창작과 비평

[特集] 不平等の再現と「リアリズム」 / 黄静雅

 

創作と批評 185号(2019年 秋)目次

 

黄静雅(ファン・ジョンア)

文学評論家、翰林大学翰林科学院HK教授。著書に『概念批評の人文学』、訳書に『ファニー&アニー』(共訳)、『盗まれた世界化』、編著に『再び小説理論を読む』などがある。 jhwang612@hanmail.net

 

 

1、「文明的」事件としての不平等

 

不平等というテーマについて改めてその重要性を立証する必要があるだろうか。なのに、不平等は日増しに酷くなっていくと言われるし、不平等の解消はめったに社会的議題や政策の優先順位ともなれないようだ。それほど重要だと言いながらも、そこまで重要ではない問題のように生きていくものの中の一つが不平等である。実際、不平等に関して考えると、しばしば気候変化のような主題を思い浮かべる際と同じような気分になる。気候変化のように不平等に関しても状況の悪化を示す様々な診断と指標が出てきて久しいし、あえてそのような資料を参照しなくても、また実際別に注意を向けなくても事態の深刻性は十分感覚される。ところが、やはり気候変化の場合と同じく、そんなに悪化しているにもかかわらず、否、もしかしたらまさにそのためであるかも知れないが、もうどうしようもない問題ではないかという無気力な疑問が生じる。要するに、至急に何かをすべきだという心と、何ができるかという懐疑、この二つの通約不可能な感じを同時に呼び起こすのである。

このような感じは言葉通り「感じ」であって、両方の間の類比とはとんでもなく見えるかも知れない。[1. 類比関係とは別に、地球温暖化と不平等との間に緊密な連関関係があるという点は確かである。地球温暖化の結果が不平等に影響を及ぼすことによって、事実上不平等を強化するという事実はよく知られている。] 解決にどれほど積極的なのかの可否を離れて、気候変化が人類の未来だとか、人間文明の存続可能性と関わる根本的な問題だということについては、大多数の人々が同意するだろう。ところが、不平等もそのような問題なのか。両極化に向かって全力疾走する今日の不平等な状況が、以前よりましてより多くの人々に相対的であるのみでなく、絶対的にも前よりずっと大きな苦痛をもたらしているということが事実であっても、人類は奴隷制も行ったことのある悪辣な種族ではなかったか。だから、たとえ歴史の進歩という幻想が少し崩れても世の中の終末はおろか、文明の破綻も語る階梯ではないのではないか。

19世紀イギリスの批評家、マーシュ―・アーノルド(Matthew Arnold)によると、不平等は少なくとも「文明的」次元の問題ではある。「平等」というタイトルのエッセイ[2. Matthew Arnold, “ Equality,” Selections from the Prose Works of Matthew Arnold, Cambridge: Riverside Press 1913(www. gutenberg.org/cache/epub/12628/pg12628-images.html). このエッセイは1878年3月、Fortnightly Reviewに初めて発表された。]で彼は、人間が人間らしさ(humanity)をより多く成していく過程としての人間化(humanization)、つまり文明化(civilization)には、いくつかの核心要素があり、民族ごと国ごとその要素の中で、あることにおいて卓越さを示す方式でその道程に寄与すると語る。例えば、イギリスが身持ち(conduct)で強みを持つならば、イタリアは美的感覚と判断において、そしてドイツは知識において優れている。典型的に民族性云々の話かと思われかねない彼のエッセイをもう少し読むと、フランスの強みという「社会生活と礼節」(social life and manners)がアーノルドの本当の焦点であることがわかる。ふと適切に礼を備えて親しく交じり合うという程度で見なされうるこの強みは、実は明白に階級的な文脈を持つ。イギリスでは上流層の誰かが下層階級や、甚だしくは中間階級の人と話し合う際、「分離の壁」(a wall of partition)と共に、「二つの異なる世界」に属するという感じを持つ反面、フランスではそのような「両立不可能さ」がなく、異なる階級の人々が会っても、異質感や嫌悪の代わりに「人々が人生に対して同じものを要求する一つの世界」に共にいると感じるという。このことを「社会の精神」(the spirit of society)、あるいは「社会性」(social spirit)として解釈したところにアーノルドの独特さがあるが、彼はそれだけでなくこれこそフランス革命の動力であったと語る。

 

それは人々を集め、互いに対する必要を感じさせ、互いを配慮し、理解するようにする。しかし、何よりそれは平等を促進する。人間が平等なのは、違いではなく礼節の人間らしさによってである。「「グローブ」( grob)、つまり荒っぽくて下品に行動して、自分を私と同等な人に見せようと思う人は、私と同等ではなく下品に見えるのみである」とゲーテは語る。人間らしい礼節がある共同体は平等な人々の共同体であり、そのような共同体で巨大なる社会的不平等とは完璧に楽な社会的交流を脅かし、まずくすること以外は如何なる意味も持てない。(…) フランスの人々を革命へと導いた主な動力は博愛精神ではなく、嫉視も、抽象的な観念に対する愛好でもない。もちろんそのようなものもある程度影響は及ぼしたが、最も大きな役割を果たしたのはまさに社会の精神である。

このくだりは社会性に対する説明であると同時に、文章のタイトルである平等に対する解釈である。ここで平等とは人間らしさの完成を目指す社会性から出てくるとなっている。だとしたら、不平等もまたいろんな社会問題の中の一つではなく、社会の精神そのものの危機であり、ほかならぬ文明化に向かった道程の座礁を意味する。アーノルドは社会主義や共産主義が平等を掲げながらも成功できぬ「致命的弱点」が、正しい人生を、低劣で物質的な基準で考えるところで留まるからだと見なす。「人類にある支配的な力(master-power)」、つまり、人間化と文明化の完成を突き動かす力は、そのような低い物資的基準に常に反発するに決まっているから、低い物質的水準の平等さえ達成されないということである。言い換えると、平等はわれわれがあまりに低いところをねらうので到達できず、あまりに少なく望むので成されない。

この解釈の含意は後で見てみることにして、ここではアーノルドが平等論を開陳した実質的な目的が当時イギリスの巨大なる階級的不平等を批判するためであったことを記憶しておこう。彼が見るに、イギリスが持つ「不平等愛好」とは「実際はわれわれの中にある浅薄さ(vulgarity)であり野蛮性(brutality)であり、豪華絢爛な物質性のあがめ称えであるとともに崇拝」[3. より具体的にアーノルドはイギリスの「不平等という宗教」が醸し出した必然的な結果として「上流階級は物質主義的になり、中間階級は浅薄となり、下層階級は野蛮的になる」状況が生じると述べる。]と変わらないこととして、イギリスの文明化をふさぐ主な要因である。だとしたら、「不平等愛好」がもう全世界的な事情となったから、そこから気候変化級の危機を読み取るにしても過敏反応ではないかも知れない。だが、今日の不平等に漂う「終末的」情動にはまた異なる根拠がある。

 

2、不平等と正当性の危機

 

有史以来、人類は常に不平等な世界で生きてきたとは言うが、数年間多くの人々が今日の不平等は常にわれわれのそばに存在してきたものとは異なる何かとなったし、従って不平等を新たな視角から眺める必要があるという。そのような論者の一人であるバウマン( Z. Bauman)は現在の世界が非常に深刻とだんだん不平等となりつつあることを示す様々な証拠を詳しく並べてから、事態を次のように要約する。

 

(…) お金持ちはただお金持ちなのでだんだん裕福となる。貧乏人はただ貧しいからだんだん貧しくなる。今日、不平等はそれ自体の論理と推進力によって引き続き深化する。それは外部からの助けや推進力を必要としない。外的刺激や圧力、衝撃のようなものは全く必要ない。今日、社会的不平等は歴史上初めて永久機関となりつつあるように思われる[4. ジグムント・バウマン、『なぜわれわれは不平等を甘受するか』、アン・ギュナム訳、ドンニョク、2013、21頁。]。

 

ここで言う「外部からの助け」に「個人の才能と能力の自然的不平等に対する確信」が含まれた点が目を引く。それは「数百年の間、社会的不平等が無理なしに受容されるに寄与した最も強力な要素の一つ」であったが、逆説的にも不平等の拡大を制御する役割も同時に果たしてきた。自然な不平等という観念は、意図したかどうかに関わらず「不平等の「不自然な」(実際には「行き過ぎた」)程度、つまり不正義の程度を探知し、測定する基準を提供したし」、それによって不平等が不自然なほど深化する場合、「修正が要求」できたからである。だが、もう「自然さ」という仮面を被らなくても自らを永続化する方法を見い出した」点が不平等を新たに考察すべき理由の一つだとバウマンは述べる[5. 上掲書、94~95頁。]。

ところが、不平等を一定に緩和することで不平等な現実を正当化するメカニズムは、実はウォーラーステイン(I. Wallerstein)が説明した自由主義の原理と変わらない。ウォーラーステインによると、資本主義世界体制に「この体制の幹部集団だけでなく、相当の程度までは大多数の人々、いわゆる普通の人々の目にもこの体制の制度が正当だと見えさせる地球文化を提供」してくれた [6. Immanuel Wallerstein, “ The Agonies of Liberalism: What Hope Progress?” The Essential Wallerstein, New York: The New Press 2000, 418頁。ウォーラーステインの自由主義論に関する詳しくて批判的な検討として、金鐘曄、「変革的中道主義と自由主義」、『創作と批評』2019年春号を参照。]のが自由主義である。自由主義は少なくとも表面的には「自然な」不平等があるという考えを否定するので、不平等を正当化するにその分、より難しさを持つが、特有の柔軟な戦略を通じてこの難しさを迂回する。自由主義の主な戦略は成長と改革を原理として、「いくつかの根本的な変化を直ちに提供しながら、以後、より根本的な変化があるはずだという希望と期待を決して無くさない」[7. Wallerstein、前掲論文、420頁。]方式で、本当の根本的な変化を封鎖するのである。こういうふうに変化一体を抑えようとする保守主義と、より多くの変化を要求する急進主義を適切に活用し包摂しながら、自由主義はフランス革命以後、200年近くの間事実上唯一の覇権イデオロギーの役割を効果的に遂行することができた。

しかし、「未来に対する誘惑的な楽観主義と結び付いた、限られた妥協」[8. Wallerstein、前掲論文、428頁。]という自由主義のパッケージはすでに効力を失った。体制の恩恵を受けた者は根本的変化のいくつかの一部だけでももう提供する余力がないし、取り残された人々は未来の約束がそもそも守られる予定ではなかったことに気づくようになった。不平等を一部でも緩和してくれるといった改革と成長がだんだん意の如くならなくなっただけでなく、たとえ可能だとしてももうそれらそのものが不平等を強化するという幻滅が広がっている。そのように不平等な体制の正当化を担当してきた自由主義が終わったならば、もう体制とそれが惹き起こす不平等が再び正当性の危機に処することになったわけである。

ウォーラーステインは自由主義的約束の消滅と共に専ら二つのイデオロギーの可能性だけが残ったと述べる。一つは「適者生存」集団の美徳と正当性」を掲げること、言い換えると「略奪品を所有し、自分の勢力が効く地域のなかで守る強者の権利」を主張することである[9. Immanuel Wallerstein, “ The Collapse of Liberalism,” The Socialist Register 28, 1992, 107頁.]。 もう一つはすべての集団の同等な権利を主張すると同時に、その集団それぞれを排他的ではないように仕向けることで、これは自由主義に過負荷をかける戦略と繋がる[10. この戦略に関しては、金鐘曄、前掲論文を参照。金鐘曄はこのことを「暗い裏面のない真正な自由主義者、無意識のない自由主義者」(307頁)の戦略と称しながら、変革的中道主義と連結して説明している。]。 そしたらこれから体制正当化の任務は社会進化論の復活によく似ている前者の取り分であるが、自由主義が現在における一定の譲歩を通じて未来を約束する方式であったならば、自由主義以後の強者イデオロギーは(「代案はない」という新自由主義標語が含蓄するように)未来に対する如何なる約束もできないということを通じて、何も譲らない現在を擁護する。

言い換えると、もう不平等を正当化する新しい方式は自由主義的約束の失敗を、そのような約束そのものの不可能として解釈し、体制正当性の危機を正当性という観念そのものの危機へと転化することである。それは不平等こそ現在と未来を合わせる唯一の「現実」なので、正当性の可否は関係のない質問だと語る一方、不平等の甚だしさそのものを、否認できない強烈な「現実性」の証拠として活用しながら一種の自己完結的「現実主義」を構築する。不平等が深化するほど、内的根拠が強化される「倒錯的」因果律を装着した点で、このメカニズムもまた「永久器官」に似ている。この種の永久器官が自力更生するということは、だんだんより多くの人々にとって更生不能であると共に未来の終末を意味するので、そこからある終末的情動が発生するのも無理ではない。 

問題はこのような「現実主義」が不平等に関して感じ、考える方式に影響を及ぼすだけでなく、不平等にイデオロギー的に抵抗する方式を再び苦悶するよう要求するという点である。将来不平等が改善されるといった自由主義的約束の欺瞞性を指摘することは、差し当たりの改善に対する急進的要求へと繋がることもありうるが、不平等は決して改善されないという考えへと帰結されることもありうる。常識から外れた酷い不平等を暴露することは、それを正そうという訴えにもなりうるが、それをほとんど超越的で存在論的な秩序のように見えさせることもできる。不平等の「現実主義」は不平等な現実を「不平等が決して解決されない現実」として感じさせようとする。バウマンは「永久器官」という言葉で不平等に対する慨嘆と警戒を意図したが、もしかしたら不平等を「永久器官」に見えさせることが、不平等を擁護する人々が最も望むところであるかも知れない。問題の解決を試みる人々はよく問題を目に見えさせることがその第一歩だと語る。しかし、不平等が可視化を通じて自らを強化することもできるならばどうなるか。不平等の可視化、または不平等の再現が不平等の「現実主義」に包摂されない方式を苦悶すべき必要がここにある。 

 

3、不平等再現のアイロニー

 

平等がつまり正義であり、正義がつまり平等なのかという質問に対してはいろんな異見があろうが、不平等が代表的な不義だという事実は明らかだし、今や正当性の負担をも振り捨てようとすることで一層問題的な不義となったと言える。そのような点でナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)の「正義について:プラトン、ロールズ、イシグロの教訓」[11. Nancy Fraser, “On Justice: Lessons from Plato, Rawls and Ishiguro,” New Left Review 74, 2012.] も不平等に関するテクストとして専有できる。この文章がプラトンとロールズの教訓として提示するところ、つまり正義が共同体におけるすべての他の美徳を規制する「主人美徳」(master virtue)であると言ったり、社会的装置が持ちうるあらゆる美徳を可能たらしめる条件だという見解は、平等を社会の精神そのものと連結したアーノルドの見解とも共鳴する。ところで、不平等再現と関連して興味深い件は、この文章が取り上げている三つ目の人物、カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)の小説『私を離さないで』(Never Let Me Go)[12. カズオ・イシグロ、『私を離さないで』、キム・ナムジュ訳、民音社、2009。] に対する読み方である。

まず、この小説に対する短い紹介が必要であろう。『私を離さないで』は臓器移植のために作られた複製人間を取り扱ったディストピア小説であるが、いくつかの独特なところがある。例えば、具現されない技術が登場するディストピア小説ならば、大抵未来を背景とする場合が多いが、この小説の時間的背景は現実の歴史的時間帯と重なっており、そのためにもっと現在に対するアレゴリーで読ませる。また、ディストピア的世界がわれわれが知っている世界とどう異なるかを喚起させながら読者の注意を引く代わりに、主要人物の学生時代を取り扱うこの小説の前半部は、他の成長小説のような外見を最大限維持する中で、時たまさりげなく異質的な要素を投げかけておく。このような展開は人物たちが臓器移植の道具だという自分の運命を認識する方式を正確に反映したものである。幼い時からヘイルシャム(Hailsham)という学校に収容されてきた彼らは、運命について「聞いたが聞けなかった」(118頁)状態で育つ。彼らを教えるガーディアン( guardian)たちは「寄贈」(donation)という単語で臓器移植の未来をともかく知らせるが、討論と芸術的創造性を強調するこの学校の、無欠だけでなく正しくさえ見える「人文教育」システムは寄贈の現実とは全く無関係のように働いているからである。

霧雨に服がぬれるふうに運命を注入されてきた彼らは、学校を卒業してから直ちに寄贈者となるか、それとも(死なないで最大限多くの回数の臓器寄贈が遂行できるように)寄贈者の世話をする看病人(carer)の生活をするかといった、それほど変わらない二つの進路の中で一つを「自発的に」選択する。語り手であるキャシーは人より長い時間、充実した看病人として過ごすが、友人であったルースに死なれ、紆余曲折の末、結ばれた恋人のトミーの「終結」(completion)までも経験しながら、遂にこれ以上は看病人としての生活を持続しないことを決定する。キャシーとトミーはヘイルシャムの学生たちの間で広まっていた流言、つまり「真正な」恋人同士には三年間寄贈を猶予してくれるといううわさに一筋の希望を抱いて学校関係者を伺ったりもするが、彼らからそれは事実ではないし、ヘイルシャムは複製人間も「内面」、つまり「霊魂」があるということを証明することによって、飼育場と変わらなかった収容施設を人間化しようとした「進歩的」プロジェクトの一環であった(が、結局支援が断たれて終結した)ことがわかる。

フレイザーも指摘するように、この小説を遺伝子複製技術の危険を警告する未来小説や、一風変わった成長小説という枠で読む余地は十分であり、特に近来よく言及された生命政治談論と関連付けてここでの複製人間を、処分可能な生命である「ホモサケル」の典型として論じることも十分できる。だが、フレイザーはこの小説の核心を「正義に関する考察、すなわち不義なる世界とその世界に住む人々が受ける深い苦痛に関する痛烈なビジョン」(43頁)として見なし、複製人間が原本人間と「絶対的同一性」を持つにも関わらず、彼らを「存在論的他者」として分類することによって、搾取を正当化する構造に注目する。正義の恩恵を受けた一部の集団と社会の基本構造に属するより大きな集団との間における不一致を見せることで、この小説は読者に「共同の基本規則にこだわるすべての人々は、共同の道徳的世界にも属する者として認められるべき」ことが正義であるのを想起させるというわけだ(44~45頁)。

ところで、フレイザーが見るに、この小説の世界で「本当にむごたらしい」ことは「主人公たちがその世界をわれわれのように認識しない」点である(45頁)。先述したように、ヘイルシャムの子供たちにとって臓器保管器具として育てられているという真実は、あたかも無視してもよいディテールのように、脈絡なしに投げかけられるので、彼らは知っているわけでも、知らないわけでもない状態でいつの間にかそれに慣れてきて、従って読者たちがこのような物語に期待するはずの集団的憤りや抵抗は勿論のこと、個人的な反発もほとんど示さない。フレイザーは不義で苦しめられる彼らが「自分たちの状況を不義と解釈する手段を持ち合わせない」(45頁)状態、言い換えると、「自分たちの経験を適切に伝える言葉を持ち合わせないし、一つの階級として自分たちの利害を明確に表現する方法はさらにない」(46頁)状態を、不義のまた異なる層位として示した点がイシグロの優れた洞察であると見なす。 

もちろんヘイルシャムプロジェクトの欺瞞性を意識しながら子供たちに現実をより明確に刻印しようとしたガーディアンもいたし、この温和な収容所の違和感に本能的に反発するトミーのような学生もいなくはなかった。だが、そのような反発は決して一定の水位を越えないし、むしろ互いを相殺しながら少なくなる。そういう点で小説のなかの世界は不平等そのものが非常に極端的であるだけでなく、それをもう不平等として認識さえしない、成功的に「永久器官」となった不平等の世界と言えよう。フレイザーも指摘するように、そのような世界が作り出す感情は「不義に最も似合う反応」(46頁)である憤りではなく、「悲しみの痕跡」(45頁)である。悲しみは時に「良心的な」原本人間が複製人間たちに向かって持つ感情として、また時には複製人間たちが意識しないまま発散する感情として作品の所々に登場する。小説を読んだ多くの人々が注目する場面でありながら、フレイザーも特別な感動を示した最後のくだりでこの感情は最高潮に達する。ここでキャシーは風に飛ばされたあらゆるゴミが鉄条網にかけられている、それ以上なく荒涼とした風景を眺めながら、死んだトミーがそのようにかけられて浮かび上がることを想像する。自分の人生が持てたものはそのようなゴミだけであったが、それさえもすべて失ってしまったかのように、だが、それらが自分にはあまりに大事であったと言っているかのように。イシグロは特有の淡々とした叙述で、人生のすべての可能性が剥奪された存在から出てくる感情を如実で物寂しく伝える。

フレイザーはこの場面を「胸が痛まれる、あまりに人間的な感情の混ぜ合わせ」として描き、これを複製人間たちがひたすら無知で無力な人生を生きていったのではなく、極めて限られた人生の半径でありながら「毎度、自分を無視してきたこの社会の面前に向かってある威厳を主張」しながら「社会の根本構造が何も許容しない際でさえ、意味を作り出そうと努め続け」た証拠として読み取る(50頁)。ところで、フレイザーのこのような反応はアイロニカルにもヘイルシャムプロジェクトが志向した「複製人間も内面と霊魂を持った」という証明を思い浮かばせる。ヘイルシャムプロジェクトは彼らも「人間」であることを示そうとしたが、この際の人間とは如何なる社会的規定を持たない「純粋」範疇であり、そうであってこそ社会の中における極端的不平等という、彼らの人生における核心の真実と衝突しない。だとしたら、彼らから改めて人間的な感情と人間としての威厳を確認する読み方は、相変わらずヘイルシャムの「ヒューマニズム」構図に留まっているわけではないか。「純粋」人間や「ゴミでありながらゴミではない」人間という限界範疇は、つまり生命政治談論で言う「裸になった生命」(bare life)であろうが、この小説の人物たちを「裸になった生命」として刻印する地点は、彼らが複製人間だという事実そのものではなく、彼ら自らも人間の「零度」という枠から決して脱せられないくだりにおけるである。キャシーとトミーは自分たちの内面と霊魂が証明対象となったということに衝撃を受けるが、彼らの「あまりに人間的な」悲しみの真正性もまた(内面を持って平等を享受する人間と、内面を持っているが不平等を経験する人間との間ではなく)「ゴミ」と「人間」との間における「敷居」を媒介にして発生する。言い換えると、それは不平等の情動というよりは「決して解消されない不平等」の情動である。このような点でこの小説(そしてフレイザーの批評)は自ら暴露しようとしたヒューマニズムの限界を遂行的に繰り返す。 

 

4、 「否定の否定」と主体化の問題

 

フレイザーが『私を離さないで』を正義に関する重要な教訓として読むことには、「正義とは決して直接的に経験されない」(43頁)ものであり、従って「不義を通じて否定的に(negatively)接近する戦略が強力で生産的」だという、「ただそのような否定的思惟の過程を通じてのみ、正義概念が活性化できるし、それを抽象の領域で復元して具体化し、豊かにし、世界のために有益にすることができる」(50頁)という前提が敷かれている。そのような観点からならば最もディストピア的現実が正義と平等の最も優れたテクストとなれそうだ。しかし、不平等が自らを誇示することで自分を強化する「フィードバック」を戦略とするならば、「否定的思惟」とは不平等に対する倫理的・情緒的嘆きを非常に「真正性」のあるように作ることはあっても、不平等な現実を覆す政治的企画として強力で生産的なのかは疑問である。

この点はフレイザーが持ったもう一つの前提とも関わる。フレイザーはロールズの正義論に依りながら「正義に関する考察の焦点は社会の根本構造であるべきだ」と強調する。一次的にこの命題は社会のあれこれの様相ではなく、根底に敷かれた「深層文法」と「制度化された基本規則」に注目すべきだという意味である(42頁)。ところが、『私を離さないで』を読む過程で現れるように、社会の根本構造に関する解釈と際限もまた、根本構造の一つの様相として深層文法に含まれる。解釈と再現は取りも直さず主観性(subjectivity)、さらに「主体化」(subjectivation)の核心要素である。この小説で不平等の主観性は結局不平等の客観的深層文法が(ヒューマニズム的または情緒的に)自己を反映する鏡にほかならないし、そのように不平等と不平等の再現は一種のミザナビーム(mise-en-abyme、文字通りは「深淵のなかに入れる」という意味で、イメージのなかにそのイメージの小さいコピー本を入れることで当のイメージが無限に繰り返されるように作る反映効果)として限りなく互いを照らし返すことによって言葉通りに深淵を作り出す。小説のなかの複製人間たちが醸し出す深い悲しみもまた、この深淵の効果であり一部である。フレイザーがこのような相互深化を問題化しなかったことは問題であると先に指摘したが、これは社会の根本構造を考察する正義の主体を、その構造に影響されないある超越的位置にあると暗々裏に前提したことから生じたのではなかろうか。

正義と平等を取り扱ったバリバール(É. Balibar)の文章[13. Étienne Balibar, “ Justice and Equality: A Political Dilemma? Pascal, Plato, Marx,” The Borders of Justice, ed. Étienne Balibar, Sandro Mezzadra, and Ranabir Samaddar, Philadelphia: Temple University Press 2012.] では「否定を通じた接近」と「主観性」問題がより本格的に議論される。ここで避けられない参照対象として登場する人物は、やはりプラトンである。バリバールによると、プラトンは正義と平等の思惟において一つの強力な地平を形成するので(特に世の中を変えようとする革命政治論の観点では)、それに対する代案を提示するか、それともただプラトン主義となるか、両方のなかの一つであるしかない。プラトン的地平を構成する要素としてはまず平等が正義を破壊するという発想があり、これは彼の反民主主義と通じる。その他にも正義と不義を秩序と無秩序の枠で見なしながら、葛藤として代表される無秩序が惹き起こした苦痛がつまり不義だという観点、また正義を一つのイデア、すなわち絶え間なく近寄るべきモデルとして見なすことも彼の影響力の重要な一部である。バリバールはプラトン的地平に属するこのような主な発想を覆した事例がマルクスであると見なす。マルクスと共に秩序や合意としての正義概念は葛藤としての正義概念、つまり平等に向かった葛藤、または対決と敵対を通じた平等化が正義という考えに逆転され、それによってモデルではなく経験と実践が優位に置かれることになったし、何より「正義の優先性から不義の優先性への核心的逆転」(23頁)が起こる。フレイザーがが言ったようにもう正義は特定の不義に対する特定の経験を通じて思惟され、「否定の否定」、すなわち間違いを正し、苦痛を補償するという見地から照明される。

しかし、バリバールはプラトンの論議が含蓄する問題から容易く脱することはできないと見なす。正義と平等に関する思惟がプラトンに特に負っている核心の質問は、取りも直さず「主観性」と関わるもので、「正義に関する、正義の正義(definition)や本質(essence)に関する理解は正義の内在的一部であると共に、正義実現の条件を成す主体化過程に関する理解から分離できない」(20頁)という考えがそれである。プラトンにとって「正義を構成することは正義にのっとった人を構成し認定することと変わらないし、正義にのっとった人を構成することは正義にのっとった秩序が出現することにほかならない」し、従って「社会構造としての正義と主体化としての正義」との間には、「内在的相応関係」が存在する(21頁)。主体化問題は正義を葛藤として見なすからといって避けて通れるものではない。葛藤、つまり不平等に抵抗する戦いは不平等の経験から自動的に出てくるものではないし、これを葛藤へと発展させることには「葛藤の図式」(a scheme of conflict, 27頁)、言い換えると、葛藤としての再現が必要だからである。この再現に、ある種の(事実上特定の)主観性が介入されるべきだということは言うまでもない。だが、正義の優先性ではなく、不義の優先性という構図では社会構造としての不義と主体化としての不義、言い換えると、不義の経験と不義の被害者との間における相応関係ならまだしも、社会構造としての「不義」と主体化としての「不義の否定」という別の関係は内在されていない。 

バリバール自身はこういう問題を全般的に「「内なる空白」(internal void)の出現を通じた内在性と超越性の節合」(28頁)へと収斂しながら、葛藤そのものが専ら被害者たちがきちんとしている全体として見られる社会構造の内部で作ったり遂行する「空白」を通じてのみ可視化されるという線で締めくくる。しかし、「内なる空白」という表現は先述の、アーノルドが言った社会性の失敗と同じく不義や不平等の異なる名前でしかないだけで、それを葛藤として転化する主体化のメカニズムに取って代わりはしない。この問題に関するより本格的な考察が必要だという点は、バリバール自身も認めるところだが、彼が「否定の否定としての正義は努力であるだけでなく、恒久的な発明」であり、「[不義からの]解放を追い求めながら、事実上正義の形式と内容、制度を追い求めること」(28頁)だと言う際は、もう正義の優先性と不義の優先性との間の区分は事実上廃棄されたわけではなかろうか。マルクス的でありながら同時にプラトン的であってはならないだろうか。不平等が正当性をあざ笑い、不義だという批判をもう構わないとき、葛藤と敵対を発生させるにも不平等が惹き起こした甚だしい被害の再現より、むしろ正義としての平等の想像が効果的ではなかろうか。直接的に経験された平等や実現すべきモデルとしての平等に対して出てくるはずの予想可能な批判に対する恐怖こそ、この問題を「安全な」道徳談論の領域に留まらせるものなのかも知れない。

 

5、 不平等と「リアリズム」

 

カンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)受賞で話題となった映画『パラサイト』(奉俊昊(ボン・ジュノ)演出、2019)は表面的に『私を離さないで』とは画然と異なる情緒を呼び起こすが、不平等テクストとしてある連結された対蹠点を成している。イシグロの小説がディストピア小説の形式を取ることで、現実の「アレゴリー」でもって位置をつけるならば、『パラサイト』は「アレゴリー化」した現実を伝達するというジェスチャーをとる。だが、二つのテクストともアレゴリーの側面は非現実的であるほど極端な不平等を現実として認めさせる働きを遂行する。小説の人物たちと違って映画でギチョル(ソン・グァンホ扮)の家族は事態をおとなしく受け入れる順応の主体ではなく、むしろ陰謀や、甚だしくは加害の主体であるが、キャシーやトミーにとって臓器を一つ一つ「寄贈」しながら死を待つこと以外に他なる選択がないように、この家族の陰謀と加害こそ事実上生存以外の他の生の議題を消してしまう設定である。また、小説の複製人間が原本人間と一つの世界で不平等な関係を結んでいるというよりは、あたかも存在論的に異なる世界に属するかのように描かれたように、ギチョルの家族もまた、朴社長(イ・ソンギュン扮)家族と物理的に異なる棲み処に所属された種族のように描かれる。小説の複製人間が不平等の極端的深化を深い悲しみで照らし返すならば、「人間複製」を目指すギチョルの家族は不平等の野蛮性が醸し出す嫌悪を余すところなく増幅する。 

フレイザーが『私を離さないで』について述べたことと同じく、この映画でも「本当にむごたらしい」点は人物たちが世界を解釈する方式にある。もちろんギチョル家族は不平等の格差を鋭く意識し、さらにそこから脱しようともがくが、それにも関わらず相変わらず不平等を内面化した主体である。小説の複製人間たちが臓器を奪い取られながらもこのことを「寄贈」として認識するように、ギチョル家族はみな労働する主体でありながらも自分たちの労働を「寄生」として認識し、そういう点で意識し得ないまま新自由主義経済理論が主唱した「落水効果」(trickle down)の充実した信奉者たちである。彼らは苦痛の理由を構造的不平等ではなく毎回失敗する計画のせいだと理解する。なので映画のなかで発生する衝突は、葛藤へと転化される代わりに犯罪(と幽閉)になる。『パラサイト』にある種の挑発性があるならば、『私を離さないで』は不平等のテクストよりずっと直接的に、不平等の再現がもうこれ以上不平等の批判とならない限界地点を示したからである。

両テクストにおける不平等の再現が持つ問題的地点は、平等が「人間らしさの完成」であり、「文明」と関わる問題だというアーノルドの平等論を改めて喚起する。しかし、その際の人間らしさは「屑ではない」とか「寄生虫ではない」という層位の問題ではない。そのような存在ではないと語ることは、そのような存在でもあり得るかという質問を遡及的に正当化する危険を伴うし、アーノルドが社会主義と共産主義の致命的な弱みとして指摘した「あまりに低い基準」のもう一つの事例となる。不平等の否定としての平等という発想、不平等の再現を通じて平等を具現するプロジェクトもまた、不平等な現実の限りない自己反映となる危険から自由であるようには見えない。現実再現の問題と関連して韓国文学では長い間「リアリズム」が議論されたことがある。それは現実という概念そのものを再考しようとする要請で、「「在る現実」と共に「在るべき現実」および「想像の現実」」を「それぞれ別々に考えることは不可能」だという認識、言い換えると、「現実は常に「在るべきもの」を一部でも胚胎する「在り」であり、「無いもの」の「痕跡として在る」という認識であり、そういう意味で「完全に目の前に在る」という観念」に対する批判である[14. 白楽晴、『統一時代における韓国文学のやりがい』、創批、2006、42~43頁。]。 不平等が唯一の現実というイデオロギーに最も効果的に立ち向かえるものが、取りも直さずこのようなリアリズムではなかろうか。

不平等の再現が異なる世界に属するという感じを強化するに留まるならば、リアリズムは「みなが生に対して同じものを要求する一つの世界」が「在る」ことを認めること、そのような意味で共同領域(またはコモンズcommons)の「在り」を認める作業を含む。また、そのような「在り」に内在的に相応する主体化過程を見い出し、また発明するよう突き動かす。リアリズムの観点では平等が不平等の否定として還元されないように、平等の否定ではない不平等を想像することさえできるかも知れない。その際、始めて具体的な不平等の一つ一つがまともに正当性の試験台に立てられるし、不平等の再現もアレゴリーの限界を超えることができる。平等はもちろんのこと、不平等さえ「人間らしさの実現」に照らして再配置すること、そこまでが平等のリアリズムであろう。

 

(翻訳:辛承模)

 

 

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