창작과 비평

[対話] 中国革命、歴史なのか、現在なのか / 李南周·賀照田

 

創作と批評 185号(2019年 秋)目次

 

李南周(イ・ナムジュ)聖公会大中国学科教授、本誌編集委員。

 

賀照田(He Zhao-tian)中国社会科学院文化研究所副研究員。『人間思想』中国版編集長。

 

 

李南周(司会) この10月1日は中華人民共和国の建国70周年記念日です。そのような意味で今年は中国革命70周年と言えます。また中国の5・4運動と韓国の3・1運動も100周年を迎えました。2016年末から韓国ではキャンドル抗争が進みましたが、この抗争を「革命」と規定する声も多くあります。今、韓国で「革命」が、熱い話題ではないものの、相変らず重要な議題として議論されています。中国革命の歴史的実践をふりかえる意義があるのもこのような理由からです。賀照田先生は、中国革命や社会主義実践の歴史について多方面で研究を進め、斬新な見解を提示してきました。今日、この「対話」のコーナーを通じて、過去の「中国革命」と現在の「中国の実践」をつなぐものを発見し、韓国の革命言説に新たな話題を投じることを期待します。まず韓国の読者のために研究分野や関心領域を簡単にご紹介下さい。

賀照田 大切な機会を下さって感謝します。私は1985年に北京大学に入学しましたが、当時中国の主要大学の青年知識人らには、中国を理解するそれなりの歴史的背景がありました。1976年に毛沢東が死亡し、1977年8月に無産階級の文化大革命(以下「文革」)が中国共産党(以下「中共」)中央によって公式に終結が宣言されたということです。1978年末の中国は、「革命」でなく「現代化建設」を中心にする歴史の新たな時期に入ります。この転換期の中心には「社会主義の自己改善」がありました。当時、中共は既存の社会主義認識に問題があるから、もう少し正しく、中国にとってよりふさわしい社会主義を模索する必要があると考えました。このような雰囲気は1980年代中盤から大きく変わりましたが、特に青年知識人らの間で現代化を楽観的に展望する雰囲気が広がりました。経済的には「市場経済」であり、政治的には「民主政治」であり、文化と社会建設面では「個人」を重視すれば、中国が肯定的な方向で発展するだろうという認識でした。そして自ら「市場経済」「民主政治」「個人重視」に対してきちんと理解していると考えました。革命に対する彼らの態度は1989年の民主運動を経て変わります。1989年以前には中国革命を否定せず、革命の発生は必要だと認識しました。中共を変化させ現代化の理解を高めることが重点でしたし、多くの青年たちが党を改造するという希望を抱いて入党しました。ですが、1989年以降、状況が変わりました。民主運動に対する抑圧のために、青年知識人らが中国革命を否定し、革命などなければよかったと思い始めたんです。私も大学の時このような思潮の影響を受け、1990年代中盤までこのような傾向を基本的に受け入れました。1990年代後半、中国社会に現出した諸問題を目撃し、これらが相当部分、さきほど言及した知識界の認識と関連していると考えました。このような理由から、知識界の主流思潮が形成された歴史と認識について研究し、これを通じてさらに幅広く歴史と現実を見ようと考えてきました。

李南周 革命実践をどう理解するのかが、現在の中国知識人らの思惟に大きな影響を及ぼすという点があらためて確認できます。現在の中国はきわめて重要な時期にあります。一方では40年余りの改革開放の経験に基づいて、21世紀中葉の「社会主義現代化強国」を建設する目標を提起し、他の一方では米中関係において戦略的競争という新たな局面に入りました。この2つの挑戦は、互いに異なる問題として見えますが、実は密接な関連があります。特に最近、アメリカが中国の経済能力をアメリカの覇権に対する脅威とみなし、中国に対して不公正な貿易慣行を是正するよう要求していますが、このような要求は、中国の核心的な経済戦略だけでなく、現在の国家ガバナンス体系の核心、すなわち経済領域における党の指導と統制も問題にしています。西側国家は、中共が国家に対する指導を強化する傾向を、いわゆる「普遍的価値に対する挑戦」とみなし、アメリカはこれを、中国の立場を弱めるのに積極的に活用しています。したがって、中国がこの挑戦に効果的に対処するためには、「中国はどこに行くのか」という問題をうまく処理しなければなりません。そのためには、中国革命が現在と未来に対して持つ含意をきちんと把握する必要があります。ですが、おっしゃったように、改革開放の時期に入って、「告別革命」「後革命」、はなはだしくは「反革命」など、中国が革命と断絶すべきという強烈な熱望が込められた言説が表出しました。このような主張が過度に歴史を単純に解釈するという批判は、先生の研究を含めてすでに多く出ています。中国は、中国革命を導いた中共が相変らず唯一の政府・与党で、今でも党や革命や共産主義に深い信頼があった毛沢東時代との間で継承関係を維持しています。このような事実を見るならば、中国の現在と未来を、中国の革命の歴史と断絶させたり対立させたりすることは困難です。

 

改革開放以降、中国革命はどう認識されるのか

 

李南周 まず提起したい問題は、革開放以降の中国革命に対する認識です。私が理解するところでは、中共の過去の革命の歴史に対する評価はこうなるでしょう。最初に、毛沢東が中共の指導権を確保して以降、中共は正しい道を歩き始め、1956年まで中共の路線は正しかった。第2に、1957年以降、反右派闘争の中で「拡大化の誤謬」を犯した後に左傾冒険主義的な傾向が順次党内で主導的地位を占め、最終的に文革の勃発につながった。第3に、文革は徹底的に誤ったもので歴史的な災難であった。 この3つはすべて論議の対象になります。改革開放以降、知識人らは最初の論点に対して持続的に挑戦しました。すなわち、中共の1956年以降の路線を批判しただけでなく、中共が基本的に正しかったと主張する1956年以前の路線や実践も否定的に評価しました。一歩進んで建国以前の中共の実践を問題にしました。たとえば文革の災難は一部の野心家が陰謀活動を行った結果でなく、1920~30年代の中共の指導思想や実践、特に整風運動(1940年代初期に「党風」を改造するために繰り広げられた党内政治運動。中共が毛沢東思想を指導思想として確立する契機となり、初期には苛酷な粛清があった)を含む各種の粛清運動において、その兆しを見せたという主張もありました。このように見るならば、中国革命自体が問題だったということになり、改革開放は革命から抜け出す過程にならざるを得ません。李沢厚が書いた「啓蒙と救国の二重変奏」がこのような流れに属し、このような議論の拡散にも大きな役割を果たしました。反面、先生は、1949年以前の中共の革命活動を肯定的に評価する「啓蒙と革命の二重変奏」(『現代中国の思想的苦境』(イム・ウギョン訳)創作と批評社、2018)を書かれたたことがあります。

賀照田 まず、なぜ今でも真剣に革命を理解しようとする強い動力が、私の中にあるのかという問題から話したいと思います。そうすれば革命に対する理解と結びつけて、現在の中国の現実を認識することができます。歴史の時期を分ける一般的な区分によれば、改革開放はすでに40年間進められ、きわめて大きな成果を上げました。しかし、これはそれ以前の中国が蓄積したものを消耗して成し遂げた成果です。ある統計によれば、1990年には1%に過ぎなかった心理的病いを持った中国人の比率が、今は17%に達しているといいます。このような状況がずっと続けば、中国の高度成長を支えた中国の「人」の状況が大きく変わっていることにみな気付くでしょう。とすれば、「人」の問題をどう考えるべきでしょうか。1980年代の主流的な理解の方式によれば、「個人権」に対する強調と保障が不充分だからと帰結されるでしょう。もちろんこのような問題は相変らずありますが、1980年代と比べて個人の権利空間は大きく拡大し、かなり認められています。したがって「人」の問題を個人の権利問題としてのみ見てはならず、むしろ1950年代の初中盤の時期に、大多数の人々の心が充実していて安らかだったという事実を研究する必要があります。このような視野が欠如しているから、中国で人に対する思惟は伝統的でもので、特に儒家の伝統に戻るべきとされる現象が広がっています。しかし、儒家の伝統は、伝統的な経済・政治・社会制度の中で作動したもので、現代の制度の中で過去のような役割を果たすことはできません。40~50年代は、この伝統社会を現代社会へと切り替える重要な時期であり、現代に向けた追求や人々の状態の面で、革命は突出した成果を上げました。ここには伝統に対する応答、伝統の発展などに関する重要な経験も含まれます。単に革命を否定する既存の思潮は革命に含まれており、今日の中国にもきわめて重要なこと、すなわち「人」をどう認識し、伝統をどう切り替えるのかに関する経験と思想の資源を正しく見ることができません。中国の自由主義者は、立憲民主制を実現することで中国政治の問題が解決できると考えます。しかし、世界の民主制度は、今日すでにさまざまな挑戦に直面しています。民主制を施行する国の政治家たちが、その最も重要な制度である選挙の過程で、民意を操作する多様な技術を作り出していることが問題です。このような技術はかなり巧妙になりましたが、民主制を信奉する人々が、民主の価値を実現できる実践としてこれに対応できないならば、民主制度は副作用の方が大きいでしょう。中国に適用する時はより大きな問題があります。中共はすでに狭小だった選挙の空間をさらに縮小させ、社会的権利や言論空間もさらに減らしていっています。これは中国社会の政治的な成熟を阻害します。最低限の成熟度なき状況において民主制度と不可分の選挙を実施すれば、社会が政治家たちに引きずられて行くでしょうし、これは災難になりえます。このような問題意識を抱いて、中国革命の当時に豊富に蓄積された群衆路線(中国で「群衆」とは「人民」あるいは「人民大衆」と同じ意味だが、党員や幹部でない人民を指すこともある。群衆路線における「群衆」は後者にあたる。大衆路線と類似の概念)の経験と思惟に注目するならば、社会があまり十分に理想的でない状況で、理想を持った政治勢力が社会と積極的に深く相互作用して社会参加を促し、民主の真の意味を実現する政治的な努力にとって重要な参照の資源になりえます。ですが、中国革命を否定してしまえば、このような過去の肯定的な経験を見ることができません。その結果、歴史に対する深い理解も困難になり、現代中国が直面する問題を考え、未来の方向を設定する際にも否定的な影響を与えます。

 

群衆路線の経験と思惟が重要な理由

 

李南周 韓国でも「代議民主」の限界に対する認識が広がっています。韓国のキャンドル革命は、市民の直接行動を通じて代議民主の限界を克服しようとした試みと考えることができます。しかし、大規模な直接行動の局面が過ぎた後、市民が政治過程においていかなる役割を果たすかは相変らず難しい問題です。このような点が、私が「群衆路線」に注目した背景です。革命を否定する思潮の中には、民主と革命を対立させるだけでなく、革命のような急進的変革が社会に否定的であると認識する傾向もあります。彼らは戊戌政変(1898)でも、洋務運動(1861~95)のような上からの改革が、革命よりもさらに成功的だったと主張したりもします。これは民主という価値だけでなく、社会改革の効用性という側面で革命を否定したものです。

賀照田 私は18世紀中盤以降の中国の政治史・思想史にも関心があります。清朝を主導した皇権、満洲族・蒙古族の貴族、漢族の士大夫や官僚が、なぜ王朝国家を安定的かつ能力ある現代国家に変えることができなかったか、中国が安定的かつ能力ある現代国家になるのは、なぜ困難なのかなどに悩んでいます。このことを研究する時、思惟の重点を、上層主導の改良がいいのか、あるいは革命がいいのかに置いてはいけないと思います。それよりは、改良が失敗した理由は何であり、革命が成功した原因は何か、これからどのような経験や教訓を得るべきかを探求しなければなりません。中国の伝統王朝から現代国家への転換は、上層エリートによって主に導かれたのではなく、エリート層内で下部に、中国の基層社会により近い位置にあった中共によって主に導かれたので、これについてさらに真剣な研究と思考が必要です。これは日本やトルコの経験とは異なります。また、中共の革命史を真剣に見てみれば、中共の事業方式が変革の対象とした開明人士を含めて、多様な社会階層によってよく受容されていたことが分かります。中共が最も成功的だった時は、理論を実際と結びつけて群衆路線もきちんと実行していた時期です。すなわち、中国社会が実際に直面した諸問題を効果的に解決し、社会の大多数の人々の情緒や価値観などとよく結びついた時期です。重点は、革命なのか改良なのか、急進なのか保守なのか、上層エリートが主導するのか社会革命を動員するのかなどではなく、現実を正確かつ深く掌握したのか、そして問題を解決する過程に、中国人の情緒、価値観などにおいて建設的な向上があったのかです。

李南周 だとすると、中共と群衆との間の成功的な相互作用にはいかなるものがあったのでしょうか。中国の近現代史に関心がある読者ならば、毛沢東の戦略戦術、例をあげれば、根拠地建設、遊撃戦、農村の都市包囲などについてある程度知っているでしょう。しかし、このような政治的策略だけに中共の勝利の原因を見出す見解は多少見方が狭いと思います。群衆路線についての議論が、その理解を深化させる主要なキーワードになりえます。

賀照田 群衆路線の下で中共と群衆間の相互作用の経験を理解するなら、階級意識、階級観点の導入が中国にいかなる意味があったのかについて、まず理解しなければなりません。伝統的な中国は士農工商で区分された四民社会であり、そのなかで士が道、また政治と文化を担当する社会の最も高い位置にありました。中共の階級観念では工人階級が最も先んじた位置にあって、農民、小資産階級、資産階級、地主階級などの順になります。中共の階級観念において、道を重視して私益を抑制しようと考えた「読書人」は、優越的な位置にある「士」に区分されず、無産階級(工人階級)や農民よりも低い位置の資産階級の知識人、地主階級の知識人、あるいは小資産階級などに分類されました。すなわち、読書人でなく無産階級が社会の各階級で最も先んじることになります。これは、無産階級が革命の過程で当然、指導的な位置に立つという意味ではありません。中共が自らを無産階級の先鋒隊と位置づけ、無産階級を代表し指導する資格があると認識しました。事実、中共の核心は読書人で構成されました。伝統的な中国では皇権と結合しなければなりませんでしたが、士大夫が自らに政治的な指導権があると考えました。しかし、革命的な階級言説の下で「士」は自らを無産階級の先鋒隊に転換させずに政治的に優れた地位を占めることができず、工人階級などよりも下に置かれることになります。これは、政治的な責任感を持つ「士」が、レーニン的政党が必要とする職業革命家の基準によって自らを変化させなければならないということを意味します。中国革命の群衆路線もエリートの存在を前提としますが、このエリートは過去のエリートではなく、マルクス-レーニン主義の階級観念の意識や前衛政党の意識の要求によって、「士」の伝統から転換したエリートでした。これは、中国の現代国家への転換の主導にとっても重要な意味があります。1911年に辛亥革命が発生して以降は、皇権を政権と国家制度の基礎とするのではなく、「士」の伝統から転換したレーニン的政党の中共が、既存の「士」が実現できなかった緊密な団結と行動の統一を成し遂げ、自らを政権と国家制度の基礎としたためです。同様に、階級観念意識の導入は、社会の多数を構成する工人、農民、小商人などに対する見解も変化させました。四民のうち、農、工、商は、職業にともなう分類ですが、工人、農民、小商人などは職業や経済資産の状況のみを示すのではなく、彼らの持つ革命的な動力やエネルギー状況に対する評価を含みます。したがって、適切な条件がそろえば、特定の歴史的な責任意識と一定の品格を整えた「革命人」になりうるという意味です。このような階級観念の意識を通じて、中共の核心を構成する読書人は、当時、同様に現代意識や民族の責任感を持った他の部類の読書人と区分されました。彼らは、中国の社会階層はかなり後れており、啓蒙の洗礼を受けてこそ中国の現代にとって有益なことができるという政治観を持っていました。反面、マルクス主義の階級観念によって改造された中共の読書人は、改造以前の自らを革命性という面で、労働階級だけでなく、無産階級の先鋒隊としての資産階級、あるいは小資産階級の知識人よりも低く評価し、現代の革命政治に耐えうる先鋒隊に自らを変化させようと考えました。進んで中国社会の大多数を構成する労働者、農民、小資産階級、特にこのなかでも強い潜在的革命性を持つ労働者と農民の革命性を召還し、彼らを革命の主体に作り上げることを重視しました。このような認識のために、現実の労働者と農民が、中共が考えるようにそれほど強い革命的な動力や資質を示せなくても、彼らに対する革命家の認識が不充分で動員の方式がよくないと考えました。このような認識とこれに基づいた努力のために、中共は中国社会に対して他の政治勢力よりも深く理解することになり、1949年以前に中国社会とよい相互作用をして、動員と組織化を遂行できました。その背後にあったこのような階級観念の含意を理解するならば、群衆路線は、中共が現実問題とこれを解決する実践に対する適切な認識に基づいて、群衆との距離を狭める方法だけでなく、階級観念の意識から直接導き出された認識を相対化する方法であると言えます。すなわち、群衆路線でエリートと群衆を分ける二分法は、実際には階級観念の意識が過度に理想化しうる中国社会の労働者、農民などをまた現実に召還し、自らの実践方法を中国の「人」の現実に基づくように作り上げました。

 

1950年代の社会主義改造と二重課題論

 

李南周 興味深い説明です。事実、中共もはじめは農民を後れた階級と見ましたが、1930年に入ってからその認識を変えました。もちろんその過程はかなり複雑でしたが、毛沢東が決定的な役割を果たしました。ですが、中国の自由主義思潮のなかでは、農民を後れた階級と見る認識が根深く、その点こそが、この思潮が中国の現実に定着できない主要な原因となりました。ですが、中共は、その後の社会主義の実践過程でさまざまな過ちを犯し、これに対する評価は今でもずっと論争を触発しています。例をあげれば、改革開放の初期には新民主主義から社会主義へと移行する段階に対する関心が高かったと思います。1930年代後半、毛沢東は中国革命の性格を、資産階級が主導する民主革命や社会主義革命ではなく、無産階級とその先鋒隊の中共が導く民主革命であると規定し、これを「新民主主義革命」としました。資産階級の消滅が目標ではなく、帝国主義、官僚資本主義、封建主義が革命の対象であったために、民族資本家を連合の対象とみなしました。建国以降も中共は新民主主義で新たな国家の性格を規定し、相当期間これを維持すると公言しました。新民主主義体制の下では資本主義的な生産が一定の範囲内で成り立つようにしました。ですが、建国以降まもなく、社会主義へと移行する問題をめぐって論争が始まり、中央政治にも影響を及ぼしました。中国内でナンバー2だった劉少奇の「搾取有功論」が代表的な事例ですが、彼は天津で、資本家を促すために「搾取も功になる」と言って毛沢東の不満を買い、文革時に紅衛兵らによって批判されました。1953年に「過渡期総路線」を発表して以降は、社会主義改造が本格的に進められ、1956年の中共第8次全国代表大会で、社会主義改造の完成が宣言されました。この過程、特に農村集団化はソ連に比べてはるかに順調に進み、これは当時、毛沢東の人望を大きく高めました。ですが、改革開放が始まって以降、知識界はもちろんのこと、中共内部でも、社会主義への移行があまりに早急であったという主張が提起されました。社会主義の改造過程が平和的で民主的であったという中共の主張とは異なり、高圧的に進められたという批判も一部で提起されました。このような議論も2通りに分けることができます。1つは、社会主義という方向は正しかったが、改造があまりに早く進められたという主張であり、もう1つは、当時の条件の下で社会主義への移行が不必要だったという主張です。後者の場合、社会主義の価値を否定する含意が強く、中共が受け入れにくい解釈ですが、前者は党内部でもかなり支持を受けました。これは、生産力が担保されなかった社会主義への移行がさまざまな問題を生んだことを自ら認めたことの傍証になります。したがって、生産力の向上が、中国の社会主義が直面した課題として浮上し、改革開放の時も経済発展が基本路線になりました。私は白楽晴が提起した「近代適応と克服の二重課題」という見解で、この転換を評価したことがあります。ここで近代は資本主義世界体制を意味し、この点で二重課題論はウォーラーステイン(I. Wallerstein)の世界体制論を1つの理論的背景としています。ウォーラーステインは1970年代に、すでに社会主義諸国も資本主義世界体制の一部だから、資本主義世界体制が克服される以前に、一国次元で行われる資本主義克服の試みは達成困難であると主張しました。反面、二重課題論は、このような客観的現実があっても一国での変革運動が無意味ではなく、むしろ世界的な変革運動に新たな可能性を提供しうると考えました。換言すれば、資本主義世界体制を克服しようとする変革運動は、近代に適応すると同時に近代を克服するという同時的課題として、変革運動を追求すべきだということです。現代中国のさまざまな革命思想でも、このような思惟方式を簡単に発見でき、実際にこの2つの課題の間の緊張をよく維持した時にいい結果が出ることもありました。1949年の新民主主義革命の成功もこのような側面で評価できます。二重課題論的な視点で見れば、改革開放初期の理論転換は大きな欠陥を内包しています。一定の期間内では経済発展を一つの中心として社会主義的な実践を追求できるでしょうが、中・長期的に見れば、解決困難なさまざまな社会問題を生むことになります。実際に改革開放が深刻化するほど、このような問題がさらに明確になりました。

賀照田 この主題についての先生の論文(「新民主主義的な歴史経験および社会主義の初級段階の理論の含意」『人間思想』第3集、2015)が適切に指摘したように、当時は資本主義近代性(「現代性」)の克服と関連して、すでに社会主義現代化というかなり確実な代案がありました。毛沢東も資本主義が中国を発展させられないというのではなく、社会主義と比較した時、「早くなく」「人と社会にきわめて多くの苦痛を与える」と語りました。これは当時、中共内での普遍的な認識でした。1950年代の中共の認識は文革後とは異なりました。1980年代の普遍的認識は、社会主義が人と社会にはいいが、社会主義計画経済が資本主義市場経済よりも経済発展にはよくないというものに変わりました。もちろん1989年以降に他の変化がありました。経済的に資本主義的な市場化が社会主義計画経済よりも優れているだけでなく、社会主義は人と社会価値の方面で資本主義な立憲民主に達し得ないという認識が広がったのです。換言すれば、1950年代に中共が積極的に社会主義改造を推進した時と、1980年代の人々が社会主義改造に対して評価する時の時代的脈絡が異なっていたわけです。1つさらに特別に補充するならば、社会主義の改造時期を研究する時、それが必要だったか、必要でもそれほど急に進めざるを得なかったのかなどを議論するよりは、当時、社会主義改造がどうしてそんなに早く完成されえたのか、それが歴史にいかなる影響を与えたのかを研究する方がより重要です。農業の社会主義改造を例にあげれば、1955年末から1956年上半期の改造過程に決定的に作用したのは「合作化問題を論じる」(1955.7.31演説。8月に修正後、省・市・自治区の党委員会に通達され、追加修正を経て10月17日『人民日報』に発表)という毛沢東の演説と、「中国共産党第7期中央委員会・6次全体会議の農業合作化問題に関する決議」(1955.10.11)でした。ですが、この2つの文献の構想と要求は、集団化を1956年に完成しようというものではありませんでした。したがって、なぜそのように集団化が早く進んだのか、そして集団化の早い進展による短期的効果(食糧生産増加)が中共にいかなる影響を与えたのかなどの問題を見るべきです。なぜなら、社会主義改造を順調に完成して以降、中国はきわめて大きな後禍を招いた「大躍進」時期に入り、この時期には中共が最も強調した伝統、すなわち理論と実際の結びつき、および群衆路線に背反する事態が出現したからです。それ以前の中共の事業方式は、特定段階で早い発展を経ても、その後、一定期間、収縮・整頓・消化の過程が伴いました。ですが、1958年1月、毛沢東の「工作方法60条」(草案)では「私たちの革命は戦争と同じで、一つの戦闘で勝利して以降、すぐに新たな任務を提出しなければならない。そうしてこそ、幹部と群衆に常に充実した革命的情熱を持たせ、傲慢な情緒を減らすことができる。傲慢になろうにもそのような時間がない。すべての人の心が新たな任務の完成に向かうからである」のような形で「継続革命」〔「不断革命」〕を強調します。このような認識の出現をどのように理解するかが、改造の速度を判断することよりも歴史的に有効だと思います。

李南周 当時、中共指導部は二重課題的な認識を持つことが困難であったという点も明確にする必要があります。事実、二重課題論も、1980年代を経て、資本主義世界体制を越えることの複雑性を明確に感知し、このような視野を歴史に適用する過程のなかで形成されました。1950年代の歴史的状況で、中共指導者らが社会主義建設を過度に楽観したのは、ある意味では理解できることです。彼らが見るところ、よりよいモデル、すなわち「ソ連モデル」があるのに、あえて資本主義という迂迴路を歩む必要がなかったわけですから。これとともにさらに思うのは、さきほど提起したお話しに対する1つの答えにもなりますが、問題が単に指導部だけにあったわけではないという点です。当時、中国の群衆も社会主義建設に対してとても大きな期待を持っていました。ですが、中国の土地は人口に比べてあまりにも少なく、土地を分配して以降も経済状況が根本的に改善されにくい場合が多かったと思います。一部改善されたのですが、革命以降、大きな期待を抱いた農民たちを満足させることは困難でした。このような状況で農民は、集団化が生産力を高め、彼らの生活を改善するだろうという期待のために、きわめて積極的な態度を示しました。大躍進までの変化は、農民らのこのような熱意と指導部との間の相互作用の結果と見ることができます。ここで建国以降、社会主義を建設する時期に、群衆の状況が変化したという問題がありました。これが建国前と1950年代の初期に肯定的な作用を果たした群衆路線が、社会主義建設の過程で期待に反する結果を生んだ原因の1つでした。

 

中国の社会主義実践における群衆路線の問題

 

賀照田 私は「啓蒙と革命の二重変奏」で「中共が社会を認識し政治感覚を構築するのに、きわめて有力な方法を発展させた」と主張しました。このことを通じて、1930年代後半から中国社会に奥深く浸透することに驚くほど成功しました。そうすると同時に、社会の中で共産党員、解放軍のような革命の主軸となる力量を作り出しました。これは自らを拡張していく過程でした。1952年までに国家建設を基本的に完了して以降、社会と群衆は以前と変わりました。特に社会に比べてはるかに強化された共産党と国家の前で、大多数の群衆は共産党が期待する形で自らを表現し、革命以前のように実際の姿の通りに自らを表現することが困難になりました。その結果、中共が現実を間違って理解させることもありました。社会主義改造にいたって状況はさらに複雑になりました。少し前におっしゃいましたが、1950年代に対する研究で、多くの群衆が集団化に大きな期待をかけたことを明らかに確認できます。先に当時のソ連の成功的な側面だけ見て、同じ方法でソ連ほどの成功が収められると考えました。中国は当時、1人あたりの土地面積が小さかっただけでなく、その土地がかなり分散していて、必要なだけ水を供給することが困難でした。集団化以降、土地を合わせて整理して水利事業も進めました。南方の地域では過去に米作農業が困難だったところにも稲が植えられるようになり、一毛作だけだったところで二毛作が可能になりました。当時、中共は、重工業を中心にする工業発展の速度に対しては過度に楽観視しました。これに伴って、集団化の成立以降、工業化はその利益を早く全体の農村に広め、農民の積極性をより高められるだろうと考えました。このような要因によって、農民は集団化をさらに積極的に想像することになりました。多くの事例で当時重要だった2つの異なる要素を発見することができます。1つは、中共が農村で成功的に事業を行い、多くの農民に共産党は無謬だという信頼があったという点です。2つ目は、以前、共産党と交流した経験のために、農民の中に共産党の要求に従うべきだという考えがあったということです。先に従うほど「先進分子」となり、さらに認められました。このようにさまざまな方面の要素と心理のために、農民が農業の社会主義改造の過程と対立することなく、これに従うようになりました。

李南周 社会主義の実践過程で大きな問題を生んだ大躍進の時期にも群衆を強調しました。毛沢東もやはり、下から上がってくる報告に偽りが多いという点を意識しましたが、彼は群衆の積極性に冷水を浴びせることはしないという態度を取りました。このように過去の中国は群衆の中に入って実際を発見して問題を解決してきましたが、今はそのような道が途切れているようです。

賀照田 その問題が、群衆路線に関する論文で私が答えを探そうと思ったことです。1945年の中共第7次全国代表大会で、毛沢東は「理論と実際の結び付き」「群衆路線」「批判と自己批判」などを中共の三大優秀作風としてあげました。その後は理論と実際の結び付きが群衆路線という枠組のなかで理解され、群衆路線をきちんと貫徹すれば、自ずから解決される問題であると考えました。大躍進の中で、表面的には相変らず群衆路線を強調しましたが、理論が実際から遠ざかり、群衆路線は理論と実際の結び付きを促進できませんでした。なぜこのような現象が起こったのかについては、多様な側面で解釈が可能ですが、何より重要なのは、当時の社会の雰囲気と政治的な現実でした。自らの考えをありのままに語ることが困難になった反面、中共の期待通りに動けば恩恵が伴いました。したがって、群衆の意見は実際の理解に役に立たないだけでなく、実際を間違って理解させることもあります。このような状況において、慣習的な方式で群衆路線にもたれて実際との結び付きを試みるならば、むしろ、国家を実際から逸脱させて狂的な路線に導く結果を招くことになります。

李南周 群衆路線について書かれた論文に、群衆路線と群衆運動の両者の関係をきちんと処理すべきだという主張がありました。大躍進から文革まで、一種の群衆路線から逸脱した群衆運動であるという問題があったと総括できます。

賀照田 そうですね。その論文で、以降の中共指導者らが大躍進に対していかなる評価を下すのか見てみましたが、強調するところが少しずつ違いました。鄧小平は、大躍進は群衆運動であって正しい群衆路線ではなく、きちんと発展しようとするならば、真の群衆路線に帰るべきだと総評しました。ですが、当時、毛沢東は他の方式による分析に引きずられました。大躍進の時期に大規模な餓死が発生した原因は、相変らず階級の敵が、多くの基層の権力を掌握したためだという評価でした。これは新民主主義革命が解決しようとしていた問題がまだきちんと解決されておらず、これに対する補完が必要で、階級闘争が続けられるべきだという意味でした。これをもって階級闘争を人々の意識と政治実践を構築する方法として作り上げていくことによって、中国社会が修正主義を克服する体質を備えることとなり、社会主義の道を動揺せずに進むことに資するだろうという考えを固めることになったのです。このような認識が、毛沢東が鄧小平のように、群衆路線と群衆運動を区分して真の群衆路線に戻る選択をせず、さらに大規模な文革的な群衆運動を選択した理由でした。

李南周 このような議論は大変重要ですが、1990年に入って、いわゆる「新左派」たちは改革開放以前の社会主義実践を肯定的に評価する歴史解釈を出しました。既存のかなり単純な「告別革命論」式の歴史解釈を矯正する効果があったと思います。ですが、歴史的実践は複雑で、成功的な面と失敗の側面が互いに交差するものですが、このような問題に真剣に取り組まずに、一部の概念をそのまま肯定して正当化する点が不満でした。彼らも群衆路線を重視しましたが、群衆路線を前面にかかげながら、発生した諸問題に対して深く議論せず、群衆路線をそのまま承認するのもそのような事例の1つです。新左派の歴史に対する評価をさらに見てみると、文革でも類似の問題が見られます。文革の中に多くの問題があったとして中国革命全体を否定するのは問題があります。だからといって、このような問題を無視するのも同様に問題です。問題の諸原因を深く分析し、その諸原因を解決できる処方を探す方が重要です。このような作業がないために、新左派は文革を美化するという批判を招いています。今日、詳しく議論することは困難ですが、文革に対するこれまでの議論のうち、重要なのに粗雑に扱われた問題があれば、さらに語ってみたいと思います。

賀照田 文革と関連して討論する問題はきわめて多いと思います。私が講演や授業中にそのうちのいくつかを分析してみました。ですが、今日、私が強調したいことは、社会主義の「新しい人」(「新人」)作り出そうとした実践です。これもまた文革の発生と関係があります。文革以降、比較的流行した毛沢東に対する批判は、経済建設に集中する時期に政治を突出的に強調したという点です。しかし歴史を真剣に見るならば、1960年に林彪が軍隊で政治を特別に強調した事業方式を、真剣に考えてみる必要があるという点が発見できます。私はこのような脈絡で、雷鋒の事例を分析しました。軍隊内で林彪の実践は毛沢東の関心を引きましたが、彼は林彪が政治を特別に強調する方法を通じて、「社会主義の新しい人作り」と「社会主義建設」を結び付ける方法を見出し、これを全国的に広めるべきだと考えました。ですが、林彪などが実際にやったことを叙述する方式が、毛沢東と文革急進派らを誤って導き、文革にも大きな影響を与えました。

李南周 林彪の自らの経験に対する整理にどのような誤りがあったんですか?

賀照田 長い時間をかけて、1960年代に『解放軍報』と関連した資料を見ることで理解できたのですが、林彪が1960年代に軍隊内で経験した成功は、実質的な面を掌握することが重要でした。部隊の幹部が、兵士たちがある問題に対して不安に思う時、適時にこれを発見して効果的に対応する適切な方法を見出すよう要求しました。ある意味でこれは群衆路線の実践を「知心」に到達させることです。しかし、林彪などが自らの経験を叙述する時、当時の党中央が強調する階級闘争の政治を特別に重視して、すべての人々が毛沢東思想を熱心に学ぶことによって成果を上げたと強調しました。文革は中国を毛沢東思想の学校にするという目標を掲げましたが、この目標の背後に林彪などの叙述方式が作用しました。林彪も確かに毛沢東思想の学習・政治重視をずっと強調しましたが、実際の事業はこのような主張と群衆路線を創造的に結び付けて運営しました。文革急進派はこのうち前者だけ理解し、後者の側面は理解できませんでした。農業の事例を一つあげれば、中共の「農業は大寨(中国山西省の山村の村で農業開発の模範村)の経験に学べ」という宣伝と関連した最初の報道は、大寨の成功が階級闘争によって到達したという点を強調しませんでした。幹部たちが生産労働において一般農民より率先して犠牲の精神を示したこと、支部の党書記の陳永貴が農民を動員・組織して適切に人事措置した突出した能力、そしてこれを当時の生産条件と効果的に結び付けたことなどが成功の要因として総括されました。ですが、順次、その成功が主流政治の要求によって、階級闘争の方式で生産を発展させたという叙述に変化しました。しかし、これは彼らが成功を収めた実際方式とは距離があると思います。1960~70年代の中国には研究したり思惟すべきさまざまな創造的経験がありますが、問題は、このような経験が当時きちんと表現されず、相当部分、急進的な政治論理に適合するように叙述されたということです。

李南周 これは中国だけでなく対外的にも否定的な影響を与えました。当時、外部世界の左派も中国革命に大きな希望をかけ、文革の一部の現象を「新しい人」の出現とみなしました。ですが、そのような「新しい人」がいかなる状態であり、いかなる過程を通じて出現したのか知らない状態で、文革の現象を肯定的に評価しました。この点が西欧の左派運動にも否定的な影響を与えました。

賀照田 中国にも大きな影響を与えました。さきほどお話しした大寨の成功的経験も、階級闘争的理解にともなう政治の結果として叙述されました。毛時代にこのように実際と異なる叙述が広がって、さまざまな方面で否定的結果をもたらしました。文革後も階級闘争的な理解に基づいた叙述によって大寨の経験を理解したので、すなわち、大寨の経験をきわめて左傾的・教祖的に理解したので、農業分野で実際の有益な経験を継承・発展させようと努力しなくなりました。そのまま全体を否定することで終わりました。経験をこのような形で処理することが持つ問題を認識できないまま、性急に現在と未来を計画してきたのが、最近40余年間の中国が経験した多様な問題の根源です。

李南周 確かに社会主義の実践の中で学ぶべきさまざまな経験があります。ですが、このような経験が文革中には政治論理によってかなり単純に理解され、間違った方向で活用され、そのために文革後には深く検討する必要がなくなったと考えられたと思います。文革以前の社会主義の実践でも、「文革自体」に対する研究は、一方では当時の実践が犯した誤りの原因を明確に明らかにして、同時にそのような経験のうち有益なものをよく処理して、現在の中国の問題の解決に有用な思想資源とする作業を継続するべきです。建国から文革までの社会主義実践と関連してはこの程度やらなければなりません。ただし、改革開放が始まった後にも、文革をどう処理するかは大変重要な問題でした。当時は文革と改革開放を対立させる議論が支配的でした。多くの知識人は文革を理論的に否定しただけでなく情緒的に嫌悪しました。ですが、私が見るところ、中共は文革をきわめて慎重に処理しました。中共は、文革を否定することが中共権力の合法性に影響を及ぼさないように留意しましたし、文革の誤りを文革の四人組と林彪一党など少数の「野心家」の誤りとしました。現実的にも文革を完全に否定することはできませんでした。鄧小平も、文革時期をすべて否定する場合、改革開放に重要な作用をした毛沢東の米中関係正常化も否定しなければならないと語ったことがあります。文革をこのように処理したことは、歴史の真実と関連して多くの誤りを犯しましたが、政治的には役立ちました。これは文革の整理がどれほど複雑だったのかを示しています。たとえば中共は、文革の責任を主に四人組や林彪に問いましたが、文革中の毛沢東の役割、毛沢東と林彪の関係、四人組と林彪の関係など、はたして誰が文革に主たる責任があるのかも相変らず論議が続いています。私の知るところでは、先生も中共の文革処理に問題が多いと認識されています。2つの問題を重視されているようです。1つは今日お話しになった群衆路線の処理で、他の1つは文革時期に大きな作用をした理想主義に対する処理です。

賀照田 改革開放の直後に進められた「潘暁討論」に対する私の論文(「現代中国の虚無主義の歴史とその観念構造――「潘暁討論」を中心に」『現代中国の思想的苦境』所収)が理想主義の問題を扱いました。

李南周 当時、中国の自由主義知識人らも、文革に対して議論する時、理想主義や群衆路線のような問題を重視せず、むしろ時代遅れの問題と考えました。彼らは中国の改革開放の時期の重要な転換点が1989年の民主運動であると考えました。ですが、先生は時間をさらにさかのぼって、問題の根源が1970年代後半から1980年代初期の間の時期に見られると主張しました。

賀照田 私がこの問題に注目するまでには、いくつかの過程がありました。1990年代後半に多くの中国人が、心身状態、生活などのさまざまな面で大きな問題があることを発見し、労働者と農民の2つの階層が改革によって犠牲になる問題が見られました。1980年代に私たちが想像した未来と現実は大きく異なりました。ですが、これらの問題を発見して以降、いったいどのように発生したのか、考えないわけにはいきませんでした。はじめは別に無関心だった中国の「人」に集中することになったのは、私が熱烈に賞賛した文学思潮で、人と現実の間に深い内在的関係があることを発見したからです。この発見は、2001年に書いた「ポスト社会主義の歴史と中国の現代文学批評観の変遷」(『現代中国の思想的尊敬』)へと続きました。そして80~90年代の生活と知識界の思潮の省察は、2006年の「現代史研究および中国大陸の思想と政治」(当代史研究与当前中国大陸的思想与党政治)へと続きました。この時から毛沢東時代が鄧小平時代に変わったことに特別な関心を持つようになりました。当時、多くの人々が、中国社会の深刻な問題は1990年代以降の改革から始まったか、もう少し遡れば、胡耀邦の失脚から始まったと考えました。私の考えは少し違いましたが、多くの問題が、文革が終結し改革開放が始まった時期にまで遡ってこそ、正しく理解できると考えました。そしてその後の研究の末に、「理想主義」が効果的に継承・転化されえない問題や、群衆路線の再構築など、当時まで中国の思想界に認識されなかった一連の重要な問題が、みなこの時期に発生したという事実を発見しました。

李南周 理想主義の問題は、おっしゃった潘暁討論に関する論文を参照すればいいかもしれません。1980年代初めに、一方では群衆路線の回復を強調しましたが、現実に実現されることがないわけです。なぜこのような結果になったのでしょうか?

賀照田 群衆路線に関する論文で、その大きな課題を詳しく論じました。群衆路線が中共の思考と実践においてきわめて特別で核心的な位置にあるので、それが変われば必然的にさまざまな方面の変化を触発します。指摘されたように、文革後、中共の内外で毛沢東思想を否定する思潮がありましたが、鄧小平と陳雲の主導の下に、中共は、功が大きく過は副次的であるという形で毛沢東を肯定しました。毛沢東思想は相変らず中共の指導思想として受け入れられています。当時、毛沢東思想を新しく解釈する時も、群衆路線は毛沢東思想の中で3つの生きた魂の1つとして肯定されました(残りは「実事求是」と「独立自主」)。1982年の中共第12次全国代表大会から2017年の第19次全国代表大会に至るまで修正され続けた「党章」(中共の党憲)の中でも、群衆路線は特別に強調されました。ですが、1979年以降の群衆路線に対する説明では、「群衆路線は組織工作の中の根本問題」「人民・群衆は必ず自らを解放しなければならない」「党の指導工作が正確性を維持するかは「群衆から出てきて群衆に入る」という方法を堅持するかどうかで決定される」の3つの核心内容が削除されます。これは重大な変化です。このように再構成された群衆路線は、まず党が群衆の積極性を動員する方法になります。そして、群衆の実際の利益に関心を持つことを要求しますが、その実際の利益は物質の利益、すなわち群衆の生活が安らかなのかという問題としてのみ理解されます。群衆路線に対するこのような理解は、1945年の第7次全国代表大会や、1956年第8次全国代表大会のそれとずいぶん異なります。

 

新左派の知識人の変化をどう見るべきか

 

李南周 群衆路線を前面に出したものの、群衆を集団化せずに対象化した問題があります。私は第8次全国代表大会で「群衆路線を正しく執行する時、党の指導も正しくなる」といった内容に注目する必要があると思います。この観点によれば、党の指導が絶対化されるのではなく相対化されるからです。ならば、いかなる条件とメカニズムの下で、党の指導が正確になりうるかについて、さらに議論しなければなりません。この問題が重要なのは、現在の中共が国家ガバナンスにおいて党の指導を特別に強調しているからです。2018年の全国人民大会全体会議で通過した憲法改正案を見ると、「党の指導」原則が憲法条文に含まれました。このような条件で党の指導と群衆路線の関係がきちんと処理できなければ、党の指導を絶対化する可能性が増加して、中共が強調する「人民民主」が立つ場所を見出すことが困難になるでしょう。最近、中国内の変化に関する少し異なる問題を提起してみます。1989年に政治的困難を経験しましたが、1992年に鄧小平が改革開放の加速化を要求し、中共が社会主義市場経済論を受け入れながら、市場化と対外開放が早く進められました。一部の自由主義知識人は政治改革が遅滞することを批判し続けましたが、全体的に見れば、改革開放路線に対する共感が幅広く形成されました。いわゆる「新左派」知識人は改革開放路線を異なる角度から見ました。簡略に整理すれば、本来、中国の発展路線が基本的に正しく、改革開放は新自由主義的な思潮を受け入れた発展路線であると規定したのです。当時、新左派の改革開放に対する議論は、韓国の知識界の中でも大きな反響を引き起こし、両者の間に積極的な相互作用がありました。ですが、最近、韓国では新左派の新たな傾向に対する憂慮が大きくなっています。すなわち、過去とは異なり、中共と国家の路線を積極的に擁護するばかりで、批判性を喪失したと思われるからです。特に習近平体制のスタート以降、憂慮がより大きくなりました。胡錦涛・温家宝時代からこのような傾向が見られました。韓国でもその時から、中国の新左派が中共と国家に従属し、知識人と党の間に新たな関係が形成されるという認識が広がりました。

賀照田 新自由主義的な傾向に批判的態度を持つ新左派知識人が国家に近接し始めたのは、胡錦涛・温家宝が指導部になって以降で、習近平体制がスタートする3、4年前にその傾向が最も明確になりました。2017~18年、すなわち習近平とその側近勢力が、憲法改正を通じて国家主席の再任制限を廃止した後、習近平個人を過度に宣伝する傾向が始まり、社会と言論に対する統制が過度に強化された時期を前後して、国家に対する新左派の積極的・肯定的な態度も変わり始めました。これと関連して私が関心をもって観察した現象は2つです。1つは国家を肯定的に評価した知識人の発言が減ったことで、もう1つは国家に対する疑問によって、新左派内でも異なる声が出てくるという点です。このような現象をどう理解して思考するかは私にとってもかなり難しい問題です。私は、新左派が間違った左派で、もともと国家主義者だったとか、過去には左派だったが今は国家主義者に変節したというような、便宜的で単純な規定には賛成しません。もう少し真剣な検討が必要でしょうが、たとえば、過去の知識界の主流は、毛沢東時代から鄧小平時代への転換を、「撥乱反正」(乱れを治めて正しきに戻る)と規定してきましたが、2000年代に入って新左派のうちの一部が広めた新たな歴史認識、すなわちその転換が「撥乱反正」ではなく「撥政反正」であったという主張を、私はまもなく出版される私の本『革命・後革命』の序文で重点的に批判しました。その歴史認識は、毛沢東時代は本来よかったが、鄧小平時代に新自由主義を受け入れながら中国社会にさまざまな問題が生じたということです。新左派のこのような認識は、事実上、中国社会で発生する多くの問題が外部からきたもので、特にアメリカが積極的に推進した新自由主義によって発生したと思います。このように「本来の私」は正しいが、アメリカに代表される外部の影響を受けた「私の一部」は悪いという認識が形成されれば、その後禍はかなり大きなものになります。中国人の心を「積極的開放」から「閉鎖的状態」に変化させるだけでなく、外部からの影響を阻みさえすれば、特に積極的にアメリカに反対しさえすれば、国家に対する責任を全うしたのであり、中国本来のいい「私」を示すことで、中国を社会主義の方向に発展させられると単純に理解させます。もう一歩進んでいえば、アメリカの覇権を転覆させ、アメリカが主導する世界体制を突破してこそ、中国の問題が解決されうると考えさせます。このような感覚や考え方に、今の世界では実力で語るべきだという認識がより増えれば、アメリカの覇権を転覆させるということの意味は、経済技術や軍事力など一部の主要指標でアメリカを越えることになります。今はアメリカを越えられる最もいい機会です。このように見ると、中国がアメリカを見下げる実力を持つことになった改革開放は肯定的に評価され、中国社会の内部でいわゆる「左派的価値」を実現することは副次的になります。すなわち、最近多くの左派が過度に自らを国家と一体化させて国家を弁護するのは、単に彼らが左派的精神を裏切ったためでなく、複雑な中国と世界を理解する方式に問題が発生したからだと見るべきです。

李南周 中国において、国家はもちろんのこと、多くの知識人が今でも外部世界と望ましい形で相互作用できる方法が見出せていないように思えるのはきわめて遺憾な状況です。簡単に言えば、自分と他者の間の二分法から抜け出せずにいます。中国が帝国主義とは異なる大国の役割を引き受けるためには、他者を通じて自らをあらためて認識する訓練が必要だと思います。私が中国の対外戦略において、いわゆる「韜光養晦」という概念に不安を感じる理由もここにあります。最近、中国がかなり対外的に攻勢的だった点を批判しながら、「韜光養晦」を強調する傾向もありますが、このように自らの力の強化に焦点を合わせるならば、他者との関係をきちんと処理することが困難になります。

 

習近平体制はいかなる社会主義的価値を追求するのか

 

李南周 最後に中国の最近の変化について語ってみましょう。私は中共第19次全国代表大会の政治報告のうち一部の精神は肯定的に評価します。特にここでは社会主義的な価値を積極的に強調しましたが、1980年代の社会主義に対する認識と多少差があるという点に注目しました。たとえば、1987年に提出された「社会主義初級段階論」は、高級段階など社会主義の長期的あるいは最終的目標は提起せず、生産力発展だけを重点的に強調しました。ですが、今は改革開放と現代化だけでなく社会主義的な方向を強調しています。二重課題論的な見解でも評価できます。事実、中国の近現代史では、このような一種の二重課題内の緊張が崩れたり復元されたりする過程が繰り返されました。積極的に評価すれば、この過程の中で中国は西欧諸国が歩んできた道をそのまま追随するのではなく、自らの状況に符合する社会モデルを見出しつつあったといえます。問題は、政治報告でも相変らず何が社会主義経済なのか、何が社会主義政治で社会主義民主か、などを明確に提示できていないという点です。この時に予想される否定的状況は、社会主義が高圧的な統治と同一のものとして理解される点です。これは、現在の中国の多くの社会問題の解決のみならず、社会主義に対する理解にも否定的な影響を与えることになります。

賀照田 中国の改革開放の40年は、もちろん大きな成果を上げましたが、同時に多くの問題も発生させました。このような問題の中には、現在の知識・思想界によって意識されていないことがあり、私はこのような問題を積極的に語ろうと思いました。ですが、最近3、4年の間、習近平体制の事業方式が順次それ以前と変わり、はなはだしくは明らかな断絶も見えているといえます。なので私も習近平の「新時代」と鄧小平時代にいかなる断絶があるのか、断絶の後禍はいかなるものなのかについて熱心に考えています。現在としては3つの面で断絶があると思います。最初は、鄧小平が毛沢東時代の教訓を総括しながら、「権力が過度に集中した。権力が過度に集中すれば、大きな誤りが起きやすい」という点を特別に強調したことです。鄧小平がこの問題を解決した方法は集団指導でした。1980年代には党の中央主席の職が廃止され、さほど権力がない総書記を置きました。そして総書記、国家主席、全国人民代表大会常任委員長、中央軍事委員会主席、総理などをすべて別の人が担当しました。1989年に中共が政治的危機を体験し、鄧小平は自らがいなければ党が分裂する可能性があると感じました。そして集団指導体制から若干後退して江沢民が総書記に選出されて以降、鄧小平は中共の指導者に対して、江沢民が現在の世代の指導部の核心であると語りました。その核心地位を確かにするために、総書記、中央軍事委員会主席、国家主席を歴任した人に担当させました。ですが、鄧小平は相変らず過度な権力集中が招く問題に注意を注ぎ、集団指導を強調しました。ですが、習近平が権力をにぎって以降、彼が慣行によって総書記、中央軍事委員会主席、国家主席などの職責をすべて引き受けたように見られますが、実際には、鄧小平が設計した集団指導体制を突破して権力を集中させました。第2に、鄧小平は力量を集中させて大きなことができるという点を中国体制の長所と考えましたが、同時にこのような方式が大きな誤りにつながりうるという点を明らかに認識しました。彼が社会に対する統制を緩和したのは、このような考えと関連があります。彼は、相対的にバランスが取れるように中国の体制の長所と危険性を評価し、それゆえに、この体制の運営に慎重な設計が必要だと考えました。ですが、習近平体制は、中国が力量を集中すればより大きなことができるという長所だけをかなり高く評価し、その危険性はきちんと認識できていないようです。第3に、鄧小平は、中国は規模が大きく状況が複雑だから、さまざまな方面の積極性を引き出すことは困難だと考えました。したがって彼は、さまざまな制度的設計を通じて社会の水準を上げて、多様な集団の積極性を引き出そうとしました。トップダウン式の設計を通じて中央と一致した態度を取ることを強要し、党と国家体制を通じて社会を厳格に統制する現在は、鄧小平時代の弾力的な事業方式とずいぶん異なります。

李南周 40年はかなり長い時間で、その間にさまざまな変化があったので、改革開放の初期の状況と現在の状況の間にはさまざまに客観的な違いがあります。ですから調整される必要もあるでしょう。

賀照田 私も同意します。中国は意識的な側面も事業方式もすべて調整が必要です。先に言及した3つは、鄧小平時代の経験として慎重に扱うべきですが、そうできないものを羅列したのです。先生は、中共第19次全国代表大会の政治報告に登場した「社会主義現代化強国」という目標と、社会主義の価値強調を肯定的に見ましたが、社会主義経済、社会主義政治、社会主義民主が何であるか、明確に提示することができない点には憂慮を示しました。これに対しては、現在の中国で流行する、さらに直接的な表現を例として語ってみます。現在の習近平体制は「毛沢東時代は中国を起こし、鄧小平時代は中国を豊かにし、今、大切なのは強くなること」であると強調します。このような言説はきわめて興味深いですが、まず今日の中国で、党と国家が「社会主義現代化強国」を語る時、実際に強調するのは「強国」であって「社会主義」ではないという事実が浮き彫りになります。また「強さ」を「立ち上がり」や「豊かさ」と結び付ける形で生じる意識と無意識はともに検討すべき主題です。中国が伝統から現代へと切り替わる過程は順調でなく、大きな代価を支払いました。1949年に中華人民共和国が成立した時、毛沢東は「中国人民が立ち上がった」と宣言しましたが、事実はこのために必要な経済的条件を備えることができませんでした。鄧小平が中国を豊かにし、中国の「立ち上がり」に堅固な基礎を提供しただけでなく、貧困のために発生する問題を解決できる条件を提供しました。すなわち「立ち上がり」「豊かな」中国は、解決しようとする熱望と要求は大きかったと思いますが、それ相応の条件が充分にないという問題に取り組めるようになりました。換言すれば、今こそ山積した問題を解決して、中国が活力をもって発展できる基礎を作らなければなりません。その中に強さを作ることもできます。ですが、現在の「強さ」に対する追求は量的な指標であって、他の国に先んじることに焦点が合わされています。

李南周 私の考えでは、中共の言う「社会主義民主」「人民民主」などは、聞こえはいいですが、これを実現するメカニズムを構築できないことが、もう一つの重要な問題です。

賀照田 これはとても難しい主題ですが、「人民民主」が群衆路線の経験からインスピレーションを得られるという点だけは強調したいと思います。1940~50年代の群衆路線は、事実、群衆を動員して、群衆を公共事業に参加させることでしたし、その参加のために公共の組織を作り出しました。この経験を真剣に研究すれば、「人民民主」を信じる人々は、どのようにさらに多くの人々を公共事業に参加させ、彼らを組織するのかを学ぶことができるでしょう。ただし、今の時点で見る時、「人民民主」を実現しようとするならば、次の2つに注意しなければなりません。最初に、人民の公共領域への参加に対する意志をさらに引き出し、公共領域に参加できる能力をさらによく培養して、公共組織の発展に資することができる実践の方案があるべきです。第2に、「人民群衆は自らが自らを解放しなければならない」という原則を社会のさまざまな領域で実現し、社会の公共組織にさらに多くの活動と発展の空間を提供するべきです。

李南周 当然のことながら、2つの問題はともに研究しなければなりません。歴史的に見る時、韓国と中国はともに民主革命の過程を経ましたし、ある意味では似たような問題をかかえていると思います。中国の場合は、運動の後遺症が大きかったために、中共が過去の群衆路線の肯定的側面を生かすよりは、下からの自発性を抑制する方向に動いています。これが憂慮を生み出しています。韓国でも現行の民主制度に対するさまざまな不満が表出されていて、それによって多様な政治、あるいは社会運動が出現し、一定の成果を上げたりもしました。ですが、運動以降、どのように市民が公共領域で主体的に作用し続けることができるのかに対する答えを見出すことは、きわめて困難だと思います。韓国と中国の知識人がともに討論し研究して、このような問題の解決に新たな思惟方式を提示できるならば、両国の未来はもちろんのこと、世界史的にも大きな意味があると思います。今日の対話のまとめをしてみましょうか。

賀照田 まとめにはなりませんが、中国の知識人や社会、政治家たちが、みなさんの二重課題論的な思想意識を受け入れられるようになればと思います。二重課題論は慎重な態度と遠大な理想を包括する思惟方式だと考えるからです。資本主義近代を越えることが容易ではないと認識している点で慎重です。中・短期的に、近代あるいは近代性をきちんと消化するのは、私たちが真剣に対処すべき課題です。他方で、西側が発展させる資本主義などが、人類の永遠の運命ではなく、克服することができ、克服すべきだと考えるという点で、遠大な理想を含んでいます。このような思惟方式が中国で受け入れられるならば、今の問題点に取り組む適切な処方の提示に一助することができます。中国は他のどの国よりも早い発展を成し遂げたので、中国の知識界の「中国モデル論」や、中共が特別に強調する「4つの自信」(道路、理論、制度、文化に対する自信)のように、自らを肯定する思潮の中には、中国がすでに西側の現代化を越えたという楽観論が内包されています。これは、中国が自らや世界を認識するにはもちろんのこと、現実的にもさまざまな問題をはらんでいます。また、相変らず少なからぬ中国人は、西欧ですでに成熟した人類の普遍価値を作り、中国がこれに付いていけば、いい結果が出るだろうと考えています。このような2つの思惟方式は、二重課題論的な思惟と対話を通じて克服される必要があります。
また、西欧の現代は完全無欠なものではありません。西欧でも多くの人々が受け入れる現代の観念に対する問題提起が続いてきましたが、ある意味でこれは西側の活力を示しています。西欧でも疑いの対象である「現代」が中国で具現される時、西欧に見られた問題だけでなく西欧では見られなかった問題ももたらされる可能性があります。後者は中国人、中国社会、中国文化と深い関連があります。中国の人、社会、文化が完全に改造されない限り、このような問題は存在し続けるでしょうが、中国のような大国が完全に改造されるのは想像することも困難です。ならば、中国は自分だけの現代化の道を切り開かなければならず、二重課題論的な思惟が、中国が自らの実際に符合する現実や未来意識、自我や世界意識の形成に有益でしょう。最後に、どのように現実と未来を同時に考慮して、建設的に歴史を見るのかという問題に関連しても二重課題論はとても重要です。たとえば、二重課題論的な見解を活用して、白永瑞先生は3・1運動と5・4運動を比較したことがあり、先生は中国の社会主義の実践を評価するにあたって、私たちに多くの示唆を与えました。さらに多くの人々がこのような形で中国の歴史を研究すれば、歴史をさらに深く理解し、中国の現在と未来を思考することに役立つだろうと思います。私は異なる国家、異なる民族が、このような自覚に基づいてともに努力していけば、よりよい未来を作っていけると信じています。ともに努力しましょう。

李南周 一言だけさらに加えれば、歴史的に見る時、二重課題論の最も真剣な実践も、中国において成立すると思います。中国の現実に対してはさまざまな不満と恐れがありますが、中国の潜在力を信じています。長時間にわたってこの対話に参加して下さり、本当にありがとうございました。

 

〔訳=渡辺直紀〕

 

 

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