。2番目の職場は女性の方が多い会社でしたが、状況は似ていました。女性の社員は月給だけ上がって昇進はできない、一生同じ地位で同じ業務だけをさせるところでした。業務内容で成就を得ることは困難でした。これは本当に変だと思って「ネットフェミニスト」になり、この主題をさらに勉強してみたくて釜山大の大学院で女性学を専攻することになりました。昨年4月中旬、ですから韓国社会で#MeToo運動の勢いが激しくなっていくころに、性暴力被害者の友人を助けるための運動を学内で行いました。4か月間の活動の末に、加害者である教授の解任決定を勝ち取りました。

 

キャンドル革命以降、大学内フェミニズムは活発になったか

 

白英瓊 90年代から2000年代後半までの話をお聞きしました。それぞれのお話しをもう少し詳しく語る前に、最近の変化から見てみたいと思います。キャンドル革命以降、社会各界の変化が早くなりましたが、大学にも変化があったでしょうか? ソウル大社会学科の現在進行形の事件を見ると変わっていないようでもあり、活発になった#MeToo運動を見ると反対に何か変わったようでもあります。今、生活しながら感じる大学の雰囲気はどうでしょうか?

劉賢美 ソウル大社会学科のH教授の場合、性暴力の単一事件ではありませんでした。性的ないじめをはじめとして、研究や労働の過程で起きた人権侵害、搾取問題も多かったんです。以前ならば問題でなく「慣行」と認識されたはずですが、キャンドル革命や#MeTooを経て、権力関係に対する感受性が高まったようです。今でもソウル大はスペイン語文学科とA教授の性暴力・人権侵害事件に対する学生たちの運動が活発です。特に若い世代を中心に暴力や差別、不当な関係に対する抵抗が起きていますが、教授を代表とする既成世代も、慣行として見なされてきた誤りに対して省察する雰囲気が出てきたようです。このような認識の変化をどう制度化するかについての議論も必要ですが、まだそこまで到達できずにいると思います。

全希景 大学ごとに温度差が大きいので、一言では定義できないと思います。ですが、長い時間をおいて見てみると、講義室の中で体感できるある種の「傾向」はあるようです。私は2000年代の初期から大学で女性学関連の講義をしてましたが、事実、2010年代初期までは、「生存のための無限競争社会において、容貌の管理は基本である」というような考えがさらに絶対的なものになっていました。大学の序列化が加速化し、階級差、生涯の展望などをどう感じるかも、学校別に違いが広がり始めました。ですが、2015年に「#私はフェミニスト」ハッシュタグ運動、2016年の江南駅女性殺害事件を経て雰囲気が変わったようです。実際の生活では就職のために隣人と競争しても、ジェンダーイシューでは「私たち」と言える誰かがいるとでも言いましょうか。もちろんそれだけジェンダー意識の性別格差は、今、もっと目立っています。授業の時間に会う女子学生たちは2015年以前に比べてはるかに怒っていますが、反面、男子学生たちは相対的にジェンダーイシューに相変わらずナイーブかつ簡単に接近する傾向があります。時には、すでに「イルベ文化」〔韓国版2チャンネル〕を日常として経験した世代として、全身で(笑)敵対感、ないし「苛立ち」を示す男子学生もいます。

白英瓊 ひょっとして女性学の講義をするというのは、講義室の中で闘争することではないかと思います。他の講義に比べて何倍も努力して論理を磨かなければなりません。授業自体が戦争のようになる現象が最近さらに深刻になりました。

崔娜賢 私の視線から見ると、学校全体の単位のフェミニストの集まりだけでなく、学科単位、小サークル単位のフェミニストの集まりが増えているのが不思議です。学部の時期にもまったくなかったことです。私は学部で仏文学を専攻し、とても多くの女性の先輩たちがいましたが、フェミニズムを教える先輩はいませんでした。最近は警戒心を持って活動を始めた友人たちも、さらに多くの運動が必要だと考えて、自分の周辺の人々と一緒にやりたいという気持ちを隠さないようです。もちろん男子学生たちは本当に頑なに停滞していたり、あるいはますます暴力的に変わっていくという印象です。特に学内のオンラインコミュニティのコメントを見ると見苦しいです。「ショートヘアの道行く女はみな叩き潰す」というコメントも普通に上がっています。このような文化が広まると、むしろ闘争に深く参加した女子学生たちが傷付いて、出て行ってしまうことも頻繁です。学校のシステムも停滞しています。特に性暴力相談センターのような学校機関は、被害学生の味方をするというよりは事態をできるだけ小さくして隠すことに汲々としている場合が多いです。相談センターや人権センターも、学校当局から独立的な機関ではありませんから。特に性暴力の加害者が教授の場合、被害者を孤立させようとする試みが一層露骨に広がるのは事実です。さらに釜山大の場合、総長が「#MeToo運動を支持し、あらゆる支援を惜しまない」と宣言したにもかかわらず、教務会で講義評価にセクハラ項目を入れようという案件が否決されました。なので、今後この運動が狙うべきことが何なのか曖昧になり、また制度的な変化の成就が困難だと途方に暮れるようなことも起きるんです。

白英瓊 お話しを総合してみると、女子学生の意識は高まっているのに男子学生とは格差が生じていて、何かやってみようという試みは、大学という相手と向き合う瞬間、制度的な困難のために挫折してしまうのが常態であるような状況のようです。この困難の根本的な原因は何でしょうか。そのような困難は、セクハラ・性暴力事件で被害者がこうむった被害が果たしていかなるものかについての認識の違いとしても出てきます。性暴力の被害事実を知った人々は、往々にして醜悪な行為のレベル分けに執着し、強姦の可否を過度に重視して、「手を一度つながれたのが何の問題か」という加害者の主張に同調する姿を示したりもします。少しましな場合でも、被害者の性的な自己決定権を侵害したことだけが問題だと考えるようです。このようにセクハラ・性暴力を、そんなことが果たしてあるかは実際によくわかりませんが、「純粋に性的な問題」として見る視角は、被害者の認識とは差があるようです。どう見るべきでしょうか?

崔娜賢 被害者の被害といえば、何よりも大学での勉強が困難になることでしょう。被害の記憶がある場所で、学界の権威を持った教授に被害にあったとすれば、勉強をやめるほかありませんから。大学院に進学したのは研究者として経歴を積むためでしょうが、被害者が性暴力を告白する瞬間、学界にいつづけることも大変になるのですから、性暴力ももちろん問題ですが、人生自体がゆがんでしまうんです。問題の問題化が困難なことが最も難しい点のようです。ですが、被害者を助ける人々も、関連で被害を受けるのではないかと恐れを感じる事実もやはり重要です。私と私の友人たちが大学内で#MeToo運動を行う時、私を除く残りは、自分が被害者と連帯するという事実自体を周辺の人々に隠し、徹底的に匿名で活動しました。私の指導教授はフェミニストですが、他の友人たちの指導教授はそうではありません。被害者の友人を支援すること自体が、指導教授をかなり困らせることがあると本能的に判断したようです。

劉賢美 学界の日常的な相互作用の中にあった、不合理な諸慣行や強固な位階関係が改革されない状態で、大学の企業化が深刻化しながら、教授・学生の関係が以前より複雑になり硬直化したと感じます。特に大学院生の教授に対する従属性は大きくなったようです。そのような意味で、私は、学部の男子学生と女子学生の間の格差よりも、学部生と大学院生の間の格差の方が大きいと思います。学部生たちは教授に対する従属性が低いだけ、発言の自由も相対的に保障されているからです。大学院生は教授という個人を通じる場合にのみ学界の資源に接近できます。大学院生は、学問だけでなく、今後の労働や生計が教授との関係で決定されるので、大きな問題もないことにしてしまう場合が多いんです。周辺でもその状況をよく知っているので、積極的に問題提起を勧めたり応援したりすることはできません。

全希景 特に性暴力の被害ではそのような様相がさらに深刻です。社会的にもそうですし、内部構成員も「完全な」被害者であることを要求します。なので被害者が研究や生計を継続すれば、「大丈夫だったんじゃないのか?」と聞き、「大丈夫だということは、被害がなかったということじゃないのか?」と続きます。他の犯罪被害者とは異なり、100パーセント被害者、24時間ずっと被害者でなければならないという要求が強いんです。

白英瓊 その通りです。生計や学業に復帰する瞬間、被害の立証がさらに難しくなります。日常生活を維持しているということ自体が、被害者がさほど大きな被害を受けたわけではないという根拠に利用されたり、ひどい場合、被害の真正性自体が疑問に思われたりもします。ひいては、被害者はあんなに正常で元気に暮らしているのに、加害者は正直だったせいで解任され懲戒を受けるのは不当だという反応さえあります。大学内ではやはり加害者の立場に配慮することがかなりありますが、その具体的な様相としてはどのようなことがあるでしょうか?

劉賢美 大学の内部で問題提起するための行政的な手続が複雑です。長い時間が必要ですが、その時間の間、被害者に対する支援はまったくない反面、加害者の便宜はかなり保障されます。「授業が中断したらどうするんだ? 教授が疑惑を持たれただけで授業をするなというのか?」というような話を聞いていると、人々が教授にどれほど配慮して気遣っているかがわかります。そうすると加害者は、学校の懲戒の手続が進む中でも、多様な活動をしながら味方を集めて、自らの立場を強弁できるんです。被害者がその様子を見て挫折したり諦めたりします。ですから、問題の提起から処理の決定まで、被害者は加害者とは別に、きわめて苛酷な時間を送らざるを得ないのが現実です。このような問題が起きた時、教授間の派閥争いや軋轢争いとして済ませようとする視線も問題です。被害者が指図されて、誰かを困らせようとしている、という風にです。

崔娜賢 「仕事は女性がやり、教授は男性がなる」という言葉があるでしょう。女子学生たちがいつも言っていることですが、それでも常に女性たちが熱心に働くということが悲しいです。勉強では男性教授に認められないということを知っているので、自分を認めてもらうための労働をさらに多く引き受けるんです。弱い人がさらに弱い状況に置かれることになる構造とでも言いましょうか。さきほど「派閥」の話が出ましたが、実際に私たちの大学には「釜山派」「密陽派」のような言葉があります〔国立の釜山大は2006年度に近隣の密陽大を吸収・合併した――訳者〕。釜山で生まれ育った釜山大の男子学生を育てるのが釜山派であるという風にです。学縁と地縁をすべて充足する「息子を育てる」という意味です。娘たちは、釜山で生まれようが密陽で生まれようが、何の関係もありません。このような人脈と派閥が相俟って、本来一番力のある人々は簡単に目立つこともありません。学生たち同士、「父親」が誰で「息子」が誰なのかを議論していて、その渦中に女子学生たちは疎外されて異議の申し立ても不可能です。

 

資源配分と再生産の危機

 

白英瓊 おっしゃられた問題は、結局のところ、学問の「後続世代」の問題、また学問の危機ともつながるようです。ですが、最近の状況を見ると、学問の保存と再生産のための「後学の養成」を語る時に最も優先されるのはお金です。ですが、財政的支援は大学院生の従属性を高めるだけで、完全な解決策ではないと思います。このお金を誰がもらうのか、そして資源配分の優先順位を誰が決めて評価するのか、などの問題がただちに伴います。これは社会再生産の一般的な危機のような次元の問題です。たとえば、家庭内労働の社会的価値を認めないために、子供を産むことも育てることもできない状況になっているわけですが、「支援が足りなくて」という診断では、この問題を決して解決できないようにです。後学の養成という価値自体が大学において重要なものと考えられていない状況で、支援金だけでは後続世代の再生産がきちんとできるわけがありません。ですから、後続世代の再生産を阻む根本的な障害物がいかなるものかを問わなければ、社会と同様に大学もやはりこのような再生産の危機は反復されざるを得ないと思います。他の方々は、大学内の再生産の危機をどのように体感されていますか。

崔娜賢 「なぜ勉強すべきか? 認めてもくれない世の中なのに……」。大学院生ならばこのようなことを1度は考えるでしょう。ですからお金や資源の問題も重要だと思います。いまや学校が率先して就職率の数値を自慢するだけでなく、就職に有利だという「人気学科」への偏重も激しくなっています。大学が知識を生産するところでなく、就職のために通過する工場のようになって、人文学を専攻する学生たちも、この勉強をなぜするべきなのかについての疑問と疑念が絶えず出てくるようです。ですが、人文学は初めから与えられる資源が少ないので、学術行事でも授業でもすべての面でますます遅れをとっているという印象です。ジェンダー言説ももちろん同じです。このように限られた資源で何ができるかについての悩みも、日々大きくならざるを得ないようです。

全希景 もうすぐ8月に施行される非常勤講師法〔「時間講師法」:大学の非常勤講師の雇用条件を安定させるための法律。2011年12月に国会を通過したが、その後に猶予期間や改定が続き、2019年8月に本格的に施行予定。任期1年で正当な理由なく解雇されず、ノルマコマや健康保険、退職金なども保障されるが、各大学ではこの法律の施行を前に、非常勤講師の解雇や他の職種への転換が続いている〕を目の前に、大学に吹き荒れる激風のことについて考えます。私はこれまで数年間、作文の授業も担当していますが、科学・技術分野でなければ教育部の支援金の給付が難しくなり、正規職の教授や専任の教員がいない「教養」の授業がまずなくなるという危機的な状況です。ですが、このような情報自体が講師たちには共有されないために、準備する時間もなく、通知だけで「切られる」危機に遭遇しています。非常勤講師の私が、それさえもこのようなことを公式の会議を通じて知ること自体が、少数の専任教員たちの「意志」と良識のおかげです。最近は大学を、就職のために行くくらいに感じているのは事実ですが、それでも大学が人文学的な素養を育てるための場所という漠然とした思いはありました。ですが、それさえも崩壊したようです。体裁を繕いながら、越えずにいた線が崩壊してしまえば、それ以降は「線」を論じること自体が滑稽になります。教授集団も明らかに階層化しています。正規職の教授と契約職の教授、定年保障の有無による安全性の違い、多様な名称の契約職の教授など。大学内に多くの問題があることはみな知っています。ですが、教授者の集団の中でも周辺化が発生して不均衡が激しいところで、「誰が」これらを問題化できるのかということです。「大学改革問題」をともに論じる主体は誰なのか、互いをともに論じる関係に設定できるのか、ということが問題の一部ではないかと思います。

劉賢美 全国大学院生労働組合支部の支部長であるク・スラ氏が書いた「大学の構造的な慣性の歴史と研究者共同体の介入する主体史」(『歴史問題研究所会報』2019.2)という論文があります。この論文は90年代以降に続いた大学発のリストラが、外形および財政の維持を越える、異なるものを想像できない構造だけを再生産していると指摘します。この「構造の慣性」が大学内のすべての構成員の不安定性を積極的に形成するので、正規職の教授と非正規職の教授、大学院生などの当事者たちが、研究者主体の資格で慣性を変えていく運動の力量を組織すべきだと主張します。ジェンダーの問題や性暴力の事件が個人の力で変わらない理由は、まさにこの構造的な慣性のせいだという気がします。ジェンダーの問題が絶えず周辺化するのも、男性教授と男性職員の未来の方がはるかに重要視されるのも、ある個人がおかしいというよりは、そのような異常さを冷遇し擁護し支持する基盤があるからのようです。教授を含む研究者たちは、外部の対象のみに関心を傾けて、私たち自らの問題、つまり知識の内容や知識生産の土壌については、たいして真剣に検討したりはしません。たとえば社会の不平等の問題を批判して階級矛盾を指摘しながらも、学内の資源配分には不合理な差別をして、正規職の教授と非正規職の研究者の間の位階については沈黙するようにです。大学がその理想のように、自由で平等な知性の空間になるためには、その知識の生産過程で起きる相互作用自体が自由で平等であるべきですが、そうはなっていません。いわゆる進歩的という人々も同様で、私がある学術シンポジウムに行ったとき、男性の教授たちが集まってあらゆる進歩的な話をしたあげく、突然、女性の助教にコーヒーを入れてこいと注文するんです。大学院生たちは講演の会場の中央に座らせ、教授たちの席には座らせません。このようなことは、枚挙にいとまがないほどありふれていますが、このことを学生たちが絶えず見て感じて考えるならば、事実、知識の内容よりは、知識が共有される環境や省察的な相互作用の方が重要だと思います。外部支援やお金で外形は維持できますが、「後続」世代が地に足をつけて生きていけるほどの、平等で魅力的な学界の環境は、お金で作ることができませんから。

 

救済不能「進歩マッチョ」と男性の「弱者意識」

 

白英瓊 最近、とある元老社会学者が日刊紙のコラムで「世間の言説がなぜ、バーニングサン、スンリ、金学義、チャン・ジャヨンのような、情けない事件に傾く」のかを問うて、このようなことを、ささいで「醜悪な事件」だと表現して物議をかもしました(『中央日報』2019.4.17)〔「バーニングサン事件」はソウルのナイトクラブで2018年11月に起きた暴行事件で人気グループBIGBANGのメンバー・「スンニ」(V.I)の関与と性接待疑惑が取り沙汰された。「金学義」は2019年5月、性接待を受けた疑いで逮捕された元法務次官。「ジャン・ジャヨン」は事務所に性接待を強要されたことを苦に2009年3月に自殺した女優――訳者〕。ですが、このような妄言に対して男性知識人たちは、たとえばセウォル号沈没事件や光州5・18蜂起に対する妄言と比べると、あまり怒らないようです〔2019年2月、自由韓国党の議員数人から、1980年5月の光州事件への北朝鮮介入説を強調して強く糾弾され、2019年4月には、同じ自由韓国党の現職・前職議員から、セウォル号事件の遺族たちがいわゆるゴネ得であると揶揄し、社会的に強く糾弾された――訳者〕。「もともとそのような人だ」「韓国の意識水準はその程度だ」ということばかり繰り返します。性暴力事件に対する社会的な公憤が足りない理由として、よく被害者に対する共感不足を挙げますが、私は「共感の失敗」ではなく、韓国社会の権力が構造化され実際に作動してきた方式で、ジェンダーの問題がどれほど核心的か直視できない「知性の失敗」だと思います。女性の身体を取引しながら利潤を創り出し、権力を堅固なものにしてきた、その様相を直視せずに、韓国社会について論じられるでしょうか。そのような面で、韓国の多くの知識人たちはジェンダー問題に鈍感なのではなく、権力自体を正しく理解できていないと言うべきだと思います。これはもちろん男性知識人たちだけに該当するわけではありませんが、教授・知識人社会において男性の代表性が目立つので、男性知識人という言葉を使いました。このようにジェンダー問題がたえず周辺化される理由は、どのような点にあると見るべきでしょうか?

全希景 私はこの問いは民主主義につながると思います。キャンドル革命当時、「性の平等が民主主義の完成」という標語がありました。そして#MeToo運動が本格化した時、「変化した私たちは、あなたの世界を壊すだろう」というスローガンが登場しました。今回、堕胎罪が違憲であるという判決が下され、「もう私たちは決して過去に戻らないだろう」という立場へと続いています。この流れが、韓国社会の民主主義政治、ひいては現代史全体に示唆するところが大きいと思います。当然、その意味に対する省察と討論があるべきです。ですが、おかしいのは、大学改革が、このような時代的流れと「別個」と考える傾向があるということです。軍隊も社会ですが、軍隊では「ここは社会でない」と言って、ある種の秩序を再生産するようにです。大学も社会の一部ですが、フェミニストたちが追求し主導してきた最近の諸変化を、「大学改革と別個」のように考える人たちを見ると、特にそのような考えを持っていても、大学改革に熱を上げる人たちを見ると、率直なところあきれます。マッチョの中でも一番頭が痛いのが、自分が進歩的だと考えているマッチョです(笑)。

劉賢美 その人たちは常に問題の原因を外部に求めます(笑)。事実、大学改革に声をあげる、自称進歩派の学者たちは数多くいますが、結局、そこでなされる言説を見ると、教育部の悪口、官僚の悪口、政府の悪口です。学生数が減り、これに伴って正規職の教授のポストや財源も減るので、政府の全面的な支援が必要だという話にとどまったり、あるいは、韓国研究財団の評価体制に対する批判をするんです。このような怒りのあげく、その支援を受けてどのような知識をどう生産するのかという答えは消失し、存在しません。事実、暴力的な評価に対する拒否くらいは当然できるでしょうが、それでも知識の有用性と公共性は、責務性(accountability)という言葉のように、適切に説明され証明されなければなりません。ですが、そのような証明をどのようにするかについての苦悩はありません。なぜならば、教授たち自身が「弱者」だという認識が底辺にあるからです。なので大学内の施設管理・美化労働者をはじめとする非正規職労働者の問題にも、私たちは私学財団や政府に雇用された一介の職員、公務員だから、連帯できる力がない、権限がない、と言っているようです。本人たちもリストラの波に一緒に巻き込まれる弱者であるとだけ認識しているのであって、自分たちの力量を誰とどのように組織するかについての苦悩が弱いと思います。

全希景 便宜的な「相対評価」と「弱者意識」は、いまや時代精神になっているようです。先日『時事IN』(通巻604~606号)で「20代の男性現象」について調査しました。とても興味深かったですが、読んで情けなくなる記事でした。20代の男性の心中に「自分が最も差別されている人間」「自分が弱者」という意識が強く、フェミニズムのような世界観に対して怒りを示すというんです。日常化された「他人のせい」が普遍的なアリバイを提供するとでも言いましょうか。ですから、「自分に何ができるというのか」という自暴自棄もよく出てくるんです。さきほど「進歩マッチョ」について話しましたが、自分に対して疑いのない人間がとても多いと思います。「ジェンダーイシューは自分もおおよそのことは分かる」(だから特別にフェミニズムを勉強する必要は感じられない)、「完璧ではなくても、少なくともホン・ジュンピョなどよりはるかにいいだろう」(自分を他人と一緒に扱うなんて!)……ですが、そのように相対評価をしようとすると、「李明博・朴槿恵」政権の時期も日帝の植民地の時期よりは「はるかによかった」と言えるじゃないですか〔ホン・ジュンピョ(洪準杓):2017年5月の大統領選挙に保守右派の候補として出馬したが、民主党の文在寅に大敗。のち自由韓国党の代表を務めたが、2018年6月の統一地方選挙の惨敗で引責辞任した〕。自分を疑うことがないから、学びもなく、学びがないから進歩せず、進歩しない進歩は、事実、これ以上「進歩」でもなくなります。労組が御用だと、最初から存在しないよりもさらにたちが悪いように、進歩を自任しながら進歩しない人は、#MeTooをはじめとする多様な戦いにおいてむしろ悪条件です。大学の自律性を進歩的価値と考える人たちは、大学内で性暴力などのジェンダーイシューが提起された時、「大学内の問題は大学内で解決すべきだ」「大学の自治を信じる」 「学内問題を刑事事件化してはならない」と厳粛に語りますが、そのように大学の自律性を語るならば、その自律性で何が成し遂げられるかを証明しなければなりません。大学だから特別に自律性が少し保障されるべき理由はいかなるものか、その自律性を具体的に何に使っているのか、ともに監視し批判して点検しなければなりません。

崔娜賢 進歩マッチョは疑わないというお話しに深く共感します。弱者はすべてのものに対して、本質的には自分自身の能力と可能性に対して疑い続ける立場にあると思います。ですが、「進歩マッチョ」「進歩じいさん」たちは自らに対する疑いがなく確固としています。ですから、実際には弱者でないのに「弱者意識」を持っているんでしょう。20代の時、学生運動をしながら弱者であった経験や感受性が依然として生きているというのが問題です。社会で自身の位置がどこにあるのかを調整し客観化する作業をしないようです。結局、社会問題、世代間の問題において孤立を自ら招くことになるんです。20代の男性の世界観と大きく異なるところはありません。

 

「組織」問題と大学院生労組

 

白英瓊 事実、大学院生が自らを労働者として認識するという点が興味深いです。勉強している人、学生として概念化するのと、労働者として概念化することには大きな違いがあるからです。勉強する人と見る時、先生と学生の間の位階をある程度は受け入れることになるのに比べて、労働者は、平等ではないが、同等の構成員であるという認識の転換を前提とします。このような変化が起きることになった理由は、どのようなところにあると思いますか?

劉賢美 全体の大学の中で約80%が私立です。少数の所有権、経営権を排他的に保障する私立大学を中心に偏在した高等教育システムの問題も一役買っているようです。私立大学は政府財源の支援を受けながらも、内部の意思決定や資源配分が少数に独占され、閉鎖的・位階的に成り立っています。これによって数多くの不正、パワハラ、暴力と差別が大学で発生していますが、うまく解決できていません。知識生産の土壌の私有化が深刻化しています。このように大学という基盤自体が、内部においてすでに根元から揺らいでいるのを見ると、さきほど申し上げた「構造的慣性」がすでに耐えられない水準に達しているようです。私は逆説的に、大学が需要者の要求に合わせるという意味で新自由主義の道を行くならば、きちんとやるべきだと思います。今は、講師たちの教員としての地位を保障したくないから、大型の講義とオンライン講義を開設して、講義数を減らすことだけを考えています。なので、毎回、履修登録のときに大混乱が起きて、学校に通う学生たちの授業権が保証されていません。大学が主張するように、学生たちが消費者で教育サービスの受恵者なのであれば、彼らの要求と必要に合わせるべきですが、まったくそうなってはいません。2015年以降、フェミニズムの大衆化の流れの中で、フェミニズムの知識に対する需要も学生たちの間で急増しましたが、正規職の男性教授中心の大学社会は、このような状況に付いて行けなくなっています。男性教授たち自らが、自身の授業にジェンダー的な観点を書き込み、講義を更新しようとする努力もありません。このような反改革は、大学教員を職業でなく1つの身分としてみる習慣と結びついていると思います。最近、高麗大や中央大の事例のように、講師と学部生、大学院生らが連帯し、講師法をきちんと施行しろと要求する動きもあります。私はこの動きが亀裂の始まりになると思います。高い授業料を出したけど、きちんと授業も受けられないという思いが、ある種の臨界点を突破したようです。それとともに、単に授業権の問題でなく、高等教育システム全般の問題、学問再生産の構造を問題にできます。

全希景 ですが、学生をはじめとする多くの大学構成員らは長らく黙ってきました。怒りがすでに臨界点に達したといっても、その個別的な「怒り」が組織化されなければ変化は困難だと思います。ある集団を作って意見を集め、その意見を土台に交渉を試みる経験自体が、かなり長らく断絶しているのではないでしょうか? おっしゃられた「怒り」は私も感じていますが、その怒りを表出できる窓口がないように思います。

白英瓊 それぞれ異なる立場で感じる多様な「怒り」がすでに大学に蔓延しています(笑)。それでも全世界のどこの国よりも高い大学進学率を土台に、韓国の大学はすでに収益率を目標に動く企業のように見えます。大学がそう簡単に「うんざりだ」とあきらめてしまうことはないでしょう。お三方は大学が重要だと考える理由はどのようなものですか?

崔娜賢 「ネットフェミニスト」だった私が変わったのも組織化の問題を感じたからです。オンラインで語るのは楽しいですが、現実においてはみなバラバラに分散させられているからです。もっと大きく合致した声が必要だと感じた時点で、勉強しなければならないと決心しました。ですが、大学院に行けば自分と似たような考えを持った人々が多いだろうと思いましたが、そうではありませんでした。大学院で声を出すというのはむしろ不可能に近いことでした。学部生の学生会もあり、教授会もありますが、大学院はひどいときには名目上の学生会があるところも少ないです。なので私は、大学改革のためにはまず大学院学生会が必要だと思います。どこでどのような事件が起きたのかがわかり、学部や学科が違っても一緒に対応することも可能になります。ですが、この必要性に共感する大学院生は多くはありません。教授と大学院生の間が過度に私的です。私は他の学部の大学院生たちとどう出会い、どう力を集めるかを考える問題から始めてみたいと思います。

劉賢美 「再現」と「代表」の問題が同時にあります。存在するけど見えないものを可視化することが再現ですが、まず大学内の女性の現実を表現することが必要です。性差別はどのような状況であり、大学院生はどのような労働をしていて、どのような葛藤関係にあるのかなどを見るべきです。また、組織化された声が彼らを代表できる時、第一歩が始まったと言えるでしょう。ですが、最近、いろいろな大学で起きた総女子学生会の廃止の動きを見ると、代表の問題はいまや本当に深刻のようです。総女子学生会の廃止を主張した学生たちが言ったように、民主主義を単に多数決の論理、手続的な問題としてのみ見てしまうならば、これをひっくり返すだけの力も出てこないでしょう。ですが、このような手続的な民主主義の陥穽を補完し克服することが、民主主義にとってもかなり重要な問題です。ともに実践することが民主主義を可能にするならば、組織化と代表の問題も重く受け止めるべきでしょう。もちろん、総学生会や総女子学生会のような学生会のモデルの持つ限界も歴史的に明確なので、これを越えるモデルが必要だと思います。そのためにあらためて議論が始まるべきですが、そのときにまた再現の問題が重要になります。ともに省略できないものです。

白英瓊 大学院生の労働組合モデルは代案になるでしょうか?

劉賢美 現在の大学院生労組は、全国単位の代表の性格が強いです。大学院生が学生だけでなく労働者であることを主張する必要はあります。事実、教授も講師も労働者です。大学で起きる知識生産の労働は、互いの労働を尊重しなければ権利の侵害がいともたやすく起きるので、このようなことを防止できる代表体があれば、大きな力になると思います。大学院生労組が非常勤講師法のガイドラインを作るタスクフォースにも参加し、大学院生の権利侵害の問題を議論する交渉のテーブルにも入ると聞きました。このような組織化モデルは十分に実験可能だと思います。

崔娜賢 昨年の#MeToo運動の時、全国大学院生労働組合の支援をかなり得ました。学内に大学院生の権利保護と関連した公式的な機構がなかったので、わざわざ支援を要請しました。そのとき初めて大学院生の現実がいかなるものかに気付いたようです。大学院生全体のための学生会はもちろんですが、学科単位の自治会も少ししか存在しないという事実です。さきに申し上げたように、私と友人たちは大学の壁新聞やSNSを活用して匿名で活動しましたが、学科もみな違っていたので、私たちの考えを学校に公式に伝える求心点がありませんでした。調査と懲戒の過程で被害者を保護するよう主張したり、人権センターの規定を変えるべきだと言ったり、教授の懲戒を促す時のように決定的に声が必要な瞬間に、全国大学院生労働組合の抗議の公文書が大きな力になりました。

全希景 大学院学生会は没落しますが、大学院生労働組合は浮上しているという状況が、時代の一面を示していると思います。学生なら誰でも構成員になれる「学生会」方式でなく、自分の権利のために自発的に加入する「労働組合」の組織が大学にできたということが、逆説的に代表性ある組織がそれだけ少なく大変だという現実を反映しているようです。あるいは「代表性」というものが、今、韓国社会や韓国の大学における民主主義と関連して、多くの討論が必要なキーワードでもあります。「学生ならば当然、無条件、自動的に」加入する学生会のユニオンショップ制の構造は、「学生社会」という言葉が示すように、ある種の想像的な共同体を仮定し、またその仮定を通じて「私たち」という感覚ないしは規範を作り出しながら、市民権を論じられる土台になりました。大学院生という事実だけで、当然、その構成員になる「学生会」が消えたということは、大学院社会を「社会」と呼べるだけの条件が消えたということです。大学院生労組の躍進を応援し期待する一方で、このような諸変化をきめ細かく診断し分析することもやはり必要ではないでしょうか。

 

学生か、労働者か、彼らの属する共同体は?

 

白英瓊 事実、大学院生が自らを労働者として認識するという点が興味深いです。勉強している人、学生として概念化するのと、労働者として概念化することには大きな違いがあるからです。勉強する人と見る時、先生と学生の間の位階をある程度は受け入れることになるのに比べて、労働者は、平等ではないが、同等の構成員であるという認識の転換を前提とします。このような変化が起きることになった理由は、どのようなところにあると思いますか?

全希景 事実、90年代初までを見ても、「運動圏」――学生運動をしている人たちにとっては、「学生」というアイデンティティがあまり重要ではありませんでした。教授のことも軽く考えますし、単位で不合格になれば、逆に自慢したりしました。あの時は「勉強が何だ? 社会がこんなありさまなのに」という話が通じましたし、実際に大学生たちが社会の変化を牽引した側面もあります。ですが、あの時、自分たちを学生よりは市民であると考え街に出て、その意識に基づいて小さな市民社会、政治的代表機構として「学生会」を構成し、教授と交渉を行ったことと比べてみれば、今は条件がかなり変化しています。自らを大学という社会の市民と考えるよりは「労働者」として位置づけるんです。一方では生存の問題、あるいは利害関係の問題としては、完全に翻訳され得ない政治的な民主主義の空間を想像することが困難になったとも言え、他方では「労働権」を通じて「市民権」が経験され実現される社会であるとも言えます。

劉賢美 あの時とは異なり、大学がいまや進学率70%以上の普遍的な経験になったせいもあると思います。就職猶予や準備・模索の過程で、大学院に進学する割合も高いです。学部や大学院が少数の特権の経験や解放区でなく、もう一つの一般社会になって、そのなかで広がる疎外に対してさらに敏感になるようです。ですが、大学社会で同等な相互作用の主体として自らのメンバーシップが認められず、あるいは「指導の弟子」のように教授に所属した従属的なメンバーシップの状態で自らを表現する方式の一つが、労働者アイデンティティであるという感じがします。

全希景 アイデンティティを労働者に変える瞬間、学校当局が「雇用主」になります。ですが、さきほど話した女子学生やジェンダーイシューの周辺化、セクハラ、性差別は、事実、学生集団と学校集団の間だけで広がるのではなく、学生たちの間でも頻繁です。労働者という名は、学校当局や教授との関係で甲乙の「乙」の位置を示す命名でもありますが、学生社会に自らを記入できない人々は、疎外されやすい構造を示したりもします。もちろん学生が自らに労働者というアイデンティティを付与するのはとても意味がありますし、また有効だとも思いますが、それでも学生たちが「学生として」、すなわち大学社会の構成員として、何か議論して決める政治的な空間が狭くなっていくことを当然視できるでしょうか? 「大学社会」ないし「共同体」という感覚も重要なのにです。

崔娜賢 学問的な共同体という感覚があってこそ、学生というアイデンティティも持つことができます。にもかかわらず、そのような共同体がますます困難になるのは、大学社会内の位階が、教授と学生が学問的な同僚となる可能性を閉ざしているからだと思います。以前、論文で「教授に与えられた仕事をすべて終えたら、消耗して自分の研究ができない」というインタビューを読みました。私はこの言葉に深く共感しました。学校で与えられる業務は明確な締切がありますが、勉強はそうではありませんから、次から次へとやってくる行政業務を優先すれば、それが生活の中心になって、勉強は「時間が残ったらやる」ものになってしまいます。学生というアイデンティティが不可能になるというのはこのような意味においてです。ときおり討論もする民主的な共同体は夢見ることも難しく、教授と学生の間に上司と部下職員という管理・被管理の関係がまず設定されます。なので「労働者」ということにより大きく惹かれて反応するのは当然だと思います。ですが、そのような共同体が「ともに勉強する立場」ということだけで可能なわけではないと思います。私は今、工学部に通う女性の院生のところに行って、「私たちは同志だ、私はあなたと境遇が同じ。力を合わせよう」と言っても、簡単にはうなずきにくいでしょうからね。

劉賢美 労働であるとすればどのような労働か、それでどのような価値を生産するのかを問う必要もあると思います。そこで成立する社会的な関係を示して見せることも重要な問題でしょう。大学の行政業務に大学院生が寄与する点についての適切な認定も重要ですが、分業と協業でなされた現在の研究物の生産方式に、「労働」概念をどのように記入するかも難しい問題です。大学院生労組でも、教授、講師、大学院生がみな寄与する「研究労働」の概念化に取り組んでいると聞いています。ですが、労組というモデルはとにかく大学本部や政府のような使用者を前提にして、彼らと交渉して成果を得ることを目標にしますから、政治共同体として共通感覚を形成する最終審級やすべてではないと思います。労組が可能なためには、さまざまな自治会が活性化されるべきだということも感じます。私の属する学科は自治会の歴史が長いですが、そのおかげでパワハラ教授への問題提起が可能だったようです。そしてこのような集まりがあってこそ、闘争の経験も蓄積されて伝授され得ると思います。

 

アンチフェミニストと講義室文化

 

白英瓊 大学では講義室という空間が何より重要ですが、そのなかで男子学生たちの攻撃だけが問題なわけではありません。フェミニズム的な正解を強要する圧迫自体が、教育の場では害になります。だからといって嫌悪発言を許容しようというのではありませんが、本人の持つ疑問や混乱は自由に打ち明けられる講義室の文化が必要だと思います。

全希景 現在の相対評価の制度はそのような文化の形成を阻害します。ですが、私が2学期にわたって絶対評価をしてみたところ、確かにある種の変化が感じられました。少なくとも「あまり苛立っていない」という感じとでも言いましょうか。互いを「自分の上」、あるいは「自分の下」と見る相対評価の制度の中では、単位の放棄者でない限り、「社会」というものを作り出すことができません。事実、私はすべての学部の授業は教養の授業になるべきだと信じています。知的な共感能力を発揮する市民を育てるのが大学の社会的な役割ですから、その多くの社会的資本が投入されるということです。そのような社会的資本の投入の中で維持される、特殊な場としての大学があります。その場で市民としての政治的経験、市民行動のための言語と対話の能力が育まれる必要があります。

崔娜賢 大学が重要な理由は、大学で大切な経験をする機会が多いからですが、今の競争状況はそのような経験をますます困難にしているようです。なので、「学びの共同体」が作られればいいという希望はありますが、その可能性について考える瞬間、もどかしくなります。性暴力の教授が授業をする講義室に、授業の前に行って、この教授がどのような過ちを犯したか、なぜ授業を拒否しなければならないのかを話すと、帰ってくる答えが、「今、授業権を侵害しているから出て行け」というんです。こうしたことが「主流」の気持ちでしょうが、彼らと何かの共同体を作らなければならないと考えると、呆然とした気持ちになるんです。そして何か知らせるためにSNSもやって学校に壁新聞も貼ると、帰ってくる反応が主として「それをやる時間に、エントリーシートでも1枚書こうよ」というのです。ですから、すべての思考が就職と競争を中心に回っているんです。

全希景 2000年代末から2010年代初まで、大学内フェミニズムが枯渇していくという憂慮が大きくなりました。このことが、いくつかの学校の問題でなく大勢になったという恐怖と挫折がありましたが、その後「メガリア」や#MeToo運動を経て、大小の問題提起や戦いを行う女性たちが増え、それに歩調を合わせてフェミニズム書籍も多く出版され、セミナーや集まりも多くなりました〔メガリア (Megalia) :2015年にできたミソジニー(女性嫌悪)対抗のコミュニティサイト。ミソジニーのフレームをそのまま男性に適用して逆襲する「ミラーリング」(mirroring)で、社会運動の戦略として注目をあびる〕。論争も活発になりました。ですから、フェミニズムが「就職と競争を中心に」回っている大学社会に、正義に対する感覚を呼び起こす役割を果たしているんです。社会を変化させる動力を考える時、進歩は特定のコンテンツではなく進歩しようとする動力でしょう。性の平等もやはり「性平等マニュアル」が固定されているわけではなく、性の平等がどのようなものかに悩んで戦い抜く、その動力が、性の平等を進展させます。何年か前「ソウル市はすべてを平等に分けるべきという旧時代的な発想をやめろ」という内容のプラカードが、江南区のあちこちに張り出されたことがあります。それを見ながら、平等を論じるということ自体が「劣った」話になったのか、という気がしました。民主主義社会の最低線が消えたとでも言いましょうか。「ともにいい暮らしをしよう、嘘をつくのはやめよう、パワハラはやめよう」ということがこれ以上当然でなく、そのような行為を恥じることもない時代になった象徴のように感じられました。そのために、「それをやる時間にエントリーシートを書く」という言葉が、恥じることなく飛び出すんです。民主主義の最低線が崩れた社会において、構成員は互いを加害者/被害者、あるいは競争者関係のうち、1つの尺度で眺めざるを得ません。ですが、まさにこの構図を越えて、互いを異なるものと考える感覚を追求するのがフェミニズムだと思います。フェミニズムをよく波(wave)として表現しますが、フェミニストたちが、何の可能性もないように見える場で何かを試みるからこそ、はじめて波動ができるとも思います。大学で起こされるその波に、私もやはり少しでも加わりたいという気持ちです。

劉賢美 オンラインでずいぶん殺伐とした話をしたり、テロの脅迫をする人たちも、実際に会ってみるととても弱々しい場合が多いと思います。性暴力の加害者の教授も、恐いというよりは情けないという気持ちにしかなれない時があります。大学が持つインフラについて話しましたが、私たちが大学のことが諦められない理由は、諦める瞬間にこのような人々がそのインフラを独占するからです。最近、出版界でフェミニズムが人気で、大衆向けの授業にも多くの人々が集まります。これはもちろん肯定的な現象ですが、一方では活用可能なインフラをまったく使用できないので、大学外でこのようなブームが起こっているのではないかと思います。そのために大学でフェミニズムへのペダゴギー(導き)の役割が重要です。体系的に蓄積された知識の形態でフェミニズムに接することができ、直接向かい合って討論する場が開かれるわけですから。この討論はかならずしも「キーボードバトル」〔ネット上で繰り広げられる口喧嘩〕のように、誰かが勝たなければならない戦いではなく、調整できる、互いに開かれた空間であることを体験できるという点で、フェミニズムへのペダゴギーが必要だと思います。たとえば私たちの対策委には、多くの男子学生たちが参加しています。女子学生や女性たちだけが主に性暴力の事件処理の過程の「専門担当者」だった慣行から脱皮したわけです。対策委の活動をして、男子学生たちもジェンダーの感受性を更新することができ、私もそのような男子学生たちを見て多くのことを学び、変化させることができました。フェミニストに対するテロは90年代にもありましたし2000年代にもありましたが、そのようなテロに余裕をもって対応する戦略と苦悩を分かち合うこともペダゴギーの役割だと思います。

 

それでも希望があるならば

 

白英瓊 大学とフェミニズムの主題だけでも、際限なく話が続けられそうですが、そろそろ終えなければならない時間です。大学がなぜ重要なのかについても、これまで話を交わしましたが、大学の問題が簡単に解決すると考える人々は多くないでしょう。そのようにこの座談会を終わらせたら、長い話の終わりがとても絶望的だと思います(笑)。フェミニストの立場から大学にかける期待や希望があれば、最後に分かち合ってみたいと思います。

崔娜賢  フェミニストたちに加えられる数多くの攻撃があります。そのような攻撃は「私たちの学習権を侵害するな」というような無関心の様相として見られたりもします。ですが、それに対して沈黙せず、自分なりに世の中を解釈し、自分が信じることを一度吐きだす経験をすることが、フェミニズムに貫かれている情緒だと思います。昨年、私たちが匿名で活動することに対する理解がまったくない学生に片っ端から会って話を聞いたことがありました。関心自体はありがたいが、一方では「おまえたちの正体が分からなければ支持できない」という気持ち、被害者の完全無欠さを望む気持ちが読めて、腹が立ったりもしました。ですが、ある日、その学生が実名で学校に壁新聞を貼りました。あとで聞くと、自身が#MeToo運動を支持するという事実がわかったら、「ひょっとして就職できないかと思って」、ずいぶんと心配したと言っていました。かなり勇気を出したのでしょう。本人としては壁新聞を書く前に、私たちの顔を一度見ることがリスクを減らす方法だと考えたようです。そのような脈絡がわかると、彼が体験した恐れが理解できたりもして、以前感じた残念な気持ちが申し訳ない気持ちに変わりました。大学の中にこのような勇気と申し訳ない気持ちが多くなるといいと思います。そのためにはこのような気持ちが分かち合える、小さな集まりが増えるべきでしょう。強制的に集まりを作ることはできませんが、そのような集まりをどう支援するかは、多様な主体がともに考えて悩むべき問題だと思います。

劉賢美  数か月前、ソウル大の施設管理労働者たちのストライキで、図書館の暖房が中断する事件が話題になりました。学生たちの試験・就職準備や勉強の妨げになるという理由で、ストライキを非難したり、連帯できないという世論がありました。ある学生たちはこのような立場の人々と夜通し討論し、結局、総学生会がストライキを支持し連帯するという立場に変わりました。これによって労組の声が力を得て、本部との交渉妥結も早くなされ、ストライキも終えることができました。立場の異なる学生を敵として想定していたら、引き出せなかった結果だと思います。このような力量を育てるのに、フェミニズムが主要な認識的・実践的な資源になっていると思います。慶煕大でジェンダーの講義をしたことがありますが、その時に出会った学生たちが、学内の非常勤講師の問題、教養科目の統廃合の問題、非正規労働の差別の問題にも積極的に動く様子を目撃しました。このような様子を見て、フェミニズムが、構造的慣性で疲弊した大学の唯一の希望、核心的な解放区のように感じました。大学が異なる世界を体験させるところであるとすれば、さまざまな発想の転換が必要だと思います。就職できなかったらどうするかに悩む学生に対して、「どうせ現在と同じ体制で、大部分は就職できないんだ。そのような土俵にすがるよりは、最初から土俵自体を新しく自分たちに有利に作ってみてはどうだろうか? 世の中は変わるが、その動きに付いていけなければ、それは淘汰されるのだ」と言ってみるんです。構造的な困難を無視するのではなく、世の中に多様な人々が生きていて、ともに暮らせることを示そうというのです。社会が要求する「正常の秩序」とは違う形で生きてきた人々が多いということも示すんです。そのような人と人の間のつながりが生じる時、被害者でなくても、闘士でなくても、オールタナティブな社会を模索する市民として、世の中に柔軟に対応する戦略が開発できると思います。このようなことが蓄積され伝授される空間が、大学であればいいと思います。

全希景  私は、大学が重要な場であり、大学についてともに討論する必要があると考えたのには3つの理由があります。第1に、そこでフェミニストに出会えるからです。この数年間、大衆のための講演をする時、「ここにどうして来られましたか?」と受講の動機を尋ねると、「実際のフェミニストに会ってみたくて」と答える人が多かったと思います。フェミニストがこんなに多いのかと言いながら涙を流す人もいます。ですから、オンラインではかなりいるように見えるフェミニストが、実在することを示すためにも、大学が重要です。オンライン運動の重要性を否定しようというのではなく、オフラインでフェミニストに出会ってできる現実感覚の重要性があらためて喚起されるべきだということです。大学で行われる授業や集まりは、その最低限の接触点を準備します。第2に、相対的に大学は相変らず言語が重要な空間だからです。授業でもそうですし、オンラインコミュニティでも同じです。言語と論理を開発したいという欲求が民主主義においてきわめて重要です。勉強する市民を作り、詭弁を看破する能力を積める場所になるという点で、大学という空間、特に講義室が重要です。3つ目に、大学では大なり小なり「組織」として戦う経験をする可能性があるからです。長いことフェミニズムは「女性も個人」であるとして戦ってきましたが、誰も集団的に勢力化しないまま、「個人」になることはできません。自分の持つ不安や自分に加えられる威嚇を解消するために、集団的に集まって討論して行動する経験が可能なところが大学です。このときに可能な共同体の経験が、民主主義を論じる土壌となり、またこのような議論が可能な境界がどこまでなのかを問い続けさせます。性の平等が民主主義の完成であるという言葉は、韓国の民主主義が完成直前であり、あとは性の平等だけを「追加」すればいいというものではなく、性の平等を通じて、民主主義がいかなるものか、根本的な問いが可能になるということでしょう。既存の大学、既存の教育、既存の改革がどのようなものかを何度も問いかけさせる動力を持つ場所が、大学なのではないでしょうか?

白英瓊 意味ある問いが持続可能な空間として大学があり、反面、長いことこのような問いが成立しなかった空間として大学があるようです。この空間に正義という感覚が相変らず重要だという気持ちを実際に引き起こすフェミニズムの役割があります。大学改革は不可能だという冷笑的な反応を示す人が多いですが、それでも諦められない大学の重要性をいま一度確認できる座談会だったと思います。また、自分の現場での問いを誠実に解いていくことによって、大学が変わり得るという勇気も得ました。長い時間、ともにご議論頂き、本当にありがとうございました。(2019年4月20日/創作と批評社細橋ビル)

 

〔訳=渡辺直紀〕

 

 

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