창작과 비평

[論壇] 3・1と韓(朝鮮)半島式の国づくり / 白楽晴

 

創作と批評 184号(2019年 夏)目次

 

論壇


白楽晴(文学評論家、ソウル大学名誉教授)

『創作と批評』名誉編集人。最近の著書は『文明の大換を勉強する』(共著)、『白楽晴会話録』『2013年体制づくり』『文学とは何かを再び問う』など。 paiknc@snu.ac.kr

 

 

1. はじめに

 

本稿は、韓国キリスト教社会問題研究院の主催で開かれた「3・1運動100周年記念国際会議」(2019年2月25日)で講演した内容を、かなり大幅に修正・補充したものである [1. 韓国語と英語による講演原稿は、韓国キリスト教社会問題研究院が主催した3・1運動100周年記念国際会議(2019年2月24~27日、ソウル・ロッテホテル)の資料集『3・1運動の意味と東北アジアの平和のための朝鮮半島の未来構想』に収録され、英文は『創作と批評』のホームページ(http://magazine. changbi.com/en/articles/89775?board_id=2487)にも掲載された。] 。主催者側に最初に伝えたタイトルは「3・1運動と朝鮮半島式の国づくり」だったが、発表が迫って「3・1と朝鮮半島式の国づくり」に変えた。3・1運動か、3・1革命か、という論争について深く考えることもなく、慣習的に3・1運動という表現を使ったが、講演を準備する過程で「革命」を肯定する側に傾いたので、「3・1」という中立的な表現を使うことにした[2. 講演を準備するために参考にした先行研究は、3・1革命100周年記念事業準備委員会『3・1革命95周年記念学術会議資料集』(2014年)に収録された李萬烈教授の基調講演と李俊植、朴賛承、林京錫、徐姬京などの論文、金正仁『今日と出会った3・1運動』(本とともに、2019年)、韓仁燮「“3・1運動”こそ、大韓民国を胎動させた革命」(『韓国日報』2019年1月2日)など。『創作と批評』2019年春号は、林熒澤「3・1運動、韓国近現代史で再び問う」、白永瑞「連動する東アジアと3・1運動:学習され続ける革命」、李南周「3・1運動、キャンドル革命、そして“真理の出来事”」の3編で“3・1運動の現在性:100周年によせて”特集を組んだが、講演準備の最終段階で刊行され、十分に熟読して活用できなかった。今回再読して、より生産的な後続論議をしたいと思い、新たに参照した他の文献は必要に応じて本稿で示した。]。実は、「運動」という表現を「革命」に変える根拠が充分でないという学界多数の主張に共感する面もなくはないし、運動か革命かという論争はあまり生産的ではないという一部の批判に肯く面もあった。しかしこれは、単に呼称に関する論争ではなく、3・1の性格と「革命」の意味をとらえ返す契機になるなら、もっと考えを深める必要があるだろうと思った。その上、21世紀韓国の「キャンドル革命」が革命の名に実際に値するという主張を展開してきた私としては、「3・1革命」概念を真摯に検討する責任さえある。もちろん、キャンドルが革命なので、3・1も革命であるべきだという論理は成立しないが、キャンドル革命が再考の契機になった革命概念を、3・1と関連づけてもっと発展させ、点検してみる必要はあるだろう。

『創作と批評』2019年春号の特集の巻頭を飾った、林熒澤の次の主張をひとまず出発点にしてみよう。

 

3・1は韓国近代の本格的な出発点である。それゆえ、この地点は韓国の近現代が抱えている対立・葛藤の発源地でもある。3・1は、文字通り、全民族的かつ革命的な影響力を幅広く呼び起こすことができた。とはいえ、極めて残念ながら、その後は名実ともに全民族的な動きは再現できなかった。(「3・1運動、韓国近現代史にて再び問う」、16頁)

 

これは、韓国の「近代」に関する論議と、3・1後の運動の進展に関する論議を、同時に促す発言である。便宜上、第2の問題をまず扱おうと思うが、省察の焦点は3・1自体よりは、3・1が夢見た国家建設の課題に置こうと思う。

結論から言えば、朝鮮半島での近代の国づくりは段階的に進められ、今も未完の課題として残されてきた。段階的な建国は世界史に決して類例がないわけではない。とはいえ、近代の朝鮮半島特有の歴史によって極めて長い歳月にわたり、極めて複雑な経路を踏むことになり、国民国家の色彩をかなり備えた二つの政府が南と北に成立したが、3・1が要求した意味での「大韓独立」「朝鮮独立」には今も到達できないでいる。

 

 

2. 3・1と国づくり

 

近年の韓国で「建国」をめぐる論争は、憲法前文にある通り、大韓民国が上海臨時政府の法統を継承したので今年建国100周年になるのか、あるいは1948年8月15日の大韓民国政府の樹立を正式な建国と見るのか、という問題を中心に展開された。後者は李明博・朴槿恵政権が8月15日を「建国節」と宣布しようという試みとともに掲げた立場であるのに対し、キャンドル抗争で政権交代を実現させた現政権は憲法前文の立場を強調し、3・1と臨政100周年を大々的に記念している。

8・15建国節の推進は、臨時政府の継承に関する憲法の規定はもちろん、 3・1とその後の抗日独立運動全体を貶め、単独政府の樹立を主導して後の独裁政権に加担した親日派を大挙建国功労者にしようという政治的策略を内包していた点で、当初からまともな学問的考慮の対象になりにくいもので、キャンドル革命で推進力を喪失した局面にある。しかし、「臨時政府か、 48年か」という対立の構図は、初めから論議の幅をあまりにも狭め、一部で憂慮するように、更なる官製の建国日をつくろうという試みではないにせよ [3. 最近、歴史問題研究所・歴史学研究所・韓国歴史研究会が共同主催した学術会議では、確かに官製建国日の嫌疑をかけるよりは、政府が臨政の法統をあまりに強調するのは、国家主義の強化と不必要な歴史戦争を招くという批判の声が強かった(『国家正統論の動員と“歴史戦争”の落とし穴』、歴史問題研究所他学術会議資料集、2019年4月12日)。こうした警告を一面で肯定しながらも、臨時政府の歴史的意義を過小評価すべきではないという主張として、高明燮のコラム「“大韓民国臨時政府”をどのように見るか」(ハンギョレ、2019年5月1日)を参照。]、朝鮮半島における国づくり作業を正確に把握しがたくする。また、国づくりの過程で、1948年の南の政府樹立がいかなる里程標になるのかも正確には見定められない。

己未独立宣言文自体は、発表日を「朝鮮建国4252年3月1日」と記載した。その頃、大倧敎を中心に普及した檀紀を使用したのである [4. 都珍淳は「年号と国の建国年度は直接的な関連はない」(「歴史と記憶:建国年度と年号、その政治的含意」、『歴史批評』2019年春号、397頁)と力説し、大韓帝国とその後の様々な独立運動の他、外国の事例も詳細に検討している。]。上海臨時政府が 1919年4月11日につくった「大韓民国臨時憲章」第7条は、「大韓民国は神の意思によって建国した精神を世界に発揮し、さらに人類の文化と平和に貢献するために国際連盟に加入」するという。この時の「神の意思」が正確にいかなるものかは明らかにしていないが、おそらく桓雄の息子の檀君王剣が神市を開いた「意思」、つまり弘益人間の理念を語ったものであろう。やはり、その時を朝鮮建国の時期とみているのだ。だがその後、1941年の「大韓民国建国綱領」や8・15以後の金九主席の様々な発言を見ると、上海臨政は段階的な建国観を固守していたのがわかる [5. これについては、都珍淳の論議が詳細かつ緻密である(同上、特に第3節「臨時政府の『建国綱領』と金九の建国論」を参照)。]。

それに反し、李承晩は初代大統領になった後も「民国30年」を語り、己未の年を大韓民国元年と表現した。その点で、李承晩を受けつぐ建国節の推進論者と対比されるが、とは言っても、彼が臨時政府の法統継承を主張したわけではない。当時、臨政勢力の代表は金九だったし、彼は単独政府の樹立に反対して5・10総選にも参加しなかったからだ [6. 「“1919年建国論”は長年の論争で誤解されてきたように、金九と臨時政府が主導し、李承晩“さえも”それに従ったのでは決してない。李承晩“こそ”が記憶の創始者であり、主導者だ」った(都珍淳、同上、417頁)。それに先立ち徐ヒギョンも、制憲国会当時、上海臨政より1919年4月23日に結成された「漢城臨時政府」を重視した李承晩の独特の立場を論じているが(「解放後、“3・1運動”に対する認識と国家アイデンティティ」、『3・1革命95周年記念学術会議資料集』、112~13頁)、李承晩は一方で単独政府の樹立に反対した金九に対峙し、他方で国連監視下の総選挙を拒否した北朝鮮を攻撃するため、“民国30年”説を積極的・主導的に主張した点は特に強調しなかつた。]。周知のように、「臨時政府」が憲法前文に初めて登場したのは1987年憲法であった。

1941年11月28日臨政が宣布した「大韓民国建国綱領」が提示した建国過程は三段階で構成された。1)独立宣言、2)復国(=国土の回復)、3)建国(完全な政府樹立)。重ねていえば、建国は段階的な過程であり、未完の課題として設定したのである。もちろん、「復国」に臨政勢力の寄与度が低く、国土分断を防ぎきれずに、二つの単独政府が樹立される奇異な段階が来るとは想定できなかっただろう。

建国が段階的に実現されること自体は歴史的に珍しくはない。米国の場合、1976年7月に独立を宣言したが、1781年のヨーク・タウン戦闘を行ってこそ、独立戦争の勝利が確定し、イギリスが13州の独立を承認したのは1783年9月4日のパリ条約を通じてだった。アメリカ合州国政府が成立したのは、それからさらに6年後の1789年だった。だが、米国は建国記念日を別に設けず、1776年の独立宣言に合わせて7月4日を「独立記念日」として祝っている。フランスも、1789年7月14日バスティーユ襲撃後、最初の共和国が成立したのは1792年である。その後、ナポレオンの皇帝政治、王政復古等々の曲折の末、帝政あるいは王政に復帰する危険が消えたのは第3共和国の樹立(1870年)になってであり、「建国」の時期をそこまで遅らせる必要はないが、近代国家フランスの国づくりが段階的に進行した点だけは明らかである。  朝鮮半島の南(または北)だけで起きた変化がいくら画期的でも、それ自体は林熒澤が言う「全民族的」運動である3・1の国づくり企画に対応するとは言えない。上海臨時政府も抗日運動のすべての勢力を代表したわけではないが、目標はどこまでも朝鮮半島全体を統治する国家であった。しかし現実は、南北に分かれた単独政府の樹立だっただけでなく、北は金日成の抗日闘争にほぼ排他的な意味をもたせる、全く異なる建国観を維持している。建国の礎とした満州の武装闘争は1926年金日成による「打倒帝国主義同盟」の結成に始まり、1948年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の樹立によって建国が完成したと思っている。1997年には金日成の生年(1912年)を元年とするチュチェ年号、ないしはチュチェ暦を採択してもいた。その数え方に同意しなくとも、各契機の意味に対する歴史的評価が南北で均一である必要はなく、南の臨時政府の強調が朝鮮半島の半分でのみ認められる限界をいかに乗り越え、3・1が実際に成立させた汎朝鮮半島式の国づくりを完遂させるか、悩まねばならない。北を排除する論理で「臨時政府の法統」を掲げるのは再考せざるをえない。何よりも段階的であり、まだ進行中の朝鮮半島式の国づくりという構図の中で、「法統論争」ではない、実質的な寄与度――国づくりに対する今までの寄与と今後予想される寄与――レベルで検討し、合意の幅を広げていくべきだろう [7. 白永瑞は、南と北の3・1観の違いがやはり段階的に克服されることを展望する。「チュチェ史観に立脚した北の3・1観と南のそれとの間には分岐が明らかに存在する(特に、臨時政府の評価)。しかし、歴史認識の違いを「生産的な刺激物」として積極的に活用し、低いレベルの「違いの共存」を経て高いレベルの「認識の共有」へと向上させていく歴史和解の旅程で、民族と民主という共通テーマを提供する3・1の記憶は有用である」(「連動する東アジアと3・1運動」60頁)。北側の3・1観については、金ジョンイン「北朝鮮は3・1運動をどう考えるか」、『今日と出会った3・1運動』、269~73頁を参照。]。

 

 

3. 近代の二重課題と日帝下の“変革的中道主義”

 

3・1を朝鮮半島で今まだ再演できていない全民族的な革命運動と規定した林熒澤は、「3・1は韓国近代の本格的な出発点である」とも主張した。「近代」は世界史的な概念なので、3・1が全民族的なだけでなく、近代の本格的な出発点でもあるなら、これは3・1の重要性を一層浮き彫りにする論理となる。いや、主体的運動を通じて近代の出発が達成されたなら(「韓国人の近代精神は 3・1運動で覚醒した」〔前掲文、15頁〕)、それ自体で革命の名に値するといえよう。ただ「本格的」という修飾語の意味によって主張のトーンは違ってくるが、ここでより根本的な問題は「近代」の概念をいかに設定するのかという点だろう。

 

世界史的な時代区分上の「近代」とは資本主義の時代と規定すべきで、そうでなければ「近代性」(つまり、近代の様々な特性)をめぐる果てしない論争に巻き込まれ、厳密な学術的討論がほぼ不可能になってしまうというのが私の持論である。これはかなり明らかな事実であるにもかかわらず、「近代」の概念をめぐる消耗な論争がたえないが、その理由の第一は、多くの論者が「資本主義」をカッコに入れた言説を好む傾向があり、同時に「近代」「近代性」「現代」「現代性」が識別される韓国語(及び東アジアの他言語)によって思考する代わりに、その四つの単語の意味が混在するmodernityという西洋語に依存しているからでもある [8. これと関連して拙稿「近代、適応と克服の二重課題」、宋虎根他『市民社会の企画と挑戦』、民音社、2016年、252~54頁、及び英語圏の読者のために新たに整理したPaik Nak-chung,“The Double Project of Modernity”.New Left Review 95, September/October 2015,65~66頁を参照。また、白楽晴他『文明の大転換を勉強する』、チャンビ、2018年、81頁も参照。]。歴史的な時代区分として資本主義の時代である「近代」と、ある時点であれ、当代の人に最も近い時代としての「現代」が混同され、近代または現代の様々な特性としての「近代性」と「現代性」の論議も入り混じって混乱が起きている。

ともあれ、近代を資本主義の時代と設定すれば、1876年丙子修好(江華島)条約で朝鮮半島が資本主義の世界市場に編入された時期が韓国近代の出発点になるしかない。もちろん、これは他律的な近代転換だったので、主体的な近代化作業には程遠い。無理やり引きずり込まれた結果、近代に適応できずにとても苦労し、ついに国権喪失にまで至った。3・1が韓国近代の「本格的な出発点」というなら、その時から近代に対するわが民族と民衆の主体的適応の努力が本格化したという意味であろう。林熒澤の表現通り、「韓国人の近代精神は3・1運動で目覚め」たのだ。

とはいえ、その努力は3・1以前と以後の近代に対する様々な主体的対応の脈絡内で検討されるべきだろう [9. 林熒澤は、3・1の背景になる19世紀の民擾・民乱と民会、1893年東学徒による報恩集会、1894年の東学農民戦争、その後の義兵活動と愛国啓蒙運動などを想起させる(前掲文、20~23頁)]。主体的対応の中には、近代自体を拒否する動きもあったが、これら「衛正斥邪派」は歴史の大きな流れとはかけ離れ、失敗せざるをえなかった。ただ、時流に抗って彼らなりの大義に命をかけた気概は決して貶下できないし、強烈な民族主義の情緒を代表しながらも国粋主義ではない、儒教的普遍主義を掲げた点も特筆すべきである。反面、たとえ他律的に課された近代とはいえ、これに主体的に適応して堂々たる近代国家を建設しようとする「開化派」は二つの流れに分けられる。すなわち、1884年甲申政変というクーデターを通じて自主的な近代化を急ごうとした急進開化派と、彼らの失敗後の1894年甲午更張を主導した穏健開化派である。開化派は、1905年以後の愛国啓蒙運動でも大きな役割を果たした。しかし、1910年国権喪失で彼らの近代適応の努力も、ひとまず失敗したと見るべきである。ただ、植民地宗主国になった日本が、元来近代化・西欧化の模範生格だったため、開化派の流れは様々に変形しながら植民地時代を通じ、むしろ立地を拡大したと思われる。

ところで、朝鮮末期にもう一つの重要な主体的対応の試みがあったのを記憶すべきである。つまり、1894年東学農民戦争だが、韓国の急進運動勢力が学界の言説にも大きな影響を及ぼした1980年代を思うと、「斥邪・開化・農民戦争」の三者構図を設定し、その中で農民戦争を最も重視する傾向が強かった。ただ、この時に強調されたのは「東学」より「農民戦争」――「宗教の外皮を被った」農民戦争――だった。その後、急進運動勢力の衰退とともに、こうした言説は次第に消えていき、結局、斥邪論に対する開化論の圧倒的な優勢が既成事実化したが、近年になって「近代転換期を開化か、斥邪かという構図に封じ込め、結果的に開化派を承認する慣行をうち破り、開闢派をこの時期の核心主体として新たに構成していく作業」 [10. 黄静雅の書評「“開闢”という大胆な呼称」、『創作と批評』2019年春号、457頁。開闢派をこの時期の核心主体として新たに構成する作業を正面から試みたのは、書評の対象になった趙晟桓『韓国近代の誕生:開化から開闢へ』(モシヌン人々、2018年)だが、書評者も指摘するように、「西欧的近代を規定する核心要素であり、そうした近代の克服において核心的難関である資本主義の問題に、これという言及がない点は本書の大きな空白」であり、「そうした点で“開闢”を西欧的であれ、韓国的であれ、“近代”に結びつけずに、かえって“近代克服”の展望と連結させ、その道程で近代化の圧力にいかに対処すべきかを問う方が、著者の問題意識にもより適合するだろう」(同上、459頁)との指摘は傾聴に値する。] が再び注目されている。

私自身が力説してきた「近代適応と近代克服の二重課題」を中心に評価すれば、韓末の斥邪・開化・開闢という三派のうち、それなりに二重課題論的な問題意識が鮮明で、実践も無視できなかったのが開闢派である [11. 関連する論議として、白楽晴他『文明の大転換を勉強する』の朴孟洙の発題(215~18頁)と後続論議(242~43頁)を参照。林熒澤は「東学農民戦争は19世紀の歴史変化を推動した民擾形態の農民抵抗の頂点であり、終点だった」(前掲文、23頁)と評価するが、開闢思想よりは農民抵抗運動の側面をより重視する感がある。]。こう見ると、東学農民戦争で「東学」の重要性を再び思いうかべざるをえない。いや、3・1革命を理解する上でも、単に天道教教団と教徒の大々的な参加を記憶するにとどめず、東学運動と農民戦争を経た民族なので、そうした大規模な民衆運動が可能だったし、東学の開闢思想があったから民主共和主義への転換と新たな人類文明に対する構想がより優れていたと認識すべきではなかろうか。さらに、女性の参政権を規定した「大韓民国臨時憲章」の先進性も、直接的な原因は何より女性の大々的な万歳運動への参加だったであろうが、東学と甑山道の男女平等思想に、その重要なルーツを求めるべきではないかと思う [12. 「臨時憲章」第3条(及び第5条)の女性参政権の条項は世界最初ではないが、米国(1920年)やイギリス(1928年)に先立つものだった。その背景について、李俊植は「当時中国でなされていた憲法制定の動きの影響を考えうるが、それだけでは十分ではない。中国も臨時政府より後に女性の参政権を憲法的権利として認めたからである」と指摘し、「憲章をつくるのを主導的な役割を果たした趙素昻の考えが強力に反映された可能性が大きいと推論せざるをえない」とした(李俊植「大韓民国臨時政府の理念的志向」、『人文科学研究』第24輯、72頁)。趙素昂が草案をつくるなど、文案作業を主導したことは、本人が「自伝」に記録したこともある(林熒澤、前掲文、31頁参照)。だが、プロテスタントの伝道が始まる前の1860年に東学が創建され、既に核心教理や実践綱領で男女平等が宣布された点を記憶する必要がある。もちろん、プロテスタントが朝鮮女性の権利拡大に寄与した功労を無視してはならないが、教理レベルでは「性の平等」を強調する宗教としての限界は明らかだった。]。

そうした場合、3・1が朝鮮半島で主体的な近代適応の出発点という命題も、3・1が近代克服の努力の本格的な出発であったという命題を伴うべきである。開港以前から準備してきた朝鮮半島の二重課題の遂行が、この時ついに本格化したのだが、近代克服の努力を含む二重課題の一部としてこそ、近代適応は長期的成功を期すことができるからである。したがって、その後の進展でも、独立を敢えて放棄した改良主義や急進的開化派の変形に近い教条的マルクス主義・共産主義 [13. この表現が、社会主義思想や運動全体を過小評価する意味で読まれてはならないだろう。他方、分断後の北の共産主義は、チュチェ思想の台頭とともに斥邪派的な面貌も見せるようになったという解釈も可能である。] のどちらにも偏らない、林熒澤が洪命憙を援用しながら語る「“正しい道を正しく進む”、すなわち正道の中間道」(前掲文、30頁)を選んだ活動家・思想家こそ、近代適応という基準でも最適な道を求めたと考えられよう。実際、己未独立宣言文も天道教・キリスト教・仏教指導者の合作であったし、その後の民族運動の展開過程でも、「変革的中道主義」の先駆者と呼ぶにふさわしい人物が多い。島山・安昌浩(1878~1938)、仏教社会主義を提唱した萬海・韓龍雲(1879~1944)、尤史・金奎植

(1881~1950)、夢陽・呂運亨(1886~1947)、素昻・趙鏞殷

(1887~1958)、碧初・洪命憙(1888~1968)、民世・安在鴻

(1891~1965)はみな一様に後世には出会いがたい巨人であり、また巨人には違いないが、元来右寄りの傾向が強かったが、晩年に南北協商と左右合作に取りくんだ白凡・金九(1876~1949)も当然加えるべきだろう[14. なお、これが部分的な目録に過ぎない点は言うまでもない。その上、ここでは思想家の面貌を備えた独立運動家の名前を主に挙げたが、活動家ではなかったが、小説家かつ思想家として、碧初・洪命憙と双璧をなした廉想涉もまた変革的中道主義の先駆者に挙げる上でそん色がないだろう。(安昌浩とともに 廉想涉 を論じた姜敬錫「民族文学の“正伝形成”と3・1運動:未堂のパズル」、李基勲企画『キャンドルの眼で3・1運動を見る』、チャンビ、2019年、206~10頁を参照;初稿は『創作と批評』2018年冬号に収録)。]。

彼らの路線を、現代韓国の政治地形に適用する「変革的中道主義」という用語で表現するのは無意味ではないようだ。日本の植民地体制に対し、改良ではない変革(つまり、独立)を遂行するが、両極端を排除した「正道の中間道」を追求したという点でそうだし、今日の変革的中道主義が植民地時代へと遡るルーツをもつと想起させる点でもそうである。ただ、ここで警戒すべきは、日本の鉄拳統治下で平和的な独立運動が極めて制約された状況で、国内外の武装闘争・暴力闘争を貶める結果になってはいけないという点である。実際、独立運動の路線とその方法はレベルが異なる問題なのだ。伊藤博文を射殺したが、本質的に平和思想家だった安重根をはじめ、義烈団の指導者ながら独立運動で左右合作を推進した若山・金元鳳(1898~1958)も路線としては中道なのは明らかであり、統一戦線運動の重要人物であった [15. 日帝下の統一戦線運動に関する韓国歴史学界で最初の本格的な研究書というべき姜萬吉『朝鮮民族革命党と統一戦線』(初版、和平社、1991年、増補版歴史批評社、2003年;『姜萬吉著作集』第7巻、チャンビ、2018年)は、金元鳳らの朝鮮民族革命党を主に扱った。「1930年代後半以後、わが民族運動戦線が民族の解放をより近づけて展望し、統一戦線論の樹立と統一戦線運動の実践に最善を尽くしたように、1980年代後半以後のわが歴史は民族の平和的・主体的統一をより近づけて展望し、その正しい方法論を樹立し、実践するために身悶えしているとみるべきではないかと思う」(著作集第7巻、11頁)という初版序文の言葉は、今も繰り返すに値する。]。いや、たとえ中道主義を拒否した場合でも――アナーキズムに進んだ友堂・李会榮(1867~1932)と丹齋・申采浩(1880~1936)がすぐ思い浮かぶ――、彼らの献身と貢献を高く評価すべきである。

理論的により興味深い問題は、国内運動と国外運動の望ましい関係がいかにあるべきなのかという点である。もちろん、状況によって異なる答えが出てくるものだが、朝鮮半島の場合、国内運動も国外運動も連合国の勝利に大きく寄与できないまま8・15解放を迎えたので、その問いに答えるには歴史的資料が不十分なわけだ。ただ、省察の方便として推論するなら、変革的中道主義の先駆者が結集して国内外の運動に理念的な指導力を行使する中で、国外の運動も連合国の勝利にもう少し寄与していたなら、解放後の混乱もずっと少なかっただろうし、分断の悲劇も防ぎえたのではなかったか。

現実として、新幹会の解散後は呂運亨の建国同盟がそれなりに一定の組織と勢力を備えており、8・15直後に建国準備委員会と「朝鮮人民共和国」に引き継がれたが、米軍政によって解体された上に夢陽系と共産主義勢力の葛藤により、変革的中道主義路線をまともに確立できなかった。そうした点を考慮すると、島山・安昌浩が円仏教の創始者である少太山・朴重彬(1891~1943)を訪ね、彼の経綸に賛辞を送ったのも、当時理論と勢力を備えたほぼ唯一の国内組織が、少太山率いる仏法研究会(後の円仏教)だったからだろう。

 この出会いについて、円仏教側の記録は経典の一部に残された。

 

安島山が訪ねてきたので、大宗師自ら迎接なさり、民族のために苦労する彼を慰労されると、島山曰く、「私の仕事は舞台が狭く、手腕もまた十分ではないし、民族に大きな利益をもたらすことができず、むしろ私のために官憲に圧迫される同志が少なくないのですが、先生におかれましては仕事の領域が広く、運用される方便も巧みで、国内で同胞大衆に貢献すること大であらせながら、直接にひどい拘束や圧迫をお受けにならないので、先生の力量はまことに見事です」といわれた[16. 『大倧教』実示品45、『円仏教全書』、円仏教出版社、1995年、344頁。安島山側では、当時の記録を残せる情況ではなかったろうと思われ、実際に確認できるものはない。最も古い記録は、ハワイ国民会の機関紙『国民報』の特派員が益山現地を訪問して書いた記事であり(1956年6月20日)、内容は主に少太山の後継者の鼎山・宋奎宗法師から聞いたものとなっている(金ドヒョン「少太山と島山・安昌浩」、円光大学校円仏教思想研究院の共同学術会議資料集『円仏教と独立運動』、2019年2月14日、32~35頁)。]。

 

訪問が実現した1936年2月当時、島山は国内外で有名な58歳の民族指導者であり、少太山は40代半ばの全国的には無名に近い人物だったが、敢えて島山が少太山を訪ねていき、後者は何人もの警察官に監視されている島山を快く出迎えたのは、双方に意味するところがあったからだろう。もしかして、この出来事は「開闢に向けて開かれた開化派」と「開化を受容した開闢派」の象徴的な出会いと言えるかもしれない[17. 白永瑞は、「〔最後に戦争協力団体に変質した天道教教団とは異なり〕東学の開闢論を継承すると同時に、仏教とも結合した仏法研究会(解放後の円仏教の前身)が個人修養と社会変革を同時に遂行しながら、物質開闢(つまり、物質文明時代)に相応する精神開闢を提唱した文明転換運動は、当時の民族宗教の中で二重課題の基準に適うものとして注目すべき価値がある」(前掲文、55頁)と評価する。円仏教に対する私自身の考えは、拙著『文明の大転換と後天開闢』(朴允哲編、モシヌン人々、2017年)に収録された「文明の大転換と宗教の役割」など、そしてこれを英語圏読者のために修正、補完したPaik Nak-chung,“Won-Buddhism and a Great Turning in Civilization”, Cross-Currerents: East Asian History and Culture Review No.22,March 2017, https://cross-currents.berkeley.edu/c-journal/issue-22/paik を参照。]。

ともあれ、3・1後の運動が左右対立で分裂した現実それ自体が、運動の進展に当たる面がなくはなかったが、分裂した運動勢力の「正道の中間道」への再統合が切実だった状況で、「近代の二重課題」という一貫した尺度で、各々の思想と路線を評価することが緊要である [18. 残念ながら、『創作と批評』2019年春号の特集を除いて、最近の3・1運動研究でも二重課題論への関心は依然見つけがたい。特集のうち、林熒澤は白永瑞や李南周とは異なり、二重課題に直接言及していない。だが、趙素昂の三均主義を重視し、特に彼の「資本主義消滅」論を解釈する際、二重課題論的な問題意識に接近する(36頁)。ただ、それを資本主義の受容後の克服という段階論として見るか、または二重課題論として見るか、同文では明らかではないが、趙素昂自身の立場は二重課題論に適合すると思われる。]。これにより、統合の可能性を見出だしやすくなるだけでなく、そうした統合に寄与した人物と運動を正当に評価できるだろうと思う。

 

 

4. キャンドル革命と3・1革命

 

2016~17年の大規模なキャンドル・デモと、それによる韓国社会の変化を果たして革命と呼びうるのかについてまだ合意はない。キャンドル革命は「古典的」な革命概念には程遠いのはもちろん、大韓民国の歴史の中でも、4・19や6月抗争のように、政権交代を越えて新たな憲法体制を直ちに生みだした事件にも及ばない面がある[19. それでも、“キャンドル革命”と名づけるのが正しいという主張を、私は「“キャンドル”の新しい社会づくりと南北関係」、『創作と批評』2017年春号;「“キャンドル”は朝鮮半島の平和をつくれるか」、チャンビ週刊論評2017年9月13日;「キャンドル革命とキャンドル政権」、チャンビ週刊論評2017年12月28日などで表明してきた。英語圏読者のために書いた文章としては Nak-chung Paik,“South Korea’s Candlelight Revolution and the Future of the Korean Peninsula”,The Asia-Pacific Journal Vol.16 No.3(2018.12.1. https://apjjf.org/2018/23/Paik.html)を参照。前述した『創作と批評』の特集で、白永瑞と李南周はともに“キャンドル”を革命と呼ぶのに同意し、それぞれ意味のある後続論議を展開する(各論文の58~59頁、62頁、67頁)。]。

3・1と比べてどうか。3・1が総督府の支配を終わらせられなかったのに比べ、キャンドルは現職大統領を退陣させ、ある意味では、大韓民国で初めて民主的憲政を実行する道を開いた。その反面、前に指摘したように、3・1が全民族的な運動だったのに比べてキャンドル抗争は――4・19や6・10と同様に――南に局限された事件という点で、依然3・1のレベルに達していない面がある。

ところで、キャンドル・デモを中心に展開されたキャンドル抗争が、キャンドル革命の第1期に当たると把握すれば、朝鮮半島の南北を一緒にして分断体制に抜本的な変化をもたらす、より革命的で「全民族的」な変化を達成する可能性が開かれている局面である。2018年以来、南北関係の劇的な進展と同年6月の朝・米和解の始まりは、「全民族的抗争」とは異なるレベルでの汎朝鮮半島的な変化を期待するものである。そう見ると、3・1が「近代適応の本格的な出発」と認められるのも、たとえ独立した近代国家の建設は亡命した臨時政府の形態以外に達成できなかったが、住民生活の全域にわたって本質的な変化が起こり、民衆の主体的力量が大いに向上したからだろう。1968年フランスの五月蜂起を含めて世界各地で展開された反体制運動が、国家権力の奪取に成功した例は珍しくても「68年革命」とよばれるのは、やはり思想・文化の根本的な変化と民衆的な主体力量の増大をもたらしたからである。

ここに3・1運動が標榜し、大きく見て実行もした非暴力抗争の方式も、単に高邁な理想の発露だったとか、現実的な弱点だったという視角とは別個にみる余地がある。21世紀になって振り返れば、世界革命史におけるより大きな変化の始まり、金鍾曄がキャンドル革命に関して語ったように、「革命にも自らに対するユートピアが」あり、「暴力のない、お祭り的な革命」[20. 金鍾曄「キャンドル革命に対するいくつかの断想」『分断体制と87年体制』、チャンビ、2017年、469頁。]に対する夢があり、その夢の現実化が始まった大実験だったとみることもできる。直接的な影響関係にはないが、3・1とガンディーの不服従運動の初期は同時代の現象だったし、中国の5・4運動よりはむしろ先にあり、かなりの影響を及ぼしたのはよく知られた事実である。

ともあれ、キャンドル抗争により実現した南の政権交代が、南北関係の画期的な改善へと続き、朝鮮半島全域にわたって民衆力量の飛躍的な増大をもたらすなら、これは「革命」の名に値するであろう。そうした面で、キャンドル革命は「韓国の近・現代が 3・1に負った債務」(林熒澤、前掲文36頁)をついに返済するだろう。100年遅れの末に実現される債務履行は、前になかった感受性の広がりと、3・1革命でも展望できなかった地平も切り開くはずである。

感受性の変化はどうしても論説より文学作品を通じてよく表れるが、この問題を長々と論じる場ではない。『創作と批評』2018年冬号の評論「主体の変化とキャンドル革命:最近のいくつかの小説」でそうした論議を展開した韓基煜は、3・1特集を組んだ2019年春号の巻頭で黄貞恩の最近作『ディディの傘』(チャンビ、2019年)に言及する。

 

『ディディの傘』に収録された中編「d」と「何も言う必要がない」で注目すべきは、革命というテーマを扱う特異な方式である。作家特有の新しい革命概念を提示するより、既存の革命運動や革命観をはすかいに眺めるのだ。さらに、その斜めからの視線で見える形や動きを、そのまま述べるよりも叙事化し、批評することで、読者自らが古い世界の制度・情動・思惟に浸潤されない革命概念を再構成するように導く。(「革命は終わらなかった:『ディディの傘』を読んで」、2~3頁)

 

古い世界の制度・情動・思惟に浸潤された、あらゆる反応に対する作家の新鮮 かつ鋭利な批判は、読者の感嘆を醸しだすのに十分である。さらに、1996年の延世大闘争と2014年のセウォル号事件などを、2016~17年のキャンドル抗争と一つの叙事の中に組みこみ、キャンドル革命が大衆の累積された学習の結果であることを示すと同時に、その学習過程を通じて学んだキャンドル市民の平和的デモに対する渇望には、痛みの経験が含まれていることを鋭く指摘する。

 

誰かが傷つく光景を、私たちはあまりにも見た。人々はそのように語りたくはなかったか。誰も傷つけるな。私たちはもうあまりにも傷ついたと。(『ディディの傘』、309頁)

 

ただ、憲法裁判所の弾劾判決で革命が到来したとか、完成されたという、「人々の考え」に疑問を提起することは、それ自体必要ながら、それだけでキャンドル革命に十分に応えるとは言いがたい。「革命が到来したという今を、私はこのように記録する」(317頁)と、作家は末尾近くで語っているが、革命の「到来」と「完成」は区別する必要がある。キャンドル抗争の弾劾達成で革命は「到来」したが、革命の「完成」に向けた、長い旅程はようやく始まったという考えさえ生じる場であり、朝鮮半島体制の変革をもたらす革命の進展により、制度・情動・思惟のより根本的な変化を展望し、探索すべきヤマ場である。

国家に関しても既存の国家形態を批判し、国家主義イデオロギーを否定することをこえ、いかなる国家機構を創意的に建設し、キャンドル革命を完成すべきかを悩まねばならない。3・1の念願だった単一型国民国家(unitary nation-state)の樹立は、キャンドル革命後も可能ではないだろうし、キャンドル市民が夢見る新しい世の中の基準としては、むしろ古い観念でありうる。完全な統一よりも漸進的・段階的・創意的な朝鮮半島の再統合案が強く望まれる時であり、非核化という懸案自体が南北に現存する二つの国家の相互承認と平和共存を前提とし、1991年南北基本合意書の表現通り、「双方間の関係が国と国の間の関係ではない、統一を志向する過程で暫定的に形成される特殊関係ということを認め」る方式を要求している。これは、東西ドイツが1972年に採択した基本条約にもなかった条項であり、南北がともに国連に加盟した後に実現した合意という点で、国家連合を推進する極めて特異で、創意的な方案なのである。

その後、6・15共同宣言(2000年)と10・4宣言(2007年)で、その作業がより具体化されたが、李明博・朴槿恵時代に停滞と逆行を見せた。だが、キャンドル抗争と板門店宣言(2018年4月27日)と9月平壌宣言で再開され、大きな流れとなって現在紆余曲折を経ながら本格化している。私は南北連合、それも「低い段階の南北連合」が実現しても不可逆的な朝鮮半島の再統合の「第1段階」に当たると主張してきた [21. 最近の文章では、拙稿「いかなる南北連合をつくるのか」、『創作と批評』2018年秋号と、前述した“South Korea’s Candlelight Revolution and the Future of the Korean Peninsula”,特にその最終節“Toward an Association of Korean States”を参照。国家主義と国家改造の問題に関して、拙稿「国家主義の克服と朝鮮半島での国家改造作業」、『創作と批評』2011年春号を参照。]。これは、朝鮮半島式の国づくりの当面する次の段階になるだろうし、前号の特集で、李南周は南北連合の重要性を次のように敷衍する。

 

南北連合は、二つの異なるレベルの属性を内包する。一つは、南北が国家の資格で国際社会の活動に参加することと、内部に対する主権的統治権を相互に認める国家間関係としての属性である。これとともに、民族共同体意識を基礎に両者の再統合を追求する特殊な関係である。特殊関係的な属性は、単に民族統一という当為性から始まるのではない。南北分断が招いた相互敵対と、その再生産を裏で支える情緒と社会的基礎を清算していく作業は、分離の法的承認ではなく、多様な領域における和解と協力の過程を必要とする。そして、こうした進展がなければ、国家間関係の規範に基づく関係の安定性も常に脅かされざるをえない。(前掲文、73~74頁)

 

近代世界に国家連合の先例は少なくないが、今この地で進行する、こうした南北連合の建設過程こそ、「古い世界の制度・情動・思惟に浸潤されない」思考と行動、そして感受性を要求しているのではなかろうか。

国家連合は国造りの最終段階ではないだろう。まして、「低い段階の連合」という時は、より高い段階の連合の存在を想定したものであり、とにかくその方向で持続される国造りのエネルギーを、その時点で止めるのも簡単ではなかろう。ただ、完全な統一国家の建設を最終目標としてあらかじめ設定する必要はない。漸進的・段階的な進展は現実的な条件から不可避でもあるが、そうした進展こそ、民衆参加の幅を最大限に広げる道であり、それによって拡大する民衆の力量と知恵は、何が後天開闢時代の朝鮮半島に最も適したレベルの政治共同体なのかを探しだすもので、3・1革命をも乗りこえる世界史的な成果を達成するだろう。

 

(翻訳:青柳純一)

 

 

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