창작과 비평

「右翼の茫々たる大海」のなかに新たに渡来すべき「右翼」

 

創作と批評 186号(2019年 冬)目次

 

南相旭(ナム・サンウク)

仁川大学校日本語日本文学科教授 indimina@gmail.com

 

 

在日朝鮮人に対するヘイトスピーチをずけずけと行う「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)を取材した『街へ出てきたネット右翼:彼らはどうやって行動する保守となったか』(韓国語版、キム・ヒョンウク訳、フマニタス、2013。原題は『ネットと愛国』)をもって社会的反響を呼び起こした安田浩一は、今回、『日本「右翼」の現代史:「極右の空気」で充満した日本を暴く』(イ・ジェウ訳)で再び韓国の読者たちと会うこととなった。

『街へ出てきたネット右翼』では2010年代における、韓国と中国に対するヘイトスピーチを行う在特会の行動を、既存の右翼団体と比較しながら説明したならば、今回の著述で著者は太平洋戦争以前にまで遡る歴史的背景はもちろんのこと、得意とする人物たちとのインタビューを交えながら日本右翼の存在様態を生々しく説明している。この作業を通じてあらわになる日本右翼の特徴は何なのか。 

まず先に指摘すべきことは、日本で政治集団としての右翼は左派陣営と同じく、政治的・文化的信念と行動様態に従って、実に多様な形で存在してきたという事実である。例えば、一方で黒く塗りつぶした宣伝車に乗って回りながら、日本帝国軍の軍歌を大きくかけながら市民に向かって脅威と恐喝に明け暮れる、制服姿の「行動する右翼」があるとしたら、もう一方ではそのような行為を拒否し、「求道者のように皇道の道を歩む大東塾のような「伝統(純情)右翼」も存在する。(192頁) 靖国神社参拝を当然なこととして見なす右翼がある一方で、「あまりに華やかで美しいので、自己主張が強すぎる感じ」がする靖国の桜を拒否し、「霧が軽く立つような山桜こそ保守の姿」だと信じる右翼も存在する。(145頁) 韓国人と中国人に向かって「死ね」と叫ぶ右翼がある一方で、そのような行動や態度を拒否しながら「東アジア民族同士の団結と協力をもって世界平和を志向」しようとする右翼もある。(139頁) 自治体に絶え間なく請願を提起する洋服姿の「右翼」もあり、ネットでのみ活動する「軽い右翼」( light right)も存在する。

現代日本で右翼の形が多様となったことは一次的には戦前と戦後の断絶に起因する。太平洋戦争以前の右翼が天皇制を肯定しながらも天皇の名のもと、万民平等を掲げる国家社会主義的な性格を持っていたとしたら、太平洋戦争以後再編された右翼は天皇制を擁護するために反共を叫ぶ親米的な性格が強い。そして、これをかたわらで手助けし、活用したアメリカにも責任があることを著者は喚起する。こう再編された戦後の右翼は「共産主義に対する防御に参加しない者は日本人でありながら日本人ではなく、人類でありながら人類ではない」とか(ふくだそうけん、120頁)、反共のためならアメリカとも韓国とも連携してかまわない(赤尾敏、128頁)とまで主張する。要するに「反共」こそ、戦前とは違って戦後の日本右翼を貫く最も核心的なキーワードであり、このような理念のもと、暴力的行為をも辞さなかったのである

一方、著者によると、「日本会議」で代表される現在の右翼は、「反米」を重要な思想的指標として発展してきた左派陣営に対する反動(backlash)であり、学習効果の結果物でもある。例えば、1960年代末に出現して後日、日本会議へと発展することとなる「日本青年会議」に所属した牛嶋徳太郎は、「新左翼の群れから多くのことを学んだようです」(202頁)と告白するが、実際に日本会議は既存右翼の暴力を通じた脅迫という方式を捨てて、「左翼運動の特技であった草の根運動のノーハウを自分たちの運動に導入」(260頁)して、「陳情と請願を繰り返す」(287頁)ことで、自分たちの意思を貫かせる。元号法制化と国旗国歌法制定運動、外国人地方参政権反対運動、教育基本法改定運動などがその代表的な例である。自分たちを支援する国会議員の組織まであるほど、屈強な日本会議が実質的に現代日本の政界を支配していることは公然の事実と思われるほどであるが、このことについて著者は次のように述べる。 

 

日本会議が示したのは「大衆の力」であった。そのような意味で「日本会議が日本社会を支配する」という見解は間違っている。彼らは「支配」が目的ではなく、空気を変えることに力を注いできた。小さな扇でも何千、何万回あおいで風を起こすならば、大きな木も揺れる。なので今も彼らは引き続き煽る。大きな木は揺れている。(287~88頁)

 

上記の引用は日本会議の力を否認するのではなく、むしろその力がどれ程大きいかを強調していると解釈すべきだ。実質的な支配権力を勝ち取るまでは時間がかかり、いざ勝ち取っても持続期間が短いかもしれないということを考慮すると、支配権力の内外で自分たちの意思を貫くために社会に向かって同調の圧力をうまずたゆまずかけることが、むしろずっと効果的で怖い政治的行為であることを指摘しているのである。右派系列の教科書採択など、特に教育分野に持続的な同調の圧力をかける日本会議こそ、NGOなどを通じて国民国家の暴力性を絶え間なく告発してきた戦後日本のリベラル左派たちの行動様式をそっくりそのまま踏襲するという点で、より強固で執拗な現代日本の右翼の特徴をうまく示していると言える。実際、著者は在日朝鮮人に対するヘイトスピーチで社会的関心を受けた在特会の力が最近となって弱くなった理由として、「在特会がなくてもいいほど、社会にすでに「極右の空気」がいっぱいとなった」(313頁)ことを指摘するが、ここでいう「極右の空気」とはブログに外国人に対する嫌悪発言を行った神社の宮司が書いた本に、首相が推薦の辞を書いても何の問題とならない、そのような社会の雰囲気を意味する。

このような現代日本の右翼の存在様式は一見、韓国のそれとは異なっているようだが、詳しく見てみると相当なところで類似している。何よりも土着的な理念に充実するよりは、国旗の隣に星条旗を並んでかけておくほど親米・反共を固守するという点が挙げられよう。冷戦が崩壊してから数十年が経っても、相変わらず冷戦の時間を生きる感覚は両方とも非常に似ている。だが、それよりずっと怖いところは、自らの表現様式について真摯に苦悶しなかった彼らがある日から急にインターネットのなかに自分の掲示板を作ってあらゆる嫌悪発言をぶちまけ、如何なる審議も経ないユーチューブ放送を通じてデマニュースを発信しているという点である。進歩にインターネットというニューメディアを先占されたが、その政治的効果を立ち遅れて悟った保守たちの熱い参与で、韓国のインターネットの言語環境もまた阿修羅の場となりつつあるのではないか。だとしたら、「右翼の茫々たる大海」と形容されるこのような社会の極右化に果たしてどう対処すべきなのか。

シャンタル・ムフ(Chantal Mouffe)のように右派ポピュリズムに対抗する左派ポピュリズムを通じた民主主義の回復も一つの方法であり得るだろう。だが、著者は排外主義を標榜する極右へと走らない、健全な「極右」活動の回復を一つの代案として提示する。沖縄基地の周囲で「民族派を自称するならば、他国の軍隊が日本に居座っている状況に当然異議を提起すべきでしょう」(328頁)と主張する、ある右翼団体所属の若い活動家の姿を著書の最後のところで取り出したのは、民主主義の機能を回復するためには「社会の矛盾」を直視する健全な保守主義の活動もまた避けられないと考えたからであろう。「不公平、不平等のために流した涙から生まれるべきだった右翼が、日本社会を、地域を、人の生を破壊しているような現実」(330頁)を眺めながら、去る100年の歴史のなかから多様な右翼の可能性を発掘して見せないではいられなかったからでもあろう。 

 

(翻訳:辛承模)

 

 

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